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聖書はあなたを助けるものとなり得ますかものみの塔 1975 | 3月15日
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同じオランダのあるエホバの証人は,死にひんしていた男を生きる理由を知るよう助けることができました。ある晩,自宅の窓から外を見ていたその証人は,道路の反対側で騒ぎが起きているのに気付きました。もしかすると子どもの事故があったのではなかろうかと心配したこの証人は,現場へ急ぎました。そこには首つり自殺をした男の人が,死んだようになって地面に横たわっていましたが,まだ命は保たれていました。証人が直ちに人工呼吸を施したところ,男の人は意識を取り戻し,それから病院に収容されました。
この男の人は,生活に疲れたために自殺を図ったのです。彼は将来に対する希望を少しも持っていませんでした。また,家庭内の事情はみじめなもので,妻が家庭を切り回していました。
回復してから,その男の人は助けに来てくれた証人を家に呼びました。ほどなくして,この男の人とその妻と五人の子どもたちとの聖書研究が始まりました。そして,その聖書研究のために,「とこしえの命に導く真理」と題する本が聖書と共に用いられました。最初に考慮されたのは,「幸福な家庭生活を築く」と題する章でした。聖書の助言を適用することの知恵を全員が悟ったので,数週間後にはその家庭生活は良い変化を遂げました。こうして,幸いにもこの男の人は新たな生き方を見いだしました。
非常な事情のもとにあった人が聖書のおかげで助けられたのであれば,大小を問わず種々の問題に対処するのに聖書があなたを助けるものになり得ると考えるのは,理にかなっていませんか。どうすれば家庭生活や他の人との関係を改善できるかに関する聖書の助言は,あなたにとって有益なものではないでしょうか。エホバの証人は,あなたが聖書を研究するのを,喜んでご援助いたします。
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読者からの質問ものみの塔 1975 | 3月15日
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読者からの質問
● この世の知人や親族の結婚式に出席することをエホバの証人はどうみなしますか。
出席を考えているのが未成年者の場合,最終的な決定は親にかかっています。その他の場合に,それは個人的に決定すべき問題であり,クリスチャンは各自自分の責任を進んで負わねばなりません。しかし,考慮すべき聖書の種々の原則や多種多様な事情があります。
結婚の儀式は宗教建造物の中で僧職者によって執り行なわれるかもしれません。そうなると,それは純粋に民事上の儀式とはかなり異なってきます。真のクリスチャンは,聖書の教えに反するものであることを承知の上で,そのような性質の祈りや礼拝に加わったり,あずかったりすることは良心上行なえません。また,一線を越えずどれほど背教行為に近づけるかを知りたいなどとも考えません。クリスチャンには聖書の次のような命令に留意する義務があります。「不つりあいにも不信者とくびきを共にしてはなりません。義と不法になんの交友があるでしょうか。……また,忠実な人が不信者とどんな分を共に持つのでしょうか。……『それゆえ,彼らの中から出て,離れよ』とエホバは言われる。『そして汚れた物に触れるのをやめよ』」― コリント第二 6:14-17。
この世の親族や知人の結婚式に出席するよう招待された人が,時としてかなりの問題に直面する場合があるのはもっともなことです。例えば,クリスチャンの妻とその不信者の夫に招待が差し伸べられており,夫は夫婦そろって結婚式に出席すべきだと考えるかもしれません。ところが,妻はそのことで心配し,もし教会での結婚式に出席すれば,周囲からの感情的な圧力に負けて間違ったことをする恐れがあると考える場合もあるでしょう。一方,夫の希望を考慮して,妻はいかなる宗教的な行為にもあずかるまいとの決意をいだいて,単に丁重な傍観者として夫に同伴できると結論するかもしれません。
妻がこの問題をどう見るにしても,自分の立場を夫に説明しておくのは妻にとって有益なことです。夫は妻の説明を聞いて,妻が同席すると恐らく自分にとって不愉快な事態が生じるかもしれないと結論すれば,独りで行くことにするかもしれません。あるいは,それでもなお夫は,妻を黙って傍観する者として同伴したいと考えるかもしれません。その場合には妻は同行するかどうかを自分で決めなければなりません。
考慮に価する事柄がありますが,それは,宗教建造物内での結婚式に出席する場合,その行為が仲間の信者に与え得る影響です。その行為はある人たちの良心を傷つけ
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