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「仕事」という賜物を正しく評価するものみの塔 1972 | 11月15日
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「仕事」という賜物を正しく評価する
「凡て汝の手に堪ることは力をつくしてこれを為せ」― 伝道 9:10。
1 ある人びとは仕事をどう見ますか。なぜですか。それで,どんな質問が提起されていますか。
人間の歴史の中でも,就労時間をいっそう少なくしながら,労働に対するいっそう多くの報酬を要求する現代においては,自分の行なう事がらに幸福を求め,同時に神の是認をも求める人すべてにとって,仕事に対する自分自身の態度を吟味するのは賢明なことです。今日,この世の人びとのおおかたの不満の種は,自分の仕事に満足できない点にあります。ともすれば,仕事はのろわれたもの,懲罰もしくはできればうまく回避すべき定めだという労働者が,それもとくに若者の間でふえています。仕事はエネルギーを消耗し,労働は人を疲労させすぎるため,生活を楽しむ余地は失われてしまうと不平をこぼす人もいます。そして,『生活の楽しみがそこなわれるのなら,働く必要はないではないか』。『人生を楽しまずに働いている人が多すぎるではないか』と主張します。仕事が不快なものであることを説明するために,労働者はしばしば,賃金だけでなく就労時間や労働条件のことをも心配する工場労働者や事務員や社会事業家の行なうさまざまの抗議やストなどを指摘します。中には,理想的な生活とは骨折って働く必要のない世界の生活だと考える人もいます。仕事を祝福もしくは神からの賜物とみなす人はほとんどいません。あなたは仕事に対してどんな態度をお持ちですか。それを神からの祝福,それとも単なる必要悪とみなしていますか。人は自分の仕事をどう見るべきですか。
2 (イ)聖書では仕事はどうみなされていますか。(ロ)怠惰な人びとについて聖書は何と述べていますか。(ハ)なぜ怠惰な人びとにくみしてはなりませんか。
2 聖書は仕事を称賛し,人は飲み食いして,「労苦によりて得るところの福禄を身に享」べきであると述べています。(伝道 5:18; 3:13,22)怠惰や無精や怠慢を生き方として勧めることばは聖書には一つもありません。逆に,「精力的に努力」するよう勧められており,勤勉であることが称賛されています。人は,「手に堪ることは力をつくして」行なうべきです。(ルカ 13:24,新。伝道 9:10。ヘブル 6:10,11)怠惰な人間は,「蟻にゆき其為すところを観て智慧をえよ」と告げられています。(箴 6:6)のんきな生き方は愚か者と結びつけられています。「愚かな者の安楽はおのれを滅ぼす」ものなのです。(箴 1:32,口語)「手をものうく」する人は,理想的な生活をするどころか,やがて貧困に陥ってしまいます。眠りやうたたねや手をこまねいていることを好む人は,幸福になるどころか,破滅の一途をたどります。(箴 10:4; 18:9; 24:33,34)このようなわけで,真の宗教,つまり聖書の説く宗教を実践する人びとは,無精ななまけ者にくみするわけにはゆきません。神の民は,不活発で怠惰な生活をするためではなく,ほかならぬその神エホバに倣って,活気のみなぎる活発な生活を送るために召されたのです。神からの賜物であるそうした活発で産出的な生活こそ,真の幸福をもたらすものです。―ヨハネ 5:17。
働き手である神とそのみ子
3 働き手としての神,またそのみわざが人類に及ぼす影響については何と言えますか。
3 目を見開いて,周囲を見回してごらんなさい。一べつしただけで,比類なく美しい,見るからに高貴な無数のわざである自然に取り巻かれていることに気づくでしょう。それは『神の奇しきみわざ』という表現に包含されています。(詩 145:4,5; 148:3-10)頭上の天は「神のえいくわうをあらはし」ています。「穹蒼はその手のわざをしめ」しています。多種多様の獣や魚や植物の存在する地球は,称賛のことばをいださせずにはおきません。正しい認識をいだいていた詩篇作者は述べました。「エホバよなんぢの事跡はいかに多なる これらは皆なんぢの智慧にてつくりたまへり 汝のもろもろの富は地にみつ」。(詩 19:1-4; 104:24)文字どおり全宇宙は神のわざで活気に満ちています。その数は圧倒的で,賛辞をほとばしらせずにはおきません。その美しさは畏怖の念を起こさせます。その膨大さと知恵は,賛美と感謝のことばを誘います。それは人に謙遜な気持ちをいだかせます。詩篇作者は語りました。「我なんぢの指のわざなる天を観 なんぢの設けたまへる月と星とをみるに 世人はいかなるものなれば これを聖念にとめたまふや 人の子はいかなるものなれば これを顧みたまふや」。(詩 8:3,4; 92:5; 150:2)これら創造物はすべて神の絶えざる注意と世話を受けているのです。
4 神の最初の創造物はだれでしたか。その者が働き手であったことを示すどんな証拠がありますか。
4 神のみわざはすべて,信頼の置ける正確な比類のないものです。それはすべて知恵をもって造られました。聖書の箴言の中では,擬人化された知恵は,創造の仕事にさいしてエホバ神のかたわらでその「熟達した働き手」としてともにいたと述べられています。(箴 8:12,22-31,新)霊感を受けた使徒ヨハネは,その熟達した働き手が「ことば」つまり神の最初の創造物,後に地上でイエス・キリストになった神のひとり子であることを明らかにしました。ヨハネは述べました。「この言は太初に神とともに在り,万の物これに由りて成り,成りたる物に一つとして之によらで成りたるはなし」。(ヨハネ 1:1-3。コロサイ 1:17)神のこの賢いみ子は地上にいたとき,熟達した働き人であることを実証しました。その後にも先にもそれほど多くを成し遂げた人,もしくは人間の歴史にそれほどの影響を及ぼした人はひとりもいません。969年も生きたメトセラは,記憶に値するわざを一つも残しませんでした。その長い一生は全くの浪費の一生と言えるかもしれません。一方,地上におけるイエスのわざに関する福音書の記述を回顧したヨハネはこう書いています。「イエスの行ひ給ひし事は,この外なほ多し,もし一つ一つ録さば,我おもふに世界もその録すところの書を載するに耐へざらん」。(ヨハネ 21:25)どちらの生活がいっそう幸福でしたか ― イエスの生活,それともメトセラのそれでしたか。しかもイエスはわずか33年半の短期間生活したにすぎませんでした。明らかに彼は勤勉な働き手でした。
