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    ものみの塔 1964 | 7月15日
    • クリスチャン婦人にはかぶりものが必要 ― 何時?

      男は,神のかたちであり栄光であるから,かしらに物をかぶるべきではない。女は,また男の光栄である。―コリント前 11:7。

      1 (イ)男はどのように神の栄光となりますか。またこの事は妻にとってどのように助けとなりますか。(ロ)女はどのように男の光栄となりますか。

      神権的な秩序の原則に従って神に奉仕する男女は,創造主である神に栄光とほまれをもたらします。男として家族のかしらのつとめを忠実にはたし,一家の生計を支えるかせぎ手になると同時に愛と忍耐をもって家族の霊的な必要をも顧みる人は,ご自分のかたちに人を造った神に栄光となります。(創世 1:26)このような人は家族にとっても祝福となり,妻であり伴侶である女性のつとめを楽しいものにするでしょう。一方,夫に対する妻の立場を正しく認め,夫をかしらとして敬い,夫をもりたてる貞叔な妻は,男の光栄となります。―コリント前 11:7。

      2 (イ)かぶりものの必要が起きるのはどんな原則のためですか。(ロ)婦人のかぶりものに関して,大切なことは何ですか。

      2 男のかしらの地位を得ようなどとはせず,神によって定められた,男に対する女の立場を守ることによってのみ,女は「男の光栄」となります。事情に応じて婦人の頭にかぶりものの必要な場合があるのはそのためです。前号の「ものみの塔」の中で見たように,かぶりものの必要を説いたコリント前書 11章のパウロの論議は,神権的なかしらの地位の原則に基づいています。パウロは3節に次のように述べました「すべての男のかしらはキリストであり〔会衆ではない〕女のかしらは男であり,キリストのかしらは神である」。そこで普通には夫あるいは献身したクリスチャンの男子の行なう務を婦人が行なっているとき,それは一時的にか,あるいはその時の特別な事情のために行なっているのであって,その場合にかぶりものが必要となります。大切なのはかぶりもの自体ではありません。大切なのは心の態度であり,かぶりものを着ける婦人の神権的な良心です。それが神の定めであることを理解し,おもに神に対する尊敬また性別に関連して神の定められた物事のとりきめに対する尊敬の気持から,かぶりものを着けなければなりません。そうすべき時にかぶりものを着けるだけでなく,そうすることによって尊敬を受けるかしらの地位を正しく敬うときにのみ,婦人はこの事に関して清い良心を保てるのです。

      3 献身した婦人がかぶりものを必要とする三つの基本的な場合は何ですか。

      3 1926年までは,集会に出席するとき会衆内のすべての婦人がかしらにおおいを着けました。(1926年9月8日号「黄金時代」,780-791頁。「新しい創造」1904年271,272頁。「シオンのものみの塔」1907年12月1日号,360,361頁)献身した婦人がかぶりものを必要とするのは,根本的に言って次の三つの場合でしょう。すなわち,(1)夫の面前で祈り,または教えなければならない時(2)献身した兄弟がその中にいるグループを教えるとき(3)資格のある男子がいないために,会衆の集会において祈り,あるいは司会するときです。これと,これの後につづく記事の中で,それぞれの場合を順にとりあげます。

      かぶりものと妻の服従

      4 男女のどんな特定な関係に関連して,かしらの地位と服従の問題が起きますか。

      4 男に対する女の関係は根本的には結婚における関係であり,夫と妻の関係です。クリスチャン会衆内における婦人の服従を論じたテモテ前書 2章11節から13節およびコリント前書 11章3節から16節の使徒パウロの言葉は,最初の男と女の創造にふれて両者の関係を述べ,最初に造られた男にかしらの地位が与えられたことを示しています。そこで結婚関係において,クリスチャンの妻は,夫が自分と同じく福音の奉仕者であってもなくても,正しい服従を示すでしょう。

      5 (イ)家庭において聖書の勉強と祈りを指導するのは当然にだれですか。(ロ)ゆえにこれらの事に関連して,婦人には何時かぶりものが必要ですか。

      5 では結婚関係においてかしらである夫に対する服従のしるしとして,婦人がかぶりものを必要とするのは何時ですか。もう一つの質問をするとき,答はおのずと明らかになるでしょう。夫と妻と子供が一緒にする家族の勉強が司会されるとき,あるいは祈りがささげられるとき,当然これらの事をするのはだれですか。もちろん夫です。家族のかしらである父親は家族を教え,「エホバの権威ある教え」によって子供を育て,また家族を代表して神に祈ることを普通には期待されています。(エペソ 6:4,新世)しかし献身したクリスチャンでない夫が,献身した妻の司会する研究に出席するならば,妻は司会したり祈ったりするとき,かしらにおおいをしなければなりません。夫のいるとき普通には夫のする務を,妻がしているからです。もちろん夫がその場にいなければ,妻のかしらにおおいは必要ありません。自分の子供を教えることは妻の特権と責任でもあって,そうすることはかしらの地位を横どりすることではないからです。しかし夫のいるとき,妻が研究を司会したり,祈りをするとすれば,かしらをおおってその事をします。なぜならば夫が真理を受け入れ,これらの務を自分で行なうようになるまで,妻は一時的にかわりをつとめているに過ぎないからです。

