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  • “ジーザス・ピープル”― 現代の現象
    目ざめよ! 1973 | 1月22日
    • “ジーザス・ピープル”― 現代の現象

      古ぼけた服に長髪の若者たちのグループ,“ジーザス・ピープル”(イエスの人びと)が,ハリウッドの有名なサンセット大通りを,集会案内のビラを配りながら歩いて行きます。英国では,ひとつの集会にこのような若者たちが1万6,000人くらい集まります。多くの都市にいる,ブルー・ジーンズにティーシャツのこの若者たちは,街頭に出て,「イエスを信ずる」ように人びとに呼びかけています。「イエスの変わり種」とか「街頭クリスチャン」とか呼ばれている彼らは,イエスのポスターをかかげ,イエスのボタンをつけ,「イエスを愛するなら警笛を鳴らせ」と書かれたステッカーを自動車のバンパーにはでに張りつけています。

      こうした若い人びとは,ヒッピー文化の栄えているところならどこにでもいますが,彼らの全部がヒッピーだったわけではありません。一度は若者の反抗グループに加わりながらそれに幻滅を感じて,そのグループを離れた人たちも少なくありません。以前麻薬を使っていた人たちもたくさんいます。また,売春をやめたとか,黒魔術をやめたとかいうあかしをする人たちもいます。

      彼らは集団バプテスマを行ない,いつも聖書を携えていきます。また宗教的なコーヒー店を持ち,今日の若者にうける「前衛的な」絵を載せたサイケ調の新聞をくばります。また宗教的コミューンを設けていて,多くの改宗者たちがその中に住んでいます。

      この“イエス運動”は,ひとりの指導者ないし中心的スポークスマンを有する組織された活動ではありません。また種々あるグループの間の意見も必ずしも一致してはいません。

      “ジーザス・ピープル”は以前カトリック教徒,ユダヤ教徒,新教各派の信徒,また全く宗教を持ったことのない人びとでした。ハリウッドのサンセット大通りにあるポルノ映画館の前で賛美歌を歌い,「肉欲を愛すな!」と叫ぶ若者たちがかかげるポスターには,「ユダヤ人でなくてもイエスは愛せる」と書かれています。

      ある少女の話によると,彼女の両親は「ユダヤ人で無神論者」ですが,彼女は,「イエスを信じた」友だちの「喜びと幸福」を見て,ロサンゼルスにある「クリスチャンの家」,つまりコミューンに移り住みました。

      ですから,教えられることを注意深く検討したうえで信ずる,というのではありません。この「イエス運動」が若者たちに訴えるのは,「なかなかいける。やってごらん」といった程度のもののようです。

  • 教会は若い人びとの心を動かすことができなかった
    目ざめよ! 1973 | 1月22日
    • 教会は若い人びとの心を動かすことができなかった

      今日の若い人びとの中には,代々伝えられてきた考え方に疑問を持つ人かたくさんいます。隣人よりも多くの物 ― より大きな車やより豪華な家など ― を持つことがなぜ人生の価値ある目的であるのか,納得できないのです。

      どんな人間であるか,あるいはどんなことをする人間であるかよりも,どれだけ金をもうけるかによってひとりの人間を評価する傾向の非常に強い物質主義的な社会を,多くの若者は受けいれません。それどころか,富裕な安定した社会の一員であることを示す服装習慣さえ拒否する若者がいます。そのような社会は,貧しい人びとを圧迫してきた,と彼らは考えてきたのです。

      彼らは世の中で行なわれている不正や,物質主義的な教会の偽りや偽善を見ています。両親の教会を単なる社交クラブと考えている若者は少なくありません。

      メソジスト派の牧師,チャールス・メリル・スミスは,自著「ザ・パーリー・ゲイツ・シンジケート」の中で,多くの人は,「宗教にはいるのは一般に行なわれていることだからとか,宗教にはいると社会的に有利である,有望な商取引のきっかけができる,うまいやりかたであるとかいった,見上げたものであるが正確には霊的とはいえない,つまり霊性とは全く何の関係もない理由で宗教にはいる」と述べていますが,若者たちも同じことを認めています。

