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  • 神の筆記者たち ― それは誰でしたか
    ものみの塔 1960 | 7月1日
    • 結果,27冊の本,クリスチャン・ギリシャ語聖書は神の御言葉につけ加えられました。それには,「新約聖書」という間ちがつた名前がつけられています。ヘブル語聖書には「旧約聖書」という間ちがつた名前がつけられています。

      クリスチャン・ギリシャ語聖書の本を書いた人々は誰でしたか。昔のパピルス写本と,初期クリスチャンの証言は,その質問の解答を与えます。四福音書は,それぞれの本につけられている人の名前によつて書かれた,と示されます。ルカが使徒行伝のなかで自分の福音書について述べていること,およびパウロと共に旅行したことのいくらかを第一人称で語つていることから,ルカが両方の本を書いたということは証明されます。ある人々は,使徒ヨハネがヨハネ伝の福音書を書いたのではないと言います。しかし,考古学者が西暦100年から150年のあいだエジプトで発見したヨハネ福音書の断片から,それらの人々は間ちがつていると証明されました。その時までには断片がエジプトに行つていた,ということから,ヨハネの福音書は彼の生涯中に書かれたにちがいなく,高等批評家が主張するように約50年後ということはありません。

      パウロの書いた次の14通の手紙は,最後の一通をのぞいて,みなパウロがその手紙を書いた者であると示しています。パウロがヘブル人への手紙をも書いたことは,次の事実からも明白です,初期クリスチャンたちは,パウロがその手紙を書いたと述べています。パウロの手紙の初期の目録は,ヘブル書を含んでいます。文体,論理の使用,聖書的な証言が整然としていることは,パウロらしい仕方です。クリスチャン・ギリシャ語聖書の残りの部分は,それぞれそれを書いた人の名前を述べています。すなわち,ヤコブ,ペテロ(二通の手紙),ヨハネ(三通の手紙と黙示録)そしてユダです。

      それで,モーセから始まり使徒ヨハネに至るまで,約35人の人は書いたことになります。それには約1600年の期間が経過しており,彼らは聖書の66冊を書きました。事実と情況は,これらの本を書いた人々が生存して書いたと主張する時にこれらの人が生活したことを証明しています。そのような知らせは,興味深い事柄であるだけでなく,私たちの信仰を強めるものです。さらに,私たちは神の御言落の真実性について加えられる攻撃に対しても答えることができます。神の御言葉は,その滅びをはかる敵共のあらゆる攻撃にもかかわらず永続します。―ペテロ前 1:25。

  • 新しい世の事柄に真心をこめる
    ものみの塔 1960 | 7月1日
    • 新しい世の事柄に真心をこめる

      「あなたは,すべての心をこめ,すべての魂をこめ,すべての思いをこめ,そしてすべての力をこめて,あなたの神なるエホバを愛さねばならない」。―マルコ 12:30,新世。

      1 エホバは御自分の被造物に何を求めますか。

      エホバは,専心の献身を求める神であると,御自分の御言葉の中で強調しています。エホバは,御自分のつくつた者たちが熱心と真心こめた奉仕をするようにのぞまれていまます。エホバは,御自分の御名と最高至上権に関する論争のゆえに,御自分の代弁者たちの無関心と,生ぬるい態度をゆるしません。エホバ御自身も新しい世のために熱心です。この新しい世は彼の誉を守ります。その新しい世は,彼の関心事のひとつであつて,エホバは真心こめて御国の事柄を支持します。真心をこめることは,エホバが御持ちになつている特質です。

      2 なぜイエス・キリストが真心をこめた者である,と私たちは言えますか。

      2 宣教行動と献身という点においては,キリスト・イエスは,真心をこめることの完全な模範でした。彼が3年半の宣教中に行なつたぼう大な量のわざを考えるとき,驚嘆の念につつまれます。イエスは200万人以上の国民に仕えました。毎日毎日,群衆は彼のところに絶えず押しかけてきましたが,彼は真心をこめて彼らに仕えました。時には食事や睡眠をとることを延期しなければならなかつたのです。長い一日の奉仕が終つた後でも,イエスはしばしば自分の弟子たちを教えて訓練しました。それから,夜を徹して祈られたのです。彼はほんとうに死にいたるまで魂を注ぎました。イエスの活動はいい加減のものでしたか。自分の仕事を軽く扱いましたか。マルコ伝 7章37節(新口)の記録によると,群衆は「ひとかたならず驚いて言つた,『このかたのなさつた事は,何もかも,すばらしい』」。真心をこめて奉仕するという点で,なんとすばらしい模範でしよう! 彼は次のように語られました,「私の食物というのは,私をつかわされたかたのみこころを行い,そのみわざをなし遂げることである」。彼は,良い食事を楽しむように,自分のわざによろこびを感じました。その理由? 神の律法は,彼の心の中にありました。「弟子は……修業をつめば,みなその師のようになろう」。―すくなくとも,エホバの新しい世の事柄のために勤勉で専心の献身をささげるという点では,その師のようになれます。―ヨハネ 4:34。ルカ 6:40,新口。

      3 (イ)人間は真心をこめて行なうことができますか。なぜ?(ロ)真心をこめたクリスチャンになりたい者たちに,パウロはどんな助言を与えていますか。

      3 人間は,地的なものにいつしようけんめいになるとき,真心をこめて行う能力を反映します。遊んでいる時の子供を見てごらんなさい。子供は遊びに心をすつかり打ちこんで,危険,寒さ,暑さ,あるいはつかれをも忘れてしまいます! 子供はすつかり没頭し切つてしまい,他のことに気をそらされず,いつまでもその遊びを止めようとしません。どうしても止めなければならない時だけ,中止します。大人はどうですか。大人も,興味を感ずる事をするとき,不熱心な態度をとりません。運動家は良い例です。それが狩猟でも,魚釣りでも,あるいは運動でも,その気持に引かれて行うのです。しばしば体力以上の無理が要求され,時には欲望どおりの活動に堪えることができない程です。それでも,その人はいつしようけんめいに,あえぎながらも,興味をおぼえたことを追求します。かつて一走者は,競走に全力をかたむけました。そして一着で決勝点につきましたが,力を出し過ぎたために死んでしまいました。その人は,自分の生命を犠牲にしても,自分の努力にすべての心を注ぎこみました。パウロはその当時の競技で競争し合う人々の熱心さと真剣さに気づき,クリスチャンの道を説明するために,それを用いました。パウロは,次のように語りました。「こういうわけで,私たちは,このような多くの証人に雲のように囲まれているのであるから,いつさいの重荷と,からみつく罪とをかなぐり捨てて,私たちの参加すべき競走を,耐え忍んで走りぬこうではないか。信仰の導き手であり,またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ,走ろうではないか」。そうです,私たちが真心をこめて競走する際のさまたげとなる一切のものを取りのぞきなさい,そしてイエスの残した完全な信仰の模範を見守るのに専心の注意を払い,没頭しなさい。―ヘブル 12:1,2,新口。

