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信仰によって世を征服する人々ものみの塔 1979 | 5月1日
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信仰によって世を征服する人々
「わたしたちの信仰,これが世を征服する力となったものです」― ヨハネ第一 5:4。
1,2 (イ)自称世界征服者は共通にどんな経験をしましたか。(ロ)ひとりの世界征服者は彼らとはどのように異なっていましたか。(ハ)この征服者とその追随者たちによる征服はなぜ比類のないものですか。
歴史には多数の自称世界征服者が登場します。しかし結局のところ彼らは皆敗れ屈服せざるを得ませんでした。エジプトの強力なファラオ,バビロンの高慢なネブカデネザル,アレキサンダー大王,ローマのカエサルたち,ナポレオン,ヒトラー ― 彼らの栄光は実にはかないものでした! ところが,栄光が決して消え去ることのない世界征服者が一人います。その方は武装した戦士の大群や大艦隊を誇ったことはありません。それでも彼の征服は完全なもので,その王権を認める人々に永遠の益を得させるものとなりました。
2 多くの人はこの強力な征服者につまずきました。彼のことをしがない大工の子に過ぎないと考えたためです。その同国人は彼を見下しました。ローマ帝国の権力により彼が殺された時,その少数の追随者は散らされました。それにもかかわらず,この人,すなわちイエス・キリストは,世を征服した者として比類のない存在です。処刑される前の晩,彼は自分の弟子たちに,「勇気を出しなさい! わたしは世を征服したのです」と言うことができました。(ヨハネ 16:33。マルコ 6:3。イザヤ 53:3)さらに彼は,その弟子たちも世を,征服するであろうと語りました。しかし,どのようにして征服するのですか。彼の愛した追随者の一人は後にその点をこう述べました。「わたしたちの信仰,これが世を征服する力となったものです」― ヨハネ第一 5:4。
信仰による征服
3 征服を行なうこの信仰とは何ですか。
3 この信仰による征服とはどんな征服でしょうか。信仰を持つとは,目に見えない物事また将来の事柄に関しそれが自分にとって現実になるという全き確信を持つことです。真のクリスチャンの信仰は,流れ移る砂のような一時的感情や迷信に基づく軽信とは大いに違います。それは確かな土台であるイエス・キリストを基とします。『金,銀,宝石』のようにそれは破壊し難いものです。(コリント第一 3:11-14)それは,唯一の生ける神エホバの存在,またエホバがやがて宇宙の主権者としての地位を明確に表明されることを確信します。この信仰は「偽ることのできない」神の約束を錨とします。それは,信仰の完成者,また王国に関する壮大な目的すべてを遂行するための神の主要な代理者としてイエスをしっかり見つめます。―テトス 1:2。ヘブライ 11:1,6; 12:2。
4 わたしたちはいつどのように信仰によって征服しますか。
4 この信仰を不動の姿勢で保持している限り,わたしたちは世を征服したと言うことができます。そうです,その征服をハルマゲドンの時まで待つには及びません。世の道に従うことから離れ,主イエス・キリストに対する信仰に基づいてエホバに献身し,水のバプテスマを受ける時,わたしたちは世の征服に乗り出すことになります。こうしてわたしたちは信仰により征服します。しかしそれは,エホバとみ子の示してくださった愛に対する認識のもとに,まさに“万難を排して”守り通すべき征服なのです。
5 (イ)わたしたちはどのように「征服者以上の者」になり得ますか。(ロ)どんな確信がわたしたちの信仰の肝要な部分となっていますか。
5 そのような征服者すべてを代表して使徒パウロはこう言明します。「だれがわたしたちをキリストの愛から離せるでしょう。患難,苦もん,迫害,飢きん,裸,危難,剣でしょうか。……わたしたちを愛してくださった方によりわたしたちはこのすべてにおいて征服者以上の者となっています」。次いでパウロは,わたしたちの信仰の極めて肝要な部分,つまりわたしたちに対するエホバの,だれも切り離し得ぬ愛への不動の確信を表明してこう述べます。「わたしはこう確信しているからです。死も,命も,み使いも,支配権も,今ある物も,来たるべき物も,力も,高さも,深さも,他のどんな[創造物]も,わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛からわたしたちを離し得ないと」― ローマ 8:35,37-39,アメリカ標準訳。
手本となる征服者
6 イエスの征服は何によるものでしたか。
6 イエスは地上にいた時,この信仰による征服をどのように全うできるかを身をもって示されました。イエスは神の言葉を知っていました。その言葉を喜びとし,それを「霊の剣」として用いることに巧みになりました。(エフェソス 6:17)荒野でサタンの誘惑を受けた際,イエスは三度『こう書いてある』と答えて敵対者を退けました。イエスの征服は神の言葉に忠実に従うことによりました。わたしたちの場合もそうでなければなりません。―マタイ 4:3-11。