      きわめて批判的で洞察力の鋭い今日の若者たちは,これらの事実に気づかずにはいませんでした。タイム誌の伝えるところによると,“イエス運動”に改宗した若者たちは,「以前彼らが属していた教会の物柔らかな態度,つまり偽善について,侮べつ的な態度で語る」ことが少なくないということです。

      ニューヨーク州の「クリスチャン・コミューン」のひとつにはいった,元ローマ・カトリック神学生,ジョセフ・ライアコナは,「アメリカは霊的に餓死しつつある」と言いました。

      有名なプロテスタントの牧師,ノーマン・ビンセント・ピール博士は,リーダース・ダイジェストの一記事の中で,「われわれは多年,若い人々の間に霊的空白が増大してゆくのを見てきた」。教会は「その霊的に飢えた若者たちに,乏しい食事をさせてきた。『あっちへ行きなさい。ふろにはいり,髪を切り,まともな服装をし,わたしたちの価値を認めなさい。そうしたうえでまた来なさい。そうすればわたしたちはあなたがたと話し合うでしょう』とわれわれは彼らに言ってきたのである」と述べています。

      カトリックの著名な僧職者,フルトン・J・シーンは,教会が「キリストの救いの福音」よりも,世界の社会的病弊に,より大きな関心を払っていることを認め,「聖職者たちが,『もろもろの名にまさる』名を声高に語ることをやめたとき,若者たちは自分たちを,『ジーザス・ピープル』と呼び始めた」と言っています。

      そのような若い人びとは尋ねます。「死ぬためだけに生きているのなら,そして全人類が20分もかからずに絶滅するのであれば,家や新車や職業に何の満足が見いだせるのか」と。核による破壊の中で,人類が20分で滅ぼしつくされることを望む人間はひとりもいません。「自分の人生は無意味だと信じることを願う人間はいない」と彼らは言い,「イエスは意味なのである」とつけ加えます。今日の「確立した」教派は,二つの世界に足を突っ込んでいます。キリストに従うと主張しながら,この世の社会的,政治的活動に巻きこまれています。そして,イエスが弟子たちのために明示した,道徳,正直,教理,熱意などにかんする厳格な原則に従うことを確かに要求してはいません。

      聖書と無関係の事柄に手を出したために,教会は,イエスの時代およびそのすぐあとの時代の初期クリスチャンたちの間に非常な熱意を生み出した教理から,離れて行ってしまいました。多数の若者は,今日の教会に,彼らを捕えるものがないことを悟りました。そのうちのある者は,宗教を「的はずれで偽善的なもの」として捨て去りました。“ジーザス・ピープル”は,自分たちは「宗教」にもどるのではなくて「イエス」にもどるのだ,ということを強調します。a

      なぜ引きつけられるのか

      ではこの運動に,これほど多くの若者を引きつけているのは何でしょうか。“ジーザス・ピープル”は,風さいや服装には無とん着です。牧師のひとり,あるいは彼の会衆のなかのだれかが,これらの若者の関心を捕えるために特別に努力するのです。彼らにとっては相手がシャツやくつしたを身につけていようがいまいが問題ではないのです。

      礼拝は時々,自分も麻薬を用いたが,「思ったほどいいものじゃない」と言う若い人によって司式されます。神を渇望する若い人びとは,くつろいだ気分にさせられます。交わりを好み,ほかの者たちを助けるという性質があるので,友人たちを連れてくるのです。

      これらの若い人びとを引きつけるもうひとつのものは,参加する機会です。彼らは手を打ち鳴らして歌うこともあります。両手を天にさし伸べて嘆きの声を上げる若者もいます。彼らは自分がどのように麻薬や売春その他の悪業を捨てたかについて「あかし」を立てます。

      非常に多くの若者が,ホセア書のような聖書の本の討議や,それを生活に適用しようとする努力に,興味をいだいて耳を傾けるのには,多くの人が驚かされるでしょう。聖書の説明には大きな関心をいだいています。ただ教会がこの欲求を無視したのです。そして多数の若者は,教会を離れ,さらによいものがどこにあるかを知らないまま,半分正しい説明に心を向けたのです。

