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  • 第2部 ― 第一次世界大戦 ― それは人間最後の時代への序曲だったか
    目ざめよ! 1983 | 12月22日
    • 第2部 ― 第一次世界大戦 ― それは人間最後の時代への序曲だったか

      前号の第1部では,フェルディナント大公の暗殺が戦争へとエスカレートするのを,諸国家の指導者たちがどのように良しとしたか,ということを説明しました。ヨーロッパも,そして間もなく世界の他の部分も,新しい時代に突入しました。それは人間最後の時代となるのでしょうか。

      「こんな戦争は朝飯前だ。ほんの数週間もすれば,我々は勝利を得る!」と,ドイツ人兵士は豪語しました。そして,開戦前夜にこのような確信を抱いていた人は少なくありません。宣伝キャンペーンが非常に効果的に行なわれたため,何も知らない一般大衆は,戦争にすぐに勝てる,と信じ込まされました。歴史家のハンス・ヘルツフェルトはこう述べています。「長期にわたる平和によって甘やかされたヨーロッパの人々は,有頂天に近い興奮状態で第一次世界大戦という『ハルマゲドン』に突入したが,今日その興奮状態は物心両面において,不可解なものとしてあまりにも簡単に忘れ去られている。しかし,これは歴史のこの転換点の極めて肝要な部分であるため,この熱狂と挺身の波を理解せずしてはこの大災厄の歴史的な特質は事実上不可解なものとなる」。

      ベルギー人の抵抗 ― ドイツに対する一つの合図

      フランスに対して迅速な勝利を収めるというドイツの希望は,大部分が戦略に基づいていました。「シュリーフェン計画」の修正版,それは一見単純なものでしたが,実際には単純ではありませんでした。ドイツ軍は,フランス国境の要塞を避け,ベルギーを横断して「背後」からフランスに入ることになっていました。先制攻撃を,しかも敏速に仕掛けることがこの計画を成功させる上での重要なかぎでした。しかし,ベルギーがこれほどの戦いを繰り広げようとは,だれ一人計算に入れていませんでした。

      ごく短期間であるとはいえ,ベルギーのアルベール王は歴史の脚光を浴びます。ドイツは無抵抗ベルギー領通過権を要求します。アルベール王は国会に対し,「結果がどうあろうと,我々の答えは『否』でなければならぬ」と述べます。そのため速成のベルギー軍は,進入して来る敵と猛烈な闘いを交えます。

      ドイツ人の士気に対する痛手を宣伝者たちは速やかに緩和します。ベルギーの会戦で命を落とした人々の親族には,「『皇帝と祖国のために』兵士は死んだ,と述べる,一人の天使の絵が描かれた戦功証書が配られた」と,ある年配のドイツ人は回想しています。

      ドイツは小国ベルギーを粉砕しますが,この中立国へのドイツの進軍は世界中を激怒させました。英国は,ドイツがヨーロッパをむさぼり食うのを黙って見ているわけにはいかない,という決定を直ちに下します。8月4日,英国は宣戦を布告します。このようにしてベルギーの抵抗は,ドイツに対する一つの警告の合図となります。勝利は「朝飯前」どころの騒ぎではなくなります。

      戦争は世界戦争になりました。歴史家のゲルハルト・シュルツは,「この戦争は,[英]帝国の一致が戦争の期間中維持され,英国・フランス・ロシアという連合勢力が全世界の資力を入手する手段を有していたというまさにその事実によって,世界戦争となった」と説明しています。やがてオスマン帝国(現在のトルコ)がドイツと,日本が連合国と同盟を結び,中南米諸国の一部も同盟国との戦いに参加します。この戦争の終わりに,中立を保ったことを誇れる国はごくわずかしかありません。a

      聖書研究者たちは,『国民は国民に,王国は王国に敵対して立ち上がるからです』というイエスの驚くべき預言の新たな意味を見いだすことになります。―マタイ 24:7。

      戦線の膠着

      ドイツ人兵士はフランス人の抵抗を排してパリへと進みます。ところが,パリまであとわずか数キロというところで,ドイツの戦闘部隊はつまずきます。ドイツの軍事指導者たちの連絡に緊密さが欠け,彼らが優柔不断であったため,連合軍は部隊を再区分し,強力な反撃を開始することができます。マルヌ川での戦いでドイツ軍は屈辱的な後退を余儀なくされます。にもかかわらず,同軍は塹壕を掘り,場所を確保することができます。連合国側の軍隊も同じようにします。死のような無人地帯が,塹壕に隠れた二つの部隊を分けています。