7 イエスはどのようにその征服の活動を開始されましたか。
7 バプテスマを施すヨハネの仕事が終わりになった時,イエスは自分の大きな征服の活動を開始しました。「その時からイエスは伝道を開始し,『あなたがたは悔い改めなさい。天の王国は近づいたからです』と言いはじめられた」。(マタイ 4:17)これははっとさせるような音信でした。神の王国は油そそがれたイエスという形で確かに近くに来ていました。ガリラヤの全土,ローマの属州ペレア,そしてエルサレムにまで,イエスは,世の征服者またメシアとしてその喜びのおとずれを宣べ伝えました。幾千幾万の人々がその音信に耳を傾けました。多くの人が追随者となりました。しかし,支配階級,とりわけ宗教指導者たちは彼に激しく敵対する者となりました。
8 イエスが征服するにあたって決してひるむことがなかったことは,どんなことからわかりますか。
8 イエスはたじろぐことなくその忠誠を守りました。最後まで征服者でなければならないことを知っていたからです。遂に苦しみの杭の上での死に面し,ローマ人の知事がイエスの王の地位を問題にした時,イエスはこう答えることができました。「あなた自身が,わたしが王であると言っています。真理について証しすること,このためにわたしは生まれ,このためにわたしは世に来ました。真理の側にいる者はみなわたしの声を聴きます」。(ヨハネ 18:37)彼は王国の真理に関する証しを忠実に続けました。最後の瞬間に至るまで彼は父のみ名を知らせる点でひるみませんでした。サタンが投げかけるあらゆる辱めの中で終始その貴い名を神聖なものとしたのです。こうして世の征服者としての立場を守り通したイエスは,息を引き取るその最後の息で,「[地上で自分がなすべき神のみ業は]成し遂げられた!」と叫ぶことができました。―ヨハネ 19:30; 17:6,20。
山をも動かす信仰
9 イエスの弟子はどのように信仰を持つことができましたか。彼らはそれをどのように経験しましたか。
9 イエスは弟子たちに言いました,「あなたがたに真実に言いますが,からしの種粒ほどの信仰があるなら,この山に,『ここからあそこに移れ』と言えば,それは移るのであり,何事もあなたがたにとって不可能はないのです」。(マタイ 17:20)これは弟子たちの実際の経験となったのでしょうか。そうです。特に西暦33年のペンテコステの日からです。イエスが霊の命へ復活してから50日目のその日,エルサレムのある家に集まっていた120名の弟子たちの間に奇跡が起きたからです。エホバの霊が彼らに注がれ,弟子たちは多くの国語で「神の壮大な事がら」について語る力を与えられました。―使徒 2:1-11。
10,11 (イ)イエスの弟子たちは,イエスの征服にどのようにあずかり始めましたか。(ロ)彼らの信仰がすべてを征服する信仰であったのはなぜですか。
10 霊はさらにペテロに力を与えて,このすべての意味を神の言葉から説明させました。征服を成し遂げたイエスは,天の神の右に高められるという報いを受けました。今,イエスと同じような征服を成し遂げることは弟子たちの特権でした。彼らはそれを行ない始めました。そこに集まった多数の国籍から成る群衆に徹底的な証しをし,悔い改め,バプテスマを受け,神の言葉を通して差し伸べられた壮大な王国の希望を受け入れるようにと説き勧めたのです。「その日におよそ三千の魂が加えられ」ました。それらの人々は,広い神殿境内また個人の家で日ごと与えられる諭しによってその後も信仰を強められてゆきました。―使徒 2:14-47。
11 宗教指導者たちはこうした信仰の表明を喜んだでしょうか。実際にはその逆でした。彼らはペテロとヨハネを捕え,イエスの名によって伝道することをやめるように要求しました。しかしそれらの使徒たちは信仰に満ちて答えました,「神よりもあなたがたに聴き従うほうが,神から見て義にかなったことなのかどうか,あなたがた自身で判断してください。しかし,わたしたちとしては,自分の見聞きした事がらについて話すのをやめるわけにはいきません」。彼らは一切を征服する自分たちの信仰の道に何の妨げも許しませんでした。釈放されると,彼らは一層の力をもって証しを続けました。―使徒 4:18-21,33。
12 (イ)み使いのどんな支持が弟子たちの征服を支えましたか。(ロ)彼らが聖霊を受けるか否かは,何にかかっていましたか。
12 ねたみに満たされた大祭司およびその追従者たちは今,すべての使徒たちを獄に投げ入れました。これは神の側の行動が必要な事態でした。夜の間にエホバのみ使いは再び彼らを導き出し,「この命について言われたすべてのことを民に語りつづけなさい」と命じました。夜が明けてみると,彼らは再び活動し,神殿境内で伝道していたのです。彼らは再度捕縛され,サンヘドリン広間に立たされました。その場所で大祭司は言いました,「[イエス]の名によってもう教えてはならないときっぱり命じておいたのに,見よ,あなたがたはエルサレムをあなたがたの教えで満たしてしま(った)」。これに対する使徒たちの答えは勇気に満ちていました。「わたしたちは,自分たちの支配者として人間より神に従わねばなりません。……わたしたちはこれらの事の証人であり,聖霊もまたそうです。神はそれを支配者としてのご自分に従う者たちにお与えになりました」。(使徒 5:17-32)そうです,彼らが聖霊を受けるか否かは,エホバの主権について熱心に証しし続けるかどうかにかかっていたのです。
