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  • エホバとわたしたちとの関係を認識する
    ものみの塔 1975 | 8月15日
    • にせよ物質的にせよ,わたしたちの兄弟が困っていることが分かれば,あらゆる面から援助の手を差し伸べます。しかしわたしたちの愛は,霊的な兄弟という狭い範囲に限られているわけでは決してありません。すべての人々,現在神から遠く離れている人々にさえ及ぶほどその愛は広げられています。わたしたちはその人たちに同情心を抱いています。その同情心に動かされてわたしたちは,自分が彼らからしてほしいと望むように,彼らの最善の福祉のために働きます。(マタイ 7:12)イエスの教えた事柄を学ぶことは,彼らにとって命の道を学ぶことになります。わたしたちの王国の音信の伝道は,彼らがエホバと正しい関係を得るのを助け,彼らの福祉に対する最高の気づかいを示すものです。(マタイ 28:18-20)それはわたしたちが彼らに対して善を行ないうる最もすぐれた方法の一つです。わたしたちは喜びをもってあらゆる機会を捕えてそれに参加し,しるしだけの努力で満足しません。そして宣べ伝える機会を増やすことを目標にして,自分の時間と持ち合わせている資力の用い方を絶えず検討します。開拓奉仕や,必要の大きい場所で奉仕することその他を,わたしたちは,わたしたちの愛の純粋の質を本当に示すことのできるすぐれた特権と考えています。

      23 エホバとの良い関係を保つために努力するとき,どんな益がありますか。

      23 このわざは関係者すべての益になります。エホバは,わたしたちが進んで従い,エホバのみ名の立証に努力することを喜ばれます。イエスはわたしたちを,千年統治下の未来の臣民として持つことを喜ばれます。わたしたちの霊的兄弟たちは,暖かい一致のきずなの中でわたしたちと親しくなります。羊のような人々は,わたしたちが愛情を抱いて彼らのために行なったことに対し,いつまでも消えない恩義を感じます。実際にわたしたちの心は,わたしたちとエホバとの関係から生ずるすばらしい祝福を見て歓喜します! 神の『友になる』ことを許され,また「永遠の住みか」で生きる将来を保証されるとは,なんとうれしいことでしょう!―ルカ 16:9。

      24 わたしたちはなぜエホバとの関係を高く評価すべきですか。

      24 エホバは確かに,わたしたちが知る最良の友,最も信頼できる友であることを証明してこられました。親しい友としてエホバを知ることは,わたしたちの生涯で最も心を豊かにする経験です。エホバは「幸福な神」ですから,わたしたちをも幸福にする,という約束をすでに成就しはじめておられます。(テモテ第一 1:11)この友情のきずなをしっかりと固めることに成功すれば,わたしたちの喜びは終わりのないものとなるでしょう。わたしたちは,わたしたちの関係の中に見いだした安全と心の平安と希望を高く評価し,わたしたちの最良の友エホバに,深い,心からの感謝をささげます。

  • りっぱな業に熱心な民
    ものみの塔 1975 | 8月15日
    • りっぱな業に熱心な民

      1 わたしたちがりっぱな業に熱心にならねばならないどんな理由がありますか。

      目的のある人生には意味があります。心と思いとが一つになって価値のある目標を追い求めるとき,人が日々行なうことには意義があり,その人の生活は充実したものとなります。この種の人々は,世の最も幸福な人たちの中に数えられ,目的もなく人生をすごす人は世の最も希望のない部類の人々です。幸福になりたいという自然の望みは,自分のためにもなり他の人々のためにもなる仕事を中心にした生活を築く十分の理由となります。そのような仕事を成し遂げるに当たって示される熱意は,祝福という豊かな報いをもたらします。

