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神の奉仕者とはだれのことですかものみの塔 1981 | 6月15日
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の礼拝や説教壇からの伝道同様高く評価されている」。
また,ラムソン対合衆国事件(1955年)の審理に際し,米国第7巡回裁判区上訴裁判所は,「戸別にまた街角で神から与えられた使命として伝道するエホバの証人の奉仕者と,壇の上から説教をしたり教会学校で教えたり自分の教会の他の様々な宗教活動を行なったりする,より一般的な宗教の奉仕者<ミニスター>とを……区別するのは正当な」ことではないと言明しました。
これらの奉仕者がその奉仕の務めに全時間を当てていないという事実は,奉仕者であるとのその主張に不利な影響を与え,彼らを奉仕者としての資格に欠ける者としたでしょうか。そのようなことは決してありません。使徒パウロでさえ自分自身および自分と共にいる人たちの生計を支えるために世俗の活動に従事したからです。(使徒 18:3,4; 20:33,34)この見解は,米国第5巡回裁判区上訴裁判所におけるウィギンズ対合衆国事件(1958年)の次のような判決の中でも支持されました。「エホバの証人の奉仕者は……神から与えられた使命として奉仕の務めを行なう資金を得るために,世俗の仕事に従事せざるを得ない。……審査の規準となるものは……その者がたまにではなく,定期的に,神から与えられた使命として自己の宗教の原則を教え伝道しているかどうかである」。
それでは神の奉仕者とはだれのことでしょうか。神と隣人に仕えることを生活の主要な目的としている,献身しバプテスマを受けたクリスチャンにほかなりません。(マルコ 12:28-31)続く三つの記事もお読みください。
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婦人も「奉仕者」になれますかものみの塔 1981 | 6月15日
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婦人も「奉仕者」になれますか
今日,プロテスタントの女性牧師がますます増えています。ある教会では婦人が夫と共に説教壇に立っています。多くの修道女は,カトリック教会が婦人をも僧職者つまり司祭として叙任するよう声高に求めています。これまでのところ,法王はその願いを受け入れていません。
この問題について人間の知恵の示す事柄またわたしたちの意向や好みが何であれ,イエス・キリストの誠実な追随者すべてに関する限り,神の言葉に表明されている「上からの知恵」が決定要素となります。―ヤコブ 3:15-17。
神の言葉は,イエス・キリストが,男性だけを十二使徒と70人の福音伝道者に任命して,一つの先例を残されたことを示しています。(マタイ 10:1-4。ルカ 10:1)この先例に倣って,使徒パウロは男性だけを会衆の長老(および奉仕の僕)に任命しました。(テモテ第一 3:1-13。テトス 1:5-9)さらに,パウロはテモテに次のことを思い出させました。「わたしは,女が教えたり,男の上に権威をふるったりすることを許しません。むしろ,静かにしていなさい」― テモテ第一 2:12。
しかし,他の聖句から見て,この制限は会衆内にのみ適用されることが明らかです。婦人が会衆の集会以外で宣べ伝える者や宣明する者,つまり「良いたより」の奉仕者<ミニスター>になれることは,ヨエル書 2章28,29節の預言から分かります。使徒ペテロは次のように述べて,その預言はペンテコステの日に成就を見たことを示しました。「神は言われる,『そして終わりの日に,わたしは自分の霊をあらゆるたぐいの肉なるものの上に注ぎ出し,あなたがたの息子や娘は預言(す)るであろう。そして,わたしの男奴隷の上にも,女奴隷の上にも,わたしはその日に自分の霊を注ぎ出し,彼らは預言するであろう』」。確かにペンテコステの日に,聖霊は男性と女性の両方に下りました。―使徒 1:14,15; 2:1-4,17,18。
また,イザヤ書 61章6節(新)の聖句もこの点と関連しています。そこには一部次のように示されています。「あなた方は,エホバの祭司と呼ばれ,わたしたちの神の奉仕者と言われるであろう」。この預言は,流刑に処されていたユダヤ人が複合の集団すなわち国家集団として古代バビロンから帰還した時に最初の成就を見ました。しかし,実際の事実からも明らかなように,ローマ 15章4節と一致して,これらの言葉には霊的イスラエル人を対象にした現代の成就があります。(ガラテア 6:16)a 第一次世界大戦中,彼らは「大いなるバビロン」に霊的に捕らわれた状態にありましたが,その直後に解放されました。それは偽りの宗教のその世界帝国の象徴的な倒壊に伴って生じました。