13 キリスト教の初期に,勝利の信仰はどのように勝利を得ましたか。
13 それら宗教指導者たちは使徒たちを除き去ってしまいたいと思いました。しかし,聖霊の与え主は事態を他の方向に導かれました。尊敬される律法教師ガマリエルがきっぱりとこう述べたのです。「この人たちに手出しせず,彼らをほっておきなさい。(このはかりごと,またこの業が人間から出たものであれば,それは覆されるからです。しかし,それが神からのものであるとすれば,あなたがたは彼らを覆すことはできません。)さもないと,あなたがたは,実際には神に対して戦う者となってしまうかもしれません」。それで彼らは使徒たちをただむち打つだけにとどめ,伝道することを禁じて放免しました。勝利の信仰は勝利を得ていましたか。そのとおりです。記録はさらにこう続きます。「そして彼らは毎日神殿で,また家から家へとたゆみなく教え,キリスト,イエスについての良いたよりを宣明しつづけた」― 使徒 5:33-42。
信仰によるその後の征服
14 迫害にもかかわらず,使徒 1章8節のイエスの預言はどのように成就しましたか。
14 この徹底的な証しの業をとどめることはできませんでした。それはイエス自身の預言した範囲に,つまり「エルサレムでも,ユダヤとサマリアの全土でも,また地の最も遠い所にまで」なされねばなりませんでした。(使徒 1:8)迫害は証言を推し進める結果となったにすぎません。「散らされた人びとは,みことばの良いたよりを宣明しながら全土をまわった」からです。(使徒 8:1,4)まもなく,迫害者サウロは使徒パウロとなり,次いで最初の異邦人が聖霊の賜物を受けました。良いたよりは野火のごとくに広がり,次々に新しい区域に達しました。パウロとその仲間がヨーロッパに入ると,その地の反対者たちは叫びました,「人の住む地を覆したこれらの者たちがここにまで来てい(る)」。(使徒 17:6)こうして,王国に関する証言が30年程なされるうちに,良いたよりは「天下の全創造物の中で宣べ伝えられ」るようになりました。―コロサイ 1:23。
15 信仰の点でたじろいだ人々にはどんな助けと励ましが与えられましたか。
15 しかし,ユダヤ人の事物の体制がその終わりに近づくにつれ,それらクリスチャンの中に疲れを覚えた人たちがいたようです。そうした人々は霊的な警戒を緩め,信仰による征服という点でたじろぐようになりました。しかしそうした人々に助けが与えられなかったわけではありません。クリスチャン会衆内の忠実な長老たちは必要な励ましを与えました。その一人,使徒パウロは,信仰のうちに忍耐するようにと繰り返し彼らを訓戒しました。クリスチャンとして抱く希望を「魂の錨,確かなもの,またゆるがぬもの」とするように励ましました。(ヘブライ 6:19)彼はさらにこう言明しました。「わたしたちは,しりごみして滅びに至るような者ではなく,信仰を抱いて魂を生き永らえさせる者です」。(ヘブライ 10:39)どうあっても,彼らはクリスチャンとしての征服を完遂しなければなりませんでした。西暦70年,ユダヤの「事物の体制」が滅びた時,信仰を守り通した人々はその後まで生き延びました。
信仰に対する一層の試練
16 (イ)使徒ヨハネはどのくらいの期間耐えて信仰による征服を行ないましたか。(ロ)ヨハネはどんな警告を与えましたか。
16 しかし,信仰の一層の試練が忠節なクリスチャンたちを待ち受けていました。イエス・キリストの使徒として68年以上も奉仕したヨハネがそれを伝えています。ヨハネは彼の二つの手紙の中で,「終わりの時」に現われる「反キリスト」について警告し,それは「父とみ子を否定する者」であると述べています。次いでヨハネはこの「反キリスト」を『世に出た多くの偽預言者』と結び付けています。(ヨハネ第一 2:18,22; 4:1-3)この反キリストは「良いたより」の緊急性を疑問視し,クリスチャンたちを世の物質的,快楽追求的な生き方にそらせようとしたに違いありません。
17 征服するにあたってクリスチャンはどのように,またなぜ励み努めなければなりませんか。
17 忠誠を守るクリスチャンは既に「邪悪な者を征服」していましたが,後の時代になって,その信仰は別の面から危険にさらされました。使徒ヨハネは明確な言葉でこう記しました。「世も世にあるものをも愛していてはなりません。世を愛する者がいれば,父の愛はその者のうちにありません。すべて世にあるもの ― 肉の欲望と目の欲望,そして自分の資力を見せびらかすこと ― は父から出るのではなく,世から出るからです。さらに,世は過ぎ去りつつあり,その欲望も同じです。しかし,神のご意志を行なう者は永久にとどまります」。(ヨハネ第一 2:13,15-17)確かに,クリスチャンがサタンの世の不道徳で物質中心的な生き方と混じり合うことは一度と言え神のご意志であったことはありません。むしろ,彼らは信仰によって征服してゆく点で励み努めねばなりませんでした。
