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千年にわたって人類にもたらされる救済ものみの塔 1974 | 4月1日
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に望んでおられるのでしたら,その種の救済は,人間の立てた政府に見いだせるものではありません。正しい統治という問題は,ひとえに正しい原則にかかっているからです。そうした原則は,不完全な人間の政府に見いだすことはできません。もし,正しい原則を愛しておられるなら,あなたは神の政府とその支配者たちについてさらに多くを学ぶことに関心を持っておられるでしょう。では,当誌の今後の記事でその事を考慮いたしましょう。
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ベトナムにおける良いたよりの伝道ものみの塔 1974 | 4月1日
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ベトナムにおける良いたよりの伝道
ベトナムには,現在,神の王国の良いたよりを宣べ伝える90人のエホバの証人がいます。わずか5人のエホバの証人がエホバの王国を知らせていた1957年当時のことを考えると,これは大きな喜びです。この進歩は何の障害もなしに遂げられたわけではありません。というのは,1939年以来この国は平和というものを知らないからです。ベトナムでは,わずか一日の平和な日をさえ知らずにその短い生涯を終える人も少なくありません。聖書の真理を受け入れたために,かなりの数の献身した兄弟姉妹が仏教徒やカトリック教徒の親に家を追われました。他の人々は宗教的に分裂した家庭の中にあってエホバに対する忠誠を保っています。ここベトナムのエホバの証人は,アジアの他の地域のエホバの証人と同じように,業の進歩が他の国々ほど速くはないことに気づいています。しかし,エホバのみ名をたたえ,王国の良いたよりを宣明するために,可能な限りの努力が払われています。―エホバの証人の1974年度年鑑より。
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求愛に対するクリスチャンの見方ものみの塔 1974 | 4月1日
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求愛に対するクリスチャンの見方
若い人びとが知りたいと願っている有益な事実
結婚は世界中どこでも行なわれることです。ところが,多くの人は驚くかもしれませんが,求愛は世界的な習慣ではありません。またこの習慣のあるところでもそれは国によって非常に異なっています。
求愛が普通のこととして受け入れられている国の人びとは,ある国にこの習慣のないことが理解しにくく思えるかもしれません。しかしまたこの習慣のない国の人びとには,それが行なわれている国のいくつかの習慣は理解できないかもしれません。なかには,なんとなくいやな感じをおぼえる習慣さえあるでしょう。
それで,狭い見方をして,自分の住んでいる土地の人びとのやり方が唯一の方法だと考えるよりも,考え方を広くするほうがずっとよいことです。結局のところ,ある習慣がどれほど良いか悪いかを決めるのは,それがどのような結果を生み出すか,ということではないでしょうか。聖書では伝道之書の7章8節に,『事の終わりはその始めよりもよし』と書かれています。またわたしたちは,求愛の習慣のある国で,多数の結婚がうまくゆかず,離婚に終わっていることを認めなければなりません。
一般に行なわれている習慣
実際にあなたに関係してくる問題は,あなたが住んでいる土地では一般にどんな習慣が行なわれているかということです。ある国または地域では,未来の花嫁と花婿は,結婚式の日まで会いません。ふたりの結婚にかんするいろいろな取り決めは,ほかの人びと,つまりそれぞれの親かまたは親(未来の夫である場合もある)が依頼する「結婚媒介人」もしくは「なこうど」によって行なわれます。ところで,求愛期間の先行しないこういう結婚の取り決め方は,多くの人に好まれないものかもしれません。しかし他の人びとにとってはこれが習慣なのです。またこれは,神のことばである聖書と調和しないとして非難することのできない習慣であることに注目しなければなりません。
