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人々が麻薬類に頼るのはなぜか目ざめよ! 1974 | 2月22日
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であるにもかかわらず,およそ2,400万人のアメリカ人がこれを使用した経験があり,そのうち800万人は常用者ではないかと見られています。マリファナの作用はLSDよりは穏やかですが,それでも感覚の異常をきたします。マリファナを吸煙すると,わずか五分が一時間のように感じられます。音や色彩が普通以上に強く感じられます。また,マリファナの常用者については,歩行時のよろめき,手のふるえ,思考の錯乱,感覚の異常などの悪影響が知られています。
マリファナの吸煙が特に身体に与える影響はどうでしょうか。興味深いことに,ニューヨーク市にあるコロンビア大学医学部の医師たちによる最近の一書簡は次のように述べています。「マリファナの煙は,人間の肺の組織培養においてガンを引き起こす」。ユタ大学研究チームのリーダーであるモートン・A・ステンシェバー博士は,「マリファナはわれわれが考えるよりずっと危険なものであるかもしれない」との結論を下しました。
しかし,麻薬類のこうした危害が知られているにもかかわらず,人々は依然としてそれを使用しています。なぜ? 年々これに頼る人が幾百万人も増加しているのはなぜですか。
薬に取りつかれた社会
多くの権威者は,現代社会が薬に取りつかれているという点を理由として指摘します。一医師はこう説明しました。「薬の広告放送を聴き,その宣伝を読む人はみな,あれかこれかの錠剤をのむことによって,気持ちを平静にすることも,意気を高揚させることも,眠りにつくことも,体重を減らすことも,痛みや不快感を和らげることも自在にできるのだと思い込む」。そして,ほとんどどんな症状に対してもなんらかの薬が処方される傾向にあります。
マサチューセッツ州保健局のもとに麻薬中毒者の社会復帰を指導しているマシュー・デュモント博士は語りました,「今日のアメリカ社会における麻薬禍の根本的な源を何か一つ挙げるとすれば,それはわたしの仲間たる医師たちである……医師たちは毎年130億錠に上るアンフェタミンやバルビタール類を処方している」。下院の特別犯罪委員会も同様の見解を表明しています。「[麻薬禍に対する]過失は,はっきり言って,われわれの製薬業者,薬品卸しおよび小売人,および医師たちにある」。
しかし,これらの人々だけが責めを負うのではありません。薬を消費するおとなたちにも責任があります。人は,薬品が一種の毒物であることを知り,それによって得られる益が害を補ってあまりあると思える場合にのみ使用すべきです。a しかし,おとなが何かの障害や緊張が起きるごとに,あるいはただ快楽を目的として薬を服用するのであれば,青少年がそれを避けるべき理由をどこに見いだせるでしょうか。『おとながたばこをのみ,酒に酔い,いろんな薬剤に頼っているのであれば,自分がマリファナを吸ったり鎮静剤をのんだりしていけない理由はない』と考える若者がいるとしても不思議ではありません。
しかし,親の良い手本だけでは足りない面があります。家庭外での交友も健全なものであることが大切です。精神病治療研究会という団体の調査によると,麻薬中毒者100人のうち84人までは“友人”を通して麻薬に接しています。麻薬を提供される若者の多くは,ただ好奇心からそれを使用します。初めのうちは,その薬の作用を快いものと感ずるかもしれません。しかし,やがてその“とりこ”となり,恐ろしい問題をかかえるようになります。
しかし,人々が麻薬に頼ることには別の理由もあります。各種の薬剤が容易に手に入り,薬にあやつられた社会にいることだけが問題の要因ではありません。その,ほかの理由とはなんでしょうか。
満ち足りることのない欲求不満の生活
麻薬問題の権威者であるジェームズ・E・アンダーソン博士は,「麻薬に頼るのは,事実上,その人の生活に空虚な部分があることの表われである」と述べて,根本的な理由を指摘しました。マシュー・デュモント博士も同じ点を指摘しています。同博士はこう語りました。「われわれは,麻薬を使用する若者の生活に何が欠けているのかを考えなければならない」。
