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    ものみの塔 1971 | 6月15日
    • あなたの心はどうですか

      「守られるべき他のすべてのもの以上に,あなたの心を守りなさい。命の源がそこに発しているからである」― 箴言 4:23,新。

      1 人間の心臓についてどんな驚くべき,また厳粛な事実が知られていますか。

      人間の心臓は大きさから言うと,こぶしぐらいのものです。しかし,真に動力を発生させる所と言えます。考えてみてください。あなたの心臓は,あなたのからだの中を網の目のように巡っている9万6,000キロ余に及ぶ動脈・静脈・毛細血管に,5ないし6リットルの血液を数分ごとに送り込み,体内にある幾兆もの各細胞を貴重な生命の液体で浸します。あなたは母の胎を出る前から,昼夜休みなく拍動するこの複雑な構造の器官に全く依存してきました。もしその拍動が数分以上やむと,あなたのからだの細胞は死にはじめます。血液中の不可欠な酸素や他の栄養素が絶たれ,微弱な脳細胞がまず死滅しはじめ,死が迫ってきます。

      2,3 (イ)医学の進歩にもかかわらず,何が引き続き死の主因となっていますか。(ロ)心臓を守るために身体的な面ではどんなことができますか。

      2 人の平均寿命である約70年の間,そうした膨大な仕事をするからには,心臓は当然強健であるに違いありません。そのとおりではありますが,心臓はその人の生き方や考え方に大きく影響されます。現代の世界のもたらす緊張や生活様式は,心臓にとって過酷な重荷となっています。心臓には障害が起こりえますし,医学の研究が進み,心臓移植,人工心臓などの装置,また心臓-導管療法の分野における技術が誕生したとは言え,心臓が正常な機能を果たさなくなった場合に医師のなしうることは,今でも比較的限られています。心臓の疾患は依然として死因中の第1位を占め,しかも2番目の死因との間には大きな差があります。

      3 しかしながら,心臓を守るために個人のなしうることはたくさんある,と医師は語ります。もっとも,それは障害の起こりはじめる前になされねばなりません。不適当な食事,喫煙,暴飲,不安,長期にわたる緊張状態,感情の激発,休養と運動の不足などは,すべてこのたいせつな器官に有害な影響を及ぼし,死を早めるか,さもなくば一生病弱な人を作り出してしまいます。聖書は賢明にもこう助言しています。「心の安穏なるは身のいのちなり,ねたみは骨の腐なり」― 箴言 14:30。伝道 2:23。

      4 心臓を身体的な面から守ることはたいせつですが,それよりはるかに重要なのはなんですか。その理由は。

      4 命がそれほどにまで依存しているこの小さな器官について語るのは重大なことです。それは一つしかなく,その器官がだめになると,もうひとりの人がまさしく死の犠牲になってしまいます。こうした厳粛な事実を読むと,心臓の鼓動が少し速くなるような気さえして,一抹の不安があなたの胸をかすめることでしょう。しかし,平均寿命を生きるため,身体的な観点から心臓を保護することが緊急を要するとは言え,現在非常に間近に迫っている神の新秩序に住むのを望むなら,心を守ることは,それが動機の面でまた欲望と愛情を生じさせる面で重大な役割を演じているゆえに,よりいっそう緊急を要します。このため聖書は次のように警告しています。「守られるべき他のすべてのもの以上に,あなたの心を守りなさい。命の源がそこに発しているからである」。わたしたちが心をどのようにつちかい,かつ保護するか,また心がどのようにわたしたちを動機づけるかは,「心の評価をしておられる」かたにとって決定的な要素であり,それはわたしたちが神の作られる正義の新しい事物の体制に住むか,あるいは,心が霊的に正常な機能を果たさなくなったために無窮の死に至るかを決定するものとなります。―箴言 4:23; 21:2; 24:12,新。

      心の奥深くをのぞく

      5 “心”は思いの一部ですか。説明しなさい。

      5 心とはどこにあり,いったいなんですか。どの心のことを言っているのか,と尋ねるかたがおられるかもしれません。あなたは自分の胸の中に心臓が,つまりからだ全体に血液を送り出し,各細胞すべてに生命の流れを供給する心臓があるのをご存じのはずです。しかし,あなたの頭の中には“心”,別の“比喩的な心臓”があるのですか。それは脳の一部ですか,それともわたしたちが“思い”と呼ぶところの,脳の抽象的な能力のことですか。いいえ。思いの宿る脳と,胸郭の内部にあって動機付けの力を持つ心臓とは別物です。