5 イエスはだれの仕事の習慣に従いましたか。証拠をあげなさい。
5 人びとが,安息日に親切を示すわざをイエスに行なわせまいと努めたとき,イエスは,週の全日絶えず続けられているエホバの活動に触れてこう言いました。「わが父は今にいたるまで働き給ふ,我もまた働くなり」。(ヨハネ 5:17)どうして安息日に良いわざを行なってはならないのですか。安息日だからといって,神の設けた太陽は輝くのをやめますか。川は流れを止め,草は成長を中止しますか。くだものは熟し,鳥は歌うのではありませんか。神はその創造物の必要を顧みてはいないでしょうか。では,単に安息日だからといって,神に油そそがれた者がどうして愛のわざを拒まねばならないのですか。仕事の習慣の点で天の父の模範に従ったイエスは言いました。「われを遣し給へる者の〔意志〕を行ひ,その御業をなし遂ぐるは,是わが食物なり」。(ヨハネ 4:34〔新〕)仕事の習慣の点であなたはだれの模範に従っていますか。仕事に対してどんな態度をお持ちですか。
人間は働き手
6 人間は働くように造られた者であることを示すどんな証拠がありますか。仕事はどうして「神の賜物」と呼べますか。
6 神は人間を働き手として造りました。単に聖書だけがこのことを述べているのではありません。人間の作りそのもの,つまり筋肉組織の構造,手足の設計なども,人間の福祉にとってある種の仕事は絶対不可欠なものであることを示しています。成長はすべての活動に依存しています。努力なくしては身体的あるいは知的発達はありえませんし,努力は仕事を意味しています。仕事は人生に意味と目的を付与します。人の力量はその成し遂げたものによって計られます。人間のエネルギーを求め,人に満足感を与え,自己表現を行なわせるものとなる仕事は,放蕩や好色から身を守るものとなります。一生懸命に働く人は,たいていたいへん幸福です。しかしながら,仕事を愛するからではなくて,お金あるいは他の利己的な目的のために働く人たちは,人生にそれほど喜びを見いだせるものではありません。一生懸命働けば,おなかがすきますから,食事はいっそうおいしくなりますし,のどがかわきますから,よく飲みます。また,一生懸命働けば疲れるので,ここちよく眠れます。聖書は述べます。「人はみな食飲をなしその労苦によりて逸楽を得べきなり 是すなはち神の賜物なり」。「人は食い飲みし,その労苦によって得たもので心を楽しませるより良い事はない。これもまた神の手から出ることを,わたしは見た」。(伝道 3:13; 2:24,口語)あなたは自分の仕事を真の神からの祝福と見ていますか。自分の仕事から永続する喜びと満足を得るには,そのような見方は不可欠です。
7 (イ)完全な状態での生活とは,人間が少しも仕事をしないということを意味しますか。(ロ)仕事を有意義なものにするのはどんな事がらですか。
7 最初の人間アダムを取り巻いていたのは完全な状態でしたが,そうした楽園の状態のもとにあってさえ彼は働き手になるべきでした。そり返って,何もせずに寝て過ごすことにはなっていませんでした。アダムは,エデンの園を耕して世話をするよう神から命じられました。(創世 2:15)それは仕事を意味しました。それには率先し,独創力や機智を働かせることが必要でした。エデンの管理者としてのアダムは,自分自身のことを,地上で創造者の意志と目的を遂行する神の共働者として頭の中で描こうと思えば,そうすることもできました。その仕事は,全地を楽園として完全な人類で満たすことでした。(創世 1:28)それは決して取るにたりない割当てではありません。それには仕遂げる勇気と勤勉さが必要でした。しかし,アダムの生活を意義深いものにしたのはその仕事でした。神の共働者であるという認識こそ,満足と喜びをもたらすものなのです。どこにいようと,そうした自覚に欠けているなら,今日でも仕事に対するその目的や意義の観念は失われ,ほどなくして仕事は,なんら永続する目標もしくは目的のない単調なもの,やっかいな事,退屈な作業になってしまいます。
8 アダムは何を追い求めましたか。それ以来,人類は何を追い求めてきましたか。それはどんな結果をもたらしましたか。
8 しかしながらアダムは,神の意志に反する道を選び,それを追い求めました。アダムは自分自身の欲求や欲望を充足させることに努めましたが,その歩みは彼自身またその後の全人類にとって災いをもたらすものとなりました。(ロマ 5:12)アダムの時以来,人類の大多数はその卑しむべき前例に従ってきました。そのような人びとはまさに利己的な営みに携わっており,神のことを少しも意に介しません。(詩 10:4; 14:1)たいていの場合,彼らの仕事は,人類に関する神の意志とは無関係ですし,彼らはまた自分たちのことを神の共働者として思い浮かべることもできません。彼らの仕事には建設的な意義は少しもありません。ですから,そうした人びとは空虚な思いをぬぐえぬまま,自分たちのしていることに不満をいだいているのです。(伝道 2:22,23)もし人類が,この地を楽園にしようとする神の目的を喜んで果たそうという気持ちをいだいていることを実証していたなら,何千年もの歳月を経たのちの今日,この地はどんなに美しい場所になっていたかを想像してみてください。それに,人類は地上のあらゆる場所で,涙と流血と苦悩と苦痛をどれだけ免れえたか知れません。
特別の仕事をするよう召される
9,10 ノアはなぜ特別の仕事を割当てられましたか。それはどんな内容の仕事でしたか。
