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エホバのしもべたちは異なっているものみの塔 1970 | 11月15日
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その相違を,だれの目にもよくわかるように目だたせました。―マタイ 9:14-17,新。
18 一方,イエスは,権威のある教え方と,地上の一般の人びとと自由に交わることとによって,きわ立って異なっていました。(マタイ 7:29; 9:11)他方,教えた事柄のゆえに,ひときわ異なっておられました。イエスが人を喜ばせようとするかたでないことは,彼の語ったことばから,きわめて明りょうです。行なった種々の奇跡のゆえに,その国民の中で最も人気のある者となり,そのため,彼の敵は,「みよ,世は彼に従へり」と語ったほどです。(ヨハネ 12:19)それにもかかわらず,イエスは,支配者あるいは被支配者の歓心を買おうとしたりはしませんでした。大胆にも,彼はこう語りました。「……と云へることあるを汝らきけり。されど我は汝らに告ぐ」。(マタイ 5:27-48)「なんぢらこの宮をこぼて,われ三日のうちにこれを起さん」。「人の子の肉を食はず,その血を飲まずば,汝らに生命なし」。「まことに誠に汝らに告ぐ,アブラハムの生れいでぬ前より我はあるなり」。まるで,聴衆を驚かし,ゆさぶり動かしたいと思っておられたかのようでした。耳をくすぐるような伝道者ではなかったのです。―ヨハネ 2:19; 6:53; 8:58。
19 そのあからさまな話し方には,彼の弟子たちさえ,時々驚かされました。ある時,弟子たちはこう言いました。「御言をききてパリサイ人のつまづきたるを知り給ふか」。それで,それらパリサイ人は,自分たちの伝統によって神のことばをむなしくしている,とイエスに言われてつまずいたとすれば,偽善者・へび・まむしの子孫,そして,ほかならぬ悪魔サタン自身の子らと呼ばれて,イエスにきびしく懲らしめられたとき,それはそれは激しく反発したに違いありません。イエスは,語った事柄のゆえに,自分が異なっていることにひけめを感じたりは,決してなさいませんでした。それは,彼が行なったことについても言えます。このことは,2度にわたって,ご自分の父の神殿から,貪欲な両替人たちを追い出した事件からもわかります。―マタイ 15:12; 23:13-39。マルコ 11:15-18。ヨハネ 2:13-17; 8:44。
同様に,イエスの弟子たちも異なっていた
20,21 イエスの使徒や初期の弟子たちは,周囲の人びとと異なっていることを,どのように実証しましたか。
20 イエスの弟子たちは,イエスに見習い,同じ仕方で同じ神を崇拝していたのですから,イエスと同様,仲間のユダヤ人とは異なっていたに違いありません。ナザレのイエスこそ待望のメシヤであって,エホバ神は彼を死からよみがえらせた,という彼らの特異な音信と,その伝道方法の点でも,彼らはきわ立って異なっていました。ペテロと,その仲間の者たちが,イエス・キリストについて,恐れることなく証するのを見た反対者たちは,「その無学の凡人なるを知りたれば,これをあやしみ」ました。そうです,どうして彼らが,教育のない普通の漁師と全く異なる者になったのかをあやしみ,「かつそのイエスとともにありし事を認(め)」ました。―使行 4:13。
21 イエスの初期の弟子や使徒たちについていえば,わたしたちは,だれよりも使徒パウロについて多くを知っています。彼は,「八日めに割礼を受けたる者にして,イスラエルの血統,ベニヤミンの族,ヘブル人より出でたるヘブル人」で,「律法につきては[厳格で熱狂的な]パリサイ人」でした。クリスチャンになったパウロは,以前の仲間たちのすべてとは,全く異なっていたに違いありません。彼は今や,あまりにも異なっていたため,テサロニケのユダヤ人は,パウロとその同労者たちを,「天下をくつがへした」として,訴えたのです。王アグリッパ2世の前でパウロが弁明した時,「パウロよ,なんぢ狂気せり,博学なんぢを狂気せしめたり」と,フェストが呼んだのも,無理からぬことでした。パウロは,現在の事物の体制に迎合してはならない,と他のクリスチャンに教えただけでなく,教えたことを,確かに実践しました。―ピリピ 3:5,6。使行 17:6; 26:24。ロマ 12:2。