      4 真心をこめるということと信仰との間には,どんな関係がありますか。

      4 ここで,使徒パウロは信仰が真心をこめるということにどんな役割を果すかについて私たちの注意をひいています。真心をこめるということは,信仰と同じく隠れた感情ではありません。信仰はエホバの僕の行なうわざによつて証明されます。行動に表われる永続の信仰は,僕が主に対して真心をこめていることを示します。もしエホバとその貴重な約束を真実に信じているなら,その人の行い,およびエホバの目的とその事柄に対する態度は,その人の信仰を表わします。イエス・キリストは私たちの信仰を全うされた方です。―ヤコブ 2:17。

      行動に表われている真心こめた信仰

      5 なぜアベルは,今日のクリスチャンに対する模範ですか。

      5 パウロがヘブル人に告げた言葉,『私たちをかこむ雲のように多い証人』の中には,昔の多数のエホバの証者が入つています。エホバの新しい世の約束に対するそれらの人の信仰は,不熱心なものでなく,ぐらついたものではありませんでした。彼らはたしかに真心をこめていました,そしてその行いにより全き信仰を表わしました。アベルの例があります。新しい世についてのエホバからの知識にかけては,アベルは現在の私たちよりも,その知るところはわずかでした。それでも,アベルはその当時における最善のささげもの,すなわち『群れの初子』を真心こめてたずさえてエホバの犠牲に捧げることにより,その信仰を表わしました。カインは『地の産物』という不熱心な捧げものをたずさえてきました。エホバはどちらを受け入れましたか。アベルが真心こめてささげた信仰の捧げもの,すなわち彼の群れの中の最善のものをエホバは受け入れました。それで,人間家族の最初の世代の時から,エホバは真心をこめた者をよろこばれ,不熱心な者をよろこばれない,と真の歴史は示します。―創世 4:35。ヘブル 11:4。

      6 エノクは,新しい世の事柄にどのように仕えましたか。

      6 エノクについての聖書の記録は簡潔です。しかしエノクがエホバの僕であつたことには疑問ありません。彼は悪い人々のあいだでエホバの預言者として奉仕したその行いにより,真心をこめたその信仰を表わしました。彼は新しい世の設立前に行なわれる不敬虔な者たちのほろびを前もつて告げて,新しい世の事柄のために奉仕しました。―創世 5:22。ヘブル 11:5。ユダ 14,15。

      7 ノアとその家族は,どんな行いにより彼らの信仰を表わしましたか。

      7 ノアが真心をこめてエホバに奉仕したことについては,エノクよりも多くの記録が保たれています。ノアは,エホバの預言したことについて一点の疑いをも持ちませんでした。そして,彼はその行いにより信仰を表わしました。彼は『敬虔な恐れを示し,家族を救うために箱舟を建造しました』。その時よりも前に洪水を見た者とか,そのような箱舟について聞いた人は,たしかにひとりもいなかつたのです。しかし,ノアとその家族は,エホバの語られたことを,すこしも疑いませんでした。彼らはエホバの指示に従い,箱舟の建造に全力を傾けて没頭しました。それは必要なことでした。限られた時間内にしなければならぬ大きな建造計画だつたからです。その箱舟は,長さが450フィート,巾が75フィート,高さが45フィートの3階建のもので,内部にはたくさんの部屋がありました。伝道も行なわれました。このすべては,悪い人々や,人間に化体した天使たちの中で行なわれたのです。古い世は終つて,別の世が間もない中に来ました。彼らが徹底的な仕事をしたことは,報いのある事柄でした。大洪水が来てから後の幾カ月という長い期間中,その大きな箱舟は水に浮いて彼らは生き残りました。このようにして,別の世は存在し始めたのです。しかし,地上に楽園の状態を復興するというエホバの定めた時は,まだ来ませんでした。その後でも,真心をこめて信仰を行いに表わす機会が与えられるでしよう。―創世 6:9–8:5。ペテロ後 2:5; 3:6。

      8 (イ)アブラハムは,新しい世の為に,どのように真心をこめていましたか。(ロ)なぜエホバは,アブラハム,イサクそしてヤコブの神と呼ばれることを恥としませんでしたか。

      8 アブラハムは真心をこめて行うことが必要でした。持ち物全部を荷づくりして家族,奴隷,家畜,そして財産全部をたずさえ,親族に別れを告げ良い相続を後に後して,見知らぬ地に行くということは些細な事ではありませんでした。エホバは,アブラハムに最愛の息子イサクを燔祭として捧げよと命じたとき,アブラハムの信仰はいちばんつらい試練をうけました。アブラハムは,すこしのためらいをも見せずにイサクを捧げようとしました。そしてエホバは彼を死人の中からよみがえし得ると心に確信していました。このような行動により彼の信仰は全うされました。エホバは,御使を用いてそのことを中止させイサクの生命を救いました。そして,イサクを通してのアブラハムの子孫は,海辺の砂粒のごとく数え切れないほど多くなる,とアブラハムに約束しました。アブラハムは,イサクの息子たちを見るまで生き長らえ,彼らはみな天幕に住みました。そして,「ゆるがぬ土台の上に建てられた都を,待ち望んでいたのである。その都をもくろみ,また建てたのは,神である」。彼らはその当時に新しい世が設立されるなどと期待しませんでしたが,エホバの御心に一致する行いを,真心をこめていたしました。そして,エホバの約束に対するかたい信仰にもとずいて一切のことを行ないました。「これらの人はみな信仰をいだいて死んだ。まだ約束のものは受けていなかつたが,はるかにそれを望み見て喜び,そして,地上では旅人であり寄留者であることを,自ら言い表わした。……だから神は,彼らの神と呼ばれても,それを恥とはされなかつた。事実,神は彼らのために,都を用意されていたのである」。もしエホバの約束に対して不熱心であつたなら,彼らは自分のふるさとに戻ることができたはずです。しかし,彼らは戻りませんでした。彼らはエホバから割り当てられた所で真心をこめて奉仕したのです。―創世 22:1-19。ヘブル 11:8-20,新口。ヤコブ 2:21-23。