      6 聖書は“心”ということばをどのように用いていますか。

      6 聖書の中で“心”ということばは,わずかな例外を除けば,人の欲望・感情・愛情の発生する所,動機付けの能力を包含するに至る所としての,人間の心臓の働きに限って用いられています。聖書は象徴的な思いについて述べていないのと全く同様,生理的な意味のあるいは文字どおりの心臓と対照区別して,象徴的また霊的な心臓については述べていません。したがって,今日の正統的な生理学におけるように,文字どおりの心臓を単に生理的ポンプとする誤った見方をしないようにしたいものです。たいていの精神科医や心理学者は,思いということばを極端に類別し,生理的な心臓からの影響をほとんど認めない傾向を持っており,“心”(心臓)ということばについては,血液を送り出す器官をさして用いるほかには単に比喩的な表現とみなします。

      7,8 (イ)個人の心と思いとの相互作用を説明しなさい。(ロ)心は性格に対してどんな影響を持っていますか。

      7 しかし,心臓は神経系によって脳と複雑に連結しており,知覚神経の末端が十分に備わっています。心臓の知覚は脳に記録されます。心臓がその欲望と愛情とをもって思いに影響を及ばし,動機付けにかかわる結論が導き出されるのはこの時点においてです。思いは,感覚から伝達された衝動の判断と,その時あるいは記憶から受け取った知識を基にして到達した結論を,逆に心臓に送り込みます。心と思いとの間には密接な相互関係が存在していますが,その機能も,その中心位置もそれぞれ異なっています。心臓は驚くべき構造を持った筋肉のポンプですが,もっと重要なことに,わたしたちの感情的および動機付けの能力がその中に組み込まれているのです。愛,憎しみ,欲望(良いものと悪いもの),あるものを他のものより好むこと,野望,恐れ,つまりわたしたちの愛情や欲望との関係で,わたしたちを動機付けるのに資するすべてのものは心から発しています。

      8 聖書は心と思いとの間に明確な区別を設けています。イエスは,わたしたちがわたしたちの「思い全体」ばかりか,わたしたちの「心全体」をもってエホバを愛さねばならないと話した際,同様な区別を設けられました。(マタイ 22:37,新)心においてわたしたちがどんなものであるかが,多分に性格の面でわたしたちがどんなものであるかを決定します。使徒ペテロはこの点に関して,『神の目にきわめて尊い,もの静かで,柔和な霊という朽ちない装いをした,心のうちの隠れた人』について語っています。―ペテロ前 3:4,新。

      9 一部の科学者たちは,心臓についてそれが血液を送り出す一種のポンプであること以外に何を信じていますか。

      9 わたしたちの胸の中にある臓器,ヘブル語でレイブさらにレイバーブ,またギリシア語でカルディア(英語の“カーディアク《心臓の》”という語はここから来た)と呼ばれる心臓について,重要な点をいくつか考慮してみましょう。一部の医学者や精神科医の信ずるところによると,心臓は血液を送り出す以上の相当な働きをしています。ニューヨークの神経科専門医で精神科医のD・E・シュナイダー博士は,胎芽が育成されてゆく間,心臓と脳は同じ所から発生し,心臓は一部神経組織であり,加えて,この研究によると,脳をも含め,からだに調節の効果を及ぼす強力な特殊化学物質を製造,貯蔵する能力を有する,と指摘しています。彼の結論は,「思いと心との間に相互的な関係の存する証拠」があり,思いが心に対して影響を持つと同様,「心臓[そうです,あなたの胸の中にあるその臓器]が思いに強力に影響しうる」と述べています。他の研究者たちの中にも幾分同様な結論に到達している人がいます。

      10 何が心臓移植患者に深刻な精神病的行動を起こさせる原因であると考えられますか。

      10 心臓を移植され,心臓と脳とを連結していた神経を切断された患者が,手術後に感情面で深刻な問題を経験するのは意義深いことです。新しい心臓は引き続きポンプとして作用し,心臓の筋肉に衝動を与える全神経組織とは独立に固有の動力源と時間測定装置を持っていますが,今や外部からの影響に緩慢にしか反応しないのと全く同様,新しい心臓は今度は動機付けの明確な要因をほとんど脳に指示しません。からだの神経の末端と新しい心臓とが,時の経過とともにどの程度連結するかは明らかではありませんが,この点が心臓移植患者に観察されると医師が報告している,深刻な精神の異常や混乱を引き起こすいくつかの要因の一つであるという可能性は無視できません。それらの患者は提供者から得た血液用ポンプを持っているわけですが,手術後,“心”を持っていると言うに必要な全要因が彼らにそろっているでしょうか。一つ確かな点は,自分の心臓を失うことにより,何年にもわたってその中に築き上げられてきた“心”の能力,すなわち個性の面でその人をその人たらしめるのに資してきたものが取り去られてしまいます。

