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  • 定めない人生にどう対応しますか
    目ざめよ! 1977 | 1月22日
    • 多くの精錬された金よりも望まれるものであり,密また,はちの巣から流れる密よりも甘い。また,あなたご自身のしもべはそれにより警告を受けました。それを守ることには大きな報いがあります」― 詩 19:9-11,新。

      人が『真の神を恐れ,そのおきてを守る』ことから来る益は,死んでもなくなることはありません。なぜでしょうか。なぜなら,神は死者を復活させることを意図しておられるからです。聖書は真の神について,「死人を生かし,無い物を有るかのごとくに呼ばれる」神,と述べています。―ローマ 4:17。

      そういうわけで,創造者と良い関係を築くことに自分の時間を用いる人は,たとえ定めない人生ではあっても,それを最も良く用いていることになります。あなたの努力はそのためのものですか。現在と将来において,人生から最も良いものを得るために,聖書から助けを得ていますか。

  • 若い人たちは知りたがっている
    目ざめよ! 1977 | 1月22日
    • 若い人たちは知りたがっている

      ほとんどの国で,宗教上の形式的な習慣がしだいに衰えています。教会出席者数は減少しています。若い人ばかりか老齢の人々の中にも,伝統的な崇拝方式を退ける人が増えています。それと同時に,神への信仰を捨てる人の数も増加しています。

      もちろん,共産主義者の社会は,宗教を『人民のアヘン』と考えて,幾十年にもわたり宗教を攻撃してきました。それらの国では無神論が支持され助長されています。しかし,キリスト教世界の真ん中でも,無神論的な考えや不可知論的な考えが勢いを増しています。

      問題の一部は,この世の諸宗教の,道理に合わない信条や害を及ぼす活動が,幾世紀もの間嘲笑されてきたことにあります。したがって,多くの思慮深い人々が,教会や他の非キリスト教宗教の儀式や形式主義的なやり方を無用と考えるのは,少しも不思議ではありません。

      その一つの例が,ハンブルクで発行されている西独の雑誌「シュテルン」の中で指摘されています。同誌は「聖母マリアを売る」という題の否定的な記事を掲載しました。記事の内容は,ババリア地方にある霊場で,アルテーティングという村に関するものでした。その号は100万部も売れました。

      ババリア州教育文化局は,宗教儀式に対するそうした反対に注目し,次のように述べました。「彼らは宗教を悪く思わせることに,そして敬神の念や祈り,崇拝などをはぎ取って信者たちに道化者の刻印を押すことに,成功している」。

      若い人々は関心を持つか

      ババリア州当局は,1975年12月に発行した「学校と私たち」という出版物の中でも,次のように述べていました。「敬神の念が愚ろうされ,十戒がつまらぬもののように扱われるのを,我々は毎日のように読み,聞き,また目で見ている。このところ神とキリスト教が多くの人にとって無意味な言葉,無意味な語,生活の中の空虚な部分,となっているのも当然である。多くの家族が宗教論議を極力避けているのであるから,宗教が学校の教科として人気がないのは無理のない話ではないか」。

      確かに,おとなが宗教を捨てるか,または名前だけの信者にとどまるなら,その子供たちが影響を受けることは必至です。現在では子供たちも親と同様,いや親以上に,形式主義的な宗教を重んじていない場合が少なくありません。

      では,それは若い人々が,神の存在,人生の意義,または死後どうなるか,などと関連のある種々の問題に全く関心がないからでしょうか。事実はその逆で,多くの場合,おとなよりも若い人のほうがそうした問題の論議に積極的です。

      しかし,ますます多くの若者が受け入れなくなっているのは,形式主義的な宗教です。彼らはそれに有用性を見いだすことができないのです。彼らはまたこの世の諸宗教の悪い行ないを見てきました。教会の政治への介入,戦争支持,偽善と不条理な教理,多くの僧職者や他の宗教人の不道徳とぜいたくな暮らし,などがそれです。こうしたことが皆,形式主義的な宗教に関して若い人々にそっぽを向かせたのです。

      実状を明示した調査

      ミュンヘンに住むウェルナー・プラウジクという名の若い科学者は,神と関係のある事柄に若い人々が関心を持っているかどうか,調べてみることにしました。彼はミュンヘンの学校の9年生,男女合わせて2,000人の生徒のうち800人に質問を行ないました。

      その結果を見て,多くの人は彼らの考え方を見直しました。神に関する事柄におとなが関心を持たないから,若い人たちも同じように無関心だろう,と多くの人は考えていましたが,その予想は完全にはずれました。

      ミュンヘンに住むそれら若い人々の大半が,神を無視した環境の中にいることは,その科学者の調査によって確かに分かりました。その一つの例として,父親が宗教を真剣に考えている,と答えた生徒は全体のわずか16%,母親が宗教をまじめに考えていると報告したのは,わずか24%でした。生徒の3分の2は,子供が宗教教育を受けようが受けまいがかまわないほど両親は宗教に無関心である,と答えました。

      また,父親の83%,母親の74%が,ほとんど教会に行かないことも指摘されました。この点では,子供たちも両親の習慣を反映していましたが,それは予想されていたことでした。子供たちは親の崇拝方式に見倣うのが普通です。