家庭に問題のある場合が少なくありません。フロリダ州デード郡の学校教師・管理者・助言者たちによる調査が見いだしたのはこの点です。また,南カリフォルニア大学の臨床医学の助教授L・ジェームズ・グロルド博士も,「わたしは,ほとんどいつも,家庭に根本的な問題があることを知った」と述べています。同博士はさらにこう述べました。「十代の男女は,家族間にある緊張や欲求不満から逃れる手段として家庭の薬箱にあるものを実験的に用い,それから麻薬の常用へと進む例が少なくない」。では,家族内における問題にはどんな原因があるでしょうか。
父親は世のいろいろな仕事のために忙殺されている場合が少なくありません。母親は自分が置きざりにされているように感じ,自分の生きる目標とか生活上の役割に関してはっきりしたものを見失います。自由な意志の交流はほとんどなされなくなります。互いに心を分け合うことも,互いを真に思いやることもほとんど行なわれなくなります。こうして,子どもは,物質面ではすべてのものを与えられていながら,欲求不満を,何か満たされないものを感じ,あるいはただたいくつ感をいだくようになります。その空白を満たすために,快楽や“スリル”を求めて,あるいはただ感情的な痛みを和らげるために,麻薬が用いられます。
ただ親に反抗する手段として薬剤の乱用という手段に訴える若者もいます。名の知れたある映画女優の息子は自分が麻薬を使うようになった理由をこう説明します。「わたしは母親をびっくりさせてやりたかった。みけんを強打するようにして。害になろうがなんだろうが,母親に注意を向けて欲しかった。わたしは傷ついた。でも,母親をも傷つけてやりたかった」。
しかし,若者を麻薬に走らせるものは,家庭レベルの問題だけではありません。いわば体制全体が崩壊しつつある,と感じる若者が多くいます。彼らは,戦争,暗殺,貪欲,偽善などを見,どこを向いても人々が躍起になって物質上のものを追い求めているのを見ます。これは彼らに嫌悪感をいだかせます。そのため彼らは,こうした生き方から“脱け出”ようとします。彼らは事実上,『食べて飲んでただ楽しもう,あすは死ぬかもしれないから』といった態度を取ります。こうして彼らはすさんだ生活や麻薬に走り,ただ“スリル”や感覚の刺激を求めて生きるようになります。
では,問題の解決はどこにあるのでしょうか。
教育が解決となるか
麻薬教育を実施している学校は多くありますが,実際の成功は得られていません。むしろ,その種の教育が好奇心をあおり,その効果を知ろうとして若者がわざわざ麻薬を使うようになった例さえ少なくありません。麻薬教育の先駆者とされるヘレン・ノウリス女博は,その教育計画の失敗を簡単な例えで説明しました。たばこの火を消しながら,「見てください,わたしが良い例です。喫煙がわたしにどんな害を与えるかを知っていますが,それでもわたしはたばこをのんでいます」と言いました。
ですから,単に麻薬の有害性について論ずる教育だけでは十分ではありません。では,若者に麻薬の使用を控えさせ,すでに中毒している人たちにもその悪習を断たせるほどの力をどこから得ることができるでしょうか。
カナダの新聞ザ・スペクテイターの論説欄がその答えを指摘しました。マリファナの広範囲な流行について論評した同誌は次のように述べました。「人類は常に感覚の刺激を渇望してきた。これに対して法律は無力である。唯一の有効な武器は宗教であるが,われわれの社会においてこの点が全般的に哀れむべき状態にあることは言を待たない」。
世の宗教が麻薬問題と取り組む面で暗い失敗を見ているのはなぜでしょうか。一つの主要な理由は,若者が空虚であり無意味であるとして排撃する,この体制の生き方,考え方,生活の目標などを是認しているのはそうした宗教そのものであるという点にあります。しかし,麻薬の問題には解決がないのではありません。解決のための土台となるのは,生きることに対して全く異なった見方をいだかせ,今日の社会で一般にもてはやされているものとは全く異なった目標を追い求めさせるような教育です。
若い麻薬中毒者の中には,解決の道を見いだし,今や生活に真の満足を得ている人が多くいます。そうした人々は,その社会における有用な成員となり,意義ある生活を見いだすようさらに他の人々を助けています。そうした人のひとりに,どのようにして麻薬中毒の深みにはまったか,しかし,麻薬問題と成功裏に取り組む道をどのようにして見いだしたかを語ってもらいましょう。
