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現代に生きる配偶者のいない親たちものみの塔 1980 | 12月15日
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現代に生きる配偶者のいない親たち
「ほんとうにやもめで窮苦にある女は,神に希望を置いており,夜昼ひたすら願いと祈りを続けます」― テモテ第一 5:5。
1-3 (イ)夫を失ったある女性は手紙にどのように書いていますか。(ロ)片親だけの家庭は増えていますか。そういう家庭の親が直面する問題をいくつか挙げてください。
「私は夫を亡くした28歳の主婦で,二人の子供がいます。父親なしで子供を育てるのがつらくて気がめいってしまいます。私のことなどだれも気にかけてさえくれないように思えます。子供たちは私が泣いているところをよく目にします。それも子供に影響します。いつまでもこんな気持ちでいるわけにいかないことはよく分かっています。でも,どうしたらいいのでしょうか」。この手紙には,多くの問題に直面している人たち,つまり配偶者を失って自分ひとりで子供を育てている人たちの共通の訴えがよく表われています。
2 各国の報告は片親だけの家庭が急激に増加していることを物語っています。アメリカではその数は10年のうちにほとんど倍になり,カナダでは倍以上になりました。オーストラリアとイギリスでは,片親だけの家庭が全世帯の1割を占めています。現在アメリカに住んでいる子供で5人につき二人は,片親だけの家庭で生涯の一時期を過ごすことになるであろうと推測されています。
3 この増加には多くの原因があります。戦争や交通事故が多くの家庭から父親を奪い去りました。家族生活が退廃するにつれて,遺棄,離婚,別居などは少しも珍しいものではなくなってきました。未婚の母親の中には,中絶したり,養子に出したりするよりも,子供を自分の手で育てる道を選んだ人もいます。配偶者を失った片親は数多くの問題に対処しなければなりません。そのうちの少しを挙げるだけでも孤独感,育児,生計を立てること,性的欲望,家庭管理などの問題があります。
キリスト教は問題を軽減する
4 1世紀にはどんな状態が原因で片親だけの家庭が増えましたか。
4 キリスト教の揺籃時代であった1世紀にも,戦争の惨害,病気,道徳の退廃などが原因でやもめや父親のない子供が増えました。離婚や遺棄は普通のことになっていました。たいていの場合,年端もゆかない子供たちが母親のもとに残され,母親はそれらの子供を自分ひとりで育ててゆかなければなりませんでした。ローマ帝国の社会は一般に弱者を軽蔑する無情な社会でした。ですから,やもめたちはひどい仕打ちを受けるのが常でした。生きてゆくために売春に身を落とす者もいました。
5 キリスト教はどんな二つの面で助けになりましたか。
5 しかしキリスト教は真の変化をもたらしました。キリスト教は恵まれない人々に同情を示しました。それだけでなく,その教えを通して,その時代の悪習を断ち切る道徳的力を,配偶者のいない親たちに与えました。また女性を恥知らずな者にしないで,自制心のある貞潔な,家族を愛する者にならせました。ですからクリスチャンでない人々でさえその違いを認め,「クリスチャンの女性はなんとすばらしいのだろう」と感嘆した者たちもいました。
6 今日の諸問題に対処するうえで,キリスト教のどの原則は,ひとりで子供を育てている親を含めすべてのクリスチャンに役立ちますか。
6 そうなるにはキリスト教のどんな原則が役立ったでしょうか。使徒パウロはやもめに関する助言を与えるに際して,模範的なやもめは,「神に希望を置いており,夜昼ひたすら願いと祈りを続けます」と述べています。そして,60歳以上のやもめで,とりわけ「あらゆる良い業に勤勉に従った」人であるならば,援助の対象として名簿に載せてよいことを示しています。(テモテ第一 5:5,9,10)ここには,少なくとも次の三つの原則がはっきり認められます。(1)今神に信頼を寄せ,神が約束してくださった永遠の命の希望を確信していること。(2)神との個人的関係を緊密なものに保つこと。(3)有益な仕事にいつも携わること。この三つの原則を適用することが,今日の諸問題に対処する上で,片親の立場の人だけでなく,すべてのクリスチャンにとってどのように真の助けになるかを考えてみましょう。
孤独感と闘う
7 (イ)ある親にとって孤独感が特に耐えがたく思われるのはなぜですか。(ロ)テモテ第一 5章10節に示唆されている原則は,どのように助けになりますか。
7 ある人はため息まじりに,「家に帰って四方の壁を見ると,子供たちが寝静まっていればとりわけ,深い孤独感に襲われます」と言いました。確かに孤独感は多くの場合,片親の人が直面する一番大きな問題です。子供との仲が一層親密になるのも助けにはなりますが,多くの人は大人との親交を強く望みます。いつも「あらゆる良い業」に携わっていることは,時の経過が実証した一つの解決策です。1世紀のクリスチャンのやもめたちは,「見知らぬ人をもてなし,聖なる者の足を[個人的な奉仕の行為として]洗い,患難にある人を助け」ました。(テモテ第一 5:10)68歳になる現代のあるクリスチャンのやもめはこの点に気付き,寂しくなるといつでも,近くに住む別のやもめのところや養護施設などに出かけることにしました。「そのようにして訪問したり,自分の家の仕事をきちんと片付けたり,霊性に注意を払ったりしていると,寂しくなる時間はありません」とその人は言いました。
8 (イ)王国を宣べ伝えることが,孤独感やゆううつな気持ちと闘う助けになるのはなぜですか。(ロ)それは本当に効果がありますか。