      6 妻が別の家で司会している聖書研究に,献身していないその夫も出席したとき,どうなりますか。

      6 家の外においても原則は同じです。妻が他の人の家で聖書研究を司会している場合,聖書に好意的な関心を持つゆえに夫が妻と一緒にその家を訪問したならば,妻は祈ったり,司会するあいだ,かしらにおおいを着けます。他の男の人たとえば献身していなくても聖書に関心を持つ,その家の主人が研究に出席していても,彼女がかぶりものを着けるのは,その男の人とは無関係です。その男の人は彼女のかしらでも,会衆のメンバーでもないからです。このような場合のかぶりものは,かしらである夫だけに対する服従のしるしとなります。

      7 食卓においてはどうですか。

      7 食卓についている時も同様です。献身していない夫から求められるならば,妻は祈ることができます。しかしかしらにおおいを着けてその事をしなければなりません。しかし献身していない未成年の子供と一緒に,夫の留守に食事をする場合,祈るときにかぶりものの必要はありません。

      献身した男の子に関連して

      8 家族の中に献身した息子がいる場合,祈りに関してどんな事態が起きますか。この場合,母親は何時かぶりものをしますか。

      8 しかし夫が留守でも,献身した息子のいる場合にどうすべきですか。もちろんこの息子が成年に達しているならば,どうすべきかという問題はおきません。当然,息子が祈りをするからです。しかしまだ子供で,たとえば十代になって間もない息子であれば,どうなりますか。その場合,子供に祈ってもらうかどうかは,母親の判断にまかされています。その子供はまだ母親の保護の下にあり,従って母親の監督の下におかれています。この観点から子供はたしかに母親を「敬」わねばなりません。(エペソ 6:2)そこで献身した年若い息子に祈ってもらうか,それとも子供が祈りをするのはまだ少し無理かも知れないと考え,あるいはその時の事情を考えて母親が自分で祈るかどうかは,母親の決定にまかされているのです。しかし自分が祈るときには,かしらをおおって祈るべきでしょう。献身した息子と研究する場合にも,同じことがいえます。それはなぜですか。

      9 献身している,未成年の息子に関連して母親がかぶりものを着けることには,どんな要素が関係していますか。これはどのように母親の立場を強めますか。

      9 献身した息子はいま会衆のメンバーであり,従ってこの息子を教えたり,その面前で祈ることは,献身して,しかも円熟した男子が当然にしなければなりません。家においてこの事をするのは普通には父親です。そこでこのような事情の下においてかしらをおおうことにより,母親は母親としてするべき以上のことをしているのです。そしてかぶりものは,彼女が夫つまり子供の父親のかわりをつとめていることを表わします。かしらをおおうことによって,母親は神権的な秩序を乱すことなく,献身している息子に対して霊的な事柄につき神権的に振舞うことができるようになり,母親の地位はいわばそれだけ強められたと言えるでしょう。家族の崇拝と無関係な他の事柄においては,子に対する母親としての立場から子供をしつけたり,教えたりすることが当然にでき,しかもかぶりものの必要はありません。

      10 こうして母親は,献身した息子に対してどんな手本を示しますか。献身した父親にはどんな重い責任がありますか。

      10 このような母親は,献身した息子に対し,神権的な婦人の振舞いというものを自らの手本によって教えています。これは息子がやがて妻と家庭を持つようになった時にも,息子を大きく益するものとなるでしょう。また献身した男子である自分に対して母親の振舞いが女の立場にふさわしくないといった不平が息子から出る余地もなくなります。同時に献身した母親は,息子が円熟に成長し,必要な時には家族を正しく代表してエホバに祈ることのできるように,息子の成長に関心を払うでしょう。もちろん夫も献身したエホバの証者であれば,家族の一員である息子が献身したいま,家族のかしらのつとめを自らよくはたすように,ますます努めるに違いありません。息子にいま必要な進歩した訓練を施すことができ,またそうしなければならないのは父親です。―箴言 23:19,24。

      献身していない人の祈り

      11 次のそれぞれの場合に,献身した婦人は献身していない配偶者の祈りに対してどう振舞いますか。(イ)夫が心の正しい人で適切な祈りをするとき。(ロ)その祈りが神のことばと一致していないとき。

