ものみの塔 オンライン・ライブラリー
ものみの塔
オンライン・ライブラリー
日本語
  • 聖書
  • 出版物
  • 集会
  • 集合者の見た無益な業と価値ある業
    ものみの塔 1958 | 3月15日
    • か。今ここに居られる,そしてソロモン王より遙かに偉大な方を認識しないならば,そう言えるのです。集合者イエス・キリストは,シバの女王の予影した善意者の大きな群を今日集めておられ,これら『他の羊』の王なる羊飼となつています。御自身が天の頭である14万4,000の羊の会衆,『小さい群』のうちで地上に残る人々を集めて以来,イエス・キリストはこの事をされてきました。今日御自身に従う羊のような人々のすべてを,イエス・キリストは神の御国の側に,そして神を崇拝する霊の宮へと集められました。これに関して『散在している神の子らを一つに集めるために』と書かれています。―ヨハネ 11:52。黙示 7:1-17。ヨハネ 10:16,新口。

      7 『すべて空なり』と叫んだソロモンは,その中に何を含め,何を含めませんでしたか。

      7 王イエス・キリストの下にある会衆に宛て使徒パウロは書き送つています,『だから,愛する兄弟たちよ,堅く立つて動かされずいつも全力を注いで主のわざに励みなさい。主にあつては,あなたがたの労苦がむだになることはないと,あなたがた知つているからである。』(コリント前 15:58,新口)しかし,伝道之書の冒頭においてソロモン王は叫んでいます,『空の空なるかな,すべて空なり。』(伝道之書 1:2)さて,ソロモン王が王イエス・キリストを予表しているとすれば,彼がこのように叫んだのはなぜですか。ソロモン王はここで,ヱホバ神とヱホバの油注がれた王に仕える業のことを語つていません。この事は,ソロモンが包括的に『すべて』と表現した中に入つていないのです。ソロモンが『すべて』と言つたのは,彼が調べて見た限りのもの,彼がその書の中で次々に例をあげて指摘するすべてのものです。それらの事柄はこの世に関係しているもので,神の新しい正義の世において永遠に支配する神の御国すなわち天の御国とは全く関係のない事柄です。神に油注がれて『ヱホバの位』に当時座し,ヱホバの民を裁くための知恵を特に願い求めたソロモンは,人間の行いや活動を調べ,また自らそれを試みるのに最も恵まれた地位にありました。彼自身が次のように語つています。

      8 これらの事にふけつたこと,及び彼の達した結論について,ソロモンは何と言つていますか。

      8 『集合者である私はエルサレムにおいて王であつた。私は心を用い,日の下で行われたすべての事に関して知恵を探り求めた ― これは労苦の多い業であつて,神が人類の子らに与えて為さしめるものである。私は日の下で行われたすべての業を見た。すると,見よ! すべての事は空しく,風を追い求めることであつた。私は私の目が求めたものを遠ざけることをしなかつた。私の心は退かずにどんな種類の喜びをも得た。私の労苦のゆえに,私は心に喜びを得たからである。これは私のすべての労苦から得た私の分となつた。そして私の手の為したすべての業と,成し遂げようとして私が骨折つた労苦とを私は顧みた。すると,見よ! すべての事は空しく,風を追い求めることであつた。日の下に益となる事は一つもなかつた。人にとつて,食い飲みをし,その労苦によつて魂を楽しませるよりも良いことはない。これもまた真の神(ヱホバ,シリヤ訳。ターガム)の御手によるものである。私よりもまさる食い飲みをする人がいるだろうか。』― 伝道之書 1:12-14; 2:10,11,24,25,新世。