      しかし,多くの人が予期していなかったのは,その科学者の調査のもう一つの面でした。「学校と私たち」という出版物は,そのことをこのように述べています。

      「だれもが予想していなかった結果が出た。家族に敬神の念がなくなったと言われている,宗教に無関心な環境の中で,若者たちは,この点ではおとなの像でないものに成長しつつある。都市に住む若い人々はこう答えた。

      「『わたしは神の存在に関する問題をよく考える』(59%)。

      「『人生の意義について考えることが多い』(64%)。

      「『死後どうなるかを知ることに関心がある』(57%)」。

      報告にはさらにこうつけ加えられています。「多くの若い人々は,このような反宗教的な風潮の中に住み,忠実なクリスチャンとは正反対の親を持っているが,それでも,人間はどこから来てどこへ行くのか,人生の意義は何か,といった大きな宗教的疑問で彼らの頭はいっぱいなのである」。

      宗教に関する事柄は重要でない,あるいは人気のある主題でないと考える,と言った生徒は4分の1に過ぎませんでした。ジュッセルドルフ市で学校の生徒を対象に行なわれた世論調査の場合も,これらの質問に関して大体同じような結果が出ました。

      若い人々が生まれつき持っている好奇心

      ババリア州教育文化局は,次のような結論に達しました。「フットボール,テレビ,オートバイ ― これらは重要なもので,15歳の少年たちの世界はこれらを中心として回っている,と考える人はすべての事を見ていないし,十分に深く見てもいない。ミュンヘン市内に住む子供たちに関して行なわれた調査はこの点をはっきり示している。恐れ,恩ちょう,罪,希望,悲しみ,信頼,感謝,許しといった,宗教教育の大きな,そして永久的なテーマは依然として必要であり,求められているのである」。

      若い人たちは神や神に関係のある事柄を信じたがらない,と考えるのは間違いです。実は彼らは,親や僧職者たちの教える事や教えない事,また彼らが日常生活において示す手本によって,神を信じない方向に導かれているのです。『親が憶せずに家族と宗教を論ずる』ことを,ババリア州当局が勧めた理由はそこにありました。

      ですから,神に関する事柄への関心が若い人々の間になくなっていないことは明白です。そういう関心は本来彼らに備わっているもののように思われます。若い人々は自然の傾向として命に興味を持ち,それについてまじめな質問をし,答えを知ろうとします。しかし答えが得られないか,または,この世の相いれない諸宗教がしばしば提出するようなゆがんだ答えを得るなら,自分の創造者を崇拝しようとするその自然の傾向は抑えられてしまうかもしれません。良心がこうした事柄に対して無感覚になる恐れがあります。

      親には,そしてまた宗教教育を施す人とされている人々には,なんと重大な責任があるのでしょう。しかし親がその責任を僧職者たちに全面的にゆだねようとするのは間違いです。僧職者たちが何をしようと,子供に神のことを教える第一の責任を与えられているのは親です。神の言葉である聖書は次のように述べています。「父たちよ,あなたの子供をいらだたせることなく,エホバの懲らしめと精神の規整とをもって育ててゆきなさい」― エフェソス 6:4。

      その教えに,神に関する重要な事柄を含めなければならないことは,聖書の申命記 6章5-7節(新)に記述されている同様の指示からして明らかです。「あなたは心を尽くし,魂を尽くし,活力を尽くして,あなたの神エホバを愛さなければなりません。そして,わたしが今日あなたに命じるこれらの言葉はあなたの心にあらねばならず,あなたはこれを自分の息子に教え込み,家で座る時も,道を歩く時も寝る時も,起きる時もこれについて話さねばなりません」。このようにすれば,子供の生来の好奇心は満足するでしょう。

      しかし教会は,この種の教育を家庭で行なう備えを親にさせてきたでしょうか。親が「憶病」になり,家庭で宗教を論ずるのをいやがるようになった第一の原因は,教会がそれをしなかったからです。一般に人々は,自分の無能さがばれてしまうような事柄についての討論は好まないものです。

      このように家庭で教える能力がないことについての責めはだれにあるのでしょうか。それは二つの分野にあります。一部は親自身にあります。親はそのような導きがどこで得られるかを知ることに努めるべきであるからです。他の一部は,親やおとなや若い人々を正しく訓練しない教会の制度とその僧職者にあります。

      成功する教え方

      神に関する事柄を正しく教えられるなら,子供たちは満足のいく反応を示します。そういう結果になる,と述べているのは神の言葉です。箴言 22章6節(口)には,「子をその行くべき道に従って教えよ,そうすれば年老いても,それを離れることがない」とあります。

      この訓練は家庭で始めなければなりません。親は神についての真理を子供に教える必要があります。また神のお定めになった原則と調和した生活を送る必要があります。

      第一世紀のクリスチャンたちはこのようにして確かに子供たちを訓練しました。子供たちは,神と神の目的についての真理を知っただけでなく,成人して自分の家族を持ったときに自分の子供を教える備えも身につけていました。

      使徒パウロは青年テモテに次のように書き送っています。「幼い時から聖なる書物に親しんできたことを知っているのです。その聖なる書物はあなたを賢くし,キリスト・イエスに関する信仰によって救いに至らせることができます。聖書全体は神の霊感を受けたものであり,教え,戒め,物事を正し,義にそって訓育するのに有益です。それは,神の人が十分な能力をそなえ,あらゆる良い

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