8 王国を宣べ伝えることは,イエスがお命じになった「良い業」であり,孤独感やゆううつな気持ちを取り除くことのできる業です。(マタイ 24:14; 28:19,20)ある親は寂しい,ゆううつな気持ちになって引きこもりがちでしたが,友達から戸別の証言を行なうように励まされ,それを行ないました。訪問した最初の家でその人を招じ入れてくれた人は手足のひどく不自由な女の人でしたが,それでも気持ちの非常に明るい人でした。どうしてそんなに明るい気持ちでいられたのでしょうか。「それはあなた,私には命があるんですもの。生きているんですからね」という快活な答えが返ってきました。これはそのエホバの証人にとって転機となりました。「私には健康があり,会衆の愛があり,二人のりっぱな子供がおり,なによりもエホバがついていてくださる。暗い気持ちになることなどないのだわ」と,その人は考えたのです。ほかの人々を霊的に助けるようにすると,自己中心的になったり,自分を哀れむ気持ちに捕らわれたりしないですみます。人に教えると自分自身の希望を生き生きと新鮮に保てますから,「神に[わたしたちの]希望を置」きつづけることができるのです。―テモテ第一 5:5。
9 孤独感は一生懸命に働けば必ずなくなるものですか。どんなことも助けになりますか。
9 それでも妻を失ったある人は現実的な観点から,「孤独感は一生懸命に働くだけでなくなるものではありません。孤独感を抱いたまま生きてゆかねばならない場合が多いと思います。エホバが与えてくださる助けと力とによって耐えるしかありません」と語りました。その力は『夜昼ひたすら願いと祈りを続ける』ときに得られます。(テモテ第一 5:5)祈りの中でその日の活動を一つ一つ語り,エホバがいつもそばでそれを聞いてくださって,生活の細かい事柄についてまで心を配ってくださることを知るのは,本当に慰めになります。「夜昼」エホバに心を打ち明けると気持ちが楽になります。孤独感の問題がひとしお深刻になりがちだと多くの人が言う夜間は特にそうです。
性的欲望に対処する
10 (イ)どんな場合に性的欲望は大きな問題になりますか。(ロ)人はどのように「肉感を満たすことにふける」ようになりますか。これは何につながる恐れがありますか。
10 ひとりで子供を育てている配偶者のいない人たちの多くは,夫婦の温かい交わりや結婚の床での親密な行為を恋しく思います。確かにそういう感情自体は悪いものではありません。再婚したいという気持ちは自然です。問題は,どんな犠牲を払ってでもそうした「性的な衝動」を満足させようとするときに生じます。使徒パウロの時代にもそういうことがありました。若いやもめの中には,「性的な衝動が自分とキリストとの間を隔てる」ままにした人がいました。(テモテ第一 5:11,12)それは重大なことでした。なぜなら,そのような人は,『私の性的必要は非常に大きいので,肉体をその緊張から解放するためになんとかしなければならない』と言っていたのと同じだからです。そうした肉欲または情欲は生活の中でしだいに大きな場を占めるようになり,霊的関心事を上回るまでになりました。その欲望に駆られて『肉感を満たすことにふけり』,「生きてはいても死んでいる」者となってしまったのでしょう。(テモテ第一 5:6)それまでの霊的な事柄に対する関心は死んでしまいました。これと同じことは(男女を問わず)今日のどのクリスチャンにも起こり得ます。「性的な衝動」を満足させることに夢中になって聖書の道徳規準を無視するなら,それは『霊的自殺』になりかねません。
11 どうすれば『性欲を死んだもの』にできますか。
11 ですから聖書は,『あなたがたの肢体を性欲に関して死んだものとしなさい』と勧めています。(コロサイ 3:5)そのためにはどうすればよいでしょうか。自分の思いと心を守るのです。食養生をする目的で食欲を制御しようとしている人が,おいしそうな料理の写真が載っている雑誌を読んだり,テレビの料理番組を見たりするでしょうか。食べ物の話ばかりしている人たちと交わるでしょうか。そういうことはまずしません。「性欲」についても同じことが言えます。夫のいないある女性は率直にこう言いました。「私たちは際限なく性のことを語る世界に住んでいます。ですから私は娯楽の選択や交際相手に注意を払うようにしています。糖尿病の人はお菓子屋のショーウインドーをのぞき込もうなどとは決して思わないでしょう」。
12,13 (イ)エホバと個人的な関係を培うには何が必要ですか。(ロ)「願い」が非常に大切なのはなぜですか。どうすればその願いと一致した行動をすることができますか。
12 とはいっても,こうした欲望を日々克服してゆくには,神との個人的な関係を密接なものにしなければなりません。それには個人研究や黙想のほかに,ひたすら「願い」つづけることが必要です。(テモテ第一 5:5)パウロは一般的な祈りについて述べるだけでなく,「願い」にも触れています。願いは神に対する請願で,差し迫った必要を伝えるものです。心から出る嘆願です。助けを請い求めることです。これには「強い叫びと涙」が伴うこともあるでしょう。―ヘブライ 5:7。
13 自制心と力を求めるあなたの祈りはそのような熱意のこもったものですか。あなたはひたすら祈りつづけますか。そういう欲望が強くなるその時その場で祈りますか。人には打ち明けないようなことも含めて,わたしたちの父には具体的に話しますか。また,祈りに一致した努力をしますか。あるクリスチャンの婦人はこう語りました。「性的欲望を克服しようとしてエホバの助けを求めておきながら,性について絶えず考えるようなことをするのはいけません。ひと月のうちに性的衝動が非常に強くなる時期は確かにあるでしょう。その時には何か別のことをして思いを活動的にすることです。だれかを訪問するのもよいでしょう。また散歩するとか,とにかく思いを切り換える何かをするのです。その時期にはできるだけ忙しくしていることです」。「あらゆる良い業」を忙しく行なうことの価値を知った別の婦人もそれに相づちを打ち,「窓や床をごしごし洗ったり,土を掘り返したりしてごらんなさい。私もしましたが効果がありますよ」と言いました。奇跡を行なうことによってではなく,少なくとも日々この問題に対処する力を与えることによってエホバが助けてくださっていることが分かるなら,エホバを一層近く感じるようになるでしょう。
