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あなたの讃美の犠牲を正しくささげよものみの塔 1957 | 1月15日
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四つぐらい採りあげ,そして聖書の何処にあるかだけを記憶しなさい。それから,戸口のところでそれらの聖句を順序良く用い,一つ一つの聖句を読みながら,簡単に説明しなさい。機械的に聞える覚えこんだ言葉というものに制束されませんから,丁度毎日の会話の時のように,あなたは必要な言葉を臨機に述べながらも,いろいろと考えをめぐらして行くことができます。そうする時にのみ,あなたの誠意と熱心は表わし示されるのです。そうするときにのみ,あなたの自然の個性と暖かさ,そして親しさは輝くのです。違つた状況に応じて用いるいろいろの聖句を用意することができます。野外奉仕に用いる聖書のうしろの頁に,聖句の群をいくつか記しておくこともできます。それぞれの群には,聖書の話をするための覚え書が入つているのです。
聖書の話を始める
9 ありふれた口実に打ち克つため,どんな参考意見が述べられていますか。
9 多くの人々はいろいろの目的で家から家に行きます。それで,ベルが鳴ると,家の人は妨害をうけたことに一寸不快を感じ,早く追払おうという気持でもつて戸口のところに来ます。家の人はいくつかの口実を持つていますが,しかし,たいていの場合あなたのことをチラッと見て,話を聞き,そして結論をつくりあげてから初めて,どの口実を言おうかと決定します。それから,その口実を言つて断ります。みなさんは,そのような口実をしばしば聞いていますから,その口実に対しては全く論理的に反論することができるでしよう。しかし,一度その口実を言つてしまうと,家の人は,誇りを傷つけたくないために,その口実を固執するものです。もし,その口実がどんなもであるかを前もつて見こし,家の人が言う前に反論するなら,家の人の誇りは傷つけられず,あなたの言葉をみな聞くかもしれません。簡単に自己紹介をしてから,家の人がありふれた口実の一つを選ぶ前に,出し抜けにこう言うことができます,『私たちがお家を訪問すると,或る人々はすぐに……と言います』こうして,口実の一つを言います。それは,家の人がいま使おうとしていた口実でないかも知れません。しかし,恐らくはしばしば用いていたものでしよう。それですから,あなたがその口実を言うとき,ちよつとのあいだ虚をつかれた形になります。家の人は,自分が時々使うこの口実に関するあなたの次の言葉はどんなものか,とすこし好奇心を持つかもしれません。家の人に興味を感ぜしめるために,次の言葉を良いもの,注意をひきつけるものにしなさい。そうすれば,家の人はあなたの話を終までずつと聞くかもしれません。
10 『今日は間に合つています。』という言葉に対してはどのように対処しますか。
10 訪問の目的を簡単に近べてから,このように言うこともできます,『私たちがこのような訪問をしますと,ある人々は「今日は間に合つています。」と言います。しかし,間に合つているという人々について述べているイエスの言葉に耳を傾けて下さい,「あなたは,自分は富んでいる,豊かになつた,なんの不自由もないと言つているが,実は,あなた自身がみじめな者,あわれむべき者,貧しい者,目の見えない者,裸な者であることに気がついていない。」明白に分るように,イエスはこのことを文字通り実際のもの,と意味したのではありません。霊的な面で彼らがこのような貧しい状態である,とイエスは意味したのです。』口実に打克つための聖句,黙示録 3章17節(新口)を用いて後に,二つか三つの別の聖句を用いて,聖書の話を完結することができます。アモス書 8章11節を用いて,霊的な飢饉がひろがつていること,そして多くの教会があつて,多くの人々は霊的に養われている,と考えているが実際にはそうでない,と示すことができます。マタイ伝 5章3節を読んで,霊的な必要物を意識している者は,充されるということを示しなさい。このときに,文書を提供することができます。そして,これらの出版物は霊的な食物を供給するものである,と言うことができます。それから,特別に面白い箇所のある節を選んで読み,霊的な食物であることを証明しなさい。
11,12 『忙しい』という言訳をどのように聖書の話に採り入れ,かつ反論することができますか。
11 別の例はこうです,『みなさんのお宅を訪問しますと人々は忙しいんです,と良く言います。神は怠け者を憎みますから,忙しいのはけつこうなことです。しかし,小さな事柄に忙し過ぎて,より重要な事柄に関しての時間が無い,などというようなことがあつてはなりません。或る時,イエスは二人の姉妹の家にいました。マリヤは神の真理を説明するイエスの言葉に聞き入つていましたが,マルタはマリヤが家事を手伝つてくれないことに不平を言いました。聖書にこう書かれています,「マルタは接待のことで忙がしくて心をとりみだし,イエスのところに来て言つた,『主よ,妹が私だけに接待をさせているのを,なんともお思いになりませんか。私の手伝いをするように妹におつしやつてください。』主は答えて言われた,『マルタよ,マルタよ,あなたは多くのことに心を配つて思いわずらつている。しかし,無くてならぬものは多くはない。いや一つだけである。マリヤはその良い方を選んだのだ。そしてそれは,彼女から取り去つてはならないものである。』ヱホバとイエスは,聖書を通して私たちに語つておられます。もし,私たちがその言葉を聞かないなら苦しい時に神の助けを願い求めても,神が私たちの叫びを聞かれる,などということはあり得ないでしよう。』― ルカ 10:40-42,新口。
