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クリスチャンの社会の中で若い人々が占める場所ものみの塔 1979 | 7月15日
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クリスチャンの社会の中で若い人々が占める場所
「ヤハをたたえよ!……若い男よ,また乙女よ」― 詩 148:1,12,新。
1,2 (イ)無視されたり,忘れられたりすると,どんな気持ちがしますか。(ロ)エホバ神とイエス・キリストは子供たちをどのようにご覧になりますか。
もしかしたらあなたはこのような経験をしたことがあるかもしれません。ある大きな催しがあってそれに招かれました。会場に行くとすべての客のために席が設けられ,各席に名前が付されています。しかし何かの手抜かりで,自分の席は指定されていません。こういう時はきまりが悪くて当惑するものです。忘れられたり,無視されたりするのは気持ちのよいものではありません。
2 同じようにある人々には,若い人たちのことを,注意や関心を払うに値しないと考えて彼らを無視したり,忘れたりする傾向があるかもしれません。しかしわたしたちの創造者エホバ神,あるいはそのみ子であるイエス・キリストは,若い人々をそのようにはご覧になりません。子供たちを軽くあしらう傾向が弟子たちにあったとき,イエスは彼らをたしなめて,「幼子たちをわたしのところに来させなさい。止めようとしてはなりません」と言われました。(マルコ 10:14)小さな生き物でさえ神は大切に思っておられるということを強調してイエスは,「すずめ二羽はわずかな価の硬貨一つで売っているではありませんか。それでも,あなたがたの父の知ることなくしては,その一羽も地面に落ちません」とおっしゃいました。(マタイ 10:29)もしエホバが小鳥さえも大事に思っておられるなら,まして幼い子供たちはエホバにとってどれほど愛すべきものであるかわかりません。
3 子供たちでもみ使いたちでも,神にとってひとり残らず愛すべき者であるというわけではありません。それはなぜですか。
3 といっても,子供であればそれだけで神にとって大切なものとなるのではありません。若者はひとり残らず,神にとって愛すべきものであるというわけではありません。またみ使いも全部が全部そうであるわけではありません。聖書には,「自分本来の立場を保たず,そのあるべき居どころを捨てた使いたちを,大いなる日の裁きのために,とこしえのなわめをもって濃密なやみのもとに留め置いておられます」とあります。(ユダ 6)み使いたちには天で働く任務があり,神の天の組織の一員としてエホバ神に仕えます。しかし先に述べた使いたちはほかのものを見て興味を引かれ,その「あるべき居どころを捨てた」のです。彼らは何を見たのでしょうか。
4,5 (イ)あるみ使いたちはなぜ神に仕えることをやめましたか。その結果生じたひどい事態を神はどのように処理されましたか。(ロ)このことからわたしたちはみなどんな教訓を学べますか。
4 聖書は次のように説明しています。「真の神の子らが,人の娘たちに注目し,彼女たちが器量が良いのを知るようになった。そして彼らは,自分たちのために妻を……めとりだした」。(創世 6:2,新)その「神の子ら」というのは,地上の人間にすぎなかったでしょうか。そうではありません。実際には,天にあるそのあるべきところを捨て,地上の美しい女たちと性関係をもつために人間の肉体を備えて現われた,神の子らである使いたちだったのです。彼らが,そして後日彼らの混血児の子孫たちが不道徳な影響を及ぼした結果,地上の状態はすぐに低下しました。そのために神は世界的な大洪水をもたらす決意をされました。聖書には次のように記述されています。「したがってエホバは,人の悪が地にあふれ,その心の考えの傾向が常に悪いだけであるのをご覧になった。それでエホバは言われた。『わたしは,わたしが創造した人びとを地の表からぬぐい去ろう』」― 創世 6:5,7,新。
5 このことには,老若を問わずわたしたちすべてに当てはまる一つの教訓が含まれています。それはつまり,エホバはご自分の真のしもべたちのためにふさわしいところを定めておられ,しもべたちはそのところから離れてはいけないということです。エホバにとって大切なものとなるためには,わたしたちはエホバの取り決めの中における自分のところを知り,そこから離れないようにしなければなりません。若い皆さん,あなたのあるべきところはどこですか。
神の取り決めの中における若い人々のあるべきところ
6 (イ)わたしたちのあるべきところはどこですか。(ロ)何があるときにわたしたちは神から愛される者になりますか。
