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  • 苦境に立たされる今日の若い人々
    目ざめよ! 1982 | 7月22日
    • 合理的な思考や決まり文句は考えがほとんどないこと,また人命に対する配慮がほとんど払われていないことを示しており,……思想・価値観・普遍的特質に対する偏狭および不健全な皮肉や不信感などをあらわにしている」ことに注目しています。

      若い人々の一つの世代がほとんど理想を抱くことなく,気高い気持ちはおろか正邪の観念さえあまり持たずに成長してゆくのは実に悲しいことではありませんか。ところが,そうしたことが正に世界中で起こっているのです。カーネギー高等教育方針研究評議会の最近の研究はこう述べています。「今日の学部学生の間には,自分たちが米国あるいは世界と呼ばれる,言わばタイタニック号のような沈みかかった船の乗客になっているという意識がある。今日の宿命論は,正当化された快楽主義[快楽のために生きてゆくこと]の精神に油を注いでいる。大学生の間では,自分たちがタイタニック号に乗る運命にあるなら,少なくとも……一等に乗って行こうという気持ちが高まっている。それ以上の事は望めないとみなしているのである」。

      読者が若い人であれば,年長の世代の人々が余りに性急に自分たちを非難するように思えますか。結局のところ,若者にはこの事物の体制に信仰を置くどんな理由があると言うのでしょうか。今日の若者は,政治的な醜聞の世代の中で育ちました。絶望的と言えるほど腐敗しているかに見える世界を,どうしてより良いものにしようとしてあくせくしなければならないのでしょうか。裕福な国々の若者はごちそうをたらふく食べた後,テレビのニュースをつけて,人々が貧しい国々で飢えているのを見ることができます。また,食糧ではなく武器のために幾千億円もの支出をすることを正当化する政治家の話を耳にします。そのようなゆがんだ優先順位をつける世界秩序にどうして若者たちは支持を与えなければならないのですか。自爆しようといよいよ意を決しているように思える世界にどうして信仰を置かなければならないのですか。

      しかし,世界を本当に変化させることができるとしましょう。核戦争の脅威が消え去り,飢きんや病気や政治の腐敗もなくなるとしましょう。そのような世界での生活ははるかに有意義なものとなるのではありませんか。そんなことは不可能だと思われますか。確かに,自治にかかわる人間の能力はそのような世界を望む根拠を与えてはいませんが,別の力によってその変化がもたらされるとしたらどうでしょうか。若い人として,あなたはそのような世界に関心を持たれますか。

  • 『自分の人生をどう生きるか』
    目ざめよ! 1982 | 7月22日
    • 『自分の人生をどう生きるか』

      中年の人に,「どんな人生を送りたいと思っておられますか」と聞けば,相手の人は大抵当惑した表情をするでしょう。大人はほとんど,毎日の生活の決まりきった事柄に埋没しており,そんなことはあまり考えていないでしょう。どんな人生を送りたいのかをはっきり見極めたことがなかったのかもしれません。そのような人々はもはやそうした質問に関心がありません。そのような質問を真剣になって考えると“中年の危機”を身に招くことになりかねないと考え,そうした質問に幾らかおびえてさえいるかもしれません。

      若い人々の場合には異なります。「どんな人生を送りたいと思いますか」という質問は,たとえ答えが定かではないとしても,若い人々にとっては差し迫った問題です。ですから,若い人々が“人生の意味”を見いだすことについて年配の人々よりもはるかに深い関心を抱く場合が多いのも驚くには当たりません。しかし,どこに人生の意味を見いだせますか。

      教育に答えがあるか

      若い人であれば,自分の時間の多くを学校で過ごします。そうであれば教育が何らかの仕方で人生の意味を示してくれると考えるのは自然なことですが,そのような希望は大抵失望に終わります。一人の優等生はこう語っています。「大学に入った時,自分が人生に新たな才能,新たな能力,新たな業績を加えることになると思っていました。ところが,私の取った課程の一つ一つ,読んだ良書の一冊一冊,真剣に考慮した概念の一つ一つが私から何かを奪ってゆきました。何もなくなるまで,すべてがなくなるまで皮が一枚また一枚とはがれてゆく玉ねぎのような気がしました」。

      一体どうしたのでしょうか。この学生は人生の意味を見いだすどころか,様々な論議とそうした論議と同じほどもっともらしい反論とにもてあそばれ,自らの立場を失ってしまったのです。かつて抱いていた信念に対する信仰を失ったこの学生は,それに代わるものを何も得られず,人生には意味がないという結論を出しかかっていました。