      9 新しい世の事柄に対するヤコブとエサウの態度とその結果を説明しなさい。

      9 聖書に述べられている有名な双子は,新しい世の事柄に対する態度という面で対照を示しています。イサクの双子の息子は,ちがつた気質を持つていました。ヤコブは,エホの約束に真心からの興味を示しました。しかし,エサウは自分自身と野外での狩猟生活にもつと多くの興味を示しました。アブラハムとその裔に与えられたエホバの約束,および彼の子孫がそれにあずかるというようなことは,パンと扁<レンズ>豆のあつものよりも価値はすくないとエサウは見なしました。それで,エサウはわずかな食物と引きかえに長子の特権をヤコブに売つて,その特権を軽んじました。また,彼はヤコブとちがう行いをしました,すなわち不信者の中から妻をめとつて両親をいたく悲しませたのです。ヤコブは,エホバの約束に真心から興味を持つていました。そして,エホバを信じて家族内に神権的な指示を保つことに協力する妻たちを注意深く選びました。信仰を持つたヤコブは,エホバに熱心に奉仕しました。そして,エホバは彼の名前をイスラエルに変えたのです。彼は,約束のすえが来る国民のかしらになりました。しかしエドムに住んだエサウの子孫たちはエホバの目的と民に反対しました。彼らはエホバの敵共に組したので,一国民として滅ぼされるという罰を受けました。キリストの時以前のマッカビー家の軍事支配中,彼らは全く鎮圧されて,一国民としては二度と立ちあがることはできませんでした。―創世 25:27-34; 26:34,35; 32:28。エレミヤ 49:7-22。

      10 エジプトにいたモーセは,どんな賢明な選びをいたしましたか。

      10 物質主義は,ある人々の生活から清い崇拝を押し出してしまいました。しかし,モーセは,そのような人のひとりではなかつたのです。モーセは苦難の時に生まれました,というのは,彼の国民に属する男の子が生まれたなら,殺してしまうようにという命令が出されていたからです。モーセの生命は守られました。エホバは御自分の目的を成し行うためにモーセを用いました。モーセは彼の母親と共にその幼少時代をすごしました。彼女はエジプトの王女の代りに「保母」の行いをしたのです。その期間中にモーセはエホバの約束と御心についての教育をうけました。後日,彼は「エジプト人のあらゆる学問を教え込まれ,言葉にもわざにも,力があつた」。彼の学んだものの中,どちらの方が彼に大きな影響をおよぼしましたか。「信仰によつて,モーセは,成人したとき,パロの娘の子と言われることを拒み,罪のはかない歓楽にふけるよりは,むしろ神の民と共に虐待されることを選び,キリストのゆえに受けるそしりを,エジプトの宝にまさる富と考えた。それは,彼が報いを望み見ていたからである」。モーセはパロの面前で語るだけの十分の備えを受けていないと感じていましたが,それでもエジプトへの十の災いに関連する仕事に全く没頭しました。それで,モーセが真心をこめてエホバの側に立つたということは,エジプト人の心に疑いなくきざみこまれたのです。―使行 7:22。ヘブル 11:24-26,新口。

      11,12 モーセは,イスラエルのためにどんな真心をこめた奉仕をいたしましたか。

      11 エジプトから救い出された後,モーセはイスラエルの指導者および予言者として立ちました。彼はエホバの義のために熱心に成し行いました。イスラエルが争いの精神や反抗の精神を示す度ごとに,モーセは義のために真心をこめて行つていると示しました。イスラエルの国民が,エホバを崇拝しないで,金の犢をつくつて崇拝をささげたとき,そしてまたコラとそれに従う者たちがエホバの定めた奉仕の神権的な任命に対して反逆したとき,モーセが怒つたのも当然であります。イスラエルがペオルのバアルの不道徳な崇拝に参加したとき,モーセはそれに関係したすべての男子を殺せ,という当然の命令を与えました。彼はイスラエルの軍隊をひきいて,アモリ人の王であるシホンとオグに対して戦い,それに勝利を収めました。

      12 モーセは,仲間のイスラエル人たちを助けるためにさばきづかさとして座し,自分の力をよろこんで与えました。彼はエホバに忠節をささげる際に,真実の熱心さを示し,そのわざにより彼の信仰を表わしました。真心をこめてささげる奉仕という点で,モーセはすぐれた模範でした。イスラエルの全国民は,モーセがエホバに奉仕しているのを見るだけからも益を受けたにちがいありません。彼が真心をこめて行なつたということは,イスラエルの国民に対する強い助言の言葉からも証明されました。それは申命記に記録されています。申命記 31章1-8節の言葉は,長年の奉仕を行つた後でも彼がエホバに強い信仰を持つていたことを証明します。真心をこめて奉仕をしたモーセは,エホバの予言者になる資格を得ました。詩篇の一つ(90篇)はモーセのつくつたものです。そして,多分91篇もモーセの書いたものです。もし彼が「エジプトの宝」を選んだなら,全くすばらしいものを失つたことになります!

      13 エホバのために真心をこめて行なつたひとりの非イスラエル人に,祝福はどのように来ましたか。

      13 イスラエル人でない人々に対してもエホバの要求は同じでした。神に受け入れられる信仰は,真心をこめてなされた行いによつて示されました。ヨシュア記 2章9-13節にあるラハブの言葉を注意深く調べるとき,エホバの力とエリコのたしかな滅びに対する彼女のゆるがぬ信仰が分かります。ラハブは間諜を守つてその逃亡を援助しました。そして,イスラエルの国民が来ることについてエリコの人々がどのように感じているかを正確に知らせました。そのような知らせは,ヨシュアに伝えられて,イスラエルの軍勢を励ましたにちがいありません。彼女は,エホバの代表者が述べた救いの条件に注意深く従いました。それですから,エリコが攻略されたときも,彼女は滅ぼされなかつたのです。彼女の生命を救つたのは,その信仰だけでなく,行動でありました,「かの遊女ラハブでさえも,使者たちをもてなし,彼らを別な道から送り出した時,行いによつて義とされたではないか」。ラハブは,生命以上のものを得ました。彼女は売淫をやめてサルモンの妻となり,キリストの先祖になる,という特権を持ちました。―ヤコブ 2:25,新口。マタイ 1:5。ヘブル 11:31。

      14 (イ)ギデオンの生涯中のどんな出来事は,不熱心な者に対するエホバの態度を示しますか。(ロ)ギデオンは,神権的なものであることをどのように示しましたか。

      14 真心をこめて仕えるエホバの僕たちは,神権的です。ギデオンはエホバが自分と共にいることを確信していたので,ミデアンとの戦いを交える準備を恐れずにいたしました。エホバは,御自分が救い主であることを明白に示し,熱意のない者や恐れをいだく者たちをのぞきました。3万2千人が集められました。最初に2万2千人がしりぞき,次に9700人が資格のない者と示されました。わずか300人の十分に目ざめた人だけが残りました。ギデオンはたじろぎませんでした。ギデオンと300人は,エホバのみちびきに正しくしたがい,大きな空びん,たいまつ,そしてラツパをもつて,12万以上の敵兵の大宿営地の三方を取りかこみました。熱意や信仰のない者たちは,いるべきでありません。エホバはそのような者たちをとりのぞきました。小軍にラツパを吹かせて,「ヱホバの剣ぞ,ギデオンの剣ぞ」と叫ばせたエホバの戦略は,敵の心中に恐れの気持を生ぜしめ,彼らは夜にまぎれて大混乱のうちに逃げました。ギデオンとその300人は,疲れを感じてもミデアンの王たちを捕えて勝利を全うするまでその追跡を止めませんでした。真心をこめて行なう者たちは,戦いが終る以前に参つてしまうというようなことをしません。エホバはギデオンにこのすばらしい勝利を与えました。それでもギデオンがエホバに真心をこめて奉仕する態度に変化は生ぜず,また彼が平衡を失なうというようなこともありませんでした。彼はその見方において神権的な態度を保ちました。彼は,エホバのわざをするためにエホバにより用いられました,後日,イスラエルの人々はギデオンに自分たちの支配者になつてもらいたいとたのみましたが,彼はその願を拒絶してこう言いました。「エホバはあなたがたを支配する」。―シシ 8:23,新世。ヘブル 11:32。