使徒時代以後のクリスチャンも異なっていた
22-25 (イ)使徒時代以後のクリスチャンは,彼らの宗教の点で,どのようにきわ立って異なっていましたか。(ロ)カイザルと彼らの関係,(ハ)その道徳,(ニ)互いに対する彼らの愛の点ではどうでしたか。
22 使徒たちが死の眠りについてまもなく,つまり,「人々の眠れる間に」,敵であるサタン悪魔がやってきて,小麦の畑に雑草の種をまきましたが,小麦の畑が直ちに,雑草のはえる土地と化したわけではありません。(マタイ 13:25)それで,初期の教会史家は,当時のクリスチャンが周囲の人びととはきわ立って異なっていたことを述べています。その相違は,少なくとも四つの別個の事柄に明らかにみられます。そのひとつとして,彼らは宗教の問題で,他の人びとすべてと,きわ立って異なっていました。その信仰内容と崇拝の方式だけでなく,自分たちの宗教だけが真の宗教であるとし,他のすべてを偽りとした,その主張も特異なものでした。そう主張するには,勇気を要しました。それは,一教会史家が述べたとおりです。「クリスチャンにとって,その神は,決して,イシスやミトラ,あるいはアウグスツスと同じ範ちゅうに入れることのできないものであった」。ローマの皇帝たちは,さまざまな宗教を容認しましたが,「ローマの神々および他のあらゆる宗教の神々は等しく偽りである」と教え,かつ,「全人類を,その信仰に引き入れることに努めた」宗教だけは,認めませんでした。
23 それら初期クリスチャンはまた,当時の事物の体制の他の部分との関係においても,きわ立って異なっていました。彼らは,政府の公職につくことや,カイザルの軍隊にはいることを拒む一方,物質主義を退けました。物質上の富の獲得は,もはや人生の目標ではなくなり,そうした富は,伝道活動を拡大する単なる手段として用いられました。
24 初期クリスチャンは,道徳面でも,同様に,きわ立って異なっていました。当時のローマおよびギリシア文明の世界には,あらゆる種類の不道徳がはびこり,性的不道徳は人びとの崇拝の一部をさえ成しており。同性愛行為その他の性的倒錯がはやっていました。歴史家は,初期クリスチャンが,この点でも周囲の人びとといかに異なっていたかをしるしています。「われわれは,彼らの非の打ちどころのない生活,申し分のない道徳,その善良な市民生活,また,クリスチャンとしての美徳を裏づける証拠を持っている」。
25 そして最後に,それら初期クリスチャンは,互いに対する深い無私の愛の点でも,ひときわ異なっていました。そうあるべきであると語られたイエスの次のことばどおりだったのです。「あなたがたが自分たちの間で愛をいだいているならば,それによって,すべての者が,あなたがたはわたしの弟子であることを知るであろう」― ヨハネ 13:34,35,新。
26 アベルの時から,使徒時代以後の時期に至るまで,エホバのしもべたちに関して,きわ立っている事実をあげなさい。現代については,どうですか。
26 疑問の余地は少しもありません。霊感による記録も,そうでないものも,エホバのしもべたちは,アベルの時以来,使徒時代以後の初期に至るまで,周囲の人びとと異なっていたことを証しています。しかし,現代についてはどうですか。前述のことは,今もなお真実ですか。次の記事をお読みになれば,そうであることが,おわかりになるでしょう。
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世は,あなたの歩みに当惑していますか ― そうあってしかるべきですものみの塔 1970 | 11月15日
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世は,あなたの歩みに当惑していますか ― そうあってしかるべきです
「あなたがたは,こうした道を,放とうの同じ卑しい深みまで,彼らとともに走りつづけないゆえに,彼らは当惑して,あなたがたをば倒しつづけるのである」― ペテロ前 4:4,新。
1,2 神を喜ばせながら,同時に,世の友でありたいと考える人の歩みが,いかに愚かであるかを示す,聖書の証拠をあげなさい。
神とキリストに仕えるクリスチャンである,と唱えながら,同時に世の友となろうとする人は,たいへん愚かであるといわねばなりません。この二つの立場に同時に立とうとするのは,水と油を混ぜるようなもので,決してできることではありません。なぜできないのですか。なぜなら,使徒ヨハネが述べるとおり,「全世界は邪悪な者の権力のもとにある」からです。―ヨハネ第一 5:17,新。