      11 妻が真理を受け入れてエホバの証者となった家庭において,真理を受け入れない夫が食卓で家族のために祈る場合も考えられます。夫が心の正しい人で自分自身やがては献身する道を進んでいるならば,神のことばの真理に一致した正しい祈りを誠実にささげることでしょう。献身した婦人はその祈りに和して良心的に「アーメン」と唱えることができます。夫が家族のかしらであることに変りはなく,従って家族の崇拝を導くのは当然です。しかし夫が神のことばに少しの関心も示さないか,あるいは聖書と一致しない宗教上の信念を抱いていて,それが祈りに反映しているならば,真理を知る妻は夫の祈りに「アーメン」と言えません。夫が祈っているあいだ,妻は自分と子供のために無言の祈りをささげることができます。その祈りがエホバに聞かれることはたしかです。

      12 (イ)どんな事情のとき,食卓のまわりに手をつないで祈るのはクリスチャンにとって正しいことではありませんか。(ロ)これが極端でないのはなぜですか。

      12 祈るとき手をつなぐことを習慣にしている家族があります。これは祈りに和することを表わしますから,エホバ神の真の崇拝に心をむけていない,献身していない人が祈るとき,手をつなぐのはクリスチャンにとってふさわしくないと言えるでしょう。それで真理にいない人でこれを習慣にしている家族から食事に招待された時には,この事に注意しなければなりません。だいいち祈りの中でどんな言葉が出るかもわからず,食卓のまわりに手をつないでしまったために,「アーメン」とは言えない祈りに和した形になることは望ましくありません。しかしそれは極端すぎると言う人があるかも知れません。ところが決してそうではないのです。祈りは崇拝の事柄であって軽々しく扱うべきではなく,エホバのみ心にかなっていると同時に清いものでなければなりません。清い良心を保つために,献身したクリスチャンはエホバの真の崇拝以外のどんな崇拝にも関係せず,たとえそのように見えるだけの事でも避けることを望むでしょう。―コリント前 10:20,21。コリント後 6:14-18。

      13 (イ)排斥された夫が食卓で祈るとき,どうすべきですか。(ロ)家族にかわって祈ることをその夫から求められたとき,献身した妻はどうしますか。(ハ)これはかぶりものの問題にどう影響しますか。

      13 夫がクリスチャン会衆から排斥されて,なおその状態にある時は,難しい事態が生じます。妻は主人である夫になお従いますが,夫と霊的な交わりをすることはできません。聖書に照らしてそれは明らかです。(ロマ 16:17)これは食卓における祈りの問題にどう影響しますか。食卓で夫がどうしても祈るというなら,妻は口に出して「アーメン」と言うことはもちろん,無言のうちにであっても,夫の祈りに同調することはできないでしょう。妻は夫の祈っているとき,あるいは後で適当と思われる時に,自分自身の祈りを無言のうちにエホバにささげることができます。夫の面前で家族のために祈ることを,排斥された夫から求められたならば,妻はそれを断らねばならないでしょう。しかしたとえ夫の面前であっても,自分と子供たちのために無言の祈りをすることはできます。ただそれは夫の指図によるのではありません。これからわかるように,この場合にかぶりものの問題は起きません。排斥された配偶者の面前で妻が教えたり,あるいは声を出して祈ることはないからです。

      不信者の夫に対する振舞い

      14 (イ)かぶりものをする必要が時にあるにしても,クリスチャンの妻はエホバの目に美しさを保つため,とくに何に留意しますか。(ロ)夫の行いが良い原則に一致していない時にはどうしますか。

      14 真理にはいっていない人すなわち献身していない人を夫に持つ,忠実な婦人の奉仕者は,夫の面前にいるとき,かぶりものを着けなければならないことが時にあります。このような婦人は,かしらに着ける服従のしるしに一致した振舞いをすることを望むでしょう。エホバの目に美しいかどうかは,かぶりものによって服従を形式的に示すことだけで決まるのではありません。妻の立場を慎しみ深く守り,常に「夫を敬」うことに美しさががあるのです。(エペソ 5:24,33)しかし真理をきらい,妻の行なうエホバの崇拝をきらう夫ならば,夫を敬えといっても無理な話だという人があるかも知れません。もちろん神に反対する考えや,神をけがす言葉,きたないことばを尊敬することはできません。しかしたとえこのような事情の下においても,夫が当然に占めるかしらの地位を尊敬することによって,エホバの定めに少しでもさからうような行いを避けることができます。たとえば,どんな夫であっても,婦人は他の人の前で夫をけなすべきではないでしょう。

      15 不当な苦しみを受けることについて,献身した婦人にはどんな手本がありますか。

      15 非常に気難しい,あるいは乱暴な夫を持つ婦人は,イエスの手本を見て慰めを得ることができます。ペテロ前書3章の冒頭の句に注目して下さい。「同じように,妻たる者よ。夫に仕えなさい」。同じようにと言ったのは,なんの事ですか。一つには,ペテロはそのすぐ前にクリスチャンの僕のことを述べています。それはイエスにならったために不当な苦しみを受けた僕です。イエスは,不当な苦しみを受けた時にどうすべきかを私たちに教える手本を残しました。ペテロはイエスのことを次のように書いています,「ののしられても,ののしりかえさず,苦しめられても,おびやかすことをせず,正しいさばきをするかたに,いっさいをゆだねておられた」。そこで不当な仕打ちに耐えなければならない妻も,クリスチャンの僕に命ぜられていること,またイエスのなさった事を行ない,いっさいをエホバにゆだねることができます。この忠実な行いは,やがてエホバから報いられるでしょう。―ペテロ前 2:18-23。

