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サタン崇拝 ― キリスト教世界のただ中で?目ざめよ! 1971 | 8月8日
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サタン崇拝 ― キリスト教世界のただ中で?
今日,キリスト教世界のまっただ中に,みずからを不可知論者また無神論者と称してはばからない者さえ大ぜいいます。なぜですか。多くの人は教会の中で見られる偽善に嫌悪感をいだいており,ある者は教会が主要な役割を演じている“既成秩序”に反抗しています。
とはいえ,キリスト教世界の中に公然と悪魔サタンを崇拝する人がいるということは,たいていの人にとって,いや,無神論者にとってさえ理解しがたいところです。しかしながら,これは真実なのです。
悪魔崇拝の宗教はキリスト教世界に“教会”を持ち,“聖書”を所有しています。同宗教には牧師もいれば,儀式もあります。
アメリカのサンフランシスコにあるサタン教会の創設者によってしるされたサタン的“聖書”は,マイアミ・ヘラルド紙によると次のように述べているとのことです。「人間は自分自身に仕えねばならぬ動物である。いわゆる地獄に落ちる七つの罪悪は,肉体的及び精神的充足をもたらすがゆえに美徳である」。
「これは肉の宗教であり,霊の宗教ではない」と,サタン教派のある「大司祭」は言いました。
サタン崇拝の様式はその大部分が,アフリカや南アメリカで広く行なわれているブーズー教や,それに似た崇拝の形式からとられています。それらは一般に魔法つまり魔術を用い,サタンおよび他の霊者,悪鬼にもかかわりを持っています。(コリント前 10:20)悪魔崇拝にはたくさんの異なった“分派”がありますが,それら全部の分派に見られる一つの共通点は,肉欲をほしいままにすることです。
サタン的崇拝,「肉の行為」
したがって,肉欲の充足に重きを置く悪魔崇拝にひきつけられる人がいる理由は容易に理解できます。しかし,次の質問が起こってきます。悪魔サタンとその悪鬼は血肉を備えていない霊者であるのに,なぜ肉の行為がサタン崇拝の顕著な特色なのだろうか。
忘れてならない点は,悪魔はかつて義の天使,『神の子たち』でしたが,堕落して,肉体関係を持つことを望み,かつその行為に携わったという事実です。どのようにですか。
ノアの日の洪水前,それらの天使は天の場所と,エホバ神への奉仕の地位を去り,みずからを物質化して自分のために人間の形をした肉体をつけ,容姿の美しい人間の女と結婚しました。霊の被造物は結婚しないとイエスは言われましたから,これは彼らにとって不自然であり,一種の倒錯でした。その大洪水の時,彼らは自分を非物質化して霊的なすみかに帰りはしましたが,神は彼らから恵みを奪って卑しめられました。しかし,ご自分の定められた滅びの時まで彼らを生かしておられるのです。イエス・キリストの地上における宣教期間中にも,彼らは人間に乗り移ったり宿ったりして,倒錯した傾向を表わしていました。―創世 6:1,2。マルコ 1:32-34。ルカ 8:26-34。ユダ 6,7。ペテロ後 2:4。
知性を備えた被造物である天使がこのような倒錯に陥り,みずからを堕落させるということがどうしてありうるのですか。この点は,知性を備えた人間が不義の性関係を持つばかりか,同性愛や獣姦にさえふけるのを考えると,それほど理解しがたいことではありません。―レビ 18:22,23。
適切にも,聖書は心霊術の行為を「肉の行為」と呼んでいます。(ガラテヤ 5:19,20)したがって,ある礼拝式に関する次のような報告を読んでも驚くにはあたりません。いわゆる“悪魔のミサ”は“情欲のミサ”の形式で祝われ,自分のからだを祭壇としてささげた裸体の女と司祭が性交をします。次いで会衆内の各男子が司祭にならって同じ行為をし,その後,会衆内の男女は乱淫に身をゆだねます。
