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  • 世界宗教に対する厳しい非難
    目ざめよ! 1972 | 10月8日
    • 世界宗教に対する厳しい非難

      いったい世界宗教は人類をどこへ導いているのでしょうか。この質問の答えに,あなたは驚くかも,いえ,強いショックを受けるかもしれません。

      そうであっても,わたしたちは,あなたがこの問題に関する率直な討議を望んでおられることと思います。

      しかし,なぜわたしがこの問題に関心を持たねばならないのか,とあなたはお尋ねになるかもしれません。たぶん,自分には直接関係がない,と考えておられるかもしれません。

      ですが,自分自身とご家族の福祉には関心を持っておられるのではありませんか。むろんお持ちでしょう。では,あなたが教会に行こうが行くまいが,世界宗教はあなたに関係を持っており,あなたと,あなたの愛しておられるかたがたをともに悲劇的な結末へと導きかねないのです。

      どうしてそんなことがありうるのだろうか。少し飛躍しすぎていないか。宗教がそれほどの影響を及ぼすことはありえない,とお考えになるかもしれません。しかし,神ご自身が世界宗教に浴びせた非難の一つを聴いてください。「地上でほふられた者たちすべての血が彼女の中に見いだされた」― 黙示 18:24,新。

      考えてみてください。歴史を通じて幾百万のもの人をほふったすべての戦争に対し,世界宗教が主な責めを負っている,と神のみことばは述べているのです。

      聖書は世界宗教を娼婦とも描いています。彼女が地の支配者たちと『床に入り』,地に住む者たちは「彼女の淫行のぶどう酒で酔わされ」てきたと述べています。この女,世界宗教は,「娼婦たちと地の嫌悪すべきものとの母」と呼ばれています。―黙示 17:2,5。a

      このことにあなたは驚かれますか。しかし,神のみことばは世界宗教についてそう述べているのです。それに,宗教についての真実を神ご自身よりよく知っている者がいるでしょうか。

      それにしても,世界の諸問題についてほんとうに宗教を責めることができるのでしょうか。共産主義は,また多くの人を共産主義に転じさせた,富んだ人たちによる圧制はどうですか。

      チェコスラバキアのプラハにある,コメニウス神学部教授団の学部長ヨセフ・フロマドカはこう語りました。「私は共産主義者ではありません。クリスチャンです。ですが,共産主義に対して責任があるのは,われわれクリスチャン以外の何者でもないことを知っています。…われわれは『言うだけで,実行しなかった』。…共産主義者もかつてはクリスチャンだったのです。彼らが正義の神を信じないのなら,それはだれの責任ですか」。1b

      何百万人もの人々が教会に背を向けているのは,単に偽善的な信心のためだけではなく,それ以上のわけがあります。世界宗教は概してだれを支持してきましたか。富んだ圧制的な人たちや裕福な地主階級,また勢力のある財閥などではありませんでしたか。少しでも楽になることを願って,多くの人は共産主義に転じました。

      また,今日の道徳の崩壊はどうですか。これに対してもやはり宗教が主な責めを負っているといいうるでしょうか。今日キリスト教世界の至る所で淫行・姦淫・同性愛・性病などがはびこっているのは,宗教に大いに責めがあると言えるでしょうか。

      戦争・共産主義・不道徳 ― こうした事態に人類を導き入れた責任が宗教にあるなどということは,多くの人にとって信じがたいことかもしれません。しかし,イエス・キリストが当時の宗教指導者を「盲目の案内人」と呼んだことを思い出してください。彼はこう言いました。「それで,盲人が盲人を案内するなら,ふたりとも穴に落ち込むのです」。(マタイ 15:14,新)それら宗教指導者は人々を誤らせていました。

      イエスはそればかりか,その時から40年も経ないうちにエルサレムとユダに臨んだ惨めな滅亡にユダヤ人を導いた責任は,直接それら宗教指導者にあることを示されました。―マタイ 23:29-36。

      今日これと平行した事態が見られますか。現代の宗教は実際に人類を同じような滅亡に導いているといえるでしょうか。こんなことは,ほのめかすことすら,人々の気に障るかもしれません。しかし,それがほかでもない神のみことばの述べていることであるならどうですか。もしそうなら,なぜそう言われているのか,わたしたちには何ができるのかを,少なくとも考える時間を設けるべきではないでしょうか。

      では,宗教は人類を実際どこに導いているのかを検討することにしましょう。そうすれば,神がこの問題にどう対処されようとしているかがわかりますし,それがあなたご自身と,あなたの愛しておられるかたがたとどんな関係があるかも明らかになってくることでしょう。

  • 宗教はどのように人々を導くか
    目ざめよ! 1972 | 10月8日
    • 宗教はどのように人々を導くか

      一見したところ,政治支配者が宗教を導いているように思えます。ある場合はそのとおりです。それにしても,支配者が,なかでもキリスト教であると主張する国の独裁者が権力を振ってこられたのはいったいなぜですか。

      それは宗教が人々の考え方をどの方向に導いてきたかに原因があるのではありませんか。実際,宗教が人々の思いをある型にはめてしまったために,独裁者が権力を得,それを保持するという事態が生じうるのです。人々は宗教の影響を受けて,政治指導者が自分たちの望む状態を社会にもたらしてくれると期待するようになっています。

      少数の例外を除けば,宗教指導者みずから政治支配者を賞賛し,追随してきました。時には,どちらの側に投票すべきかを人に告げることにより,僧職者が直接政治に介入することさえあります。

      したがって独裁者が登場して,人々に彼らの欲しているものを約束すると,多くの人は彼に従います。ところが彼が戦争を命じるとどうなりますか。大多数の人はこの点でも従うよう僧職者からしむけられているのです。

      政治支配者のやり方に行き過ぎの見られることがあります。僧職者の意に沿わないことをする場合です。ですが,そうした悪政に対してまず責任があるのはだれですか。たとえば,ヒトラー政府は,僧職者の大多数が彼を支持するよう人々に命じなかったら,少なくとも支持することを許さなかったら,あれほどの権力を振うことができたでしょうか。ナチ主義の地位は,ヒトラーとバチカンの間に結ばれた政教条約によって強化されたのではありませんか。

      ロシアの教会が富裕な地主階級や他の圧制的な分子を支持するあまり,必然ともいうべき反動が起きましたが,もしそういう事態が生じていなかったら,共産主義がロシアで政権を握っていたでしょうか。キリスト教世界の国民が中国人に対してもっと別の扱い方をしていたなら,共産主義が中国大陸を手中に収めていたでしょうか。

      今日の急進的な僧職者の中には,革命を勧める人さえいます。しかし,彼らはそうすることによって,自分たちの態度を実際に変えているのでしょうか。神のみことば聖書に教えられている真の解放を示す代わりに,人々を別の利己的な支配形態に導いているに過ぎないのではありませんか。

      また,道徳はどうですか。淫行や姦淫,性的に異常な行為をならわしにする教会員はどうなりますか。相変わらずりっぱな会員として留まるのが普通です。道徳上の訓練や指導を与える面での教会の怠慢こそ,キリスト教世界の至る所で見られる性病,私生児の出生,あるいは堕胎などの驚くべき増加の主要な原因を作っているのではないでしょうか。

      今日のこの状態は,イスラエルがバビロンに流刑にされる前,彼らの首都エルサレムが破壊される前の状態と全く同じです。聖書は当時について,「預言者と祭司は偕に邪悪なり」と述べています。―エレミヤ 23:11。

      その結果どんな状態が生じましたか。聖書は次のように答えています。「ただ詛 偽 凶殺 盗 姦淫のみにして互に相襲ひ血血につゞき流る」― ホセア 4:2。

      僧職者は今日,古代イスラエルにおけると同様,神についての信仰を保たなかった,というのが真実です。信徒に神のみことばの真理を教えていませんし,自分自身それに従いもしません。神に命令されることを行なうよりは,自分の考えを遂行することに関心を示してきました。

      これは,神の名によってなされた嫌悪すべき事柄を非難した僧職者が全くいなかった,という意味ではありません。政治に携わる人々のなかの誠実な人々が事態を正そうと努めてきました。しかし,妥協と利己主義という支配的精神,さらに幾世紀もかかって築き上げられた,正しい原則を無視する体制とのために,キリスト教世界をよくしようとする人々は無力な状態に置かれてきました。たぶん,世界宗教の失敗が招いた最も悲惨な結果は,人類の戦争に関するものでしょう。その記録を調べるなら,わたしたちは大いに考えさせられます。たとえば,ベトナム戦争に関連した,宗教はどんな記録を示しているでしょうか。

  • ベトナム戦争 ― 宗教は人々をどこへ導いたか
    目ざめよ! 1972 | 10月8日
    • ベトナム戦争 ― 宗教は人々をどこへ導いたか

      カトリック,プロテスタント,その他の宗教団体に属する若い人々が何千人となくベトナムで戦ってきました。そして今なお多くの人が戦っています。僧職者は直接戦場で兵士に仕えています。宗教は人々をこの戦争に送り出すことに関与したでしょうか。

      ベトナムの戦闘に関して,プロテスタント諸教派は今どんな立場を取っていますか。イエズス会士ロバート・ドリナンは近著「ベトナムとハルマゲドン」の中で,「ベトナム戦争は道徳的に見て弁明の余地なしとする,プロテスタント神学者が一様にいだいているともいえる心情」を指摘しています。2 プロテスタントのいろいろな宗派は,同戦争に反対する声明を発表してきました。

      ユダヤ教の組織にも,最近になって戦争に反対するものが現われました。昨年12月のワシントン・ポスト誌には次のような見出しが載せられました。「ケンジントン神殿<テンプル>の決議ベトナム戦争終結を勧告」。同決議は,「ベトナム・ラオス・カンボジア本土及び上空での戦闘に参加しているアメリカ軍の完全撤兵を決定し,発表する」ようニクソン大統領に勧告しました。3

      ローマ・カトリックはどんな立場を取っていますか。昨年11月アメリカの司教は全国会議を開きましたが,ニューヨーク・タイムズ紙はその模様を報告し,第一面に次の見出しを掲げました。「アメリカのカトリック司教インドシナ戦争の終結を要請」。4 司教たちによって採択された決議は,「人間の生命と道徳的価値感の破壊」を指摘し,さらにこう述べています。「ゆえにわれわれは,戦争の即時終結は道徳的に極めて当然のことであって,急を要する問題であると堅く信ずる」。5

      デトロイトの司教補佐トマス・ガンブルトンは,決議は「戦争が不当なものであることを示している」と説明しました。6 したがって,カトリックの立場に同意する人はだれも「この戦争に携わらなくてもよい」と彼は語りました。7

      こうした証拠を前にして,宗教は人類を戦争から遠ざけてきたと結論する人がいるかもしれません。しかし過去数年間なぜ,若いカトリック教徒やプロテスタントの信者たちが幾十万人もベトナムで戦ったのですか。彼らは教会から受けた指導に反して行動してきたのでしょうか。

      混乱した指導

      ベトナム戦争に対する教会の反対は,現実には前に述べたことが示すほどはっきりしたものではありません。例えば,ニューオーリアンズの大司教フィリップ・ハナンは,自分が最近アメリカの司教たちによって採択された「決議を完全に支持しない相当数の司教」のひとりであると語っています。8 そうであれば,カトリック教徒が今でさえ自分たちに与えられる指導に混乱させられているのも理解に難くありません。