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わたしは麻薬の習慣をどのようにして断ち切ったか目ざめよ! 1974 | 2月22日
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わたしは麻薬の習慣をどのようにして断ち切ったか
「リバティー警察,LSDを販売中の18歳の若者を逮捕」。1968年12月6日付,オハイオ州ヤングズタウンのビンディケーター紙は,その第一面いっぱいにこのような見出しを掲げました。
その若者とは私のことでした。裁判所は,私に,トランブル郡刑務所における十か月の服役刑を宣告しました。しかし,30日後,わたしはそこから出ることができました。そして,わたしはすぐ,麻薬を“押す”(売る)仕事に戻っていました。自分自身の麻薬の習慣を続けるために資金が必要だったのです。わたしの使用した麻薬はいろいろな種類に及びましたが,中でも特にLSDを用いていました。
しかしわたしは,ヘロインの中毒が人を沈ませる深みに達するまでさらにずっと進んで行きました。留置場や刑務所に入れられたことは全部で二十数回に及びます。精神病院には三回入れられました。裸にされ,壁や床に当てものをした小室に監禁され,麻薬の禁断による激しい苦痛のままに放置されたことも一度ならずあります。それは,“忍ばねばならない厳しい現実”としてあてがわれたものでした。最後の場合には,生命が非常に危険な状態になり,監禁されていた小室から病院に移されました。臨終の儀式さえ行なわれました。しかし,わたしはなんとか持ち直し,やがて夜盗罪で有罪の宣告を受け,最後には,オハイオ州立刑務所のマンスフィールド分場に送られました。
しかし今,このすべては全く過去のこととなっています。わたしは麻薬の習慣を克服しました。最後に麻薬を手にしてからすでに3年半以上になり,自分が今後二度とそれを使用しないことを確信しています。これは,麻薬の問題に対する真の解決を見つけたからです。
しかし,このことについてお話しする前に,わたしの以前の生活について少し述べさせてください。それは,麻薬の習慣に陥りやすい環境について知る手がかりとなるかもしれません。そして,もしも自分の家庭の中にそうした状況が進展していることに気づくなら,遅くならないうちに事態を正すよう,必要な行動を取ることができるかもしれません。
小さいうちから甘やかされる
わたしの両親は1951年に離婚しました。その時わたしはまだ生後八か月の赤子にすぎませんでした。その後もいろいろな争いが続き,奇妙とも思えることですが,父はわたしに対する保護監督権を取得しました。わたしが週に一度母親に会いに行く取決めが設けられました。母が再婚したのちも争いは続き,どちらの側もいろいろな物を与えてわたしの心を引きつけようとしました。結果として,わたしは非常に甘やかされた子どもとして育ちました。
その後,母親はわたしの愛情を“買収”しようとすることをやめるようになりました。母はエホバの証人との家庭聖書研究を始めていました。やがて,なべややかんを投げたり,つかみ合ったりする争いはもとより,たばこその他のよくない習慣も見られなくなりました。わたしが訪ねると,母と継父はわたしを聖書研究の集会に連れて行きました。家に帰ったわたしは,自分の学んだことを父に話すことがよくありました。父はそれを好みませんでした。父の親族は,「あの子を母親から引き離しなさい。エホバの証人は聖書をねじ曲げる気違いだ!」としきりに言いました。
それで,わたしを母親に反抗させようとして一致した努力がなされるようになりました。わたしはいろいろと高価なプレゼントで手なずけられ,父はわたしの好むことをなんでも許しました。こうして,ある日,母がわたしを連れに来た時,わたしは母に言いました,「母さん,ぼくはもう母さんになんか会いたくない」。母はわたしの父に向かって言いました,「ジョン,あなたがこの子にこれを言わせたのね」。その時わたしは九歳でした。その後長いあいだ母のすがたを見ませんでした。