6 エホバは人々に対して愛情深い関心を抱いておられて,わたしたちすべてのためのあるべきところを定めるべく,そのみ子イエス・キリストを与えてくださいました。キリストはクリスチャンの社会の基礎を置かれました。その真の崇拝者たちの社会は今日,エホバの証人の中に存在します。したがって,老若を問わずそのあるべきところは,このクリスチャン社会の中にあります。しかし注目しなければならない点は,エホバの証人と共に集会に出席するだけで,つまり彼らと交わるだけで,エホバから愛される者になるのではなく,むしろエホバに対して忠実であるときにエホバから愛されるということです。コリント第一 4章2節には,「求められるのは,忠実であることです」とあります。エホバにとっては,忠実な六歳の子供,または16歳の子供のほうが,そのあるべき居どころを離れて不忠実になった強力なみ使いたちよりもはるかに愛すべき存在です。それらの使いはもはや,エホバの取り決めの中に占めるべきところを持っていないのです。
7 わたしたちみんなが行なわねばならない主要な仕事は何ですか。
7 クリスチャンの社会の一員としてわたしたちはみな ― 老いも若きも,男も女も ― 忠実に果たすべき共通の,そして重要な仕事があります。それはわたしたちの行ないにより,またわたしたちの父について語ることによって,父の目的を知らせ,父の証人として奉仕する仕事です。このことを行なっているときにのみ,わたしたちは自分のあるべきところにいるのです。詩篇 148篇には,「ヤハをたたえよ!……若い男よ,また乙女よ,年老いた者と共に少年よ。彼らがエホバの御名をたたえるように」とあります。若い人たちに対する勧めは次のように明確です。「では,あなたの若い日に,あなたの偉大な創造者を覚えなさい」― 伝道 12:1,新。
8,9 (イ)無生物は創造された目的をどのように果たしていますか。(ロ)わたしたちは生きる目的をどのように果たすべきですか。
8 そこで問題は,あなたは自分のあるべきところにいるか,本当にエホバをたたえているか,ということです。聖書の詩篇 148篇を開いて,エホバをたたえよ,という勧めが繰り返されていることに注目してください。太陽,月,星,樹木,動物,鳥など,神の創造物すべてが,神をたたえるように勧められています。そしてそれらがいかにすばらしい方法で神をたたえるかを考えてご覧なさい。日の出や,赤々と燃え立つような壮麗な入日は,太陽の創造者への輝く貢ぎ物です。黒いビロードの上にきらめくダイヤモンドのような夜空の星や,海の波の上にこうこうと照る月は,こうした美しいものが,偉大な造物主のみ手の業であることを物語っています。動物たちの本能的な知恵,鳥の渡りなど,エホバの創造物が本当にエホバをたたえている様を挙げれば限りがありません。しかし,『若い男,また乙女』つまり若い女の方たち,あなたはどうでしょうか。
9 あなたの身体そのものもエホバの誉れとなるものです。元気はつらつとした若い人々の動きの美しさ,軽快さ,また優雅さは,偉大な設計者の業を示すものです。しかし人間は,正しい生き方によって,またエホバとそのみ業についての良い事柄を語ることによっても,エホバをたたえなければなりません。「エホバの賛美をわたしの口は語るでしょう」と言った詩篇作者ダビデの決意を自分の決意としなければなりません。また行ないも模範的でなければなりません。「悪から遠ざかって善を行ない」なさいとクリスチャンは勧められています。(詩 145:21,新。ペテロ第一 3:11)あなたはエホバのご親切に対し,以上のような形で感謝を表わしているでしょうか。そしてあなたのあるべきところにいるでしょうか。
エホバをたたえる機会
10 若いクリスチャンたちは,会衆内での自分の立場について,どのように感じることがありますか。
10 不幸にして人間は地位を気にします。イエスの使徒たちもそうでした。ヤコブとヨハネは,イエスの王国で,イエスに次ぐ高い地位を与えてください,と頼んだことさえありました。(マルコ 10:35-37)今日の若い人々の中にもそれに似た態度を示す人がいます。自分たちには会衆内で物事を行なう特権や機会がないと感じます。『わたしはただの若者だ。わたしにできることなんか何もない』と考えるかもしれません。しかし実際には若い人たちにはエホバをたたえる特別の機会があるのです。
11 若い人々には,エホバをたたえるどんな特殊な機会がありますか。
11 あなたは一年のうちの多くの時間を,学校の先生や級友たちと一緒に過ごします。ですからあなたの行ないはいわば舞台の上にあるようなもので,多くの人に見られています。自分の振る舞いは,人々がわたしと結びつけて考える神の誉れとなるものだろうか,と自分に尋ねてみてください。自分の振る舞いが神への賛美にもなれば,神に非難をもたらすものともなることを忘れないようにしましょう。このほかに,学校でエホバの目的について話す機会を利用しているだろうか,ということも考えてみましょう。わたしたちの態度は,「エホバの賛美をわたしの口は語るでしょう」と言った詩篇作者の態度と同じであるべきではないでしょうか。(詩 145:21,新)多くの若いクリスチャンは学校を自分の“区域”とみなしています。ですから証言できる機会を捕えるのに機敏です。あなたはいかがですか。
12 (イ)若い証人たちは,同級生や先生たちに証言しにくく感じることがよくありますが,なぜですか。(ロ)ある若い証人はどんな経験をしましたか。