根本的には神への敵対
悪魔崇拝の指導者たちの発言から明らかなのは,神への崇拝を愚弄するためにできるだけショッキングなことをしたいとの欲望です。これは言うまでもなく,サタンと悪鬼の意志を遂行するものです。彼らは神から造られた,知性を持つ者がこのように自らを堕落させるのを見て,さぞかし喜んでいることでしょう。しかしながら,その“崇拝者”は危険な道を歩んでいると言わねばなりません。
サタンの崇拝者は神のことば聖書の戒めを破るショッキングなことをするばかりでなく,倒錯にふけってみずからの人間性と良心に反する道をたどります。(ロマ 2:14,15)さらに,彼らは自分たちの住む社会の良俗の規準を犯しているのです。
聖書はそのような人々,特に以前は神に仕えていたと主張する人々(サタン崇拝者の多くはそうであり,キリスト教世界の諸教会から出ている)を次のように描写しています。
「神を知りつつも尚これを神として崇めず,感謝せず,その念は虚しく,その愚なる心は暗くなれり。自ら智しと称へて愚となり,朽つることなき神の栄光を易へて朽つべき人および禽獣,はふ物に似たる像となす。この故に神は彼らを其の心の欲にまかせて,互にその身を辱しむる汚穢に付し給へり。彼らは神の真を易へて虚偽となし,造物主を措きて造られたる物を拝し,且これに事ふ…之によりて神は彼らを恥づべき慾に付し給へり…(彼らは)その迷に値すべき報を己が身に受けたり。また神を〔正確な知識において〕存むるを善しとせざれば,神もその邪曲なる〔精神の状態〕の随に為まじき事をするに任せ給へり」― ロマ 1:21-28,〔新〕。
致命的な危険
そうした悪の影響と接触する事態に引き込まれることは,たとえ好奇心からといえども賢明ではなく,むしろ致命的な危険を招きます。堕落した肉の行ないのわなに陥る危険を犯していることになります。しかしさらに悪いことに,真の神であるエホバ,創造者,宇宙の主権者を冒とくする人々と故意に交わるようになります。そうした闇のわざに加担する者に神の怒りが激しく臨むことを,聖書は明確に警告しています。―エペソ 5:3-7。
これと全く同じ忌むべき行ないのゆえに,神はカナン人を約束の地から一掃し,イスラエルにこう告げられました。「汝ら他の神々…に従ふべからず汝の中にいます汝の神エホバは嫉妬神なれば恐くは汝の神エホバ汝にむかひて怒を発し汝を地の面より滅し去たまはん」。(申命 6:14,15。レビ 18:24,25)いったいだれが全能の神に対して,自分をそのような立場に置きたいと願うでしょうか。―コリント前 10:22。
他方,悪魔崇拝者でない人でも,聖書研究による啓発を受けていないために,それとは知らずにサタンに崇拝をささげている場合があります。どうしてそのようなことがありうるのですか。
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それとは知らずにサタンを崇拝することがありえますか目ざめよ! 1971 | 8月8日
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それとは知らずにサタンを崇拝することがありえますか
公然と悪魔サタンを崇拝するそれら少数の「悪魔崇拝者」のほかに,自分ではそれと認めずに,あるいはそれとは知らずにサタンを崇拝する者がいます。
聖書を調べるなら,そうすることの危険が容易にわかります。聖書はこう述べています。「全世界は悪しき者に属する」。また,『この事物の体制の神は不信者の思いを盲目にした』。(ヨハネ第一 5:19。コリント後 4:4,新)さらに聖書は,サタンの主要な武器の一つが欺きであることをも告げています。―テモテ前 2:14,黙示 12:9,新。
サタンは聖書の中で「この事物の体制の神」として描かれていますから,彼は当然この世の政治・商業・社会事情に圧倒的な力を及ぼしています。ゆえに,神に敵対して戦おうとする彼は有力な人物を配下に抱き込みます。さもなければ,真理と,神の目的に関して人々を啓発させるわざとに対する組織的な反対を続けることは決してできないでしょう。