      2 (イ)わたしたちはだれの模範に倣うことができますか。(ロ)その模範はどんなりっぱな業をするようわたしたちを動かしますか。

      2 エホバはりっぱな業を行なわれる神です。またエホバはそうした業を完成することに熱心であられます。エホバが行なわれることはすべて,エホバに仕える者たちを益するためのものです。イエスはみ父に倣って完全な模範を示されました。エホバを喜ばせることを望む敬虔な人々も,りっぱな業によって見分けられます。イエスの模範に従おうとするイエスの弟子たちの努力は,イエスのみ父のために,「ご自分が特別に所有する民,りっぱな業に熱心な民」を生み出しました。(テトス 2:14)クリスチャンのりっぱな業は,他の人々を益する業です。わたしたちが他の人のために行なえる最も有益な事柄は,その人がエホバを知ってエホバに奉仕するよう助けることです。クリスチャン会衆が行なっている宣べ伝える業と弟子を作る業は,最大の益をもたらすりっぱな業です。それは必要であり急を要する業ですから,わたしたちが最大の熱意を注ぐだけの価値があります。

      3,4 (イ)熱心とは何ですか。(ロ)わたしたちはどんなことを自問すべきですか。

      3 熱心とは何でしょうか。それは情熱です。正しいこと,ふさわしいことをしたいという真剣な願いです。熱意のあるところには,生気や意気込みや活気があります。結果に対する鋭い関心があれば,成果を得ることに個人的な関心を持ちます。注意を集中し,魂を打ち込んだ精神状態になります。熱意が欠けていると,人の行動はお座なりなものになります。関与するにしてもそれは表面だけです。態度は感情のこもらない,無関心なものです。さて,あなたは熱心な人と言えますか。

      4 そうです。りっぱな業に熱心であるかどうか自問してみてください。会衆の伝道活動に対するあなたの支持は,熱烈な,魂を打ち込んだ支持と言えますか。あなたは,エホバの目的について学ぶよう他の人々を助けるためにできるかぎりのことをしたい,という誠実な願いに動かされていますか。それとも,最小限の関心と努力を払い,ただ参加することだけで満足していますか。本当に熱中することをせずに,奉仕をしているような“様子をしてみせる”だけですか。

      5 わたしたちの態度は,わたしたちの熱意についてどんなことを示しますか。

      5 あなたの態度は,あなたの熱意の程度について多くのことを語ります。本当に熱心な弟子は,重要でない個人的な関心事を,宣べ伝えるわざや弟子を作るわざに優先させて第一にするようなことをしません。りっぱな業にあずかるとき,あなたの参加はいつも時計に支配されますか。からだでは参加していながら精神的にはどこか別のところにいますか。あなたの思いは,好きなテレビ番組とか社交関係の約束など,あとで行なう関心事に集中していますか。奉仕活動は,自分が本当にしたいことに取りかかれるようにさっさとすませてしまうもの,と見られているかもしれません。あなたはそれを単にエホバの証人としての自分の「義務」と考え,心の願いとは関係のない単なる責任として行なうかもしれません。

      6 自己訓練の必要は必ずしも熱意が欠けていることを意味しません。なぜですか。

      6 あなたは外向的な性格の人ではないかもしれません。自分から人に話しかけること,特に知らない人に話しかけることは,あなたにとってたいへんむずかしいことかもしれません。ほかの人たちが自然にやっていることが,あなたにとっては挑戦であるかもしれません。いつも憶せずに話すには,時には自分を強いることさえして,自己訓練をすることが必要かもしれません。しかしそれは必ずしもあなたに熱意が欠けているということではありません。ある意味では,あなたの熱意は他の人の熱意よりも大きいかもしれません。というのは,あなたの行なうことは,余分の努力を要することであり,より強い,より深い確信の表われかもしれないからです。重要なのは,心に真剣な願いを抱いているということです。真の信仰には,エホバおよび仲間の人間に対する愛を外に表わすことが伴うことは,あなたもご存じです。自分の信仰を証明しようとする熱意は,ひっこみ思案な態度を克服する助けになります。熱烈な愛は人への恐れをなくする大胆さを生み出します。その結果公に行なわれる信仰の宣言は,純粋の熱意を表わすりっぱな業です。