父は1960年8月に再婚しました。したいほうだいを許されたわたしは,父と継母の生活を惨めなものにしました。しかし,一度といえしりをたたかれたことも,毅然とした懲らしめを受けたこともありません。わたしは七歳の時に隠れてたばこを吸うようになりました。10歳か11歳の時にはしばしば酒に酔いました。そして,にかわをかぎ,マリファナを試みました。なんらしつけを受けない成長と,早くからの麻薬類の使用が,わたしのものの考え方をゆがめたことは言うまでもありません。
性の非行と留置の生活
リバティー高校の二年の時,わたしは,女子のトイレットで,ひとりのガールフレンドときわめて不都合なかたちでいるところを見つけられました。わたしは二週間の停学処分を受けました。その夏のことでしたが,自分の抵抗のしるしとして,家の裏庭で“ストレイトな”(つまり,従来の習慣に従うような)衣類を焼きました。継母と父親は激しく怒り,わたしをわたしの部屋の片隅に押し込めました。わたしは催涙銃を父に向かって“撃ち”,そののち窓の外へ飛び出ました。警察が呼ばれ,警官フレッド・フォースティノはわたしを屋根から引きずり下ろして拘禁しました。留置場に監禁されたのはそれが最初です。
その後,同じ年のことでしたが,わたしのガールフレンドの父親は,わたしたちふたりが,学校から帰宅後に,いっしょにベッドにいるところを見つけました。わたしたちはみなリバティー警察署に呼び出されるはめになりました。しかし,その翌日に,わたしは,その娘の家で再び彼女と関係していました。権威者に対し,あるいは他の人の言うことに対して,わたしは全く敬意をいだきませんでした。二週間後,娘のおじがわたしたちのことに干渉しようとした時,わたしは,友人のひとりとともに,彼を殺してしまおうと計画しました。その計画はうまくゆきませんでした。
わたしは髪を長く伸ばした反抗者,ほんとうに手の負えないやっかい者となっていました。それでもわたしは何かを探し求め,何かしっかりとつかめるもの,何か自分の目標となるものを求めていました。目だった存在となって人の注意を引く者になりたいと考えました。結婚がその答えになるとも考えました。双方の父母はそのことを話し合ってくれはしましたが,わたしたちは若すぎ,ただ熱中しているだけだと判断しました。
それでわたしたちはふたりで家出を計画し,1967年2月,盗み取った420㌦を手にしてそれを実行し,西部へ向かいました。しかし,わたしたちの旅は急に終わりになりました。ロサンゼルスまで行ったところで警察に捕えられ,空路オハイオに送り返されたからです。待機していた警察はわたしに手錠をかけ,トランブル郡刑務所に連行しました。わたしはそこで二週間過ごしました。
わたしにとって,高校の第四学年は悲惨なものでした。最近,フランク・レーナード校長と自分の学業記録を調べたわたしは,その学年に75日も欠席したことを知りました。1968年2月,わたしはガールフレンドを自分の部屋に三日間かくまいました。こうすれば,双方の親族がやむなく結婚に同意するかもしれないと考えたからです。しかし,わたしが得たものは,オハイオ州コロンバス市にある矯正施設に三か月間収容されることでした。やがてわたしは最終試験を受けるために出所を許され,その試験を通って高等学校を卒業しました。
その後わたしが最初に行なったことは,自分のガールフレンドに再び家出させ,アスピリンを一びん飲んで擬装自殺を図らせることでした。こうすれば,ふたりが愛し合っていることを親たちに納得させることができると思ったからです。自分の家にはうようにして帰り,胃から血を吐いた彼女は,「彼はあなたを愛してなんかいない。あなたはただ彼の人形だ。彼はあなたを自分の言いなりにならせようとしているのだ」という母親のことばを聞いて,ついにわたしに背を向けるようになりました。わたしは,その娘と二度と共になることはありませんでした。しかし,この悲劇的な事件はわたしをいよいよ堕落の深みに沈ませ,それは麻薬への深入りによっていっそう拍車をかけられたものとなりました。
麻薬中毒に落ち込む
わたしはまだほんとうの中毒者ではありませんでしたが,重度の麻薬使用者であり,またその販売人でした。麻薬を受け取りにニューヨークまで行ったこともあります。やがて,警察側の連係した行動によってわたしは捕縛されました。わたしは私服の刑事に麻薬を売り,そのさい受け取ったしるしつきの紙幣がもとで捕えられました。わたしの逮捕が新聞の第一面で報じられたのはその時です。しかし,父は腕ききの弁護士を雇い,わたしは1969年1月15日までには留置場を出ることができました。
