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わたしたちが世のものであってはならない理由ものみの塔 1984 | 10月1日
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の一部なのです。(コリント第一 6:9,10)適切なことに,知恵の言葉,箴言もこう警告しています。「忠実な行ないの人は多くの祝福を得,富を得ようと急いでいる者は潔白を保てない。そねむ目を持つ人は貴重なものを求めて勇み立つが,窮乏が自分に臨むことになるのを知ってはいない」。(箴言 28:20,22)貪欲でそねむある人々に貧困がただちに臨むことはないとしても,彼らは神の恵みを受けずに死ぬか,この事物の体制の終結の時に悲惨な終わりを迎えることになります。―マタイ 24:3。ルカ 12:13-21。
14 (イ)「自分の資力を見せびらかすこと」はどのように示されるかもしれませんか。(ロ)こうした「見せびらかすこと」,自慢,高い地位を求めることの根本にあるものは何ですか。(ハ)自分が手に入れたものや,業績と思えるものを誇示したいという誘惑に抵抗すべきなのはなぜですか。
14 エホバの僕たちは「自分の資力を見せびらかすこと」をも避けなければなりません。自分が手に入れた高価なものをひけらかしたいという気持ちは非常に大きな誘惑となり得ます。しばしばこうした悪い欲望が高じて,他の人に後れをとるまいとするだけではなく,物質面で他の人より何歩も先んじようとあくせくするようにもなります。それに似ているのが,自分が成し遂げたと考えられる事柄を自慢することです。地位や身分を得たいと望む人は,著名人との友好関係を培い,そのような人々の支持を得ることまでするかもしれません。しかしこのようにして利用されるままになっている人は愚かであり,過度に野心的な人は最後には『口で大げさなことを語りながら,自らの利益のために人物を称賛する』,ユダの時代の「不敬虔な者たち」のようになるかもしれません。(ユダ 4,16)このように高い身分を求めることや見せびらかすことなど,すべての根本にあるのは罪深い誇りです。(箴言 8:13; 16:18; 21:4)ですから,確かに,自分が手に入れたものや自分の業績と思えるものを誇示するという誘惑に抵抗しなければなりません。ここで当てはまるのは,次の箴言です。「あまり多くのはち蜜を食べるのはよくない。また,人々が自分の栄光を探り出すこと,それは栄光だろうか」。(箴言 25:27)大半の人々が滅びに至る広い道を歩いているので,「災いです! すべての人があなた方のことを良く言うときには」というイエスの言葉は実に時宜にかなったものです。―ルカ 6:26。
『世は過ぎ去りつつあります』
15 (イ)使徒ヨハネは「世のものではない」ことが求められる基本的な理由として何を挙げていますか。(ロ)忠節なクリスチャンは自分たちの主要な努力を何に向けるべきですか。
15 ヨハネは「世のものではない」ことが求められる基本的な理由をわたしたちに説明し,こう付け加えています。「さらに,世は過ぎ去りつつあり,その欲望も同じです。しかし,神のご意志を行なう者は永久にとどまります」。(ヨハネ第一 2:17)この「世」,つまり不義の人間社会は足早に近づく「大患難」で間もなくその最後を迎えようとしています。(マタイ 24:21)その時には,この世の政治的,商業的,および偽りの宗教の諸要素が全く何の痕跡も残らぬほどに破壊されます。したがって,真のエホバの証人で,間もなく無に帰するこれらの諸要素に自分の時間とエネルギーと資力をつぎ込める人がいるでしょうか。むしろ忠節なクリスチャンは,自分たちの主要な努力を,王国の関心事やとこしえに続くものを促進することに向けます。加えて,こうした忠節と信仰により,エホバの民はイエス・キリストが行なわれたと同じように,不義の人間社会である「世を征服」します。(ヨハネ 16:33)そうです,それから彼らは,ノアとその家族が大洪水を生き残ったように,この世が神による滅びによって過ぎ去る時に生き残るのです。―ペテロ第二 2:5。
16 これからどんな質問を考慮しますか。
16 では,この世が過ぎ去りつつあることからすると,クリスチャンは世の社会問題にかかわることをどう見るべきですか。教育,仕事の取り引き,レクリエーションに対してどんな態度を取るべきですか。これらの質問をこれから注意深く考慮します。
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『世からの汚点のない状態』にとどまりなさいものみの塔 1984 | 10月1日
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『世からの汚点のない状態』にとどまりなさい
「わたしたちの神また父から見て清く,汚れのない崇拝の方式はこうです。すなわち,孤児ややもめをその患難のときに世話すること,また自分を世から汚点のない状態に保つことです」― ヤコブ 1:27。
1,2 清い崇拝に求められる事柄にはどんなものがありますか。
エホバは清い崇拝を求めておられます。(ヨハネ 4:23,24)とりわけ,汚れのない宗教は,困窮している人々に対する積極的で愛ある関心を促進します。(ガラテア 2:10)そうした崇拝には,世,つまり神から離反し,「邪悪な者[悪魔サタン]の配下にある」不義の人間社会から汚点のない状態に自分自身を保つことも求められます。―ヨハネ第一 5:19。
2 弟子ヤコブは,「わたしたちの神また父から見て清く,汚れのない崇拝の方式はこうです」と書き,こう続けました。「すなわち,孤児ややもめをその患難のときに世話すること,また自分を世から汚点のない状態に保つことです」。別の訳は次のようになっています。「わたしたちの父なる神の目に清くて,損なわれていない宗教はこうです。すなわち,困っているときに孤児ややもめを助けに行き,世に汚されないよう自分を守ることです」― ヤコブ 1:27,エルサレム聖書。
3 今わたしたちはどんな質問を考慮しますか。
3 ではエホバの僕であるわたしたちは,どのようにすれば「世に汚されないよう」自分を守ることができますか。世の社会問題,教育上の取り決め,事業の進め方,レクリエーション活動などの問題について聖書はどのような見解を示しているでしょうか。
『世に汚されないよう守る』
4 ヨハネ 17章14節およびイザヤ 2章2-4節は,わたしたちとこの世との関係について何を示していますか。
4 エホバの証人であるわたしたちは「世のものではない」ので,わたしたちは不義の人間社会とは異なっていなければなりません。(ヨハネ 17:14)そのために一つには,世の政治問題に関して中立を保つことが求められます。世の暴力行為に巻き込まれることも避けなければならず,『その剣をすきの刃に打ち変えた』者として平和を追い求めなければなりません。―イザヤ 2:2-4。
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