      16 (イ)ペテロはクリスチャンのどんな服従を論じ,またどんな助言を与えていますか。(ロ)相対的な意味で夫に従うにしても,クリスチャンの妻はどんな二つのことを考慮しなければなりませんか。またどんな決意を持つべきですか。

      16 僕は主人に仕えることを命ぜられていますが,なかには「気むずかしい主人」もいます。そこでペテロはこう述べています,「もしだれかが,不当な苦しみを受けても,神を仰いでその苦痛を耐え忍ぶなら,それはよみせられることである。悪いことをして打ちたたかれ,それを忍んだとしても,なんの手柄になるのか。しかし善を行って苦しみを受け,しかもそれを耐え忍んでいるとすれば,これこそ神によみせられることである」。(ペテロ前 2:18-20)僕の場合と同じく妻の場合にも,その服従は相対的なものです。神のみ心と良心を考慮しなければなりません。それでたとえ夫が頑固であり,献身したクリスチャンとしての妻の立場に真向うから反対しても,忠実な婦人の奉仕者はエホバのみ心を行なうことを誓った自分の献身を常に固く守ります。それと同時に,エホバの定めに従って夫に対する妻としての自分の立場をも忠実に守ろうとするでしょう。それが時には非常に困難でも,彼女はそうします。

      17 不信者の夫は妻のどんな行いによって真理を受け入れるかも知れませか。

      17 幸いなことに,すべての夫がそれほど強硬に反対するわけではありません。ただ非常に多いのは,真理に全く無関心のように見え,新世社会と交わることに少しの意欲も示さない夫です。その場合にどうすべきですか。先にペテロ前書 3章1,2節から読んだ事柄を思い起こして下さい。「妻たる者よ。夫に仕えなさい。そうすれば,たとい御言に従わない夫であっても,あなたがたのうやうやしく清い行いを見て,その妻の無言の行いによって,救に入れられるようになるであろう」。このような夫が真理を受け入れるかも知れないのは,一つには夫に貞節に仕え,夫を深く敬う妻の行いのためです。―コリント前 7:16。

      18 妻の服従という点で模範的な妻は何を保ちますか。これはだれにとって特別な祝福となりますか。

      18 このような忠実さのゆえに,クリスチャンの妻はエホバとクリスチャン会衆の前に常に霊的な美しさを保ちます。このような妻を持つ献身した男子は,そのことの祝福を十分に認識しなければなりません。このような妻はまさしく夫の光栄だからです。自分の夫がまだ真理を受け入れていなければ,クリスチャンの妻は夫を敬いつつ,貞叔な行いをつづけます。それを見る夫は自分が良い妻を持ったことを幸いに思い,真理を受け入れるようになるかも知れないからです。そのことは夫と妻にとってなんとすばらしい祝福になることでしょう!

  • 婦人のかぶりものと会衆の活動
    ものみの塔 1964 | 7月15日
    • 婦人のかぶりものと会衆の活動

      1,2 かぶりものはどのようにクリスチャン婦人の美しさをひき立てますか。かぶりものに関連していま何を論じますか。

      上品なかぶりものは婦人の美しさと魅力をひきたてます。クリスチャンの服従のしるしとして着けたときそれは価の高い霊的な美しさを増し加えます。この後の目的でかぶりものを着ける場合クリスチャン婦人は人目につく,はなやかなものを着けないにしても,自分の身なりを適度にひきたてる,自分に似合うものを着けるのは決して悪いことではありません。

      2 前の記事(3節)の中で,クリスチャンの服従のしるしとして婦人がかぶりものを必要とする三つの基本的な場合を述べました。その最初のものについては十分に論じましたから,あとの二つを考えてみましょう。この二つは会衆での婦人の活動と関連しています。

      3 (イ)兄弟と連れ立って家から家に伝道するとき,姉妹にはかぶりものが必要ですか。なぜ?(ロ)しかし他に何を考えることが必要ですか。

      3 まずエホバの証者の野外宣教の見地からこの問題を考えてみましょう。すなわち戸別訪問,再訪問,家庭聖書研究の司会の場合です。たとえば献身した男子の奉仕者と共に家から家の宣教に携って聖書の話をするとき,婦人はかぶりものをする必要がありますか。聖書から見て,その必要は少しもないように思われます。良いたよりの伝道は婦人にも委ねられた務です。(マタイ 24:14)それは兄弟の地位を奪うことではありません。男子の奉仕者が婦人の奉仕者と連れ立って行くのは,巡回の僕あるいは会衆の監督が婦人の奉仕者と一緒に行く場合のように,婦人を宣教に援助するために行くのであって,婦人から教えられるためではありません。再訪問の場合にも同じことが言えるでしょう。しかし良心の問題にも留意して下さい。このような場合にかぶりものをすべきであると感ずるる姉妹があるかも知れず,もし良心がそう命ずるならば,かぶりものをすることは少しもさしつかえありません。