      9 このように語つたとき,ソロモンが宮と心からなる神の崇拝を心に考えていなかつたのは何故ですか。

      9 自らさまざまの事を試みた結果,『すべての事は空しく,風を追い求めることであつた』と述べたとき,ソロモン王はエルサレムのモリア山上にヱホバの宮を建築したことを含めていなかつたのです。宮の建築はソロモンの為した最大のことでした。彼が携わつた広範囲な業,彼の建てた家,その植えたぶどう園,その作りなした庭園や公園,灌漑用の池,彼が得た莫大の数に上る僕,婢のことを語るときに,ソロモン王は宮の建築について述べていません。これらすべてのことは彼の言つたように,『私のため』であつて,ヱホバとヱホバの崇拝のためではなかつたからです。他の人々もこれらの事に携わり,楽しもうと努めているのを,ソロモン王は見ました。しかし,ソロモン王が為した如く当時にヱホバの御名のための宮を建てた人は他に誰もありませんでした。彼がこの宮を建たのは,他の人に倣つたのではなく,他の人の行いを試みたのでもありません。これは彼のなした最大の建築の業であつて『大いなる空』ではなかつたのです。神はソロモンによる宮の建築を予言され,神の助けと導きによつて宮は完成されたからです。更に大きな霊的官の模型として,ヱホバがこの物質の宮を用いられた間,それはヱホバの御目的を果しました。(サムエル後 7:12,13。列王紀略上 8:15-21)ゆえに,すべてのものは空であり,風を追うに等しいと述べたとき,ソロモン王は宮そして心から行う神の崇拝を考えていませんでした。私たちもそのことを考えるべきではありません。

      10 伝道之書の中で,神が私たちに与えられた賜物とソロモンが述べているのは何ですか。

      10 創造主ヱホバ神は,御自身の被造物である人間が幸福であり,地上の生命を楽しむことを望まれています。私たちが受け入れるならば,これは神からの賜物です。ソロモン王が神のこの賜物に注意を向けさせている,仕方に気をつけて下さい。『我知る人の中には其世にある時に楽しみをなし善を行うより外によき事はあらず。また人は食い飲みをなしその労苦によりて楽しみを得べきなり。これすなわち神の賜物なり。』また『見よ,我はかく見たり。人の身にとりて善かつ美なる者は(真の)神に賜わるその生命のきわみ食い飲みをなし且その日の下に労して働ける労苦によりて得るところの幸いを身にうくるの事なり是その分なればなり。何人によらず(真の)神が之に富と財を与えてそれに食むことを得せしめ又その分を取りその労苦によりて快楽を得ることをせさせたまうあれば,その事は神の賜物たるなり。かかる人はその年歯の日を憶ゆること深からず,そは(真)の神これが心の喜ぶところに従いて答うることを為したまえばなり。』さらに『ここにおいて我楽しみを讃む。そは食い飲みして楽しむよりも好き事は日の下にあらざればなり。人の労して得る物のうち是こそはその日の下にて(真の)神に賜わる生命の日の間その身を離れざる者なれ。』― 伝道之書 3:12,13; 5:18-20; 8:15。

      11 この『神の賜物』をどのように今楽しむことができますか。神が『労苦の多い業』を人間に与えられた事実と,これは矛盾しますか。

      11 支配している王イエス・キリストすなわち集合者の忠実にして従順な民となり,教えを受ける謙遜な人々にイエス・キリストが授けられる天からの知恵に従つて行動するとき,私たちはこの『神の賜物』をいま楽しむことができます。それでは,『労苦の多い業であつて,神が人類の子らに与えて為さしめるもの』につき,知恵を探り求めたとソロモンが述べているのはなぜですか。これは矛盾ではありませんか。そうではありません! では,どのように神は『労苦の多い業』を与えられたのですか。また,誰に与えられましたか。