この例は,アブラハムの息子イサクとリベカの結婚に見られ,創世記 24章に記述されています。またイサクの息子ヤコブが,ラバンの娘ラケルとの結婚を望んだとき,ラケルではなくてその父親に結婚の申し込みをし,その結婚を承諾してくれるようラバンに頼んだことも記されています。(創世記 29:15-20)さらに言えば,これら真の崇拝者たちの結婚は成功しました。
そのような取り決めのもとでの結婚にクリスチャンが反対する聖書的根拠は実際にひとつしかないでしょう。それはどんな場合ですか。それは,そのような取り決めが,真の神エホバを信ずる仲間の信者でも,神の子イエス・キリストの弟子でもない人との結婚を要求する場合です。―申命記 7:3,4。コリント第一 7:39。コリント第二 6:14とくらべてください。
したがって,次の記事の中で述べられていることは,求愛の習慣を奨励するものでも,また多くの国にある習慣を軽視したりその価値を過小評価したりするものでもありません。むしろ,神のことばである聖書の健全な助言を,とくにそのような求愛の習慣が実際に存在する国に住む若い人びとに与えることを目的としています。
十代の結婚
しかし,若い人びとを主要な対象としているといっても,次の記事の目的は,早い結婚を勧めることではありません。十代の結婚が,片方または両方がもっと円熟した年齢の人たちの場合の結婚ほどに成功する可能性が少ないのは,厳然たる事実です。ある社会学者が,「研究調査の示すところによると,一般に十代の結婚は,もっと年がいってからの結婚にくらべ,離婚率または不幸になる率が高いのが特徴である」と述べているとおりです。
一方,そうした若い人びとの間の結婚をきびしく排除するための聖書的根拠もありません。たいていの場合国の法律は,自分の信ずるところは子どもの最善の益となって最大の幸福にいたり,子どものためによいことであると決定する,円熟した判断を働かせる権利を親に与えています。親は自分の監督下にある息子または娘の結婚を許すか,許さないか,どちらかに決定します。確かにわたしたちの時代には問題がたくさんあり,失敗に終わる結婚が非常に多いのですから,親は注意を要します。また考え深い若い人も,『急いで結婚してゆっくり後悔する』よりも,むしろ同じように用心すべきです。向う側に何があるかをよく知らないのに,扉があいているというだけの理由で急いでその門をくぐるのは愚かなことです。
老若を問わず賢明な人は,何よりもまず神の導きを求めます。そうです,『なんじのわざをエホバに託せよ さらば汝の謀るところ必ず成るべし』です。なぜなら,『人は心におのれのみちを考えはか』りますが,『その歩みを導くものはエホバ』だからです。―箴 16:3,9。
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求愛期間を誉れあるものに保つものみの塔 1974 | 4月1日
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求愛期間を誉れあるものに保つ
聖書は,「結婚はすべての人の間で誉れあるものとされるべきです。また結婚の床は汚れのないものとすべきです」と述べています。(ヘブライ 13:4)では結婚に先行するもの,つまり多くの国で見られる求愛期間も,それが神に喜ばれるものであるためには,誉れあるものに保つのが当然ではないでしょうか。
あるところでは,少なくとも父親か母親が,あるいは年長者がだれかいるときでなければ,若い男性が若い女性と同席することは許されません。しかし欧米の多くの国では,そうした若い人びとが同伴者なしでいっしょにいることが少なくありません。そこで問題は,そのようにより広い範囲の自由が許されているところでは,どうすれば求愛期間を誉れあるものに保てるかということです。若い人は,彼のあるいは彼女の場合の求愛を確実に真のしあわせと幸福な結婚に至らせるには,どうすればよいでしょうか。
