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怒りのぶどうを踏みつぶすものみの塔 1966 | 10月1日
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実のために地は,荒廃をもたらす戦争,圧制,恐れ,犯罪,憎しみ,争い,殺人などで酔いしれてきました。現在に至るまで七つの世界強国の不純な指導者の利己的で貪欲な野心のために,無数の人が不慮の死へ追いやられました。世界支配をもくろんだヒトラーおよびその類の者の野心は多くの人を殺し,悪のぶどうの木が助長する病いをひどくする結果になりました。
10 このぶどうの木が,熟した実を沢山つけているのはなぜですか。
10 とくに異邦人の時の終わる1914年まで,神はこのぶどうが成長するのにまかせられました。異邦人の支配を許していた間,神は地の政府に干渉することなく,またそれを覆えすこともされませんでした。しかし今はさばきの時であり,神の側に来て恵みと保護を受ける人々が集められています。神はこの収穫のわざを行なわれています。それから神は強力な天使たちを用い,地のぶどうに注目します。すでに何十世紀を経ているこのぶどうの木は豊富なふさをつけており,その実は熟して踏まれるのに良い頃合いとなっています。今日,悪は頂点に達しました。
11 (イ)祭壇から出てくる第六の天使はだれを表わしていますか。(ロ)彼らはどのようにキリストの霊的な兄弟を助けますか。彼らはぶどうの木を切り倒すことを,これらの霊的な兄弟に命じますか。
11 第六の天使は「地のぶどう」が切り倒されるようにと叫びました。この天使は,犠牲を燃やす火の煙が絶えない祭壇から出てきます。ゆえにこの天使はキリストの霊的な兄第14万4000人の働きをよく知っているに違いありません。この人々は地上にいる間,賛美と良いわざの犠牲を神にささげました。しかも「地のぶどう」の実を食べた者たちから迫害され,苦しめられながらそのことをし,殉教さえしたのです。天使は彼らを助け,このぶどうの木を切り倒すように命じます。ゆえにこの天使は,「仕える霊…救いを受け継ぐべき人々に奉仕するため,つかわされた」天使たちを表わします。(ヘブル 1:14; 13:12-16)地上の神のしもべを導き,彼らに仕えるこれらの天使は,ぶどうの木を切り倒すことを地上のしもべたちに命ずるのではありません。しかしぶどうの木がまもなく切り倒されることを世界に予告するわざに彼らを導きます。
酒ぶね
12 (イ)ぶどうの木が酒ぶねに投げ込まれることは何の保証となりますか。(ロ)どんな比較によって,酒ぶねの大きさを理解できますか。
12 かまを持つ第五の天使はぶどうに対して行動を開始します。「そこで,御使はそのかまを地に投げ入れて,地のぶどうを刈り集め,神の激しい怒りの大きな酒ぶねに投げ込んだ」。切り倒されて酒ぶねに投げ込まれ,実を完全に踏みつぶされるこのぶどうが,ふたたび地に根をおろし,致命的な毒の実で人類を悩ますことは不可能です。この世のあらゆる国を踏みつけるための巨大なものでなければなりません。ヨエルの預言(3:9-14)は,エホバに敵対するあらゆる国が踏みつけられ,滅ぼされる場所を象徴するのに,エルサレムの外にあるヨシャパテの谷を用いています。黙示録の酒ぶねはこの谷よりも大きく,次のように述べられています。「そして,その酒ぶねが都の外で踏まれた。すると,血が酒ぶねから流れ出て,馬のくつわにとどくほどになり,一千六百丁(322キロメートル)にわたってひろがった。―黙示 14:20。
13 「地のぶどう」を踏みつぶす戦いは,実際にどんな規模のものですか。