      4 (イ)献身した兄弟の前で姉妹が祈ってもよい場合がありますか。(ロ)献身した兄弟の出席している聖書研究を司会するとき,なぜ姉妹はかぶりものをすべきですか。

      4 しかし聖書研究の場合には事情が異なります。献身した兄弟が姉妹の家庭聖書研究について行く場合,祈るのはかならず兄弟です。兄弟が発声の機能を失ったというような,ごく特別な理由でもない限り,姉妹はたとえかぶりものをしていても,献身した兄弟の面前で祈ることを決してしないからです。しかし訓練の目的で,姉妹が研究を司会することはできます。もっともその場合にかぶりものを着けなければなりません。なぜですか。これは家から家に,あるいは再訪問して聖書の話をする以上のことです。それはあらかじめとりきめた時間に行なう聖書の研究であり,祈りによって始められる正式な研究です。研究の司会は,献身した男子である会衆の成員が出席している集まりを司会するのと実質的に変りません。このような集会を司会するのは普通は兄弟です。それには組織だって教えることが関連しています。(テモテ前 2:12)しかし特別な事情つまり聖書研究に姉妹を訓練するという目的のために,姉妹は研究を司会できるのです。しかしその場にいる会衆の男子の成員を尊敬するゆえに,姉妹はかぶりものをして研究を司会します。

      5 (イ)献身していない男子の伝道者が姉妹と共に聖書研究に行ったとき,だれが祈るべきですか。(ロ)この場合,姉妹はかぶりものを着けるべきですか。なぜ?

      5 会衆と交わっている男子で,まだバプテスマを受けていなくても福音の伝道者として会衆に報告を出している人が,姉妹と一緒に聖書研究に行く場合もあるでしょう。この場合にどうすべきですか。その人は献身していないゆえに,献身した姉妹を正しく代表してエホバに祈ることはできません。従って研究の際の祈りは姉妹がすべきでしょう。しかし研究を司会することは,その男の人がするかも知れません。しかし姉妹のほうは,祈るとき,また研究を司会するならばその時にも,かぶりものを着けます。この男の人は本当の意味でまだ会衆の成員ではないにしても,やがてはそうなるはずであり,また外部の人から見れば,伝道している以上この人は会衆の成員です。またこの人は従順の道を歩んでいます。

      6 献身した新しい兄弟のために姉妹が聖書研究を司会するとき,どのようにしますか。

      6 献身した兄弟の益をはかって,姉妹がその兄弟との家庭聖書研究を司会するという場合もあります。姉妹がこの人に伝道し,一緒に研究し,献身とバプテスマに導き,奉仕に援助したかも知れません。男子の伝道者が少ないために,「神を真とすべし」と「これは永遠の生命を意味する」の本を終えるまで,姉妹自身がこの新しい兄弟との家庭聖書研究をつづけることになるかも知れません。新しい兄弟はまだまだ学ぶことが必要です。そしてこの場合,兄弟を援助できる人と言えば姉妹のほかにはありません。このような事情ならば,姉妹は研究を司会するとき,当然にかぶりものを着けます。もっとも祈りをするのは,献身した新しい兄弟です。

      7 (イ)姉妹が新しい兄弟を野外奉仕に援助することについては,何が言えますか。(ロ)兄弟に助言を与えないにしても,姉妹は兄弟が宣教に上達するのをどのよう助けますか。

      7 もちろん初めのうちは,姉妹がこの兄弟を宣教に援助しなければならない場合もあります。もっともどの程度までこの事をできるかは,それぞれの場合の事情によることであり,姉妹は良い分別を用いなければなりません。宣教において男子が婦人と連れ立って行くことは,とくに一方または両方が既婚者である場合,誤解を招くおそれがありますから,できるだけ避けるべきです。このようなことが全く考えられない国もあります。そこでなるべくは別の方法を講ずるのがよく,たいていの会衆では,この新しい兄弟を援助できる兄弟がいることでしょう。援助できる兄弟が会衆内にいなければ,もう一人の姉妹が加わって3人で一緒に行くのも一つの方法です。このような事情のために,姉妹が新しい兄弟を伴って奉仕に出ても,それは普通の訓練計画ではありません。姉妹は自分の伝道方法を新しい兄弟に見せることによってその兄弟を援助できます。しかしその伝道の仕方について,兄弟のするように助言を与えてはなりません。このように姉妹は助言することをしませんから,かぶりものの必要はありません。しかしここでも良心が関係してきます。もし兄弟から提案を求められるならば,姉妹は何時でも協会の出版物に書かれている事柄を示すか,あるいはそれぞれの場合に自分がどうするかを説明できます。しかし福音を伝道する兄弟のやり方を批評することはしません。事情に応じて巧みに振舞う分別を持ち,かしらの地位に関する聖書の原則を心に留めているならば,姉妹はこのような事情の下でも兄弟の役に立つと同時に,かしらの地位をも尊重した振舞いをできるでしょう。

      会衆の集会において

      8 (イ)会衆の集会において婦人にかぶりものが必要なのは,原則的に言うとどんな場合ですか。(ロ)野外奉仕のための集まりにおいては,どんな事態が起こるかも知れませんか。どのように行なうべきですか。なぜ?