やがてわたしは再び麻薬を売り歩き,たくさんの金をもうけました。わたしには十分な金が必要でした。ヘロインの“メインライニング”つまり注射器で静脈内に直接入れることを始めていたからです。数か月の間,わたしは麻薬のために一日に40㌦から50㌦使いました。父はわたしを助けようとしました。いろいろと勤め口を見つけてくれましたが,数週間と続きませんでした。わたしの中毒状態はひどく,仕事のさなかにさえよく麻薬を“撃ち”ました。
これはそれほど難しいことではありませんでした。指輪についた小さな容器に入れて薬を仕事場に持って行くのです。それから手洗い所に行き,注射器で麻薬を直接静脈の中に注入しました。でも,薬を少しも余さず体内に入れるため,注射器の中に血液を吸入し,それを再び血管内に注入し,そうしたことを十回ほども繰り返したのです。
こうすると,自分を失ったような状態になります。“ラッシュ”,つまり高いビルから急に落とされたような感じになります。ついで体はぐったりし,髪の毛まで力が抜けたように感じます。中毒状態にある人はできるだけ多くこの“ラッシュ”を得ようとします。
“スピードボール”,つまり“スピード”(覚醒剤の一種であるメテドリン)とヘロインの混合物,すなわち“アッパー”と“ダウナー”の両方を注射することもありました。これを用いると,体は緊張とゆるみを同時に感じて何をしてよいかわからず,全く混乱したものを感じます。
LSDを服用する場合,その効果は全く別の形で表われます。その作用下にあった時,わたしはどんな事でもできる,神のごとくに自分の運命を動かすこともできる,と考えるのが常でした。わたしの弁護士であるジョー・ショボニが最近話してくれたことですが,わたしがLSDの作用下にあったある時,わたしは妊娠した女の腹から赤子をつかみ出せると言って彼をほんとうに恐れさせたとのことです。薬が人に考えさせ,行なわせる事がらには恐ろしいものがあります。わたしは全部で二百数十錠のLSDをのみました。
危うく死を免れる
1969年9月5日のことでした。わたしはひどく“緊張”した状態になり,極度に薬が必要になりました。それで,ヤングズタウン市の近くにある小さなビエナの町のある薬屋に押し入り,店の中をかきまわしていろいろな薬を集めました ― しかし,その時,サイレンの音です! ピストルを抜いた警官に取り囲まれたわたしは,精神的に全く崩れ去り,「殺してくれ! 殺してくれ!」と叫びながら彼らに走り寄りました。
彼らはわたしに住居不法侵入の罪を課しました。保釈金は5,000㌦と定められました。そして,自分にはなじみの郡刑務所に連れて行かれました。わたしはそこに入れられたことが何度もありましたから,刑務所では監房の一つにわたしの名を書き込んでさえいたのです! わたしは裸にされ,壁その他に当て物をした小監房に投げ込まれました。そこはあまりにせまく,足をまっすぐ伸ばすことさえできませんでした。そこでわたしは禁断による苦痛の過程を経るようになりました。最近のことですが,看守のひとりハロルド・ポストは友人とわたしをその監房に案内しながらこう言いました。「わたしは,あなたがあそこに横たわったまま死ぬだろうと思った。わたしとしては,あなたとなんのかかわりも持ちたくなかった」。
わたしは彼をとがめることはできません。わたしは全く腐りきった人間となっていたのです。さながら動物のように,自分の尿その他の排拙物の中を転げまわり,壁をよじ登り,ビニールの当て物を狂ったように打ちたたいていたのです。ポストが思い出して言ったとおりでした。「彼はしきりに請い求め,そうです,ほんとうに請い求め,ひざまずいてしきりに請い求めていた。でも彼は与えられる薬物治療を受けようとしなかった」。
郡保安官リチャード・バーネットがそのころそこにいましたが,最近わたしが訪ねたところ,彼はわたしがどれほど危険な状態に陥ったかを思い出してこう語りました。「あなたはどんな経口医療も受けつけようとしなかった。全く狂暴にふるまい,どんなものもすぐに吐き出した。それで直腸座薬が処方され,わたしがそれをあなたにさし込まねばならなかった」。しかし,それでも回復に向かわなかったので,わたしはウッドサイド・レシービング病院に送られました。それはヤングズタウンにある精神病院です。