12 しかし若い人たちの中には,級友や先生たちには証言しにくいと感じている人もいます。その理由の一つは,聖書研究者であるとか,神について話すことに関心を持つ者であるということを知られるのがなんとなくきまりが悪い,と考えていることにあります。カリフォルニアのある若い証人はそういう理由から,自分がエホバの証人であることをほかの生徒たちに知られないようにすることに努めていました。想像通り,人に知られるのを恐れて暮らすことは,自分の幸福にプラスにはなりませんでした。そこでこの若い証人は最後にこの問題について真剣に考えました。自分の信仰が本物であることには自信があったので,どうしてそれを恥ずかしがることがあろうか,と考えました。そして自分の宗教について隠しだてしないように,また適当な機会があれば,聖書の教えが道理にかなっていることを,他の人々に説明することに心を決めました。その結果この若い証人は,心がずっと明るく楽しくなったばかりでなく,多くの先生や級友の尊敬を得ることにもなりました。
13,14 学校で証言する機会としてはどんな時がありますか。
13 この若い証人は,学校にいる間にいろいろな事柄に関する神の見方を知らせる機会がたくさんあることに気づきました。あなたもその機会を見つけることができるのです。例えば,霊魂不滅について,あるいは聖書に関係した他の問題について書いた有名作家の作品が,授業で取り上げられるかもしれません。その場合にはレポートを書くときに,あるいはクラスでの討論で,取り上げられている問題についての作家の見解と聖書に述べられていることとがどのように違うかを,巧みに示すことができます。(エゼキエル 18:4。伝道 9:5,10)若い証人たちはこのことを行なってきました。そしてそれによって,聖書の討論を学校でつづける道が開かれたのです。
14 またたいてい在学中にはいつか,人間の起源がクラス討論のテーマになることがありますが,これも証言をする非常によい機会となります。その場合には,「進化と創造 ― 人間はどちらの結果ですか」という本の資料を用いて,創造説に有利な証拠を示すことができます。若い証人たちはこれを行なってきました。その結果この本が多数,先生や級友に配布されました。あるいは何かの授業で,デートや性に関する態度,麻薬,アルコール中毒その他をテーマとして討論が行なわれるかもしれません。そういう時には若いクリスチャンたちは,それらの問題をすべて取り上げている「あなたの若い時代,それから最善のものを得る」という本をよく紹介します。先生も同級生たちもその本を喜んで読み,多くの益を得ます。
15-17 (イ)学校での証言で若い証人たちはどんなよい経験をしましたか。(ロ)若いクリスチャンたちが自問すべき二つの質問とは何ですか。
15 積極的で機敏で忠実な若いクリスチャンたちにより,世界中の学校で優れた証言がなされてきました。例えば,ある若いクリスチャンは次のように書いています。「わたしは自習時間に,証言の機会をたくさん得ました。祝日の前後はとくにそうでした。ほかの生徒たちの目につく机の上に聖書関係の本を置いておくと,関心のある生徒がたくさんわたしのところにやって来ます。一番大きな報いのあった経験には,わたしの社会科の先生が関係しています。わたしはその先生が教えている生徒のひとりに本を一冊配布しました。ある日その女生徒が教室の中でその本を読んでいたらその社会科の先生がその本を見て,どこで手に入れたの,と尋ねました」。どんな結果になったでしょうか。そのうちに毎日昼休みの時間に先生と聖書について討論するようになり,ついにいく人かの生徒がクリスチャンの集会に出席しはじめました。またその先生は進歩して,献身した証人になりました。
16 もう一つの例の場合は,ある若い証人が「ものみの塔」誌と「目ざめよ!」誌を先生に差し上げることにしました。何日かたってその生徒は先生に,「差し上げた雑誌の記事はいかがでしたか」と丁寧に尋ねました。最初のうち先生は自分の生徒の質問をいくらか無視する態度を取っていました。しかしやがて,その生徒の礼儀正しい粘り強さに感心するようになりました。もし自分が生徒に自分の説明をよく聴くように勧め,また一般教養科目の勉強を強調するのであれば,自分も聖書をさらに深く学んで,生徒の粘り強さにこたえるべきではないか,というふうに考えました。その結果,雑誌の記事についてよく話し合うようになりました。おしまいにその先生は雑誌を予約し,王国会館で開かれる集会に家族を連れて出席するようになり,バプテスマを受けた証人になりました。
17 これは別に珍しい経験ではありません。何千という人々が,学校で若い証人たちの行なう証言を通して,神の真理を知るようになりました。あなたには,若いクリスチャンとして神の言葉と行動規準を擁護するだけの勇気と神への愛がありますか。またこれと同様に大切なことですが,あなたには,神の義の戒めに従って身を処する道義的な力がありますか。もしそれがあれば,あなたは自分のあるべきところを離れない,世界中にいるすばらしい若者たちの群衆の中のひとりなのです。彼らは自分に与えられている機会を,エホバへの賛美に用いています。
18 若いクリスチャンたちが特に効果的に証言できることが多いのはなぜですか。