      真心をこめて仕えた他の例

      15 (イ)バラクは,エホバに対してどのように真心をこめていましたか。(ロ)バラクの時代には忠実な女たちのどんな例がありますか。

      15 20年にわたる圧迫をうけても,バラクとデボラはエホバへの愛を保ちつづけました。エホバの最高至上権を信じた彼らは,忍耐いたしました。そしてカナンのヤビン王と将軍シセラから自由に解放される時を待ちのぞみました。1万人のイスラエル人をひきいたバラクは,軍勢の数もはるかに多く,装具もずつとすぐれていた敵に面しましたが,女預言者デボラを通して述べられたエホバの言葉に心をこめて答え応じました。「立てよ。今日こそは,エホバがシセラをあなたの手中に渡すときだ。エホバは先に行かれなかつたのか」。最高の力を持たれるエホバはバラクの活動がなくてもカナンの軍隊を打ち負かすことができたはずです。しかし,エホバは御自分の御名に関しての論争が生じたとき,自分の民が何ものをもさしひかえない,ことを見たいと欲せられました。彼の民が「命をすてて,死を恐れぬ民である」ことを欲せられたからです。それで,エホバは御自分のしもべたちの為に戦い,大水で戦車をしずめて,流し去つてしまいました。この戦争によつて別の女であるヤエルは,エホバに真心をこめて仕える機会を持ちました。彼女はシセラを恐れずに殺したのです。―シシ 4:14,21,新世; 5:18。ヘブル 11:32。

      16 サムソンの生涯中に,彼の専心の献身を証明する出来事を述べなさい。

      16 エホバの義のために戦つた別の人は,サムソンでした。ペリシテ人たちは,エホバの民を圧迫していた敵でした。それで,エホバはサムソンを起用して,「ペリシテ人の手からイスラエルを救い」始めました。エホバの御霊のみちびきをうけて,サムソンはペリシテ人の中から妻をめとりました。それは,多数の悪い者たちを滅ぼす機会を持つためでした。彼はたしかに悪い者たちを滅ぼしました。後日,エホバに全く信頼を置いた彼は,しばられてペリシテ人の手中に渡されるようになりました。エホバの御霊の助けをうけた彼は,その縄目を破り,素手で千人の敵を殺しました。シシ記の本は,悪いペリシテ人に対するサムソンのたくさんの手柄話しを記録しています。その最高潮は,幾千人というペリシテ人の頭上にダゴンの偽りの崇拝の家をくずし倒して,サムソンを捕えた名誉を悪鬼の神に帰させませんでした。目が見えなかつたという深刻な肉体的の障害にも,彼の心はくじけませんでした。エホバは,最後にいたるまで御自分の忠実なしもべを用いました。―シシ 13:5,新口; 16:30。ヘブル 11:32。

      17 なぜエフタは誓願を立てましたか。

      17 エフタは,新しい世のために真心をこめて戦つた者として,顕著な者です。彼が淫売婦の息子で,他の者から軽べつをうけても,彼はエホバの奉仕に不熱心でありませんでした。それは重要な論争ではありませんでした。彼の第一の関心は,エホバの崇拝者に対するアンモンの支配をのぞきとることでした。エホバの御霊のもとにエフタは出陣しました。しかし,敵と交戦する前に彼は有名な誓願をたてました。それは,エホバの御名に誉を帰する勝利に全く興味を持つ人の誓願です,「もしあなたがアンモンの人々を私の手にわたされるならば,私がアンモンの人々に勝つて帰るとき,私の家の戸口から出てきて,私を迎えるものは,だれでもエホバのものとなり,私はその者を燔祭としてささげねばならない」。―シシ 11:30,31,新世。

      18 エフタとその娘は,どのように今日の神権的な家族に対する模範ですか。

      18 戦争に勝利を得て,凱旋の帰還をしたとき,ただひとりの子供である娘が彼を出迎えました。エフタはこの娘をそだてるにあたつては,自分と同じく真心をこめて行うようにみちびいたことは明白です。彼女もエホバの勝利に第一の興味を示して,その誓願に従うという強い願望を述べました。彼女は,エホバにささげられたものとなり,シロの幕屋にいた祭司たちに渡されました。彼女は夫や家族を持つことが許されず,ギベオン人と共々に仕えてエホバの崇拝をいたしました。エフタとその独り子が,自己犠牲の精神を持つたことは,真心をこめて行なう例として聖書中に示されています。それはそのとき以来の神権的な両親や子供たちに対する模範であります。―シシ 11:34-39。

      19 生涯中のどんな出来事により,ダビデはエホバに全く献身していたことを証明しましたか。

      19 ダビデは,羊飼の少年から王になりました。彼は顕著な地位と権威を得てからは,真心をこめてささげるエホバ神への奉仕を止めましたか。少年のときのダビデは,万軍のエホバの名によつてゴリアテと戦い,盾と槍を手に持つ代りに,信仰を心にいだいていました。後日,彼はサウロ王から命を狙われるという危険や,ペリシテ人の土地での危険をも耐え忍びました。彼はつらい戦争をたくさん行い,エブス人を打ち負かし,エルサレムにおける自分の立場をかたくし,長年の敵ペリシテ人を支配し,そして戦争に勝つことによつて国の境界を拡大しました。彼の家庭内では,アブサロムが反逆したときに彼の家には剣がのぞみました。また,彼はサウロの娘である妻ミカルとも問題がありした。ダビデの真心のこもつた信仰,エホバの崇拝と立証に対する彼の愛,エホバの箱に対する彼の大きな興味,エルサレムの宮を建てる ― エホバはこの仕事をソロモンにゆだねました ― ために材料を準備したことは,ダビデがその全生涯を通して熱心な真の崇拝者であることを示します。ダビデがつくつた詩篇は,彼の献身を反映します。王座につく彼の後継者,ソロモンに,エホバのいましめを守れと,告げた彼の最後の言葉はエホバに全く献身している彼の心の状態を表わしています。ダビデのすべての経験から,彼がエホバに専心の献身をささげたもの,そしてしつかりとしてゆるぐことのないエホバの賛美者であることが証明されました。―列王紀略上 2:3。詩 108:1,3。ヘブル 11:32。