2 それゆえに,イエスの次の警告どおり,世はわたしたちを憎むのです。「あなたがたは世の一部ではなく,わたしがあなたがたを世から選び出したのである。それゆえに,世はあなたがたを憎むのである」。使徒ヨハネが次のようにさとしたのも,もっともです。「世も,世の中のものをも愛していてはいけない。もし,だれかが世を愛するなら,父への愛は彼のうちにはない。なぜなら,世の中のもの ― 肉の欲求,目の欲求,また,自分の生活の資産をはでにひけらかすこと ― はみな,父から生ずるのではなく,世から生ずるからである。そのうえ,世は過ぎ去りつつあり,その欲求も同様である。しかし,神の意志を行なう者は,永遠にとどまるのである」。―ヨハネ 15:19,新。ヨハネ第一 2:15-17,新。
3 神と世とを同時に喜ばすことに関し,パウロとヤコブは,どんなことを述べていますか。
3 世は肉の事柄を思う以上,どうしてこのさとしの逆でありうるでしょうか。この点について,こう告げられています。「肉の思うことは,神との敵対を意味しているからである。それは,神の律法に服しておらず,また,事実,服しえないからである。ゆえに,肉に従っている者は,神を喜ばせることができないのである」。それで,イエスの異父兄弟,ヤコブが次のように書いたのも当然です。「わたしたちの神また父の立場から見て,清く,汚れのない崇拝の方式は…世のよごれを持たぬよう,みずからを守ることである」。また,こうしるされています。「姦淫をおこなふ者よ,世の友となるは,神に敵するなるを知らぬか,たれにても世の友とならんと欲する者は,己を神の敵とするなり」。―ロマ 8:7,8,新。ヤコブ 1:27,新; 4:4。
4,5 聖書と事実が示すとおり,世はどんな行動を追求しますか。
4 現在の世界は,サタン悪魔の権力のもとにあるのですから,エペソ書 4章17-19節〔新〕で,いみじくもパウロが述べたとおり,邪悪をきわめているのも不思議ではありません。「なんぢら今よりのち異邦人のその〔思い〕のむなしきにまかせて歩むがごとく歩むな。彼らは念暗くなりてその内なる無知により,〔心臓〕の頑固によりて神の生命に遠ざかり,恥を知らず,放縦にすべての汚穢をおこなはんとて己を好色に付せり」。これはなんとはっきりしたことばでしょう。しかも,テモテ後書 3章1-5節に予告されているとおり,このことばは,今日の世界にさらにぴったりとあてはまる,ということを忘れないでください。
5 そうです,どこを見ても,道徳の退廃があふれています。映画・テレビ・演劇・小説・新聞・大衆雑誌などは不道徳を売り物にし,堕落した欲情を満足させるものとなっています。みだらなシーンや,わいせつ行為のあふれた映画が,“成人向け”あるいは,おとな専用の映画として宣伝されていますが,そうした映画の上映されている劇場は,官能的なシーンを喜ぶ老若男女であふれています。性病が疫病のようにまん延し,私生児の出生がいよいよふえているのも,もっともです。かつては,わいせつなことを好む人は,わいせつをこととする,好色的でみだらな娯楽を提供する場所や読み物をさがすために,いろいろ苦労しなければなりませんでしたが,今ではその逆で,そうしたものが,一時に,あらゆる方面から押しつけられるのです。それで,徳を高める健全な清い娯楽や読み物をたのしむには,うっかりして自分の心臓と思いを汚すことがないように,じゅうぶんに注意し,慎重を期さねばなりません。今後,流行歌は,きそってその同じ方向に進み,性を暗示することばで満たされてゆきます。ダンス音楽や女性のスタイルについても,同じことが言えます。この世は再び,性を崇拝しているのです。ただ,現代の男根崇拝は宗教の名のもとで行なわれていないだけです。しかし,それは偶像崇拝の一種の形式で,きわめて貪欲なものです。―コロサイ 3:5。
6 人びとがこの世に迎合しようとするのはなぜですか。世の圧力に特に屈しやすいのはだれですか。