      これは今から3,000年ほど前に行なわれた次の非常に鋭い観察を思い起こさせます。「多くの書物[あるいは,「意見」]を作ることには終わりがなく,それに余りに専念すると体が疲れる」。(伝道之書 12:12,新)人間の作り出した『偉大な書物』,『偉大な思想』に人生の意味を見いだそうとしてもざ折に終わります。学生たちがすぐに気付くように,そうした書物や思想はどこまでいっても互いに矛盾しているからです。

      科学は希望を差し伸べるか

      「いよいよ複雑さを増す社会問題すべての確かな解決策として,ほんの数年前には歓呼して迎えられた科学や科学技術は,今日いずれも難しい事態に置かれている」と,広い読者層を持つ科学随筆家ルイス・トーマス博士は認めています。ノーベル賞受賞者マックス・デルブルックはさらに率直に,「科学が我々の諸問題を解決することにならないのは明らかである」と述べています。

      今日の大人たちは,「化学によってより良い生活」というような楽観的なスローガンを聞いて育ってきました。一方,若い人々は科学の暗い側面を見て成長してきました。最近,一大学生は担当の教授にこう書き送りました。「だれもが口をそろえて自然の神秘への新たな突破口について語っている。しかし,私はなぜかそれを受け入れることができない。突破口,突破口 ― それは我々をどこへ導くのだろうか。原子爆弾,汚染,恐ろしい薬物。科学の最前線とはこうしたもののことなのだろうか」。

      その学生はさらにこう書いています。「倫理と科学的知識の間のギャップに関するお決まりの答えはご免こうむりたい。そうした答えは何回となく聞いている。我々の科学は良いものだが我々の倫理は悪い,と人々は信じている。これこそ正に私が受け入れられないことなのである。私は狂っているのだろうか。そもそも,道徳と知識とはそのように分けられるものなのだろうか」。

      この若い学生は重要な点を指摘していました。核物理学の知識が原子爆弾を製造するのに用いられた場合のように,道徳の伴わない知識は,はなばなしい発明を生み出すかもしれませんが,そうした知識は希望を差し伸べるでしょうか。それは人類に生きる理由を与えるものとなりますか。それとも,人類が自滅して果てる可能性を高めるにすぎないでしょうか。

      「今後の歴史の歩みは科学の分野の今後の発見によってではなく,人間の価値観に関する問題……によって決定されると私は思う」と,デルブルック博士は述べています。言い換えれば,正邪の区別をわきまえるほうが,より性能の高い爆弾を製造する方法をわきまえるよりも大切であるということです。

      しかし,今日の世界は正邪よりも爆弾のほうにはるかに深い関心を抱いているようです。若い人々はそれを感じ取り,その結果正しい事を行なおうとしなくなることがあります。一人の少年はこう書いています。「僕は15歳です。マリファナも吸いませんし,覚せい剤もやりません。でも試してみたいという気持ちになったことは何度となくあります。また,物を盗んだり乱暴なことをしたり他の人を傷付けたりしないようにしています。……つまり,これまでずっと正しい事を行なうよう努力してきたのです。そして数か月前になって,そうしたところで何ら変わりがないことに気付きました。僕がどんな生き方をしようと,それは物事のあり方を変えることにはならないのです。今では生きていようと死んでしまおうと構わなくなりました。大人は僕たちがどうして“自分たちの人生をだめにしてしまう”のか理解できないようですが,実際にはもうどうでもよくなったのです」。

      宗教は助けになるか

      人々に正邪を教えるのは科学ではなく,宗教の仕事であるという論議はしばしば聞かれます。しかし,今日の若い人々は宗教の行なっている事柄にそれほど満足を覚えてはいないようです。1万人の若者を対象に調査を行なった英国の一僧職者は,同国の若い人々の間で信仰心が急速に失われつつあることを知りました。米国の場合,十代のアメリカ人の大半は神を信じているとはいえ,そのうちの4分の3は組織宗教に対して強い確信を抱いていないことを最近のギャラップ調査が示しています。

      どんな事柄がこれらの若者たちを悩ませていたのでしょうか。「キリストが愛を示した人々に諸教会が真に仕えようとしていないこと……非常に多くの教会員の浅薄で見せかけだけの姿勢,信仰の基本を扱い,強固な霊的土台に基づいて若者に訴える面での会衆の無力さ,教会内の交友に刺激や温かみを感じさせるものがないこと,任に当たっている僧職者に対する否定的な感情」などを調査員たちは挙げています。意義深いことに調査員たちはさらにこう述べています。「ヤングアダルトの10人中4人までが僧職者の正直さや個人的な倫理規準は“ごく普通”,“低い”あるいは“極めて低い”と述べている」。