回復に関するこの預言が現代においても成就しているのであれば,そこに出てくる「奉仕者(英語でミニスター)」つまり高められたもしくは神聖な意味での「僕」たちにはだれが含まれるでしょうか。会衆内の長老および奉仕の僕つまり「執事」たちだけでしょうか。そうではないように思われます。古代の成就において,この預言は,複合の集団つまり国家集団としてバビロンから帰還したユダヤ人すべてに当てはまりました。同様に今日も,この預言は現代のバビロンから出て来た霊的イスラエルのすべてに当てはまります。その中には男の人も女の人も,年老いた人も年若い人も含まれます。当然のことながら「奉仕」をしていなければならないという条件はありますが,年齢や性別には関係がないのです。
これは,今日,「奉仕者<ミニスター>」という語が油そそがれた霊的な残りの者だけに用いられることを意味しているでしょうか。そうではありません。この言葉は残りの者を今日助けている「ほかの羊」の「大群衆」にも当てはまります。このことは,他の様々な聖句がこれら「ほかの羊」に適用されるその仕方から分かります。―ヨハネ 10:16。啓示 7:9。
例えば,イザヤ書 43章10-12節は,エホバ神がエジプトから救出してご自分の証人とならせた生来のイスラエル人にまず当てはまりました。今日この聖句は,エホバがサタンの組織から救出してエホバの証人とならせておられる霊的イスラエル人に当てはまります。この言葉が霊的イスラエルの油そそがれた残りの者だけに限って用いられるものでない証拠は,地的希望を抱き,自分たちの神エホバについての証しをまさしく行なっている,エホバの崇拝者が200万人以上も今日存在している事実から分かります。
女性の奉仕者
確かに,性別や年齢にかかわりなく,献身しバプテスマを受けたクリスチャンすべては宣明者,宣べ伝える者,奉仕者<ミニスター>,高められたもしくは神聖な意味での「僕」になることができます。もちろんその人は,自分の行状と証言活動の両面でそれにふさわしいことを実証している必要があります。ですから,使徒パウロはローマ 16章1,2節で次のように書いているのです。「わたしはあなたがたに,わたしたちの姉妹フォイベを紹介します。彼女はケンクレアにある会衆の奉仕者です。主にあって,聖なる者たちにふさわしいしかたで彼女を迎え入れ,どんなことでも彼女があなたがたを必要とする場合には彼女を援助してください。彼女自身も,多くの者に,そうです,このわたしにとっても擁護者となってくれたからです」。パウロがここで,単なる物質的な奉仕以上の事柄に言及していたのは明らかです。パウロは,言葉を語ること,つまりクリスチャンの奉仕の務めと関係のある事柄に言及していました。しかし,フォイベは女性の奉仕の僕として任命されていたのではありません。エホバ神はパウロを通して婦人がそうした職に就く備えを設けてはおられなかったからです。
パウロは,フィリピにあるクリスチャン会衆に手紙を書き送った時にも,ユウオデアとスントケを『クレメンスおよびわたしのほかの同労者たちとともに,良いたよりのためにわたしと相並んで奮闘し[神の王国の良いたよりを宣べ伝え教えたと思われる],その名が命の書の中にある婦人たち』と呼んでいます。―フィリピ 4:2,3。
また,アクラの妻プリスキラのことも見過ごせません。プリスキラの名は聖書に繰り返し出てきます。しかも多くの箇所では,夫よりも先に名前が挙げられています。(使徒 18:2,18,26。ローマ 16:3。コリント第一 16:19。テモテ第二 4:19)エフェソスにやって来た雄弁なアポロがさらに教えを必要としていることが明らかになった時,『プリスキラとアクラは彼を自分たちの家に連れて来て,彼らは神の言葉をより正しく解き明かしました』。―使徒 18:26,王国行間逐語訳。
米国の幾つかの法廷は,戸別に福音宣明の業を行なうエホバの証人の女性を奉仕者<ミニスター>として認めてきました。例えば,バーモント州最高裁判所はバーモント州対グリーブズ事件(1941年)の審理に際し,エルバ・グリーブズは「『エホバの証人』と呼ばれかつ知られている宗派もしくは集団の叙任された奉仕者である」と言明しました。
年若い奉仕者
同じ原則は年若いクリスチャンにも当てはまるでしょう。年若い人々は,いかなる意味においても会衆内で任命された僕として仕えることはありませんが,その年齢そのものは彼らが「良いたより」を宣べ伝え宣明する者,神の奉仕者<ミニスター>となるのを妨げるものではありません。イエスは12歳の時,ご自分が神の言葉に『奉仕する』能力のあることを示されました。(ルカ 2:46-50)サムエルは,ほんの『少年』にすぎなかった時に「エホバの奉仕者」となりました。(サムエル前 2:11,新世界訳。アメリカ標準訳,エルサレム聖書,ロザハム訳もご覧ください。)そして現代においても,十代初め,時にはそれ以下の年若い人々が,献身して自分をエホバにささげ,バプテスマを受けた後,あらゆる機会を捕らえて神の王国の良いたよりを宣べ伝えるその活動によって,また自らの行状によって,自分がまさしく神の奉仕者であることを実証しています。―テモテ第二 2:22。伝道 12:1。
「神聖な奉仕」