      8 エホバの証者の集会において婦人がかぶりものをする必要は,大多数の会衆においてまず起きません。すでに述べた通り,ここであてはまる原則は,資格のある男子がいないため,姉妹が会衆の集会において祈ったり,司会する場合,かぶりものが必要であるという原則です。このような事態は,たとえば野外奉仕前の集まり,おそらくは週日で姉妹だけしか奉仕に出ない場合の集まりに見られます。このような場合,エホバへの奉仕に出かける前にグループのために祈りをささげることが必要であり,まただれかが集まりを司会しなければなりません。(エペソ 6:18)これは会衆のとりきめる集会であり,祈りをする姉妹や司会する姉妹は,普通ならば兄弟のする務を行なっていますから,たとえ集まっているのは姉妹だけでも,かしらにおおいを必要とします。書籍研究の司会者に任命されている姉妹は,司会するとき,また献身した兄弟が出席しておらず,従って自分が祈るときに,かぶりものを着けなければなりません。

      9 奉仕会,宣教学校に参加するとき,姉妹はそのことをどう見るべきですか。普通この場合にかぶりものは必要ですか。

      9 実演に参加するとき,経験を語るとき,あるいは会衆の宣教学校において実演の形で研究生の話をするとき,姉妹はかぶりものを必要としません。このような場合,姉妹は会衆において司会をしているのではなく,兄弟たちを教えたり,指図しようとしているのではありません。従ってかぶりものを着けなくても,聖書の原則を破ったことになりません。むしろ姉妹たちは会衆内のすべての人の徳を高めるのに貢献しています。この理由で,どの姉妹も経験を語ったり,実演に参加したりしてプログラムに参加する自分の役割を低いものに評価してはなりません。

      会衆の婦人の奉仕者

      10 (イ)ロマ書 16章1節に述べられているように,今日エホバの証者の会衆においてどんな事態が起きますか。(ロ)ギリシャ語の監督という言葉は何を意味しますか。それはだれを指して用いられますか。

      10 ロマ書 16章1節において,フイベは「ケンクレヤにある教会の執事」と呼ばれています。その務が何であったかはわかりません。しかし明らかにフイベの場合にそうであったように,今日でも資格のある兄弟の不足のために姉妹も会衆内のしもべの地位に任命されることがあります。会衆の僕の務をはたすように任命されていることもあります。しかしこの場合,姉妹を監督とは呼びません。ギリシャ語エピスコポスは「検閲の目的でおとずれる者」という意味であり,このような地位は献身した男子のみが占めるべきものと考えられるからです。監督となる男子は結婚しているならば,一人の妻の夫でなければなりません。テモテ前書 3章1節は「もし〔男の〕人が監督の職を望むなら,それは良い仕事を願うことである」と,正しく述べています。

      11 会衆の集会において婦人が祈り,または司会するとき,かぶりものはどんな目的をはたしますか。

      11 会衆の僕である姉妹あるいは献身してバプテスマを受けたどんな姉妹であっても,治める性質の仕事つまり普通ならば監督,補佐の僕たち,研究司会者の行なう務をはたすとき,かぶりものを着けることが必要です。姉妹はその時の事情のために一時的に男子のかわりをつとめているのであり,かぶりものを着けることによって,神権組織に対する自分の関係を正しく尊重していることを良心的に表わしています。またかぶりものは,先走ったり,あるいは黙示録 2章20節に描かれているテアテラ会衆の場合の如く,会衆に非神権的な影響を及ぼすことのないように戒めるしるしともなるでしょう。