18 若い人たちは特に効果的に証言できる場合が少なくありません。例えば他の若い人たちに話す点ではふつうほかの人よりも有利です。いわば彼らの“言葉”を話すことができるからです。また,おとなの中には,12歳のイエスの言うことに耳を傾けたエルサレムの年長者たちのように,若い人の言うことをよく聞く人々がいます。(ルカ 2:46,47)ですから,エホバを賛美する面で立派な貢献ができることを,過小評価しないようにしましょう。もしあなたがその気になれば,神は,王国のこの良いたよりを全世界に宣べ伝えさせるというご自分の目的を達成するために,あなたを大いにお用いになることができるのです。―マタイ 24:14。
19 クリスチャン会衆の中で若い人々はどのようにエホバをたたえることができますか。
19 会衆内でも,若い人々は,エホバをたたえることに大きく貢献できます。いま世の中には,汚い言葉を使う若者,だらしない服装をした行儀の悪い若者が少なくありません。ですから若いクリスチャンたちが礼儀正しく,きちんとした品のよい身なりをしており,霊的な事柄に真の関心を抱いているなら,王国会館を訪れる人は良い印象を受けます。ことに若い人たちがよく準備された研究生の話をするのを聞くとき,あるいは確信と熱意のこもった注解を述べるのを聞くとき,または若い人たちがマイクを操作したり,集会の前後に人々にあいさつをしたり,文書を扱うカウンターで手伝ったり,集会所の掃除を手伝ったりするのを見るときに感心させられます。訪問者たちは,若いクリスチャンたちの模範的な行ないに感銘し,会衆に関して,「神はほんとうにあなたがたの中におられる」と判断するでしょう。―コリント第一 14:25。
20 それで若い人たちはどんな態度を取るべきではありませんか。またどんな確信がもてますか。
20 ですから,『わたしはただの若者だ。わたしにできることなんか何もない』というような消極的な態度を取らないようにしましょう。あなたは兄弟姉妹たちの助けになり,またエホバへの賛美となる多くの事柄を行なえるのです。そして,エホバがそれをご覧になっておられて報いてくださる,という確信をもつことができるのです。「神は不義なかたではないので,あなたがたがこれまで聖なる者たちに仕え,いまなお仕えつづけているその働きと,こうしてみ名に示した愛とを忘れたりはされないからです」― ヘブライ 6:10。
21 次の記事ではどんな問題を検討しますか。
21 実は,わたしたちの住むこの退廃した世の中でエホバに奉仕するのは,やさしいことではありません。若いクリスチャンたちにとっては特にそうです。あなたをあるべきところから無理に離れさせようとする圧力はたくさんあります。いろいろな誘惑は強く,同時に極めて巧妙です。神の天のみ使いたちの中にさえ,誘惑に負けてそのあるべき居どころを離れ,エホバの恵みを永遠に失った者がいたことを思い出してください。彼らにそこを離れさせたものは何でしたか。性に対する間違った関心でした。ですから,今日ある大きな誘惑が性的誘惑であっても驚くにはあたりません。では,若いクリスチャンたちの信仰を打ち砕くのがねらいの世の圧力を,いくつか調べてみましょう。
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若い人たち,世の圧力に抵抗しなさいものみの塔 1979 | 7月15日
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若い人たち,世の圧力に抵抗しなさい
「あなたは周囲の世によって世自身の型にはめ込まれないようにしなさい」― ローマ 12:2,フィリップス訳。
1,2 (イ)わたしたちはどんな諭しを真剣に考えるべきですか。(ロ)この諭しを今考慮することが特に大切なのはなぜですか。
聖書は,命への狭い道から足をそらさせようとする悪魔の努力に抵抗することをしきりに勧めています。例えば使徒パウロは,「あなたは周囲の世によって世自身の型にはめ込まれないようにしなさい」と書きました。ローマ 12章2節にあるこの諭しを真剣に考えましょう。これはわたしたちを保護し導くために記録されています。上記の聖句は,J・B・フィリップス訳新約聖書からの引用ですが,他の聖書の訳を読むのも有益です。「あなたの周囲の世の行状に倣ってはなりません」。(エルサレム聖書)「この世のならわしを取り入れてはなりません」。(アメリカ訳)「自分をこの事物の体制に合わせてはなりません」― 新世界訳。
2 自分をこの事物の体制に合わせないように用心することは,かつてない急務となっています。それは最近 ― まだ生きている幾百万もの人々の生涯中に ― サタンとその使いたちが,キリストとそのみ使いたちにより天から追放されたからです。この処置について説明したあと聖書は,「地と海には災いが来る。悪魔が,自分の時の短いことを知り,大きな怒りをいだいてあなたがたのところに下ったからである」と述べています。(啓示 12:9,12)わたしたちはちょうど今,この短い災いの時に生きているのです。ですから,怒りをいだくサタンは,世の行状に同調させるようわたしたちに圧力をかけることに全力を注いでいます。ではサタンはそれをどんな形で行なっているでしょうか。
不倫な性行為
3,4 昔,神のしもべたちに忠実の道をふみはずさせるのにどんな方法が功を奏しましたか。