      20 一生涯をエホバに仕えるのに費やした顕著な例は誰ですか。彼はどんな試練を通りましたか

      20 キリストの時代以前には多くの預言者たちがいました。その中でも最も顕著な者は,サムエルです。彼は,乳離れした時から死ぬ時までエホバに専心して仕えた証者の例です。年若いサムエルは,シロの天幕で大祭司エリと共に奉仕しました。しかし,エリの息子たちの悪い例には従わなかつたのです。彼らは,集会の天幕の入口で仕えていた女たちと同棲していました。サムエルは,道徳的な清さを保ちました。彼はエホバの契約の民のなかで行なわれていた偶像崇拝の行いを非難し,正しい犠牲をささげ,一生のあいだイスラエルをさばきつづけ,そして巡回の僕として国内を定期的に旅行しました。国民が王を求めてエホバの支配権を捨てたとき,サムエルは心に悲しみを感じたのです。不従順なサウロ王が何をしようとも,そのようなことに恐れを持たなかつたサムエルは,次のような言葉をサウロ王に告げました,「ヱホバはその言にしたがふことを善したまふごとく播祭と犠牲を善したまふやそれ順ふ事は犠牲にまさり聴く事は牡羊の脂にまさるなりそはそむくことは魔術の罪のごとく……なんじヱホバの言を棄てたるによりエホバもまた汝をすてて王たらざらしめ給ふ」後日,サウロに殺されるかも知れない,という危険をおかしても,サムエルはダビデに油を注いで王にならせてエホバの御心をいたしました。この予言者が真心をこめて仕えたことは,エホバのよろこび給うところでした。―サムエル前 2:22; 7:16; 15:22,23。ヘブル 11:32。

      21 いま,考慮をするためにどんな比類のない記録が保存されていますか。それを学ぶとき,私たちはどのように答え応ずるべきですか。

      21 信仰とエホバへの真心をこめた献身は,エホバに受けいれられた昔の人々のうちに見出されました。彼らは,エホバの御霊により幾世紀にもわたつて一つの記録を作り上げました。他の群の人々すなわち,エジプトの力のある人々,バビロンの祭司たち,ペルシヤやギリシヤの君たちが,そのような記録をつくることはとうていできなかつたでしよう。エホバの忠実な証者のみが,次のような者と記述されるのです,「彼らは信仰によつて,国々を征服し義を行い,約束のものを受け,ししの口をふさぎ,火の勢を消し,つるぎの刃をのがれ,弱いものは強くされ,戦の勇者となり,他国の軍を退かせた。女たちは,その死者たちをよみがえらさせてもらつた。ほかの者は,更にまさつたいのちによみがえるために,拷問の苦しみに甘んじ,放免されることを願わなかつた。なおほかの者たちは,あざけられ,むち打たれ,しばり上げられ,投獄されるほどの目にあつた。あるいは,石で打たれ,さいなまれ,のこぎりで引かれ,つるぎで切り殺され,羊の皮や,やぎの皮を着て歩きまわり,無一物になり,悩まされ,苦しめられ,(この世は彼らの住む所ではなかつた),荒野と山の中と岩の穴と土の穴とを,さまよい続けた」。たしかにパウロの書いたとおりに,ヘブル語聖書中に記録されている信仰のすべての行いや活動を詳細に告げる時間はありません。しかし,良い目的のために記録は残されているのです。それは,真心をこめて奉仕したこれらの人々の例に私たちの心が動かされるためです。幾世紀もずつと昔の彼らは,いまや間近になつている正義の新しい世の設立にかたい信仰をいだいて行動しました。かくして,心をこめてエホバを愛し,専心の信仰を持つ人々のみが,大いなる復活者,生命の与え主の是認を得ると私たちは知ります。―ヘブル 11:32-38,新口。コリント前 10:11。

  • 心をこめて働く
    ものみの塔 1960 | 7月1日
    • 心をこめて働く

      「何をするにも,……エホバに仕えるように心をこめて働きなさい」。―コロサイ 3:23,新世。

      1 エホハとキリストは,何において人間の模範ですか。

      エホバ神とキリスト・イエスは働く御方です。「わたしの父は今に至るまで働いておられる。わたしも働くのである」とイエスは言われました。イエスが地上に来る前にあずかつたエホバのすばらしい創造のわざは,日々見ることができます。しかし,地上の人間であられたときに,イエスはどんな種類の仕事をしましたか。彼は人々が聞えるところで御父の御名エホバをあがめました。彼のわざは最善の種類のものでした。イエスは,彼をつかわした御父のわざに専心の興味を持ち,機会のあるかぎり,このわざをするのに全く献身していました。イエスは,自分のわざを心をこめてしたので,地上の忙しい生活を楽しみました。彼の関心事は,エホバの関心事とぴつたり結びついていたのです。その生涯の終りにあたつて,イエスは次のように言うことができました,「わたしは,わたしにさせるためにお授けになつたわざをなし遂げて,地上であなたの栄光をあらわしました。父よ,世が造られる前に,わたしがみそばで持つていた栄光で,今み前にわたしを輝かせて下さい」。―ヨハネ 5:17; 9:4; 17:4; 5:26,新口。

      2 いまエホバに献身している者たちには,どんなすばらしい特権がありますか。そのことを深く認識することは,彼らにどのような感じを持たせますか。

      2 イエスの死とその復活以来,エホバは地上のしもべたちに御自分のわざを行わせました。それはエホバをあがめるわざです。この地球は宇宙内でなんと小さく,また地上の生物はなんと微少であるかを考えるとき,このとるに足らない人間にエホバと共に働くという特権を与え給うたエホバの寛大さと愛のある御親切に対して,私たちは深い感銘をうけるにちがいありません。「わたしたちは神の同労者である。」私たちは「神と共に働く者」です。なぜ神はこのことをしましたか。神は,そのみわざをする私たちの働きを必要としている,わけでなく,御自分のしもべたちを神のわざに参加させることは神をよろこばせるからです。「あなたがたのうちに働きかけて,その願いを起させ,かつ実現に至らせるのは神であつてそれは神のよしとされるところだからである」。エホバとのこの親しい関係を深く認識して感謝の念にみちる今日の真のクリスチャンたちは,心をこめて神のわざをいたします。―コリント前 3:9。コリント後 6:1。ピリピ 2:13,新口。

      3 人は,エホバを全く信じなくても,心をこめて行なうことができますか。

      3 クリスチャンはエホバを全く信じなければなりません。さもなければ,彼はそのわざをしたりしなかつたりで安定のない状態となります。ついには,神から何もいただかないでしよう。「疑う者は風に吹かれて波立つ海の波のようである。そのような者は,全くすべてのものをエホバからいただけると考えてはならない。その者は,道の定まらぬ優柔不断(欄外,二心ある)な者である」。僕がどれ位の信仰を持つているかは,そのわざである行為に現われるのであつて,心をこめてなされたものかあるいは「二心ある」ものであるかが分ります。安定している者たちは,心をこめて行う者たちで,その信仰は真実のものです。―ヤコブ 1:6,7,新世。