      しかし,その説明はどこがまちがっているのでしょうか。それよりも良いものが何かありますか。

      [脚注]

      a 彼らのイエス慢画の本のひとつに,ひとりの若者が別の若者に麻薬(“レッズ”)をすすめるときの対話が載っている。こういう調子である。「レッズはどうだい?」「いや,いらない。ぼくはもっといいものを持っている」「なんだい,それは?」「イエスさ!」「ああ宗教か」「ちがうよきみ,イエスだよ!」

  • 真理に帰るべき時
    目ざめよ! 1973 | 1月22日
    • 真理に帰るべき時

      『ジーザス・ピープル』は,わたしたちが「終わりの時」にいることと,キリストの再臨が迫っていることを熱烈に信じています。麻薬や魔術などを退けて,道徳的に清い生活をすべきであるという聖書の原則を彼らは教えます。現代においては,聖書に基づくこれらの教えを信ずる,あるいは実行する人びとが非常に少ない以上,これは称賛に価することです。

      しかしながら彼らは,自ら読みまた携えて歩く聖書と一致しない教えを,それと気づかずに教えています。そうした考えの多くは,これらの若者に関心を持たせるべく特別の努力をした,独立したプロテスタントの牧師から来ています。

      これらの若い人びとはイエスに心を向けてはいますが,さらに前進する必要があります。彼らは父である神についても学ぶ必要があります。イエスはみ父を示すために地上に来ました。イエスは教え,わたしたちに正しい模範を示し,また罪ある人類のあがないとして自分の命を与えるために,父よりつかわされました。しかしイエスは,このすべてにおいて,み父に最も大きな注意を向け,またみ父を最も大いなるかたとして示しました。

      イエスが神への正しい祈りについて弟子たちに教えたときの模範的な祈りは,「天にいます我らの父よ,願くは御名の崇められん事を」ということばで始まっています。(マタイ 6:9)聖書は父の名前を示しています。神の名前エホバに相当するヘブル文字は,聖書のヘブル語原典には何千回も現われ,またこの名前は,欽定訳聖書の詩篇 83篇18節,出エジプト記 6章3節その他に出ています。

      神と人間の間の仲立ちであるイエスは,『なんじらのすべて父に求むる物をば,我が名によりて賜うべし』と教えました。(ヨハネ 16:23)しかし,“ジーザス・ピープル”がしているように,イエス自身を崇拝しなさいと弟子たちに教える代わりに,イエスは次のように言いました。『されど真の礼拝者の,霊と真とをもて父を拝する時きたらん,今すでにきたれり』― ヨハネ 4:23。

      なるほど聖書は,『主イエスを信ぜよ,さらばなんじ…救われん』と述べています。(使行 16:31)しかし,『イエスを信ずる』とは,イエスは真理を告げた,イエスの語ったことは正しかった,ということを信ずるという意味です。そしてそれには,イエスのみならず,イエスが「唯一の真の神」と呼んだみ父についての知識を取り入れることにかんしてイエスが語ったことも含まれます。―ヨハネ 17:3。

      ある青年は,これについての正しい見方を次のように別の青年に説明しました。「と言ってもそれはわたしたちがイエスを愛していないという意味ではありません。ただ,イエスは神ではない,というだけのことです。聖書はイエスが宇宙内で神に次ぐ最高のかたであることを示しています。わたしたちはイエスに対して深い敬愛の念をいだいています。わたしたちがイエスに対するよりもさらに深い敬愛の念をいだいているのは,エホバ神だけです」。

      「不滅の魂」?

      同運動はまた,キリスト教世界の諸教派が長い間教えてきた,聖書に基づかない教理を教えています。そのひとつは,人間は「不滅の魂」を持っていて,もし救われなければその魂は「地獄」で苦しむ,という思想です。しかし聖書は,「不滅の魂」は生きつづけて報いか罰かを受ける,とは述べていません。聖書が述べているのはむしろその反対で,魂は死ぬと言っています。

      あなたの聖書のエゼキエル書 18章4節を開いてみてください。文語聖書によると,そこには,罪を犯した魂は「地獄」に行くとは書かれていません。『罪を犯せるたましいは死ぬべし』となっています。20節もごらんください。