3 もしある方法がうまくいくなら,サタンがその方法を利用しつづけるのは道理ではないでしょうか。ところで,み使いたちが天におけるそのあるべきところを離れる原因となったのは何だったでしょうか。それは性関係を求める間違った欲望でした。(創世 6:1-4。ユダ 6)またイスラエル人が40年近く荒野をさまよい,間もなくカナンの地に入ろうとしていた時に起こったことを考えてください。モアブ人は彼らを見たとき,『非常な恐れ』を感じました。イスラエル人が大変数が多いうえに,エホバの祝福が彼らの上にあったからです。(民数 22:1-3,新)そこでモアブ人は預言者バラムを雇って神にイスラエル人をのろわせようとしました。このたくらみは失敗しました。しかしバラムは,サタンの導きを受けたに違いありませんが,ついに一つの計画を思いつきそれに成功しました。それはどんな計画だったでしょうか。
4 バラムは,モアブとミデアンの女たちにイスラエル人を歓待させたのです。その女たちがイスラエル人を大変なごちそうとぶどう酒の出る宴会に招いたことは明らかです。イスラエル人はごちそうを食べ,すぐ頭にくるぶどう酒を飲んで,緊張をゆるめました。彼らの欲情をかきたてる目的で,きわどい踊りも利用されたことでしょう。彼らは警戒を解いてしまいました。そのために女たちは,イスラエル人が自分たちと性関係を持つように仕向けました。イスラエル人に偽りの神々を礼拝させることまでしました。それはどんな結果を招いたでしょうか。エホバの怒りはその民に向かって燃え,そのうちの2万4,000人が殺されました。このことを考えてみてください。その2万4,000人は,無人の荒野を何十年もさまよった末,これからカナン ― 約束の地 ― に入ろうとするところでした。しかし,不品行に誘い込まれたために,約束の成就にあずかることができませんでした。―民数 25:1-9,16-18; 31:16。
5 約束の地に入ろうとしていたイスラエル人と,今日のわたしたちの立場とにはどんな類似点が見られますか。それでわたしたちはサタンが何をたくらむことを予期できますか。
5 わたしたちが今日置かれている状況にもこれに似たところがあるでしょうか。確かにあります。(コリント第一 10:11)わたしたちは今,神が約束された新しい体制のまさに入口にあり,イスラエル人が約束の地に入ろうとしていたように,その新しい体制に入ろうとしています。過去の例から判断するなら,サタンが何をたくらむことが考えられますか。そうです,神の民を性の不道徳に陥れるように工作することです。そうすればエホバが彼らを,義の新秩序に入る資格のない者と判定されるからです。
6,7 世が正しい道徳規準を捨てつつあるどんな証拠がありますか。
6 サタンの世の不道徳は今日,クリスチャンの霊的健康にとって大きな脅威となっていると,あなたは思われませんか。この世が正しい規準を次々に投げ捨てて来たことを考えてご覧なさい。23歳の女性が15歳の少年と性関係をもった事件に判決を下すにあたって,ニュー・メキシコ州の一判事は,その行為が違法つまり法律に反するものでないことを示しました。「州議会は淫行を犯罪とすることを廃止した」,「同議会はこれを公序の問題とし,この行為が20世紀の慣習を犯すものでないことを認めた」と,同判事は書きました。この判決に同調して,ペンシルバニア州,イーストンのザ・エクスプレス紙は,「性革命は終わり,性が勝利を収めた。もはや性を,権威に逆らうためのおもな手段と考えているティーンエージャーはほとんどいない。多くのティーンエージャーにとって性行為は,日常生活のパターンの一部になってしまっているのである」と論評しました。
7 若いクリスチャンたちが毎日どれほど性の不道徳への危険にさらされるか,ある年配の人々には想像もつかないかもしれません。今日の若者の中には,10代の初めまたはそれ以前から性行為を始める者が驚くほど多く,性に関するいたずらが話題になることは少しも珍しくないのです。調査によると,アメリカでは,16歳になるまでに性行為にふけるようになった少女が,五人につき二人以上います。他のいくつかの国ではその数字はこれをさらに上回っています。タイム誌は,1万8,349名の女性を対象にしてレッドブック誌が行なった調査について,次のように伝えています。「25歳未満の女性の90%は婚前交渉があったと報告している。……ほとんどの女性 ― 89% ― が口腔交接を経験している」。
8,9 (イ)不道徳な行ないをさせようとする圧力はどれほど大きなものですか。(ロ)この圧力に屈しつつある証拠を示している人々が会衆内にいますか。
8 若い人々に不道徳な行ないをさせようとする圧力は非常に強いものがあります。ある22歳の処女は,「近ごろは,18歳になるまでに性体験をしないくらいなら尼になるほうがましだ,と考えられています。わたしの友だちはみな,高校のときから性行為を行なっています。わたしはみんなからさんざん冷やかされるので,自衛のために,自分が“いたずら”をした話をつくり上げたほどでした」と嘆かわしげに語りました。男子はおそらく不道徳を行なわせようとするもっと強い圧力を友だちから受けるでしょう。淫行にふけるのは一般に若い女性よりも若い男性のほうが多いからです。例えば,フランスのある雑誌によると,フランスでは15歳の少女のうち28%が処女でないのに対し,15歳の少年たちの場合は54%が性交渉を経験しています。