午前四時に父は看護婦からの電話を受けました。彼女は言いました,「あなたの息子さんは病気です。あなたの助けを必要としています。……死にかけています」。父は直ちにバート・ファイアストン博士と連絡を取り,博士はわたしをセント・エリザベス病院に移させました。そこでわたしは幾日ものあいだ非常に危険な状態にありました。ファイアストン博士は,なんとか切り抜けられるようできるだけの努力はするが,生命の保証はできない,と父に語りました。セント・エリザベス病院の記録はこう記しています。「この患者は……強度の麻薬禁断症状のゆえに入院を認められた」。
父は5,000㌦の保釈金を払い,わたしは三週間後に病院から出ることができました。しかし,これほどの経験もわたしを変えるものとはなりませんでした。生活を改めると繰り返し父に約束したにもかかわらず,わたしは依然髪を長く垂らし,それほどたたないうちにあらゆる種類の麻薬に立ち戻っていました。ヘロインの禁断症状やLSDの悪性の“旅”など,ほんとにぞっとするような経験ののちになお人々が麻薬に戻るのはなぜだろうか,と思われることでしょう。
わたしの場合,なんとかよくなったと感じると,再び若い娘たちのこと,“スリルや快感”のこと,仲間たちのことを考えるようになりました。それは,ヒッピー,“フリー・セックス”,オートバイなどの仲間です。アンプで増幅して聞く各種の音楽もわたしの堕落した欲望をかき立てるものとなりました。そして自分の心の中で考えました,『それをもう一回始めたところでそれほど悪いことはないではないか』。しかし,LSDによるわたしの最後の数度の“旅”はしだいに悪性のものとなってゆきました。やがて全く絶望感にまとわれたわたしは,永年の断絶を破って母に電話をかけました。その時,エホバの証人の会衆で長老となっていたわたしの継父は,わたしの住む所での聖書研究の取決めを設けてくれました。
回復への岩の道
わたしがエホバの証人と第一回めの聖書研究をしたのは1970年3月です。そして,わたしはジラルド王国会館をも訪ねました。わたしは,すその広がった黒皮のズボンをはき,古い形の丸めがねをかけ,髪を長く垂らしていました。わたしは,エホバの証人も他のすべての者と同じように偽善者にすぎないことを証明してやろうと思っていました。しかし,彼らと接したわたしは強い感銘を受けました。彼らはわたしに深い関心を示し,わたしの質問に対してみんなが同じ答えを与えてくれました。それでも,わたしの心はまだほんとうに動いていませんでした。その同じ夜,わたしはヒッピー仲間のたまる場所に行き,再び強いヘロインを“撃ち”ました。
しかし,研究をやめたり続けたりしてゆくうちに,聖書の教えている事がらは真理だと悟るようになりました。それでも,麻薬の習慣や自分の不道徳な生活から離れきることができず,あるいは少なくともそうしようとしていませんでした。その後,四月の最後の週末に,わたしはLSDによるぞっとするような“旅”を経験しました。自分の女友だちの体がわたしの車の隣の席でそのまま腐ってゆくのを“見た”のです。その経験の醜悪さと恐怖は全く言いようもありません。わたしは,これでおしまいだ,自分で自分を殺すことになるのだと考えました。しかし,わたしはエホバ神を呼び求め,その名を用いて,どうか助けてくださいとすがり求めました。
それは午前3時でしたが,わたしとの研究をしてくれていた証人に電話をかけました。彼は,今度こそほんとうに真剣になって自分を変えようとするなら,エホバが必ず助けてくださる,とわたしに言いました。わたしは,もう二度と麻薬を使わない,と誓いました。そして,それ以来一度も使っていません。わたしは今,朝目を覚ますごとに,自分の恐ろしい経験を切り抜けられるよう助けてくださったことに対して,自分の造り主に感謝しない日はありません。
前年9月の薬屋夜盗事件に関するわたしの裁判が翌週に行なわれました。繰り返し犯罪を重ねたわたしの経歴のゆえに,社会の意見はわたしを非としており,判事は最大15年の刑期を持つ服役囚としてわたしをオハイオ州立刑務所に送ることに決めました。わたしは数日後にその刑につきました。それはわたしにとって,ほんとうに幸いなこととなったのです。なぜ?