      12 何が『労苦の多い業』の基を置いたとソロモンは述べていますか。神はどのようにそれらを人間に与えられましたか。

      12 ソロモン自身がこれを説明して,次のように述べています,『我がさとれるところは唯これのみ。即ち(真の)神は人を正しき者に造りたまいしに人おおくの計略を考え出せしなり。』(伝道之書 7:29)6000年ほど前に,エデンの園で,ヱホバ神は完全な神の像とさまに似せて人間アダムを正しく,また完全に造られました。そして,アダムに妻を与えられたのです。もとの蛇,サタン悪魔の誘惑を受けた彼らは,死ぬことなしに『神の如く賢く』なる他の手だてを考え出しました。ヱホバ神がノアの時代の洪水によつて古い世を滅ぼされたときでさえも,人類が正義と敬虔のうちに新しい出発をするため,ヱホバ神は正しい家族すなわちノアとその妻,結婚していた3人の息子を生き残らせました。しかし,時がたつにつれて,人類はまたもや神の御心といましめに反対して,多くの手だてを考え出しました。この理由で,罪深く堕落した人類に対して神が単に裁きを執行されたとき,神がもたらされたものは利己的な生活を送つている人類にとつて労苦の多いものとなつたのです。罪の罰は死であることを,神はアダムに告げられました。そして,アダムが罪を犯したとき,アダムの腰にあつて未だ生まれていなかつた子孫も,死の罰に定められました。(創世 2:16,17。ロマ 5:12)彼らは単なる獣と同じく死ぬようになつたのです。

      13 この点で人間は獣に等しいことを,ソロモンはどのように示していますか。

      13 ソロモンは語りました,『私は人類の子らについて心の中に言つた。(真の)神は彼らを選んで,彼らが獣であることを彼らに悟らせる。人類の子らに臨むことと,獣に臨むことは同じである。人が死ぬと同じく,獣もまた死ぬ。人も獣も唯一つの霊を持つゆえに,人が獣にまさるところはない。すべての事は空しいからである。人も獣も一つの所に行く,すべて塵から出て,すべて塵にもどる。人類の子らの霊が天に昇るかどうか,獣の霊が地に下るかどうかを知る人があろうか。』― 伝道之書 3:18-21,新世。

      わざわい

      14 人間が各自の働きを何時までも楽しむことが出来なかったのは何故ですか。私たちは何時か死ぬのであれば,何にふさわしい事を証明しようといま努めるべきですか。

      14 死はわざわいです。しかし,アダムは神を恐れ,神の戒しめを守ることによつて,彼自身と子孫の私たちを死から免かれさせることができたのです。死は敵です。(コリント前 15:26)しかし,アダムは愛のうちに神に従い何時までも神の友であることによつて,死という敵の支配から私たちを守ることができた筈でした。死のゆえに,どの男女でもその手の業と働きを妨げなしに何時までも楽しむことができなかつたのです。神は愛の御心から集合者イエス・キリストを通して,死の罰を取り去り,記憶の墓に死んでいる人々全部を復活させる道を備えられました。(コリント前 15:17-24)この事がなければ,人類のすべては獣と同じく絶え間なしに次々と死んで行くことでしよう。罪を愛してことさらにヱホバ神に不従順となる者は,獣と同じく永遠に滅びうせます。彼らは獣のように動物の欲に従つて飲み食いし生活します。彼らは全くの物質主義で,神を顧りみることをしません。獣のように生きることを好み,獣が役立つように,神の御目的に役立つことさえもない彼らは,獣と同じく滅びるにまかせなさい。私たちはどうして獣のようになり,動物と同じく単に利己的な生活を送り,動物と共に死んでゆくべきですか。何時か死ぬのであれば,復活して神の新しい世の生命を受けるに値することを証明するようにいま努め,単なる獣にまさる者となるべきではありませんか。