9 悲しいことに,若いクリスチャンたちの中にも,昔2万4,000人のイスラエル人が不道徳なモアブ人とミデアン人の誘惑の犠牲になったと同じように,性中心の世の圧力に屈した人が少なくないことを示す報告が寄せられています。確かにこれは,神のしもべたちを捕えるためにサタンが今なお用いているわななのです。自分の身を守って神の祝福を実際に得るには,どうすればよいでしょうか。
異性に対する振舞い
10 神は淫行をどのようにご覧になりますか。(コリント第一 5:1,9-13)
10 まずエホバの導きに対して敏感であり,神の言葉の戒めを人間から出たものと考えないことが大切です。淫行の者は神の王国の祝福を受け継ぐことができません。「淫行から逃れなさい」と聖書は命じています。「神は淫行の者や姦淫を行なう者を裁かれるからです」。(コリント第一 6:9,18。ヘブライ 13:4)人間の作った立法府で,神のおきてを変え得るものは一つもありません。人間が許容し是認しようとも,それによって悪い行ないが神の目に正しいものになるわけではありません。未婚の人々が性交渉をもつのは間違いです。それはだれがなんと言い,また何を行なおうとも,重大な罪です。「新しい地」には不道徳な人が占める場はありません。(啓示 21:1-4,8)ではこのことは,異性に対するわたしたちの振る舞いに関連して何を意味するでしょうか。例えばデートについてはどうでしょうか。
11 (イ)エホバを崇拝しない人と結婚することについて,聖書にはどのように述べられていますか。(ロ)この助言が現代にもあてはまるのはなぜですか。
11 神は結婚に関しイスラエル人に次の律法をお与えになりました。「彼らと姻戚関係を結んではなりません。あなたの娘を彼の息子に与えてはならず,彼の娘をあなたの息子のためにめとってはなりません」。同様にクリスチャンは,「主にある者とだけ」,つまり自分と同じようにエホバを崇拝する仲間とだけ結婚しなさい,と助言されています。(申命 7:3,新。コリント第一 7:39)このような要求は人を拘束しすぎると思えるかもしれません。しかし本当にそうでしょうか。今日性の不道徳が世界にはびこっていることから考えれば,その要求は,神の民が堕落したカナン人の近くで,また古代コリントの,性におぼれた住民の間で住んでいた時と同じように,実際に適切で妥当な要求です。では,別の信仰の人と結婚しないようにと諭されているのであれば,そういう人たちとデートして外出するのは当を欠いてはいないでしょうか。
12 (イ)デートとは何ですか。(ロ)エホバを崇拝しない人とデートすることがひどく賢明さを欠いた行ないであるのはなぜですか。
12 デートとは何ですか。ウエブスター新国際辞典第三版では,「なんらかの社交活動を相互に楽しむための二人の異性間の約束」と定義されています。しかし,エホバの真の崇拝者たちは,エホバを崇拝しない人々と「社交活動を……相互に楽」しむことを求めてよいでしょうか。それをした2万4,000人のイスラエル人のことを思い出してください。それにデートの目的は普通,将来配偶者となる人をよりよく知ることにあります。したがって,エホバの崇拝者は別の信仰の人と結婚しないようにという聖書の助言を考えるとき,そういう人のデートの申し込みを受けることも,またそういう人にデートを申し込むことも,賢明とは言えないでしょう。では仲間のクリスチャンとのデートについてはどうでしょうか。
13,14 決まった人とデートすることは一般にどのように考えられていますか。にもかかわらずしばしばどんな結果が生じますか。
13 若いクリスチャンたちにデートをさせようとする圧力は強いものがあります。ギャラップの青少年調査によると,アメリカの10代の少女三人のうちひとりは,決まった男友達を持っていると言いました。しかし,そういうデートは賢明ですか。どんなことが起きますか。ひとりの少女はこのように説明しています。「好きな男の子と暗いいなか道を歩いたり,自分の居間のソファーに一緒に座ったりしていると,問題が起きます。……『今度は潔白でいよう』と自分に言い聞かせるのですけれど,キスしたり,抱き合ったりしていると,しだいに男の子に愛の営みをさせずにはいられなくなってしまうのです」。
14 これは例外的な,異常な反応でしょうか。そうではありません。ごく当然の反応です。別の若者が書いているとおりです。「二人の若者が何か月も何年も,朝昼晩と顔を合わせていれば,親密な間柄にならずにいられるわけがありません。手を握ることもキスも,しばらくするともの足りなくなり,自分たちは“愛し合っている”と考えるようになります。わたしは今18歳で生後一か月の子供がいます。……そうです,わたしたちは結婚しなければならなかったのです。ですからこの問題についてはよくわかっているつもりです」。証拠はこの若者の言葉が真実であることを示しているようです。1978年6月18日付のニューヨーク・タイムズ紙は,「増えるティーンエージャーの妊娠」という見出しで次のように報じました。「毎年,10代の少女約100万人,つまり15歳から19歳までの年齢の少女10人にひとりが妊娠する。そのうち実際に子供を生むのは約60万人で,子供の誕生は,その後の母親の生活を暗いものにしてしまう場合が多い」。それは確かに重大な,そして考えさせられる事実です。