13 巨大な酒ぶねの大きさは,人類を支配する悪魔の政治制度の滅びが大規模なものであることを強調しています。全地はハルマゲドンの戦いの場所となるでしょう。イザヤ書 63章3節から6節のエホバのことばは次のように述べています。「わたしはひとりで酒ぶねを踏んだ。もろもろの民のなかに,わたしと事を共にする者はなかった。わたしは怒りによって彼らを踏み,憤りによって彼らを踏みにじったので,彼らの血がわが衣にふりかかり,わが装いをことごとく汚した。報復の日がわが心のうちにあり,わがあがないの年が来たからである。わたしは見たけれども,助ける者はなく,怪しんだけれども,ささえる者はなかった。それゆえ,わがかいながわたしを勝たせ,わが憤りがわたしをささえた。わたしは怒りによって,もろもろの民を踏みにじり,憤りによって彼らを酔わせ,彼らの血を,地に流れさせた」。
14 (イ)酒ぶねは何を象徴しますか。(ロ)その大きさおよび踏みつぶされたぶどうの血の量は,何を象徴しますか。
14 ゆえに酒ぶねが,神の敵の軍勢の陥る,追いつめられた状態を表わすことは明らかです。全能の神は総司令官イエス・キリストを用いて彼らをその状態に導き入れます。その時彼らの罪はそのきわみに達していることでしょう。エホバは不敬虔な者をさばきの日まで看守してこれを罰します。それで彼らは現行犯と同罪であり,その罪は全く明らかです。彼らが滅びに値することに疑問の余地はありません。怒りを生み出すぶどうは完全に熟するための時間を神から与えられました。それで機の熟した時に滅びが臨みます。神の酒ぶねは大きく,また完全にととのっているので彼らをひとり残らずとらえ,ひとりののがれるのをも許しません。―ペテロ第二 2:9。
ぶどうは徹底的に踏まれる
15 ぶどうを踏むのはだれですか。人間の足ではなく馬のひづめで踏まれることは,何を示していますか。
15 即位した王イエス・キリストの指揮下にある天使が構成するエホバの巨大な戦いの組織は,この巨大な象徴的酒ぶねの中でぶどうを踏みつけ,ぶどうの木に対する神の怒りをそそぎます。エホバの証人はひとりもこの踏むわざに加わりません。それは昔,モアブ,アンモン,セイル山の連合軍がヨシャパテ王をおびやかした時と同様です。そのとき神は次のように言われました。「この戦争には汝ら戦ふにおよばずユダおよびエルサレムよ汝らただ進みいでて立ち汝らとともにいますエホバの救を見よ」。(歴代下 20:17,文語)ぶどうを踏むのは人間の足ではなくて馬のひづめです。馬は聖書の中で戦争の象徴とされています。それは神の戦いです。しかもそれはかつて地上で行なわれたことのない大きな破壊です。ぶどうの木は非常に大きく,沢山の実をつけているからです。その生み出したぶどうのために地は暴力で満ちています。踏みつぶされたぶどうから流れ出る血は,馬のくつわに届くほどの量になります。
16 酒ぶねを踏むことは,他の聖句にはどのように描かれていますか。
16 黙示録 14章においてぶどうを踏むことにたとえられているこの戦いは,ダニエル書 2章44,45節において,岩のような神の国が世の諸国家を砕くことにたとえられています。ダニエル書 12章1,4節およびマタイによる福音書 24章21,22節によれば,それは世の初めよりかつて無く,また今後もない大患難の時です。イエス・キリストがこの戦いをし,その先頭に立つことは,黙示録 19章11節から16節に示されています。その描写によれば,イエス・キリストは馬に乗る天使の軍勢をひきい,全能者の怒りの酒ぶねを踏みます。
17 (イ)ぶどうはどれほど徹底的に踏まれますか。(ロ)酒ぶねが踏まれた時,生き残る者があることは,ヨエルの予言にどのように示されていますか。