14 (イ)もしエホバと親しい関係にないなら,どんなことが起こり得ますか。(ロ)配偶者のいない親はクリスチャンの結婚相手が現われるのを待つ間,何をすることができますか。
14 この貴重な「エホバとの親密さ」がなければ,あるいはこの世の人とでもデートしたりして,どんな犠牲を払ってでも,結婚相手を探すようになるかもしれません。(詩 25:14,新)実際にそれをしたある人は言いました。「本当の問題はエホバと親密でなかったことにありました。結婚の機会が訪れたとき,それはとても良い話のように聞こえました。私は教えられてきた道徳規準を忘れてしまっていました。しかしある日,相手が結婚にではなく自分のことだけに関心があるのに気付きました。それからというものは,良心のかしゃくを抱えて生きてゆかねばなりませんでした」。ひとりでいるのは確かに難しいことかもしれません。しかしある離婚したクリスチャンの婦人は,「ひとりでいるよりもずっと悪いことが一つあります。それは不適当な相手と結婚生活を送ることです」と言いました。献身したクリスチャンたち,つまり「主にある」人たちの中に結婚の相手が見つかる可能性は常にあるのです。(コリント第一 7:39)ある人たちはそのような相手が現われるのを何年も待ちました。しかしその間,そのことで悩んだり,自分の境遇に打ちひしがれたりするようなことはありませんでした。より良い配偶者になるための特性を養うことに時間を賢く用いました。女手ひとつで子供を育てているある女性は,「『私はだれかに選ばれるような霊的な女だろうか』と自分に尋ねてみます。ひとりでいるときにじめじめした暗い気持ちでいるなら,私の配偶者になる人も惨めな気持ちにさせてしまうと思うからです」と言いました。
家庭管理と育児
15 (イ)女手ひとつで子供を育ててきた親の中には何をして家庭管理に成功した人たちがいますか。(ロ)このほかに何か提案がありますか。
15 配偶者のいない親の多くは,簡単なことではありませんが,箴言 31章に述べられている有能な婦人に倣うよう努めてきました。その婦人は結婚してはいましたが,家事全般を管理していました。お金を節約するために,買い物をするにもよく注意を払い,材料を手に入れて自分で物を作り,また「定めの分」を準備するようにして食物をむだにしませんでした。(13-15,19節,新)朝早くから仕事を始め,遅くまで働きました。(15,18節)色々な物を作ってそれを売りました。(24節)「その手」で様々な家事を行ないました。(17,19節)今日でも,片親の立場にある人の中には,『自分の手』をうまく使うことを学ぶために手引き書を読んだり,専門家に助言を求めたりした人たちがいます。(境遇を説明すると,専門的な事柄を無料で教えてもらえることがよくありました。)また,特殊技術を持つ仲間のエホバの証人に自分の必要を話して,親切な援助を受けることができた人たちもいます。こうしたことはすべて費用の節約に役立ちます。
16 神を信頼するのはなぜ重要なことですか。だれの例がこの必要を示していますか。
16 しかし,やもめにできることがどれほど多くあっても,時がたつにつれて難しくなってきますから,日々の糧を神に頼らなければなりません。『神に希望を置いた』人の良い例は,神の預言者エリヤの時代にザレファテの町に住んでいた,子供を抱えたあるやもめです。エホバの指示によってエリヤは,神が養ってくださるという約束をそのやもめに与え,手もとに残っている最後のわずかな食物を食べさせてくれるように頼みました。あなただったらどうしたでしょうか。それは最後の食物で一食分しかありませんでした。その一食は少なくとも当てにできるものでした。にもかかわらず彼女は,信仰を持っていたゆえに,不確実なもののために確実なものを断念しました。預言者を通して語られた神の言葉は真実となりました。やもめとその息子は食物に事欠くことはありませんでした。同様に今日でも,配偶者のいない親を含めクリスチャンはすべて,神の王国を第一に求めることにより,また神の義の規準に従って行動することによって,神に信頼を置かねばなりません。そうすれば,神が養ってくださるということが分かるでしょう。―列王上 17:8-16。ルカ 4:25,26。マタイ 6:31-33。
17 子供を正しく育て上げたいと願う配偶者のいない親が,片時も忘れてならないのはどんなことですか。なぜですか。
17 「母親」と「父親」の両方の役を果たして子供たちを正しく養育するのは難しい仕事ですが,家庭内で何を最重要事とすべきかを親が忘れないようにするときに初めてそれは成し遂げられます。聖書の答えは次の通りです。
「エホバを恐れつつわずかである方が,豊かな備えとそれに伴う混乱があるよりも良い。野菜の料理でもそこに愛のある方が,飼い葉おけで肥育された牛とそれに伴う憎しみがあるより良い」。(箴 15:16,17,新)
食事の真の価値は食卓に出される物にあるのではなく,共に食する人々の心の中のものにあります。真に重要なのは,愛と神に対する健全な恐れです。
18 (イ)お金ももうけ,子供たちの世話をする時間も確保するために,ある親たちはどうしましたか。(ロ)あなたはこのほかにどんなことができると思われますか。
18 子供たちがエホバに恐れを抱くように助ける時間を設け,一方で必要なお金を得るために,多くの場合子供たちに手伝わせながら,手作りの品物を売ったり,家にいてできる仕事をしたりした親もいます。a 国が行なう援助で,自分たちが受ける法的・道徳的権利のあるものをよく活用した人たちもいます。パートタイムの仕事でやっていけるように,生活水準を下げた人も少なくありません。4人の子供を持つあるクリスチャンの婦人はそうしました。「できるだけ子供と一緒にいたいと思いました。父親がいないだけでもひどく寂しいのに,母親までいなくなるのはかわいそうだと思ったからです」と,その人は言いました。もちろん,だれもがそういう都合のよい仕事を見付けられるとは限りません。しかし,子供を信頼し,世俗の仕事をしなければならないわけをよく説明し,できるだけ多くの時間を子供と過ごすようにするならば,このような立場にいる人たちも,家庭の雰囲気を愛のある温かいものに保つことができます。