      15 息子への遺産に関して,どのように災が起り得ますか。遺産を残すにあたつては,どのようにもつと賢く行うことができますか。

      15 言うまでもなく,人類に死が入り込んだことから,ヱホバ神を知らずまた知ろうとしない人々にとつては,多くの災や矛盾と見える事柄が起つてきました。物質を心にかけた父親が息子のために財産,たとえば銀行預金か他の財産を労して積むかも知れません。そこに銀行の破産か,あるいは他の災が起つて父親はすべてを失い,息子に残すものは何も無くなります。俗世間的な人はこれを災と考えないでしようか。ソロモンは語つています,『我また日の下に患の大いなる者あるを見たり。すなわち宝のこれを蓄うる者の身に害をおよぼすことある是なり。その宝はまた災によりて失せゆくことあり。さればその人,子をもうくることあらんも其手には何物もあることなし。』(伝道之書 5:13,14)地に積む富は,過ぎ去るもので何と不確かであり。突然に無くなつてしまうものでしよう,この富は持ち主にとつて,また彼がこのような富を遺産に与えようとした息子にとつて,霊的には害をも及ぼすものです! ゆえに,それよりも遙かによく,また賢いことは,霊的な富を私たちの子供に残そうと努めることです。霊的な富は永続するもので,それは良い名,両親の示す信頼できる敬虔の手本,よいしつけによつて成熟した男女に育てること,神の真理を教える家庭の教育,神の奉仕者となつて他の人に真理を分け与える奉仕の仕方を学ぶ訓練です。物質のものが災を受けても,そのためにこれら霊的な価値あるものを失うことはありません。そして,私たちがたとえ死んでも,真の富という遺産を持たない子供たちが後に残される事はありません。

      16 物質に富む人に必ずふりかかる別の災を,ソロモンはどのように描いていますか。それゆえ,人はなぜ自分を富の奴隷にすべきではありませんか。

      16 物質的に富む人々は,必ずふりかかる別の炎を心にするべきです。ソロモンはこの災を次のように述べました,『人は母の胎より出でて来りし如くにまた裸にして帰りゆくべし。その労苦によりて得たるものをひとつも手にとりて携えゆくことを得ざるなり。人は全くその来りし如くにまた去りゆかざるを得ず。これまた患の大いなる者なり。そもそも風を追うて労する者何の益をうることあらんや。人は生命のかぎり,暗やみの中に食うことをなす,また憂愁多かり疾病身にあり怒りあり。』(伝道之書 5:15-17)では,どうして人は利己的な富,マモンの奴隷となるべきですか。そして,そのために神の御目的に全く盲目となり,怒り,失望,誘惑,わな,刺し通す痛みを身に受けるべきですか。神と富すなわちマモンに同時に仕えることはできません。(マタイ 6:24)人は自分を肥やして大金持となり,億万長者になるかも知れません。そして死んだ時には,家の中のあらゆるもの,高価な宝石や衣服,空の船,一緒に葬るために殺された奴隷の死骸さえもが墓の中に入れられるかも知れません。しかも,彼が携えて行き,楽しむことのできるものは何一つないのです。彼は何も持たないでこの世に来ました。そして何も持ち出すことができません。獣のように死んだその人は,来るべき世における真の生命と自由のために何の土台をも築くことをしなかつたのです。神の奴隷とならなかつたこのような人にとつて,何という災でしよう!『たとい人が全世界をもうけても,自分の命を損したら,なんの得になろうか。また,人はどんな代価を払つて,その命を買いもどすことができようか。』イエス・キリストのこの質問の答えはおのずから明らかです。―マタイ 16:26,新口。