17 それで即位した王イエス・キリストを用いて「地のぶどう」をことごとく踏みつけるわざを,エホバ神が徹底的に行なわれることは確かです。地を病気にしたこの木はその痕跡さえもとどめないため,いま神の警告を真剣に聞く人々が不安や恐れを感ずる必要はありません。その時を生き延びるのは,なんとすばらしい事ではありませんか。それはエホバの保護によってのみ可能です。ヨエルの預言は,酒ぶねの中で諸国民が踏まれることを述べたのにつづいて次のことをしるしています。「エホバ シオンよりよびとどろかしエルサレムより声をはなち天地を震ひうごかしたまふ然れどエホバはその民の避所イスラエルの子孫の城となりたまはん かくて汝ら我はエホバ汝等の神にして我聖山シオンに住むことをしるべし」。(ヨエル 3:16,17,文語)彼らは死ぬことなく,神の新しい事物の秩序に生き残ります。
18 (イ)エホバに仕える人は何を待ち望むことができますか。(ロ)酒ぶねがまもなく踏まれることをエホバの証人が宣べ伝えることは,なぜそれほど緊急ですか。
18 ガンの手術は困難で危険を伴い,患者にとっては苦しい試練の時となります。しかしガンが完全に切除されたならば,手術に首尾よく耐えた患者は歓喜することでしょう。同様に「地のぶどう」が切り倒されて踏みつけられる時は,かつてなかった患難の時です。しかし「地のぶどう」がなくなって神のさばきが地に満ちる時,地に住む者は歓喜します。そのとき御国のまことのぶどうの木が結ぶ豊かな実は,地に住む人々に義を行なうことを得させ,生命と平和をもたらすでしょう。正しい心を持つ人々が事態の重大さに目ざめ,酒ぶねで踏まれることなく保護されるために必要な道をいまとるよう願って,エホバの証人はいま努力を傾けています。彼らが伝えなければならない緊急な警告の音信は,必ずしもすぐには受け入れられません。それでも彼らは宣べ伝えます。それは生命を救うわざだからです。危険な状態を明らかにし,同時に永遠の幸福に通ずる唯一ののがれの道をさし示すために,彼らがなすべき事柄は,黙示録の中につづいて示されています。活気に富んだ黙示録 15章,16章に関する論議は,おって本誌にとりあげられます。
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「アバ,父よ」ものみの塔 1966 | 10月1日
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「アバ,父よ」
● 福音書記者のマルコは,イエスが死ぬしばらく前に,ゲッセマネにおいてエホバ神にささげた祈りの中で,「アバ」ということばを使ったことをしるしています。イエスはこう祈られました。「アバ,父よ,あなたには,できないことはありません。どうか,この杯をわたしから取りのけてください。しかし,わたしの思いではなく,みこころのままになさってください」。(マルコ 14:36)これは自分の愛する父に対する熱心な訴えです。同時に,どのような事態になっても忠実をつくすとの決意をも表わしています。「アバ」はアラミヤ語であり,ヘブル語の「アブ」と同じく「父親」という意味ですが,「アブ」の意味をさらに強くした形です。「アバ」は子供が自分の父親を呼ぶ時の一種の愛称でしたが,英語の「パパ」に含まれるような親しみの情と,「父親」という語にある一種の威厳をかねそなえたことばでした。すなわち,形式ばらない,しかし敬意をこめた呼びかけでした。それゆえ,これは単に父親と言う以上に親しみをこめた呼びかたであり,子供が早く覚えることばの一つでした。使徒パウロの手紙,つまりローマ人への手紙 8章15節とガラテヤ人への手紙 4章6節にこの語がさらに2回出てきます。いずれの場合でも,霊によって生み出されて神の子となるクリスチャンに関連して用いられており,その人々と天の父との親密な間柄を表わすのに使われています。その人々は「神の奴隷」ですが,同時に愛の父の家にある神の子たちであり,主イエス・キリストを仲だちとする神の聖霊により,この立場をはっきり認めています。―ローマ 6:22; 8:15。ガラテヤ 4:6。
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