      プロテスタントの諸教派にしても同じです。1968年アメリカのルーテル教会は,選択制良心的兵役拒否を公式に認める立場を取りました。しかしそれ以後でも,ベトナムでの戦いを支持する発言を行なうルーテル教徒が出ています。例えば,ルーテル教会の出版物「スプリングフィールダー」1970年春季号の中で,教授兼牧師マルチン・シャールマンはこう書いています。

      「わたしたちは,自分のように隣人を愛すべし,とのことばを聞いている。言うまでもなくそれは正しい。主のことばである以上,だれがそれに異論を唱えられるだろう。だが,これには別の側面がある。…ベトナムの兵士に対するわたしの関係は一対一というものではない。両者の間には二様の忠節が介在している。わたしの国に対するわたしの忠節心と,彼の国に対する彼のそれとである。わたしは自国に対して責任があり,それは彼の国に対するわたしの配慮をしのぐ。同じことは彼の側にしても真実である。ところが,彼が傷ついてわたしの助けを必要とするとなると,彼はもう一度新約聖書の倫理的な意味でのわたしの隣人となる。一対一の関係が戻ってくるわけである」。9

      つまりこの僧職者の論によれば,自国に対する忠節が隣人を愛するようにとのキリストの命令を無効にするというのです。教会が良心的兵役拒否を承認しているのに僧職者が戦闘を奨励するのでは,人々は当然のことながら混乱させられてしまいます。

      今日,このルーテル教会の僧職者のような見解は例外で,現在教会はベトナムで戦うことを拒む方向へ人々を引っぱっている,と結論を下す人がいるかもしれません。しかし,そうした結論は五,六年前には真実だったでしょうか。

      戦争に対する当初の見方

      5年ほど前アメリカ合衆国各地のローマ・カトリックの司祭は,カトリック世論調査所から質問を受けました。質問は,アメリカはベトナムで勝利を得るために強硬な政策を取るべきか,というものでした。

      司祭の答えは,賛成 ― 2,706人,反対 ― 371人でした。10

      しばしば,司祭は戦争努力を全面的に支持する発言をしたり,行動を取ったりします。例えば一新聞の報道によると,ひとりの司祭と他のふたりの僧職者は,「ブルックリンの学生グループに,殺すことを禁ずる聖書の命令はベトナム戦争には当てはまらないということを確信させ」ようとしたとのことです。司祭のロバート・J・マクナマラは,「われわれが当地でしていることは小数独裁政治を阻止するために必要である」と述べました。11

      もっと積極的に戦争に関係した司祭もいます。ある司祭の写真がライフ誌に1ページ半にわたって大きく載ったことがありますが,その表題は肉太の活字で「自ら戦う勇敢な司祭」となっていました。その記事はこう述べています。「戦いの最中にあって,ヘルメットをかぶり銃を抱えた人の上記の姿は,珍しくもあり,心あたたまる光景でもある。彼はベトコンに対して自分自身の戦いをいどむカトリック司祭である」。12

      ベトナムでアメリカが勝利を収めることを司祭がほとんど全員一致して願ったのはなぜですか。司教の与えた指導が強い影響を及ぼしたことには疑いの余地がありません。1966年11月アメリカの司教たちは公式声明の中でこう述べました。「われわれがベトナムに参戦しているのは正当である,と論ずるのは理にかなっている。…われわれは同胞たる兵士の勇気をたたえ,かつ感謝を表明するものである。…われわれは現状における我が国の立場を良心的に支持することができる」。13

      この戦争を十字軍の戦いでもあるかのように語った司教もいます。故フランシス・スペルマン枢機卿は,アメリカの部隊は文明のための戦いをしている「キリストの兵卒」14 であり,「勝利以外の何物をも考えられない」15 と言いました。アメリカの行動の根拠が正当かどうかの質問に対する答えになるものとして,スペルマンは「正しかろうが間違っていようが私の国だ」と述べました。16

      スペルマンの「勝利」に対する願いについて,首都ワシントンにあるナショナル・シティ・キリスト教会の牧師ジョージ・R・デービスは,「私も同感です」と語りました。17 プロテスタントの他の牧師たちも,さまざまの方法で同意を示しました。

      クリスチャン・サイアンスの牧師ロバート・マミーは戦争を支持する意見を述べ,大学生の一グループにこう語りました。「殺すことは純粋な心をもってなされねばならない。そうでないと,道徳的に正しくない殺し方をしたことになる。もしわたしたちの兵士が敵を憎むように教え込まれているなら,敵を殺すことは道徳的に正しくない行為である」。18

      僧職者は戦死した人に誉れを与えることによっても,戦争を支持していることを明らかにしました。アイオワ州デモインのルーテル教会牧師マーチン・ハーザーはある葬儀において次のように語りました。「兵士が正当な[ベトナム]戦争で義務を果たして死ぬなら,それは国に尽くした輝かしい死であるばかりか,本人にとって祝福された最期である。…天使が彼の魂を天に携えたであろうし,彼が平和を今享受していることを私は確信している」。19

      宗教は人々をどこへ導いたか

      アメリカの教会がベトナム戦争をその初期の段階において支持したことは明らかとなっています。それはどんな結果を招きましたか。

      一つには,同じ教会員同志が戦場で互いに殺し合うという事態に至りました。例えば,北ベトナムには推計100万人のカトリック教徒がいますが,北ベトナムの司祭たちはどんな立場を取りましたか。ニューヨーク・タイムズ紙はこう報じています。「ハノイのパデュアにある聖アンソトニオ教会の司祭ヨセフ・ングエン・バン・クエ氏は,…[北ベトナム]の軍隊に入隊する青年をきまって祝福すると話した」。20 ですから,同じ教派の会員たちが戦場で殺し合ってきたのです。しかも僧職者たちの祝福を受けてです。

      しかしながら前に注目しましたように,最近になって変化が見られるようになりました。事実,各宗派が合同で,戦争の終結を促す「悔悟と行動への要請」を発表しました。21

      それにしても宗教指導者はなぜ自分たちの見解を変えたのでしょうか。この質問に対する答えを頼りに,宗教はしばしば何によって取るべき立場を決定するか,したがって人類をどこに導くかを明らかにすることができます。

      [6ページの図版]

      「ライフ」誌に写真が載ったこの人のように,司祭のある者たちは戦争に積極的に参加した。

      [7ページの図版]

      ベトナム戦争についてスペルマン枢機卿はアメリカ合衆国の軍隊は「キリストの兵卒」であると語った

  • 宗教団体の方向を決定するのは何か
    目ざめよ! 1972 | 10月8日
    • 宗教団体の方向を決定するのは何か

      ベトナム戦争をその当初容認することにより,教会は戦闘に加わるのが正しいと考える方向に人々を導きました。ところが今になって,ある教会組織やその役員は戦争を非難し,戦争参加は誤りだと言明します。

      なぜこのように変わったのですか。教会は今や会員たちが聖書の教えに調和して生活するよう指導しているのですか。それとも他の要因が宗教の指導方針を決定しているのでしょうか。

      オレゴン・ジャーナル誌は最近,『教会人は群集に同調しているに過ぎない』と評しました。22 つまり,人々が戦争にほとんど反対を表明しなかったときには教会はそれを支持し,一般の人が長びく戦闘と流血にうんざりしてくると,僧職者は戦争に反対しはじめたということです。

      メソジスト教会の出版物「合同メソジスト」の論説委員オールデン・ムンソンはこう説明を述べています。

      「度重なるミライのような酷薄な事件,それに戦争に関する史上最も充実した報道が全国民に影響を与え,教会も遂に反戦の空気の中をとぼとぼと他のあとに付いて行くことになった。…1965年以来,ベトナム一般市民の犠牲者の推計は男女子供合わせて100万から400万人に上るが,教会は今ごろになってやっと驚きの色を表わしている」。23

      このとおり,戦争が『不評』になってはじめて,「平和」を求める教会の叫びが聞かれるようになりました。人々は,教会がその時々に一般に受け入れられているものが何かを決定し,それからそれに即して自分の立場を決めることに気づいています。ニューヨークの僧職者ロバート・J・マクラッケンはこう認めています。「われわれは風向きがはっきりつかめない限り,どんな立場も取らないように注意する」。24

      指導の方針が一貫しているように見せるための努力

      カトリック教会は戦争に対する自分たちの立場に変化のないことを最近示しました。カトリックの指導方針がベトナム戦争を支持したことはない,と主張しています。この主張は事実上,全国カトリック司教会議の行政機関であるUSカトリック会議(USCC)によって昨年出版された文書の中でなされています。

      しかし著名なカトリックの神学者たちでさえ,司教たちは戦争に反対する代わりにそれを支持したと述べています。事実USCCの文書が発表されるのとほとんど時を同じくして,ラ・サール大学の宗教学教授でカトリック司祭のピーター・J・リーガーはこう書いています。

      「今日における最大の道徳問題であるのに,この問題に対して道徳的指導を行なう点で途方もない失敗を犯したのであるから,この戦争を支持したこれらアメリカのカトリック司教(約95パーセント)はこぞって退陣すべきである。もはや職務にふさわしくない。…手を血に染めた者は奉仕者たりえない。アメリカの司教は道徳面での失敗ゆえに,自分の手を人の血で染めているのである」。25

      カトリック教徒みずからこうした非難をしていることを考えると,司教の発表した内容が真実かどうか疑わしく思われませんか。

      真実を偽って伝える

      カトリックの雑誌「コモンウィール」はこの問題を取り上げました。執筆者であるカトリックの大学教授でまた社会学者のゴードン・ザーンは,USCC文書を検討したのちにこう述べました。

      「私はこれに挑戦せざるを得ない。歴史に対して極めて取捨選択的なアプローチをすることにより,教会の正規の指導方針は,慎重を期すために控え目であったにしても,一貫して戦争反対の気運を生みだす源であった,との偽りの印象を与えるための作為の行跡が明らかに見られる」。26

      同文書が「歴史に対して極めて取捨選択的なアプローチ」をしていることを例証するものは,戦争を支持したカトリックの指導者たちの発表が載せられていないという事実です。故スペルマン枢機卿の行なった,戦争を是認する発言が省略されているのは最も注目に値します。

      事実,この文書の中で省略されているもので,教会指導者が戦争を支持して行なった発言は非常に多く,「コモンウィール」誌はこう評しています。「USCC調査員はニューヨーク大司教管区に保存されている記録だけからでも,少なくともこれと同じ相当の分量の,戦争を支持する司教の発言を収録できたはずだ,と疑いたくなる人もいよう」。27

      ところが,そうした証拠はいっさい,故意に省かれているのです。しかし「コモンウィール」誌は,「誠実さ」があれば次のような文章が載って当然であると述べています。「それらは今では当惑させるものであるにしても,この戦争が道徳的に間違いであることはだれの目にも歴然としている」。28

      USCC文書の紛れもないねらいが,今や不評となった戦争を教会が当初支持した事実を覆い隠すことであるのは明白ではありませんか。こうした不誠実な態度にあなたは驚かれることでしょう。