      11,12 (イ)心臓移植患者の行動に関して何が報告されていますか。(ロ)血液用ポンプとしての働き以外に,心臓の構造と機能に関してどんな意義深い見解が発表されていますか。

      11 メディカル・ワールド・ニューズ誌(1969年5月23日号)は,「新しい心臓は思いに何をするか」と題する記事の中で次のように報じています。「昨年スタンフォード大学の医療センターで,45歳の男が20歳だった人の心臓を移植してもらったが,ほどなくして,自分が20歳の誕生日を祝うと友人すべてに告げた。心臓移植を受けた別の人は,その提供者がそうであったように,有名な市民としての評判に恥じない潔癖な生活を送る決意をした。女性の心臓を移植されたもうひとりの人は,自分が女性化しないかと大いに恐れていることを明らかにしたが,女の方が男より長生きすると聞かされて少しは落ち着いた。外科医ノーマン・シャムウエー移植手術陣の顧問のひとり,精神科医のドナルド・T・ランデによると,これらの患者は,過去16か月間にシャムウエーから移植手術を受けた13人の中で,精神の異常がそれなど重症でない若干[傍線は当誌発行者による]の例である」。同じ記事はさらにこう続けています。「その一群の患者たちの中で今月初旬まで生き延びたのは5人で,その中の4人は自宅で比較的正常な生活を送っていた。生き延びなかった患者の中の3人は,昨年死亡する前に精神病になり,他のふたりも今年になって精神病の症状を示すようになった」。

      12 ランデ博士はそうした性格上の奇妙な倒錯の主因として,プレドニソーン剤の投与,さらに重い手術と厳重な保護下での長期間の入院生活とからくる思いの疲労をあげていますが,興味深いことに,「ニューヨークの精神科医兼神経科専門医で,心臓 ― 脳の相互作用を研究しているシュナイダー博士は,シャムウエーの心臓移植患者たちのかかった精神病に対するランデ博士の説明を修正するものとして,他の要因を認めている。シュナイダー博士が主張するには……『心臓は鉛管工のポンプ以上のもの ― 神経・内分泌性バッテリーである。それは全く独自の小さな脳,洞房および房室結節,さらに伝導神経線維束を持っており,この神経線維束から出る弱い波は各心臓波とともにECG[心電図]の上に認められる。それに加えて,カテコラミンを活発に製造,貯蔵する心臓の働きは,視床下部における神経刺激ホルモンのレベルに影響を与えているかもしれない』」とのことです。(同誌,18ページ)心臓移植の手術を受けていない多くの患者は,プレドニソーンを投与されても,または長期間の入院生活をしても精神病にならない,とシュナイダー博士は観察結果を述べました。

      13 (イ)生きている人が神の目からは死んでいるというのはどういうわけですか。(ロ)より肝要などんな点で,心に関して「命の源がそこに発している」と言えますか。

      13 医学が人間の心臓についてこれから先なにを学ぶにしても,聖書は思いと心との間に明確な区別を設け,両者を別々に扱っています。そして,心臓がそれほど肝要な役割を果たしているのですから,単に食事の面での自制や身体面の他の手段によってだけではなく,感覚から,また心と思いとの相互作用の結果,わたしたちの心に印象がもたらされる際,その中に何が浸透するかを注意することによってそれを守るのはきわめて重要です。心臓が止まり,からだが生命を与える血液を得なくなると,心や思いの能力をも含めて,わたしたちは死滅します。しかし,たとえ生きていても,心から正しい動機,欲望,愛情が常に発していないなら,命の与え主であるエホバを喜ばすことは期待できません。「佚楽を放恣にする寡婦は生けりと雖も死にたる者なり」。(テモテ前 5:6)この点から,「命の源がそこに発している」ということはさらに重大な意味を帯びてきます。わたしたちが崇拝するよう動機付けられるのは心からです。「人は,義のために,心をもって信仰を働かせます」。(ロマ 10:10,新)わたしたちはエホバを心全体をもって愛し,「霊と真理とをもって」崇拝しなければなりません。(ヨハネ 4:24,新)エホバは人間を創造するに当たり,人間の心の中にご自分のための特別な場所を設けられました。各自がそれをつちかい育てる必要があるのは言うまでもありません。『「エホバなどいない」と心のうちで言った人』は,愚かな者か浅はかな者です。人がそう望むなら,心の中で神を他の人間,物,概念に置き換えることができます。しかし人間という被造物は,生まれながらに心で創造者を崇拝するように作られているのです。―詩 14:1,箴言 3:1-7,新。

