ものみの塔 オンライン・ライブラリー
ものみの塔
オンライン・ライブラリー
日本語
  • 聖書
  • 出版物
  • 集会
  • 怒りと義憤
    ものみの塔 1960 | 9月15日
    • 13 エホバはどんなものを憎みますか。

      13 エホバの憎み給ういくらかの事が何であるかを知ることは,最も興味深いものです。そのことは,次の言葉のうちに示されています,「エホバの憎み給うもの六つあり否その心に嫌ひ給うもの七つあり,即ちたかぶる目いつはりをいう舌,罪なき人の血を流す手 悪しきはかりごとをめぐらす心すみやかに悪にはしる足 いつはりをのぶる証人および兄弟のうちにあらそいをおこす者なり」それよりすこし先のところでは,次のような助言の言葉が述べられています,「エホバをおそるるとは悪をにくむことなり,我はたかぶりとおごり悪しき道といつはりの口とを憎む」それで,私たちはエホバの憎まるるものを当然にくむ正当な理由をもつています。―箴言 6:16-19; 8:13。

      14 ダビデは何を憎みましたか。そして,彼は何を愛しましたか。

      14 全能の神のひとりの僕は,別の時にこう述べました,「我なんじのさとしによりて知慧をえたり,このゆえにいつはりのすべてのみちをにくむ……この故にもろもろのことにかかるなんじのすべてのさとしを正しとおもう,我すべてのいつはりのみちをにくむ,われ二心のものをにくみ汝のおきてをいつくしむ,われいつはりをにくみこれをいみきらへども,汝ののりを愛す」― 詩 119:104,128,113,163。

      15 クリスチャン奉仕者たちは,今日エホバの正しい原則を破る者たちをどのように見なしますか。

      15 このことから判断するとき,会衆内のある人々がエホバの律法を破つて,姦淫,淫行をなし,ののしりの言葉を語り,あるいは泥酔者であるためエホバの原則を無視するなら,会衆の人々は当然そのような行ないをする者たちをいみきらいます。全くのところ,そのわけで会衆の委員はそれらの者たちを排斥して交りから除外することが重要になつているのです。彼らはそのような行ないを憎みます。従つて,そのような行ないをする者たちはエホバの誉ある清い制度内にいることができません。

      16 新しい世の社会の者は,どのように怒りと義憤を見なしますか。

      16 それで神の考えと思いを正しく評価し,完全なもの不変のものと認めることは,なんと重要なことでしよう。彼は,不完全な人間の怒りと怒りにみちる罪を憎みます。このことを知るクリスチャンは,エホバの道と考えに従う歩みをするよう自分の道をいつでも合わせる努力をします。たしかに,どのクリスチャンもいかるにおそく,激怒を避けます。それでは義憤についてはどうですか,エホバの義憤が表われるようにしなさい。なぜなら,エホバは正義のうちに義憤を表わし,御自分の原則を破る憎むべきものを永久に滅ぼします。

  • 神の目的とエホバの証者(その2)
    ものみの塔 1960 | 9月15日
    • 神の目的とエホバの証者(その2)

      「『あなたがたは私の証者です』とエホバは言われる。」― イザヤ 43:10,新世訳

      第2章 宗教的な混乱からの転換は始まる

      ロイス: ローマ・カトリック教会が中世時代の千年間,神の御国として支配したと主張したなら,キリストの再臨を待つ必要がなぜあるのでしようか。

      ジョン: ローマ・カトリック教会は待たなかつたのです。しかし,ローマ・カトリック教会の力が1800年頃に衰え始めたとき,幾人かの聖書研究者たちが主の再臨に注意を向け始めたのは当然です。

      ロイス: しかし,宗教改革についてはどうですか。新教徒がローマ・カトリック教会から離れたとき,彼らはエホバの証者にならなかつた,とあなたは仰言いましたね。なぜそう仰言るのですか。

      ジョン: そうですね,宗教改革は実際にはローマ・カトリック教会の権威に対する反逆として始まりました。そして,間もない中に強力な政治論争に発展しました。多数の新教徒の指導者は,カトリック教会の異教徒審問所と同じくらいに,宗教的な反対者たちをひどく迫害しました。たとえば,ジョン・カルビンは,三位一体説に反対したマイケル・サーヴイタスを文字通りに火焙りにしました。それは非常におそろしい栲問で,約5時間の後にサーヴイタスは死にました。その間,カルビンは窓からその光景を見ていたのです。a さらに,新教徒の教会は,法王が支配していた世紀中に信ぜられていた背教の教えを,そのまま引きつぎました。これらの事実だけからも,それは真の宗教改革でなく,またこれらの「宗教改革者」たちは,イエスやイエス以前の人々のごときエホバの証者ではなかつたことが分かります。

      しかし,世の終りが来る前に神の御国の良いたよりは,全国民へのあかしとして世界中に伝道される,とイエス御自身は予めに告げられました。暗黒時代中では,このことは不可能でしよう。政治的な支配と宗教的な支配は,きわめてかたいものであつたため,ローマ・カトリック教職者制度の束縛を全く破ることは必要でした。そうしてこそ,ある程度までの運動を行なうことができます。この点のところでは,真の崇拝に戻つたわけではありません。しかし,この再調整の期間中に歴史的な大事件が生じたことは,キリストが再臨して設立される神の御国を国際的に伝道するための状態を準備していたのです。

      極端な思想は御国の論争をぼやかす

      多くの抑制は取りのぞかれて,思想と行動の自由がいつそう多く与えられました。しかし,この自由思想の多くは極端な左に走りました。急進的な思想と絶えず衝突したために,人々はエホバ神の御国とサタン悪魔の支配との間の真実の大論争よりも,これらの論争に注意を集中するようになりました。