      何か月もの間,戦争は進んでは止まる塹壕戦となり,兵士たちは危険を冒して無人地帯に進み,互いに手榴弾を投げ合い,急いで戻って来るという具合です。どちらかの側に1日でも早く勝利がもたらされるということもなく,人間の血が酒宴のぶどう酒のように流れ出ます。散発的な戦いのさなかに不安な沈黙の期間が定期的に訪れ,その間に情報伝達機関が「西部戦線異常なし」と伝えます。

      戦闘の期間は残虐なものです。一人のドイツ人兵士は次のように回想しています。「私は機関銃を操作したが,そのため常に最前列にいなければならなかった。フランス軍が100㍍以内のところまで来るのを待ち,それから,近づいて来る大部隊の中に銃を発射する。……我々は完全に彼らを敗走させた」。無意味な死です! 1916年にベルダンとソンム川で行なわれた戦闘は数か月に及び,「両陣営の幾十万という兵士の命を奪います」。

      非常に恐ろしい武器で戦闘の恐怖はいよいよ高まります。戦死者の92%までが機関銃によるものです。一般にはビッグバーサと呼ばれるドイツの一式の大砲が,当時としては前代未聞の約120㌔という遠方からパリに死を降らせます。兵士たちは,飛行機の爆音を知るようになります。最初これは主として偵察のために用いられ,後に致死的な武器となります。水夫たちは潜水艦の攻撃を恐れて生活します。時に,攻撃を仕掛けられる者だけでなく仕掛ける者にも壊滅的な被害を及ぼす毒ガスですら,兵器庫の一部となります。歴史家のヘルツベルクは,1915年にイープルで行なわれ,十万以上の命を奪った毒ガス戦を,「戦争中の最も残虐な出来事の一つ」と評しています。それでも,西部戦線の塹壕戦は,その後もいら立たしい膠着状態を保ちます。

      ところが,東部戦線では,ドイツ人の軍事指導者ヒンデンブルクとルーデンドルフが準備の万全でなかったロシア軍に対して大勝利を収めたため,彼らは敵知らずの戦争の神様とあだ名されます。ところが1914年から1915年にまたがる冬には,東部でも行き詰まりの状態が生じます。幾月もの間,戦争は一進一退で決着がつきません。やっと1917年になって,勝者はだれの目にも明らかになります。

      戦局が変化する

      1917年にロシアは革命のため軍隊の出動が不可能になります。新しいボルシェビキ政府は直ちにドイツとの和平を求め,二つの戦線からドイツの戦争の荷を一時的に降ろすことになります。ところがドイツはこれらの出来事をドイツの旗色をよくするために用いることができません。戦争に強敵が加わってきたからです。1915年のルシタニア号の沈没は,米国のドイツに対する怒りをあおります。それで1917年に,米国は公式に参戦します。ところが米国からの援軍が到着できないときに,ドイツ軍は死にもの狂いで攻撃を仕掛けます。しかし,ばく大な数の死者の前にはわずかな戦勝も色あせてしまいます。連合国側の損害も大きなものですが,米国からの援助が次第に多く送り込まれ,それは損害額を補って余りあるものになります。ドイツは攻撃態勢から撤退へと変化します。

      しかし,敗北は軍事面での損害だけによるものではありません。ドイツの経済は完全に崩壊してしまったのです。連合国側の封鎖,また悪天候が災いして,深刻な食糧不足に見舞われます。一ドイツ人は,「長期にわたり色々な物品が配給されたが,その配給量は着実に減少を続けた」と回想しています。1917年の冬期に,飢えたドイツ人は,主食として粗末なカブで満足しなければなりません。苦々しげに彼らはそれを「カブの冬」と呼びます。食物を,おがくずからミミズにいたるまで,すさまじい代用食で増やそうとする試みも,全く効果がありません。一人の目撃者はその時のことを思い起こしてこのように語っています。「飢えはドイツ人が征服できなかった敵である。……父親と息子たちを両方とも失った家族は少なくない。目の前に見えたのは,ただ病気と飢えと死のみであった」。約30万人が栄養失調と病気のために死にます。この国は反乱の起こる寸前の状態に置かれます。