      宗教の指導方向を決定するのは何か

      牧師が聖書からしばしば『地の平和』や『隣人への愛』について教えることは事実です。このことから,教会は人類を聖書の教えに調和した生活をする方向へ,戦争や暴力から離れる方向へ導いている,とあなたはお考えになるかもしれません。

      しかし,教会の言うことだけを考慮するのは誤りです。むしろ,教会が実際に行なうことも合わせて調べてみることが肝要です。戦争をすることが自国の益になると国家の指導者が決定すると,教会はどうしますか。

      そのような事態になると,諸教会はイエスの次のことばに人々の注意を向けるでしょうか。「もしあなたがたが互いの間で愛を持っているならば,これによってすべての人は,あなたがたがわたしの弟子であることを知るでしょう」。(ヨハネ 13:35,新)真のクリスチャン愛は国境などに左右されない,ということを教えるでしょうか。キリストの真の追随者は,どの国に住んでいようと,どの人種であろうと,それに関係なく互いに愛し合う,ということを明らかにするでしょうか。

      また,諸教会はイエスの弟子ヨハネの次のことばを会員たちに強調するでしょうか。『わたしたちは互いに愛し合うべきです…カインのようにならないことです。彼は邪悪な者から出て,自分の兄弟を虐殺しました』。(ヨハネ第一 3:10-12,新)教会は,戦場で同じ人間を殺すこと,わけても同じ教派の会員を殺すことは愛を示す行為ではありえないことを教えているでしょうか。また,そのような行為をする者が実際には「邪悪な者」悪魔サタンに仕えていることを指摘しているでしょうか。

      極めて明らかなことですが,諸国家が戦争の備えをする事態が生じると,教会はこうした聖書の教えを傍らに押しやってしまいます。著名なプロテスタント僧職者,故ハリー・E・フォスディックはこう認めています。

      「西洋の歴史は戦争に継ぐ戦争の歴史である。われわれは戦争のために男子を育成し,戦争のために男子を訓練した。そして戦争を栄化し,戦士を英雄に仕立て,教会内に軍旗を掲げさえした…一方では平和の君に対する賛美を口にしながら,他方では戦争を栄化してきた」。29

      聖書に記されていることではなく,国家指導者の言うこと,その時々に人々に受け入れられていることが,宗教が人を導くさいの方向を決定するものである,というのが事実です。バンクーバーのサン紙は,社説で次のように評しています。「これは組織化されたすべての宗教の弱点と思われるが,教会は国旗に追随する…交戦国が自分の側に神がついていると互いに主張しなかった戦いが今までにあったであろうか」。30

      「正当な戦争」だけを支持?

      諸教会はそれぞれの国の戦争を支持する言いわけをして,自分の国には正当な根拠があるしわれわれは「正当な戦争」しかしない,とよく言います。したがって,自国の戦争の努力を支持するのは宗教の義務であると論じます。

      しかし,このことをしばらくの間考えてみてください。戦争に関係する国はいずれも自分のほうに「正当」な根拠があると主張するのではありませんか。最近出版されたある百科事典が評しているとおりです。「戦争をする根拠は利己的で,低劣で,邪悪なものではあっても,正式に述べられている理由はたいてい崇高,高潔なものである。交戦国が両方とも,自分の側にとって正しいと考える理由を挙げることができるのである」。31

      こうして,人々は互いに全く逆の見方をしていることがあっても,各国は自分たちが『正しい理由』と考えることに基づいて,いわゆる「正当な戦争」をするのです。国家主義が盛んになると,教会はその勢いに押され,各宗派は『国旗に追随します』。著名なプロテスタントの教会指導者マルチン・ニーメラーは,ローマの皇帝の時代以来キリスト教世界の実状はそうであったと述べています。同氏の説明によると,「教会はいまだかつて不当な戦争というものを知らない。むしろ自分の主権者また国家の戦争を常に正当化してきた」。32

      カトリックの歴史者E・I・ワトキンはこう述べています。

      「この〔事実を〕認めるのはつらいことにちがいないが,司教が自国の政府によって行なわれた戦争をことごとく同じ姿勢で支持してきたという歴史的事実を,偽の薫陶や誠実さを欠いた忠節心のために否定したり無視したりすることはできない。実際のところ,国家の階級制度が戦争を不当なものとして非難した例を私は一つとして知らない…公式の論理がどんなものであろうと,現実には,『我が国は常に正しい』というのがカトリックの司教が戦時に従ってきた命題である。…好戦的なナショナリズムが問題となる場合には,彼らはカイザルの代弁者として発言してきた」。33

      諸教会が「自国の政府によって行なわれた戦争をことごとく同じ姿勢で支持してきた」というのはほんとうに真実でしょうか。宗教は善を支える力であるかのように装ってきただけで,実際には戦争と暴力を助長してきたのでしょうか。歴史の事実は何を明らかにしていますか。

  • 過去の戦争における宗教の役割
    目ざめよ! 1972 | 10月8日
    • 過去の戦争における宗教の役割

      かつて,英国の哲学者ジョン・ロックは,「歴史の内容はおおかた戦争と殺りくに尽きる」と語りました。34 しかも,ある権威者は,「宗教は歴史上最も強い勢力の一つであった」と述べています。35

      宗教がそれほど強力な影響を及ぼしてきたにもかかわらず,人類が生存のほとんど全期間を通じて恐ろしい戦争に見舞われてきたのはなぜでしょうか。過去の戦争において宗教はどんな役割を果たしてきたのでしょうか。

      アズテック人と戦争

      アズテック人の宗教は,人間のいけにえによって神々をなだめなければならないと教えました。この点,歴史家V・W・フォン・ハーゲンはこう説明しています。

      「戦争と宗教は,少なくともアズテック人にとって,密接不可分の関係にあった。…神々に供える犠牲としてふさわしい捕虜を得るために,小さな戦争が絶え間なく行なわれた」。36

      1486年には,フイツロポクトリ神の大ピラミッドを献堂するために,2万人を越す捕虜が集められました。それから犠牲の捕虜たちの心臓は次々に切り取られ,フイツロポクトリ神にささげられたのです。宗教の息のかかったこうした戦争は,昔のアメリカ人にどれほどの恐怖をもたらしたことでしょう。

      古代帝国と戦争

      アジアやアフリカ,またヨーロッパの昔の帝国と人民の間で宗教はどんな役割を果たしたでしょうか。それら古代の諸国家は,多くの戦争,それに宗教的であることで有名でした。宗教と戦争は相携えて行動しました。一例としてある参考書にはこう述べられています。

      「エジプトの宗教は決して戦争を非難しなかった。ごく初期のエジプトの戦争の中には,神々の戦争や神と人との間の戦争があった。したがって,エジプトの王たちは戦争をする時には,神にみならっているのだと主張した。…要するに,戦争はすべて道徳的,理想的,かつ超自然的であり,神々の先例によって是認されたものであった」。37

      「戦いは国家的事業であり,祭司は戦争のあくなき扇動者であった。祭司はおもに戦利品で養われていた。つまり,他の者たちが分け前にあずかる前に,戦利品のある一定の分け前が必ず祭司たちに分与された。この略奪者たる民族はきわめて宗教的だったのである」。38

      古代民族の中で戦争を好んだ人々はたいへん宗教的であったということは見のがせない事実です。軍事指導者はきまって自分の神に助けを請いました。権威者は,「どの神の場合にもたいてい戦時に民を助け,保護するのがそのおもな務めの一つになっている」と評しています。39

      兵士たちは戦場へ神々の旗印を持っていくのがならわしでした。それらは,木や金属でできた紋章とか象徴だったようです。百科辞典は次のように述べています。

      「ローマ人の軍旗は,ローマの神殿における宗教心によって守られていた。将軍が敵軍の中に軍旗を投ずるよう命令することは珍しくなかった。それは,兵士たちがおそらく地上で最も神聖視している物の奪回を鼓舞し,士気をあおるためであった」。40

      言うまでもなく,それら古代の国はキリスト教を奉じていませんでした。後代になってイエス・キリストが紹介した教えは,人類に深い影響を与え,真の崇拝者たちの生活をよりよい方向へ変えました。

      ところが,キリスト教に大きな変化がやがて起こりました。4世紀に,不正なコンスタンチヌス皇帝が政治的な理由でキリスト教を国教にしたのです。以来,ローマ・カトリック教会は巨大な勢力に成長しました。それは他の宗教と異なっていましたか。それは真のキリスト教でしたか。

      十字軍 ― キリスト教世界の「聖戦」

      教皇ウルバヌス2世がクレルモンの宗教会議を召集したのは1095年のことでした。その時までに,古代のパレスチナの地はキリスト教を信奉しない人々の手に渡っていました。そのため教皇は,いわゆる「史上最も感銘的な演説」の中で,当時「聖地」を占領していた「異教徒」に戦いをいどむようクレルモンに集まっていた大会衆に向かって訴えました。ウルバヌスは群集にこう勧めました。

      「クリスチャンの兵士よ…行って野蛮人と戦いなさい。聖地救出のために行って戦うのです。…あなたがたの手を異教徒の血で染めなさい。…生ける神の兵士となるのだ! イエス・キリストがあなたがたを召してご自分の防衛に当たらせてくださるとき,低劣な愛情のために家にとどまるべきではない」。41

      こうして,いわゆる「聖戦」,十字軍が始まり,以後2世紀にわたって続きました。「ヨーロッパの説教壇は十字軍を奨励することばで鳴り響いた」と一歴史家は述べています。42 別の歴史家はこう書いています。「司教は自分の管区に行ってこの戦闘的なキリスト教を説いた。…修道僧は剣を作るよう命じた。…今やヨーロッパは荒れ狂う海と化し,波は次から次へとシリアの海岸へ打ち寄せた」。43

      こうして生じた恐ろしい戦争の状態は,とても書き表わすことのできないものでした。「当時の好戦的な欲望は,宗教の是認を受け,報復という大義名分のもとにほしいままにされた」,と歴史家は述べました。44 十字軍の従軍戦士たちは,歴史に残るむごたらしい大虐殺や非常識な略奪,悪らつな残虐行為をしました。しかもそのすべてはキリストの名のもとに行なわれたのです。R・H・ベイントン教授は次のように書いています。

      「これがカトリック教会によって始められた戦争であった。…はりつけ刑,硬貨を飲み込んだ人を引き裂くこと,手足の切断 ― アンテオケのボヘモンドは,サラセン人から切り取った鼻と親指を船に満載してギリシア皇帝に送った ― こうした仕業を十字軍の編年史は良心のとがめなくつづっている。野蛮な闘争欲とキリスト教徒の信仰に対する熱意とが奇妙に混じり合っていた」。45

      キリストの教えにこれほど相反する行為はありえないと思われる,そうした戦慄すべき行為にキリストの名を結びつけた重大な責任を宗教は負わねばなりません。ご自分を誤り伝える者たちを神はどうお考えになることでしょう。

      キリスト教世界内部での過去の戦争

      中世には,キリスト教徒と唱える人々も互いに戦争をしました。しかも法王の祝福を受けた場合が少なくありません。キリスト教世界内部のそうした戦争に関し,歴史家J・C・リドパースはこう述べました。「中世のあらゆる紛争において,教皇の認可が大切な要素であった。したがって,教皇の認可を得るために,諸候は市場におけると同様互いに入札するのが常であった」。46