18 わたしたちはどのようにして信仰による征服を完遂しますか。
18 その同じ手紙の中でヨハネは世界中のすべてのクリスチャンを結び付けて不可分の一致をもたらす絆についてこう述べています。「イエス・キリストは神の子であるとの告白をする者がだれでも,神はその者と結び付いておられ,その者は神と結ばれているのです。それでわたしたち自身,神がわたしたちの場合にいだいておられる愛を知り,それを信じたのです。神は愛であり,愛にとどまっている者は神と結ばれており,神はその者と結び付いておられます」。(ヨハネ第一 4:15,16)み子イエス・キリスト,その血が「わたしたちをすべての罪から清める」方を通し,全宇宙の至上の主権者と結ばれているというのは何と大きな特権でしょう。(ヨハネ第一 1:7)わたしたちの信仰による征服はここにあります。すなわち,神とキリストを愛し続け,その共労者となって,今足早に終わりに進んでいる世界的な収穫の業に携わることです。―コリント第一 3:9。
19 信仰による世の征服者たちは何によって見分けられますか。
19 ヨハネはさらにこう述べます。『そのおきてを守ること,これがすなわち神への愛です』。(ヨハネ第一 5:3)またこの愛に関してイエスは追随者たちにこう語りました。「わたしはあなたがたに新しいおきてを与えます。それは,あなたがたが互いに愛し合うことです。つまり,わたしがあなたがたを愛したとおりに,あなたがたも互いを愛することです」。(ヨハネ 13:34)ヨハネの時代これは真にクリスチャンを見分けるしるしとなりましたが,わたしたちの時代においてもそれは際立ったしるしとなっているではありませんか。第一世紀以来地上には,言語,人種,部族のあらゆる障壁を乗り越える愛の絆で固く結ばれたエホバのクリスチャン証人のような民はかつて存在したことがありません。
20 この世の終わりにあって,あなたは自分が世を征服する者であることをどのように示しますか。
20 また,この事物の体制の終わりの時の今,イエスの預言を通して伝えられた命令があります。すなわち,『王国のこの良いたよりを,あらゆる国民に対する証しのために,人の住む全地で宣べ伝える』ことです。(マタイ 24:14)今世界的な規模でその頂点に達しているこの壮大な証しの業は,世を征服した人々を見分けることにも役立ってきました。そのような,忠誠を守る神の僕たちすべてに関して使徒ヨハネはこう書きます。「そして,わたしたちの信仰,これが世を征服する力となったものです。イエスは神の子であるとの信仰を持つ者でなければ,いったいだれが世を征服する者でしょうか」。神の子としてのイエスに対するこの信仰は,イエスが復活後弟子たちにお与えになった,「行って,すべての国の人びとを弟子とし(なさい)」という命令に従うことによって今日に至るまで実証することができます。(ヨハネ第一 5:4,5。マタイ 28:19)あなたはそのようにして自分が世を征服する者であることを示していますか。
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神のみ子に対する信仰 ― それはあなたをどのように動かすかものみの塔 1979 | 5月1日
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神のみ子に対する信仰 ― それはあなたをどのように動かすか
「キリストについての良いたよりにふさわしく行動しなさい。……一つの霊のうちにしっかりと立ち,一つの魂をもって良いたよりの信仰のために相並んで奮闘(しなさい)」― フィリピ 1:27。
1 (イ)どんな業が今最高潮に近づいていますか。(ロ)今日,地上に本当に信仰が見いだされることを,何が証明していますか。
成就した預言は,わたしたちが今「事物の体制の終結」の時のずっと進んだ時代にいることを示しています。(マタイ 28:20)「人の子」イエス・キリストがすべてのみ使いたちと共に到来し,「[天の]栄光の座に」すわって以来64年たちました。民を,信仰を持つ「羊」と信仰を持たない「やぎ」とに裁いて分ける仕事はその最高潮に近づいています。(マタイ 25:31-33)それでわたしたちは尋ねます。「人の子」は本当に地上に信仰を見いだしましたか。エホバの証人の国際的な会衆,そこに200万以上の人々が集合している事実は,イエスがそれを見いだしたことを明確に証ししています。
2 神の民の大会が「この世のものではない」と言われるのはなぜ当然ですか。
2 報道機関はエホバの証人の大会を「この世のものではない」と描写しています。その通り,彼らは普通と異なっていて当然です。神の民ははるかに勝ったものを目ざして奮闘しているのです。事実,この非常に大きな会衆は,現在の不完全な世から,病気と死と悲しみの一掃された輝く「新秩序」へと旅をしています。エホバの言葉はそれを保証しています。(啓示 21:1-4)その目的地に到達するためには,信仰による征服をしっかりと果たしてゆかねばなりません。それをどのように行なうべきでしょうか。