      聖書によると,死者が「地獄の火」の中で苦しんでいるということはありえません。聖書は伝道の書 9章5節ではっきりと,『死ねる者は何事をも知らず』と述べており,同じ章の10節は,それにつけ加えて,『なんじの往んところの陰府には工作も計謀も知識も知恵もあることなければなり』と述べています。詩篇 146篇4節は,人が死ぬ日について,『その日かれがもろもろの企画はほろびん』と述べています。

      もし死者が何事も知らず,考えも知識も持たないのであれば,“ジーザス・ピープル”が信じているように,死者が苦しみや痛みにさいなまれるということは明らかにありえません。

      「しかし『地獄』ということばはどうなのか。聖書にはこのことばが確かに出ている」という人があるかもしれません。

      聖書記述者は,ヘブル語の「シェオール」とギリシア語の「ヘーデース」ということばを用いており,ある聖書はこのことばを「地獄」と訳しています。しかし「シェオール」にも「ヘーデース」にも,責苦の場所という意味は少しもありませんでした。神に服従したイエスのような人びとをも含む,人類の普通の墓を意味したにすぎません。使徒ペテロは詩篇 16篇10節をイエスに当てはめて次のように述べています。『ダビデ彼〔イエス〕につきて言う…なんじわがたましいを〔地獄〕[ヘブル語でシェオール,ギリシア語でヘーデス]にすて置かず,なんじの聖者の朽果つることを許し給はざればなり」。(使行 2:25-27〔欽定訳〕)まさか“ジーザス・ピープル”の中に,イエスは死んで火の燃える地獄に行った,と主張する人はいないでしょう。イエスは,故意に信じようとしない者たちの完全な滅亡を象徴するために,エルサレムの共同じんかい焼却場であるヒンノムの谷(ギリシア語でゲヘナ)を幾度か用いました。人類の普通の墓にいる者たちとは対照的に,「ゲヘナ」に投げ込まれる者たちには復活の希望は差し伸べられていません。

      “天国に運び去られる”

      “ジーザス・ピープル”の多くは,イエスを受け入れた人すべての希望は,“天国に運び去られる”ことであり,イエスを受け入れた者たちがみな,突如,天国に連れて行かれる時にある,と信じています。

      しかし,聖書の示すところによると,天の王国には『小さき群』である限られたグループがいることはいますが,大多数の人類の希望は,新しくされたこの地球の上で永遠に生きることです。―ルカ 12:32。

      古代イスラエルに住んでいたダビデは,天に行くことを祈り求めませんでした。そのような希望は開かれてさえいなかったのです。というのは,小さな天的級がまだ選び始められていなかったからです。その代わりにダビデは確信を持って述べました。「されど謙だるものは国をつぎまた平安のゆたかなるを楽まん」― 詩 37:11。

      “ジーザス・ピープル”が用いる出版物の中には,「新しい地」に言及しているものがありますが,彼らの集会にかなりの間出席している人びとでも,そういうすばらしい希望については聞いたことがないと言います。ですから彼らは,真理と将来に対する希望をいっそう深く探求する必要があります。

      エホバ神はイザヤを用いて,その「新しい地」に行き渡る正しい状態を予告されました。その時には,今日よく見られるように,自分が建てた家,あるいは自分が植えたブドウ園からほかの者が益を得て自分は利用されるだけ,というようなことはありません。その預言が約束するところによると,おのおのは自分自身の労働の益を楽しみ,人びとは「その手のわざをながく楽しむ」でしょう。(イザヤ 65:17-24,口語)使徒ペテロは,昔のこの預言に言及し,次のように書きました。「されど我らは神の約束によりて義の住むところの新しき天[神の正義の天の政府]と新しき地とを待つ」― ペテロ後 3:13。

      今日の若い人びとの問題は,この世のむなしい,利己的な追求をやめたときにどこへ行くかということです。もし,ほんとうに正しい公正な状態を愛するのであれば,きわめて近い将来に実現する神の楽園の地以上のものを望む必要はありません。

      “飛び回る”

      “ジーザス・ピープル”の多くは,からだが震える「ペンテコスト的」示現のことをよく口にします。「飛び回る」こと,「異言」を語ること,「いやし」を行なうことなどについて話します。使徒パウロは,「異言」を語るなどの示現を,キリスト教の揺らん期と関係づけています。(コリント前 13:8-11)「異言」の賜物に明確に言及したのち,彼は次のように言いました。『われ童子の時は語ることも童子のごとく,思うことも童子のごとく,論ずる事も童子の如くなりしが,人と成りては童子のことをすてたり』。同使徒自身の予告どおり,現在こうした事柄は過ぎ去ったものとなっています。