      4 信仰と行いの関係は何ですか。

      4 それで,弟子ヤコブは次のように論じています,「わたしの兄弟よ。ある人が自分には信仰があると称していても,もし行ないがなかつたら,なんの役に立つか。その信仰は彼を救うことができるか。……しかし,『ある人には信仰があり,またほかの人には行ないがある』と言う者があろう。それなら,行ないのないあなたの信仰なるものを見せてほしい。そうしたら,わたしの行ないによつて信仰を見せてあげよう。あなたは,神はただひとりであると信じているのか。それは結構である。悪霊どもでさえ,信じておののいている。ああ,愚かな人よ。行いを伴わない信仰のむなしいことを知りたいのか。……これでわかるように,人が義とされるのは,行いによるのであつて,信仰だけによるのではない。……息のないからだが死んだものであると同様に,行ないのない信仰も死んだものなのである」。ヤコブはこれに関連したものとして,アブラハムとラハブの名前を述べています。彼らは行ないによつて信仰を表わし,エホバの是認をうけた者の例であります。―ヤコブ 2:14-26,新世。

      5 誠実な信仰の行いは,どのくらい価値のあるものですか。

      5 神の御前で信仰を持つて働く価値は,聖書の次の言葉からも理解できます,「神はおのおのに,そのわざにしたがつて報いられる」。そして「心をはかる者はそれを悟らないであろうか。あなたの魂を守る者はそれを知らないであろうか。彼はおのおのの行ないにより,人に報いないであろうか」。「なぜなら,わたしたちは皆,キリストのさばきの座の前にあらわれ……自分の行なつたことに応じて,それぞれ報いを受けねばならないからである」。エホバの任命した裁き主なるキリストは,人の心を見抜きます。エホバに信仰を持たず,エホバの律法を守らない者が,偽善的な表面だけのわざの見せびらかしをしても,イエスはだまされません。イエスは,人間が産出する実について論じたときに,こう語りました,「その日には,多くの者が,わたしにむかつて『主よ,主よ,わたしたちはあなたの名によつて予言したではありませんか。また,あなたの名によつて悪霊を追い出し,あなたの名によつて多くの力あるわざを行なつたではありませんか』と言うであろう。そのとき,わたしは彼らにはつきり,こう言おう,『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ行つてしまえ」。各人の産出する御国奉仕の良い実によつて,誰の心がエホバと正しい関係にあるかが分ります。―ロマ 2:6。箴言 24:12。コリント後 5:10。マタイ 7:17-23,新口。

      いま良い実を産出しなさい

      6,7 (イ)ヨハネ伝 15章1-4節にあるイエスの譬話を説明しなさい。(ロ)真理を聞くことは,心をこめて神に仕える僕たちにどんな影響を及ぼしますか。(ハ)神の御言葉については何をするべきですか。神の御言葉を用いる者たちには,どんな益が来ますか。

      6 ぶどうの木の枝が実を産出するように,クリスチャンは神をあがめる実の産出が多くなければなりません。イエスは,こう言われました,「わたしはまことのぶどうの木,わたしの父は農夫である。わたしにつながつている枝で実を結ばないものは,父がすべてこれを取りのぞき,実を結ぶものは,もつと豊かに実らせるために,手入れしてこれをきれいになさるのである。あなたがたは,わたしが語つた言葉によつてすでにきよくされている。わたしにつながつていなさい。そうすれば,わたしはあなた方とつながつていよう。枝がぶどうの木につながつていなければ,自分だけでは実を結ぶことができないように,あなたがたもわたしにつながつていなければ,実を結ぶことができない」。エホバの制度的な機構のかしらなるキリスト・イエスとつながつていないなら,他のいかなる方法も農夫なるエホバに受け入れられるような実を産出することができません。エホバの油そそがれた僕たちにより真理の言葉は聞こえています。それはもつと多くの実を産出するはずです。さもなければ,実をむすばない枝は切り取られるでしよう。それですから,キリストの弟子たちが真理を受けいれることは,知性の経験だけであつてはなりません。真理は心にしつかり定まり,心に正しい影響を及ぼさねばなりません。人は心で正義の信仰を働かします。聖書や神権的な出版物の論ぜられているのを聞いたり,それらを読むとき,復活したキリストと道を歩きながら話をした弟子たちと同じような感じを持つべきです,「(彼は)モーセやすべての予言者からはじめて,聖書全体にわたり,ご自身についてしるしてある事どもを説きあかされた。彼らは互に言つた,『道々お話しになつたとき,また聖書を説き明してくださつたとき,お互の心が内に燃えたではないか』」。彼らは,その学んだことを,他の11人の使徒をはじめ他の者たちに語ろうという気持を抑えることができませんでした。―ヨハネ 15:1-4。ルカ 24:27,32,新口。

      7 あなたの心は,すばらしい真理を聞くときに,心から深く感謝して,真実のよろこびにみちて燃えますか。エホバの御言葉の良い事柄を学ぶときに,キリストの忠実な弟子たちが行なつたごとく,あなたは自分の心が動かされ,心をこめて実を結ぶわざを行ない,エホバに栄光をもたらしていますか。「ものみの塔」の記事を受け取る時のように真理を受け取る機会のあるとき,あなたはよろこんで直ちに探究しますか。御言葉と一致した行いを心からしたいと欲するので,御言葉を聞くときに幸福であると感じますか。ヤコブは次のように助言しています,「御言を行う人になりなさい。おのれを欺いて,ただ聞くだけの者となつてはいけない。おおよそ御言葉を聞くだけで行なわない人は,ちようど,自分の生れつきの顔を鏡に映して見る人のようである。彼は自分を映して見てそこから立ち去ると,そのとたんに,自分の姿がどんなであつたかを忘れてしまう。これに反して,完全な自由の律法を一心に見つめてたゆまない人は,聞いて忘れてしまう人ではなくて,実際に行う人である。こういう人は,その行いによつて祝福される」。真理を記憶する方法は,真理を用いることです。真理を忘れる方法は,真理を用いないことです。あなたの心を真理でみたして,それから溢れ出させなさい。家庭を訪問して,あらゆる場所の人々にエホバのことを語るなら,あなたはたくさんの実を結びいつも幸福です。―ヤコブ 1:22-25,新口。ヨハネ 15:8。箴言 18:4。