      14 心はわたしたちの感情の表現とどんな関係を持っていますか。

      14 心臓が感情の状況に最初に影響される器官の一つであることも興味深い点です。わたしたちの心臓は喜びで踊ります。危険に突然さらされると心臓は激しく鼓動します。恐怖にあうと心臓は戦慄し,悲嘆に暮れると心臓は痛みを覚えます。喜びや楽しみの絶頂から絶望や苦しみの淵まで,心臓のさまざまな感覚はからだじゅうで感じられます。適切なことに,“心”という語を含むことばや言い回しがたくさんあります。少しの例をあげると,心に留める,心のいくじない,心のやさしい,心の冷たい,心をこめて,心が破裂しそう,心にかける,心強い,回心などがあります。

      心を思いと対照させる

      15 思いの働きを述べなさい。

      15 英語で用いられている思い(mind)は,思惟または知識を処理する中心です。情報を収集し,それについて考え,ついで推理と論理との作用によって結論に達します。思いは学習と識別の能力を用いて,受け取る情報をつなぎ合わせ,概念や型を作り出します。(テモテ後 1:13,新)各情報が明確に場所を占めるに至った時,ある事柄に関する知識が得られたことになります。この知識を実際的な価値に転じることができ,さらに,関連ある部分がどのように組み合わさって全体をなすかがはっきりとわかり,それが意味,有用性,活用性を帯びてくると,知恵と理解が生じます。

      16 荒野におけるイスラエル人に関して,聖書は心の動機付けの点でどんな洞察を働かせていますか。

      16 生理的な心臓はそれとは対照的に,愛情と動機付けに密接に結びついています。詩篇記者はこう書きました。「われ汝にむかひて罪ををかすまじき為になんぢの言をわが心のうちに蔵へたり」。(詩 119:11)荒野で集会の幕屋を準備し,組み立てていたイスラエル人の例から,心が人の思いと行動を動機付けるものであることがわかります。記録されているところによると,「その心が自らを促したすべての者」,『その心が自らを鼓舞した』者は全員,材料・技術・作業の面で貢献しました。(出エジプト 35:21,26,29,新)心はこの動機付けの作用を持っているゆえに,その人の内部における実態に注意を集中することができ,それを使徒ペテロは「心のうちの隠れた人」と呼びました。―ペテロ前 3:3,4,新。

      17 思いと心との相違を例を使って説明しなさい。

      17 簡単な例を用いると,両者の演ずる役割の相違を知る助けとなります。ほとんどだれでも研究と実習を通して機械学の知識を修得することができます。しかしながら,機械の事柄に対する愛を心において育てなかった人には,モーターについて学びたいなどという動機付けはまるでありません。自分の車が動かなくなっても,たぶんどこから修理したらよいか知らないでしょう。その人は訓練を積んだ音楽家かもしれず,あるいは専門の法律家または献身的な主婦かもしれません。おのおのが自分の仕事を愛し,それに従事するのは,それがその人が職業として行ないたいと心で欲していることだからです。しかし,熟練した機械工の背景を詳しく調べてみると,彼がモーターを扱う仕事を愛しており,少年のころにはいつも軽快な音を出す仕掛けについて知りたがっていたことを見いだすでしょう。強力なモーターが始動し,スムーズに回転するのを聞くのは,彼の耳にとっては音楽なのです。さて,わたしたちは何について話しているのですか。そうです,心についてです。わたしたちが討議しているのは,単に機械一般について学ぶ思いの能力ではなく,その人の愛情,動機,欲望です。

      18,19 (イ)どういうふうに思いと心とは協働するのですか。(ロ)思いの中に取り入れられた事柄はどのように心に影響しますか。

      18 聖書は心と思いが別個のものであることを示してはいるものの,両者の間の密接な相互関係,相互依存,相互作用を否定するものではありません。心は思いによって養われうるのです。なぜなら,わたしたちは実際には意識を有する脳をもって見,聞き,感じ,他の生理的な感覚からの影響を受け取るからです。次いで,脳に位置する思いは,心によって動かされたり動機付けを与えられたりされうるのです。