      したがって,これらの顕示は,第一世紀のキリスト教に明らかに見られた「霊の賜物」の源とは異なるところから来ているにちがいありません。今日では,声を聞くとか,霊に取りつかれるというようなことは心霊術と関係があります。したがって,イエスの親しい弟子が与えている次の警告に注意する必要があります。『愛する者よ,すべての霊を信ずな,その霊の神より出づるか否かを試みよ。多くの偽預言者,世に出でたればなり』― ヨハネ第一 4:1。

      教理に対する関心

      “イエス運動”の存在は,霊的な事柄が,今日の多くの若者の関心を捕えることを示しています。いく人かの若者はさらに深く探求しました。彼らは,“イエス運動”が聖書を読むとはいえ,聖書の真の教えに完全にもどっていなくて,キリスト教世界から全く偽りの教理をいくつか持ち出していることを知りました。彼らはエホバの証人といっしょにさらに深く聖書を調べてみて,人間の魂の不滅,地獄の火,三位一体など,聖書ではなく異教に根をもつ,これまで信じてきた信条を捨てる必要に気づきました。今では彼らは聖書のすばらしい真理を活発に他の人びとに伝えています。

      エホバの証人と聖書を勉強する人びとは,これが「即座の改宗」の問題でないことを発見します。それには勉強が要求されます。聖書の教理や原則や預言について学ばねばなりません。彼らは,流行に対する熱狂ではなく,ほんとうに堅い信仰の基礎 ― 知識に基づいた深い確信を築き上げます。

      「あなたは実際にエホバの証人のどこに関心を持ちましたか」と,ある元“イエス運動”参加者は質問されました。

      「教理です。理くつに合っていました」と彼女は答えました。

      彼女は次のように説明しました。「わたしは王国会館に踏み込んで,『わたしの質問に答えなさい』と言いました。その答えががっちりと聖書に基礎を置いていたので,わたしは切り返すことができませんでした。抜け穴を捜しました。でもひとつも見つからなかったのです」。

      聖書が差し伸べる,地球の近い将来に対する希望を理解すれば,麻薬の必要も,叫び声を上げ,手を打ち鳴らし,床を踏み鳴らす,興奮した集会の必要も感じなくなります。これらの約束を理解した人には,平静さと,理性的な決意とが心のうちに生まれ,このすばらしい約束をほかの人びとと分かち合うことに,大きな喜びを見いだすのです。

  • 真のキリスト教のしるし
    目ざめよ! 1973 | 1月22日
    • 真のキリスト教のしるし

      大きな教会,あるいは長年,教会員であることが真のキリスト教のしるしでないことに,たいていの人は同意するだろう。しかしそれらのしるしは実際にどんなものであるべきだろうか。初期クリスチャンたちの間における福音伝道に関する著書の中で,E・M・グリーンが述べていることは注目に値する。

      「初期の福音伝道における最も著しい特徴の一つは,それに携わった人々である。信仰を伝達することは,非常に熱心な,あるいは正式に任命された福音伝道者の領域であるとはみなされていなかった。福音伝道はすべての教会員の特権,また義務であった。われわれは,使徒たちとさすらいの預言者たち,貴族と貧しい人,知識人と漁師のすべてが,キリストによってその教会に委ねられたこの主要な務めに熱意を込めて携わっているのを見てきた。教会の一般の人々は,それを彼らの仕事と理解していた。キリスト教は形式張らない宣教者たちによって広められた,主として平信徒による活動であった……

      「年齢,背景,性別,および教養の異なるそうしたさまざまな人々の示した感化力を伴うこの熱意は,彼らの生活の質によって裏づけられていた。彼らの愛,彼らの喜び,変化した彼らの習慣それに漸進的に変化した人格は,彼らが伝えた事柄に重要性を付すものとなった」。

      このようなわけで,老若を問わず会衆内のすべての人による熱心な福音の伝道とともに,クリスチャンとして実際に変化したという証拠 ― これらが真のキリスト教のしるしなのである。

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