      熱心さは基準量によって量られるのではない

      7 (イ)割り当てもしくは目標を定めることが賢明でないのはなぜですか。(ロ)熱心さの真の尺度となるのは何ですか。

      7 全部の人の共通の目標として特定の基準を設け,すべての人の努力を標準化する試みがなされたこともありました。その時には,熱意は多くの場合その目標を達成するか否かによって量られました。その結果わたしたちはいつも自分と他の人とを比べ合う傾向にありました。それは決して愛や熱意の正確な,あるいは是認された量り方ではありませんでした。(コリント第二 10:12)どんなに探しても,最小限の要求としての伝道基準量が述べられているところは聖書のどこにも見当たりません。わたしたちが行なう仕事の量は,わたしたちの熱意に対するエホバの評価とはほとんど関係がありません。エホバは,わたしたちの動機,わたしたちの心のうちにある願いのほうに,はるかに大きな関心をお持ちです。全部の人に対するただ一つの同じ要求は,『魂をこめてそれに携わる』ということだけです。(コロサイ 3:23)神は,広範囲に及ぶ機会を開き,それからわたしたち一人一人に,「ただその心に決めたとおりに行な」わせるのです。「強いられて」するのではないので,わたしたちの努力は,わたしたちの心の中にあるものを実際に反映します。(コリント第二 9:7)わたしたちが心から行なうこと,それがわたしたちの熱意を量る真の尺度となります。

      8 (イ)各人のできることに差があるのはなぜですか。(ロ)重要なのはどんなことですか。

      8 一人一人が心から行なうなら,たとえ行なう量はさまざまに異なっていても,エホバはわたしたちの努力をみな等しいもの,同じものと考えてくださいます。個人の境遇はそれぞれみな違います。年齢,健康,家族をみる責任,世俗の仕事などはみなわたしたちの活動の程度に影響を及ぼす要素です。境遇に恵まれている人は他の人よりも神の王国について多くの人に話すことができるでしょう。責任の多い人はその何分の一かの人々に話すことしかできないかもしれません。境遇が違うために,いくらかの時間も,ある人の場合には特別の努力が払われたことを表わし,他の人の場合にはしるしだけの努力を表わすものとなります。ですから,多くの働きをするわたしたちの能力や機会は誇る理由とはなりません。逆に,自分に原因のない理由で奉仕が少ない場合も,恥ずかしく思うべきではありません。大切なのは,機会があればいつでもそれを利用しようとする熱意を持っていることです。

      9 宣べ伝える業に対する熱意をわたしたちはどんな方法で示すことができますか。

      9 わたしたちの熱意の程度は,もっと多くの奉仕を行なうために『時を買い取る』方法を探し,良いたよりを宣明する機会をつかみかつ利用する機敏さに表われます。(エフェソス 5:15,16)他の責任が時折一時的に軽くなるときに,自由になったその余分の時間を進んでエホバへの奉仕に用いるなら,それは熱意のある立派な証拠です。また,奉仕にもっと多くの時間を取るために自分から率先して境遇を変えるよう事を運ぶのも,最善のものをささげたいという真剣な願いを抱いていることを示す行為です。熱心な伝道者は自分が持っている世俗の仕事を注意深く検討し,その責任を減らす方法を探すでしょう。物質面での利益を考えて不必要な制限を受動的に受け入れるようなことをしないで,むしろ王国奉仕のためにより多くの自由が得られるような調整を求めるでしょう。熱心な人は,王国の関心事をいつも第一にして,自分の時間と資力を最も有利に用いることに努めます。

      10 働き者の農夫はどんな点で熱心さの良い模範ですか。

      10 わざを緊急に成し遂げる必要が大きくなっていることを認識していることも,熱意のある証拠です。働き者の農夫は次のことをよく知っています。つまりよい収穫を得るには,植え付けの時と収穫の時にある期間特別によく働かねばならないということです。彼は個人的に責任を感じていますし,結果にも深い関心を抱いていますから,「労働組合」的な基準,つまり最少限の努力をすればよく,少しでも余分の仕事に対しては余分の報酬を要求するといったやり方に影響されて努力を惜しむようなことはありません。長い時間喜んで働きますし,必要な時には精力的に努力します。もしわたしたちが,他の人々を助けたいという熱意に燃えているなら,自分にはこの程度のことが期待されているだろうかなど考えずに,自分の時間とエネルギーを惜しみなく与えるでしょう。物事を成し遂げる必要があり,そしてそれに力を貸す機会が自分に与えられている場合に,自分を忘れて一身をささげるなら,それは熱意のあることを示す賞賛すべき証拠です。