では,自分の支配する者すべてが放とうに身をやつして,動物の水準にまで完全に堕落してしまうか,または悪鬼につかれて狂気になれば,それでサタンの益になるというのですか。そうでないのは明らかです。それに,そうした極端に走る人は多くはありません。また,そうした人たちすべてが悪魔を崇拝していることを認め,あるいは知ることさえ,サタンの目的にそぐいません。彼は欺まん的であるゆえに,自分の利己的な霊を持っていながらも,少なくとも外見は,尊敬に価する,節操のある人として映る,知性と能力を備えた者を多く擁したいと望んでいるに違いありません。なぜですか。なぜなら,そういう人は自分と交わる者たちをいっそう容易に感化し,動かせるからです。
神に奉仕していると考えながら,どうしてサタンの支配下について,実際にはサタンに崇拝をささげるようなことになるのですか。
独立の精神
宗教心を持ち合わせていながらも,聖書は「時代おくれ」であると考えたり,それを無視したりする人がいます。そういう人は聖書の規準を捨てて,何が善か何が悪かに関して自分自身の規準を設けます。
こうした態度の一例として,ある“戦闘的同性愛者”の議論をあげることができます。彼はニューヨーク・タイムズ紙の中でこう書いています。「“道徳”および“不道徳”という語は,時と場所さらに大多数の人々の必要と相対関係にある判断上のことばである。たとえば,反ユダヤ主義や反黒人運動を道徳的とする社会や時代がいろいろあったし,それを非とするものもあった」。
もしこのことを認めるなら,殺人者でさえ自分を道徳的と呼べることになります。しかし,この“戦闘的同性愛者”の議論は,前述の自己決定の精神を表わしているにすぎません。彼は同性愛を非とする神の律法を拒絶しています。(コリント前 6:9,10。レビ 18:22)この議論はそうした自己決定の道が正しいことを証明するどころか,個人あるいは社会全体でさえも実際には,人間が生きてゆく上で従うべき規準を決定する資格を持っていないことを証明する例となっています。
では,だれがそれを決定できるのですか。人間の造りと必要を十分に知っておられる神だけです。神だけがご自分の被造物にどうふるまうべきかを告げる資格を持っておられます。
今日,自己決定の霊は随所に見られ,いろいろな党派や個人が無制限の独立を要求しています。彼らは知らないかもしれませんが,実はこれこそアダムとエバが神に逆らった論拠だったのです。この霊に動かされて彼らは神に反抗し,神から離反し,人類に死をもたらしました。神によって禁じられていた実を食べて犯した罪は,きわめてささいな行為に見えるかもしれません。それ自体は確かにささいなものでした。が,その意義と結果はきわめて大きいものでした。
この点に関して,エルサレム聖書が創世記 2章17節に付した脚注に注目してください。問題の人間夫婦が食べるべきでなかった実をつけた,善悪の知識の木について,その注はこう評しています。
この知識は神がご自分に保留しておられる特権であるが,それを人間が罪を犯すことにより,手にするようになる,3:5,22。ゆえに,それは全知を意味するのではない。堕落した人間はそれを所有していない。また,それは道徳的識別力でもない。堕落する前の人間はすでにそれを持っていたし,神がそれを理性ある者に拒むことはできなかったからである。それは,何が善で何が悪であるかを自分自身で決め,それに従って行動する力,人間が創造された存在としての地位を否定することになる,完全な道徳上の独立を主張することである。最初の罪は神の主権に対する攻撃,自尊の罪…であった。
アダムとエバは神の主権を攻撃するという行動を取ることによって,だれに追随し,仕えていたのですか。実際には,だれを神よりも賢明で,服従するにより価値ある者とみなし,ひいては崇拝していたのですか。それは,欺きをもってエバを悪い道に惑わした悪魔サタンではありませんでしたか。―ヨハネ 8:44。コリント後 11:3。