19 (イ)親にとって『子供を愛すること』は何を意味しますか。(ロ)それはひとりで子供を育てている親にとって必ずしも容易なことではありません。なぜですか。
19 『子供を愛すること』は絶対に必要です。この愛には必要な懲らしめを与えることも含まれます。(テトス 2:4。箴 13:24)懲らしめは,すでに片親を失っている子供に不安を感じさせないようにするのに役立ちます。女性は人によって感傷的になる傾向がありますから,懲らしめを与えるには本当に努力がいるかもしれません。しかし子供は,時に罰を含む懲らしめを受けることによって,自分が親から愛されており,問題に巻き込まれないように親が願っていることを知るという点を忘れないようにしましょう。
20 (イ)ある人たちは,いつも子供のそばにいるようにするために何をしましたか。(ロ)そばにいて子供を正しく育てるなら,どんな二重の祝福がありますか。
20 いつも子供のそばにいるようにしてきた人たちは,次のように提案しています。
「子供と一緒にいる時間を特別に設け,どんなことにもその時間を奪われないようにすることです。家の仕事はいつでもありますが,子供たちはいつもいるものではありません。子供の霊性を築き上げることに心を集中するようにしてご覧なさい」。「子供たちは母親を失ってショックを受けていたので,懲らしめにも理解を加味しなければなりませんでした。私は昼の何時であろうと夜の何時であろうと,機会あるごとに子供に話しかけます。食事の仕度をするときは親子が“打ち解けるとき”です。子供たちが何でも打ち明けて話してくれるのはこのときです」。
そのような愛は通じます。子供たちはそれを見,また感じることができます。子供を育てる際のこうした努力はいずれも楽ではないかもしれませんが,親は子供が成長して責任の果たせるエホバの賛美者になるのを見る満足を存分に味わうことができるのです。またその働きは,親にとっても道徳面で保護となります。―テモテ第一 2:15。
完全な解決策 ― 新秩序
21 (イ)ひとりで子供を育てる親が抱えている問題は容易に解決するものですか。(ロ)忠実な歩みは何を成し遂げますか。
21 「私は毎日のように伝道活動に参加します。勉強もよくし,絶えず祈ります」とある婦人は言いましたが,「でも,毎晩泣き疲れて寝入るのです」と告白しました。確かに,配偶者がいなくてひとりで子供を育てている人が対処しなければならない問題は,容易には解決し難いものです。日々闘いが求められるものも少なくありません。それでも,クリスチャンが毎日忍耐を示すことは,困難な事態になれば人々は神に仕えることをやめるだろうと非難したサタンの顔に,さらに一撃加えることになるのです。(ヨブ 1:9-11。箴 27:11)全く申し分のない生活をしている人は現在一人もいないということに気付いてください。「仲間の兄弟全体」が苦しい思いをしています。(ペテロ第一 5:9)他の人が抱えている問題はあなたの問題とは違うかもしれません。でもその人にとってそれは同じほど深刻なものなのです。あなたの抱えている問題がどんなものであろうと,もっと悪い状態だってあり得るのです。ですから,できるだけ積極的な面をよく考えるように努めましょう。
22 (イ)わたしたちは何に目をとめるべきですか。なぜですか。(ロ)次の記事ではどんなことが取り上げられますか。
22 わたしたちは何よりも,完全な満足をもたらす体制が訪れるという生きた希望に目をとめて離さないようにしなければなりません。使徒パウロは次のように述べています。「わたしたちは,見えるもの[わたしたちを当惑させ倒しかねない患難]ではなく,見えないもの[永遠の命の希望]に目をとめます。見えるものは一時的ですが,見えないものは永遠だからです」。そうです,今日の希望のない体制から来る重圧はついにはなくなるのです。間近に迫っている新秩序の祝福は無限です。その希望に焦点を合わせ,それを常にはっきりさせておきましょう。そうすれば『あきらめることはない』でしょう。(コリント第二 4:8,9,16-18)しかしほかの人たちは,ひとりで子供を育てている配偶者のいない人を何をして助けることができるでしょうか。そのことは次の記事の中で取り上げられています。
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あなたは,やもめや父なし子を「その患難のときに」助けることができますかものみの塔 1980 | 12月15日
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あなたは,やもめや父なし子を「その患難のときに」助けることができますか
1,2 (イ)難儀している人を「黙ってながめること」と「世話すること」との間にはどんな違いがありますか。(ロ)ヤコブ 1章27節によると,真の崇拝にはどんな責任が伴いますか。
難儀している人を黙ってながめることと世話することとの間には大きな違いがあります。真の崇拝は,人を無関心な傍観者から仲間の信者を気遣って世話する人へと変化させるはずです。なぜなら,『わたしたちの神また父から見て清く,汚れのない崇拝の方式は,孤児ややもめをその患難のときに世話すること,また自分を世から汚点のない状態に保つこと』だからです。―ヤコブ 1:27。
2 ヤコブ 1章27節で「世話する」と訳されている元のギリシャ語は,『面倒を見る,必要物を与える』と定義されます。それには,必要な助けを与えるためにだれかを訪問するという意味合いがあります。そうした助けは深く感謝されます。
