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不品行に陥らないように注意しなさいものみの塔 1964 | 6月15日
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たどる問題である」。
不品行に陥る危険を「もてあそぶ」とは?
不品行に陥る危険を「もてあそぶ」とはどういう意味ですか。これは淫行とか姦淫を指しません。淫行や姦淫は,不品行を「もてあそぶ」ことではないからです。不品行に陥る危険を「もてあそぶ」とは,最初のうち直接に淫行や姦淫を行なうつもりはなくても容易にそういう結果に陥りやすい行為に意識的に,あるいは意識せずに,ふけることです。不品行をもてあそぶことは,不品行に陥りやすい行いをすることです。それは必ずしも中止できるとはかぎらないので,よく心に留めておかねばなりません。
では,実際には淫行や姦淫ではないが,ふしだらな,不品行に陥る危険を「もてあそぶ」行為,とはどんなものでしょうか。
既婚者が,配偶者以外の異性とふざけることもその一つです。このことから良い結果はなに一つ生じません。たいていの場合,人は自我を発展させるため,あるいは性的刺激を得るためにそのような行いをします。それは悪い動機を抱いて相手を見ることです。もしそれを続けるなら,当然の結果として姦淫を犯すことになるでしょう。
夫でも妻でもなく,親しい親せきでもない異性のからだに腕をまわすことも,不品行をもてあそぶことです。そこまでしなくても親しさは示せます。はじめのうちこれは他意のないもののように思えますが,ついには淫行や姦淫にまで発展しがちです。実際にそこまで発展して,クリスチャン会衆から排斥された人もあります。ついでですが,結婚している者だからといって,独身者よりも自由にそういうことができると考えるのは間違いです。既婚者が配偶者以外の者と親しくして問題を引起こす例は,独身者の場合に劣りません。
みだらな冗談を言うことも,不品行に陥る危険をもてあそぶことです。それはクリスチャンの高い標準から落ち始めたしるしです。クリスチャンがそのような冗談をいって人を笑わせるくらい別に悪くはない,というのかも知れません。しかしそれは清いこと,正しいことですか。そうではありません。それは人を悪い方向へ,不道徳へ導き,考えかたを汚すものです。―エペソ 5:3,4。
他人の夫や妻と組んで,性的刺激を受けるようなダンスをすることも,不品行をもてあそぶことです。まったくのところ,クリスチャンが他人の配偶者とからだをつけておどることを正当化するものはなにもありません。このように考えてはどうでしょう。夕方だれかがあなたの家にきて,1時間に5分か10分あなたの妻のからだに腕をまわし,ただすわっているか,部屋の真中に立っているとすればあなたはどう思いますか。もちろん好まないでしょう。ではただ音楽がかかっているからといって,あるいはダンスという名のもとにそれをするのは正しいことですか。正しくありません。クリスチャンはそれを避けねばなりません。パートナーどうしがからだを近づけずに,実際に抱擁せずに行なうダンス,たとえばスクェア・ダンスやグループでのダンス,同性の者とおどるダンスなどにそのような危険はありません。もちろん,ひとりで,また同性とおどるダンスでも,暗示的なもの,不道徳なものなら,クリスチャンのするダンスではありません。
性的な刺激を与える映画を見たり本を読むことも,不品行をもてあそぶことです。不品行を呼び物とする劇やテレビを見ることについても同じことが言えます。そういうものは,清くない考えを心に満たすからです。
異性と親しくしている独身者は,不品行をもてあそばぬように注意がいります。クリスチャンが異性と親しくするのは,結婚を目標にした清い交際を深めるときだけに限ります。しかし人気のない場所に「ロマンチック」な散歩に行くのは危険です。長い時間異性と二人だけでいると,興奮して「ネッキング」や「ペッティング」にふけることになるかもしれません。たとえ婚約者の間柄であっても独身者が性を刺激する接ぷんをするのは間違いです。それによって感情が高ぶり性交にまで発展するなら,それは必ず淫行になるからです。ゆえに最初から不品行に陥りやすい状態を避けることです。
神に献身していない男性や女性とデートをするのは,不品行に陥る危険に身をおくことになります。クリスチャンが,この世的な人と親しく交際するというのがすでに間違っています。神のことばを導きにしない人は多くの場合,世間に広まっている不道徳な考えに染まっています。そして不品行に陥りやすい行いを,当然のこと,交際するうえに好ましい行為と考えがちです。しかしそうではありません。それは神のみ旨に反する行いです。
土地の習慣を考慮する
土地の習慣にも考慮をはらわねばなりません。未婚の青年や娘が,相手をひとりで訪問したり,つきそいなしでデートすることをふしだらな行為と見なす習慣があるなら,その習慣を尊重しなければなりません。未婚者が,たとえ両親の前でも,手をつなぐことをよくないとする風習がその土地にあるなら,クリスチャンはその習慣に従わねばなりません。未婚者は決して接ぷんをしないのが土地の習慣であれば,そこに住むクリスチャンもその標準に従わねばなりません。私たちは神の戒めに反する土地の習慣を避けます。と同時に,クリスチャンの良心に反しない土地の習慣を破るべきではありません。
一方,結婚まえに若い人々を交際させるのが土地の習慣ならば,それにも反対しません。しかしこれは,招待を受け入れるすべての異性と出かけてもよい,という意味ではありません。また,クリスチャンの女性は,クリスチャンの男性がつづけて交際を求めるなら,結婚を目標にしたものと見てさしつかえありません。そしてもしふたりがかなりの間親しくしているなら,クリスチャン会衆は,彼らが結婚という清い目標をもっているとみなすでしょう。
若い人たちはよく外国映画を見ます。そして「ロマンチック」なシーンを見てまねようとします。しかし,よその国で行なわれていることだから,自分の国で行なってもよい,というわけのものではありません。地球上のある場所の人は裸に近いかっこうをしています。しかし,もしあなたが自分の国でそのようなかっこうをしたら警察のごやっかいになるでしょう。また,スクリーンに映るものは,その映画が作られた国においてさえ道徳的とみなされないものかも知れないことを忘れてはなりません。実際にその国で行なわれていることが映画になっていても,それは,ふしだらな人々がしていることかもしれません。
用心しなさい ― どのように?