      12 資格のある兄弟が出席していないとき,どのように「ものみの塔」研究を行ないますか。司会する姉妹および節を読む姉妹のかぶりものについては何が言えますか。

      12 例をあげて言うと,会衆の「ものみの塔」研究を司会する姉妹は,すでに述べた会衆の書籍研究を司会する姉妹,またこのような集会で祈りをする姉妹と同じく,かぶりものをして司会しなければなりません。また坐ったままこれらのことをするにしても,かしらのおおいはやはり必要です。姉妹がかしらをおおって司会する集会は,たいてい小人数の集まりですから,普通には前に立って司会する必要がないでしょう。「ものみの塔」研究でさえ,たいてい普通の会衆の書籍研究ていどの集まりですから,書籍研究の場合のように車坐にすわり,聴衆に面した司会者も,ほとんど坐ったままで司会できます。節を読む姉妹は自分の席から読みます。読む人のかしらにおおいは必要ありません。教えることをしているのは「ものみの塔」誌です。資格のある兄弟がおらず,そのうえ出席者が多いため,すべての人に聞こえるように姉妹は立って読むかも知れません。その場合にも,これは集会において教えたり,司会したりすることではないため,かぶりものを着けなくてもよいのです。読み手は話をしているのではなく,「ものみの塔」の節を読んでいるに過ぎません。しかしここでも,かぶりものを着けるほうがその場にふさわしいと考える姉妹もあるでしょう。それでこれはその姉妹の良心に従って決める事柄です。ふだんでもかぶりものをしている人ならば,真の崇拝を行なっているあいだ,かぶりものをとる必要はさらにありません。

      13 奉仕会において普通に話の形でとりあげられる資料はどのようにしますか。

      13 献身した男子のいない場合,奉仕会や神権宣教学校はどのように行なうべきですか。これらの集会を司会する姉妹は,かぶりものをしてその事をします。資料のとりあげ方については次のことを心に留めて下さい。すなわち会衆において教えるのは,男子のメンバーの務であるという事です。それで会衆を教える話の形で資料を述べる性質のものは,いっさい避けなければなりません。ある事柄を話の形たとえば「ものみの塔」の資料を基にした話の形でとりあげることが「御国奉仕」に指示されているならば,姉妹の一人が聴衆の中に坐ったままで雑誌の記事なり,一部分なりを読むことになります。雑誌の記事のどの部分を読むかは,どれだけの時間があるかによって決まります。そこで特定の節を前以て割当てておき,資料を読む姉妹がその場で適当に判断することのないようにします。

      14,15 (イ)宣教学校において講話,第一,第二の研究生の話は,どのようにしますか。(ロ)質問と答による討議はどのようにしますか。

      14 宣教学校において,講話その他ふつうには兄弟に割当てられる話の資料をとりあげる方法も同様です。姉妹は聴衆の中に坐ったままで,出版物の指定の箇所にある資料を読みます。この場合,かぶりものの必要はありません。このようにして姉妹ばかりの会衆でも,他の会衆においてとりあげられているのと同じ資料を全部学ぶことができます。

      15 聴衆が参加して行なう質問と答による討議は有益です。このような討議の司会が姉妹に割当てられたとき,かぶりものを着けてそのことをします。たとえ坐ったまま,司会するにしても,これは集会における司会という性質をもった事柄だからです。

      16,17 学校の僕をつとめる姉妹は,(イ)学校にはいっている姉妹。(ロ)会衆と交わり,学校にはいっている新しい兄弟をそれぞれどのように援助しますか。

      16 学校の僕をつとめる姉妹の場合,どうすれば会衆において実際に教えることをせずに,研究生に助言を与えられますか。姉妹は教訓を与え,批評する者のように振舞っているという印象を与えないように努めるでしょう。しかし協会の出版物を引用して提案を述べ,他の姉妹を援助できます。こうすれば協会の出版物が教える者の働きをすることになります。姉妹でも,助言用紙にしるしをつけることができます。また援助を求める研究生に対しては,何時でも個人的にいっそうの援助を与えます。

      17 しかし男の人が交わり始め,献身し,学校にはいるとどうなりますか。この人が学校の僕の務をはたす資格を身につけるまでは,ひきつづき姉妹が学校のしもべをつとめるでしょう。しかし姉妹のしもべはこの兄弟の話に助言を与えません。また助言用紙にしるしをつけることもしません。しかしこの新しい兄弟が話す能力を改善するため,巡回の僕の訪問中に話をする割当を受けると良いでしょう。巡回の僕は助言を与え,助言用紙にしるしをつけます。もちろんこのような訪問の合間にも援助を望むかも知れません。そこで学校のしもべである姉妹に,たとえば特定の難しい点について提案を求めることができます。姉妹は協会の出版物の中から該当する箇所をさがすのを助け,あるいはそこに述べられている話し方の原則を理解するように援助できるでしょう。しかし直接に助言を与えることはしません。

      18 兄弟の話を通訳する姉妹のかぶりものについてはどうですか。

      18 兄弟の話を通訳する姉妹のかぶりものについて,疑問の出たことがあります。この場合に姉妹は自分の話をしているのではなく,話を伝えているに過ぎません。従ってこの観点から見れば,かぶりものの必要はないと言えます。しかし同時に,通訳をつとめる婦人にとって,かぶりものをしたほうが気分的に楽ということもあるでしょう。とにかく大きな聴衆の前で目立つ立場ではあるし,またすすめや助言を述べる講演者の感情をそのまま伝えるために,通訳することばの中に気持と力をこめることも必要でしょう。そこで兄弟を教える者となっているかの印象を与えないため,かぶりものを着けることを望むかも知れません。それでこれはその姉妹が自分の良心に従って決めるべき問題です。