自由には常に責任が伴います。そこで,もしあなたが今この問題に直面しているなら,ガラテア人への手紙 5章13節にあるりっぱな原則をおぼえておくとよいでしょう。もちろん使徒パウロはここでは,キリスト教がそれに帰依する人びとにもたらす自由について述べています。しかしその原則はどんな種類の自由にも適用します。りっぱな結果と神の恵みをもたらすようにその自由を行使したいと思うならなおのことです。使徒は次のように書いています。「兄弟たち,言うまでもなく,あなたがたは自由のために召されたのです。ただこの自由を肉のための誘いとして用いることなく,むしろ愛を通して互いに奴隷として仕えなさい」。純粋の愛 ― 神への愛と,求愛の相手を含む隣人への愛 ― は,どんな種類の自由にせよ自分が持っている自由を,利己的で有害な用い方をしないようにするのに役だちます。
求愛期間には何をすべきか
求愛を誉れあるものにするには,それは結婚を目標にしたものであるべきです。ですからこれは,結婚に伴う種々の責任を果たす用意ができていないうちに始めるべきではありません。もちろん,最初のうちは,その人と結婚したいのかどうかはわからないものです。ですからひとりの人に急いで注意を固定しない気持ちはわかります。かといってこれは,戯れにすぎない「求愛」をしたり,次々と相手を替えて戯れの恋をする理由にはなりません。a
たとえある人に「関心を持っている」としても,そのような人との交際は,しばらくの間,グループ活動の中で,グループの一部として交際するだけにとどめておくのが賢明です。なぜですか。なぜなら,そのような状況の中にいる時のほうが,その人のほんとうのひととなりをよりよく知ることができる場合が多いからです。人はみな,だれかが自分に特別の注意を向けている,という感情的圧力がない時には,ありのままの「自分」を出す傾向があるからです。しかし二人がグループから離れると,そのときから,相手の望みにかなった者になろうとする,彼のあるいは彼女の好ききらいをさえ反映する傾向が自然に生まれてきます。この傾向は時に人のほんとうの性格をカムフラージュします。また二人だけになるとすぐに情緒本位になるので,『バラ色のめがね』でお互いを見はじめます。もし二人がそのような感情のほとばしりによって結婚するなら,目がさめるような事態にしばしば遭遇することでしょう。それよりもはるかによいのは,『飛ぶ前によく見る』ことです。
一般的にいって,求愛行為を始めるのは男性です。男性のほうが女性への関心を表現します。もし男性がまじめで真剣な関心を示すならば,女性のほうには,彼が少なくとも結婚を考えていると信ずる権利があります。そうなると女性は,彼との結婚を考えることができるかどうか,自分に尋ねてみる責任があります。もし彼を未来の夫と考える気持ちのないことがはっきりとしていれば,彼が自分への関心を深めるままにしておくのは残酷な行為です。少女たちのなかには,自分が人に好かれていること,あるいは適齢であることをただ目だたせるために人の求愛を許し,それによってほかの若い男たちの注意を引こうとする人がいます。若い男性の中にも,『恋をあさり』楽しんで,事が深刻になりすぎないうちに身を引けばいいという考えで,同じようなことをする人がいます。しかし自分の自由をそのように利己的に用いるなら,相手をひどく傷つけ,相手の心に,何か月も時には何年もたたなければいえないようないたでを負わせかねません。―箴言 26章18,19節とくらべてください。
求愛の自由は利他的に行使する時にのみ益をもたらします。それは,残りの生涯をいっしょに暮らそうと考えている人をよりよく知る機会となります。ふたりが互いに対してどれほど正直であるかによって,互いの好ききらい,標準,くせ,物の見方,そしてお互いの気性や性格,問題や困難に対する反応の仕方などを知ることができます。また次のようなことを知りたいと思うのもまちがいではありません。彼または彼女は親切で,寛大で,他人に対し思いやりがあるでしょうか。親や年上の人たちを尊敬しますか。慎み深く謙そんであることを示す証拠がみられますか。それとも自慢家でがんこですか。自制と平衡が見られますか。それとも弱くて,すねたりむかっ腹をたてたりする子どもっぽいところがありますか。働くことが生活の大きな部分を占めている以上,怠惰なところや無責任なところ,またはお金を浪費する傾向は見られませんか。将来の計画はどうですか。子どもを持つことを望んでいますか。それとも特別の職業に関心がありますか。「求愛における危険信号」という題の記事の中で筆者はこう言っています。「これはわれわれが,婚約している人びとと,幸福なまた不幸な結婚生活をしている人びととを調査してわかったのであるが,不幸な結婚生活をしている人びとは,人生の目標と価値とにかんして意見が少しも一致していない」―「メディカル・アスペクツ・オブ・ヒューマン・セクシュアリティ」,1970年11月号,43ページ。
