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責任を受けることにより自分自身を吟味しつづけなさいものみの塔 1962 | 7月1日
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26 献身した奉仕者全部には,どんないましめが与えられていますか。
26 もしあなたが神の献身した僕なら,自分の役割を良く果たしなさい! あなたの責任を負いなさい! 心をこめて働きなさい。「人にではなく,エホバに仕えるように心をこめて働きなさい」。(コロサイ 3:23,新世)清い崇拝を拡大することをよろこびなさい。神の言葉と神の制度にしっかりつき従いなさい。使徒パウロのとった道と同じ道をとるようにしなさい。彼は兄弟たちに,「わたしがキリストにならう者であるように,あなたがたもわたしにならう者になりなさい」と告げました。―コリント前 11:1,新口。
27 責任を受け入れて,それをになう時の報いは何ですか。
27 各人が自分の責任を受け入れると,一致した崇拝者たちの制度は強い効果的なものになり,善意者をそのみちびきにより生命の道を正しく歩くことができます。自分の責任を受け入れて,その責任を負う者は,自分が神の御心を行なっていること,「神の同労者」であることを知る特別なよろこびを持ちます。また,わざを良く行なったことに対するむくいが永続的なものであることに満足感とよろこび,確信と信仰を得ます。それはパウロの次の言葉からも良く示されます,「わたしは戦いをりっぱに戦いぬき,走るべき行程を走りつくし,信仰を守りとおした。今や,義の冠がわたしを待っているばかりである。かの日には,公平な審判者である主が,それを授けて下さるであろう。わたしばかりではなく,主の出現を心から待ち望んでいたすべての人にも授けて下さるであろう」。―コリント前 3:6-9。テモテ後 4:7,8,新口。
28 すべての人は,どんな質問に答えるべきですか。責任を受け入れたことに対して,どんな幸福な結論が得られますか。
28 あなたは大きな奉仕に答え応じますか。あなたは責任を受け入れますか。あなたは神からゆだねられた奉仕を第一とする生活をしますか。あなただけがそれらの質問に答えることができます。仕事はたくさんありますが,働き人はいまでもごくわずかです。自分に与えられている機会からまたあなたの責任から引き下がって,「別の人にさせよう」と言ってはなりません。もしあなたに責任を受け入れる資格があるなら,真心こめて答え応じなさい。もし自分が不適任と感ずるなら,神の御言葉,神の御霊および神の制度の助けを受けて,霊的に自らを建ておこしなさい。責任を受け入れることによって,あなたがどんな者であるかを証明しなさい。そして,エホバに誉を帰すると共にあなた自身の永遠の福祉をはかりなさい。そのとき,あなたには神の新しい正義の世における生命という報いが与えられるでしょう。
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なぜ牧師が不足するかものみの塔 1962 | 7月1日
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なぜ牧師が不足するか
第二世界大戦の直後,アメリカにおける宗教の復興は目ざましいものでした。新しい教会がどんどん建てられ,牧師の俸給もあがって行きました。ところが今ではこの楽観的な空気が無くなって,事態を再検討することが真剣に望まれています。
「宗教の復興」が大きく叫ばれても,実質がそれに伴わなかったことは,牧師も認めているほどで,そのすべては数字の上の話であり,霊的なものの裏づけには欠けていたのです。教会員の数はたしかにふえましたが,霊的な働き人はいません。