前に述べたことから考えると,不品行におちいりやすい行いに絶えず注意しなければならないことは明らかです。とはいっても,だれも信用してはならないというのではありません。しかし現代の広告や,テレビ,映画,劇などが,人の心にセックスのことを詰め込むので,人々は過度にそのことを考えさせられます。ですから正しいことをしたいと思う人ですら,しっかりしていなければ,絶え間なく加えられる周囲からの圧迫によって悪にひきずりこまれます。
聖書は「悪をにくめ」と教えています。(詩 97:10,文語)不品行に陥りやすい行いをするのは悪いことです。口には甘くても命を取る毒薬のようにそれを避けなさい。自分をあざむくのはいともやさしいことを忘れてはなりません。堕落した心の傾向は,病人の食欲に似ています。糖尿病患者が甘い物をほしがるように,病人は病気を悪くするようなものをいちばんほしがるものです。―エレミヤ 17:9。
ですから悪を憎む心は自然に生まれるものではなく,養わねばならぬものです。どのように? 正しい思いで心を満たすのです。正しい考えがふんだんに得られる所は神のことばである聖書です。聖書はあなたが「心を新たにすることによって,造りかえられる」のを助けます。(ロマ 12:2)またあなたが,「古き人をその行いと一緒に脱ぎ捨て,造り主のかたちに従って新しくされ」るのを助けます。(コロサイ 3:9,10)たしかに聖書は,『真実なこと,正しいこと,純真なこと,愛すべきこと,徳といわれるもの,称賛に値するもの』を教えます。(ピリピ 4:8)こういう知識を取り入れるとき,私たちは悪いことに考えをめぐらさなくなって,良い欲望と考えを培うようになります。
好みというものは,経験や環境に大きく左右されます。ですから,神の正しい戒めを尊重する人々といつも交わるように注意を怠ってはなりません。もし道徳を軽視する人々と長い間一緒にいるなら,そのうちに彼らと同じ考えをもつようになるでしょう。私たちに必要なのは,きれいな心をもつクリスチャンたちとの正しい交わりです。
とくに「不品行」を警戒しましょう。将来まだ何年間も結婚を望めない十代の少年少女がいつも行動を共にするという近ごろの習慣や,配偶者以外の異性に愛情を示すなどの,不当に性欲を刺激する傾向のある習慣をすべて避けましょう。目で見るものにせよ,言葉による描写にせよ,好色的な読物をいっさい避けましょう。不潔なテーマを呼び物にする娯楽にはすべて近づかないようにしましょう。性を刺激する歌やダンスもすべて避けましょう。
求愛中なら,二人ですごす時間を建設的で有用な事柄に用いましょう。ゲームとかスポーツ,良書とくに聖書を読むこと,神への奉仕に参加するなど,健全な事で,考えや会話や行動を満たしましょう。
若い人も老人も,既婚者も独身者も,神が常に私たちに目を止めておられることを銘記しなければなりません。「神は侮られるようなかたではない。人は自分のまいたものを刈り取ることになる。すなわち,自分の肉にまく者は,肉から滅びを刈り取り,霊にまく者は,霊から永遠のいのちを刈り取る」。(ガラテヤ 6:7,8)神の御旨を行ないましょう。不品行に陥りやすい行いを避けることにより,堕落を刈り取らないようにしましょう。そうすれば神は,新しい秩序のもとにおける永遠の生命をもって祝福してくださるでしょう。
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転じた妨害ものみの塔 1964 | 6月15日
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転じた妨害
◆ ブラジルのサンパウロ州で,家から家に証言するエホバの証者を見た数人の学生は,いたずらをして伝道をじゃましようとしました。学生たちは,エホバの証者のあとをつけ,空かんとかんしゃく玉でうるさい音をたてました。一人の婦人はこの光景を見ていましたが,エホバの証者の仕事や態度について以前から知っていましたので,このいたずらを不快なことと考えました。この時以来,婦人はエホバの証者の音信に興味を深め,証者と家庭聖書研究を始めました。婦人は良く進歩し,御国会館の集まりに出席し,御国の福音の伝道者になりました。
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