9 アダムの創造以来,ノアが600歳になった時までの1,656年の間,人類が追い求めた営みはおよそ物質主義と利己主義に基づくものであり,悲惨な結果をもたらしました。聖書の記録はこう述べます。「世神のまへに乱れて暴虐世に満ちたりき 神世を視たまひけるに視よ乱れたり 其は世の人皆其道をみだしたればなり」。(創世 6:11,12)この陳述には今日の地上の事情を少なからずしのばせるものがあります。この事物の体制の終わりに関する預言の中でイエス・キリストは,その陳述があてはまるであろうことを断言してこう言いました。「ノアの時のごとく人の子の来るも然あるべし」。(マタイ 24:37-39)地上のそうした危急な時代にさいしては,神は,ご自身に代わって特別の仕事を行なうよう人びとに要求します。ノアはそうした割当てを受けた人のひとりでした。
10 この神の人,ノアは,自分自身とその家の者とあらゆる動物を生き長らえさせるために箱船を建造するよう命じられました。それには格別の力と決意が必要でした。というのは,相当量の木材その他の物資を集めねばならなかったからです。同様に,後日箱船にはいった動物の大群を操るにも計画と秩序立った取り扱い方が必要でした。この仕事をするには,原料・動物の習性・食料・建築術・木工・防水処理などに関する知識を要しました。ノアの割当てには,宣べ伝えること,また義を実践することも含まれていました。しかもその働き手,ノアは,箱船の建造を開始した時,500歳を過ぎていました。―創世 6:9-22; 7:6。ペテロ後 2:5。
11 ノアの仕事はその信仰を立証するものとなっただけではなく,その救いをもたらしました。どうしてそう言えますか。
11 準備万端を整えたのち,西暦前2370年,ノアは,彼をかしらとする組織された集団もろとも箱船にはいりました。その箱船の中にいた,太陰暦の1年と10日の間,ノアは働きました,彼は敬虔な討議の集いを司会したり,一同を代表して感謝の祈りをささげたり,動物を養ったり,排泄物を捨てたり,時を数えたりなどしたに違いありません。それは有意義な仕事でした。それは彼の救いを意味したのです。弟子ヤコブは述べました。「人の義とせらるるは,ただ信仰のみに由らずして行為に由ることは,汝らの見る所なり」。(ヤコブ 2:24)ノアの行為は,その信仰を証するものでした。あなたの行為は何を証するものとなっていますか。どんなわざが正しいか,あるいは正しくないかを決めるのは神であることを,ノアの実例は確証しています。ここで神は,ご自分が『一切の行為ならびに一切の隠れたる事を善悪ともに審判く』であろうとの警告を発しています。(伝道 12:13,14)ノアは当時の挑戦に十分堪えられる者であることを実証しました。あなたについても同様のことが言えます。あなたは仕事,それも神の仕事にどう応じていますか。
神と共に働く国民
12 イスラエルはどのようにして神とともに働くものとなりましたか。
12 一国民を生み出すという神の目的のもとで,アブラハム,イサク,ヤコブその他の人びとはエホバから特異な仕事の割当てを受けました。ヘブル書 11章には彼らの信仰のわざについてしるされています。そして,ついに西暦前1513年のこと,エホバはイスラエル人だけにかかわるご自分の目的のためにイスラエル国民を組織してこう仰せになりました。「然ば汝等もし善く我が言を聴きわが契約を守らば汝等は諸の民に優りてわが宝となるべし 全地はわが所有なればなり 汝等は我に対して祭司の国となり聖き民となるべし」。このことばに対して民は異口同音に,「エホバの言たまひし所は皆われら之を為べし」と答えました。(出エジプト 19:5,6,8)その律法契約の目的は使徒パウロによれば,「信仰によりて我らの義とせられん為」にユダヤ人をキリストに導くことにありました。―ガラテヤ 3:23-25。
13 (イ)祭司の努めについては何と言えますか。彼らはどのようにしてその割当ての点できわ立った者となりましたか。(ロ)このことは,わたしたちが自分の仕事に関するどんな事がらを理解するのに助けとなりますか。
13 非開放的なイスラエル国家の中ではいろいろな支族が特定の仕事の務めを持っていました。たとえば,祭司の務めはアロンの家族の男子の成員に限られており,レビ族の他の者は彼らの補佐としての務めを果たしました。(民数 3:3,6-10)幕屋を設置したり解体したり運搬したりするのは,祭司ではないレビ人の仕事でした。ダビデ王のもとで彼らの仕事は高度に組織化されました。彼は監督者・役員・審判者・門衛・財宝物係りなどを任命しました。後日,ソロモンの神殿の建造後,おびただしい数の人びとが,供え物,犠牲,清めのわざ,計量,種々の護衛の務めなどに関して中庭や食事室などで祭司たちを補佐しました。その多くは魅惑的なところの少ない,つらい仕事でした。ある時など,祭司は合計1,760人にも達しました。そのすべては「神の室の奉事をなすの力あるもの」でした。(歴代上 9:10-13)彼らはきわ立った能力のある祭司たちでした。しかしながら,それらの祭司たちはすべて生まれつき非常に適格で,もしくは天分に恵まれていたので,何を割り当てられても異例なまでに容易に熟達できたなどとは考えられません。そうではなくて,彼らはみな,自分たちの仕事を勤勉に学び,割り当てられた務めに専念することによって,やがてエホバの仕事にとって非常に有能な人であるとの評判を得たのです。このことは,人は自分にとって楽しい事にでも,いやな事にでも従事できるということを強調しています。もし身を入れさえすれば,高揚させられないほどに粗野な,もしくは卑しい仕事はありませんし,多少でも生気を吹き込めないほどに退屈な,もしくは気の抜けた仕事などはありません。打ち込んでやりさえすれば,想像力を働かして活気のあるものにしえないほど単調な仕事などは決してありません。
14 祭司たちは自らをどうみなしましたか。使徒パウロの述べたどんな態度は仕事の上でわたしたちの助けとなりますか。
14 エホバの祭司たちは仕事に携わるさい,自らを神の共働者とみなしたので,自分たちの割当てを単に行なわねばならないあたりまえの仕事とは見ずに,特権と見ることができました。その割当てには卑しいところがあったにもかかわらず,使徒パウロが鼓舞したと同様のりっぱな精神を維持することができました。パウロはこう語りました。「食ふにも飲むにも何事をなすにも,凡て神の栄光を顕すやうに為よ」。またこうも述べています。「汝ら何事をなすにも人に事ふる如くせず,〔エホバ〕に事ふる如く心より行へ」。(コリント前 10:31。コロサイ 3:23〔新〕)しかし,人はたとえ自らを神の共働者とみなすにしても,やはり身を入れて仕事をしなければなりません。神の共働者としてそのように精力的また勤勉に身を入れて働いてこそ初めて物事を成し遂げ,真の幸福をもたらせるのです。自分の仕事に対してこのような態度をお持ちですか。