子供たちは価値ある助けを差し伸べることができる
3,4 (イ)テモテ第一 5章4節によれば,やもめを助けることにだれが関心を持つべきですか。(ロ)片親しかいない子供たちは,どんな面で助けを与えられますか。このような子供たちが与えることができる最も優れた援助とは何ですか。
3 使徒パウロは,やもめたちを助けることに関心を持つべきであることを次のように言い表わしています。「やもめに子どもや孫がいるなら,彼らにまず,自分の家族の中で敬神の専念を実践すべきこと,そして親や祖父母に当然の報礼をしてゆくべきことを学ばせなさい。これは神のみまえで受け入れられることなのです」。(テモテ第一 5:4)この陳述は成人した子供たちを対象にしたものであるとはいえ,年若い人でさえ,自分たちに多くのことをしてくれた親たちに「当然の報礼」をして,敬神の専念を示すことを学べます。どのようにでしょうか。若い人の中には経済的な援助を与える人がいます。例えばある若者は,ふいに生じた負債の支払いをするために,自分がパートタイムの仕事で貯えたお金の全額を提供しました。その母親は顔を輝かせて次のように語りました。「14歳の息子が示してくれたこのような物惜しみをしない態度は,私にとって言い尽くせぬほどの励ましです」。
4 子供たちが金銭の面で貢献できないとしても,より重要なもの,つまり感謝や従順を示すことはできます。(箴 23:22。エフェソス 6:1-3)配偶者のいない親の多くは,「子供を育てることに私は成功しているのだろうか」という疑問を抱きます。では自分の小さな子供が,次のような文面のカードを書いた時の,ある父親の喜びを想像してみてください。「お父さんが大好きです。がんばっておられますね」。では,もしあなたが片親しかいない子供であるなら,自分に対して親が払ってくれている犠牲にどれほど感謝しているか,最近親に話したことがありますか。あなたはすぐに従いますか。すぐに従うということは,分かるでしょうか,文句を言わずにお皿を洗うこと,ごみを外へ持って行くこと,宿題をすること,時間どおりに家に帰って来ること,掃除をすること,そしてとりわけ定期的に聖書の勉強をするということなのです。このように進んで従うということは,親に与える最も優れた援助なのです。
会衆はどのように助けを与えることができるか
5 (イ)「思いやり」を示すことにはどんな意味がありますか。なぜこれは非常に重要ですか。(ロ)わたしたちの会衆は配偶者のいない親に対するこうした「思いやり」をどんな面で示すことができましたか。
5 1歳5か月の双子を含む6人の子供を一人で育てているある女性は次のように語りました。「とても大変で疲れてしまう時もあります。でも時々[会衆内の]兄弟姉妹たちが『ジョーン,よくなさっていますね。その働きは必ず報われますよ』と言ってくれます。他の人たちが自分のことを考えてくれており,世話してくださることを知るだけでも大変助けになります」。これはすべての人にできる援助の方法を物語るものです。使徒ペテロは次のように勧めています。「あなたがたはみな同じ思いを持ち,思いやりを示し合い,兄弟の愛情を実践し,優しい同情心に富み……なさい」。(ペテロ第一 3:8)人の身になって考えましょう。親切な言葉,心の底から出たほほえみは非常に大きな価値があります。批判的であるよりも優しい心を抱いてください。
6 ヨハネ第一 3章17節に描かれているような行動をする人は,まさしく神の前に責めを負うべきです。なぜですか。
6 真の愛には親切な言葉以上のものが伴っています。使徒ヨハネは,愛を行ないによって活動させるようクリスチャンを励ましたすぐ前のところで,次のように書きました。「しかし,だれであろうと,生活を支えるこの世の資力があるのに,自分の兄弟が窮乏しているのを見,しかもその兄弟に向かって優しい同情の戸を閉じるなら,その者にはどんな意味で神の愛が残っているでしょうか」。(ヨハネ第一 3:17)『見る』という言葉の原語は単なる無関心な一べつではなく,まじまじと見つめることを意味しています。その語は,軍隊を査察する将軍に関連して用いられます。確かにその将軍は,関心を抱いて細かいところを調べます。ではヨハネが描いている場面を思い浮かべてみてください。助ける資力があり,自分の兄弟を注意深く見たあとに必要を感じたにもかかわらず,その心の戸を閉ざし,かぎをかけてしまう人がいるのです。助けることを拒んでいます。何と冷淡なのでしょう。感謝すべきことに,こうした消極的な反応は,エホバの証人の中では例外的に,まれにしか見られません。数多くの報告は,これら「窮乏している」人々に対するエホバの証人の寛大さを示しています。
7 困っている,片親しかいない家庭が無視される場合,どんなことが普通問題になっていますか。それはどのように克服できますか。
7 しかし,そうした必要が無視される場合もありました。こうした事が生ずるのは,普通,必要を『見る』ことがないがしろにされてきたからです。窮乏している人に対する関心の伴った『注意深い観察』が欠けていたのです。ではあなたの会衆の状況はどうですか。あなたは本当にやもめや孤児の事情に気を配っておられますか。あなたが,最近,彼らに対して形式的なあいさつ以上のことを行なったのはいつでしたか。彼らをよりよく知るために食事や親ぼくのための集まりに幾人かを招待したことがありますか。こうした質問は,わたしたちが片親しかいない家庭の状況を本当に『見て』いるかどうかを知る助けになります。
8 会衆内のある人は,片親しかいない困っている家庭にどんな援助を与えましたか。
8 援助するために巨額の富は必要ではありません。本当に窮乏している様子を見た多くの人々は,自分の食物を分かち合ったり,子供たちが着られなくなった衣服をあげたりしました。配偶者のいない親たちに縫い物などの技術を教えて,やりくりが上手にできるように助けてあげた人もいます。「魚を与えればその人を一日養うことになる。魚の取り方を教えてあげれば,その人を一生涯養うことになる」という古いことわざがあります。配偶者のいないある親は次のように書きました。「ある姉妹が私にミシンと2枚の長い服地をくれました。そして縫い方も教えてくれました。私はその時以来たくさんのお金をためることができました」。