世界の裁きが始まる
3 1914年にどんな変化が生じましたか。そのことは何を意味していますか。
3 1914年,「事物の体制の終結」が始まった時,この地上では大々的な変化が起こり始めました。イエスが預言したとおりです ― 国際戦争,地震,疫病,飢きんが生じ,不法が増し,愛が失われました。(マタイ 24:3-12。ルカ 21:10,11)世界の裁きの時が始まりました。
4,5 (イ)キリスト教世界の諸宗教は信仰の欠けていることをどのように示しましたか。(ロ)キリスト教世界の諸宗教は,世との関係に関して,エホバの証人とどのように対照的ですか。(ハ)わたしたちの不屈の信仰はどのように示されますか。
4 キリスト教世界の諸宗教はこの事態にどのように対応したでしょうか。信仰による征服者であることを示したでしょうか。そうではありませんでした! 神の王国が近くに来ている「しるし」を認めるかわりに,キリスト教世界の牧師階級は死にゆくこの「事物の体制」を支持しました。世界大戦がヨーロッパを巻き込んだ時,諸教会は戦線の両側にあって,クリスチャンがクリスチャンを殺りくすることを勧め,こうして恐るべき血の罪を自らに負いました。大戦が終わると,キリスト教世界の諸宗教は,その時統治を開始していた王イエス・キリストを取らず,人間製の政治機構を選び取って,冒とく的にもそれを「地上における神の王国の政治的表現」と呼びました。それが,「世界を民主主義のために安全なところとする」という目的で1919年に登場した国際連盟です。聖書の啓示の書はそれを「冒とく的な名で満ちた……緋色の野獣」として描いています。―啓示 17:3。
5 キリスト教世界の諸教会は全面戦争を支持し,次いでこの人間製の代用物を支持したことによって,自分がどこに立つか,すなわちこの世の一部となっていることを明瞭に示してきました。他方,エホバの証人は,国際的暴力闘争および政治的問題に対して中立の立場を取り,自分たちが『世のものではない』ことを明示してきました。(ヨハネ 15:19)わたしたちは肉の腕や死すべき人間の戦争道具などに信仰を置いていません。わたしたちの不屈の信仰は「人間より神」を支配者として認めるのです。また,神の王国に関する目的を証しする点で支配者として『神に従い』ますから,わたしたちは神の霊を受けている者であることを示します。(使徒 5:29-32)こうしてわたしたちは,イエスの言われた仕事を行なう活力を得ています。「わたしに信仰を働かせる者は,その者もまたわたしの行なっている業をするでしょう。しかしそれより大きな業をするのです」。樹立された王国を全地に宣べ伝えることによってわたしたちはそれを行なっています。―ヨハネ 14:12。
6 1919年以来,聖霊の働きはどのように明らかですか。
6 エホバのこの聖霊の働きは,1919年と22年,米国オハイオ州シーダーポイントで開かれたエホバの証人の国際大会の折に明瞭に現われました。それは油そそがれたクリスチャンの少数の残りの者たちの信仰を強め,「王とその王国を宣伝し,宣伝し,宣伝せよ」との呼び声にこたえるべく彼らを奮い立たせました。以後彼らは「良いたより」を遠く広く精力的にふれ告げました。暴虐の第二次世界大戦が始まるまでに,彼らの数はわずか数千から6万7,000を超えるまでに増え,全地の多くの土地で宣べ伝える業を行なっていました。
信仰は迫害を征服する
7 信仰が迫害に勝利を収めることを,どんな実例が示していますか。
7 この拡大は激しい迫害に面しながら成し遂げられたものです。一例として,忠誠を守るためナチの国家を崇拝しなかったエホバの証人は狩り出され集められて不潔な強制収容所に入れられました。また刑務所の中で635人が命を失いました。しかし彼らの信仰をくじくことはできませんでした。観察者は個々の証人を評して,「粉砕できても決して掌握できないとりで」のようだと述べました。ナチ親衛隊により残虐な公開銃殺刑に処せられた一証人の実の兄弟はその場を目撃してこう述べました。「彼の平静さと落ち着きにすべての者が心を打たれた。すでに戦いの勝利を得た者のようであった」。
8 (イ)試練の時であった第二次世界大戦中に,クリスチャンの信仰はどのように栄えましたか。(ロ)しかし宗教指導者たちは何を祝福しもてはやしましたか。
8 すでに述べたとおり,エホバの証人は第二次世界大戦の苦難の時期を迎えた時およそ6万7,000人でしたが,戦闘が終わった時その数は14万1,000人以上になっていました。禁令,投獄,その他種々の忠誠の試みにも彼らの信仰はたじろぎませんでした。しかし,キリスト教世界の諸宗教はそうした迫害と殺りくに祝福をさえ与えていました。そして,「緋色の野獣」が国際連盟と彼らの期待にこたえられなかったにもかかわらず,それが国際連合として再度出現した時,宗教指導者たちはいち早くこれを迎え入れました。彼らはそれに希望を託しました。(啓示 17:3-8)1965年,ニューヨークの国連本部を訪ねた故法王パウロ六世は,その組織体を「あらゆる国際機構のうち最も偉大なもの」,「一致と平和のための最後の希望」ともてはやしました。
