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霊的な必要を満たされることから得る喜びものみの塔 1976 | 8月15日
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勢力に悩まされていましたが,それからの解放を経験しています。
これは九歳のひとりの少女に起きたことです。ある日のことおばを訪れた少女は,こうこつ状態になっている千里眼の人の前に連れて来られました。その結果,少女は麻ひにおそわれました。目は見開かれて生気を失い,顔面はひどくそう白になりました。その時から少女は幻を見たり,声を聞いたりするようになり,明らかないやしを行ない,人々の死を予告できました。眠れない夜を過ごしては彼女は非常に心を乱し,恐れのためによく叫びました。またつかみ合いでもしたかのように汗びっしょりになりました。彼女の胸には十字架の形が現われました。彼女の胸は切り開かれたかのように見えました。
両親は少女の身に起きている事に大変心を痛めました。牧師も全く助けにならず,その一人は少女が“霊的清浄”への道をたどっている可能性があるとさえ,ほのめかしました。しかし子供は非常な苦しみを味わっており,少しも幸福ではありませんでした。彼女は他のすべての少女と同じように遊んだり,跳んだりはねたりすることを切望したのです。
父親は絶望のどん底にあったその時にエホバの証人に接し,娘のことを話しました。すると娘の身に起きている事柄は神のご意志ではないことを,聖書から示されました。家族そろっての聖書研究が始まりました。エホバのことばが偶像を非としていることを悟った時,彼らは偽りの崇拝と関係のあるものを一切,家の中から除きました。聖書の勉強に進歩するにつれて少女は元気を取りもどし始め,間もなく“声”を聞くことも幻を見ることもなくなりました。胸の十字架も消えました。彼女は生きる喜びを取りもどし,家族一同,エホバ神の過分のご親切に喜びました。間もなく彼らは,あわれみの神エホバへの献身を象徴するバプテスマを受け,自分たちの感謝を表わしました。
宗教家を職とする人々
宗教家を職とする人々でも霊的な必要が実際に満たされていないことを示す証拠は,注目に値します。イタリアの雑誌や新聞に相変わらず報道されているところによれば,僧職を志す若い人々が少ないために,閉鎖されたり,ほとんど学生のいなかったりする神学校はますます増えています。また司祭,修道女,修道士で修道会をやめて他の職につく人も増える一方です。そして意外なことにエホバの証人の中にも,以前,修道女,修道士,司祭であった人が多くなっています。これらの人々は霊的な必要にどのように気づきましたか。
ある修道士は僧院の入口に腰をおろしていた時,そこへやって来た一人の婦人から,彼女の家にエホバの証人が来て「ものみの塔」と「目ざめよ!」の両誌を置いていったことを聞きました。彼はその雑誌を彼に渡してはどうかと言いました。その2冊の雑誌を読んで汚されないようにとの考えからです。しかしこの修道士は後で雑誌を読み,福音書にはイエスに異父兄弟のあったことが記されていることを知って大そう驚きました。それで早速,図書館に行き,ようやく聖書を見つけました。雑誌に出ていた聖句を聖書から読んで,彼は雑誌に載せられている事柄が真理であることを確信しました。
彼は知った事柄を自分にできる範囲で他の修道士たちに話し始めたのです。そのために彼は叱責されて他の僧院に移され,おまけに精神異常者にされて病院に連れて行かれました。退院を許されると彼はすぐ家に帰り,自分が修道院を出た訳を家族に説明しました。家の者は彼のことを大変怒りましたが,彼は勇気を失いませんでした。そしてエホバの証人を見つけて聖書を勉強し始めたのです。
かつて修道士であったこの人は,もうすでに何年かの間,聖書の真理を他の人々に宣明しており,そうする事に大きな喜びを見いだしています。
別の適切な例は,十七年間,教区牧師を務めていた一人の人の場合です。彼は教会の戒律を守ることに非常にきちょうめんでした。しかしその教えのあるものは彼の心を苦しめました。彼は愛の神が,みずから造られた理知ある人間を永却の火の責め苦に遭わせることなど,どうしてあり得るのか理解できませんでした。後に彼は聖書研究の手引き「とこしえの命に導く真理」また他にもものみの塔の出版物を読む機会を得ました。
何か月間か思案した末,彼は教区牧師の地位を捨てて世俗の仕事を捜すことを決意しました。彼はその土地のエホバの証人の会衆と定期的に交わり始め,遂に水のバプテスマによってエホバ神への献身を表わすまでになりました。そして今では以前の教区民のある人々と聖書研究を司会して大きな喜びを見いだしています。
小さな始まり
現代におけるエホバの証人の聖書教育のわざは,初め非常に小さなものでした。イタリアも例外ではありません。1946年当時,聖書の音信を隣人に広めていたのは120人に過ぎませんでした。1950年までにその人数は1,211人にまで増加しました。25年後の1975年には5万6,264人が忙しく働いており,聖書を学ぶことを人々に勧めていました。
さらに大ぜいの人々が,王国会館におけるエホバの証人の集会に出席しています。その会衆と交わる証人の二倍の人が出席していることも珍しくありません。例えば,1975年4月7日の主の夕食の記念には,イタリア各地の会衆に12万31人の人が集まりました。
イタリアにおけると同様,他のどこにおいても社会のあらゆる階層の人々がエホバのクリスチャン証人と聖書を学び,その集会に出席して大きな益を得てきました。自分自身の霊的な必要がひとたび満たされると,人々は学び知った事柄を他の人に熱心に分かちます。この事は聖書の次のことば通り彼らの喜びを増し加えます。「受けるより与えるほうが幸福である」― 使徒 20:35。
あなたも霊的な必要を満たされることから得る喜びを望まれるならば,あなたの家あるいはご都合の良い他の場所で無料の聖書研究を司会するようにエホバの証人を招いてはいかがですか。霊的に養うための定期的なプログラムがいかにあなたの生活を豊かにし,はかり知れない喜びをあなたに与えるかをご自身で経験してください。
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「怪しんではならない」ものみの塔 1976 | 8月15日
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「怪しんではならない」
● この世の中に圧制が多く見られるということに驚き怪しまれますか。そのような圧制は,少しも新しいことではありません。古代の明敏な観察者はこう書きました。「あなたは国のうちに貧しい者をしえたげ,公道と正義を曲げることのあるのを見ても,その事を怪しんではならない。それは位の高い人よりも,さらに高い者があって,その人をうかがうからである。そしてそれらよりもなお高い者がある」。(伝道 5:8,口)下級官吏は,上級官吏に監視されており,さらに上級官吏もそれより大きな権威を持つ者に監視されています。いわば底辺にいる,身分の低い人々は,圧力をまともに受けます。そうした圧力は,自分に従う人々を利用して,自らの益を計ろうとする人々によってもたらされます。
とはいえ,無情な人々が何のとがめも受けないで成功するという意味ではありません。そうした人々は,結局,至高の主権者エホバ神に対し,自らの行動について申し開きをしなければならなくなります。聖書はこう述べています。「復しゅうはわたしのもの,わたしが返報する,とエホバは言われる」― ローマ 12:19。
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