6 滅びに定められた,この古い世は,サタン悪魔の支配下にあって,苦悩し,かつ,道徳的に退廃をきわめています。では,人びとがなおも世に迎合するのはなぜですか。みんなによく思われたい,と考えるのはなぜですか。なかでも,主義の問題で,他ときわ立って異なるのを,ひどく恐れるのはなぜですか。なぜ,「人をおそ(れ)る」わなに捕えられているのですか。(箴言 29:25)それは,行動を律する規則が,しっかりした土台を失ったためであり,精神・道徳・感情・宗教・哲学などの面で確信を失い,動揺しているためです。神のことばの権威を退けた人は,基点となるべきものを持っていません。ですから,そのような人は,「人のあざむきごとと誘惑のてだてたる悪巧とより起るさまざまの教の風に吹きまはされ(る)」「幼童」のような者です。(エペソ 4:14)そして,特に,若い人びとは,人間への恐れ,また,人気を得たい,理解してもらいたい,よく思われたい,わかってもらいたい,という欺きの欲求のわなに陥る危険があります。なかでも,クラスの友だちときわ立って異なって見えることに,ともすると,ひけめを感ずる,それどころか,それをひどくきらう人がいます。それは未熟さのせいです。“変わり者”扱いされることを恐れるのです。
7 エホバに対する忠実を実証したいなら,どんな事実を甘んじて受け入れねばなりませんか。
7 しかし,以上の事実すべてから考えて,わたしたちは,世ときわ立って異なっていることを誇りとすべきです。まさにそうあってしかるべきなのです。このことを甘んじて受け入れなければ,エホバへの忠実を実証できません。そうでなければ,不満や失意,あるいは人間への恐れなどのわなに陥ってしまうからです。イエスの次の警告を忘れてはなりません。「すべての人,なんぢらを誉めなば,汝ら禍害なり。彼らの先祖が虚偽の預言者たちになししも,かくありき」。(ルカ 6:26)それとは逆に,わたしたちは,使徒たちのようでありたいと思います。また,そうでなければなりません。使徒たちは,公にはずかしめられ,むち打たれたのち,「御名のために辱しめらるるにふさはしき者とせられたるを喜びつつ」出ていった,としるされています。そうです,他と異なっていることを大いに喜ぶべきです。世がわたしたちの歩みに当惑していること,世が,わたしたちを“げせない”,あるいは理解できないでいること,また,「キリストのために愚なる者」とされた使徒パウロ同様,わたしたちが,たいへん愚かな者とみなされていることを,わたしたちは誇りとすべきです。―使行 5:41。コリント前 4:10。
エホバに対するあなたの崇拝に当惑する
8,9 わたしたちの信仰と名前の根拠に関する,どんな点に,世は当惑しますか。
8 あなたは,弟子を作る,良いたよりのりっぱな奉仕者ですか。そうであることを実証するなら,世はあなたの行動に当惑するでしょう。使徒パウロがテモテ前書 6章20節でさとしているように,この世の誤った知識を退けて,聖書を受け入れることがどうしてできるのかを世はどうしても理解できません。『神は偽ることができない』という立場を取り,「人はみな偽り者であっても,神は真実であることを認めさせ(る)」ゆえに,あなたは変人または,愚か者とみなされるでしょう。「あなたはほんとうに聖書を信じているのですか。その全部をですか。そんなばかな,時代遅れもはなはだしいことです。単純すぎますよ」。いぶかしそうに,こう尋ねる人に会うことでしょう。―ヘブル 6:18,ロマ 3:4,新。
9 また,エホバの名を用い,自分がその証人のひとりであることを明らかにするなら,世はあなたの歩みに当惑するでしょう。世の人びとは,それを奇妙な名前と考え,ヘブル語聖書の神を嘲笑し,エホバとは,血に飢えた軍神,また,ユダヤ人の民族神であると言います。しかし,あなたの用いる名称は,「ルーテル派」「メソジスト」「バプテスト」「クエーカー」などの,キリスト教世界の多数の宗派名のような単なる呼び名ではありません。それどころか,イザヤ書 43章10-12節(新)にしるされているとおり,エホバ神ご自身がそのしもべたちの名称を次のように示されたのです。「エホバはこう言われる。『あなたがたはわたしの証人であり,わたしの選んだ,わたしのしもべである。……わたしは神である』」。
10 わたしたちの崇拝の方式に関する,どんな事柄のゆえに世は当惑しますか。