      その後,1517年ごろを始めとして,プロテスタントを生むことになった宗教的反抗運動は,キリスト教を信奉すると唱える人々の間の戦争や殺りくを増大させました。ケンブリッジ大学の歴史の教授,G・M・トリベリアンはこう表記しました。

      「当時宗教は知的かつ道徳的な影響力をひとり占めにした状態を呈していた。〔しかし〕…その特別な教えには人道主義のかけらも見られなかった。宗教はその当時,拷問,火刑,焼き打ち,婦女・幼児の大虐殺,決して消えることのない憎しみ,報復することの絶対不可能な悪行と結びついていたことを認めなければならない。ヨーロッパが野蛮な時代以来経験してきた精神的苦悩と肉体的苦痛の大部分は,そむいたキリスト教世界を復帰させるためカトリックの取った戦争行為 ― 部分的な成功を見た ― によってもたらされた」。47

      ローマ・カトリック教会は,抗議者,つまりプロテスタントをおりに復帰させようと激烈な戦いを行ないました。プロテスタントはそれに強く抵抗しました。たとえば1576年のアントワープの包囲について,歴史家はこう述べています。「聖母教会の温和な使者であるスペインの兵士たちは,『聖ヤコブ,スペイン,血,肉,火,略奪』と叫びながら戦った。男女子どもあわせて8,000人が殺された」。48

      カトリック教徒とプロテスタントが争った三十年戦争(1618-1648年)はとりわけすさまじいものでした。その戦争でドイツは人口の約4分の3を失い,アウグスブルグの人口は8万人から1万8,000人に減りました。ボヘミヤで生き残ったのは人口のわずか4分の1ほどにすぎませんでした。プロテスタントの都市,マグデブルグの陥落は,三十年戦争のすさまじさをよく表わしています。ドイツの歴史家フレデリック・シラーはこう書いています。

      「歴史も語ることばがなく,詩も言い表わしえないおそるべき光景がここで展開された。無邪気な子どもも無力の老人も,若さも性も,位も美貌も征服者たちの狂暴さを和らげることはできなかった。妻は夫の手の中で,娘は親の足もとで犯され,防御のすべのない女性は,貞操と生命の二重の犠牲にさらされた」。49

      確かに人類の歴史は「おおかた戦争と殺りくに尽き」ます。しかし宗教が恐ろしい流血のおもな責任を持つ,『歴史上強い勢力』であったことも確かです。では,それは現在についても言えますか。

      [11ページの図版]

      数人の捕虜を押え,ひとりが軍神にささげるための心臓を切り取っている,アズテックの祭司たち(この場面は目撃者の話に基づいている)

      [12ページの図版]

      十字軍の従軍戦士たちは歴史に残るむごたらしい大虐殺や残虐行為を,それもすべてキリストの名のもとに行なった

  • 近代における宗教と戦争
    目ざめよ! 1972 | 10月8日
    • 近代における宗教と戦争

      宗教戦争は不幸にして遠い過去だけのものでなく,現代においても生じています。たとえば,ニュース記事は,アイルランドにおける「新・旧両教徒間の戦闘」を報じています。50

      1969年の8月以来,200人以上がアイルランドにおける戦闘で死亡し,それに加えて何百人かが負傷しています。最近のある記事は,「内部を破壊された商店,打ちか砕れた窓,爆弾で破壊された商品の大安売り,かぎのかかった商店の入口のこわれた木製のマネキン ― すべてが,悪化しつつある新教徒とローマ・カトリック教徒との間の市街戦を思い起こさせる,悲しくもグロテスクな光景である」と報じています。51

      しかし,十字軍すなわち「聖戦」についてはどうですか。昔の十字軍の場合とちがって,現代では宗教はまさか戦争の後押しなどしてはいないだろう,とあなたはお考えかもしれません。ところが,宗教はそれをしてきたのです。これは,教会の指導者自身が認めています。

      一例をあげると,1969年の7月に,エルサルバドルとホンジュラスの間で激しい戦争が生じました。ある百科事典の年鑑は,「その紛争はたちまちのうちに,サルバドルの歴史の上でもまれな大規模な流血と悲劇をもたらした」と述べています。52 この戦争を始めたのはだれでしたか。

      ホンュジラスの司教ホセ・カランサは,エルサルバドルのカトリック僧職者を,文書や演説や態度によって紛争を醸成したとして非難しました。同司教のことばによると,エルサルバドルのカトリック僧職者たちは,それを「聖戦」と呼び,カトリック教徒を戦いにかりたてました。53

      実際のところ,近代の宗教は,僧職者たちが,『行って異教徒を殺せ』と言って会衆をかりたてた中世の宗教とほとんど変わるところがありません。たとえば,尊敬されている教会史家ローランド・H・ベイントンは,「アメリカ国内の諸教会は,第一次世界大戦に対してとりわけ十字軍的な態度を取った」と述べています。54

      第一次世界大戦 ―「聖戦」?

      明らかに,第一次世界大戦の目的は,いく百年か前の「聖戦」の目的とはかなり異なっていました。十字軍の場合は,教会は「聖地」を奪回するために直接の支持を与えました。一方,第一次世界大戦の目的はおもに政治的なものでした。しかしこの近代戦において宗教が演じた役割は,昔の「聖戦」において宗教が演じた役割と驚くほど似ていました。

      クレアモント大学院宗教学部長ジョセフ・C・ホーは,この点にかんして述べ,ロンドンの司教A・F・ウィニングトン-イングラムのことを例にあげています。同司教は英国民を次のように激励しました。

      「ドイツ人を殺せ。―殺すために殺すのではなく,世界を救うために,悪人はもちろん善人も,老人はもちろん若者も,悪魔のような者はもちろんわが負傷兵に親切にする者も,かまわずに殺せ。…いく度も述べてきたように,私はこの戦争を浄化のための戦争と見なし,この戦争で戦死する者をみな殉教者と見なす」。55

      そして,僧職者たちは,もう一方の側では何をしていましたか。ドイツ,ケルンの大司教は,ドイツの兵隊に次のように言いました。

      「われらが祖国の愛する人々よ。神はこの正義のいくさにおいてわれらとともにいます。われわれは不本意にもこの戦争に引きこまれた。われわれは神の名において諸君に命ずる。祖国の名誉と栄光のために,諸君の血の最後の一滴まで戦え。神はその知恵と公正とをもって,われわれが正義の側にいることをご存じであり,われわれに勝利を与えられる」。56

      これらのことばは,十字軍を出発させた,「行って,蛮人と戦え」と訴えた教皇ウルバヌスのことばをしのばせるものがあります。しかし,ロンドンの司教のことばも,ケルンの大司教のことばも,それほど聞きなれないことばではありませんでした。むしろそれは,第一次世界大戦中,両国の教会を風びしていた典型的な精神を表わすものでした。

      ベイントン教授は,アメリカの教会について,次のように述べています。

      「アメリカのすべての教派の教会人がこれほど互いに結束し,これほど国民精神と一致したことはかつて一度もなかった。これは聖戦であった。イエスは,カーキ色の服を着,銃でねらいを定めているように描かれていた。ドイツ人は野蛮人であった。彼らを殺すことは,地球から怪物を退治することであった」。57

      これは僧職者たちのことばを誇張したことばではありません。フォーチュン誌の社説は,「戦いの最前線における敵がい心でさえも,教会人がドイツにたたきつけたほどの毒舌はふるわなかった。」と述べています58 レイ・H・アブラムズは,「牧師たちはささげ銃をする」という本を著わしていますが,その中に「聖戦」と題する一章をもうけて,同章全体を,牧師たちが精魂こめて戦争を支持したことの説明にあてています。それによると,たとえばランドルフ・H・マッキムは,ワシントンの説教壇から次のように叫びました。

      「この戦いにわれわれを召集されたのは神である。われわれが戦っているのは神の戦いである。…この戦闘はたしかに聖戦である。史上最大の ― 最も神聖な戦いである。最も深遠な,真実な意味での聖戦である。…この汚れた,ぼうとく的な国〔ドイツ〕と激戦を交えるべくわれわれを召集されたのは,確かに正義の王キリストである」。59

      また,ザ・クリスチャン・レジスター誌の社説記者アルバート・C・ディーフェンバッハは,社説に次のように書きました。

      「クリスチャンであるわれわれは,もちろん,キリストは〔戦争を〕是認するという。しかしキリストは戦ったり,殺したりするだろうか。…彼が敵を殺す機会を回避したり,その機会を捕えるのをぐずぐずして伸ばしたりするおりがいつもない。彼は千年期には,銃剣や手りゅう弾や爆弾やライフル銃をもって,父の王国の最強の敵に対して猛烈な戦いをしかけるであろう」。60

      こうしたことばにあなたはショックを受けますか。ところが,第一次世界大戦中,多くの牧師や教会の出版物はこういうことを言っていたのです。どちらの側にも,戦うことや殺すことに反対した宗教指導者たちはほとんどいませんでした。戦争に反対の僧職者はひとりも見つけ出すことができなかったとR・H・アブラムズは述べています。

      ですから,英国のフランク・P・クロージャ准将が,「教会は,わが国で最もすぐれた流血欲の創造者である。われわれは彼らを思いのままに用いた」と述べたのももっともです。61

      どうなっていたであろうか

      しかし,もし交戦国の諸教会が,同胞,とりわけ仲間のクリスチャンを殺すのはまちがいである,ということを教会員に教えることに成功していたなら,どうなっていたでしょうか。それらの国の人々はほとんど全部がクリスチャンと称していましたから,戦争をつづけることは不可能だったでしょう。

      当時の著名なラバイであったスチーブン・S・ワイズは,この問題について論じ,「教会と会堂が統率力を維持し得なかったことがこの戦争をひき起こした」と述べました。62 教会はその代表的な教会の場合同様,戦争に参加しないよう人々を指導しようとはしませんでした。

      教会と第二次世界大戦

      第二次世界大戦中は事情はちがっていたでしょうか。高名なプロテスタント神学者レイノルド・ニーバーについては次のように言われています。「彼は第二次世界大戦のとき,多数のアメリカのクリスチャンを,平和主義から,ヒトラーと戦うことは道義上必要であるという考えを受け入れる方向へ導いた」。63

      また,現代の歴史家A・P・ストークスは次のように述べています。「教会は,全体的に見て,戦争被害者の救済にも挺身したが…それにもまして強力に戦争を支持した。なかにはこれを宗教戦争と呼ぶ者さえいた」。64

      フランスや英国でも,教会は国策を支持するためにはせ参じました。たとえば,カンブレーのローマ・カトリックの大司教は,フランスの参戦を,「文明,諸国家の法律,人道,自由,約言すれば,人間性を擁護するための戦い」と呼びました。65 明らかに教会は,人々をドイツとの戦いの場に導いていました。

      では,ドイツの教会はどうでしたか。アドルフ・ヒトラーを支持したでしょうか。彼の戦争目的をあと押ししましたか。

      ヒトラーを支援

      1933年,ドイツとバチカンの間に政教条約が結ばれました。同条約の第16条の規定によると,カトリック教会の各司教は,就任にさいしてナチ政権に対する「忠誠の誓い」をしなければならないことになっていました。また,第30条,正式ミサを行なうたびに「ドイツ国とその国民の繁栄」を祈ることを要求していました。66