信仰によって征服を続ける
9 (イ)エホバの証人は1942年に,時宜にかなったどんな情報を提供しましたか。(ロ)それから神の民はどのように征服を押し進めましたか。
9 連合国が1942年に国際連合の設立を初めて提唱した時,エホバの証人はその年の国際大会の際に,それが連盟の改造にすぎないことを知らせました。国連が遂にはハルマゲドンの最終的な戦闘で,他のすべての政治的機構もろとも去って滅びに至ることを,神の言葉から示したのです。『終わりの時』の証拠を周囲に見たエホバの民は信仰による征服を推し進めました。(ダニエル 11:35)1943年にはものみの塔ギレアデ学校が開設され,宣教者たちが地の果てに送り出されました。それはどんな結果を生みましたか。1945年には66の土地で14万1,606人の王国宣明者が活動していたのに対し,1978年には205の土地で218万2,341人が活動を報告していました。信仰による征服を明白に見ることができます。エホバの証人が目下禁令その他の制限下で働いている40以上の国においてそれはとりわけ顕著です。
10 マラウィその他禁令下にある国々で,信仰の試された質はどのように示されてきましたか。
10 厳しい信仰の試練が臨んだ国の中で特に際立っているのはアフリカの小国マラウィです。1962年まで,エホバの証人はこの国で急速な発展を楽しみました。しかし1964年,激しい迫害がにわかに起こりました。『海から上る野獣』(啓示 13:1,4)のマラウィ部分を崇拝せず,党員カードを買わないため,エホバの証人は家から駆り立てられ,かなりの者が強姦されたり殺害されたりしました。やがて証人たちの多くは国外に追われました。それでも,火によるかのように試された彼らの信仰のその質は喜びのもととなっています。その証人たち自身だけでなく,全地の仲間のクリスチャン兄弟にとってもそうです。(ペテロ第一 1:7)エホバの証人が地下活動を余儀なくされている他のすべての土地においても,同様の堅固な信仰が示されています。そうした土地の証人たち,それは20万以上を数えますが,そのすべては信仰による征服を驚くまでに成し遂げています。
11 信仰による征服を忍耐によって守らねばならないことを,何が示していますか。
11 しかし,事態がそれほど難しくない国のエホバの証人たちはどうでしょうか。逮捕,投獄,死などの脅威に終始さらされることのない国ではどうでしょうか。残念なことに,そうした国のあるところではそれほどしっかり行動していません。多くの繁栄した国,快楽と不道徳への誘惑の強い国々がそうした所に入っています。しかし,だれもこの一点を見失ってはなりません。すなわち,わたしたちは,死によってであれあるいは「大患難」を通過することによってであれ,今日の悪の事物の体制から解き放されるまで,信仰による征服を忍耐によって守らねばならないのです。
12 今,イエスのどの預言に注意を払うことは非常に大切ですか。なぜですか。
12 すべての人がこの点をはっきり認識していることは極めて大切です。世界が滅びの縁によろめき進んでいる証拠は至る所に現われています。「終わりの日」はその行路をほとんど終えようとしています。したがって,事物の体制の終結に関するイエスの預言の結びの言葉は,すべてのエホバの民の心の中で今日明瞭に響き渡っていなければなりません。こう言われました。「食べ過ぎや飲み過ぎまた生活上の思い煩いなどのためにあなたがたの心が押しひしがれ,その目が突然,わなのように急にあなたがたに臨むことのないよう,自分自身に注意を払いなさい。それは,全地の表に住むすべての者に臨むからです。それで,起きることが定まっているこれらのすべての事をのがれ,かつ人の子の前に立つことができるよう,常に祈願をしつつ,いつも目ざめていなさい」― ルカ 21:34-36。
「定めの時」が近づく
13 エホバの裁きを待ちつづけることはなぜ重要なことですか。
13 「大患難」がわたしたちの多くが予期したほど早く到来しなかったとしても,それは失望すべき理由にはなりません。神は変わることのない方です。(マラキ 3:6)その壮大な目的も変わっていません。エホバは「良いたより」に関してこう言われます。「わたしの口から出るわたしの言葉もそれと同じようになる。それは成果なく戻ることなく,必ずわたしの喜びとした事を行なう。わたしがそれを送り出したそのことに関して必ず成功を見る」。(イザヤ 55:11,新)神の裁きの執行の時が移り動いているのではありません。それは一日ごとに接近しています。ですからわたしたちは次のイザヤ 30章18節の言葉を銘記していましょう。「エホバは裁きの神……すべて彼を待ち望む者は幸いである」。(新)
14 (イ)どんな確信を保持するとき,わたしたちは最後にヨシュアの言葉を自分のものにすることができますか。(ロ)ハバククの預言にどんな励ましを見いだせますか。