完全な独立を打ち出し,自分自身の規準を設ける人は,実際には,自分が創造されたもの,創造者による被造物であるという事実を否定しようとしているのです。それでいて当人は,身体的また道徳的法則をも含めて,多くの物事に支配されているという事実からのがれることはできません。そうした法則を無視しようものなら,たちどころに自然の力と衝突をきたし,病気や災いを招きます。さもなくば,他人の権利を侵害し,問題を引き起こします。
人間の考えだした知恵が高められている
したがって,サタンの名によって狂気じみた放らつな儀式を行なう少数グループだけがサタンを崇拝している,と考えるのは誤りです。サタン崇拝者は自分たちの宗教が『肉の宗教』であると言います。他の者たちはそうした肉欲的な放とうにふけらないかもしれません。しかし,そうした人は自分たちの意志に焦点を当てて,おのれの知能を高めているかもしれないのです。あるいは聖書にしるされている神の意志や規準を考慮せずに,他の人の知恵にたより,それに追随しているのかもしれません。そうする者はだれでも,自分自身を,あるいは人間の知恵を一種の神とします。そういう人はおそらく気がつかないうちに,実際には自分たちの上にあった神の主権を否定し,公然と『サタン崇拝者』を名乗る人よりも,悪魔にとってより有用な手先となるかもしれません。
ロマ書 6章16節が明白に述べるとおりです。「なんぢら知らぬか,己をさゝげ僕となりて,誰に従ふとも其の僕たることを。或は罪の僕となりて死に至り,或は従順の僕となりて義にいたる」。放とうにふけるふけらないにかかわらず,神のことばに注意を払わない人は,神の敵対者,悪魔の意志を行なっています。
人間の知恵を信頼する者が陥りかねないわなにはどんなものがありますか。聖書が不正を是正する解決策として述べている神の王国を無視する人は,ある種の“平等促進”グループや政治闘争,または人間の思考の同様の所産に類するものに巻き込まれるようになるかもしれません。あるいは,自分の隣人を愛せよとの聖書の助言を非現実的なものとして拒絶する人は,「人はすべて自分のことで精一杯」という態度を取って,徹底して利己的で,物質主義的な生き方をすることになりかねません。
そうした事柄に巻き込まれる人は,それが原因で神から離れ,神の王国の良いたよりを受け入れません。―ヤコブ 4:4。
さらに,進化論があります。それもまた,聖書に支持されていない人間の哲学です。そうした哲学を採用する人は誠実であるかもしれませんが,それは私をどこに導くだろうか,と自問すべきです。進化論は知性ある創造者を否定し,その結果,創造者の義の規準に従う責任を否定します。そうした信念をいだく者は神と相いれない立場に自分を置くことになります。
キリスト教世界の諸教会の立場
前述の証拠と照らし合わせて,次のことがわかります。つまり,キリスト教世界にある多くの教派の一つの会員であり,神の崇拝者さらにイエス・キリストの追随者であると主張する人であっても,それと知らずに,実際には悪魔に献身と崇拝をささげている場合があるということです。マイアミ・ヘラルド紙の宗教関係の論説者は,1970年7月11日付の同紙の記事の中でこの事実に注目して,次のように報じました。
「サタン教会に関する〔先日公表された〕報道に応答してくださった読者の中には,当教会の性行為に対する見解とその所信の表明に衝撃を与えられた人もいた。しかしながら,過去3か月間に,合同長老教会,米ルーテル教会,キリスト合同教会といったキリスト教の“正統派”の宗派が,程度の差はあれ,婚外交渉および同性愛行為を認める報告書を出版しているのである。