なかでもよく知っておかねばならないのは,相手の関心や計画の中で神の目的がどれほどの場を占めているかということです。こうしてあらゆる面から見たとき,ふたりは果たしてどの程度合っているでしょうか。もし大きな食い違いがあるなら,結婚すれば自動的に解決するというような思いちがいをしてはなりません。結婚はその相違がひき起こす不和をより鋭く感じさせるだけかもしれないからです。
求愛期間の誉れある行為
親が付き添いなしの交際を許す国では,求愛中のふたりが,愛情の表現として手を握ったり,せっぷんしたり,抱擁まですることが少なくありません。これはどれほど賢明なことですか。こういうことについて聖書は何か助言を与えていますか。
聖書はこうした問題にかんしては,明確な規則を定めていません。もちろん親には息子や娘に守らせたい規準を示す権利があります。会衆内の長老たちはそのような規則をつくることはできませんが,神のことばにみられる導きとなる健全な原則に若い人たちの注意を促すことができます。人生において賢明な道を歩むことを心から望む人はだれでも進んで,また喜んでそのような助言に従うでしょう。―箴 1:7-9; 2:6-9。
もちろん聖書は淫行などの行為を明確に排除しています。しかしまた,淫行ほど重大ではないかもしれない他の汚れた行ないにも注意するよう警告しています。これらの警告に従うふたりは多くの苦しみをせずにすみ,またあとで悩まされるような不行跡の追憶をつくる危険を冒しません。―エフェソス 5:3-5。
手をにぎることは,結婚を考えている人たちの間では愛情の清い表現であるかもしれません。その行為が刺激を与えることは事実ですが,それは自然なことで,必ずしも悪いとは言えません。結婚の対象にしている人の姿を見るだけでも刺激されて『胸がどきどき』するのですから。(雅歌 4:9)しかし次のことをおぼえておく必要があります。つまり身体的接触は,人間の性質上,性的魅力の“引力”を実際に強めるということです。また,簡単な形の接触を繰り返していると,最初感じられた楽しい感覚がしだいに薄れてゆくのも事実です。このことはもっと強い刺激を求めることにつながる可能性があります。しかし清い関係を危険にさらさずにどこまでいけるでしょうか。ある人たちは,そこに危険がひそむことを認めて,求愛期間中は身体的接触をいっさい厳重に慎むことを好むかもしれません。そうした良心的な態度はだれも軽べつしたり,軽視したりすべきではありません。―ローマ 14:5,10,22,23。
せっぷんも,結婚を考えている人たちの間の清い愛情の表現かもしれません ― あるいはそうでないかもしれません。実際に問題は,情欲がどの程度入り込んでいるかということです。ある種のダンスは清いもので情欲とは無関係ですが,そうでないダンスもあります。せっぷんについても,あるいは抱擁についてさえも,同じことが言えます。しかしたとえ清いものであっても,そうした表現はいずれも新しい線を越えていることを表わします。求愛期間の初めのころに ― もしかしたら婚約する前に ― それらの線を越えるなら,そのためにふたりの関係は情欲を満たすだけのものに堕落し,淫行とまではいかなくとも,汚れた行ないをするようになるかもしれません。―コロサイ 3:5,6。
わたしたちは自分について正直であるべきです。そういう事がらに対する強い自制力が自分にないことを知っているなら,冒険をして自分と相手の将来を危険にさらすべきではありません。ブレーキの調子が悪いことを知っているなら,その自動車で曲がりくねった急坂を降りるようなことはしないはずです。こうした問題にかんして決意をし,心を定める時は,事を始める前であって始めた後ではありません。いったん肉体的欲望が起きはじめると,その増大を制止するのは非常にむずかしいのが普通です。(ヤコブ 1:14,15)結婚によってその資格を得てもいないときに,性関係を望むまでに情欲をつのらせる人は,緊張感,欲求不満,実際の痛みなどに悩まされます。それは,非常におもしろく読んでいた本の最後の一章が破れてなくなっているのを発見する時の気持ちに似ています。