14 何かの時間的要素に依存するのではなく,エホバが「偽ることのできない」神であることについて全幅の確信を持つこと,それがわたしたちに信仰の勝利を得させます。(テトス 1:2)この確信を保つとき,わたしたちは最後には,昔のヨシュアと同じように,信仰による征服を共に遂げる仲間たちに次の言葉を言うことができるでしょう。「あなた方は心を尽くし魂を尽くしてこの事を知っています。すなわち,あなた方の神エホバの語られたすべての良い言葉は,その一つといえ果たされないものはありませんでした。それはあなた方にとってすべてその通りになりました。一言も果たされなかったものはありません」。(ヨシュア 23:14,新; 21:45)またわたしたちは,「その幻はなお定めの時のものであり,終わりに向かってあえぎ行く」というハバククの言葉に全き確信を持つことができます。自分の征服を全うできるまでわたしたちもその幻と共に進み行くことができますように。預言はさらにこう保証します。「それは偽ることはない。たとえ遅れようとも,それを待ち続けよ。それは必ず起きるからである。遅くなることはない」― ハバクク 2:3,新。
『エホバは遅くない』
15 (イ)なぜ『エホバは遅いのではない』と言えますか。(ロ)エホバの日はついにどのように来ますか。
15 使徒の時代からすでに1,900年たちました。しかし,神の目から見るとき,これはまだ二日に満ちません。使徒ペテロの述べる通りです。「愛する者たちよ,この一事を見過ごしてはなりません。エホバにあっては,一日は千年のようであり,千年は一日のようであるということです。エホバはご自分の約束に関し,ある人びとが遅さについて考えるような意味で遅いのではありません。むしろ,ひとりも滅ぼされることなく,すべての者が悔い改めに至ることを望まれるので,あなたがたに対してしんぼうしておられるのです。しかし,エホバの日は盗人のように来ます」― ペテロ第二 3:8-10。
16 エホバの日がまだ来ていないのはなぜですか。したがってわたしたちはこの状況にどう反応すべきですか。
16 それで,エホバの日までにエホバの時計でなお片時あるとすればどうでしょうか。これによってさらに幾十万かのエホバの「羊」が集められたことをわたしたちはうれしく思っているのではありませんか。その時計が寸刻をきざんでゆく間に,南ヨーロッパの国々では以前カトリック教徒であった幾万もの人々が王国の下に集まり,海洋の島々の幾百の人々がそれまでの偶像礼拝を捨て,幾千というアジアの人々が東洋の迷信から離れて「良いたより」を受け入れています。盗人のように来るエホバのその日がまだ到来していないのは,収穫と取り入れにおいてわたしたちのなすべき仕事がまだあるからです。エホバは遅いのではありません。主の業に十分に携わるあらゆる機会をとらえる面でわたしたちの方が遅れることのないようにしましょう。
17 (イ)ペテロは今日のために時宜にかなったどんな助言を与えましたか。(ロ)エホバの民の際だった特色は何ですか。彼らはどのように信仰を示しますか。
17 使徒ペテロはこう諭します。「すべての事物の終わりが近づきました。ですから,健全な思いをもち,祈りのために目ざめていなさい。何よりも,互いに対して熱烈な愛をいだきなさい」。(ペテロ第一 4:7,8)今日の邪悪な「事物の体制」が神の民を滅ぼし去ろうと最後の必死の攻撃をしかけて来る時,その時わたしたちは,信仰による征服を確信しつつ,平静な者,目ざめた者,祈り続ける者としてとどまらねばなりません。その熱烈な愛のうちに結ばれていることが必要です。それが全地のエホバの民の際だった特色なのです。人間の全歴史上,今日のエホバの証人のような民をどこに見いだせるでしょう。これは人の住む地の隅々に浸透した唯一の兄弟関係なのです。エホバの霊以外のどんな力が,「すべての国民と部族と民と国語の中から来た」200万余りの人々を結び合わせ,信仰と目的と活動の面でこれほどの一致を得させえたでしょうか。わたしたちは共に信仰による征服を成し遂げ,み子によるエホバの王国に対する証しを続けて共に信仰を示してゆきます。―啓示 7:9。
終わりに近づく
18,19 (イ)使徒の時代には,聖書預言の成就として,事件はどのように進展しましたか。(ロ)ある人はどんな悲しい間違いをしたことが考えられますか。
18 今日のエホバの民は,使徒時代のエルサレムで「しるし」の最初の成就を待望した忠実なクリスチャンと似ています。彼らは「聖なる所」に立つ「嫌悪すべきもの」がやって来るのを待ち受けました。そして,ついにその事が起きました。ローマ軍が攻めて来て,神殿の境内の両側の壁の所にまで侵入しました。その時クリスチャンはどうすべきでしたか。「山に逃げはじめなさい」とイエスは言われました。予期に反してその軍隊が撤退した時,クリスチャンはその機会をとらえました。逃げたのです! 彼らはペレアの山中に行きました。しかし,その時彼らは救いを得たのですか。彼らの信仰による征服は完了しましたか。そうではありません!―マタイ 24:15,16。