10 また,毎週開かれている,会衆の五つの集会に,天候のいかんを問わず,定期的かつ熱心に出席するなら,この世はあなたの歩みに当惑するでしょう。スポーツの試合,その他の娯楽などに目もくれず,聖書の集会に行くあなたは,狂信者としてのらく印を押されるかもしれません。仲間のクリスチャンとともに集まることをやめてはならない,という使徒の助言に忠実に従って,いったいどうして“楽しい”のかが,世の人びとには理解できません。この世で最も宗教熱心とされる人びとでさえ,神が求めておられるのは,1週間に1回,集会に行くことであると考えているのです。―ヘブル 10:24,25。
11,12 わたしたちが携わる,どんな神権的活動は,世を当惑させるものとなっていますか。
11 同時に,ヨハネ伝 2章17節にあるように,イエスが表わした燃えるような熱心さを示すなら,あなたのこの世の知人は当惑するでしょう。良いたよりを伝え,弟子を作るため,街頭に立って雑誌を人びとにすすめ,天候のいかんを問わず戸別訪問をし,退けられるのを覚悟で,偶然の証言をするあなたを見て,気が変になったのではなかろうか,と人はあやしみます。どちらかといえば,人は神とイエス・キリストのために何ほどのこともしたいとは考えていないのですから,理解することなどとてもできません。
12 そして,特に,良いたよりのために,文字どおり,すべてをあとにして,あなたの模範者,イエス・キリストに従い,開拓奉仕,宣教者奉仕,ベテル本部での奉仕にはいる場合,世はあなたの歩みに当惑するでしょう。イエスの使徒たちのようになって,クリスチャン宣教のために,家族・友人・家・土地・経済的に安定した地位・有望な仕事をあとにする必要がどこにあるのか,世の人びとにはどうしても理解できません。何かの宗教を持つのは,良いことですが,『とんでもない。それほどまでに真剣に考えなくても,よさそうなものに』というのが,世の考え方です。しかし,イエスがペテロに語ったことばが,マルコ伝 10章28-30節にしるされているとおり,こうした全時間宣教こそ,人間の携わりうる最も報い多い仕事なのです。それに携わる人は,現在の生活および現在の事物の体制において,家・兄弟・姉妹・母の百倍を受け,それとともに,間近に迫った新しい事物の体制における永遠の命にあずかる希望を得るからです。クリスチャン宣教に熱心に携われば携わるほど,世はあなたの歩みに当惑させられるのです。このことには疑問の余地がありません。
あなたの中立の立場に当惑する
13,14 政治問題に対するクリスチャンのどんな態度は,多くの人を当惑させるものといえますか。
13 また,世の諸国家の政治や戦争に関して,クリスチャンの中立の立場に堅くつき従い,さらに,キリストの王国はこの世の一部ではなく,クリスチャンの国籍は天にあるという立場を取るなら,世は,あなたの歩みに当惑するでしょう。(ヨハネ 18:36。ピリピ 3:20)善意を持つ人はすべて,公民権運動のたぐいを支援し,すぐれた立候補者や政党また綱領などを支持し,なかでも,恒久平和のための人類の唯一の希望とされる国際連合を支持すべきである,と世の人びとは考えます。キリスト教世界,また,他の宗教世界のいずれを問わず,僧職者のほとんどすべてが,政治に深く介入しているのですから,あなたがそうしない理由を理解できないのです。
14 それとともに,国旗敬礼をしたり,国歌がうたわれでいるときに起立したりなどして,愛国心をあからさまに表明することをしないと,世は,あなたの歩みに当惑するでしょう。そして,剣をすきの刃に,やりを刈り込みばさみに打ち変えることにあずかり,したがって,軍服を着て戦場におもむき,仲間の人間を殺すことを拒むあなたの秘められた動機を,おそらく非難するでしょう。世の人は尋ねます。「もし,みんなが,あなたのような信仰を持って行動したなら,われわれはいったいどうなるのか」。もし,みんながそうするなら,確かに戦争などはなくなってしまうでしょう。それこそ,願ってもないことではありませんか。―イザヤ 2:4。
聖書の原則につき従うあなたに当惑する
15 ペテロの時代のクリスチャンは,どうして世を当惑させる者となりましたか。
