-
十代の子供が親に期待するものものみの塔 1979 | 7月15日
-
-
であるが,ひとたび壊れたり,ひびが入ったりすると,すぐに崩れ去ってしまう」。
「若い人々は規律を求めて声を上げることはないかもしれないが,若者たちはそれを切実に必要としている。親の厳格な権威は,子供のうちに安心感を育む」。
十代の若者は一貫した規律のもたらす安心感を必要としています。ある種の制限や規則の必要性を容易に認めないかもしれませんが,親がその規則に関して一貫性を示すべきだという点にはすぐに同意します。十代の若者は,自分がしても良い事柄と,してはいけない事柄を知りたがります。その時々の親の“気まぐれ”でそれらの規則が日によって変わるなら,子供は落胆してしまいます。イエスは,「あなたがたの“はい”ということばは,はいを,“いいえ”は,いいえを意味するようにしなさい」と言われました。―マタイ 5:37。
規則や制限は境界線に例えることができます。十代の若者に必要とされるのは,境界線がはっきり定められ,それを識別することです。ひとたび識別したなら,十代の若者はその境界線内で信頼と自由を得たいと考えます。一人の父親はこの事実を,家を借りた際にその家族が経験した事と比較してこう語っています。
「それは樹木の茂った地域にありました。私たちがまず最初に尋ねた事柄の一つは,境界線はどこかということでした。その地所で何をすることが許されているのか,という点を知りたいと思いました。そこで楽しく生活するには,そうした事柄を知らねばなりません。地主が毎週のように規則を変えた場合に引き起こされる不快感と失意は容易に想像できます。十代の子供たちに課される制限にも,同じ原則が当てはまります。その規則は道理にかなった,一貫したものであるべきです。それから,その境界線内では,信頼を示し,自由を与えるのです」。
その規則を,実情にそぐわないほど厳しくする必要はありません。何か特別な出来事や行事があれば,例外として何かを頼むということも考えられるでしょう。
人生の目的を定める上での助け
必要とされる導きの中には,人生の目的を定め,職業を選び,必要とされる世俗の教育を受ける上での助けも含まれます。だれしも,自分には自分なりの価値があり,自分の行なっている事柄にはそれなりの価値があると感じられねばなりません。自尊心を持ち,一個の人間として誇りを抱いているべきです。
親は,その子に合った職業を選ぶよう十代の子供を助けることにより関心を示します。その子の「賜物」,才能,あるいは好みを考慮に入れねばなりません。(ローマ 12:6と比較してください。)そして,達成可能な目標を定めるよう援助されるべきです。すべての人が目立った地位に就けるわけではありません。一つの目標が実現されるたびに,より高い目標を定めていけば,現実的な仕方で数々の目標を達成できます。
大人の生活の諸問題に対処できるよう若者に教育を施すことには重い責任が伴います。若者は,自活できるように訓練され,手に職を持つのは大切です。(テモテ第一 5:8。箴 31:10,19,20)イエスはキリストになるはずでしたが,その養父ヨセフがイエスに職を仕込んだので,「大工の息子」また「大工」として知られるようになりました。(マタイ 13:55。マルコ 6:3)使徒パウロは,自分の職業,つまり天幕作りをすることによって,自分とその同行者たちが生活してゆけるようにしました。―使徒 18:1-4; 20:33,34。
大人の生活の諸問題に対処し,大人としての責任を受け入れる準備をするに当たって,十代の子供は親の支えと,“落伍者”にならないための励ましを必要としています。宿題をするのに助けを必要とする場合は少なくありません。時には,宿題を投げ出したくなることもあるでしょう。そのようなとき,その挫折感に理解を示し,問題を率直に話し合うことによって,親は励ましの源になれます。親が時折り難しい宿題の手助けをするなら,宿題をする際の若い人々の挫折感をよりよく理解でき,実際的な提案を与えることができます。物分かりの良い親が少しの時間を費やして,問題を話し合うだけで,十代の子供がその危機を乗り越えるのに役立つ十分な励ましになる場合もあります。
必要とされていると感じること
恐らく子供が一番望んでいるのは,自分が必要とされているということでしょう。そのため,若い人たちは,自分が養子かどうか,親が自分を産む計画だったのか,また自分を望んでいたのかなどと親に尋ねることがあります。子供は,親の愛を確かめたいのです。わたしたちはだれしも,自分が家族の一員であることを知って安心感を得たいと切に願います。親が十代の子供のこうした必要を認め,理解のある仕方でそれを満たしてあげるなら,家族内の幸福はいや増すでしょう。