12 あるいは次のように言うこともできます,『あるお宅の方は,とても忙しい,と言います。でも,仮に私が100ドルの金をあげる,と言うなら,家の人はとても忙しくてその金を受け取れない,などとは言いません。しかし,聖書の言葉に耳を傾けてごらんなさい,『知恵を求め得る人,および聰明をうる人は幸福なり。そは知恵を得るは,銀を得るに勝り,その利は精金よりも善ければなり。知恵は真珠よりも貴し,なんじのすべての宝もこれと比ぶるに足らず,その右の手には長き生命あり,その左の手には富と尊貴とあり。その途は楽しき途なり。その径すじはことごとく平康し。これは執る者には生命の樹なり。これを持つ者は幸福なり。」どんなに忙しくてもお金を受け取ることができるなら,どれ程忙しい場合でも永遠の生命に通ずる知識を受け取ることができるはずです。』― シンゲン 3:13-18。
13 『興味がない』という言訳にたいしては,どのように反論することができますか。
13 私たちの訪問している目的を知ろうとする前に,多くの人々は興味がない,と告げると言つてから,次のように言葉を続けることができます,『しかし,事柄を聞く前に答をする人について聖書は何と述べているか,御存知ですか。こう述べられています,「いまだ事を聞かざる先に応うる者は,愚にして辱をこうぶる。」』家の人が,興味がない,と言つてから後では,この聖句を使わないで下さい。それはあまりに露骨です。その家の人を愚か者,辱をこうぶる者と呼んでいるのと同じようです。しかし,最初にこの点をとり上げるなら,前述の聖句シンゲン 18章13節を用いることができます。なぜなら,他の人々にその聖句を適用していることになり,あなたと今話している人に適用しているわけでないからです。同じことは,次の例にも言えます。
14 物の十分にあるところでは,しばしばどういう言葉が言われますか。それには,どのように対処しますか。
14 物質主義的な国々で,物が十分にあるところでは,人々は充ち足りている,と言つてピシャリと断ります。『或る人々は聞くことを拒絶し,「私のところでは万事具合良く行つているし,充ち足りています」と言います。しかし,神は充ち足りている人々に関心を持つていないのです。神は充ち足りていない人々に関心を持つておられるのです。ずつと昔,神は或る者たちに印をつけて,救いましたが,そのときこう言われました,「邑の中エルサレムの中を巡れ。しかして邑の中に行わるるところのもろもろの憎むべき事のために歎き悲しむ人々の額にしるしをつけよ。』今日ヱホバは,正義を愛する人々に関心を持つておられます。そのような人々は,今日の地上で行われている腐敗した悪しき状態に決して満足していません。真面目な人で,このような腐敗した状態に満足している人はひとりもないでしよう。真面目な人々は,清い政府を欲しており,不道徳や偽善を終らせたいと思つているのです。そして,自分自身や自分の家族にたいし,また正義を愛するすべての人にも健康と生命を望んでいるのです。現在の悪しき状態を見て,それらの人々は歎き悲しみ,より良い事柄を願い求めます。』このエゼキエル書 9章4節の聖句を用いた後に,マタイ伝 5章4節を使用することができます。この聖句の示すところによると,歎き悲しむ者は慰められ,霊的な食物を求める願は神によりかなえられ,そして正義の新しい世ではそれらの人々の願はことごとくヱホバにより充たされるでしよう。これらの点を証明する為に詩篇 145篇16節と黙示録 21章4節を用いることができます。
15 さらにどんな提案が与えられていますか。
15 また,時には普通一般になされる宗教的な反撥を取上げることもできます。たとえば次のようなものです,『時折,みなさんは,こう言います,「誠実でありさえすれば,神は私を救うと信じます。私の考えで良いと思うことをするだけが,神の要求せられている全部のことです。」しかし,聖書はそう述べていません。「人の自ら見て正しとする道にしてその終はついに死にいたる道となるものあり。」』この後に,ガラテヤ書 1章8節とヨハネ伝 17章3節のような聖句を用いて,私たちが真理に従わねばならぬこと,そして人間的な考えから判断して正しいと思うものに従つてはならぬ,と示すことができます。誠実であれば良い,という口実を反論する為に,シンゲン 14章12節が用いられました。同じくヨハネ伝 16章2節,使徒行伝 26章9節またはロマ書 10章2,3節の聖句を用いるのも,きわめて適当なことです。聖書の話をいろいろの変化に富ますことができます。人々の用いる口実や,普通一般になさる宗教的な反対や,または興味をひきつけるものを考えなさい。