15 同様に,私的な行為に関するクリスチャンの原則につき従うと,世は,あなたの生き方に当惑するでしょう。使徒ペテロが,初期クリスチャンに書き送ったとおりです。「あなたがたが,みだらな行ない,愛欲,ぶどう酒の暴飲,飲み騒ぎ,飲みくらべ,また,不法な偶像崇拝をつづけ,諸国民の望むことをやって過ごした時代は,それで十分だからである。あなたがたは,こうした道を,放とうの同じ卑しい深みまで,彼らとともに走りつづけないゆえに,彼らは当惑して,あなたがたをば倒しつづけるのである」。(ペテロ前 4:3,4,新)世の性道徳が,大洪水前,また,昔のソドムとゴモラにおけるほどにすたれている今,次の賢明な助言に,あなたがなぜ聞き従うのか,世の人は理解できません。「淫行や,あらゆる種類の不潔なこと,あるいは,どん欲を,あなたがたの間では,神聖な人々にまったくふさわしく,口にすることさえしないようにしよう。また,恥ずべき行ない,愚かな話,あるいは,わいせつな冗談をいうこともしないようにしよう。それらは,ふさわしいことではない。むしろ,感謝をささげることをしよう」― エペソ 5:3,4,新。
16,17 (イ)エホバのしもべたちは,従業員としての正直さに関し,(ロ)カイザルに返すべきものを返すことに関し,どのように世ときわ立って異なっていますか。
16 また,雇用関係など,仕事上の問題に関する正しい原則につき従う態度に,世は当惑させられます。できるだけ少なく働いて,給料あるいは手当をもらうこと,また,仕事の手をぬいたり,中休みを長びかせたり,責任を回避したりなどすることは,上手なやり方とされています。クリスチャンは,コロサイ書 3章22,23節の助言に従い,与えられた仕事はなんでも,魂をつくして行ないますが,世の人びとには,それが理解できません。事実,雇い主のものを盗んで,なんとも思わない人がいるのです。たとえば,ニューヨーク市の主要な空港でのこと,あるレンタカーの会社は,相当量のガソリンが失われていることに気づき,ガソリンの盗用者を見つけるため,ひそかにテレビを設置しました。そして,自社の従業員20人中,18人がガソリンを勝手に自分の車に移しかえているところを見つけられ,全部,解雇されました。解雇されなかったのは,ふたりだけでした。頭をひねった経営者は,そのふたりに,会社のガソリンを盗用しなかったのはなぜか,と尋ねました。ふたりは答えました。「ご存じのとおり,わたしたちはエホバの証人なのです」。そのひとりは,店の責任者になってはどうかとの相談を受けましたが,辞退したため,経営者側は,またも当惑させられました。彼は,王国の良いたよりを伝道し,他の人を弟子とするわざに携わっていたので,店の責任者として働くほどの時間と余力がなかったのです。一方,会社のガソリンを横領した,それら18人の従業員は,証人たちがそうしないので,当惑したに違いありません。今日,正しいことをすると,人びとは当惑するのです。
17 また,国の法律すべてに服し,マタイ伝 22章21節にあるとおり,カイザルのものをカイザルに返すと,世は当惑します。それに,世の人びとは,政府との関係において,税金・交通規則その他,あらゆる事柄で,できるかぎり上手にごまかすことをよしとしており,エホバの証人がそうしないのを見て,驚いています。たとえば,1967年の春,ニューヨーク市の住居検査官ふたりが,ブルックリンのベテル・ホームを検査しましたが,実際を見て,驚くばかりでした。検査官たちによれば,こんな良い報告は,上司に信じてもらえまいとのことでしたが,案の定,翌日,上司たちがやってきました。ブルックリンのベテル・ホームの管理者が,はたして良心的に建物内の安全性と清潔さを保ち,また,防災処置を講じているかどうかを確認するためでした。規則違反として報告できるようなことを一つも見いだせなかった上司たちは,案内をした人たちの証言に熱心に耳を傾けました。
18,19 物質上のものに対するクリスチャンのどんな態度は,多くの人を当惑させていますか。
18 この世は,物質主義の考えを持つ人びとで構成されています。そうした人びとは,生来,人間に備わっている感覚でとらえて楽しめるものしか理解できません。あなたが物質主義の考えをもたず,そして,虫やさびがついてだめにされたり,盗人にはいられて盗まれたりする地上に宝を積まないで,永続する天に自分のために宝をたくわえるようにとのイエスのことばに聞き従うと,世の人びとは当惑します。神の王国と神の正義を第一に求めつづけるので,人びとは当惑するのです。彼らは,存在さえ信じられないもの,つまり,1914年以来,王として統治するキリストの治める,エホバ神の天の王国を,わたしたちがどうして生活の中で第一にしうるのかを理解できません。―マタイ 6:33,新。黙示 11:15-18。