9 他の人から与えられる助けに関して,片親だけの家庭はどんな平衡の取れた見方をすべきですか。
9 しかし配偶者のいない親が,援助の“洪水”を期待したり,そうしたものが与えられない場合に落胆したりするのは正常なことでしょうか。平衡の取れた見方を保たなければなりません。与えられるどんな助けにも感謝する一方で,「私はこの事態に対処する面でできることすべてをしているだろうか」と自問しなければなりません。そのことについて,配偶者のいないある親はこう述べています。「余分にもう一家族の世話を現実に引き受けることができる人はいません。もし自分で自分のことをしないなら,あなたは自分の全責任を引き受けてはいないのです。あなたは自分の2本の足で立つことを学ばなければなりません」。聖書の中には,他の人からの奉仕を,期待するよりも,自分自身を与えた忠実なやもめたちの例が挙げられています。(ルカ 2:36-38。マルコ 12:42-44)長年努力して,女手ひとつで二人の子供を育て上げた経済的に貧しいある婦人は,1枚の壁掛けを持っています。そこには,「他の人の生活に太陽の光を投げかける人は,それを必ず自分の身に受ける」と書かれています。この婦人は12年間というもの,全時間の福音宣明者として,まさにその通りのことを行なって来ました。自分自身を与え続け,今でも73歳でありながら,他の人々を助けるために自分を与えています。その結果,彼女は決して困窮したことがありません。―箴 11:25。
10 西暦1世紀において,やもめや孤児を援助する面で,円熟した姉妹たちが大きな役割を果たしていたことを何が示していますか。
10 円熟した婦人たちは,間違いなく,1世紀のやもめや孤児を助ける面で重要な役割を果たしました。あるやもめたちは『患難にある人を助けている』と描写されていますが,彼女たちの助けた人の中には片親だけしかいない家族も含まれていたことでしょう。(テモテ第一 5:10)パウロがローマのクリスチャンにあてた手紙の中であいさつを送っている人々の4分の1は,会衆と共に,また会衆のために忠実に奉仕していた婦人たちでした。「主にあって」ほねおって働いている,あるいは労を尽くしていると特筆されている人々もいました。(ローマ 16:3-15)「会衆の奉仕者」であった婦人フォイベ(彼女は非公式な方法で,他の人の個人的な必要を世話していたものと思われる)は,『多くの者の擁護者』と描写されています。フォイベは率先して「多くの者」を助け,そのことは会衆を強めたに違いありません。今日でもフォイベのように,円熟したクリスチャンの婦人たちは,「患難にある人」を助けるために,物質の富を含め,愛ある励ましや援助を与えています。―ローマ 16:1,2。
11 (イ)配偶者のいない親に,円熟した姉妹たちはどんな形の援助を与えることができますか。(ロ)どんな例を挙げることができますか。あなたが知っている他のどんな例がありますか。
11 年老いた多くのクリスチャンの婦人たちは,「良いことを教える者」となることによって霊的また感情的な助けを与えています。それは,分別のある助言を与えることによって,『若い婦人たちに自覚させること』を目的としています。(テトス 2:3-5)一例を挙げると,夫のいないある母親は,結婚に関する聖書の講演を聞いたあとで,涙を流していました。年配のクリスチャンの婦人が,どうかしましたか,と尋ねました。「自分のことをみじめに感じたのだと思います」という涙声の答えが返ってきました。その年配の婦人は彼女と話し始めました。この年配の婦人は,自分自身が20年前に夫から捨てられたので,落胆した時の気持ちをよく知っていたのです。若い婦人はこう語りました。「彼女は私にとって非常に強力な助けとなりました。たくさんのことを話してくださり,一緒に宣べ伝える業にあずかるように招待してくださいました。彼女は私にとても親切でした」。多くの円熟したクリスチャンの婦人たちは,こうした人々の心をつかみ,悩みごとを聞き,クリスチャンの男子ではふさわしく扱うことのできない個人的な問題を話し合うことさえしています。
長老たち ―『やもめの心を喜ばせ』なさい
12 長老たちはどのように『やもめの心を喜ばせる』ことができますか。
12 キリスト教時代以前の人ヨブは,「やもめの心をわたしは喜ばせた」と述べました。(ヨブ 29:13,新)ヨブは,やもめの経験している苦痛を「思いやりました」。無思慮な言葉や行動によって苦痛を増し加えるのではなく,やもめたちの内面つまり心を元気づけるように振る舞いました。今日のクリスチャン会衆の長老たちも,同様に,そうした人々が,会衆は温かな家族であるという確信を持てるようにさせ,また実際に夫のいない婦人たちが会衆という家族の一部であると感じるようにさせることによって,そうすることができます。監督たちは,忠実であることがもたらす祝福を示す,慰めとなる聖書の言葉を分け与えることもできます。配偶者のいない多くの親たちを苦しめている感情的精神的な多大の圧力を理解しようとする面で,「思いやり」は助けになるでしょう。(ペテロ第一 3:8)結果的に,困窮している人々は,助けを求めて監督たちのところに自由に近づけると感じるでしょう。これらの霊的な男子のすべては,確かに,「暴風雨からの逃れ場」のように,「水のない地方の水の流れのよう」になります。―イザヤ 32:1,2,新。
13 配偶者のいない親が,重要な決定を下す際の助けを求めて長老たちに近づくことがあるのはなぜですか。またどんな種類の援助が与えられるべきですか。