      科学にも教育にも宗教にも不信感を抱いているのであれば,今日の若い人々の多くが途方に暮れているのも少しも不思議でないのではありませんか。若い人々は将来にどんなことを予期しなければならないのでしょうか。一人の母親はこう書いています。「十代という題目で娘に意見を求めたところ,娘は快活に,しかも即座に“十代は明日のしかばね”という引用句を示しました」。スイスのローザンヌ地方に住む19歳の若者はそのことを次のように言い表わしています。「どうして父のようにあくせく働かねばならないのか。どうせみんな数年後に死んでしまうなら,少しは楽しんだってよいではないか」。

      若い人は浅薄で物質主義的だとしばしば非難されます。しかしその若者たちの幼いころからテレビは即座に満足を得ることの美徳をふいちょうしてきました。確かに,若者たちの受けた“教育”を考えれば,今日の若者が物質主義的でない方が不思議です。一方,今日の若い人々は高潔で自己犠牲的になるようどこから励ましを得るでしょうか。テレビからではありません。世の政治および実業界の指導者の模範からでもありません。大宗教からでもありません。では,どこからですか。

      人間の創造者からの助け

      何かを信じたいと考えるのは愚かなことだという結論に達した若者もいます。コロンビア大学の一学生は,「人間は根本的に自分のことに関心がある」と言っています。しかし,そうした態度は本当に幸福に導くものとなるでしょうか。若い人であれば,利己的な生活を送っていて幸福になれると本当に思っていますか。あなたが知っている利己的な人々はどうですか。そうした人々は本当に幸福ですか。賢人が述べるように,「ただ銀を愛する者は銀に満ち足りることなく,富を愛する者は収入に満ち足りることがない」のです。(伝道之書 5:10,新)どうしてですか。

      人間が衣食住など物質の必要を持つ者として造られているのと全く同様,人間には霊的な必要もあるのです。金銭はこの必要を満たすことができません。『人生の意味』を理解したいという,若者の感じるばく然とした,それでいて根強い必要は,霊的な必要の一つです。無私の愛を与えまた受けるという必要もやはり霊的な必要です。テレビのコマーシャルが何と言おうと,こうしたものはお金で買うことができません。

      しかし,人間に霊的な必要があるからといって,それを満たす資格が人間にあるという意味ではありません。若い人であれば,自分に衣食住の必要があっても,ご両親ほどそれを満たす備えが自分にはないことを認識していることでしょう。同様にわたしたちの霊的必要を満たす点で最も優れた備えをしておられるのはわたしたちの天の父です。天の父こそ人間をそうした必要を持つ者として造られた方であることを忘れてはなりません。

      でも,どのようにしたら創造者と“接触を持ち”,自分の霊的な必要を満たすことができるでしょうか。過去10年間に,大勢の若い人々はキリスト教世界の主流をなす諸教会に幻滅を感じ,他の宗教組織に加わりました。それらの宗教の中には,統一教会のようにクリスチャンであると唱えるものもあれば,一方,“神の光伝道団”(DLM)のようにクリスチャンであるとは唱えない団体もあります。それらはいずれも若い人々の霊的必要を満たすことができると主張していますが,本当にその追随者たちが創造者に近付けるよう助けているでしょうか。その多くは創造者の存在さえ教えておらず,ばく然とした“第一原因”について語るにすぎません。創造者を崇拝するととなえる宗教でも,創造者には名前と人格があることを追随者に教えている宗教がどれほどあるでしょうか。

      預言者アモスはこう述べています。「見よ,山々を形造った方,風を創造した方,地の人にその思っている事柄を告げる方,あけぼのを薄暗がりに変える方,地の高い所を踏み進む方,万軍の神エホバがそのみ名である」― アモス 4:13,新。

      エホバこそ,わたしたちの霊的必要を満たす点で最も優れた資格を備えておられるわたしたちの創造者のお名前です。上記の聖句の中で,エホバが人類にご自分の意志を知らせることに関心を抱いておられるのに気付きましたか。神は喜んで,『ご自分の思っている事柄をわたしたちに知らせ』てくださいます。「今日の英語聖書」はこの箇所を,「神はご自分のお考えを人に知らせる」と訳出しています。