19 世の人びとは,富や栄誉また人気を得る競争で他に先んずること,また,隣人におくれをとらないようにすることに気をつかいます。次の賢明な助言に聞き従うあなたを見て,世は当惑します。「足ることを知りて敬虔を守る者は,大なる利益を得るなり。我らは何をも携へて世に来らず,また何をも携えて世を去ることあたはざればなり。ただ衣食あらば足れりとせん」。利己的な野望を持たないわたしたちは,世の人びとにとって奇妙に思えるかもしれません。しかし「あらゆる種類の有害な事柄の根」である「お金に対する愛」は,たいへん愚かなものといわねばなりません。―テモテ前 6:6-9,10,新。
20 クリスチャンの間に見られる,どんな状態を,世は理解できませんか。
20 利己主義の考えに染まっている人びとは,個人個人も,また家族としても,自分たちのことだけしか考えないため,クリスチャンが,愛,すなわち,無私のアガペー愛を表明するので,世は当惑します。そして,愛に関するコリント前書 13章のパウロのことばに聞き従うあなたをあやしみます。愛は,自分個人の事柄を求めず,感情を害されても,それをいつまでも根に持たず,すべてのことをしのび,希望を持ち,忍耐することです。クリスチャンがどうして自分自身の事柄のみならず,他の人の事柄にも個人的な関心を払い,かつ,イエスがご自分の追随者たちに示した愛をいだけるのか,世の人びとは理解できません。―ヨハネ 13:34,35。ピリピ 2:4。
クリスチャンの若い人たちに当惑する
21 自分たちの仲間と異なっているために,特に試みられる人たちがいます。それはだれですか。また,なぜですか。
21 世の若者たちは,他の人びとすべてにもまして,あなたがたクリスチャンの若い人たちの歩みに当惑しています。実際,若い人たちは,たいへんむずかしい役割を果たさねばならないといえるでしょう。なぜなら,今日,反抗・暴力・犯罪などの面で主役を演じているのは,若者たちだからです。予告されてさえいたように,「親に対して不従順」な彼らは,あなたがたクリスチャンの若い人たちを冷笑し,あざけり,嘲笑します。あなたがたが父母を敬い,年長者に敬意を示し,あらゆる事において,主にある親に服するからです。クリスチャンの少年なら,髪の刈り方の点で,学校の友だちにならわずにいるには,勇気がいります。クリスチャンの少女が,友だちにならってミニスカートをはかないようにするにも,同じことがいえます。―テモテ後 3:2,新。エペソ 6:1-3。コロサイ 3:20。
22,23 清い崇拝のために,しっかりした立場を取る人は,ときどきどのように報われていますか。
22 あなたが,あまりにも多くのことを問題にするので,学校の友だちは当惑するかもしれません。誕生日や万聖節のパーティー,クリスマスその他のバビロン的な祝い,国旗敬礼や愛国的な歌をうたうことなどに,あなたは加わらないでしょう。しかし,クリスチャンの若い人たちが,確固とした立場を取ったために,事態がどう発展したかを知るなら,きっと驚かれるでしょう。まだ,最近のことですが,そのような若い人のひとりで,行ないの模範的な生徒が,そうした宗教的で愛国的な歌をうたおうとしなかったので,自分がうたいたいと思う歌詞を一つ学校に持ってくるように,担任の先生に言われました。そこで,彼は,「心に音楽をかなで…歌いつつ」と題する,歌の本を持ってゆき,自分の大好きな歌として,109番,「我こゝにあり我をつかはしたまへ」と題する歌を示しました。先生は,謄写版でその歌のコピーを作らせ,校内で行なわれる余興の一つとして,クラス全員でそれを歌うことにし,先生は,その少年の大好きな歌の一つとして,それを紹介したのです。なんとすばらしい証言がなされたのでしょう! その歌詞はエホバのお目的をよく描写したものだからです。
23 それで,あなたがたクリスチャンの若い人たち,あなたがたが異なっているゆえに,また,スポーツ,パーティー,行楽など,正課外の活動に付随する種々の交わりを持つ時間がない,あるいは,それを好まないゆえに,学校の友だちが冷笑し,あざけり,嘲笑するのであれば,そうさせておきなさい。あなたがたは,そうした事柄に関係を持つことが,どうしてもできないのです。あなたがたは,彼ら以上の,はるかに賢明な目標を持っているのです。今,個人的に研究し,集会に出席し,野外宣教に携わり,そうした目標に向かって働きはじめなさい。休暇開拓の活動にあずかりなさい。それは,あなたの身の守りになるとともに,数多くの豊かな祝福の源となるでしょう。