      17 自己満足についてのどんな災いをソロモンは挙げていますか。ネブカデネザルの場合,どのようにこれは実際に示されましたか。

      17 災を順に挙げたソロモンは更につづけています,『我見るに日の下に一つの患あり是は人のうちに常なるものなり。すなわち(真の)神富と宝と貴を人に与えてその心に慕うものを一つもこれに欠くることなからしめ給いながらも(真の)神またその人に之を食うことを得せしめ給わずして他人のこれを食うことあり是空なり悪しき疾なり。』(伝道之書 6:1,2)手に入れたものを楽しむことができないなら,自分のことより外に考えない人にとつて,それは耐え難いほどの悲しみです。おいしい食物がありながら,胃腸の加減が悪いために食べることができないのは馬鹿にされたようなものです。ヱホバ神は,ネブカデネザルがバビロンにおいて世界支配者になることを許されました。しかし,彼の誇りと高慢,うぬぼれのゆえに神は彼をいやしめられ,彼は気が狂つて,獣になつたと考えました。その時,彼の宮殿のぜいたくな飲食物は彼に合いませんでした。彼は牛のように草を食べることを好みました。7年の間ネブカデネザルにとつて,これは何という災,つらい病気だつたことでしよう!―ダニエル 4:28-37。

      18 流産の子は誰にまさると,ソロモンは述べていますか。このすべては何に由来していますか。

      18 その手に入れた物を楽しむこともなく,墓に入りたいとさえ願いながら送る長い命は,人に満足を与えることなく,気持をいらだたせ,とうてい満ちたりた良いものではありせん。『たとい人百人の子をもうけ,また命長くしてその年齢の日多からんも,もしその心幸に満足せざるか又は葬らるることを得ざるあれば,我言う流産の子はその人にまさるなり。それ流産の子はその来ること空しくて暗やみの中に去りゆき,その名は暗やみの中にかくるなり。また是は日を見ることなく物を知ることなければ彼(命の長い者)よりも安らかなり。人の寿命千年に倍するとも福祉を蒙れるにはあらず皆一つ所に行くにあらずや。』(伝道之書 6:3-6)この生活の外には何の希望をも持たず,生活に何の満足も見出さず,不満と怒りに悩んで長く生きる人よりは,この物質主義の世に生命を始めなかつた流産の子の方がよいのです。このすべての原因は,この世の物質的利益,つまりこの世の利己的な営み以外のことに心を用いなかつたことにあるのです。

      19 政府に関するどんな災をソロモンは述べていますか。このような政府を支持する人々にとつて,ハルマゲドンの時これが災という結果になるのは何故ですか。

      19 ソロモンが述べているもう一つの災は,一人の人または政府が一国を支配した場合です。それは人々を指図し,人々を神からひき離して間違つた道に導くという責任をとります。このような間違つた支配に服従して,神よりもそれに従う人々は,政府のする間違い,また政府が神に敵して行う戦いに対しては,責任を負うことになるのです。政府の愚かに対しては,支配者と共に国民も責任があります。ソロモンは次のように述べています,『われ日の下に一つの患事あるを見たり。是は君長たる者よりいずる過誤に似たり。すなわち愚かなる者高き位に置かれ,貴き者卑き処に坐る。我また僕たる者が馬に乗り,王侯たる者が僕の如く地の上に歩むを見たり。』(伝道之書 10:5-7)いまの『終りの時』にあつて,この世の諸国家は設立された神の御国の前に裁かれています。ゆえに,政治の支配者,裁き人は賢明に振舞い,ヱホバを恐れ,従順にヱホバの子にくちずけせよという神のすすめが,御言葉と神の証者を通して与えられてきたのです。しかし,人々の支配者と指導は,ヱホバ神に対して愚かに振舞うことをやめません。そして彼らの政府はヱホバの御子イエス・キリストによつてハルマゲドンの時に粉々に砕かれてしまうでしよう。政府と支配者のみならず,ヱホバ神とキリストによるヱホバ神の御国に敵して戦つた政府の大きな間違いを支持した国民にとつても,それは世界の災となるでしよう。―詩 2:1-12。