-
-
若い皆さん,あなたは真の成功への道を歩んでいますかものみの塔 1979 | 7月15日
-
-
若い皆さん,あなたは真の成功への道を歩んでいますか
一世紀あまり前の米国の作家エマソンは,若者が成功を収めるための処世訓を与えています。彼はこう勧めました,「馬車を星に掛けよ」。エマソンが意味したのは,若者は大志を抱いてその達成に努めるべきであるという事です。しかし若者が成功するには,規律正しい鍛練を重ねながら,このような目標を目ざして励んでゆかなければなりません。
若い皆さん,あなたは将来のために適切な計画をいま立てていますか。高尚な目標を定め,その達成を決意するのは賢明なことです。
青春は生命の萌出る時です。煩わしい責任のない,比較的に自由な時期であり,いっそう大きな喜びや幸福を前途に望み見ている時です。青年男女は精力と健康に満ち,幸福な期待を抱いています。
残念なことに,今日の若者の多くは人生における高い目標に打ち込むことができないでいます。そうする代わりに,責任の無い自由や独立を手に入れようとしてむなしい結果に終わった多くの人は,麻薬,相手を選ばぬ性行為や他の愚行にはけ口を求めます。しかし次の助言を心に留めることが大切です。「神は侮られるようなかたではありません。なんであれ,人は自分のまいているもの,それをまた刈り取ることになるのです」― ガラテア 6:7。
目標の中に常に神を置きなさい
聖書には次のことが書かれています。「若者よ,あなたの若い時を歓べ。あなたの心が青春の日々にわたりあなたに善を行なうように。あなたの心の道に,あなたの目で見られる物事のうちを歩きなさい」。(伝道 11:9前半,新)それで創造者エホバは,若い人々が人生を楽しむことを望んでおられます。そして若い人々の関心事や,その心と目の欲望に訴えるものに否定的な見方をされてはいません。一方若い人は,自分の行動に対して神の前に責任があることを覚えておかねばなりません。
聖書の句は次のように続いています。「しかし,これらすべてのことのゆえに真の神があなたを裁かれることを知れ。ゆえに,あなたの心からいらだちを除き,あなたの体から災難を払いのけなさい」。(伝道 11:9後半,10前半,新)若い人々に選択の自由を与えているとはいえ,至高者は,間違った道を追い求めることの苦い結果から若い人々をかばうことはされません。
同じ聖書の筆者は次の言葉を加えています。「若い時も人生の盛りも空しいことだからである」。(伝道 11:10後半,新)なぜそう言えるのですか。ひとつには,人がいつまでも若さを保てる訳でないことは明白だからです。血気盛りの時に病にかかって死ぬ人さえいます。この事を無視する若者は,自分の持つものを賢明に使うことをせず,大人になってからの人生をいっそう難しいものにするような生活の仕方をして,体の精力や,伸びる素質を浪費するかもしれません。
この事に照らして,若い人々は何をすべきですか。聖書にはこう書かれています,「では,あなたの若い日に,あなたの偉大な創造者を覚えよ」。(伝道 12:1,新)このように絶えず神を覚えていることは善行を促し,若い時代を通してエホバとの関係を強固なものにすることでしょう。
キリストの弟子であることの「くびき」
聖書は,生涯の賢明な目的を目ざして若者が精力をその方に向ける必要を示しています。さもなければなんの有意義な目標を達成することもなしに,このような力を浪費してしまうことになるでしょう。
イエスはしいたげられた人々を元気づけてこう言われました,「わたしのくびきを負ってわたしの弟子になりなさい。わたしは柔和で,心のへりくだった者だからであり,あなたがたは自分の魂にとってさわやかなものを見いだすでしょう。わたしのくびきはここちよく,わたしの荷は軽いのです」。(マタイ 11:29,30)イエス・キリストの弟子であることは,この上もない特権ではありませんか。若い時代を過ごすのに,これにまさる方法があるでしょうか。しかしこれにはクリスチャンのバプテスマという真剣な段階を踏むことが必要です。その事をして初めて人はイエスの「弟子」の一人として自分を見ることができます。
必要な訓練を受ける
若い時のイエスは養父ヨセフの下で大工の職を身につけました。(マルコ 6:3)そのように今日でも若いクリスチャンは一定期間,基礎教育を受けて益を得ます。これは大人になってから自活する備えを身につけるための世俗の教育を受け入れるということです。
クリスチャンは多くの場合,自分の住む土地で受けられる標準的な世俗の教育を利用するのが賢明
-