「このうちの二つの宗派は,教会の勤労青少年向けの雑誌を協同で出版しているが,その最近号には“ペッティング・パーティー”の詳細が生き生きと描かれており,その行為を十代の性的発育に対する健全な態度を示すものであるとして認めている。
「…ほとんど全宗派が,すべての人に生活を楽しませるために十分の食物,衣服,それに住居と健康を与えることにいっそう重点を置きはじめた。〔その結果,霊の思い,神のことばで人々を教育することがおろそかにされている〕。
「これをサタン崇拝の浸透と見る人もいる。なぜなら,サタン的聖書によると,『人間たる動物こそ悪魔崇拝者の神なり』であり,宗教の目的は人間のあらゆる肉欲を充足させることによって,人間を幸福にする点にあるからである」。
論説者はこうした事実を考慮して,次のような結論を述べている。「われわれのすべては自分では認めたくないほど異教的なのかもしれない」。
真の自由は神への奉仕に見いだされる
神に仕えることを真に願うなら,平和,健康,楽しい生活をもたらす方法に関して神が語っておられることを信じなければなりません。また,伝道之書の賢明な記述者の言ったことが,わたしたちの住んでいる現在の事物の体制に関して真実であることを悟る必要があります。すなわち,「曲れる者は直からしむるあたはず」。(伝道 1:15)そうです,この事物の体制はいたるところ利己主義で痛めつけられており,改めるにも償うにも打つ手がありません。その証拠として,とどまる所を知らない犯罪・貧困・汚染・麻薬の問題を考えてみてください。
したがって,神のことばの真理を受け入れる人々は,「地に属し,情欲に属し」かつ悪鬼に導かれているがゆえに「悪鬼に属する」知恵ではなく,ただ神からの知恵だけが人類を正しい方向に導きうることを認識します。(ヤコブ 3:15,16)彼らはメシヤによる神の王国がサタンと彼の精神を表わす人々を滅ぼすことを待ち望みます。その王国が人類の事態を正すことに信頼を置いているのです。
使徒パウロは,『造られたる者も滅亡の僕たる状より解かれて,神の子たちの光栄の自由に入る』時をさし示しました。(ロマ 8:21)神から独立しては,真の自由も幸福ももたらされません。人生をほんとうに生きがいのあるものにするのは,実際には「愛,喜び,平和,寛容,親切,善良,信仰,柔和,自制」ではありませんか。そうした事柄に対して,同じ使徒はそれを「禁ずる律法はない」と述べています。それらは神の霊の実であり,拘束を受けずに実践することができます。それこそ真の自由であり,今でさえそれを楽しめるのです。―ガラテヤ 5:22,23,新。
これがあなたの心の願いをかなえる自由ではありませんか。神の霊の導きのもとに,神のことばを学び,そうした良い事柄を今実践することにより,神の新秩序での命を受ける備えができます。その時には,これらのすぐれた特質が全人類の物事の中で顕著なものとなるでしょう。そうです,わたしたちはこうして「神の子たちの光栄の自由」を享受するものとなりうるのです。宇宙の創造者かつ所有者の子たちであるということにまさる偉大なほまれや自由が,いったいどこにありえますか。―詩 19:7-11。
しかし,神のことばを生活の導きとして心をこめて受け入れた後でさえ,なお神の敵対者に用いられる危険があるのでしょうか。
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だまされないように気をつけなさい目ざめよ! 1971 | 8月8日
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だまされないように気をつけなさい
真のクリスチャンになった者たちは,「暗黒の権威より救ひ出された」と述べられています。(コロサイ 1:13)この暗黒をつかさどる支配者の実体は,聖書のエペソ書 2章2節〔新〕のことばによって明らかにされています。そこで使徒パウロは,エペソ会衆の会員たちがクリスチャンになる前,『この〔事物の体制〕の習慣に従ひ,空中の権を執る〔支配者〕,すなはち不従順の子らの中に今なほ働く霊の〔支配者〕にしたがって歩んだ』と述べています。