      オーストリア-ハンガリーの事情もさほど変わりません。同帝国は,成員国が和平を求めたり独立を宣言したりして分裂し始めます。士気の低下と,生活必需品の欠乏と連合国側の大軍とに直面して,同盟国側は降伏する以外に道がありません。

      1918年11月11日の11時から,銃の音はやみます。

      次号は最終回で,戦争の余波と平和を維持するための戦後の努力について説明します。

      [脚注]

      a ヨーロッパではデンマーク,オランダ,ノルウェー,スウェーデン,スイス,スペインのみ。南北アメリカでは,アルゼンチン,チリ,コロンビア,メキシコ,ベネズエラ。アジアでは,アフガニスタン,ペルシャ。アフリカではアビシニア。

  • 世界はこの先どうなるのか
    目ざめよ! 1983 | 12月22日
    • 世界はこの先どうなるのか

      ごく普通の人たちが行なうことについて読むと,しばしばそのような質問が生じます。例えば:

      ● ニューヨーク市クイーンズ区に住むドリスという若い女性は,見知らぬ男に頭と顔と足を切られました。男はそれから物も言わずに逃げて行きました。出血がひどかったのでドリスは助けを求め,近くの建物の中に入って数軒の家のドアのブザーを鳴らしました。何軒かの家の人は警察を呼んでくれましたが,ドリスを家に入れて,助けてくれた人は一人もいませんでした。なぜでしょうか。彼らは恐れを抱いていたようです。ドリスが苦しい目に遭ったあと母親は,「今の世の中は本当に恐ろしい」と言いました。

      ● デトロイト市の空港近くで飛行機が墜落し,一人は瀕死の状態となり,もう一人は重傷を負いました。救急隊が事故現場に到着してみると,負傷した男の人の財布や他の貴重品が既に奪われていました。そのようなことをしたのはどんな人間でしょうか。ニューヨーク・デーリー・ニューズ紙はこの事件の報道に当たり,「それは食屍鬼だ」と説明しました。

      ● ハンドルをさばき切れずにワゴン車が歩道に乗り上げ,母親に抱かれていた4歳の男の子を母親の腕の中からはね飛ばしてしまいました。母親は息子が死ぬものと思い,「死なないで,死なないで」と叫びました。怪我のなかった運転手は自分の車から飛び出し,負傷した男の子と気の転倒している母親を助けました。大勢の通行人はその車に人がいないと見るや直ちに略奪を始め,荷台に載せられていたスエットシャツの分け前にあずかろうと争いあいました。これを見ていたある人は,「非常に悲しいことです。生存競争そのものです」と述べました。男の子は骨盤が砕け,肋骨を折っていました。

      ● 心理学の一助教授と学生たちが,“犯罪”を目撃した通行人の反応をテストするため,2年間にわたり異なった都市の街路で幾つかの模擬犯罪を試みました。どのような結果が出たでしょうか。大抵の場合は反応が全くありませんでした。実験用の車をこじあけるまねをしていた時,一人の通行人はそれに加わろうとしました。別のときですが,彼らは全く人目をはばからずにオートバイを“盗みました”。わずか15㍍離れた所には警察の車がとまっていたのです。しかし,とめに入る人は一人もいませんでした。他の“犯罪”として,意識を失っているように見える人を車のトランクに詰めることなどが演じられました。ニューヨーク市の場合,目撃者によって報告される「犯罪」は全体の3%にすぎません。これでも,報告した者がだれもいなかったボストンやマイアミのような都市よりはましでした。

      ● 友がなく憂うつになっていた26歳の男性が,大みそかの日に高さ30㍍の煙突のてっぺんに登り,「おれは死にたい! おれは死にたい!」と叫びました。警察の三つの救急班が現場に急行し,その人を救うために煙突に登りました。この建物の基部にある自動ボイラーのスイッチが入り,煙突から煙が吹き出したため,その若い男の人は鼻ものども詰まり,危うく落下するところでした。そのころには煙突の下に大勢の人が集まっていてこの出来事を見ていました。若者の苦しみを見てある人々は手を上げ,こぶしを握ってやじを飛ばしました。「飛び降りろ! やらせてやれ」と叫んだ人もいました。

      世界はこの先どうなるのでしょうか。これは非常に良い質問です。

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