15 ヘブル人は仕事をどのように見なしましたか。勤勉や熟練という事がらはどう考えられましたか。
15 昔のヘブル人は彼らの祭司たちと同様,仕事の大切さを決して疑いませんでした。仕事はたいへん誉れのあるもの,神聖な務め,神からの賜物とみなしました。タルマッドはこう教えています。「息子に技術を教えない者は,いわば息子を強盗に育て上げているようなものである」。「労働は大いに尊ぶべきことである。それは労働者を向上させ,彼を扶養するものだからである」。聖書は勤勉さと熟達した働きを称賛してこう述べています。「汝その業に巧なる人を見るか 斯る人は王の前に立ん かならず賤者の前にたゝじ」。(箴 22:29)勤勉さは,富の同意語でした。(箴 10:4; 12:27)クリスチャンの使徒パウロも述べました。「人もし働くことを欲せずば,食すべからず」― テサロニケ後 3:10。
16 ヘブル人の女性の仕事はどうみなされましたか。そのことについて箴言は何と述べていますか。
16 ヘブル人の女性の間でさえ,勤労は称賛されました。自らの手を用いて喜んで働いた女性は「賢き女」として高く推賞されました。そのような女性は,「喜びて手から操き」ます。―箴 31:10,13,31。
17 ユダヤ人の捕虜はなぜ尊ばれましたか。
17 労働がこのように尊ばれたことを考えると,ヘブル人が一国民としてなぜ繁栄したかが容易に理解できます。また,征服者となった種々の国民がヘブル人の捕虜を大切にした理由も容易に理解できます。ツロの王と同様,ネブカデネザルも自分が連れて来た何千人もの捕虜の中に,鍛冶工や金属細工人,大工や石工,造船技士,羊毛や亜麻布の紡織技術の熟練者,靴屋,仕立て屋,塗装工など,あらゆる種類の熟練したユダヤ人の職工を見いだしたに違いありません。―歴代下 2:13,14。
仕事と休息の価値
18,19 休息についてはなんと言えますか。夜の目的を悪用してはなりません。なぜですか。
18 生活には快い周期があって,仕事をする時があれば,休息する時があります。イスラエルの安息に関する神の律法の規定によれば,人間の働く時間のうち7分の1は労働から解放された時とすべきでした。それはからだを休ませるため,また人を強め,活気づけ,ささえるのに資する思考力を改善させるためでした。安息日には人は休息し,崇拝に携わるべきでした。からだは休息を必要としましたが,一方,人は崇拝に携わり,神の考えをもって自分を養うことにより,思いと心に力を得ました。(マタイ 4:4)生きるためには人は神を崇拝しなければならない以上,気を散らすものをいっさい退けてそうした崇拝を行なうのはまさに理にかなっています。仕事は大切ですが,自分の努力を評価し,そうすることによって生きがいと物事を成し遂げた満足感を味わうために,静かに熟考する時間をもやはり持たなければなりません。それは,日中仕事の時間を夢うつつに過ごしなさいというのではなくて,1日の務めを終えたのち,静かに思いめぐらすひとときを持つということです。夜の時間はこの目的によくかないます。
19 それにしても,夜の目的を誤用したり悪用したりしてはなりません。多くの人にとって夜は,ロックンロールを聞いて過ごしたり,ナイトクラブで飲んだり,ダンスホールでレコードに合わせて激しく踊ったりする時とされていますが,それはみな,男女を問わず,人を1日の仕事以上に疲労困ぱいさせてしまいます。しかし神は,からだと思考力を真に回復させる休息のために夜を人間に与えたのです。誠実に仕事をするのと同様,誠実に休息を取れば,平安と喜びがもたらされます。
20 人は今自分のしている仕事についてなぜ自問してみるべきですか。失望すべき理由はありません。なぜですか。
20 日々行なっている仕事以上に人の真価を定めうるものはありません。神は人間に手と行動するための筋肉とを与えました。ですから,行動こそ人の真価を定めるものです。実際,神は人類をその行為にしたがって裁きます。(黙示 20:12)次のように自問するのが賢明なのはそのためです。わたしは自分の命を用いて何をしてきたのだろうか。自分の真価を実証するどんな仕事を行なってきただろうか。あるいは指摘できるだろうか。もしあなたが地上でこれまで生活して成し遂げた事をほとんど,あるいは何も示せなくても,失望しないでください。生き方を変えるのにまだ決しておそすぎはしません。これは良いたよりです。神に栄光を帰する,また永続する満足感を味わいうる有益な仕事を行なう時間はなお残されています。この危機的な困難な時代にあって,あなたが従事して神の共働者となりうる仕事を神は持っておられるのです。その仕事について,またどのようにその仕事にあずかれば,あなたの永遠の幸福に資するかについては,次の記事で論ずることにしましょう。
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永遠の命の報いを望んで一生懸命に働くものみの塔 1972 | 11月15日
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永遠の命の報いを望んで一生懸命に働く
「常に主のわざにおいてなすべき事をたくさん持っていなさい。あなたがたは自分たちの労苦が主にあってむだではないことを知っているのですから」― コリント前 15:58,新。
1,2 (イ)若い人たちはどんな質問をよくしますか。なぜですか。(ロ)ある人たちは自分の過去の人生について何を認めますか。(ハ)詩篇作者とイエス・キリストは人生について,また人類が最も必要としているものについて何を述べていますか。