13 神はその古代の民の中にいた有能な「助言者たち」を回復される,と聖書には述べられています。(イザヤ 1:26,新)同様に,配偶者のいない今日の親たちも,重要な決定を下す際の助言を長老たちに求めることでしょう。人々が近づいてきたなら,長老たちは「巧みな指導」を与え,その質問者が当面の問題に関係した聖書の原則を認識できるよう助けなければなりません。しかしながら,人々が助けを求めて近づく長老であれ他のだれであれ,その役割は「助言者」のそれであり,他の人に代わって決定を下すことではありません。―箴 11:14,新。ガラテア 6:5。
14 (イ)長老たちは,なぜ誤った歩みをしている人々に「再調整」を施すことを試みるべきですか。(ロ)「再調整」に相当するギリシャ語は西暦1世紀にどのように用いられていましたか。このことを知っていると「再調整を施す」面でどんな影響がありますか。
14 長老は,配偶者のいない親がその圧力ゆえに,未信者とデートをするといったような「誤った歩み」をしていることに気付くかもしれません。その人はそうした歩みの重大さに十分気付いていないかもしれません。聖書はこう勧めています。「兄弟たち,たとえ人がそれと知らずに何か誤った歩みをする場合でも,霊的に資格のあるあなたがたは,柔和な霊をもってそのような人に再調整を施すことに努め……なさい」。(ガラテア 6:1)こうして長老たちであれ他のだれであれ,「誤った歩み」が不法な歩みにならないよう,未然に防ぐことができます。「再調整」というギリシャ語は『繕う』とも訳されています。(マルコ 1:19)それは,西暦1世紀においては,折れた骨を整えることを指す言葉として用いられました。医師は幾らか圧力を加えなければならないとはいえ,たいへん優しく整骨を行ないました。その目的は傷を『繕う』ことであり,それを悪化させることではありませんでした。したがってそうした人々の心をつかみたいと願っている長老たちも,「柔和な霊をもって」穏やかに,しかし明快にその人と論じ,神の言葉の助言を適用することがなぜ自分にとって最善の益となるのかを理解できるよう助けます。こうしてその人を霊的に回復させるのです。
15 (イ)どんな場合に長老たちは,困っているやもめの援助を組織しなければならないでしょうか。(ロ)長老たちが会衆内の他の人々の助けを必要とするのはなぜですか。
15 時々,長老たちが,一人暮らしのやもめの援助を組織しなければならない時もあるでしょう。トリニダード島でのこと,79歳の夫のいないクリスチャンの婦人が末期的なガンという重病にかかってしまいました。そして24時間の看護が必要になりました。この姉妹は政府から少額の援助を受けていましたが,助けを与える親せきは一人もいませんでした。長老たちは,仕事が限られた少数の人の肩にかかることがないよう,自発的に援助を与えるクリスチャンの婦人のチームを組みました。6か月以上の期間に渡ってこれらの婦人たちは,自分たちの霊的な姉妹のために料理をしたり,掃除をしたり,車で運んであげたり,着る物を洗濯したりしました。動けなくなったときには入浴までさせてあげました。この愛の模範は,隣近所の人々に本当に感銘を与えました。こうした場合に長老たちが必要なすべてのことができないのは当然です。長老たちは大抵世話すべき自分自身の家庭を持っています。しかし長老たちは,自分にできることを喜んで行ないます。また,他の人々がこのような状況の下で率先して助けに出かけて行く時,長老たちはそれに感謝します。
兄弟たち ―『父なし子を救出しなさい』
16 (イ)片親しかいない家庭の母親は自分たちの息子に関して主にどんな心配を抱きますか。(ロ)だれがどのように援助を与えられますか。
16 片親しかいない家の母親が,家族に対し,とりわけ息子たちに対し父親の影響力がないことを心配するのは無理からぬことです。ヨブは,『わたしは父なし子や助け手のない者を救出した』と言いましたが,会衆内の男子も同じように感ずるべきです。(ヨブ 29:12,新)大抵の場合,必要とされるのは誠実な関心です。こうした子供たちを,証言活動や王国会館での何かの仕事や健全なレクリエーションに共にあずかるよう個人的に招待することができるでしょう。このような配慮によって,少年がこの世的な生き方に走らないよう「救出し」,会衆に引き寄せることができるでしょう。
17 (イ)『父なし子を救出した』良い模範はだれでしたか。どんな結果になりましたか。(ロ)他の子供たちに助けを差し伸べる際に,結婚した兄弟たちは何を考慮すべきでしょうか。
17 『父なし子を救出した』人の中に使徒ペテロがいます。ペテロはヨハネマルコを助け,彼を「わたしの子マルコ」と呼ぶことさえしています。(ペテロ第一 5:13)マルコの母マリアも夫のない身だったようです。なぜなら記録によれば,ペテロが行ったのはマリアの家であり,その夫の家ではなかったからです。(使徒 12:12)マルコが経験した,ペテロや他のクリスチャン男子との優れた霊的な交わりは,マルコが聖書の本を書くほどの宣教者となる面で役立ったに違いありません。マルコは女手ひとつで育てられなければならない少年たちに対する良い模範です。当然のことながら,結婚している兄弟たちはすべて,自分が聖書的に優先させるべき責任,つまりまず自分自身の家族を世話するという責任を委ねられていることを理解しているべきでしょう。「自分に属する人びと」を無視することはしませんが,不都合にならない程度に,また事情が許す範囲内で父親のいないこうした子供たちに関心を示すことからは,多くの善がもたらされます。―テモテ第一 5:8。
そのような援助のための基礎 ― 自己犠牲的な愛
18 (イ)純粋のキリスト教を見分けるものとなるのはどんな種類の愛ですか。イエスはそれをどのように示されましたか。(ロ)わたしたちはこのような愛をどのように示すことができますか。