      エホバ神を知り,そのお考えを調べることにより,『自分の人生をどう生きるか』という質問に対する優れた答えを得ることができます。正にそのことを行なった若者たちについて知りたいと思いますか。

      [6ページの拡大文]

      「原子爆弾,汚染,恐ろしい薬物。科学の最前線とはこうしたもののことだろうか」

      [7ページの拡大文]

      『人生の意味』を理解したいという,若者の感じるばく然とした,それでいて根強い必要は,霊的な必要の一つです

      [8ページの図版]

      「どうしたら創造者と接触を持てるだろうか」

  • 有意義な生活 ― それを見いだした人々
    目ざめよ! 1982 | 7月22日
    • 有意義な生活 ― それを見いだした人々

      ビアギオはイタリア人で,今では20代の青年になっていますが,17歳のころからヨーロッパ各地を放浪するようになりました。ビアギオは,「私はヒッチハイクで各地を転々とし,背中にしょった寝袋以外に家と呼べるものはありませんでした。自由の身でいることが自分にとっては非常に大切なことであり,本当に自由だと思っていました」と述べています。しかし,それは長く続きませんでした。

      「家に戻ると,退屈感にさいなまれました。より充実した生活を送ることができるだろうかと考えました。家族のほかに友達はなく,私の帰りを待ちわびる人もいなかったのです。だれも私に期待していませんでした。通りを行き交う人々を座ってながめながら,他の人々がどんな生活を送っているのだろうかと思い巡らしたことがよくありました。時には酒に酔うこともありました。それは普通独りぼっちで,寂しい時でした。

      「私が経験したような虚無感に駆り立てられて,薬物依存や自殺にまで走る若い人々もいます。ある時,アムステルダムでのことでしたが,麻薬が自由に手に入る場所に私が入ろうとした時,抑うつ状態に陥っていた若い男の人がバルコニーから身を投げ,即死しました。私は地面に落ちて来るその人にあやうくぶつかるところでした。

      「やがて,“体制”の中で私たち若者が拒絶する悪そのものが自分たちの間にも見られることに気付くようになりました。若い人々もご都合主義や闘争,利己主義などから逃れることはできず,私たちは自らの間に古い体制に類似した体制を築き上げていたにすぎませんでした。例えば,高い理想を掲げる若い男性は,金もうけのために売春をするよう女性の仲間に勧めました。

      「私たちは社会を非としていましたが,本当はそれについて何もしようとは思っていませんでした。なぜだと思いますか。近い将来に何か価値あることが実現するとは思えなかったので,より良い将来のために働こうという意欲がなかったのです。自分がどんどんすねた物の見方をするようになっていくのが分かりました。そして,20歳になった時には自分が老いぼれたように感じられました。

      「ある晩のこと,友人の所で聖書に関する1冊の本を偶然に見つけました。それはものみの塔協会の出版した,『とこしえの命に導く真理』という本でした。私は幾つかの章を読みました……」。

      その本から,人類が平和と愛のうちに共に住むことが神の最初の目的であったことをビアギオは学びました。そして,今日の正直な心の持ち主を動揺させてやまない世界的な規模の貪欲や抑圧の責任を神に帰することはできないのを知りました。―申命記 32:4,5。

      では,現在の世界情勢に対する責任が神にないとすれば,その責任はだれにあるのでしょうか。「『邪悪な霊者が存在しますか』と題する章を読んで,ずっと昔に神に反逆した霊の被造物であるサタンがこの事物の体制全体を支配していることを得心しました」と,ビアギオは思い起こします。実のところ,聖書はサタンを「この事物の体制の神」,あるいは「この世界の邪悪な神」と呼んでいます。(コリント第二 4:4,新世界訳,「今日の英語聖書」)この世にこうした利己的で残忍な霊が反映されているのももっともなことです。

      しかし,良いたよりもあります。ビアギオはこう語っています。「聖書には,自分が常々あこがれてきた事柄が述べられていることを知りました。聖書は戦争や病気や老齢や死のない新しい事物の体制を約束していました」。「とこしえの命に導く真理」を読んだ他の幾百万もの人々同様,ビアギオはこの地の将来について聖書が多くの事を述べているのを知って胸を躍らせました。それは単に“来世”について述べている本などではないのです。聖書は,「柔和な者たちは地を受け継ぐ」と述べているのではありませんか。(詩篇 37:11,欽定訳)神が地上の物事を正すことに関心を持っておられないのなら,イエスはどうしてご自分の弟子たちに次のように祈るようお告げになったのでしょうか。「あなたの王国が来ますように。あなたのご意志が天におけると同じように,地上においても成されますように」― マタイ 6:10。