それは,わたしにとって熟考と研究のおりとなったからです。自分の生活を顧み,それがいかに無価値で破壊的なものであったかを知りました。わたしはエホバにゆるしを請い求め,自分の心をつくしてご意志を行ないたいと言い表わしました。そして,エホバの証人の刊行物の助けによって聖書の研究に全く没頭しました。その後,6月の終わり近くに,父の努力によって刑務所から釈放されました。その約二週間後の1970年7月10日,わたしは水のバプテスマを受け,エホバ神に仕えようとする自分の献身を表わしました。
他の人々を助ける
その後わたしは自分が以前に親しく接していた人々を捜しはじめました。彼らとともに麻薬を使用するためではありません。わたしがなぜ変わったか,どのようにして変化を遂げられたかを説明するためでした。わたしは責任を感じていました。多くの人たちに麻薬の習慣を始めさせ,彼らをわたしの買い手としてきたからです。わたしは以前の友人少なくとも300人と接触したと思います。そして,そのうちの幾人かは,ともに話し合った聖書の真理にやがて答え応じるものと感じています。
わたしが初めのうちいっしょに聖書を研究した人のひとりは,わたしの麻薬の主な買い手のひとりでした。その腕を取って太い静脈を探り出し,ヘロインの体内直接注入を彼に教えたのはわたしでした。彼の家族はわたしの変わりぶりに驚き,ともに研究に加わるようになりました。しかし,彼自身はわたしの以前の道を歩みつづけました。これまでのところ,そうした以前の仲間のうち少なくとも六人が麻薬のために死んでいます。しかし,以前の別の仲間はわたしの努力に答え応じました。わたしは珍しい方法で彼と再会しました。
家から家を訪ねる宣教奉仕をしていた時のことでした。ある家から出て来たところ,髪を長く垂らしたひとりの男が自動車道を走り寄って来ました。わたしが近づいて自分の名を言うと,彼はすぐさま聞き返しました,「いまあなたの名前をなんと言ったか」。わたしが繰り返して自分の名を言うと,「いや,そんなはずはない,マレー・ヒル・ドライブのではないはずだ!」 彼はわたしにとってどことなく見覚えがあるように思えましたが,わたしとしても彼の名を聞くまではすぐに思い出せませんでした。なんと,わたしのガールフレンドのおじをいっしょに殺そうと計画したその相棒だったのです。しかし彼は,わたしが札入れから身分証明を出すまで,わたしのことを信じようとしませんでした。わたしの容ぼうは完全に変わっていたのです。
やがてわたしは彼との研究を始め,彼は聖書に対する認識の面で進歩を続け,麻薬をやめ,1972年初めにバプテスマを受けました。その夏,わたしたちふたりは,ピッツバーグのスリー・リバー競技場で開かれた,エホバの証人の地域大会のさいに自分たちの経験を話しました。また,学校の教室に招かれて,麻薬の問題,なぜそれを避けるべきかについて話したこともあります。わたしがかつて麻薬に関係していたことを知る若者たちが,そうした話の機会を作ってくれるようにと教師に頼んだのです。
例えば,1972年11月,わたしたちは,マホニング郡合同休暇学校の六つの教室で話をしました。全部で600名を超える学生が話を聞いたのです。彼らは非常な関心を示し,わたしたちが麻薬の問題を克服するのを助けた信仰と希望についてさらに説明する書籍を百冊以上,雑誌約百冊を喜んで受け取りました。1972年12月5日,わたしは,それら学生たちからの手紙60通をとじたものを受け取りました。それは学生たちの感謝を表わすものでしたが,その多くは,わたしたちが麻薬にそれほど深くはまり込んでいたとは信じられない,と述べていました。これほどの変化が起きるとはとても考えられない,というのが彼らの印象だったのです。
変化を知らせる
これは一般の見方でもあります。例えば,シアトル学区主任保安係官チャールズ・オトールは,「麻薬からの復帰(治ゆ)は全くない」と言明しました。また,ヤングズタウンの麻薬取締官主任ウイリアム・A・フライドネイマーは,ヘロインの中毒者が三,四か月以上ものあいだ麻薬から離れていたことは,麻薬を扱ってきたこれまでの多年の経験を見ても全く例がない,とわたしに語り,ほとんど信じ難いといった顔つきで,「でも今ここにきみがいる」と付け加えました。