      自由主義が左に傾いた例としては,1848年にマルクスとエンゲルスは「共産主義宣言」を発表しました。そして,ダーウインの急進的な「種の起源」は,当時に行なわれていた知的な革命と科学革命のしるしとして1859年に現われました。組織されていた宗教は,それと同じ頃に自分たちの弱い立場を認めました。そして,バチカン会議は,ローマ・カトリック教会の地位を強めるために,1869-70年に召集されました。法王は始めて間ちがいを犯さない者と言明されました。新教徒の制度も後退し,牧師たちは一般信徒の上に大きな権威を取り始めました。これら多数の極端な思想の結果,不敬虔の時代が次第次第に始まりました。聖書の高等批評,進化論,霊媒術,無神論,そして不信仰はキリスト教国内に侵入し始め,多数の福音教会と言われるものは,この科学的,知的な考えの傾向に従つて,その教えを現代化し始めました。その後間もない1891年に,現代的なカトリック社会哲学の基礎的な文書が書かれました。これは,法王レオ13世の出した回章で,「レルム・ノバラム」と呼ばれました。

      しかし,宗教指導者たちが人々を犠牲にして自分たちの力を再び得ようと努める一方,政治政府は別の意味で自分たちの力を得ていました。アメリカ合衆国は,南北戦争から立ち直つたばかりで,地上最大の一強国になろうと再建をはかつていました。英国は,聖書預言中の第七番目の世界強国としての黄金時代を迎え,おそらく大英帝国としては当時その絶頂に達していました。この力を持つ英国は,力を増し加えていたドイツに疑惑の目をむけました。ドイツは,1870年の普仏戦争に勝利を収め,欧州内の大きな強国として,立場をかため始めました。

      政治的にも宗教的にも覚醒と大動揺がありました。しかしまた,科学的にも大きな業績がなされたのです。蒸気機関の発明,電気の発見,電話の進歩,後には自動車の進歩など,1800年代の後期と1900年代の初期に生じたこれらの全部のことは,西欧の文明に大変化を与え始めました。新しい事業が始まりました。この事業を進歩させるために新しい法人団体が数多く組織されました。そして,以前の世紀では富をわずかしか持つていなかつた人々は,いまや金銭の投資をすすめられ,大きな財産をつくり始めました。物質主義,金づくり,そして快楽を追い求めることはそれぞれ結合していました。それは,着々と興隆して1914年に最高潮に達する筈の可能性に対して,人々を盲目にせしめました。良いことに対するこれらの見込みは,非常に有望に見えたため,一般の人々はそれらの代価についてはほとんど関心を抱かなかつたのです。そしてまた,政治的な面と商業的な面でのこの再興にともなう大きな霊的な覚醒にもほとんど関心を抱かなかつたのです。

      初期の声は道を示す

      しかし,一般の人々のこの態度にもかかわらず,前進の一歩が進められていたことは真実です。思想と行動の自由は可能でした。そして欧州での政治支配がゆるみ始めたのと同時に,多ぜいの人人がいつせいに聖書を真剣な態度で分析的に研究し始めました。最も広範囲に及んだ影響のひとつは,1816年にウイリアム・ミラーが始めたものです。彼は1843年か1844年にキリスト・イエスが目に見える肉体をもつて来ると預言しました。しかし,彼の見解は,聖書中に啓示されている神の目的とは全く反するものでした。b

      トム: 当時キリストの再臨を待つていたのは,ミラーひとりだけでしたか。

      ジョン: いいえ,ドイツ・ルーテル派の神学者ベンゲルは,1836年という年代を発表しました。一方,英国のアービング派の者たちは,最初1835年,次に1838年,1864年,そして最後に1866年を待ち望んで,ついに断念しました。この時までには,いくつかの異なつた再臨論者の群れが,ミラノの運動の結果つくられました。しかし,エリオットとカミングの群れは,1866年を待ちのぞんでいました。ブリユウワーとデッカーは,1867年を預言し,セイスは1870年を支持しました。ロシヤのメノン派の群れは,1889年という年代を示しました。c

      ロイス: しかし,キリストの再臨の時と仕方について,なぜちがつた考えがそんなにたくさんあつたのですか。

      ジョン: そのわけは,人々はエホバに待ちのぞむことをせず,伝統的な宗教の教えに従おうと熱心に努力したからです。忘れてはなりません,聖書の真の教理は背教の期間中に大きく歪曲されたため,まずこれらの教理が明白に理解されるまではキリストの再臨に関する明白なまぼろしは可能ではありません。いわゆる宗教革命と呼ばれているものは,このことを達成しませんでした。それで,19世紀の初期には,キリストがいつ戻るかを決定する際に多くの間ちがいがなされました。なぜなら,年代表だけが用いられたからです。それはまだ真の崇拝を再興する神の予定の時ではありませんでした。

      マリヤ: キリストの再臨を待ち望んでいた多くの人は,キリストが肉体をもつて戻ることを期待していましたが,ある人々はキリストの再臨は目に見えるものでないと信じていませんでしたか。

      ジョン: そうです。例えばブルックリンのジョージ・ストーズがいます。彼は「聖書検査者」(英文)という雑誌を出版し,1870年を持ちのぞみました。「最後のラッパ」(英文)を出版したエッチ・ビー・ライスも1870年を期待していました。そして,失望し

日本語出版物(1954-2026)
ログアウト
ログイン
  • 日本語
  • シェアする
  • 設定
  • Copyright © 2025 Watch Tower Bible and Tract Society of Pennsylvania
  • 利用規約
  • プライバシーに関する方針
  • プライバシー設定
  • JW.ORG
  • ログイン
シェアする