15 (イ)若い人々のデートを弁護して,ある人々はどのように論じますか。(ロ)しかし,エホバを愛する人々が悪行に巻き込まれることがあり得ますか。どんな例がありますか。
15 それでも中には,デートを弁護して,『わたしたちはクリスチャンです。淫行が悪いことは知っていますから,そのようなまねはしません』と言う人がいるかもしれません。実際,そういうことをするつもりはないでしょう。しかし,心を引かれている人とふたりだけでいるなら,性的衝動によって間違った行為に引き込まれないとは言えません。ダビデ王のことを考えてご覧なさい。彼はエホバの著名なしもべで,『神ご自身の心にかなった』人でした。彼は神の律法を知っていました。人妻であるバテシバと性関係をもつことは間違いであることを知っていました。それなのに間違いを犯したのです。なぜでしょうか。それば性的誘惑にさらされる場所に身を置いたからです。―サムエル前 13:14,新。サムエル後 11:1-4。
16 (イ)若いクリスチャンたちにとって一番良いのはどんな交わりですか。(ロ)結婚するつもりでデートする人たちはどんなことに注意する必要がありますか。
16 ですから,デートとなれば確かに注意が必要です。若い人たちが一緒に交わりを楽しめるのは良いことです。しかし一番良いのは,デートをしてふたりだけで出かけるのではなく,グループの中で交わることです。親とか会衆内の他のおとなが時々ピクニックその他の健全な集いを計画するのもよいでしょう。しかし,そのような時にクリスチャンにとって大切なことは,自分の振る舞いがいつでも自分の崇拝する神の誉れとなるように注意することです。もし結婚するつもりで正式にデートしているなら,個人的な問題を話し合うふたりだけの時間がほしいという気持ちはわかります。しかし,淫行につながる恐れのあるキスや抱擁や愛ぶなどを避けるように注意しなければなりません。性行為に追い込まれやすい人目につかない場所は避ける方が賢明です。
ディスコ音楽とディスコテック
17 (イ)ディスコテックおよびディスコ音楽とは何ですか。(ロ)それはどれほど流行していますか。
17 最近,多くの若者はディスコ音楽を聞いたりそれに合わせて踊ったりすることを楽しむようになりました。ではディスコテックに行くことについてはどうでしょうか。ディスコ音楽は非常な人気を集めており,ディスコテックは人々が好んで出かける娯楽場となっています。ディスコテック ― 略してディスコ ― とは,レコード音楽をかけて踊らせるところですが,ダンス・バンドが生演奏をすることもあります。今日のディスコ音楽は,独特のビートを繰り返す,モダン・ダンシングのためのものです。狭いダンス・フロアの小さなサパー・クラブから,ぜいたくな装飾の施された広いダンス・ホールに至るまで,様々なタイプの場所がディスコと呼ばれています。ニューヨーク市内だけでも1,500以上のディスコがあると言われています。「これらの店は,音楽と刺激の強すぎる雰囲気とが共通しているために,他の点では異なっていても,同じ部類に入れられる」と,エスクワイア誌は説明しています。
18 ディスコについてどんな質問が生じましたか。なぜですか。
18 クリスチャンがそうした場所に娯楽を求めるのはふさわしいことですか。これは多くの人から受けた質問です。例えば16歳の少女から手紙が来ています。この少女は,お姉さんがディスコに行くようになって変わってきたことを嘆いています。「私はいま,姉が永遠の命を得そこないそうな気がしてならないので,これはとても大切なことなのです。……兄弟たちにお願いしたいことは,そういうところで受ける影響やそのような場所に行くことの危険を説明した記事を出していただきたいということです。多くの人の助けになると思います」。
19-21 (イ)ディスコテックとはどんなところですか。(ロ)クリスチャンにはそういう場所を避けねばならないどんな理由がありますか。(コリント第一 15:33。ヨハネ 17:16)
19 では考えてみましょう。ほとんどのディスコの特徴であるこの『共通している強すぎる刺激』とは何でしょうか。ニューヨーク・デーリー・ニューズ紙は次のように見ています。「官能を刺激する思わせぶりな装飾,原始的なビートのきいた音楽,人々の服装と踊り方 ― ディスコテックと関係のあるものはすべてが性的である。ディスコの踊りは,体を前後に突き出したり,回したり,しなやかにくねらせたりする動作を自由にミックスしたものである。……ディスコテックでは,性を刺激するような上音と低音をただ強くし,誇張し,大きくして演奏しているだけのことである」と評しました。またエスクワイア誌は,「ライト,サウンド,動き,麻薬,見せ物,幻覚」などの氾濫を指摘し,「あらゆるものを取り入れ得る限り取り入れ,それを他のあらゆる極端と組み合わせて,最終的に人間の感覚中枢をめちゃくちゃに刺激するものを作り出すのである」と述べています。