      自分の学んだ事柄に胸を躍らせ,ビアギオはエホバの証人と連絡を取り,定期的な聖書研究が取り決められました。ビアギオはこう語っています。「最初から,ヨハネ 8章32節の聖句に引かれました。そこには,『真理はあなたがたを自由にするでしょう』と述べられています。私は真の自由とはどんなものなのかを理解するようになりました」。こうしてビアギオは,自分の“気ままな”生活様式がなぜこれほどまで満足のゆかないものであったかを悟ることができました。「自分では逃れようとしていながら,実際はずっと奴隷だったのです」とビアギオは述べています。

      「私はエホバの証人の開いている集会に出席するようになり,証人たちはその聖書研究に私を温かく迎えてくれました。そうした集会で出会った若い人々は自分がこれまでに付き合ってきた若者とは異なっていました。彼らは幸福そうで,親切で,丁寧でした。どの人も固有の尊厳を備えており,一生懸命に他の人々に愛を示そうとしていました。これこそ自分が常々実践されるのを見たいと思っていた事柄でした」。

      ビアギオのようにより良い世界を夢見る若者は少なくありません。きっと読者もその一人でしょう。そのような世界が単なる夢ではなく,確実にもたらされることを確信できるとしたら,どのように感じますか。その「良いたより」を他の人々にも知らせたいという気持ちに駆られますか。ビアギオはそのような気持ちになりました。そして,次のように回想しています。「私はたばこをやめ,身繕いを正し,不道徳な生活を続けながら神の是認を受けることはできないとガールフレンドに話しました。ほかの人からなすべきことを告げられたわけではなく,こうした変化が必要であることを自分で悟ったのです」。ビアギオはエホバの証人としてバプテスマを受ける資格を身に着けたいと思っていました。なぜならエホバの証人は将来の希望と人生の意味を見いだすよう助けてくれたからです。ビアギオはエホバの証人に加わって,自分の見いだした事柄を他の人々に伝えたいと思いました。今,ビアギオとその妻は特別開拓者,つまり「良いたより」の全時間伝道者になっています。

      「真の自由とは単に自分を喜ばせることを意味しているのではありません。自分の経験からそのことが分かります。他の人々もそれを知らなければなりません。隣人に愛を示す最善の方法は,この知識を広め,価値ある生き方を見いだすよう他の人々を助けることです」とビアギオは語っています。

      ビアギオは神の王国に関する真理を学んで将来に対する希望を得ました。その希望を他の人々に伝えたいという自然の願いにより,人生で行なうべき真に価値ある事柄を自分のものにしました。

      人生の目的を探し求めたケム

      「年若かったとはいえ,私は故郷のカンボジアで作家として名を成していました」。こう語るのはケムです。「名声,成功,収入の良い仕事など,若い人々の望むものはすべて手にしていました。それでも,人生に特に意味があるとは思えませんでした。事実,『人生には目的がない』という小説を書いたことがありました。

      「私は厳格な仏教徒として育てられましたが,その宗教に対する信仰を失っていました。仏教を捨てた後哲学に目を向けましたが,やがて一人の哲学者には必ず“反対論をとなえる哲学者”がいることを知りました。何を信じたらよいのでしょう。自分は何のために生きているのかと幾度も自問しました。

      「1970年代にカンボジアは内戦状態に入りました。私は処刑を目撃し,集団墓場を目にし,川や湖が死体でいっぱいになり,文字通り朱に染まっているのも目にしました。2,000年に及ぶカンボジアの伝統はほとんど一夜にしてぬぐい去られました。カンボジア人はだれ一人としてこんな事が起こり得るとは考えていませんでした。

      「当局は私のことを捜していました。それで,私は他の人々と一緒にタイにたどり着くことに希望を託し,ジャングルに逃げ込みました。その旅の間,神の存在について多くのことを考えました。創造物は実にくすしく,複雑です。これを単なる偶然や盲目的な自然の力の所産として片付けてしまうのではどうも満足できないように思えました。どうして賢明な創造者に誉れを帰さないのでしょうか。