      19 若い時から思いは心に強い影響を及ぼしています。正しい種類の情報が思いの中に取り入れられ,正しい結論と印象が形成され,そしてそれが心に浸透するにつれて,心における動機付け・欲望・愛情を形造り,制御し,導く上での良い影響が得られます。まちがった情報が思いに取り入れられると,まちがった概念が築き上げられ,その結果,偏見・憎しみ・恐れ・誇り・どん欲・強情その他の卑しむべき性向が心に根を降ろし,それは人の性格に反映します。この傾向は,そうしたまちがった結論や印象が幼少期に形成された場合特に顕著になります。それゆえ,クリスチャンになるに際し,人は『自分の思いを作り変えて,自らを一変させ』ねばなりません。パウロは,『あなたがたの思いに働く力において新たにされなさい』とさとしました。この思いの新しい力は,わたしたちが神のことばを思いの中にしっかりと植え込み,神の霊に全く応じ,それ以後わたしたちの思いが,「当然キリストにささげられるべき誠実さと純潔さとから堕落させられ」ないよう注意深く警戒する時に築き上げられます。―ロマ 12:2,エペソ 4:22-24,コリント後 11:3,新。

      20 大多数の人々の心や思いを形造る今日の一般環境について述べなさい。

      20 今日人類の大多数が成長していく家庭や近所の環境は,学習にとって良いものではありません。家庭や学校の訓練における放任主義の結果として,反抗的でスリルを追い求める世代が生まれています。悪についての学習や悪への耽溺のために思いの中に回路が深く刻み込まれ,個人の心が堕落させられる結果,彼らが成長した時には,自分にとって自然になってしまっていることをするわけです。異常なことが正常なこととなります。性は神が設けられたもの,子どもを生むための結婚のわく内に限られる清く快い行為ではなく,スリルや下劣な冗談の対象となります。楽しい時を過ごす,金をもうける,昇進する,有名になる,他人の干渉はいっさい受けない,自分だけを大事にする,見つからなければ盗みをする ― こうした態度や目標は,人が若い時からこの世の環境によって,抹殺できないほど強く心に印象づけられるもののいくつかの例にすぎません。

      21,22 (イ)神から離反する者の心はどのように描かれていますか。(ロ)それとは対照的に,神のことばに答え応じる人々の心では何が起こっていますか。

      21 各世代,特に現代の世代は,神から離反し,『自分たちの推理において頭がからとなり,その非知的な心が暗くなっ(て)」いる大多数の人々を生み出してきており,ゆえに「神は,彼らの心の欲望に即して,彼らを不潔な状態にゆだね」ました。彼らは,その罪がダイヤモンドの先によってでもあるように『彼らの心の刻板に彫り込まれて』いるとエホバにより描写された,大半のユダヤ国民のようでした。神が邪悪な者に対する処刑をすみやかにもたらされなかったので,「それが理由で人々の子たちの心は,悪をするよう彼らの中にしっかりと据えられているので(す)」。(ロマ 1:18-32,エレミヤ 17:1,伝道 8:11,新)しかし時の流れを通して,大ぜいの人とは逆に,自分の心の中に神と正義に対する愛をつちかってきた貴重な人々が,少数ではありますがいました。「終わりの時」が相当に進展した今日でさえ,神のことばに答え応じる心を持ち,「すべての汚れ,および,あの無用なこと,すなわち悪を捨て去り,あなたがたの魂を救いうることばが植えられることを柔和に受け入れなさい」との助言に聞き従う人々を,エホバの証人は何千人となく見いだしています。「りっぱな土の上のもの[種]についていえば,これらは,りっぱな良い心をもってみことばを聞いたのち,それを保ち,耐え忍んで実を結ぶ者たちです」。―ヤコブ 1:21,ルカ 8:15,新。

      22 不道徳の歩みから離れる,短気な傾向を直して冷静になる,野望を変える,すべての面で正直かつ勤勉な神のしもべとなる,といった徹底的な変化がしばしば要求されるにもかかわらず,彼らは勇敢にもそうした変化を遂げます。わたしたちが「清い心から主を呼び求め」,良い心を得ようと努めるなら,それを得るように助けようとのエホバご自身からの約束を得ることになります。―テモテ後 2:22,新。

      23 自分の心に関して何を正直に調べねばなりませんか。

      23 それで,あなたの心はどうですか。自分の知っているかぎり,今のところ医学的にはだいじょうぶらしい,と言えるかもしれません。が,さらに重要な質問は,そこから起こる動機・愛情・欲望を考量する時,あなたの心はどうですか,ということです。神のことばに照らし合わせて自分の心を調べる時,それがあなたを正しい方向に動機付けるのを,さらに,それが正しい欲望と愛情とを持っているのを見いだしますか。欠陥があるなら,正しく考えるよう,また不完全な肉の傾向や自分を取り巻く誘惑に抵抗するよう,自分の心および思いを新たにし,強化する点で成功を収めていますか。ある程度の成功を今収めているなら,引き続き自分の心を築き,守ることが肝要です。