それからできるなら聖句を用いて,早く答弁しなさい。そうするなら,聖書の話をすぐ始めることができます。前述の例は,そのようにできる,という可能性を示すのであつて,みなさんが用いねばならぬ,というものではありません。明瞭な近づき方を行い,自分に適している点また自分をよろこばす点を聖書を用いつつ話して行きなさい。そうすれば,あなたは熱心に溢れ,個人的な熱意と確信をもつて聖書の話をすることができます。戸口における聖書の話について述べられたことは,再訪問の聖書の話にも適用するものです。ただ違う点は,一つか二つ多い聖句を用いて,聖書の話をすこし長くするだけです。戸口における聖書の話を述べることと,頭の中に筋書をつくることについての同じ助言は,家の中にいてする長い再訪問の話にも適用いたします。
16 私たちはいま何を為すべきですか。
16 最善をつくしてヱホバ神の御旨にかなう奉仕者になろう,とつとめましよう。ヱホバ神の言葉を熱心に研究し,そして,疵のない牛や唇の実,すなわちヱホバ神の神に嘉納される讃美の犠牲を神に捧げましよう。ヱホバ真理を深く考え,心の中で繰り返し思い,そして公やけの人々に宣伝えることのできるものにしなさい。また散らされている他の羊の気持をひきつけ,さらに山羊からの反対にも覆えされないような一番良いものにしなさい。恵みをもつてそれを宣伝えなさい。また柔和と巧みさのうちに,そして私たちの霊的な讃美の犠牲にともなわねばならぬ象徴的な塩をつけてそれを宣伝えなさい。そのとき,それらの言葉は,ヱホバに忠節を保つ真実で真の言葉となります。また,永久性のある言葉であり,かつその言葉を聞いてうけ入れ,そして従う人人には保全の力となる言葉です。そのような犠牲の言葉を言うとき,私たちはヱホバの食卓を卑しめる,などの罪を決して持ちません。私たちはその食卓から,あらゆる国にいる善意者のすべての人に対して肥えたるもので一杯となつているヱホバの御馳走を与えることができます。
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聖書中の手ものみの塔 1957 | 1月15日
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聖書中の手
すばらしい仕方で人間の役に立つ手は,創造主の愛と智をたしかに表わし示します。手は全く有益なものであり,かつたくさんの技術をすることができます。それですから,聖書は手について多くの注意を向け,実際的にもせよ,又は象徴的にもせよ,2000回ぐらい手について言及しているのも不思議ではありません。
実際の手は,ものを測るために用いられました。手幅といえば,3インチであり,手の平一杯と言えば,9インチ,すなわち1キュビトの半分でした。
宗教的な絵は,しばしば祈りをするときの手をいつも握りしめているものに表わしています。しかし,聖書の何処を見ても,そのようなことは書かれていません。かえつて,聖書が繰り返し述べている言葉によると,祈をする人々は掌をひろげた,つまり,手を天に向つて上げていました。
ヱホバの御名によつて誓がなされるときには右の手が上げられました。アブラムは,甥のロトを救い出したとき,ソドム王のものを一つも取らないと誓つてそういたしました。
握手は約束を確めるために用いられました。或るイスラエル人たちが外国人なる妻を出す,とエズラに約束したとき,そういたしました。(エズラ 10:19)パウロとバルナバが諸国民への伝道に遣わされたとき,初期の教会の柱として重んじられていた人々は,二人に『交わりの手をさし伸べた。』― ガラテヤ 2:9,新口。
担保を与えるつまり質物を与えることは,証人たちの面前で手を叩くことによつて示されました。
権威を持つ人々は,人に手を置いて特定な職務に任命しました。モーセがヨシユアに手を置いて任命した場合がそうです。同じように,使徒たちは7人の上に手を置きました。かくしてその7人は食物の配分という宣教上の助けをするようになつたのです。また,使徒たちが特定な者に手を置くとき,聖霊が注がれました。アロンとその子たちが祭司職に聖別されたとき,彼らの手は実際の献げものでいつぱいであり,象徴的には「力で充ちて」いました。それが,『聖別する』『即ける』『任職する』といろいろに訳されているヘブル語の意味なのです。そして,罪にたいする贖がつくられたとき,手は動物の犠牲の上に置かれました。―レビ 8:32。
聖書はまた,罪人の手には血痕がついていて,血で一杯であり罪人は信仰と悔改め,そして正しい業によつて手を洗わねばならぬ,と強くすすめています。有罪を感じたピラトは,イエスの死に対する責任を逃れるための象徴として実際に手を洗いました。
聖書は,しばしば神の手について語つています。神の右手は,恩恵の象徴です。クリスチャンは,神の力すなわち大能の手の下に謙遜であれ,と告げられています。ヱホバの手からその力は行使されます。そして人各自の働きに応じて,神は善や祝福や,保護を与えるか,又は罰や亡びを与えます。
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