      「私は長い時間この問題を思い巡らしました。それから,生まれて初めて,心から本当に祈りをささげました。そして初めて創造者が存在するはずであることを悟りました。でも,人間に対するその方の目的は何ですか。なぜその方は,私が自分の国で目撃したような苦しみや悪を許しておられるのでしょうか。どの宗教が真の神を崇拝しているのでしょうか。生きてこのジャングルを切り抜けることができたら,こうした質問に対する答えの探求を生活の最重要事にしようと決めました。十日後,疲れ切った私たちは,半ば飢餓状態でタイにたどり着きました。

      「タイの難民収容所で,私は自国語の聖書を手に入れ,古代ユダヤ人に自らを啓示された神がクリスチャンの神でもあることを知りました。聖書を読んで,その神にはエホバという固有のお名前があることを理解しました。そして,この神をもっとよく知りたいと思いました。

      「タイで5か月を過ごした後,私はオーストリアに移住しました。ある日のこと,エホバの証人の王国会館に来るよう招待するビラを見付けました。エホバという名は私にとって意味あるものでしたが,その証人とは一体だれなのでしょうか。どんなことを証しするのでしょうか。懐疑心と好奇心を抱いて私は王国会館を訪ねました。

      「まだドイツ語を学んでいるところだったので,聞いた話の内容すべてを理解することはできませんでしたが,神の王国の良いたよりを学んでいるということは把握できました。エホバの王国によって地は楽園とされ,人々はもはやそこで悲しみや苦しみのために涙を流すことはなく,その楽園において神は『すべてのものを新しく』されます。(啓示 21:3-5)これこそ正に私が強大で義なる神に期待していた事柄でした。でも,エホバはなぜそのような世界をずっと以前に造り出されなかったのでしょうか。

      「エホバの証人は私と定期的な聖書の話し合いを始め,私の持つ疑問に答えてくれました」とケムは語っています。そうした話し合いの際に,ケムは神が苦痛も苦しみも悪もない所として世界を創造されたことを学びました。人生の意味についてケムが思い悩む原因になったこうした事柄は,神の最初の目的の中に入り込む余地はなかったのです。そのような問題が起きるようになったのは人類がエホバの支配権を退けてからのことでした。しかし,神に反逆し,神から疎外された人類の悲しい歴史が間もなく終わることを示す間違えようのない証拠があるのです。

      ケムは今このように述べています。「自分たちの信条を聖書から証明し,盲目的な信仰を求めない宗教を見いだしてうれしく思いました。悲しみにうちひしがれたカンボジアの同胞に神の王国の良いたよりを伝えたくてたまりません。現在のところそうすることはできないので,私はオーストリアで仲間の人々に『良いたより』を伝道しています。神の同労者となり,この命を救う業にあずかれるのは実にすばらしい特権です。今私は,喜びに満たされて,人生には確かに目的があると言うことができます」。

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      「私が経験したような虚無感に駆り立てられて,薬物依存や自殺にまで走る若い人々もいます」

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      現在の世界情勢に対する責任が神にないとすれば,その責任はだれにあるのでしょうか

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      ケムは神がこの地を苦しみのない楽園にしようとしておられることを学んだ

  • 霊的な必要を認識する
    目ざめよ! 1982 | 7月22日
    • 霊的な必要を認識する

      イタリア人のビアギオとカンボジア人のケムは多くの点で異なってはいますが,二人に共通する非常に重要な事柄があります。二人は共に自分たちの人生はどうしたわけかむなしく,満たされないものであることに気付いていました。物質的な必要は満たされていましたが,霊的な必要は満たされていなかったのです。二人は,『世に悪があるのはなぜだろうか』とか『人生の目的は何か』などといった質問に対する答えを求めていました。

      イエスはご自分の最も有名な垂訓の冒頭でこう言われました。「自分の霊的な必要を自覚している人たちは幸いです。天の王国はその人たちのものだからです」。(マタイ 5:3)ケムとビアギオの経験はこの点を如実に示しています。エホバの証人から神の王国の良いたよりを聞いた時,自分の霊的な必要がそれによって満たされることを内面のどこかで感じ取り,喜んでこたえ応じたのです。この「良いたより」に対する感謝の念に動かされ,今では他の人々にその良いたよりを伝えています。結局のところ,他の人たちが自分たちの霊的な必要を満たし,永遠の命の希望を得るよう助けること以上に満足のゆく事柄があるでしょうか。ビアギオとケムに人生の目的を与えたものは,「良いたより」に対する認識だったのです。