  • 人間の心は不信実です
    ものみの塔 1971 | 6月15日
    • 人間の心は不信実です

      「心は他の何物よりも不信実であり,必死である。だれがそれを知ることができよう。我エホバは心を探り,…各自にその道にしたがい,その行動の実にしたがって与えるためである」― エレミヤ 17:9,10,新。

      1 聖書は人間の心の傾向について,何を率直に告げていますか。

      わたしたちは自分の経験や他人の経験を通して,人間が良い心と正義に傾く思いとを生まれつき持っているわけではないことを日々思い知らされます。生まれたばかりの赤ちゃんは無邪気に見えますが,その内には受胎の時からすでに罪と不完全さが働いています。詩篇記者のダビデはこう表現しています。「見よ! わたしは生みの苦しみとともにあやまちをもって生み出された。わたしの母は罪のうちにわたしをはらんだ」。(詩 51:5,新)自分の子どもを「エホバの訓戒と思いの調整とによって」育てようと努力をしている良心的な親でさえ,「愚かさが少年の心と結びついている」ことを何度となく痛感させられ,「それを彼から遠くへ追いやる」には,「懲らしめのむち」をいろいろな方法で用いなければならないことを知らされてきています。(エペソ 6:4,箴言 22:15,新)全地をおおった洪水の後,ノアとその家族の犠牲を受け入れた時のエホバは,親から子に受け継がれるこのみじめな遺伝を次のように慈悲深く注目されました。「我再び人の故に因て地を詛ふことをせじ其は人の心の図維るところその幼少時よりして悪かればなり」― 創世 8:21。

      心は欺きうる

      2 (イ)どのように『心は他の何物よりも不信実であり,必死です』か。(ロ)使徒パウロは自分の思いを作り変えた後でさえ,何を認識していることを明らかにしましたか。

      2 心と協働することは油断を許しません。注意していないと,自己欺瞞の犠牲になります。聖書はこう警告しています。「心は他の何物よりも不信実であり,必死である。だれがそれを知ることができようか」。(エレミヤ 17:9,新)不信実な人は簡単に信頼や誓約を裏切るという特徴を持っており,不忠節で信用できず,実際に反逆的な人です。考えてみてください! 不完全な状態にあるわたしたちは,すべてその胸の中に潜在的な反逆者を囲っているのです。心の中に根ざしはじめる事柄にわれながら驚く,いや,恥じいることさえ,時として実際にあるのではありませんか。そして心が何かを必死に欲する場合,深刻な問題に陥ってしまうことがあります。そのような新しい愛情を静め,そのような突発的な欲望を除去するため,早急に調節の手段を講じることが肝要です。使徒パウロは新たにされた自分の思いが,心から起こる悪い欲望によって戦いをしかけられ,さらには不完全な肉によって課せられる重みを負わされていることを告白しました。「われ中なる人にては神の律法を悦べど,わが肢体のうちに他の法ありて我が〔思い〕の法と戦ひ,我を肢体の中にある罪の法の下に虜とするを見る」。(ロマ 7:22,23〔新〕)彼は,エホバのみがキリストを通して,わたしたちをこのみじめな状態から救出しうることを認めました。自分だけにしかたよれないならば,わたしたちは何度も道を踏みあやまるに違いありません。「人の心には多くの[計画]あり,されど惟エホバの旨のみ立べし」― 箴言 19:21〔新〕。

      3 思いは推理から導き出された結論をもって心に影響を与える立場にありますが,それに聞き従う意図が心にない場合には何が起こりえますか。

      3 前に学んだように,心が常に思いに聞き従うとはかぎりません。思いの論理の力にもかかわらず,心がそれを圧倒してしまう時があります。忘れてならないのは,心も推理するということです。もっとも,それは論理に関連してというより,わたしたちの動機,愛情,欲望が具体化し,良いにつけ悪いにつけ一定方向にはずみがつく際,心に何が起こっているかに関係してです。ダビデは『わたしの心の黙考を,エホバよ,あなたの前に,楽しみをもたらすものとならせてください」と祈りました。イエスはそれと対照的に,『心から,邪悪な推理が出て来る』と言われました。(詩 19:14,マタイ 15:19,新)思いは心に影響を与え,それに論理的な推薦をし,あるいは過去の経験に基づいて心に訴え,そして時には,引き起こされる危険を知るゆえ,一定のコースを取るよう強く心を促す立場にあります。しかし,一定の物事に対する欲望や愛情が心の中に強力に築かれてしまっているなら,心が勝ちを制することがあります。