求愛期間中の関係を高いレベルに保つ人たちは,ひん度と熱烈さが徐々に増す親密な交際によってふたりの関係のレベルを下げてゆく人たちよりも,結婚においてはるかに良い出発をします。『いつも撃退』しなければならない相手に,女性はどれほどの敬意がいだけるでしょうか。しかし,強い意志力と礼儀正しい慎みを示す若い男性は尊敬されます。女性についても同じことが言えます。そして女性はとくに次のことに気づく必要があります。つまり,女性の場合は感情が高ぶるまでに時間がかかるかもしれませんが,男性の場合にはそういうことはまずないということです。―箴言 25:28。
ひんぱんな,そしてしだいに熱烈さを増す愛情の表現に屈するなら,早まった結婚をする結果になりかねません。「思春期と青少年」という本(288ページ)は次のように述べています。「求愛期間の初期は,とほうもなくロマンチックである場合が多い。その時期に結婚すると,どんな結婚でも実現させることができないことをその結婚に期待するようになるかもしれない。求愛期間が長ければ,相手に対してもっと無理のない理解が生まれるのが普通であるから,理解のある結婚となるだろう」。そのように求愛期間を長くするなら,自制心を働かせることが必要です。さもないと,性衝動の力が早くから実際に危険なほどに強くなるかもしれません。―コリント第一 9:27とくらべてください。
また,求愛期間,あるいは婚約期間を情欲の色彩の濃いものにすると,結婚したのちに,深刻な疑問や疑惑が生まれる可能性があります。わたしたちはほんとうに愛し合っているから結婚したのだろうか,それともただ情欲のとりこになっただけだろうか,賢明な選択だっただろうか,といったことをふたりは考えはじめるかもしれません。女性のほうはまた自分に対する夫の愛の純粋さを疑い,夫はわたしという人間を求めて結婚したのでも,また今結婚しているのでもなく,ただわたしの肉体を求めて結婚したのではないだろうか,と考えるようになるかもしれません。
あなた自身とあなたの将来の幸福を守るために,情欲を刺激するような状況を避けてください。(詩 119:101,104)淋しい場所や暗いところは,求愛期間を誉れあるものに保つ助けにはなりません。またたいくつで,問題の愛情の表現をする以外には何もすることがないような状況もやはり同じです。しかしアイス・スケート,テニスその他のスポーツや,レストランでいっしょに食事をしたり,博物館を見学したり,近くの名所や景勝地を尋ねたりすることからも,多くの清潔な楽しみを味わうことができます。周囲に知人がいないために,ある程度のプライバシーを楽しみますが,他の人びとの目が全くないわけではないのでやはり安全です。
また,自制することによって自分が「逃がしている」もののことばかり考える代わりに,将来のために準備している事がらについて考えてください。そうすれば,将来ずっと求愛期間を楽しく回顧することができ,いやな思いや後悔をすることはないでしょう。―ローマ 13:13,14。
確かに求愛期間は,あなたがどんな人であるか,あなたの心の中に何があるか,どれほど良心的であるかをためすものとなります。神のことばは,この問題のすべての面に明確な線を引いてはいません。しかし神のことば聖書にしるされている健全な原則,賢明な助言,役だつガイドラインは,わたしたちが平衡を保ち,清くて道徳的に健全な事がらの範囲内にとどまるのに十分助けとなります。それに従えば,未来の配偶者に対する愛情の表現は,感情的にも霊的にも,相手の害となることはないでしょう。それでもしあなたが求愛期間にはいるようなことがあるなら,それをぜひとも誉れあるものに保ってください。あとになってあなたはそうしたことをうれしく思うでしょう。
[脚注]
a この問題にかんするさらに詳しい事がらについては,1972年1月15日号の「ものみの塔」の49-51ページの「デートについてはどうですか」という記事をごらんください。
[204ページの図版]
もし求愛が,熱烈な表現の連続となり,自制がしだいに弱まっていくなら,それは将来の幸福な結婚にどのように影響するだろうか
[205ページの図版]
他の人たちの目から完全にかくれてしまうことのないようにふたりを守る清潔な楽しみもたくさんある
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