したがって,麻薬中毒を克服したというわたしの経験を読んでもそれをほんとうだろうかと思う人が多いのは理解し難いことではありません。それで,わたしは,1973年中に,麻薬中毒者としてのわたしと関係のあった数十人の人を訪ねる努力をしました。その中には,警察官,保護観察官,看守,判事,弁護士,心理学者,精神病医,医師などがいます。わたしは自分が訪ねた理由を説明し,彼らの印象を聞きました。
たいていの人は,わたしが同じ人物であるということがただ信じられないようでした。もちろん,彼らはわたしの名を知っていました。わたしの悪名はよく知られていたのです。それでも,わたしがその同じ人物であることを証明するため身分証明書を出さなければならないことが幾度もありました。『麻薬をやめてどれほどたつのか。どうしてそんなことができたのか。あなたを変化させたものは何か』という点を,たいていの人が知ろうとしました。わたしは喜んでそうした点を説明しました。
真の解決の道
デニー・コロドはわたしが訪ねた警察官のひとりです。彼は,わたしが薬屋破りをして逮捕された時にいた警官のひとりです。彼はいま警察隊長となり,高等学校や他の地域グループで麻薬や麻薬問題について話すことに専念しています。過去のことを語り合った時,彼は,「きみはほんとうに変わったね! とても信じられないよ!」としきりに言いました。そしてまた言いました,「何かがきみに起きたに違いない,きみの考え方に影響するようなことが。きみは何事かを悟ったのだね」。
わたしは,そのとおりであること,そして,創造者に対する責任について悟るようになったことを話しました。そして,そうした認識を単に頭の中で持てるようになったのではなく,それが自分の心の中に深く達したのです,と話しました。神に仕えたいという願いが,わたしの心の中から,不道徳なこと,麻薬,その他それに類する事がらをすべて締め出し,正しいことを行ないたいという動機と力をわたしに与えてくれたのです。
また,1973年3月1日には,麻薬の禁断による苦痛のさいにわたしを見てくれた,セント・エリザベス病院の医師ファイアストン博士と時間を取り決めて会見しました。わたしが博士の部屋に入ると,「これがあなただとはとても信じられない」と博士は叫びました。そして博士は,わたしのことを知っている,その病院の他の医師たちをそこへ呼びたい,と言いました。彼らもわたしの変化にすっかり驚き,「どうしてあのひどい状態から抜け出ることができたのか」という点を知ろうとしました。
わたしは,自分の運命を自分では左右しきれないことを悟った,と説明しました。わたしは自分本位の道を歩んであちらこちらで行きづまっていました。自分で物事の規準を定め,自分を神のように感じ,すべてのことを自分で支配し,なんでも自分の望むことをしてよいと考えて,ただ快楽を追い求めていました。こうしていたわたしが,聖書の勉強を通して,自分の創造者に対する健全な恐れの念をいだくようになったことを話しました。また,聖書の教えにほんとうに従って生活する人々がいること,それはエホバの証人である,という点も述べました。
「他の宗派に比べてエホバの証人のどこがそんなに違うのか」という点も尋ねられました。わたしは,エホバの証人といっしょに聖書を研究することによって,人類に対する神の壮大な目的を明確に理解できるようになったことを述べました。例えば,死者の状態,復活という確かな希望,そして,この地上が神の王国の支配のもとに一つのパラダイスとなることを知ったのです。こうした事がらに対する信仰と確信こそ麻薬の習慣を克服する力となったことを述べました。
わたしは,自分が仏教を含め他の宗教をも調べたこと,またローマ・カトリック教徒として育てられたことをも医師たちに説明しました。しかし,そうした宗教に,確かなもの,確信となるもの,ほんとうの希望,そして創造者,エホバ神に対する信仰は少しもありませんでした。そのためにこそ,それらの宗教は,若い人々に,麻薬を捨て去るだけの強い動機づけを与えることができません。
これまで三年近くの間,わたしはエホバの証人の全時間開拓奉仕者として奉仕してきました。そして,自分の生活にこうした大きな変化を遂げた人がわたしひとりでないことを知りました。エホバの証人といっしょに聖書を研究して創造者を深く知るようになり,以前の麻薬の習慣を断ち去った真の友人が多くいたのです。これらの人たちができたのであれば,同様の問題を持つ他の人々も同じようにできるはずです。真の崇拝を実践することこそ,麻薬問題に対する明確な解決の道です。―寄稿
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