      1936年,カトリック教徒はヒトラー政権に反対しているといううわさが広まったとき,ファウルヘーベル枢機卿は,6月7日の説教で次のように述べました。「あなたがたはみな,われわれが政教条約で約束したとおり,日曜や祝日のすべての主要礼拝においてすべての教会で,総統のために祈りをささげてきた事実に対する証人である。…国家に対するわれわれの忠誠にこうした疑惑の目が向けられるとは心外である」。67

      それで教会はドイツ国民をどこに導いていたでしょうか。ウィーン大学の歴史学の教授でローマ・カトリック教徒でもあるフリードリッヒ・ヘールはこう説明します。「かぎ十字がドイツ各地の大聖堂の塔から勝利を告げ,かぎ十字の旗が半円形の祭壇に現われ,カトリックとプロテスタントの神学者,牧師,教会人,政治家などがヒトラーへの協力を歓迎するまでに十字架とかぎ十字は接近した,というのがドイツの歴史の冷厳な事実である」。68

      1939年の9月17日,ドイツがポーランドに侵入してから2週間余りのち,ドイツの司教たちは次のような内容の共同牧会書簡を出しました。「この決定的時期において,われわれはカトリック教徒の兵士たちに対し,総統に服従してその任務を果たし,自己のすべてを犠牲にする覚悟を持つよう勧告する。また,この戦争が,全能の神の摂理によって祝福に満ちた勝利に導かれ,われらが祖国と国民に平和が訪れるよう,信仰者が熱烈な祈りに参加することを訴える」。69

      1940年の夏,カトリックの司教フランズ・ジョセフ・ラルコフスキーは述べました。「ドイツ国民は…良心のかしゃくを感じてはいない。…ドイツ国民は,これが正義の戦い,一国民の自衛の必要から生まれた戦いであることを知っている」。70

      1939年のニューヨーク・タイムズ紙は次のように伝えています。「ドイツのプロテスタントとカトリック教会の定期刊行物は,多くの奨励記事を掲載して,自国の防衛のために戦う兵士の任務を説明し,またドイツの勝利と公正な平和のために,聖ミカエルの精神をもって戦え,とドイツの兵士たちを訓戒している」。71

      教会がドイツ国民をどこに導いていたかは明らかではありませんか。ゴードン・ザーン教授は書いています。「ヒトラーの戦争支持にかんして宗教指導者たちに霊的導きと指示を求めたドイツのカトリック教徒たちは,ナチの支配者から得たであろう答えと事実上同様の答えを与えられた」。72

      教会がどんな指導を行なったかは,教会員が全面的に戦争を支持したことにはっきり表われています。ヘール教授はこう説明します。「ドイツの約3,200万のカトリック教徒 ― うち1,550万は男だった ― のうち,兵役を公然と拒否したのはわずか7人にすぎなかった。このうちの6人はオーストラリア人であった」。73 ドイツのプロテスタントの場合も状態は同じでした。

      こういうわけで,どの国においても,教会は教会員を戦争に導きました。戦場では,カトリック教徒がカトリック教徒を殺し,プロテスタントがプロテスタントを殺しました。しかも双方の教会指導者たちは,神に勝利を祈り求めたのです!

      宗教と革命

      教会の指導者たちは,国家間の戦争のみならず,国内における革命さえも支援します。1937年,スペインのカトリック教徒たちは,彼らの司祭の多くから,第二スペイン共和国に反対するフランコ将軍の国民運動を支持するように勧められました。しかし現在では,司教や司祭は,フランコ政権をおもしろく思っておらず,最近,フランコの国民運動に対する教会の支持を「容赦」するよう要請しました。74

      現在の見方にかんしては,ルーテル派の神学者カローリー・プロールは,こう約言しています。「クリスチャンは革命に参加できるという事実にかんして,神学者の間にはこのように注目に価する意見の一致が見られる」。75 また,英国のローマ・カトリック司教たちは最近,「権威に反対して暴力をふるうことを非とするだけではだめだ。なぜなら,権力の座にある者たちは,さらにひどい暴力行為を犯した罪があるかもしれないからである」と言いました。76

      では,今日教会員が政治革命に参加するのは不思議でしょうか。アメリカ,テキサス州,オースチンのセント・エドワード大学の神学の講師ジョージ・クレスチンはこう述べています。「クリスチャンは,できるかぎり早急に不正な機構を変革すべく決意しつつある。これは場合によっては教会が暴力を説かざるをえなくなるかもしれないことを意味する」。77

      このように,戦争と暴力にかんする世界宗教の経歴は明らかであり,それは身の毛のよだつような恐ろしいものです。世界宗教は,黙示録 18章24節に述べられているように,「すべて地の上に殺されし者の血」に対して,いちばん大きな罪を負っています。

      では,世界に広まっている不道徳に対する罪についてはどうですか。この点で世界宗教はどんな立場にありますか。

      [16ページの図版]

      GERMAN SOLDIERS RALLIED BY CHURCHES

      [ニューヨーク・タイムズ紙,1939年9月25日付 レイト・シティー版,6ページ]

      Nazi Army Praised

      [ニューヨーク・ポスト,1940年8月27日付 ブルー・ファイナル版,15ページ]

      ‘WAR PRAYER’FOR REICH

      [ニューヨーク・タイムズ紙,1941年12月7日付 レイト・シティー版,33ページ]

  • 道徳面で宗教は人をどこへ導くか
    目ざめよ! 1972 | 10月8日
    • 道徳面で宗教は人をどこへ導くか

      近年,世界宗教の領域では道徳「革命」が起きてきました。ここで言う「革命」とは,淫行や姦淫また同性愛に対する態度のことをさしています。

      アメリカの連合長老教会は新しい「性道徳」を提唱しています。パレード誌は,「それはあまりにも自由主義的であるため,何らかの性関係が罪を構成する主要な要素となりうる可能性を廃するに等しい」ものであると述べました。改革の一つとして,「同棲[つまり淫行]を望む未婚の成人に対するあらゆる拘束の廃止」が唱道されています。78

      タイム誌はつけ加えています。「その報告は,姦淫が正当化されうる『例外的な事情』を認めており…また,教会は未婚者のための共同性関係その他の形の性関係の可能性を探求すべきであると述べている」。79

      連合メソジスト教会の家庭生活に関する委員会は独身者間の性交を認める決議を発表しました。80 ルーテル教会は,21人の牧師の著わした85ページの小冊子を備えており,それによると,婚前交渉は利己的な理由で行なわれる場合だけ悪行となると述べられています。81

      デンマークのある牧師はその教区の機関誌フェドベク・ホルテ・キルケヒルセンの中でこう述べました。

      「性をいっさい結婚関係に限ったところで何も得るところがない。…若い人々が結婚前に性関係を持つことは倫理的またキリスト教の見地から見て正しいと言えよう。また,結婚のわく外で性関係を持つことは…既婚者の場合同様に正しいと言えよう」。82

      また,アメリカ,イリノイ州のモルトン・メソジスト教会の牧師W・L・グスチンは何百人もの聴衆を前にした説教の中で言いました。「私は声を大にしてはっきり言います。姦淫には利点があります」。

      ローマカトリック教会には性道徳に関する放任主義的傾向が見られますか。タイム誌はこう報じています。

      「穏やかな自由主義化が二つの階層で進行している。第一に,旧来の道徳律の適用を緩和する主任司祭がふえている。それはしばしば,不倫な性関係を持つ者があまりにも未熟であるため,その罪は必ずしも重大なものではないとの根拠に基づいている。

      第二に,一部の神学者は,教会の道徳の規準の背後にある『自然法』主義に挑戦している。自然法によれば『自然に反する』行為は悪とされるが,新しい道徳観を主張する者たちは,教会が『自然』とは実際のところ何かについて確信をいだけるかどうかを疑っている」。84

      以上のことを読んであなたは驚かれましたか。世界宗教の領域の事情をご存じでなければ,驚かれるかもしれません。それに,これらは例外的な報告だと考えないでください。例外ではありません。そのような報告はあまりにも多く,またあまりにも繰り返し報じられており,それはれっきとした一つの傾向となっています。若手の僧職者の間では特にそうです。

      同性愛についてはどうか

      同性愛? 教会がそのようなことを認めるわけがないとあなたは考えておられるのではありませんか。証拠を調べてください。

      クエーカー派のある団体は,「性に関するクエーカーの見方に対して」と題する小論文を発表しましたが,その中でこう述べています。「人は左ききと同様『同性愛』を嘆くべきではない。…ふたりの人間が互いに真の愛情を表現し,喜びを味わえる行為は,われわれにとって罪深いものとは思えない」。85

      ドミニカ修道会のローマ・カトリックの僧職者は,「ソーミスト」という題名の季刊誌を出していますが,その近刊号でこう述べました。「ある人々にとって満足のゆく人間らしい生活を見いだしうる唯一の方法としての同性愛的結合を人は不承不承に受け入れる場合もあろう」。86

      英国聖公会の週刊誌「ザ・リビング・チャーチ」は,サンフランシスコの牧師R・W・クロメイの記事を載せました。クロメイはこう述べます。「それ自体罪深い性行為というものはない。…私はまた,同性のふたりの人間が愛を表現し,性交によってその愛を深めることはできると考えている」。87

      タイム誌は,連合メソジスト教会の家庭生活に関する委員会が,「独身者・同性愛者・特記されていない『他の形の私的関係』を持って生活している者たちのための性関係をそれとなく認めること」にしたと報じました。88 連合長老教会の提唱した新しい性道徳はパレード誌が指摘したとおり,「同性愛者をして教会との解決不可能な対立関係にあると感じさせるようないっさいの汚名を排除すること」を勧めています。89

      今日では,ほとんど同性愛者だけを対象にして取り入ろうとする教会もあります。その種の教会のある副牧師は,「われわれは第一にクリスチャンの教会であり,第二に同性愛者である」と語りました。クリスチャニティ・ツデー紙は述べました。「同派のロサンゼルスの母教会には連合長老会の任命した若手の指導者がおり13歳から20歳までの同性愛者のためのダンス・パーティーが毎月開かれている」。その教会の同年の「親睦会の花」は,「王と女王に栄冠を授けた五月祭であった。正式の男装をした女子の同性愛者が王に選ばれた。女王は少年で」,その少年は少女に似ていました。90

      オランダやアメリカその他幾つかの国では同性愛者が牧師の司会する式を挙げて「結婚」しています。フランスでは全国のテレビ番組に出演したあるオランダ人の司祭が同性愛者であることを告白しました。このことについて質問されたフランスの枢機卿ダニエルーは,「同性愛者にも明らかに教会の一員となる純然たる権利がある」と言いました。91

      教会では同性愛者がどれほど広く受け入れられていますか。ザ・クリスチャン・センチュリー誌は著名な神学者ノーマン・ピッテンジャーのことばを報じました。「同性愛そのものは罪ではないと言う考え深いクリスチャンはいっそうふえている」。92

      どのように説明するのか

      それらの僧職者は淫行や姦淫また同性愛が許されるべきであることをどのように説明するのでしょうか。彼らは,神がそれらを非としてはいないと言います。たとえば,婚前交渉が罪かどうかについて牧師R・E・ティラーは言います。「この問題に関して聖書は明確な答えを述べてはいない」。93