18 真のクリスチャンを見分けるしるしとなるのは,単なる愛ではなく,自己犠牲的な愛です。イエスは弟子たちにこう言われました。「わたしはあなたがたに新しいおきてを与えます。それは,あなたがたが互いに愛し合うことです。つまり,わたしがあなたがたを愛したとおりに,あなたがたも互いを愛することです。‥‥‥それによってすべての人は,あなたがたがわたしの弟子であることを知るのです」。(ヨハネ 13:34,35)与えることに関するイエスの模範は,規範となるべきものでした。イエスは「自分を喜ばせることはされませんでした」。また『わたしたちのために貧しい者となられました』。「キリストは‥‥‥わたしたちの罪のために[苦しみの死を通して]ご自身を与えてくださいました」。この愛の模範に見倣うことによって初めて,弟子たちは,やもめや父なし子たちが「患難」の時に必要とする配慮や世話を示すことができました。―ローマ 15:3。コリント第二 8:9。ガラテア 1:4。ヤコブ 1:27。
19,20 (イ)自己犠牲的な愛を示すのはいつでも簡単ですか。その答えの理由を述べてください。(ロ)だれを助けることにわたしたちは特に関心を持つべきですか。
19 圧力が強くなり,自分自身の事柄を世話しにくくなるにつれ,他の人の状態に無頓着になったり,自分自身の生活に気を取られてしまうようになったりするのは容易なことです。「互いに愛し合うべきことを神から教えられてい(た)」西暦1世紀のクリスチャンの中にも,「そのことをなおいっそう行なってゆ(く)」必要のある人がいました。(テサロニケ第一 4:9,10)わたしたちは,不幸な境遇にあるクリスチャンの兄弟姉妹に対する自分の態度や行動を率直に調べてみるべきではないでしょうか。イエスが示されたような愛は,わたしたちが兄弟たちのために自分の命を犠牲にすることを要求します。しかし,兄弟たちのために自分の命を捨てることは喜んでするとしても,「自分の兄弟が窮乏しているのを見(る)」時に,“パン”を分け与えることについてはどう感ずるべきでしょうか。―ヨハネ第一 3:17。
20 自分の聖書的な責任に気を配る人は,例外なく多忙を極めています。わたしたちは,他の人々を助けるためにもっと多くの事ができたらよいのにと願います。しかし,もし自分にできることを進んで行なうなら,エホバはわたしたちの限界をご存じであり,わたしたちの行なうことを高く評価しておられるということを確信してください。「時に恵まれているかぎり,すべての人,ことに信仰において結ばれている人たちに対して,良いことを行なおうではありませんか」― ガラテア 6:10。
患難に耐えるためにすべての人が共に働く
21 (イ)配偶者のいない親は,今日の圧迫に対処するために何を行なえますか。(ロ)会衆内の他の人々は彼らをどのように援助できますか。この援助は重要ですか。
21 以上のことをまとめてみると,配偶者のいない親は,次の事を行なうことによって忍耐できます。(1)今,神に絶えず信頼を寄せ,神がすべての人の願いを満たされる時の永遠の命の希望を仰ぎ見る。(詩 37:3,4)(2)聖書研究と熱烈な祈りを通して神との親しい関係を維持する。(3)王国を証しすること,家事をきりもりすること,子供を育てることなどの有益な業にいつも携わること。自己犠牲的な愛は会衆内の人すべてを動かして,配偶者のいない窮乏している親を助けることの必要性に敏感にならせます。どのようにでしょうか。「思いやり」を持ち,その子供たちに関心を示し,霊的また物質的にその人々を援助することによってです。これらは彼らのためになる優れた行ないのわずかな例に過ぎません。こうした援助はどれほど価値のあるものでしょうか。配偶者のいないある親は次のように語りました。「私は忘れたいと思う不愉快な事柄を数多く経験してきました。しかし,これだけは言わせてください。親切で忠実な兄弟姉妹たちからの助けがなかったなら,私は決して成功することはなかったでしょう」。
22 困窮しているやもめや父なし子を世話することからどんな結果がもたらされますか。
22 そうです,難儀している,片親しかいない家族を心から「世話する」人々は,これらの人々が忠実に忍耐するのを見ることになるだけではありません。(ヤコブ 1:27)そうした人々は,「やもめと,父親のいない子供に助けを与える」わたしたちの天の父の特質をあざやかに反映することにもなるのです。―詩 146:9,基礎英語聖書。
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円熟したクリスチャンの婦人は,物質的な援助を含め,愛のこもった励ましや助けを与えることができる
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何かの技術を学ぶのは,配偶者のいない親が生計を立ててゆく上で助けになる
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あなたは,よりよく知り合うために,片親しかいない家族を食事に招待したことがありますか
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レニングラードにある,聖書に関する貴重な宝ものみの塔 1980 | 12月15日
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レニングラードにある,聖書に関する貴重な宝
出発当初はフィンランドからのごくありきたりの観光旅行でした。観光客としてレニングラードにやって来た夫婦は,聖書に関して特別な事柄を経験できるなどとはほとんど期待していませんでした。観光局のガイドブックには,「宗教文書をこの国に持ち込む事は禁じられている」と書かれていたからです。しかしこの人が,書物としての聖書に関して生涯で最も胸を躍らせる事柄を経験したのはこの都市だったのです。
レニングラードには教会堂が数多くあります
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