      4 新しい背広かドレスを買うことに関連して,思いと心の働きを説明しなさい。

      4 例として,新しい背広あるいはドレスを買うかどうかについての決定をしなければならない時のことを考えてみましょう。最初に,思いはいくつかの事実に直面します。今の服は着用できないほど古くなったとか,その他なにか十分の理由があって新調する必要があるかもしれません。心もこの点大いに関係してきます。良い服装をしたいという欲望が心にあるからです。新しいドレスあるいは背広を買わねばならないということに,心と思いは同意します。そこで思いは値段・質・スタイルなどについての情報を収集し,買物に行く時にはどの背広,どのドレスを買うべきかだいたいの考えができあがっています。ところがいざ店に着いてみると,ウインドーには人目をひくすてきな服が飾られてあり,衝動的な買手を待ち受けています。それは自分にとってほんとうに実用的とは言えません。高価で,スタイルの面でもやや極端です。しかし,心はそれがほしくてじりじりさせられます。それはほんとうに心を喜ばせます。

      5 エホバの意志を行なうべく,わたしたちの心を一つにしつづけるには何が必要ですか。

      5 さて何がなされますか。どんな決定がなされますか。それは実際的で,推理から導き出された決定ですか,それとも心のその時の新しい欲望によるものですか。よほど注意しないと,心が思いを圧倒してしまいます。すぐれた判断に逆らう道を取るよう動機付けられるかもしれません。一方,これは時として起こる,心が瞬間的に岐路に立たされる場合かもしれません。そうであれば,心のまさったほうの良い動機と愛情が勝ちを制し,その結果,自分の服装上の必要を満たす最も実際的なアンサンブルを買うという決定を下すことになるでしょう。しかしさらに,正しい決定をまちがいなく下せるようにするためには,前もってエホバの助言で心を強化し,訓練する必要のあることをも思い起こさせられます。「おのれの心を恃む者は愚なり。知恵をもて行む者は救をえん」。エホバの関心事と原則を生活の中で第一にすることを心の中でつちかった人のより強力な欲望は,心の中に突然発する魅惑的な関心事や欲望を制圧することができます。―箴言 28:26。

      6 悪い欲望が心に根ざしはじめるなら,直ちに行動することが必要です。なぜですか。

      6 ここでこの推理をもう一歩進めて,もっと重要な生活の側面に当てはめてみましょう。不品行を犯す,盗む,他人に害を与えるといった誘惑にわたしたちが直面した時,心はどう反応しますか。さらに重大なことに,心の欲望を満足させようと故意にたくらみ始めると,どんな誤った事態を招きますか。あなたの心は,あなたを誤った道からそらせる動機付けを与えるほど強いものですか。それとも,肉の欲望を充足させる可能性をひそかにもてあそぶことに屈しますか。正しい決定を下すことを延ばすと,悲惨な事態が生じえます。心が何かをもくろみはじめると,強大な力が発生し,感情がかき立てられ,肉体は悪いことに対して備えを開始します。「しかし,おのおの自分自身の欲望[それは心で始まる]に引き出され,かつ誘われて,試みられるのです。次いで,その欲望は,それが熟したときに罪を生み,次に,罪は,それが遂げられたときに死をもたらします」― ヤコブ 1:14,15,新。

      7 心が,思いの提出する証明に逆らって進むことを選ぶという点でどのように勝ちを制するか,例で説明しなさい。

      7 たとえば,自分の配偶者以外の女性と姦淫を犯す誘惑に直面した,結婚した男の人の場合を考えてみましょう。彼の思いは研究から,また見聞きしたことから,そうした行動を圧倒的に非とする情報を持っているかもしれません。その行動を取った他の人々に及んだ結果を推理し,それが必然的に引き起こす問題や悪影響を考慮することによって,彼の思いはそうした誘惑から離れる方向を強力に指示する証明を,危険区域から出ることを緊急に推薦する情報を提出するかもしれません。しかし,その人の心に誘惑から離れ去る欲望が全くないならどうなりますか。その時には,心は思いが提供し推薦した事柄とは反対の決定をします。つまり,心は,「いや,わたしたちはこちらの方向に行くのだ」と,思いに言っていることになります。彼は自分の心の感情的な力に左右され,思いの助言と推理に逆らって危険地帯にとどまります。

      8 人の取る行動を選ぶという心の能力を,聖書はどのように描写していますか。

      8 任意の行動を選択し,その一つに欲望を定める心のこの能力から,聖書が人の心について,それが『計画を立てる』とか,「おのれのみちを」,すなわち思いが最初に考えた道でおのれに訴える道を「考へはかる」とかと述べている理由の説明がつきます。(箴言 19:21,新; 16:9)これは道徳的また霊的な事柄に関して特にそうです。