      神学者ジョセフ・フレッチャーは述べました。「聖書によれば性は結婚関係内においてのみ表現されるべきであるとする主張はいずれも単なる推論にすぎない。婚前交渉をあからさまに禁ずるものは何もない。…結婚外の性関係はクリスチャンの場合でさえ必ずしも悪ではない」。94

      前述のクエーカー団体が提出した論文はこう断言しています。「同性愛者のことを攻撃したがる人々はおもに彼[使徒パウロ]をよりどころにしている。書きしるされた彼の見解(コリント前 6:9)については疑問をさしはさむ余地がないからである。しかしながら,彼の意見は私的なものかもしれない。…したがって聖パウロの見解そのものは最終的なものではない」。95

      人はこうした言説から,聖書はこれらの問題について何ら決定的なことを述べてはいないと結論するかもしれません。それで,このことはそうした行為にふける公然の誘惑となっています。僧職者すべてがこうした放任主義的な見方をしているのでないことは確かです。しかし,そのような見方をしている僧職者はふえており,しかも,教会内で牧師あるいは司祭としての良い立場を保っているのです。

      もちろん,わたしの教会ではそのようなことは認められていないとあなた自身は考えておられるかもしれません。しかし,このような問題をどう見ているかについてお宅の牧師に尋ねたことがありますか。あなたの教派の他の牧師が別の場所で何を教えているかをほんとうにご存じですか。また,淫行あるいは姦淫または同性愛にふけった教会員に対して,お宅の教会が最近懲戒処置を取ったのはいつでしたか。

      何が真理ですか

      真理がどの方面にあるかを確かめるのに助けとなる興味深い調べ方があります。次のように自問してみてください。もしあなたが夫なら,妻が他の男と性関係を持つのをあなたは望まれるでしょうか。もしあなたが妻なら,夫が他の女性と性関係を持つのをあなたは許されるでしょうか。

      もしあなたが親なら,息子が淫行を犯したり,同性愛者になったりするのを見て,うれしく思われるでしょうか。あなたの娘がそうするのを見て,うれしく思うでしょうか。もしあなたが若い人なら,ご両親が互いに対して忠実であるかわりに他の人と性関係を持つことをあなたは望まれるでしょうか。

      もしあなたがこうした問いに「いいえ」と答えるのでしたら,この問題に関するあなたの考えは神の考えから隔たってはいないことになります。神のみことば聖書はこの問題について多くを語っています。そして,そのすべてはきわめて明快で,疑わしいところは少しもありません。また,「聖書はみな神の感動によるもの」ですから,聖書のどの筆者が性道徳について述べる場合でも,真理を告げているのは神なのです。―テモテ後 3:16,17。

      神のみことば聖書は淫行,姦淫また同性愛について何と述べていますか。聖書の中からほんの二,三の例を挙げてみましょう。「淫行を避けよ」。(コリント前 6:18)「神は淫行のもの,姦淫の者を審き給ふ」。(ヘブル 13:4)「淫行のもの…姦淫をなすもの,男娼となるもの,男色を行ふ者…は神の〔王国〕を嗣ぐことなきなり」。(コリント前 6:9,10〔新〕)カトリック訳の聖書は同性愛のことを「けがらわしいこと」「倒錯」「恐ろしい行為」また,「堕落」と呼んでいます。(ドウエー,エルサレム聖書)さらに,神は明確にこう戒めておられます。『斯る事どもを行ふ者は死罪に当るべきなり』― ロマ 1:26-31。

      このことで不明瞭な点が少しでもありますか。何が真理かを僧職者が知りえないなどということがどうしてありうるでしょうか。知りたくないだけのことなのです。しかし聖書は,「自ら欺くな」と警告しています。(コリント前 6:9)ですから,不道徳を認めたり,その言いわけをしたり,それを勧めたりする偽善的な宗教指導者をあなたの導きとしないでください。96

      そのような宗教指導者の偽りのことばは,神に由来するものではないことをぜひ知ってください。では,だれに由来するものですか。イエス・キリストは,サタンは「虚偽の父」であると言われました。また,偽りを語る当時の宗教指導者に向かって,「汝らは己が父,悪魔より出で(たり)」と言われました。(ヨハネ 8:44)それは今日でも変わりありません。

      このようなわけで,事実を調べてみると,神のみことば聖書のいうことは確かに正しいことがわかります。すなわち,「凡ての地の上に殺されし者の血は」世の宗教のうちに「見出され」ており,その手は「憎むべきものと己が淫行の汚とにて満ち」ており,「地に住む者らは其の淫行の葡萄酒に酔」っているのです。―黙示 18:24; 17:2,4。

  • 人を平和と正しい道徳に導く宗教
    目ざめよ! 1972 | 10月8日
    • 人を平和と正しい道徳に導く宗教

      証拠を調べてみると,次のことが明らかになります。教会は,人類を平和と道徳の点で指導するかわりに,人類を戦争と不道徳に落とし入れてきました。教会はイエス・キリストの教えを捨てているというのが実情です。教会は,聖書に従うと唱えますが,実際にはその導きを退けているのです。

      しかし,このことはすべての宗教団体にあてはまりますか。すべての宗教団体がキリストの教えを捨ててしまったのでしょうか。聖書の高い規準にしっかりと従い,人々を平和と正しい道徳に導く宗教団体が一つもないのでしょうか。初期のキリスト教についてはどうですか。

      初期のクリスチャンと平和

      イエス・キリストの初期の追随者はキリスト教の信仰を広める点で熱心でした,西暦60年ごろに書いた手紙の中でクリスチャンの使徒パウロは,「良いたより」がすでに「天の下なる凡ての造られし物に宣伝へられた」と述べました。(コロサイ 1:23)キリスト教はそのころまでには多くの国々に広まっていました。

      『国民が国民に,王国が王国に逆らい立って』戦争になったとき,当時のクリスチャンはどうしましたか。(マタイ 24:7,新)自分の属する国の軍隊に加わって戦いましたか。ほかの国に住む仲間のクリスチャンを殺しましたか。初期のクリスチャンは『互いに愛し合いなさい』,また『平和を求めなさい』というイエスの教えをどうみなしましたか。(ヨハネ 13:34,新。マタイ 5:9,新)この点について,ヘイスティングの編さんした有名な宗教倫理百科事典はこう述べます。

      「戦争とは,教会ならびにキリストの追随者のいっさい関与できない組織化された罪悪であるという考えが,初期教会に広く行きわたっていた」。97

      また,著名な教会史家C・J・カドーはこう書きました。

      「初期クリスチャンはイエスをそのことばどおりに受けとめ温順と無抵抗に関するその説諭を字義どおりに解した。彼らは自分たちの宗教をもっぱら平和と同一視し,戦争をそれに伴う流血のゆえに断固として非とし,戦争の武器を農具に作り変えることを予告した旧約聖書の預言〔イザヤ 2:4〕を自分たちにあてはめ,善をもって悪に報い,善をもって悪を征服することが自分たちの方針であることを宣言した」。98

      それで,初期のクリスチャンはイエスの教えをほんとうに尊び,実際にそれに従って生活しました。キリストは兵士になることを明確に禁じてはいないなどと論じて,“逃げ道”を求めたりはしませんでした。ドイツのプロテスタント神学者ペーター・マインホルトはこう書きました。

      「クリスチャンが兵士になってよいかどうか,またクリスチャンになるには軍隊を辞さなければならないかどうかについて新約聖書は沈黙しているが,往時の教会はこの問題ではっきりとした態度をとった。クリスチャンであることと兵士であることとは相いれないこととみなされたのである」。99

      これは単にひとりの歴史家の結論ではありません。多くの人の一致した見解なのです。歴史家たちは,「帝国軍隊の軍務に服することはキリスト教の信仰告白と相いれないものであり…キリストの明白な命令および福音の全精神にそむくものであった」ことに気づいていると,「初期教会史」は説明しています。100

      では,初期クリスチャンに戦いや殺りくを避けさせたものはなんでしたか。それは神のことば聖書の教えにしっかりと根ざしていた彼らの宗教です!

      優に100年以上のあいだ,キリスト教は,世の戦争に参加しないというこの立場を保ちました。ロランド・H・ベイントン教授はこう述べました。

      「新約聖書時代の終わりから紀元170年ないし80年代に至るまで,クリスチャンが軍隊にはいっていたという証拠は全くない。…クリスチャンが軍隊にはいっていたという証言が最初に得られるのは,紀元173年,マルクス・アウレリウスの率いる,いわゆる“雷軍団”に関してである。クリスチャンが軍役に服した証跡はその時以後数を増す」。101

      西暦33年ごろまでに大きな変化が起きていました。一史家はこう説明します。「教会は帝国と提携したため,もはや戦争に対する抗議を続けることができなかった。クリスチャンが軍隊に加わる例はふえていったのである」。102 この当時までに,イエスの教えは捨て去られていました。背教が始まったのです。

      初期クリスチャンと道徳

      この背教以前,イエスの追随者は,自分たちの生活のあらゆる面を聖書の教えに合わせました。キリストに対する愛およびそのことばに対する信仰に動かされた初期クリスチャンは,淫行,姦淫,同性愛,うそをつくこと,盗み,およびあらゆる種類の不正行為を葬り去りました。歴史家ジョン・ロードはこう述べました。

      「キリスト教の真の勝利は,その教理を奉ずる者を善良な人間にするところにあった…われわれには,彼らの責むべきところのない生活,非のうちどころのない徳行,善良な市民生活,またそのクリスチャンとしての美質に関する証言がある」。103

      第一,二世紀において,キリスト教は確かに人々を平和と正しい道徳に導きました。しかし,今日についてはどうですか。教会はキリストの教えを捨ててしまっていますが,これは,キリストの教えに従う宗教団体が一つもないという意味でしょうか。

      エホバの証人 ― 今日の真のクリスチャンか

      カナダ百科事典はこう述べています。「エホバの証人のわざは,紀元一,二世紀にイエスおよびその弟子たちが実践した原始キリスト教の復興および再確立することである…彼らはすべてが兄弟なのである」。104

      これはほんとうにそのとおりですか。諸国家が第二次世界大戦に巻き込まれたとき,エホバの証人は,『互いに愛し合いなさい』,また『平和を求めなさい』というキリストの教えを守りましたか。

      どこの国にいるエホバの証人もキリストの教えにそむこうとはしませんでした。「エホバの証人は戦争の際には厳正中立を守る。1941年1月,この組織の活動が禁じられたのはそのためである」とオーストラリア百科事典は述べています。105 他の国々でも同様の禁令が課されました。アメリカにおいてさえ,幾千人もの証人が武器を取らなかったために刑務所に送られました。エホバの証人は各自このような態度をとりますが,一方,自分の住む国の政府の問題に干渉することはしません。証人たちは,こうした良心上の問題で何をすべきか,すべきでないかを他の人に命じたりはしません。各自が自分で決定しなければならないのです。―ガラテヤ 6:5。

      ドイツの場合,ヒトラーはエホバの証人を迫害して,彼らを強制収容所に入れました。未公開のニュルンベルク文書を大々的に取り入れたある最近の本は,その理由をこう説明しています。