全く新たな生き方を始める機会がもし今日差し伸べられるとしたなら,あなたはそれを受け入れますか。それとも,今している仕事や今送っている生活で事足れりとしますか。若い人たちは年配の人びとによくこう尋ねます。『もし人生をもう一度やり直せる機会に恵まれるとしたなら,今している同じ仕事をしますか。それとも何か別の仕事を選びますか。あなたのしている同じ仕事を息子や娘にさせたいと思いますか』。若い人たちはこうした詮索好きな質問をして,あなたの仕事は報いをもたらすものかどうか,また自分たちが追求する価値のあるものかどうかを判断しようとするものなのです。
2 しかしながら,報いのない生活をしているにもかかわらず,価値のない仕事で自分の人生を浪費していることを認める人はほとんどいません。しかし,そのことを認めた人のひとりで,人もうらやむ富豪だったアンドリュー・カーネギーは言いました。「もし若さと健康が得られるものなら,私の巨万の富を全部さしあげよう。もしファウストの取り引きができるものなら,私はそうしよう。自分の人生をもう一度やり直すためなら,私は何でも喜んで捨てるだろう」。しかし残念ながら,永遠の命は売り物ではありません。若さと健康は富の力の及ぶものではありません。おそらく人類の中でも,富をまるで万能薬か何かのように考えてその蓄積に狂奔する人たちは,最も哀れむべき人でしょう。その人生はまさにむなしい幻想のそれだからです。霊感を受けた詩篇作者は書きました。「人の世にあるは影にことならず その思ひなやむことはむなしからざるはなし その積蓄ふるものはたが手にをさまるをしらず」。(詩 39:6)あらゆる時代の人間の中の最大の思索者,すなわちイエス・キリストは,ほかならぬ人生の主要な関心事もしくは営みは何かを定めるこの問題を深く探って,二つの鋭い質問の中にその答えを的確に示しながらこう言いました。『人,全世界を儲くとも,己が生命を損せば,何の益あらん,又その生命の代に何を与へんや』。(マタイ 16:26)人間が最も必要とし,しかもいつまでも必要とするのは,イエス・キリストのことばによれば,名声や富,快楽や所有物ではなくて,命そのものです。今,地上の人間はひとり残らず永遠の命の報いのために働くべきでしょう。あなたはそうしていますか。
3,4 (イ)今日,何千人もの人びとはなにを行ない,また何を自分たちの目標としていますか。(ロ)キリストの弟子として歩むには何が必要ですか。どんな報いが期待できますか。
3 今日,あらゆる場所で文字どおり何十万人もの人びとが人生に関するイエスのことばを深く考えています。それらの人たちはイエス・キリストを見習う新しい生き方に答え応じて,永遠の命の報いのために今や一生懸命働いています。(ペテロ前 2:21)1969年,1970年そして1971年の過去わずか3年間に207の土地で合計43万4,906人もの人びとが,自らを永遠の命を受けられる適格者にすることによって人生の大きな変化を経験してきました。彼らはエホバ神に献身し,水の浸礼を受けて,その献身を象徴しました。それらの人たちは物質主義に基づく営みを背後に退け,「朽つる糧のためならで永遠の生命にまで至る糧のために働け。これ人の子の汝らに与へんと為るものなり」と語った,人に訴えるイエスのことばを心にとどめてきました。(ヨハネ 6:27)彼らは生活に必要なものを自ら備えはしますが,それはもはや自分たちの主要な目標ではありません。もしエホバに全幅の信頼を置くならば,生活に必要なものはエホバが備えてくださるということを知っているのです。ですから,彼らは神の王国とその義を第一に求めます。そして,神の約束どおり,それら必要なものはすべて彼らに加えられています。―マタイ 6:25-33。
4 イエス・キリストに見習って,そうした生活をするには信仰が必要です。それは熱心に働くことを意味しており,勤勉さと熟練を要します。それは自己犠牲,自分のものを喜んで分かち合いたいという気持ちを必要とします。あらゆる国の人びとをキリストの弟子とするこの仕事は忍耐強さを要求します。とはいえ,勤勉な働き手はこの神の仕事に喜びを見いだします。詩篇作者が,「わが神よわれは聖意にしたがふことを楽む」と言明したとおりです。(詩 40:8)イエスは聴衆に語りました。「汝等これらの事を知りて之を行はば幸福なり」。(ヨハネ 13:17)クリスチャンとして歩む熱心なわざからしりごみをしない人は,すばらしい究極の報い ― 永遠の命を受ける立場にはいります。―マタイ 16:24,25。
エホバの勤勉な組織に喜び迎えられる
5 1971年のニューヨーク大会でバプテスマの話をした講演者は,キリストの弟子になろうとしていた人びとをどのように歓迎しましたか。それらの人をどんな会衆に迎え入れましたか。
5 クリスチャンの働き人にとって1971年の喜ばしい顕著なできごとは,世界中の各地で開かれた一連のすばらしい「神のお名前」地域大会でした。その大会でのたいへん感動的な光景の一つは,何百人,さらには何千人もの人びとが起立し,イエス・キリストの弟子として歩む熱心なわざに従事する決意を公に表明するのを見ることでした。ニューヨークで開かれたその大会の一つでバプテスマの話をした講演者は,バプテスマ希望者を歓迎してこう言いました。「今朝ここでこうして,エホバ神への愛ゆえにその愛するみ子イエス・キリストの足跡に従うこんなに大勢の皆さんを迎えるのは,なんと胸の踊る喜ばしいことでしょう。皆さんはこれまで何か月もの間,聖書を組織的に勉強し,そして聖書を神の被造物である人間のための神からの案内書として受け入れてきました。また,その基本的な教えを学び,至高の神の正真正銘のしもべとして歩むということにはいったい何が関係しているかを知るようになりました。皆さんの勉強は良い実を結びました。というのは,そうした勉強の結果として皆さんの心の中には強力な欲求が,つまり神の理知ある被造物のすべてが当然なすべきことを行ないたいとの欲求 ― 神に献身したいとの欲求が生じたからです。献身することによって人は喜んで神に永遠に仕えるしもべとなるのです。…わたしたちは皆さんのことをほんとうにうれしく思っていますし,また神の幸福で勤勉なしもべたち,その証人たちの会衆に皆さんを歓迎いたします」。
6,7 (イ)バプテスマを受けた大勢の人びとにとって人生の物事はどのように変わりましたか。彼らはどんな仕事にあずかるよう招かれましたか。(ロ)それらの新しい働き人は忙しい組織にやってきたことをどんな事実が証明していますか。