この使徒はそれらのクリスチャンに,「悪魔の術に向ひて立ち得んために,神の武具をもてよろふべし」と助言した時,その強力な支配者の名前を明らかにしました。―エペソ 6:11,12。
したがって,クリスチャンは細心の警戒と用心を必要としています。多くの面で神の要求を果たしているかもしれませんが,警戒を怠ると,やはり突然に,そしてうっかりとサタンの意志を行なう事態に陥るかもしれないのです。使徒ペテロはこう助言しました。「慎みて目を覚しをれ,汝らの仇なる悪魔,ほゆる獅子のごとく歴廻りて呑むべきものを尋ぬ」― ペテロ前 5:8。
エペソ会衆のある者は,明らかに警戒を怠りました。そして真理から逸脱させられようとしていました。パウロはテモテに手紙を書き送って,そうした者たちが『悪魔のわなから出て正気に戻る』よう助けなさいと指示しました。(テモテ後 2:24-26,新)わなにかかるものは両方の目を見開いたままその犠牲になるのではありません。わなはたくみに隠されているものです。突然,警告なしに仕掛けが動いて,それを察知しなかった犠牲者をがっちりと捕えるので,犠牲者は逃げようにも助けが得られません。サタンのわなについても同じで,それと気づかないうちに捕えられるのです。しかもさらに重大なことに,実際にわなにかかっているのに,それに気づかないでいる場合があるかもしれません。自分では知らずにサタンの目的に仕えながら,正しいことをしていると考えるように欺かれるかもしれません。
サタンのわなのいくつかの例
この点で一つの良い例となるのは使徒ペテロに関して起こったできごとです。イエスは,ユダヤ教の指導者の手にかかって苦しみ,殺されるであろうと弟子たちに告げました。それはご自分の父が定められた進路でした。イエスはその犠牲の死を避けようと考えることすら罪であるのを知っておられました。しかし,ペテロは明らかに良い意図から,イエスをかたわらに寄せて言いました。「主よ,然あらざれ,此の事なんぢに起らざるべし」。イエスはペテロに振り返って,こう答えました。「サタンよ,我が後に退け,汝はわがつまづきなり,汝は神のことを思はず,反って人のことを思ふ」― マタイ 16:21-23。
ペテロはこの時サタンのわなに陥り,それとは知らずにみずから「サタン」,つまりイエスに「抵抗する者」となっていたのです。彼の例は,わたしたちが人間の感傷や感情または推理にではなく,神のことばの述べるところに耳を傾け,その正確な知識を得,それに従う必要を強調しています。
さらに,聖書は結婚した夫婦が互いに結婚の分を尽くすことに関して,こう警告しています。「相共に拒むな,ただ祈に身を委ぬるため合意にて暫く相別れ,後また偕になるは善し。これ汝らが情の禁じがたきに乗じてサタンの誘ふことなからん為なり」。(コリント前 7:5)神へのある特別な奉仕に時間をささげている時でさえ,平衡,良識を働かさねばなりません。さもなければ,結婚した夫婦の場合のように,性的な務めを果たすことを差し控えている状態が悪魔に誘惑される機会となり,夫婦の一方あるいは両人が情欲をかき立てられ,異性のだれかに対して悪い考えや行動を起こさないともかぎりません。―マタイ 5:28。コリント前 6:9,18。
会衆にとってのわな
全会衆,なかでもその監督の責任に当たる者たちは,サタンにだまされないよう警戒しなければなりません。この点,コリントの初期クリスチャン会衆はよい例となっています。その成員のひとりははなはだしい不道徳に陥りました。会衆はその邪悪を取り除く代わりに,サタンのわなに陥りつつあり,その件を悲しく思うどころか,得意になっていました。使徒パウロはその邪悪な男を追放するよう会衆に指示しました。―コリント前 5:1-5,13。