      「彼らはドイツ式の敬礼〔ヒトラー万歳〕をせず,国家社会党の,もしくは国家のいかなる職務にも参加せず,軍役に携わることを拒む」。

      「彼らは聖書のおきてを根拠として,国家の敵に対してさえ武器をとることを拒んだ…1938年8月,軍役を拒むあるいは拒むように扇動する者を死刑に処することを定めた特別の法律が成立したのも驚きではなかった」。106

      第二次世界大戦が始まったとき,ドイツの強制収容所にいた証人たちは,自発的に兵役につくよう求められました。大戦中自らもビュッヘンベルトの収容所にいた一筆者はこう報告しています。

      「ビュッヘンベルトにおいて,証人たちに対するこの訴えは1939年9月6日になされた。担当士官ロドルは彼らに言った。『承知のとおり戦争が始まったのであり,わがドイツは危機に面している。新しい法律が施行されているのだ。フランスや英国に対して戦うことを拒む者がおまえたちの中に一人でもいるなら,おまえたち全部が死なねばならない!』 完全に装備した親衛隊二組が門桜のそばに整列した。ドイツのために戦えとの士官の訴えに応じたエホバの証人はただの一人もいなかった」。107

      この時,そのドイツ士官は自分のおどしを実行しませんでしたが,他の場合にはこうしたおどしがそのとおりに実行されました。事実,ドイツにおいては,幾千人もの証人が,ちょうど初期クリスチャンと同じように,死に至るまでキリストの教えを忠実に守り通しました。J・S・コンウェイはこの点に注目し,エホバの証人と教会とを鋭く対比させてこう述べています。

      「その信奉者の3分の1以上は,順応もしくは妥協を拒むゆえに命を失うことになった。大教会の屈従とは対照的に,エホバの証人は狂信者とも言えるほどに自分たちの教理上の抵抗を続けた。それほどの抵抗は全くまれであった」。

      「ゲシュタポの駆使するあらゆる威嚇手段の強圧に面してこれと同じ決意を表わした教派はほかになかった。実際,小グループの多くは,自分たちの無力さに気づき,新ドイツの政治上の目的に対する支持を熱烈に表明して自分たちの独立を買い取ろうとした」。108

      教会の指導者たちさえキリストの教えに堅く従っているのはエホバの証人であるということを認めています。第二次世界大戦前後におけるドイツ・プロテスタント界の一流の指導者マルチン・ニーメラーはこう書きました。

      「正直のところ,キリスト教の諸教会は,古今史を通して,常に戦争と軍隊と武器を祝福することに同意し,また敵の絶滅をきわめて非クリスチャン的な態度で祈り求めたことが想起されるであろう。

      「このすべてはわれわれのあやまちであり,またわれわれの父祖たちのあやまちであるが,神のあやまちでないことは明らかである。そして遺憾なことに,今日のわれわれクリスチャンは,いわゆる熱心な聖書研究者の一派〔エホバの証人〕に対して恥じるのである。彼らは軍役に従事することを拒み,人間を撃つことを拒否したゆえに,その幾百幾千人もが強制収容所にはいって死んだのである」。109

      愛と,平和を好む者であることに関するキリストの教えにつき従うほかに,エホバの証人はその道徳上の模範的な行状のゆえに知られています。たとえば,南アフリカの刊行物「パーソナリティー」誌の一記事はこう述べました。「エホバの証人は善良な特質に満ちあふれており,悪い点がほとんどないように思える」。110 スウェーデンの教会関係の一雑誌も証人たちの「高い道徳水準」をほめました。111 確かに,不道徳がはびこる諸教会の事情とはなんと異なるのでしょう。

      エホバの証人の間に道徳的にりっぱな行状が見られる理由は,彼らが聖書の教えにしっかり従っていることにあります。証人たちは,今日の教会とは異なり,いかなる不道徳をも容赦したり是認したりはしません。逆に彼らは,自分たちの中で悪行をあくまでも続ける者がいれば,初期クリスチャン会衆が行なったと同じように,その者との交わりを断ちます。―コリント前 5:11-13。

      あなたは,神のことば聖書の教えにほんとうに従って生活する人々と交わりたいと思われますか。そのような人々の組織が今日存在するであろうということを,聖書は予告していました。聖書はこう述べています。「すえの日に…おほくの民ゆきて相語いはん いざわれらエホバの山にのぼりヤコブの神の家にゆかん 神われらにその道を教へたまはん われらその路をあゆむべしと」。これらの民についてその預言はこう述べます。「かれらはその剣をうちかへて鋤となし,その槍をうちかへて鎌となし…戦闘のことを再びまなばざるべし」― イザヤ 2:2-4。

      今日このことを行なっているのはどの民ですか。それはキリスト教世界の教会ではなく,またキリスト教世界以外の宗教でもないことは確かです。それはエホバの証人たちです! 彼らは初期クリスチャンの手本にならっているのです。彼らの宗教は神のことば聖書にしっかり根ざすものであり,それは確かに彼らを平和と正しい道徳に導いています。しかし,世界宗教は神の意志を行なうものではありません。それは人々を平和と正しい道徳に導いてはいません。では,それらの世界宗教はどうなるのでしょうか。

      [23ページの図版]

      初期のクリスチャンのように,エホバの証人は,事実上,『その剣をすきに打ちかえ』た

  • 世界宗教はどうなるか
    目ざめよ! 1972 | 10月8日
    • 世界宗教はどうなるか

      世界宗教にはどんな前途がありますか。次の二つの質問を考慮すれば,その答えを得ることができます。すなわち,神は宗教についてどのように考えておられますか。また,宗教は人類にとって何らかの価値があるでしょうか。

      世界宗教の記録を見て,創造者はご自分の創造物である人類家族に対して宗教が行なってきたことについてどう感じておられると,あなたはお考えになりますか。あなたのご家族をはずかしめて,あなたに背かせた者がいるとすれば,あなたはその者を快く思われるでしょうか。

      実際のところ,世界宗教は偽りの宗教となっており,なかでもキリスト教世界の宗教は最も責められるべきものとなっています。その最大の罪悪は神のみ名を侮辱し,「神は死んだ」とさえ唱えるに至ったことです。その諸宗派は信徒を神のことば聖書から引き離しました。たとえば,キリスト教世界のどれほどの人が聖書の内容を知っているでしょうか。世界宗教は政治上の指導者たちに人々の注意を向け,世界平和のための最後の希望を与える者として彼らをたたえ,神とその王国とを無視してきたのです。そして,人類を戦争と不道徳,また無神論にさえ落とし入れているのです。

      僧職者は信者の悪行に対して自分たちに責任がないと言いのがれることができません。彼らの対型であるユダヤ教の宗教指導者たちに対して言われたエホバのことばは,彼らが責めを負うべき者として断罪されることを示しています。エホバは言われました。「もし彼らがわたしの議会に立ったのであれば,わたしの民にわがことばを告げ示して,その悪い道と悪い行いから,離れさせたであろうに」 ― エレミヤ 23:22,口語。

      人類にとってなんの価値もない

      神はいつもだれが偽りの「牧者」であるかを知っておられます。でも神は,使徒パウロが真理に逆らった当時の人々について述べたとおり,『その狂気がすべての人に非常に明らかになる』よう彼らを存続させてこられたのです。―テモテ後 3:8,9,新。

      神は,世界宗教がご自分を正しく代表してはいないことを大いに明らかにしておられます。したがって,そのみ子イエス・キリストは,世界宗教を奉ずる人たち,特にその指導者たちについてこう警告されました。

      「羊のおおいをかぶってあなたがたのもとに来る偽預言者たちに警戒していなさい。内側では彼らはむさぼり食うおおかみです…良い木はみなりっぱな実を生み出し,腐った木はみな無価値な実を生み出すのです。良い木は無価値な実を結ぶことができず,また腐った木がりっぱな実を生み出すこともできません。りっぱな実を生み出していない木はみな切り倒されて火の中に投げ込まれます。それでほんとうにあなたがたは,その実によってそれらの人々を見分けるでしょう」― マタイ 7:15-20,新。

      それで,神のみ前で言い開きを求めることがなされるのです。イエスがさらに言われたとおりです。

      「わたしに向かって,『主よ,主よ』と言う者がみな天の王国に入るのではなく,天におられるわたしの父の意志を行なう者が入るのです。その日には,多くの者がわたしに向かって,『主よ,主よ,わたしはあなたの名において預言し,あなたの名において悪霊たちを追い出し,あなたの名において強力な業を数多く成し遂げませんでしたか』と言うでしょう。でもそのとき,わたしは彼らにはっきり言います,わたしはいまだあなたがたを知らない〔キリストは彼らを自分の代表者として認めたことはない〕,不法を働く者たちよ,わたしから離れされ,と」― マタイ 7:21-23,新。

      神は世界宗教を滅ぼされる

      全能の神は,ご自分を偽って代表してきた者たちに対する裁きの執行に対して自ら責任を取られます。象徴的に娼婦として描かれている世界宗教について聖書はこう述べています。「彼女の罪は積り集まって天に達し,神は彼女の不正行為を思いだされた…彼女の災厄が,すなわち死と嘆きとききんが一日のうちに到来し,彼女は火で焼きつくされるであろう。エホバ神,彼女を裁いたかたは強いからである」― 黙示 18:5-8,新。

      娼婦のような世界宗教の帝国を滅ぼすために神がお用いになる器はなんでしょうか。彼女と“寝床をともにする者”,すなわち政治支配者たちにほかなりません。過去において,宗教指導者たちは,支配者たちからさえ恐れられ,また敬われてきました。しかし彼らは,人々の票を自分たちの好む政治家に投じさせることさえした影響力を急速に失いつつあります。

      政治支配者たちは,世界宗教が無価値であるのを見,またそれが有する富をしゃにむに求めて,世界宗教に攻めかかるでしょう。彼らの手にかかる世界宗教の運命はどうなるでしょうか。聖書はこう描写しています。

      「あなたの見た十本の角〔世界の王たちもしくは支配者たちを表わしている(12節を見よ)〕,そして野獣〔政治組織〕,これらは娼婦を憎み,彼女を荒れすさばせて裸にし,その肉のところ〔構成上の部分〕を食いつくし,彼女を火で焼きつくすであろう。神は,ご自分の考えを実行することを彼らの心の中に入れられたからである」― 黙示 17:16,17,新。

      そして,世界宗教のこの滅びは今や非常に近づいています。すべての要素と情勢はすでにととのっているからです。さらに指摘できる事実は,宗教指導者がかつてないほどに支配者たちをいらだたせて,その行動をはやめさせていることです。彼らの反抗的な発言,政治問題への干渉,そのある者たちが実際に暴動行為に加わっていることなどは,彼らと支配者たちの関係を非常に悪くしています。彼らは支配者たちの憎しみを引き起こす『肉体の刺』となっています。それで,世界宗教には滅びが差し迫っています。その倒壊はいつなんどきでも驚くほどに突如として生じうるのです。(黙示 18:17,21)それゆえ,次にあげる神の警告は緊急なものです。

      「わたしの民よ,彼女〔娼婦のような帝国〕の罪にあずかることを望まず,彼女の災厄をともに受けることを望まないなら,彼女の中から出なさい」― 黙示 18:4,新。

      真の宗教についてはどうか

      しかし,神の律法に従い,神を宇宙の主権者として正しく代表している宗教についてはどうですか。神は,世の宗教に裁きを執行する際,真の崇拝にのっとって生活する人々を守ることができるでしょうか。また,実際に守られるでしょうか。