6 次いで講演者は,非常に忙しい人たちで構成されているエホバの地的な組織に注意を向けさせて,こう語り続けました。「以前,皆さんの多くはおそらく,人生とは目的のないもの,単なる偶然の連続で,ついには重大な偶然である死をもって幕を閉じるものと感じていたかもしれません。また,皆さんの中には…人生は不公平や失意で満ちていることを痛感してきた人もいるでしょう。しかし,今や皆さんにとってそのすべては変わりました。皆さんは生きるための理由を持っています。今日,エホバ神とキリスト・イエスは全地で大きな仕事を行なわせており,しかも,人生を一変させ,命をもたらす仕事にともに働く機会を大勢の人びとのために開いておられることを皆さんは悟りました。神とともに働く労働者なのです! これはのんびりやれるような事がらではありません」。
7 たとえば,1971年中,エホバの証人の組織内の人びとは2億9,195万2,375時間を費やして他の人びとに神のみことば聖書について話しました。また,証人たちは1億3,378万5,116件の再訪問を行ないました。なぜなら,人びとの命のことを心配しているからです。それだけではありません。関心を示した人たちの多くと家庭聖書研究を設けて,平均125万7,904件の研究を司会しました。こうして大勢の人びとが弟子になりました。そのすべては,イエスが,「然れば…往きて,もろもろの国人を弟子とし…バプテスマを施し」なさいと言って追随者に与えた指図に従ってなされたのです。―マタイ 28:19,20。
8 神の民はなぜそのように一生懸命働いているのでしょうか。
8 献身した神の民はなぜそのように一生懸命働いているのでしょうか。それは,彼らの心が神の仕事にあるからです。彼らの献身は純粋なものです。自分たちの生活の中で神の意志を第一にする生き方を選んだとき,彼らは本気でそうしたのです。しかもそのうえ,神から差し伸べられている豊かな報い ― 永遠の命の報いを念頭に置いているのです。それは何と強力な励みを与えるものでしょう。
9 命を愛する人たちはどうしてエホバの証人の隊伍に加わるよう勧められているのですか。
9 命を愛する人はすべて,エホバの証人の隊伍に加わってください。今は特にそうすべき時です。なぜなら,わたしたちは幸いなことに,働き人を最も多く必要とする時代に生活しているからです。イエスが人びとを見て,憫れに思って述べた次のことばを思い起こしてください。「収穫はおほく労働人はすくなし。この故に収穫の主に労働人をその収穫場に遣し給はんことを求めよ」。(マタイ 9:36-38)わたしたちは今や別の偉大な取り入れの仕事の終結する時にいます。神を愛する人たちは,この神の仕事にあずかり,その忠実な働きのすばらしい報い,すなわち永遠の命を刈り取ってください。
10 なぜ事態の急に応ずる態度を培うべきですか。前途の仕事に対してどんな態度を取るべきですか。
10 神の仕事に従事するさい,神への忠節な奉仕の道から人をわきへそらせるおそれのある危険や障害物に気をつける必要があります。仕遂げなければならない仕事,それも今から,現在の邪悪な事物の体制を終わらせる「大かん難」の時までに迅速に仕遂げねばならない仕事に対する正しい見方を持つ必要があるとともに,そうした正しい見方を固守しなければなりません。(マタイ 24:21,新)しかし,どうすればそのような正しい見方を保ち,世の人びとの怠惰な,もしくは無関心な態度や,信仰のない人びとによって影響を受けないようにすることができるでしょうか。
一生懸命働くことに関する正しい見方を常に保ちなさい
11 (イ)クリスチャンの働き人はだれの是認を求めますか。なぜですか。(ロ)真のクリスチャンは仕事に対するどんな態度によって特色づけられていますか。(ハ)パウロはどんな助言を与えていますか。
11 真のクリスチャンはエホバのしもべであり,エホバを愛するゆえにエホバに献身した者である以上,自分たちが,あるいは自分たちの仕事が人にどう思われようと気にする必要はないのではありませんか。真のクリスチャンが切望しているのは神の是認です。「神の誡命を守るは即ち神を愛する」ことなのです。(ヨハネ第一 5:3)王国を宣べ伝えて弟子を作るわざに対するなまぬるい態度は,神に仕える献身した真のしもべのしるしではありません。むしろ,証言を行なう神の偉大な組織の困難なわざにあずかる熱意や熱心さこそ真のクリスチャンを特色づけるものです。(黙示 3:16。ルカ 13:24)わたしたちはさらに多くを行なうことを願い,神とともに働く者としてわたしたちの特に選んだ使命の点で絶えず進歩したいと考えるべきでしょう。(コリント後 1:24)あの根気強い働き人,使徒パウロは,次のように勧めて,わたしたちのために正しい助言を述べました。「汝ら何事をなすにも人に事ふる如くせず,〔エホバ〕に事ふる如く心より行へ。汝らは〔エホバ〕より報として嗣業を受くることを知ればなり」。(コロサイ 3:23,24〔新〕)このことばに注目してください! 報いを与えるのはエホバです。わたしたちは奉仕に関するエホバの規準にかなわなければなりません。このことからすれば,わたしたちはもっと多くを行なえるのではないでしょうか。
12 神に対する純粋の愛に動かされるクリスチャンは何をしますか。
12 クリスチャンは,できるだけ少なく働いてできるだけ多くの報酬を求める俗人に見習う代わりに,神への奉仕の務めをずっと高い水準に置き,はるかに強固な基盤の上に措え,そして絶えず進歩し続けてゆかなければなりません。(ピリピ 3:16)また,人間ではなくて,わたしたちの心を試す神を喜ばせるよう努めます。(テサロニケ前 2:4)そして,キリストやその使徒たちのように,自分を喜ばせたり骨惜しみしたりせずに,神のよしとする事がらに従事し続けます。―ヨハネ 8:29。使行 20:31。
13 クリスチャンの携わる取り入れの仕事はなぜ急を要するものなのですか。