      20 すべての人の共通の終りは死であるゆえに,人の心の状態どのようですか。どのように人は慰めのない絶望の状態に自らを置いていますか。

      20 死者の復活という希望を持たず,誰でも死ぬときにすべてが終ると考えているために,人間は日の下にあるもう一つの災を助長します。『すべての人に臨むところの事の一つなるは是日の下に行わるる事の中の悪しき者たり。そもそも人の心には悪しき事充ちおり,その生ける間は心に狂妄を抱くあり後には死者の中にゆくなり。』(伝道之書 9:3)欧米の民主主義政府は,1956年以来ハンガリーに起きたことを見て,恐ろしい災と呼んでいます。しかし,圧制は世界の他の場所においても行われつつあるのです。貧しい人々は自分ではどうすることもできません。しかし,ヱホバ神とヱホバ神の御国に頼らないならば,彼らが助けを得るどんなよりどころが他にありますか。この災の状態を評して昔の集合者は次のことを述べました,『ここに我身をめぐらして日の下に行わるる諸の虐遇を見たり。ああ虐げらるる者の涙ながる之を慰むる者あらざるなり。また虐ぐる者の手には権力あり彼らはこれを慰むる者あらざるなり。我はなお生きる生者よりも既に死にたる死者をもて幸なりとす。またこの二者よりも幸いなるは未だ世にあらずして日の下に行わるる悪事を見ざる者なり。』― 伝道之書 4:1-3。

      21 ヱホバを崇拝しなかつた人々の政府の下にある状態について,ソロモンがよく批評できたのはなぜですか。

      21 ソロモン王はここで神の御国の地的模型である彼の国に行われていたことを述べていません。ソロモンが賢い王として支配した間,政府の圧制はなかつたのです。人々は『ダンよりベエルジバに至るまで安らかに各々そのぶどうの樹といちじくの樹の下に』住み,『飲食して楽しめり,』(列王紀略上 4:20-25)ヱホバを崇拝しなかつた人々の圧制的な政府とは異なつた特色をもつゆえに,昔の集合者の王国はきわだつていました。そこでソロモンはそれらの政府の下にある災の状態について良く批評できたのです。

      22 どんな知識を持つゆえに,ヱホバの証者は圧制を加える政府の下にあっても自らを憐れみませんか。また,彼らは憐れむべき人々に対して如何に憐みを表しますか。

      22 無信仰で物質主義の人の手にあり同じく圧制的な政府の下で今日生活していても,ヱホバの証者は自分をあわれんでいません。彼らには慰める者がいます。ヱホバが日々助けて下さることを彼らは知つています。ヱホバの証者である彼らのヱホバへの忠実は,このように圧制的な状態の下でいま試みられていることを彼らは理解しています。そして,昔の集合者が語つたことを知つています。『汝国の中に貧しき者をしいたげる事および公道と正義を枉ぐることあるを見るも,その事あるを怪しむなかれ。そはその位高き人よりも高き人ありてその人を伺えばなり。又それらよりも高き者あるなり。』(伝道之書 5:8)私たちは知つています,最高会議,最高裁判所あるいは人間が地で最高と呼ぶどんなものにしても,それらの上には無限に高い,最高至上者ヱホバ神と彼の右の手にあつて治められるヱホバ神の王イエス・キリストがおられます。ヱホバ神とイエス・キリストは上なる裁き主であられ,鉄のカーテンも竹のカーテンも上なる裁き主の眼をさえぎることはできません。ハルマゲドンのとき,彼らの裁きはしいたげる者すべての上に執行されるでしよう。宇宙の最高法廷の裁き主がとられる御処置こそ,しいたげられているヱホバの証者は確信と忍耐をもつて待ち望んでいるものです。神の御言葉と霊に支えられ,胸に神の愛を満たしている彼らがあわれむのは,この災な状態の中で希望もなく,助けもない気の毒な人々のことです。聞く耳を持つ人々に彼らは恐れることなく伝道し,人類の唯一の希望,唯一の助けである神の御国の良いたよりを宣べ伝えます。