      使徒ペテロは神のしもべロトの例を引き合いに出しています。ロトは,神がソドムを滅ぼされる前,神の助けを得てその都市から連れ出されました。ペテロはこう述べています。「エホバは,敬虔な人々をどのように試練から救出するか,一方,不義の人々…を切り断つべく裁きの日のためにいかに保留しておくべきかを知っておられるのです」― ペテロ後 2:6-10,新。創世 19:15-17。

      イエス・キリストは,ご自分が支配権を引き継ぐ時のことについて語られました。そして,分ける仕事が地上でなされること,またキリストおよび地上におけるその代表者たちに愛と敬意を持つ『羊のような』人々が集められることを予告されました。反対側に「やぎ」つまり彼に敬意を示さない者たちが集められます。

      この各のグループの人たちはどうなるでしょうか。イエスはこう説明されました。「そのとき,王は自分の右にいる者たち[『羊』]に言います。『さあ,わたしの父に祝福されている人たちよ,世の基が置かれて以来あなたがたのために備えられている王国を継ぎなさい』」。それからイエスは「やぎ」についてこう言われます。「これらの者は去って永遠の切断にはいり,一方,義なる者たちは永遠の命にはいります」― マタイ 25:31-34,46,新。

      世界宗教が終わりを迎えたのち

      それで,世界宗教は絶滅をこうむります。それは全人類にとって安らぎと祝福をもたらします。しかし,真の宗教は存在し続け,地に満ちわたります。聖書巻末の書の中で,使徒ヨハネは生き残る人々に関する幻を描写して,こう述べています。

      「わたしが見ると,見よ,すべての国民・部族・民・国語の中から来た,だれも数えることのできない大群衆が…み座と子羊の前に立っていた」。「彼らは,その神殿で昼も夜も〔神〕に聖なる奉仕をささげている。また,み座にすわっておられるかたは彼らの上にご自分の天幕を張られるであろう」― 黙示 7:9,15,新。

      それら生き残る人々の分は幸いなものでしょう。彼らは平和と健康の宿る新秩序にはいります。また,自分の愛していた者たちが墓から戻ってくるのを見るという,比類のない喜びを享受します。それらの人々の中には,世界宗教のために犠牲になった者も多いのです。

      ヨハネは自分の見た幻をさらにこう描写しています。

      「そしてわたしは,死んだ者たちが,大なる者も小なる者も,その座の前に立っているのを見た。そして〔幾つもの〕巻き物が開かれた。しかし,別の巻き物が開かれた。それは命の巻き物である。そして死んだ者たちはそれらの巻き物に書かれている事がらに基づき自分の行ないにしたがって裁かれた」― 黙示 20:12,新。

      その「行ない」とは,偽りの宗教の影響のもとに行なった彼らの過去の悪行ではありません。彼らをあらためて有罪とするためにそうした行ないが再び持ち出されるのではありません。さもないと,復活はむだなことになるでしょう。それは,義の支配のもとで,そのとき実施される神の律法をしるした「幾つもの巻き物」に基づいてなされる行ないのことです。

      そのとき人類は世界宗教から解放されており,神とはだれかについて欺かれることはありません。人々は神とその道を十分に知るようになります。次の原則があてはまるでしょう。「なんぢのさばき地におこなはるゝとき世にすめるもの正義をまなぶべし」― イザヤ 26:9。

      そのとき,地に住む人々は,エホバの律法にしたがって生活することを喜びとするでしょう。そうした律法が自分たちのためになることを知るからです。―詩 19:9。

      そのとき,分裂をもたらす偽りの宗教ではなく,人を結び合わせる完全なきずなである,エホバ神に対する真の崇拝が行きわたります。(ピリピ 1:27。コロサイ 3:14)そのとき,次のように言えるでしょう。「神の天幕が人とともにあり,神は彼らとともに住み,彼らはその民となるであろう。そして神みずから彼らとともにおられるであろう。また神は彼らの目からすべての涙をぬぐい去り,もはや死はなく,嘆きも叫びも苦痛ももはやないであろう。以前の物事は過ぎ去ったのである」― 黙示 21:3,4,新。

      [26ページの図版]

      世界宗教は終わりを迎えたのち,平和と健康の宿る新秩序が到来する。悲しみ,そして死さえももはやなくなる

  • あなたに関係のある緊急な事態
    目ざめよ! 1972 | 10月8日
    • あなたに関係のある緊急な事態

      地上の問題を取り扱う新しい管理機関が設けられるという見込みは,あなたにとって魅力のあるものでしょうか。戦争も,偽りの宗教も,不道徳も,病気も,死もない地上の状態を思い浮かべることは,あなたにとって慰めとなりますか。それとも,これはすべて夢のように思えますか。実際のところ,神が義の新秩序を意図しておられるという音信は夢物語ではありません。エホバ神はうそをついたり欺いたりはされません。(ヘブル 6:18)実現させるつもりのない事がらを約束されることはありません。そして,ご自分のしもべをつかわして広く全世界にそれも特にいわゆる“キリスト教”国に重点を置いて警告を伝えさせておられる今,わたしたちは,神が本気でそうしておられることを確信できます。

      またわたしたちは,世の宗教を絶滅し,ご自分の真の宗教を存続させると言われる神が,やはり本気でそう言っておられることを確信できます。問題は,そのようなことが起きるかどうかということではありません。それは必ず起きます。問題は,あなたはそれについて何を行なうかということなのです。

      まず,最初に,世界宗教が神を偽って代表し,人々を誤導しているという点で有罪であることを知ったあなたは何をすべきでしょうか。神のことば聖書が命じていることをすべきです。それはなんですか。その突然の崩壊が到来するまえに,それから出ることです!

      イエスは,当時の職業的な宗教家を「盲目の案内人」と呼び,「彼らはそのままにしておきなさい」と一般の人々に言われました。―マタイ 15:14,新。

      そうです。彼らのことはほっておきなさい! 彼らから離れ去りなさい! 世界宗教は,神の目から見れば汚れており,流血の罪を負っています。それで,生き長らえたいと思う人は,使徒が述べた次の強力な訓戒のことばに注意を払わねばなりません。

      「義と不法になんの交友があるでしょうか。あるいは,光がやみと何を分け合うでしょうか。…そして,神の神殿と偶像にどんな一致があるでしょうか。…『「それゆえ,彼らの中から出て,自分を切り離しなさい」とエホバは言われる。「そして汚れたものにふれるのをやめよ」』。『「そうすればわたしはあなたがたを迎えよう」』。『「そしてわたしはあなたがたに対して父となり,あなたがたはわたしに対して息子また娘となるであろう」と全能者エホバが言われる』」― コリント後 6:14-18,新。

      もしあなたの教会が世界宗教の一部であれば,今そこからのがれてください! あなたのご存じの牧師で,善良な人だと思える人がいるなら,その人ものがれるべきです!

      これはきびしいことばですが,しかし偽りのないことばです。世界宗教のための時間は今や確かに尽きようとしています。その終わりは遠い先のことではありません。ですから,あなたは今,急いで行動を取らなければなりません。

      今,援助の手を受け入れなさい

      しかし,世界宗教からのがれるのは,必要な第一段階であるとはいえ,それだけでは不十分です。無神論者でさえそこまではしています。肝要な段階があるのです。神の新秩序で命を得たいと願う人はすべて,この体制が終わる際に保護を受けられるよう,神を知るようにならなければなりません。そうするには援助が必要です。―ヨハネ 17:3。

      神に関する真理に人々を導くため初期の弟子たちが用いた基本的な方法は何でしたか。彼らは人々を個人的に教え,しばしば関心のある人々の家庭に行って教えました。人々はそこで,つまり自分の静かな家庭で,聖書が実際に何を述べているかを学びました。今日でも同じです。エホバの証人は,神についてほんとうに知りたいと願う人々のために,6か月間の無償の家庭訪問計画を実施しています。この方法で幾百万もの人々が聖書の教えを受けてきました。―使行 20:20。

      確かに,そのような人々が反対に会う場合もあります。事情を知らない人々,友人,親族などから反対される場合もあります。しかし多くの場合,巧みに行動し,またしんぼうづよくあることによって,神の新秩序で命を得る道を学ぶよう善意のある人々を助けることができます。

      あなたは,エホバの証人が差し伸べる無償の聖書教育を利用されたことがありますか。もしなければ,今ぜひそうなさるようお勧めいたします。ロトの婿たちのような人々になってはなりません。神をはずかしめた都市ソドムが神のわざによってまさに滅ぼされようとしていたとき,ロトは彼らに警告しました。しかし,「婿らはこれをたはふれごととみなせり」と聖書は述べています。(創世 19:14)しかし,それはたわむれごとではありませんでした。翌朝,ソドムは滅ぼされました。ロトの婿たちも滅びました。

      あなたは命を愛されますか。あなたは生き続けたいと思われますか。では,神のことば聖書が述べることを急いで行なってください。「すべて…この地のへりくだるものよ なんぢらエホバを求め 公義を求め 謙そんを求めよ さすればなんぢらエホバのいかりの日にあるひはかくさるゝことあらん」― ゼパニヤ 2:3。

      [28ページの図版]

      ソドムから出るようにとロトが促したとき,その婿となる者たちは,それをたわむれごとと考えた。

  • 世界展望
    目ざめよ! 1972 | 10月8日
    • 世界展望

      教会の崩壊近しと伝えるバチカンの週刊誌

      ◆ 最近,バチカンの週刊誌,ロッセルバトーレ・デッラ・ドメニカは,アメリカのローマ・カトリック教会が,「すさまじい地震」にゆさぶられ,崩壊寸前にあるように見えると述べた。同紙によれば,司祭や修道女の辞職,世俗の職業への神学者の転職,カトリック系の学校の閉鎖など,「なんらかの新しい災い」がほとんど毎日教会を襲っている。さらに同紙は,ローマ・カトリックの著述者たちは「史上…ほとんど前例のないマゾヒズム的な熱狂さをもって」自らの教会を批判していると述べた。

      『カトリック教会はもはやなくなる』と述べたカトリックの学者

      ◆ イタリア,ローマのポンティフィカル聖書大学の前教授,イエズス会士マラカイ・マーチン博士はかつてベア枢機卿の親密な同僚であった。同枢機卿はバチカン公会議を開く上で教皇の主要な理事となった人である。バチカン公会議とその余波を綿密に取り上げて論じたマルチン博士は,自著「3人の教皇と,枢機卿」の中で次のように結論している。「西暦2000年の訪れるずっと以前に今日のローマ・カトリック教皇教会のような宗教組織はもはや存在しなくなるであろう」。

      「疲弊した」司教たち

      ◆ 著名な社会学者で教育者であるカトリックの司祭,アンドリュー・グリーリィは最近,現代は『聖職者にとって霊的また感情的に疲弊した』時代であると述べた。そして,同教会は引き続き「混乱と困惑」を経験するであろうと予言し,次のように付け加えた。「われわれは,教皇が何を言おうが,司教が何を言おうが意に介するものではない」。

      成功した心臓手術

      ◆ 南アフリカのクルーンスタッドに住むアンドリーズ・

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