      残念ながら,クリスチャンの親の下に生まれた若い人々が「良いたより」を知りながら,それを認識しない可能性はあります。ある十代のエホバの証人はこう語りました。「若い人が“真理”を自分のものにしなければならなくなる時が来ます。自分は本当にこれを信じているのだろうか,と自問しなければなりません」。若い人々の中には,世が富や快楽の追求を重要視するため,自らの霊的必要に対して盲目にさせられている人もいます。しかし,それは幸福へとつながりますか。この若いエホバの証人はこう言葉を続けています。「この世は恐ろしい所です。若者たちは動揺しており,この世界にどんな事が起きようとしているかも知らず,自分たちが何を望んでいるかも分かっていません。でもエホバは物事がある程度までしか進行することをお許しにならないのを私は知っています。それで,他の人たちにはない安心感を抱いていられるのです」。その安心感と目的意識は,単に“面白おかしく時を過ごす”よりも価値があるのではありませんか。ビアギオをはじめ神の王国についての真理を学んだ他の人々にとっては確かにそうでした。

      真理を真剣に受け止めることには別の利点もあります。前述の若いエホバの証人はこう述べています。「私には真の友人がいます。学校に来ている人々はそうではありません。そうした人々を見るとかわいそうに思えます。パーティーの席でさえ,“麻薬で陶酔”したり酔ったりしなければ本当の意味で互いに楽しく話し合うことはできないのです」。ビアギオはエホバの証人になる前にそのような事柄を経験しました。ビアギオは自分や自分と同じようにしていた他の人々について次のように思い出を語っています。「私たちが幸福だと感じたのはある種のクラブやディスコティックへ出掛けて行ける晩だけだったように思えます。そうした場所の中に入ると,音楽と光が非現実的な雰囲気を醸し出し,退屈な気持ちや孤独感を外に追いやってくれました。とはいえ,それは一時的なものでした」。

      イエスはわたしたちが住んでいるこの時代に関するご自分の預言の中で,霊的な必要がないがしろにされることについて警告し,こう言われました。「食べ過ぎや飲み過ぎまた生活上の思い煩いなどのためにあなたがたの心が押しひしがれ,その日が突然,わなのように急にあなたがたに臨むことがないよう,自分自身に注意を払いなさい。それは,全地の表に住むすべての者に臨むからです。それで,起きることが定まっているこれらのすべての事をのがれ,かつ人の子の前に立つことができるよう,常に祈願をしつつ,いつも目ざめていなさい」― ルカ 21:34-36。

      老若を問わずクリスチャンはこの言葉を心に留めることが必要とされています。そして次のように自問してみるべきです。わたしは自分の霊的な必要を本当に自覚しているだろうか。それとも,この事物の体制の快楽や問題に「押しひしがれ」,気が散らされるままになっているだろうか。神の王国は自分にとって現実的なものだろうか。自分は本当に霊的な人だろうか。それとも,『ふたりの主人に仕え』ようとして,生半可な態度を示しているだろうか。自分の霊的な必要を認識し損なったために滅び失せるのは,恐ろしい,不必要な悲劇といえるでしょう。

      あなたは「常に祈願をしつつ」いつも霊的に目覚めているようにとのイエスの助言に従っていますか。エホバは確かに,ケムがカンボジアのジャングルの中でささげた誠実な祈りを聞き届けてくださり,その霊的な必要を満たすよう取り計らってくださいました。神はあなたにも同じようにしてくださいます。しかし,そのためには求め続けなければならないのです。

      聖書が指摘する通り,「肉はその欲望において霊に逆らい,霊は肉に逆らう(の)です」。(ガラテア 5:17)ですから肉の欲望を満たせば満たすほど,霊的な必要を認識するのが困難になります。あなたの娯楽 ― 読む雑誌,見るテレビ番組や映画 ― は,霊的な必要を認識するのを難しくしていますか。神のみ言葉聖書の少なくともわずかな部分でも時間を割いて毎日読み,それについて黙想するよう思い定めてはいかがですか。テレビを見る時間の一部を健全なキリスト教の出版物を読むことに当ててはいかがですか。ビアギオにとって助けになった,「とこしえの命に導く真理」という本は,価値ある研究計画の一端を成すものとなるでしょう。