      8 なぜ会衆の集会は,非常に大切ですか。集会の出席に不規則の場合には,どんな危険がありますか。

      8 あなたが真理の言葉を心に深くとどめるのを助けるため,エホバは今日ひとつの制度を持つています。エホバは,聖書の研究により,また毎週の定期的な集まりで使用するものみの塔聖書冊子協会の研究の手引きによつて,実をむすぶ枝の全部に霊的な滋養物を与えておられます。もし自宅の個人研究だけで必要な益はことごとく得られるのであつて,集会に行つて他の者たちといつしよに研究しなくても良いと信ずるなら,その人は自分自身を欺いています。会衆はすべてのクリスチャンにとつて生命線です。イエスはこう言われました,「ふたりまたは三人が,わたしの名によつて集まつている所には,わたしもその中にいるのである」。出席してキリスト・イエスからの教えにあずかるとは,なんというすばらしい特権でしよう! これはキリスト・イエスを通して設けられるエホバの取極めです。しかし,エホバの制度に対して悪い考えを心に抱きはじめるなら,そのことは表われてくるでしよう。悪い行いの第一歩は,エホバの他の僕たちと定期的に集まつて研究するのを止めることです。これはすこしずつ習慣となり,ある期間が経つと,無関心と独立の感情が生じます。その人は野外奉仕に定期的に出かけず,人々の家庭を訪問して良いたよりを伝えたり,エホバをあがめることを忘れます。その人は,もはや心をこめてしていません。―マタイ 18:20,新口。

      9 (イ)キリストと共に霊的な食物を取るのに心をこめて行なわない人々は,どうなりますか。(ロ)「救われる人」は,いまどんな努力を行なうべきですか。(ハ)会衆と関連して,心をこめて働く人々は,いつも何をいたしますか。

      9 しばらくのあいだキリスト・イエスと共に霊的な食物にあずかつても,もし不熱心になるなら,程なくしてエホバの制度の外に出てしまい,霊的に弱い者になります。そして,ついには実を結ばないので切りとられる枝のようになります。その人は,イエスがルカ伝 13章25-27節で述べているような者です,「家の主人が立つて戸を閉じてしまつてから,あなたがたが外に立ち,戸をたたき始めて,『ご主人様,どうぞあけてください』と言つても,主人はそれに答えて,『あなたがたがどこからきた人なのか,わたしは知らない」と言うであろう。そのとき,『わたしたちはあなたとご一緒に飲み食いしました。またあなたはわたしたちの大通りで教えてくださいました」と言い出しても,彼は,『あなたがどこからきた人なのか,わたしは知らない。悪事を働く者どもよ,みんな行つてしまえと言うであろう』」。彼らはどこにいましたか。彼らは「主人」といつしよに家の内にいるべきでした。使徒たちの時代のとき,一時のあいだは集会に出席していた人々も,幾年も定期的に出席しつづけた人の数は,ごく「わずか」でした。今日でも,ある人々の記録はそれに類似しています。多くの場合,いちばん困難な立場にいる人々,たとえば身体面の障害を持つ人,悪天候の下でいちばん遠い道のりを通う人,家族の反対をうける人,そのような人はいつでも集会に出席します。ところが,集会所に近いところに住んでいる人とか,通いに使える自動車を持つている人は,すこしの努力をも払おうとせず,集会に来たり来なかつたりという調子です。どちらの方が永遠の生命を得ることに成功しますか。「ある人がイエスに,『主よ,救われる人は少ないのですか』と尋ねた。そこでイエスは人々にむかつて言われた,『狭い戸口からはいるように努めなさい。事実,はいろうとしても,はいれない人が多いのだから』」。心をこめて努める人は,定期的に研究し,集会で霊的な食物にあずかり,そして「十分の強さ」を保ちます。それらの人々は,定期的に集まつて,愛と正しいわざを互にはげますことを忘れません。会衆とかかわりのあるすべてのことは,大切です。そして,すべての人は些細な事にでも参加しなければなりません。御国会館や他の集会所を,幸福で清い崇拝の中心地として使用するため最善の状態に保ちなさい。御国会館を維持するために寄付をしなさい。見知らぬ人をあたたかく歓迎しなさい。―ルカ 13:23,24,新口。ヘブル 10:24,25。

      監督の仕事

      10 霊的な食物を取り扱う際に会衆の監督の責任は何ですか。

      10 研究集会は,主の羊をやしなう場所です。集会の監督を任命されている者たちには,真心をこめての注意を払わねばならぬ余分の仕事が与えられています。監督は,その仕事の各部分を注意深く準備します。事柄を良く行うには時間がかかる,と監督は知つています。そして,必要な時間をわざわざ取り分けておきます。羊を養う重要性は,イエスにより熱心な働き人シモン・ペテロに強調されました。それは,今日のエホバの証者の会衆内の監督たちをみちびくために記録されています。集会によつて羊を正しく養う取り極めを設けることに無関心な態度を示すなら,それは羊に対する愛の不足を示すだけでなく,主に対する愛の不足をも示します。なぜなら,ペテロに話しかけられたイエスは,ペテロがイエスを愛するかと三度たずねられたからです。主なるキリスト・イエスへの愛こそ,羊についてのしごとをする僕たちをはげますものです。―ヨハネ 21:15-17。

      11 心をこめて働く監督には,どんな特質がありますか。

      11 このように真心をこめて行なうということは,無私の気持とよろこんで事を行なう気持と直接にむすびついています。愛は無私のもの,あたたかいものです。真実の従属の羊飼である監督は,羊を援助してその弱い点をにないます。監督は,いちばん容易な道を歩いて自分だけをよろこばす,というようなことをしません。パウロのように,あなたはこう言います,「わたしは,すべての人に対して自由であるが,できるだけ多くの人を得るために,自ら進んですべての奴隷になつた」。そして,あなたは「しいられてするのでなく……自ら進んで,……本心から」奉仕します。「おのおの,自分のことばかりでなく,他人のことも考えなさい」。僕であるあなたは奉仕の義務よりも自分のこととか社交的なことを重んずることをしません。むしろ,あなたの兄弟の福利をはかり,謙遜なキリスト・イエスと同じ心持を示します。―コリント前 9:19。ペテロ前 5:2,3。ピリピ 2:3-8。ロマ 15:1,新口。

      12 忠実な従属の羊飼たちは,大牧者の模範にならい,羊のためにどの程度までいたしますか。

      12 あなた方従属の羊飼たち,キリストのことをおぼえなさい。使徒パウロはキリストを「永遠の契約の血による羊の大牧者,わたしたちの主イエス」と述べました。イエスの血は,彼の羊のために注がれました。それで,イエスは,羊のためにその極限までに愛を示すという模範を残しました。やとわれた人は,危険が羊に来ると逃げます。しかし,真実の従属の羊飼は,キリスト・イエスにならい,何が来ようとも,必要なら羊のためには自分の持つ一切のものをついやします。特にいま共産主義者の国々では,監督になることには大きな危険がともないます。しかし,献身した従属の羊飼たちは,ちゆうちよしません。彼らは魂を見張り,大いなる羊飼キリスト・イエスに申し開きをする真実の従属の羊飼として自分たちの責任を認めます。―ヘブル 13:17,20。ヨハネ 10:11-13。