13 それに,神の取り入れの仕事を成し遂げることは急を要します。今やこの邪悪な事物の体制と,依然その一部となっている人びとすべてに突如終わりが臨むまでの時間はわずかしかないからです。神との平和を見いだし,神の側に,またこの古い体制とその神サタン悪魔に対抗してしっかりと立つよう,なおどれほど多くの人びとを援助できるかを考えてみてください。この好期がたちまちにして尽きるとき,命をもたらす神の真理のみことば聖書を用いてそれらの人たちの心を動かすのに何を行なえるでしょうか。それは見過ごしてはならない現実の挑戦です。―エペソ 5:15-17。
人を消極的に,また憂うつにさせる力に警戒しなさい
14 クリスチャンの働き人は何を予期できますか。ガラテヤ書 6章には,それに対抗するためのどんな助言がしるされていますか。
14 神の仕事またその働き人たちはサタンとその組織の憤りと憎しみを引き起こすものとなり,次いでサタンとその組織は神に対するクリスチャンの忠誠を破らせようとしてクリスチャンにあらゆる圧力を加えさせるということは,当然予想されます。たとえ不信者の配偶者や自分の家族の他の成員もしくは親しい友が,あなたを失望させようとするほかならぬ悪魔の用いる器となる場合でさえ,献身した自分と神との関係からそらされないようにしてください。たとえ神の会衆内の仲間の働き人たちが,あなたが最も必要としている慰めや助けをどういうわけか与えてくれないとしても,それはエホバから差し伸べられた,誉れある有意義な仕事を見捨てる正当な理由とは決してなりません。それどころか,大いにエホバのみことばに頼り,またその約束に絶対の信頼を置いてください。霊のためにまいている人は,もし倦み疲れないなら,霊から永遠の命を刈り取ります。このことを確信してください。―ガラテヤ 6:8-10。
15 疑問が生ずる場合,わたしたちはだれの答えを求めるべきですか。わたしたちはだれの模範に見習えますか。
15 もし悪魔に悩まされて,『これはみなむだだろうか。私は実際に何かを成し遂げているだろうか。圧迫を受け,非難・嘲笑を浴びながらこの仕事を全部することが私に求められているのだろうか』という疑問もしくは考え方に苦しめられるなら,どうすべきですか。正しい答え,信頼できる答えを与えうるのはエホバだけであることを思い起こしてください。弟子を作るこの仕事をしもべたちに委ねたのはエホバだからです。疑問が生ずる場合,あなたに必要なのはエホバの答えです。すぐエホバのもとに行って尋ねてください。(箴 3:5,6。マタイ 7:7)預言者ヨブのことを思い起こしてください。信仰のきびしい試練にさいしてヨブは,なんと最後までその唇をもって神を敬い続けたのです。それゆえに神は彼を祝福しました。また,ヘブル書 11章にしるされている信仰の人びとのことを思い起こし,彼らの経験から益を得てください。弟子ヤコブは書きました。「視よ,我らは忍ぶ者を幸福なりと思ふ」。「試錬に耐ふる者は幸福なり,之を善しとせらるる時は,〔エホバ〕のおのれを愛する者に約束し給ひし,生命の冠冕を受くべければなり」― ヤコブ 5:11; 1:12〔新〕。
神の意志を意に介さなかった過去の埋め合わせをする
16 (イ)何を振り返ってみるのは有益ですか。なぜですか。(ロ)わたしたちは使徒ペテロのどんなことばを心に銘記できますか。(ハ)ヨナの例はどのように益するものとなりますか。
16 時おり過去を振り返って,神のしもべになる以前の,神もなければ,世にあって希望もなかった昔の自分の立場を回顧するのは良いことです。そのような過去を振り返ってみると,神のことなど少しも考えなかった無とんじゃくな昔の生活の埋め合わせをしたいとの真剣な願いが呼び起こされるでしょう。しかしどうすれば,神とその意志を無視した自分の過去の埋め合わせを行なえますか。エホバへの奉仕で努力し,自分の過去を悔い改めたことを実証することによってそれを行なえます。ペテロはこのように正しい態度で身を固めることを勧めて,「これ今よりのち,人の慾に従はず,神の〔意志〕に従ひて肉体に寓れる残の時を過さん為なり。なんぢら過ぎにし日は,異邦人の好む所をおこなひ,好色…に歩みて,もはや足れり」と述べています。(ペテロ前 4:2-11〔新〕)預言者ヨナは好例です。本心に立ち返り,神に対する自分の責任を回避していたことに気づいたヨナは身を転じました。そして,「我は…海と陸とを造りたまひし天の神エホバを畏るゝ者なり」と大声でふれ告げた,としるされています。彼はさらに,「されど我は感謝の声をもて汝に献祭をなし 又わが誓願をなんぢに償さん 救はエホバより出るなり」と宣言しました。(ヨナ 1:9; 2:9)ヨナは大事を意に介さなかった自分の過去の埋め合わせをすることをしきりに求めました。わたしたちもそうすべきでしょう。
17 (イ)忙しいクリスチャンは何を念頭に置くべきですか。(ロ)パウロはそれと同じことをどのように気にかけていましたか。
17 同時に,エホバは情け深くも王国に関する忙しい仕事にあずかるようわたしたちを招いていますが,一方,日常生活の種々の関係において良い行状を保つことをもわたしたちに期待しています。このことも念頭に置いてください。宣べ伝えるわざに忙しく携わっていても,一方で自分の道徳規準を引き下げているなら,神に対する愛ゆえに仕えているのではないことになります。まちがった動機で奉仕するなら,わたしたちの仕事はすべて無効になりかねません。ですから,主の仕事に忙しく従事する一方,あらゆる点で神の是認を得られるよう努力しましょう。これは,屈強な働き手だった使徒パウロが,次のように断言したときに気にかけていた事がらでした。「わが体を打擲きて之を服従せしむ。恐らくは他人に宣伝へて自ら棄てらるる事あらん」― コリント前 9:27。
18 どうすれば神から棄てられることがないように自らを守ることができますか。
18 聖書の述べるあの新しい人格をつけることによって,自ら棄てられることがないようにしてください。(エペソ 4:22-24。コロサイ 3:9,10)神の霊が自由に流れて,生活のあらゆる面で導きを得られるようにしてください。そうすれば,霊の結ぶ実がおのずから明らかになり,次いで愛,喜び,平和その他,霊の結ぶ実がわたしたちの互いの関係に有益な影響を及ぼすでしょう。そのように断固として良心的に努力するなら,それはわたしたちが正しい動機と清い心をいだいて神に仕えている証拠となります。―ガラテヤ 5:16-25。