      この危機的な時代に霊的な事柄をないがしろにするクリスチャンに,一体言い訳の余地があるでしょうか。世の中を放浪するビアギオのような若者が人生の目的に対する自分の霊的な必要を認識できるのであれば,その必要を認識し損なう若いクリスチャンについてはどんなことが言えるでしょうか。そのような人の状況はイエスがルカ 12章で述べておられる事態に幾らか似てはいませんか。その章でイエスは,わたしたちの時代にご自分が戻って来ることに関するたとえ話をされ,こう言われました。「その時,自分の主人の意向を理解していながら用意せず,またはその意向にそって事を行なわなかったその奴隷は,何度も打ちたたかれるのです。……実際,だれでも多く与えられた者,その者には多くのことが要求されます」。(ルカ 12:47,48)聖書の預言および神の王国の重要性についての知識を与えられたのであれば,上記の言葉を心に留めるべきではありませんか。

      イエスはこの崩壊しつつある事物の体制が救われるから「頭を上げなさい」とクリスチャンに告げられたのではありません。そのようなことを望むのは愚かなことです。むしろイエスはご自分の追随者たちが救出されるであろうと約束しました。わたしたちが知っている世は,「世のはじめから今に至るまで起きたことがなく,いいえ,二度と起きないような大患難」における滅びへと向かっていることを聖書ははっきりと述べています。―マタイ 24:21。

      あなたは今日の世についてどのように思っていますか。この世がいかに改革不能で,滅びに値するものか,識別できますか。そうであれば,「救出」を受ける見込みのある側に自らを置いてはいかがですか。あなたも,預言者エゼキエルの幻の中で,現代のキリスト教世界を予表していた古代エルサレムにあって救いのために印を付けられた人々のようになることができます。それらの人々は,その不忠実な都市の中で「行なわれているすべての忌むべきことのために嘆息し,うめいて」いました。(エゼキエル 9:4,新)今日でもエホバは,周囲の“キリスト教”および非キリスト教の社会に見られる悪のゆえにうめいているそのような人々を探しておられます。そうした人々は,『神のご意志が天におけると同じように,地上においても成される』神の支配する世界においてのみ,自分たちの霊的な必要が完全に満たされることを認識するようにならなければなりません。(マタイ 6:10)そのような世界で生活したいと思われますか。ビアギオとケムはそうしたいとの希望を抱いており,現在その希望と調和した生活を送っています。あなたも同じようにできるのです!

      [13ページの図版]

      若い人が“真理”を自分のものにしなければならなくなる時が来ます。自分は本当にこれを信じているのだろうか,と自問しなければなりません

  • チェスの競技に負ける
    目ざめよ! 1982 | 7月22日
    • チェスの競技に負ける

      数か月前にチェス競技の世界選手権がイタリアのメラノ市で行なわれました。「いつもむっつりとした,今にもうなり声を上げそうな体の大きい熊のような男」と評されるコルチノイが,選手権保持者のカルポブに挑戦して敗れました。なぜでしょうか。競技を観戦したある人々の意見によれば,チェスの選手としての技量が足りなかったためだけではないようです。主な敗因は,自制心の欠如と短気とにありました。ニューヨーク・タイムズ紙の特派員ロバート・バーンによると,コルチノイは「怒り狂って腕を振り上げ,恐ろしい目付きでにらみつけ,自分を出し切ることができないように相手を緊張させようとし,紳士にあるまじき侮辱的な言葉を吐いて」相手を圧倒しようとしました。一方カルポブは,「奇異な身振りなどはせず,静かな決意を秘めて対局し……純粋なチェスを守り通した」と報じられています。コルチノイは古代のソロモン王の言葉から一,二の点を学ぶことができたでしょう。ソロモン王はかつて次のように書きました。「怒ることに遅い者は識別力に富(む)」。「怒ることに遅い人は力ある者に勝り,自分の霊を制している人は都市を攻め取る者に勝る」。「自分の霊を抑制しえない者は,破れた,城壁のない都市のようだ」。(箴言 14:29; 16:32; 25:28,新)また,コルチノイが,「観戦者の最前列にオレンジ色の衣を着たヨーガの導師を座らせ,チャンピオンに呪いを掛けようとした」ことも,やはり敗因になったのではないかと考える人もあります。そのようにして宗教に頼ることは,コルチノイの目的とする事柄の本当の助けとは決してならないでしょう。

      興味深いことに,ヨーガ流の宗教家に対する神ご自身の見方は,神の民イスラエルに対する次の命令に反映されています。「あなたの中に……占いに頼る者,魔術を行なう者,吉凶の兆しを求める者,呪術を行なう者,また,まじないで他の人を縛る者,霊媒に相談する者,出来事の職業的予告者……などがいてはいけない」― 申命記 18:10,11,新。

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