後日,一定の期間排斥された後に,この人は悔い改めて,自分の行状を変えました。そこでパウロは同会衆に手紙を書き,その人を許し,再び迎え入れるよう勧めました。その目的を彼はこう述べています。「これサタンに欺かれんためなり,我等はその詭謀を知らざるにあらず」。そうです,クリスチャンはサタンの詭謀が何かを決して忘れてはなりません。その会衆は最初の時には気をゆるめており,会衆内の清さを保つために十分注意を払っていませんでした。しかし今度は,他の極端に走る危険 ― 真実に悔い改めている者に対して過酷になり,許しを与えないというおそれがありました。これも同様に悪魔の目的にかない,神の恵みを失うことになりかねなかったのです。―コリント後 2:5-11。マタイ 6:14,15。ヤコブ 2:13。
悪い欲望と誇り
悪い欲望はサタンのしかける油断のならないわなとなりえます。イスカリオテのユダはその例です。主イエス・キリストの一使徒として選ばれた当初は,その務めにかなった資格のあることを明らかに示していました。しかし,どん欲になり,キリストとその使徒たちがいろいろな費用に使っていた資金から盗むようになりました。それを糸口に,サタンはユダの心を邪悪な方向へ少しずつ深入りさせることができたのです。そして彼はついに主を裏切ってしまいました。彼はすべてを失い,「亡の子」となりました。―ヨハネ 12:3-6; 13:18-27; 17:12; 18:2-5。
誇りもサタンの用いる非常に強力な道具の一つです。それは義にかなった人をさえつまずかせ,さらに悪いことに,問題を他の人に及ぼさせます。使徒パウロは誇りがサタンの策略の一つであることを悟っていたので,新しく改宗した男を会衆の監督の地位に任命すべきではないことを明らかにしました。『恐らくは[あまりにも突然に顕著な,責任ある務めの地位に高められたことで]ごう慢になりて悪魔と同じ審判を受くるに至る』からです。―テモテ前 3:2,6。
悪魔が是が非でもしようと決心しているのは,神の名前を中傷することです。会衆を監督するために任命されている者はだれであっても,その人の行動は会衆全体とエホバ神ご自身に影響をもたらすものですから,「外の人にも令聞ある者たる」ことが要求されているのです。その人は道徳,商取引き,家庭,親しみ深さ,もてなし,愛ある親切の面で,ほんとうにクリスチャンの名に恥じない生活を送る者であるべきです。さもないと,務めに任命された人は『誹謗と悪魔のわなとに陥る』かもしれません。―テモテ前 3:7。
そうです,不義の行ないをしているとの非難を会衆外の人々から公然と浴びせられる人が,クリスチャン会衆の中で羊飼いあるいは教える者としての顕著な地位につけられるようなことになれば,それは会衆をののしる絶好の機会を反対者に与えることになるでしょう。(テモテ前 5:14,15と比較してください。)そうしたわなが効を奏し,エホバに非難がもたらされるのを見て,サタンは大いに喜ぶことでしょう。
ゆえに,エホバ神に仕えている者は神からの完全な一領のよろいを着けるべきです。「誘惑に陥らぬやう目を覚し,かつ祈れ」。『さまざまの祈をなせ』。つまり,願い,感謝,とりなしの祈りをささげるのです。「また目を覚して凡ての聖徒のためにも願ひて倦まざれ」。エホバおよび支配しておられる王イエス・キリストにたよってください。互いに対して純粋な思いやりをいだくことにより,極端に走ったり悪い欲望が忍び入ったりするのを避けてください。これは真のクリスチャンが引き続きしなければならないことです。なぜなら,自分がエホバの名前を代表しているゆえに,サタンの主要な標的となっていることを知っているからです。彼らはサタンの手口に対して無知ではありません。しかし,神と人間との最大の敵にまんまとだまされないよう,油断なく気を配りつづけねばなりません。―マルコ 14:38。エペソ 6:11,13,18。ルカ 22:31。黙示 12:9,17。
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