      19 (イ)かぶりものに関するこの記事の目的はなんですか。(ロ)たいての場合,姉妹はかぶりものをどうするかについて,どのように知ることができますか。

      19 敬虔な婦人に関するこの記事は,かぶりものの問題が起こるあらゆる場合を論じて,それぞれの場合の規則を定めることではありません。できる限りいままでに述べたのは,かしらの地位とかぶりものに関する原則および神の民の会衆内においてこの原則をどのように行なうかを示す例です。それは「すべてのことを適宜に,かつ秩序を正して行なう」ためであり,新世社会内の忠実な婦人の奉仕者が清い良心と神権的な美しさを保ちつつ,エホバへの奉仕においてどう振舞うべきかを知るためです。(コリント前 14:40)かぶりものの目的と,婦人がかぶりものをすべき基本的な場合を心に留めているならば,まずたいていの場合,どうすべきかに迷うことはないはずです。―前の記事の3節を見て下さい。

      20 (イ)ある姉妹は良心のゆえにどうするかも知れませんか。その事をどう見るべきですか。(ロ)かぶりものが日常の習慣になっている場合,献身したリスチャンの婦人は何を心に留めるべきですか。(ハ)かぶりものが日常の習慣になっていない場合,かぶりものを必要とする時には何をすることが賢明ですか。

      20 かぶりものを必要としない場合のあることも述べましたが,それはこのような場合にかぶりものをしたほうが気楽に感ずる姉妹を決して批評するものではありません。このような姉妹の良心またこの事においてどんなとがをも避けようとする願いは,たしかに尊重されねばなりません。人中また男子の前では何時でもかぶりものを着けるのが婦人の習慣となっている国もあります。大切なのは,聖書から見て,夫あるいはクリスチャン会衆の男子の成員に対する服従のしるしとしてかぶりものの要求されるとき,姉妹がこれを意識することです。たとえかぶりものをするのが日常の習慣であっても,姉妹はそれを思い起こさねばなりません。かぶりものが日常の習慣ではない場合,献身した男子のいない集会の一部を司会したり,あるいは祈りをするためにかぶりものの必要の起こる可能性があれば,前以て姉妹に知らせておくほうが良いでしょう。そうすればその場になってあわてる必要はありません。

      21 クリスチャン婦人は今日どんな信仰の試練にあいますか。それはどのように克服されていますか。

      21 この終りの時の証言に忠実な婦人がこのように大きな役割をはたしているのは,エホバのご準備によるのであり,私たちはそのことをエホバに感謝しなければなりません。エホバの証者の新世社会にいる忠実な婦人の奉仕者は,多くの問題を克服しなければなりませんが,エホバの助けによってこのような問題を克服しつつあります。多くの婦人の場合に,その家庭はひとつの信仰に結ばれてはいません。それでも献身していない夫に相対的な意味で服従することは必要であり,従ってその信仰は常にためされます。またエホバの民と集まり,福音の公の伝道に参加するためには,毎日のように反対に直面しなければならないかも知れません。ソ連,東ドイツその他共産主義と独裁支配の国々において,忠実な婦人はエホバのみ心を行なうための献身を忠実に守り,そのために兄弟と共に刑務所や収容所の生活に耐え,また生命の危険さえもおかしています。

      22 新世社会内の婦人の奉仕者は何を成しとげていますか。それは何の証拠ですか。

      22 たいていの国で,エホバの証者の家から家の伝道また聖書研究のわざは,これら忠実な婦人の奉仕者の手によっておもに行なわれていると言えるでしょう。男子よりも婦人の成員のほうが多い会衆もあります。また宣教に参加するにしても,たいていは婦人のほうが時間に恵まれています。この時間を活用し,また人々をおとずれる時に親切,忍耐,同情,理解を示すことによって,婦人の奉仕者は御国の音信を人々に容易に受け入れられるものにします。そして多くの人を真理に導き,家庭聖書研究を司会して正しい知識を与え,人々を強めます。このすべては,割当てられた区域に御国の福音を伝道するため,会衆の組織を忠実に支持している証拠です。

      23 新世社会はその婦人の奉仕者をどのように見ますか。婦人の奉仕者は今後とも何をし,どんな結果を得ますか。

      23 箴言 31章は,勤勉で忠実な婦人がその家族や他の者に祝福となることを述べ,ついで彼女自身がどのように祝福されるかを28節と31節に述べています。「その子らは立ち上がって彼女を祝し,その夫もまた彼女をほめたたえて言う。その手の働きの実を彼女に与え,その行ないのために彼女を町の門でほめたたえよ」。新世社会はその中にいる忠実な婦人の奉仕者の価値を高く評価しています。(ペテロ前 3:4)これらの婦人が今後ともその手の働きの実を楽しみ,またエホバの定めに従って婦人の立場を守ることによって新世社会を美しいものにし,エホバに賛美,婦人たち自身には永遠の祝福をもたらし得ますように。

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