      心をこめての協力

      13 任命された監督に対して,今衆内のすべての者の態度はどのようなものでなければなりませんか。

      13 任命された監督に対して,会衆内のすべての者の態度はどのようなものでなければなりませんか。エホバから与えられたわざをことごとく成し行うために全き協力がなければなりません。僕たちが,全部の野外奉仕をすることはできません。しかし,指導をいたします。一致があるとき,エホバの御名に栄光を帰する実を産出するのに必要な力があります。今日の世界には一致がなく,どの人もできるだけすこしの仕事をして何とかやつて行こうと努めます。それに反して,エホバの証者が任命された監督の指示の下に成し行なう仕事と協力には,世界はびつくりして見守つています。1958年の神の御心国際大会は顕著な例でした。しかし,他のすべての集会や活動もそうです。エホバの証者は次のいましめに従つています,「あなたがたの指導者たちの言うことを聞き入れて,従いなさい」。監督は,羊を守る仕事をする場合,霊的に弱い者たちを訪問して助言を与え,生命を救おうと希望します。その訪問をうけた人は,そのことに腹を立ててはなりません。むしろ,その努力を大きな愛の行いと感謝して,答え応じなければなりません。もし「大いなる羊飼」キリスト・イエス御自身が来られるなら,あなたは彼の助言を聞き入れるでしよう。それでは,なぜ彼の代表者である従属の羊飼の助言を聞き入れないのですか。羊の群れの中で働く監督たちと暖い気持のうちに協力しなさい。「彼らが嘆かないで,喜んでこのことをするようにしなさい。そうでないと,あなたがたの益にならない」。―ヘブル 13:17,新口。

      14 (イ)もしある人の活動が生温いものであるなら,その人は黙示録 3章15-19節にあるキリストの言葉に従い,何をするべきですか。(ロ)生ぬるい者,心の分かれている者たちはどうなりますか。

      14 キリストは次のことをあらかじめに御存知でした,すなわちある人々は無関心と生温い状態に落ちこみ,「信仰の導き手であり,またその完成者」をじつと見つめることを止めて,富と物質主義に目をそらすでしよう。それで,キリストはヨハネをしてラオデキヤ会衆に次の言葉を書かせました,「わたしはあなたのわざを知つている。あなたは冷たくもなく,熱くもない。むしろ,冷たいか熱いかであつてほしい。このように,熱くもなく,冷たくもなく,なまぬるいので,あなたを口から吐き出そう。あなたは自分は富んでいる,豊かになつた,なんの不自由もないと言つているが,実は,あなた自身がみじめな者,あわれむべき者,貧しい者,目の見えない者,裸かな者であることに気がついていない。そこで,あなたに勧める。富む者となるために,わたしから火で精練された金を買い,また,あなたの裸の恥をさらさないため身に着けるように,白い衣を買いなさい。すべてわたしの愛している者を,わたしはしかつたり,懲らしめたりする。だから熱心になつて悔い改めなさい」。すべてのクリスチャンは,この状態に対して警戒しなければなりません。特にそれは監督たちの役目です。いまこそ,先ず御国を求めて,真実に献身すべき時です。なまぬるいことは,キリストに憎まれます。もしある人がなまぬるい状態に落ちこんだならば,その心の状態を早く変化させなさい。監督の援助をうけいれなさい。真理の霊的な目ぐすりを目に塗つて,新しい世の事柄についての明白なまぼろしを得なさい。あなたは御国の大きな宝を見出しました。いまは,それを失なつてはなりません。悔い改めて熱心になりなさい。心の分かれていた昔のイスラエルのようであつてはなりません。エホバはそれらの者たちを有罪の者と見なし,捨ててしまつたのです。「万物の終りが近づいている。だから,心をたしかにし,身を慎んで努めて祈りなさい」。「あなたがたは,はたして信仰があるかどうか,自分を反省し,自分を吟味するがよい」。―黙示 3:15-19,新口。ペテロ前 4:7。コリント後 13:5。ホセア 9:17; 10:2。

      15 (イ)ここに準備されているどんな質問は,あなたが「はたして信仰があるか,どうか自分を反省する」助けとなりますか。(ロ)あなたは,心を込めてエホバを愛する,ということをどのように示しますか。

      15 エホバの僕は,あらゆる面で新しい世の事柄に真心をこめて専念しています。そのことをいちいち述べるだけの紙面はありません。あなたは,自分の行ないをしらべることにより,『信仰があるかどうかを吟味する』ことができます。今日の神権制度内には,多くの種類の奉仕の義務と特権がさしのべられています。あなたは会衆と交わつていますか。心をこめていつしよに働きなさい。あなたは監督または奉仕の僕として任命されていますか。愛の気持をもつて働きなさい。あなたは奉仕中心地の研究を司会しますか。心をこめて司会いたしなさい。集会を準備しなければなりませんか。大会の義務が与えられていますか。あなたは研究しますか。あなたは家から家に伝道していますか。興味のある人が見つかるなら,そのところを必らず再訪問しますか。最初の訪問のときに家に居なかつた人を再び訪問しますか。新しい世の生活に備えるために子供たちを訓練しますか。奉仕の記録を整理しなければなりませんか。偶然の証言をする機会がありますか。いつの時でもエホバの誉を守りますか。エホバにささげる「賛美の犠牲」は,あなたの最善のものですか。アベルの犠牲を思い出しなさい。限られた時間内に特別の仕事をしなければならないとき,あなたは心からそれに答え応じますか。箱舟を建造したノアのことを思い出して下さい。必要の大きいところに行くようにとの召があるとき,あなたはアブラハムのことを考えますか。物質主義の罠に面するときは,モーセのように賢明に選びなさい。反対する敵のためにあなたの生命は危険ですか。ギデオンと同じく,恐れてはなりません。奉仕にさしつかえる身体上の障害がありますか。それでも,盲目のサムソンのごとく真心をこめて行ないなさい。あなたはエホバに仕える年若い僕で,一生のわざを選ぼうとしていますか。サムエルとエフタの娘の例を思い起しなさい。長年のあいだ奉仕をつづけてきましたか。ダビデのごとく熱心を保ちつづけなさい。教えるわざを行うために訪問する家庭があるとき,あなたは何をしますか。キリスト・イエスの行なつたごとく伝道いたしなさい。エホバが御自分の制度を通してあなたの前に開かれるわざには最善の注意を払わねばなりません。どの任命も特権です。どの仕事も大切です。もしあなたが心をこめてエホバを愛するなら,あなたは何をするにも「エホバに仕えるように心をこめて働きなさい」。―ヘブル 13:12-15。コロサイ 3:23,新世。

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