24 使徒パウロは,クリスチャンが他と異なっていなければならないことを強調した,どんな賢明な助言を与えていますか。
24 前述の事柄すべてを考えると,聖書の次の賢明な助言は,いかにも適切です。「あなたがたは,むなしいことばをもって,人に欺かれてはならない。……神の憤りが不従順の子らにふりかかっているからである。それゆえ,彼らに関与する者となってはならない。あなたがたは,かつては,やみであったが,今は,主との関係において,光となっているからである。光の子どもたちとして歩きつづけなさい。光の結ぶ実は,あらゆる種類の善良さと,正義と,真理とで成っているからである。何が主に受け入れられるものであるかを,確かめつづけなさい。そして,やみに属する,実を結ばないわざに彼らとともにあずかることをやめなさい。むしろ,それらをとがめさえしなさい。それで,あなたがたの歩き方が,賢くない者のようではなく,賢い者のようであるように,厳重に注意し,自分自身のために,都合のよい時間を買い取りなさい。今は邪悪な時代だからである。……エホバの意志がなんであるかをわきまえつづけなさい」― エペソ 5:6-11,15-17,新。
25 アベルの時代から現代に至るまで,エホバのしもべたちは,どんな歩みを取ってきましたか。その正しさが立証され,報いを受けるのはいつですか。
25 アベルから,キリストの使徒たちに至るまで,エホバの忠実なしもべたちは,きわ立って異なっていたことを,神のことばは示しています。世は彼らを理解できませんでした。彼らを見て,当惑しました。なぜなら,それらのしもべたちは,エホバ神の清い崇拝に携わり,常に世から離れており,また,エホバの正義の原則に従って生活したからです。世は,あなたの歩みに当惑していますか。そうあってしかるべきです。また,あなたが,それらエホバの忠実なしもべたちの模範に従い,かつ,現在の事物の体制に迎合しない勇気を持っているなら,世は当惑するでしょう。世の人びとは,神は死んだ,と言い,それが事実でもあるかのようにふるまいます。しかし,近づく「大かん難」に際し,まもなく,『神の憤りが不従順の子らにふりかかる』時,世はエホバ神が宇宙の全能の至上者として,まさに生きておられることを知らされるでしょう。(黙示 7:14,新)そして,その時,エホバのしもべたちの,世と異なった歩みの正しさは,十分に立証され,報われるでしょう。
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忠実な一老人の模範ものみの塔 1970 | 11月15日
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忠実な一老人の模範
◆ チェコスロバキアの老齢の兄弟たちは,現在,エホバのわざにそれほど多く携われない場合がありますが,その忠実な歩みと,集会に定期的に出席する点で,会衆にとっては至宝的な存在となっています。ある会衆において,若い婦人は,深い関心をいだいたからではなく,両親を喜ばせたいばっかりに,時おり集会に出席していました。最近,その婦人は,ある集会で,高齢の一兄弟が出席しているのに気づきました。その老人は病弱で,歩くことにも,話を聞くことにも困難を感じていることがわかりました。「いったい,こんな老人が出席したところで,何になるのだろう」と人は思ったかもしれません。その集会の終わりに,その老人は祈りをささげるようにと求められました。その祈りがほんとうに暖かみのこもったものであったので,前述の無関心な若い婦人は深く感動し,かつ驚かされました。同時に婦人は,その老齢の兄弟が,会館まで約2キロも歩かねばならないにもかかわらず,いつも集会の始まる15分前には会館にいることを思い出しました。こうして,突然深い感銘を受けた婦人は,それは非常に重要な事柄にちがいないとの結論に達しました。そして,その婦人は聖書を研究しはじめました。今度は,学んだ事柄を自分だけのものとはせず,その婦人はこれまでに,聖書に関心を持つ人々を5人見いだしました。そして,これほど幸福なことははじめてですと書き寄せてきました。このすべては,老齢の一兄弟の示した良い模範から生じたのです。
― エホバの証人の1970年度年鑑より
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