この証拠としてあげられているのは,現代宗教の大きな矛盾すなわち教会員の数の増加にもかかわらず,神学校に入学する人の数が減少していることです。教会にくる人の数は今までにないほど増加しているのに,宗教の第一線に立つ人は欠乏していることが強調されています。次の報告は問題の深刻さを示すものでしょう。「イタリアにおいて聖職につく人の数は,驚くほど減少してきた」と,1961年4月28日号のタイム誌は報じていました。イタリアにおいて聖職者と一般信徒との割合は,かつてないほど最小になり,1008人に1人となっています。これをアイルランドの75人に1人とくらべてごらんなさい。ボローニャでは81の教区に牧師がおらず,サレノでは160の教区のうち,60が空席になっています。シシリーを除く南イタリアには1世紀前に8万人の牧師がいたのに,今では1万人に過ぎません。
ローマ・カトリックの牧師ロジャー・ベクマンズによれば,「ラテンアメリカではあと二十万人の牧師」が必要です。ピザート枢機官は,全世界のカトリック教会の必要をみたすためには,毎年少なくとも1万人の新しい牧師を任命しなければならないと,述べています。しかし1959年には5475人が任命されたに過ぎません。これは必要な数の約半分です。
ローマ・カトリック教会の直面している別の問題は,牧師が教会をやめることです。バチカン当局者の言葉によると,イタリアとフランスの牧師が教会をやめる問題は「憂慮」されていると報ぜられました。カトリック当局はその数を明らかにしていませんが,ある新教の消息筋によれば過去15年間にイタリアでは5000人,フランスでは1000人の牧師が教会をやめたということです。それは1959年に任命された牧師の数を上回っています。
イタリアのジェノアでは,過去20年間に神学生の数が40パーセント減少しました。神学生の80パーセントは12年の課程を終えないうちに脱落します。チューリンの神学校では空席が3分の2もあると言われています。また,修道女も不足しています。このような数字は問題の全容を示すものではありませんが,カトリック教会における牧師の不足を物語っています。
新教の教会でも不足
新教の教会においても,この問題は変わりません。1961年4月,ニューヨーク・タイムスに出た調査報告によると,アメリカの神学校にはいる人の数は,1960年に5.3パーセントの減少を見ました。神学生の数は1959年の2万365人にくらべ,1125人の減少でした。カナダの連合教会も同じ問題に直面しています。ユナイテッド・チャーチ・オブザーバーの編集者のフォレスト博士は,「我々は危機に面している。われわれは毎年少なくとも二百人の新しい牧師を必要としている」と語りました。しかし問題は,それらの人をどこで得るかということです。ウィニペッグでは30年前とくらべて,牧師の数がへっています。有力な神学校では,1957年までに北アメリカの新教の教会が5万人の牧師の不足を来たすものと推測しています。間もなくしてキリスト教国の何百万人の人が牧師の導きを受けられなくなることは,明白です。
不足の背後にあるもの
牧師の不足の背後にあるものは何ですか。なぜもっと多くの青年男女は,宣教を職としないのですか。また多くの牧師が教会をやめて,社会事業,官界,実業界に職を求めるのはなぜですか。その人々はなぜ教会員を他の人に任せてしまうのですか。エール神学校の牧会神学教授ウエズレイ・シュレイダーの意見によれば,今日の牧師は仕事が多過ぎるうえに薄給なのです。ハーバード神学校の学長サムエル・ミラー博士は薄給で仕事の多い牧師を評して「今日の悲劇」と語っています。牧師の多くが情緒的にまいっていることも,原因にあげられます。
しかし宗教権威者の中には,物質主義をその原因と見ている人もあります。若い人々は牧師の職を「骨折り仕事」と呼び,もっと収入の多い,世間からもっと高く評価される仕事を好みます。セールスマンや守衛のほうが牧師の働く時間の半分で倍以上の収入を得るとも言われているほどです。「残念なことに,牧師の経済的状態は一世代前よりも悪くなっている」と,ある報告は述べています。ある地方では特にそうです。
イタリアにおける牧師の減少は,牧師の経済の窮乏のためではなく,イタリアの繁栄のためであるとも見られています。ジェノア主教管区のドン・ルイギ・ノリは次のように語りました。「今日の若い人々は生き方を知っていると考えている。十八歳にならないうちに一万リラの月収を期待している。彼らを説得して牧師にならせることは出来ないだろう」。バーナード・ドネッチー
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