19 それらのクリスチャンは次の事態,エルサレムに対するエホバの刑の執行をじっと待ちました。一年待ちました。何も起こりません。二年待ちました。何も起こりません。三年待ちました。それでも何も起こりません。それらクリスチャンの中には待つことに疲れを覚えた人もいたかもしれません。さあ市内に戻って商売をし,もう少し楽な生活をしよう,と言ったかもしれません。しかしそれは悲しい誤りとなったことでしょう。
20 その時,信仰はどのように救いを得させましたか。
20 というのは,突如,四年目に,ローマ軍が再びやって来たからです。市とその神殿は全く破壊され,一つの石も他の石の上に残らないまでになりました。まさにイエスが預言したとおりでした。(ルカ 19:41-44; 21:20-24)しかし,ユダヤの外に出ていた神の民はずっと活動を続け,目ざめていました。彼らはエホバを待ちました。その信仰が彼らに救いを得させました。
21 1945年から,どんな聖書預言の顕著な成就が見られますか。
21 今日,わたしたちは同じような立場にいます。今日のキリスト教世界は不忠実になった古代のエルサレム市に相当しています。イエスの預言にある「嫌悪すべきもの」とは今日の国際連合機構であることを聖書からはっきり見定めることができます。それは啓示 17章の述べる「緋色の野獣」と同じものです。1945年,その「獣」が底知れぬ深みから上って来た時,キリスト教世界が主要部分を占める偽りの宗教の世界帝国大いなるバビロンはその上に乗ってある程度の支配力を働かせることができました。
22 今国連内にはどんな状況の変化が見られますか。それは何を意味しますか。
22 しかし今,事情は同じではありません。宗教を「人民のアヘン」とみなす国々が国連内で大きな勢力となっています。それはキリスト教世界の諸宗教,事実すべての宗教の活動に対する現実の脅威となっています。「野獣」の「十本の角」が世界宗教に向けられ,キリスト教世界の宗教領域をも荒れ廃れさせる光景をわたしたちは間近に予期しています。その時,「大患難」はすでに始まっており,その絶頂,ハルマゲドンに向かって足早に進行します。―啓示 17:12-18; 19:19-21。
23 (イ)地上のこの決定的な状態を見て,今わたしたちは何をしなければなりませんか。(ロ)あなたはどうすれば,信仰によって世を征服するものとして成功しますか。
23 地上でのこうした決定的な事態を前にして,エホバの証人は何を行なわねばなりませんか。まず,保護の「山」となる神の王国に自分が完全に逃れていることを確かめねばなりません。たじろぐことなく信仰による征服をしっかり続けてゆかねばなりません。わたしたちを愛してくださる神によって征服者となることを決意すべきです。そのための時間がある間,わたしたちは全地に王国の良いたよりを宣べ伝え,人々を弟子とする業に引き続き熱心に携わらねばなりません。あなたは,世界のすべてのエホバの証人と共に,「一つの霊のうちにしっかりと立ち,一つの魂をもって良いたよりの信仰のために相並んで奮闘し」続けますか。(フィリピ 1:27)こうしてエホバのみ名,またそのみ子イエス・キリストの王国をたたえますか。そうすることによって,あなたも,信仰によって世を征服する者として栄えある成功を手にするでしょう。
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食べ過ぎや飲み過ぎで押しひしがれないように,あなたの心を守らねばならない
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危険に面したときのよりどころものみの塔 1979 | 5月1日
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詩篇
危険に面したときのよりどころ
ダビデ王は非常に困難な状況に直面しました。ダビデの実の息子アブサロム自らが王の名乗りを上げ,王位を奪おうとたくらんでいたのです。反抗的なこの息子が自分の側に非常に多くの人々を引き入れたため,ダビデは首都エルサレムから逃れざるを得なくなりました。それでもダビデはエホバに全幅の信頼を置き続けました。
それは,ダビデがアブサロムから逃れるときに作った調べを見るとよく分かります。(詩 3篇,表題)使者はこう報告しました。「イスラエルの人々の心はアブサロムにつくようになりました」。(サムエル後 15:13,新)事態がこのように発展したことはダビデを当惑させました。そして,なぜこうなったのか,アブサロムはどのように多くの支持者を得られたのかと考えました。そういうわけで,ダビデは詩篇 3篇の中でこう叫んでいるのです。「ああエホバ,なぜわたしに敵対する者は多くなったのでしょう。なぜ多くの者はわたしに敵対して立ち上がるのでしょう」― 1節,新。
事態が非常に険悪であったため,多くのイスラエル人は,至高者といえども,ダビデがアブサロム一門の前に倒れることは防げないと考えました。
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