20 もしある店が性を強調し,そこの常連が全体的に神の優れた健全な道徳規準に少しも関心を持たない人々であるなら,そこは明らかにクリスチャンにふさわしい場所ではありません。その場所が“ディスコ”として知られていようと,別の名前で知られていようと同じことです。サタンの世はわたしたちをその型にはめ込もうとしてあらゆる手を使っていることを忘れないようにしましょう。ですから,わたしたちをわなにかけるための偽えさとしてサタンは誘惑的な娯楽を利用するものと見なければならないのです。イスラエル人が誘い込まれたものは,最初のうちは無害な娯楽を一緒に楽しむことのように見えたかもしれませんが,それでも2万4,000人が約束の地で生活する機会を失ったことを思い出してください。わたしたちはそのようになりたくないと思いませんか。そうであれば世の圧力に抵抗しなければなりません。自分をこの事物の体制に合わせないように戦う必要があります。欺かれてはなりません。道徳上の問題 ― 排斥することが必要になる問題であることもある ― を起こす人は,多くの場合,ディスコまたは他のいかがわしい娯楽場に出入りしていた人です。
21 ディスコというディスコが性的刺激を「強くし,誇張し,大きくしている」わけでないことは事実です。例えばあるレストランは“ディスコ”として宣伝されているかもしれませんが,音楽や踊りはほかの店に比べて極端ではないかもしれません。そしてそういう“極端でない”店にも行くべきではないと他の人々に言うことはエホバの証人の統治体や地元の長老たちのあずかるところではないでしょう。しかし,非常な注意が必要であることは確かです。ディスコが道徳的慎みをすべてかなぐり捨てたという評判は事実なのです。ディスコ音楽もそれに含まれます。その傾向を指摘して,歌手兼作詩作曲家のジョニー・ブリストルは,「今日,音楽が働きかける対象は性である」と言いました。まだかなりよい映画がいくらかあるように,ディスコ音楽の中にも,道徳的な堕落を招く恐れのないものもいくらかあることでしょう。しかしその傾向のあることは間違いのないところです。世が提供する娯楽は質が低下しており,淫行は必ずしも悪いことではないという見方をそれとなく持たせるように仕組まれているのです。しかし,淫行は悪いことです。そして神は「淫行の者」に不利な『裁き』を下されるのです。―ヘブライ 13:4。
22,23 自分はディスコテックに行っても霊的に害を受けないと考えても,円熟したクリスチャンはなぜそういう場所を避けるべきですか。
22 以上述べて来たことは,子供であれおとなであれ,あなたから楽しみを奪うのが目的であるなどと思わないでください。そのような考えは毛頭ありません。わたしたちはあなたが幸福であることを望んでおり,健全な生活を存分に ― 永遠に楽しまれることを願っています。しかしサタンは,遠い昔の時と同じように,エホバの不興をもたらす活動にあなたを誘惑するもの,つまり娯楽をもっています。その落とし穴に落ちないようにし,また他の人たちがそれに落ち込まないように助けてください。たとえ自分はあるディスコに行っても道徳的な害は受けないと考えようと,あなたがそこへ行くことが他のクリスチャンたちに影響を及ぼす可能性のあることを考えてください。あなたが行くのを見たために,潜在する危険への警戒を解き,悪行に巻き込まれるクリスチャンがいるかもしれません。使徒パウロは,それ自体は必ずしも悪くはない事柄でも,クリスチャンの兄弟たちの霊的健康を保護するためなら進んで断念する心構えをもっていました。「食物がわたしの兄弟をつまずかせるなら,わたしは二度と肉を食べません。わたしの兄弟をつまずかせないためです」とさえ言いました。もしパウロが現在わたしたちと一緒にいるとしたら,彼がディスコに行ってくつろいでいるところなどを想像できますか。―コリント第一 8:13。
23 ではわたしたちは一つに結合したクリスチャン団体として共に励み,エホバの恵みと義の新秩序における命をひとり残らず享受できるように,世の圧力に抵抗しましょう。
[25ページの図版]
良い仲間は常に身を慎む助けになり,神の誉れとなる
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夫なしで息子を育てるものみの塔 1979 | 7月15日
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夫なしで息子を育てる
夫の助けなしに子供を育てねばならないという問題に直面しておられますか。そうした重い責任を担うことはとてもできないと感じておられますか。私自身こうした状態に置かれていました。
私は自分の経験から,子供が成長するにつれ様々な問題や失意に直面することを知っていたので,子供たちにこうした事柄に立ち向かう準備をさせようと決意しました。
激動と混乱の子供時代
第二次大戦の始まる数年前,私はオーストリアで生まれました。1945年に私たちの国を襲った無意味な流血で最後まで苦しんだときのことを今だにはっきり記憶しています。戦争に疲れ果て,飢えと渇きで死寸前の状態だったドイツ人兵士たちは,捕虜として連行され,その列は
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