報いに対する正しい見方は,励みを与える有用なもの
19 報いに対する正しい見方もあるに違いありません。なぜですか。
19 宣べ伝える仕事に対する正しい見方だけでなく,報いに対する正しい見方も必要です。考え違いをしないでください。報いを望んで働くことと,神への愛ゆえに働くこととは確かに矛盾してはいません。どうしてでしょうか。報いを差し伸べ,またそれを得るよう努力すべきことを命じているのは神だからです。テトス書 1章1,2節には,「永遠の生命の望に基きて…偽りなき神は,創世の前に…約束し給(へり)」としるされています。神がご自分のひとり子イエス・キリストを贖いとして与え,『すべて信ずる者が彼によりて生命を得』られるようにしてくださったのは,その約束の命の賜物を考えてのことでした。(ヨハネ 3:14-16,36)神はそのような貴重な賜物を用意したのですから,最善を尽くしてそれを得ようと努力する人たちを愛せずにはおられません。それに,霊感を受けた聖書は,「信仰なくしては神に悦ばるること能はず,そは神に来る者は,神の在すことと神の己を求むる者に報い給ふこととを,必ず信ずべければなり」との保証のことばを述べています。(ヘブル 11:6)その報いとは何ですか。その報いとは神の新秩序の正しい状態のもとで享受する永遠の命であることを常に思い起こしてください。ですから,今,報いを得るために努力し,なお機会があるうちに,報いを得る資格を得てください。
20,21 (イ)神の新秩序での生活はどのようなものでしょうか。(ロ)あらゆる場所で人びとは何を享受し,またこの地を何に変えますか。
20 神の新秩序での生活は,わたしたちが今日見ているものとは何と異なっていることでしょう。今日,人は長年月を費やして家庭を築き,美しい庭園を作りますが,突如として死んで,それを他の人に残すにすぎません。しかし約束の新秩序では,多年働いて得た成果をいつまでも享受できるのです。天と海と陸とに見られるあらゆる驚異を考えてごらんなさい。非常に進んだ科学者といえども,この宇宙の基盤を成す叡知や原理を理解しようとしてほんの表面をかすったにすぎないのです。忠誠を保つ神のしもべたちは,その時,永遠の命の報いを享受するので,それら創造の驚異をつぶさに研究する十分の機会に恵まれるでしょう。その時,各地を旅行して,あらゆる人種の仲間の人びとと親しく知り合い,また地上のあらゆる場所の動物をじかに知る十分の時間を持てるでしょう。
21 何よりも,地上のあらゆる場所の人びとは神の地的な子らとして平和と自由を享受するのです。この古い事物の体制をむしばむ恐れからも解放されます。また,どんな仕事に取りかかるにしても,その面でエホバに仕えることができます。神は,すべての人が有意義な仕事につけるよう取り計らってくださるからです。それは重荷となったり,自分自身の,あるいは他の人びとの命を危くしたりする仕事でなくて,人間を復帰させ,この地を美しい園のような楽園に変えることに関する仕事なのです。
22 将来の新しい事物の体制について考えるさい,想像をたくましくしないようにするのはなぜ賢明ですか。
22 もちろん,新秩序の状態について考えるさい,エホバがそのみことば聖書の中で約束していない状態を,想像をたくましくして思いめぐらすようなことはしないように注意するのは賢明です。たとえば,その輝かしい時代に行なわれると期待されるある活動に備えて今訓練する必要などは少しもありません。その時が来れば,そうした訓練や経験を積む十分の時間があるからです。神の王国の支配下では,人びとは時間と戦うことなど全然ない体制の中で生活します。時間は依然として日や年を区切るものではあっても,その時,命は無窮ですから,急ぐ必要はなくなります。
23 クリスチャンの働き人にはなぜ報いが保証されていますか。クリスチャンはだれの模範に見習うよう求められていますか。
23 神の民が一生懸命に働きつつ望み見ている報いは確かなものです。それは創造者自らが保証しておられるからです。その創造者について使徒パウロは確信をいだいて言明しました。「神は不義に在さねば,汝らの勤労と…御名のために顕したる愛とを忘れ給ふことなし」。(ヘブル 6:10)神の王国の良いたよりをふれ告げ,またそうすることによって神の聖なるみ名エホバを広く知らせるあなたの熱心な勤労が報われぬままに終わることはありません。それは確かなことですから,次のように告げられた神のことばに対する破れることのない信仰を保持したアブラハムのようであってください。「アブラムよ懼るなかれ我は汝の干櫓なり 汝のたまものは甚大なるべし」。(創世 15:1)また,「ねがはくはエホバ汝の行為に報いたまへ ねがはくはイスラエルの神エホバ即ち汝がその翼の下に身を寄せんとて来れる者 汝に十分の報施をたまはんことを」とあるように,自分に差し伸べられたすばらしい見込みを全き信仰をいだいて受け入れたモアブ人の女ルツのようであってください。(ルツ 2:12)エホバの大きく開かれた翼の下にその同労者として身を寄せる力と勇気をあなたも見いだせますように。
24 クリスチャンの仕事は,あらゆる目的の中でも最高の目的を有するものです。なぜですか。どんな結果が見込まれていますか。
24 仕事に対する正しい態度を表わすとともに,あなたの努力をゆるめないでください。かえって,常に目ざとくあって主の仕事においてなすべきことをたくさん持ち,できるなら,さらに多くのことを行なってください。(コリント前 15:58)神に対するわたしたちの奉仕は,人が専念しうる最高の仕事です。それはあらゆる目的の中で最大のものです。それはわたしたちの神で創造者であるエホバのみ名に関係していますから,確かにそれは失敗に帰する目的ではありません。むしろそれは勝利を博する目的であり,その達成のために勤勉に働く人たちに,今や間近に迫った神の新秩序で終わりのない命にあずかる見込みのある充実した満足のゆく生活を今送れるとの約束を与えるものです。あらゆる目的の中でもこの最も急を要する目的の達成にわたしたちとともに今あずかる資格をあなたが身につけられますように。
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