      りっぱな業は王国の伝道と弟子を作るわざだけに限られてはいない

      11 クリスチャンが行なうりっぱな業とは,宣べ伝えることと弟子を作ることだけですか。もしそうでなければ,他の仕事をどのように見なければなりませんか。

      11 わたしたちは宣べ伝えるわざを強調します。このわざは急を要すのでこれを強調するのは正しいのですが,「りっぱな業」の定義に含めなければならない活動は決してそれだけではありません。「業」は,「多くの場合,なんらかの大きな活動の一部もしくは一面をなすある特定の職務,責務,働きあるいは割り当て」と定義できます。良いたよりの伝道は,クリスチャンが他の人々に対する愛から行なう数々のりっぱな業を含むより大きな活動の一部です。他のりっぱな業を重要でないと考えるのは間違いです。ある業は時に他よりも強調されますが,全体的に見れば,どの業もみな同じように重要です。それぞれが,クリスチャン会衆の強さ,一致,生産性にそれ自身の貢献をします。

      12 テトス 2章1節から10節にはどんなりっぱな業が述べられていますか。

      12 テトスに書き送ったパウロの手紙を見ると,わたしたちはクリスチャンの行なうりっぱな業の範囲が非常に広いものであることを洞察できます。男子は「習慣に節度を守り,まじめで,健全な思いを持ち,信仰と愛と忍耐の点で健全である」ように励まされています。次に婦人は,「夫を愛し,子どもを愛し,健全な思いを持ち,貞潔であり,家事にいそしみ,善良で,夫に柔順である」ことに勤勉でなければなりません。家庭でのこのような振る舞いは,良いたよりの普及に直接に貢献します。神のことばが「あしざまに言われる」ことはないでしょうし,外部の人々は「わたしたちについて俗悪なことを何も言えない」でしょう。そのような振る舞いは究極においては,「救い主なる神の教えを飾る」のに役立ちます。(テトス 2:1-10)したがって,そうした振る舞いもまたりっぱな業であって,クリスチャンが熱心に行なってしかるべき業であることは明らかです。

      家庭内でりっぱな業を生み出す

      13 (イ)どんな質問は,親が子どもの福祉に対する自分の熱意を量る助けとなりますか。(ロ)そのような熱意はどんな益を生みますか。

      13 親のみなさん,あなたはお子さんに愛を示すことに熱心ですか。子どもの福祉を心から案ずるということは,ただ必要品を与えるとか,集会に連れて行く,毎週一回一緒に聖書の勉強をする,というだけのことではなく,それ以上のことを意味します。子どもの福祉に対する熱意は,子どもが必要としている事柄や子どもが抱えている問題すべてに対する誠実な関心となって現われます。ご自分に尋ねてみてください。神のご要求について子どもがどう考えているか,わたしは本当に知っているだろうか。将来直面するかもしれないいろいろな問題を克服する用意をさせただろうか。誇り,利己主義,怠惰などの弱点を子どもが克服するよう助けるために,常に気を配っているだろうか。子どもが学校で教わっていることや,この世的な考えにどの程度影響されているかを,わたしは知っているだろうか。わたしの子どもは問題がある時に自分から進んでわたしのところへ来るだろうか,それともわたしのほうが子どもをつつかなければならないだろうか。子どもの表情や声の調子で,何かまずいことがある,とすぐに推察できるだろうか。それを聞き出す際に忍耐強いだろうか。わたしには理解と同情心があり,自分の愛を子どもに絶えず確信させているだろうか。子どもを知り,子どもの問題を理解し,子どもを霊的に助けようと本当に努力するとき,あなたはりっぱな業を行なっているのであり,そのわざは結局あなたの家族に祝福となり,また地域社会にあってはエホバのみ名に対する証言となります。

      14 妻は家庭内でどんなりっぱな業に熱心になれますか。

      14 女性がより攻撃的に,また自主的になる傾向は,家庭内で多くの争いを引き起こしており,離婚

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