イエスは,人の主張はその業によって判断すべきであるという基準を定められました。イエスはこう語っておられます。「わたしのしている業それ自体が,わたしについて,すなわち父がわたしを派遣されたことを証し(しま)す」。(ヨハネ 5:36)同様に,老若男女を問わず,神から遣わされたこれらの奉仕者<ミニスター>(すなわち,高められた意味における「僕」)は,王国の関心事に対するその奉仕,すなわち自分たちの神エホバに対するその「神聖な奉仕」によって見分けられるはずです。―マタイ 4:10。ローマ 12:1,2。
ですから今日のエホバの証人の間でも,神の言葉を十分に教えられ,自分の命を神にささげた象徴としてバプテスマを受け,その後エホバ神に真剣に仕えて神のみ名と王国を証ししている人はいずれも,確かに神の目から見て奉仕者<ミニスター>であると言えます。(ヨハネ 12:26)しかし,戸別訪問をして自己紹介をする時,いつも自分のことを「奉仕者<ミニスター>」と呼ぶかどうかは,「奉仕者<ミニスター>」という語に対する土地の人々の態度を含め,情況によって異なることでしょう。いずれにせよ,『すべての国民の中から来た[今日の]大群衆』は啓示 7章9節から17節で,「その神殿で昼も夜も神に神聖な奉仕をささげている」と描かれています。そのすべては神の奉仕者,すなわち神聖な高められた意味での僕なのです。
[脚注]
a 「ものみの塔」,1978年10月1日号 16-29ページをご覧ください。
[18ページの図版]
ペンテコステの時,聖霊は,わたしたちの神エホバの奉仕者となるべく男性と女性を任命した
[19ページの図版]
年若い人々も,『神の奉仕者』として仕えて,「良いたより」を宣べ伝え,他の人に霊的な慰めを与えることができる
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奉仕の務めを栄光あるものとするものみの塔 1981 | 6月15日
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奉仕の務めを栄光あるものとする
「わたしは……自分のこの奉仕の務めを栄光あるものとします」― ローマ 11:13。
1,2 ゼカリヤ書 13章4-6節によると,偽りの宗教の奉仕者は自分たちの奉仕の務めを栄光あるものとする代わりに,将来のいつか,何をしようと試みますか。
偽りの宗教の聖職者(ミニスター)a すべてが恥じるようになる時が近付いています。彼らは自分の職業が何であるかを隠そうとするでしょう。聖書預言はそうなることを示しています。ゼカリヤ書 13章4-6節(新)は,「預言者」つまり幻を見る者である彼らについて次のように述べています。
2 「また,その日には,預言者たちは預言をするとき,各々自分の幻を恥じるようになる。彼らは欺くために,毛の公衣を着ない。そして彼はきっと言う,『わたしは預言者ではない。土を耕す者だ。地の人がわたしの若いころからわたしを取得したからだ』。そこで人は彼に言わねばならない,『あなたの身の両手の間のこれらの傷は何か』。すると,その人はきっと言う,『わたしを強く愛する者たちの家で打たれた傷です』」。
3 キリスト教世界の僧職者はどの程度の傷を負わされますか。
3 僧職者たちのかつての愛人は,最後には彼らを攻め,襲い,傷付けて死に至らせるか,そうでなくてもその宗教的な職業を断念させ,僧衣を捨て去らせるでしょう。聖書の巻末にある啓示の書の中には,世の官僚たちが宗教的な職業を持つ人々に襲いかかる様子が強烈な幻によって描かれています。17章は,古代バビロンに由来する偽りの宗教の世界帝国全体を,大いなるバビロンと呼ばれる国際的な娼婦として描いています。
4,5 (イ)啓示 17章では偽りの宗教の世界帝国は何によって象徴されていますか。(ロ)やがて,象徴的な10本の角と,王族の色をした野獣そのものは,神の許しを得てその乗り手にどんなことを行ないますか。
4 この女は描画的に言うと,七つの頭に10本の角が生えた緋色の野獣の上に乗っています。この野獣は底知れぬ深みに下って姿を消し,それから再び姿を現わします。それは国際連盟とその後を継いだ国際連合の場合によく似ています。大いなるバビロンは,再び登場したこの国際的な政治的「野獣」の背に1945年に乗りました。以来大いなるバビロンは35年以上の間,王族の色をした「野獣」の上に乗ってきました。相次ぐ七つの世界強国の存続期間中に政治を支配してきたふしだらな「女」がこの象徴的な野獣の攻撃を受け,宗教家たちに衝撃を与える時は今や近付いているに違いありません。それからどうなりますか。啓示 17章15-18節はその点を説明し,次のように述べています。
5 「あなたの見た水,娼婦が座っているところは,もろもろの民と群衆と国民と国語を表わしている。そして,あなたの見た十本の角,また野獣,これらは娼婦を憎み,荒れ廃れさせて裸にし,その肉を食いつくし,彼女を火で焼きつくすであろう。神は,ご自分の考えを遂行することを彼ら
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