      いとわれた生活

      23 将来について何が確かではないゆえに,ソロモンは災の生活をいとうと述べましたか。

      23 神の御国の外にある人間すべての災を心に留めたうえ,当時の地上で最も賢い人であつた彼の王位をどんな者が継ぐかも知らなかつたソロモン王は,こう語りました。『ここにおいて我世にながらうることを厭えり。おおよそ日の下に為すところの業は我に悪しく見ゆればなり。即ち皆空にして風を捕うるが如し。我は日の下にわが労してもろもろの働きをなしたるを恨む。そは我の後を嗣ぐ人に之を遺さざるを得ざればなり。その人の智愚は誰かこれを知らん。しかるにその人の日の下に我が労して為し知恵をこめて為したるもろもろの業を管理るに至らん是また空なり。我身をめぐらし日の下にわが労して為したるもろもろの働きのために望みを失えり。今ここに人あり知恵と知識と才能をもて労して事をなさんに終には之がために労せざる人にすべてを遺してその所有となさしめざるを得ざるなり是また空にして大いに悪しし。』― 伝道之書 2:17-21。

      24 ヒンヅー教徒はどのように生命を見ますか。生命にはソロモンの述べたような災しか無いとすれば,生命に対してどんな態度を採ることはもつともですか。

      24 物質と肉体の世界における生命は苦しみの連続以外の何ものでもないという宗教の考えのために,ヒンズー教徒は生命をいとうと公言します。それで彼らは永遠の無,すなわち,最善至福の時と彼らが考える一種の涅槃に吸収されることによつて,無になることを求めます。この古い世の生命にはソロモンの描いたような災しかないとすれば,名利を追う物質的な生活をソロモンがいとつたのも当然でしよう。生活には何の目的もないことになります。生きることに,永続の価値あるものは一つもないことになるでしよう。あれこれの小さな災が絶えない地上の生活は,最後にはすべての人と,獣があう死という大きな災に終つて,誰でも体は墓に入ります。そして,誰でもが行く墓すなわちシヨールには,死人のために何がありますか。よく聞いて下さい。

      25 生きている者と死人との相違は何であると,ソロモンは述べていますか。死人にとつてショールには何がありますか。

      25 『生ける犬は死せる獅子にまさればなり。生ける者はその死なんことを知る。されど死ぬる者は何事をも知らず,また報いをうくることも重ねてあらず。その憶えらるる事も遂に忘れらるるに至る。またその愛も憎しみも,嫉も既に消えうせて彼らは日の下に行わるる事にもはや何時までも係わることあらざるなり。すべて汝の手に堪うることは力をつくして之を為せ。そは汝の行かんところの陰府には工作も計謀も知識も知恵もあることなければなり』― 伝道之書 9:4-6,10。

  • 空しく待つこと6年間
    ものみの塔 1958 | 3月15日
    • 空しく待つこと6年間

      ● マサチユーセッツ州,ボストンに住む,びつこで,寝たきりの83歳になる未亡人は,老人扶助金から毎週10セント貯めました。それは,もし彼女の教会の牧師が訪ねて来たら渡すためでした。6年待つた後,1人のヱホバの証者が訪問して聖書の研究をはじめました。8ヵ月余りたつてからこの未亡人は,それまで貯めていたお金を証者に差し出して是非「貧者の一灯」を受けて下さいと強く主張しました。証者はそれを外国に宣教者を送るための援助として「ものみの塔協会」に送りました。

  • 赤い宗教
    ものみの塔 1958 | 3月15日
    • 赤い宗教

      ● かつてのモスコーの宣伝機関の長官,カール・ラデクはあるとき語りました。『御存じのように,この共産主義は宗教である。わが国の若者はその福音を伝道しなければならない。彼らはそのために喜んで死ぬ。』

日本語出版物(1954-2026)
ログアウト
ログイン
  • 日本語
  • シェアする
  • 設定
  • Copyright © 2025 Watch Tower Bible and Tract Society of Pennsylvania
  • 利用規約
  • プライバシーに関する方針
  • プライバシー設定
  • JW.ORG
  • ログイン
シェアする