      9 心が悪いことを行ないたいとの強い欲望を持っているなら,その影響力を思いに及ぼす際何が起こりえますか。

      9 しかしながらそれだけでなく,心は次に思いを動かして,悪い道に進むためのなんらかの言い訳あるいは口実を捜し出させ,誤った推理を採用させはじめます。その人は罪の行為に陥るかもしれず,そして当人が罪を犯しているまさにその時に,心は思いを促して弁明を作り上げさせるのです。彼は神の愛ある親切につけ込み,『神はとても慈悲深いのだから。神は私の肉の弱さゆえに許してくださる』などと言いながら,同時にその悪の道を歩みつづけるかもしれません。彼は,心のうちで次のように言った邪悪な人のようになります。「神はわすれたり 神はその面をかくせり神はみることなかるべし」。(詩 10:11。ロマ 1:21,24と比較)そうであれば,罪深い人間の心は「他の何物よりも不信実であり,必死である」と聖書が警告していることに少しも不思議はありません。―エレミヤ 17:9,新。

      10,11 (イ)人が自分の心の中で姦淫を犯すことについて,イエスはなんと言われましたか。(ロ)自分の妻でない人に触れてもいない男が,神の目から見て,どうしてその心の中で姦淫を犯すに至りますか。

      10 これはまた,対象となった人に触れてもいないのに,どうして姦淫を犯したものとして神にみなされる場合があるのかを理解する助けとなります。自分の妻ではない美しい女を一目見て,男は心のうちで,「とても魅力的な人だ」と言うかもしれません。これはそれについて考える間もなく起こります。このつかの間の推論は必ずしも悪いとも,不純であるともかぎりませんが,男がその女を『見つづける』なら,欲望が必ずや発生し,彼女に対する情欲が心の中に募ります。イエスはこう助言しました。「しかしわたしはあなたがたに言います,女を見つづけて,その女に情欲をいだく[結婚した]者は皆,すでに[どこでですか?]心の中でその女と姦淫を犯したのです」― マタイ 5:28,新。

      11 その人は実際の肉体行為をしたのではありません。事情が許さなかったからかもしれず,多くの不快な問題を経験せずに『うまくやりとげる』のは無理であると,感じているせいかもしれません。思いがこの点の警告を与えたのかもしれません。しかし仮りに事情が変わって好都合に見え,深刻な後作用をまぬがれる可能性が多少でもあると当人が考えるなら,彼の心はもうその行為を犯したがり,そうすることを欲します。動機付けは十分に整っています。足りないのは機会だけです。そうした人は神の目から見てすでに有罪です。(ヤコブ 1:13-15と比較)それと全く同じようにして,人は盗み,または殺人の罪さえ犯すことになります。(ヨハネ第一 3:15)聖書が思いと心との間に区別を設けていること,思いではなくて,心が動機の座であることを明確に認識するのがなぜそれほど重要であるかが,これでおわかりでしょうか。

      12 ダビデはヨセフとは対照的に,どのように心に導かれるままに道を踏みはずしましたか。

      12 ダビデについて,彼はエホバ自身の心にかなった人と言われています。しかし,ある日彼がたまたま窓から外をながめていると,遠くでバテシバが水浴をしていました。彼女にはなんの悪気もなかったことでしょう。ダビデは自分の心の中に色情的な考えがわき起こる前にそれから目をそらせないで,見つづけ,彼女に対する情欲を募らせました。その結果,それに続いて彼は恥ずべき姦淫を犯し,彼女を自分の妻として迎えることができるよう事をはかり,彼女の夫を殺させてしまいました。ヨセフはそれとは対照的に,自分の主人の妻で,性欲に狂った女から誘惑されたとき逃げました。偽りのとがを受けて投獄され,しばらくの間自由を失ったのは確かですが,清い良心と神との関係とは失いませんでした。

      エホバは心とそれが必要とするものとを知っておられる

      13 エホバが心を正確にご存じであることに関して,聖書は何を明らかにしていますか。

      13 だれが人間の心を知ることができるのでしょうか。不完全な状態にあるわたしたちには,それが十分にできないことを認めなければなりません。しかし,エホバがそれをなしうることはなんと感謝すべきでしょう。「わが視るところは人に異なり人は外の貌を見エホバは心をみる」。「われエホバ心を察り…おのおのに其途に順ひその行為の果によりて報ゆ」。「なんぢわが心をこころみ また夜われにのぞみたまへり 斯てわれを糺したまへ(り)」。(サムエル前 16:7,エレミヤ 17:10,詩 17:3)イエスも人間の心の働きを正確にご存じでした。「口から出るものは心から出て来るのであり,それらのものは人を汚します」。(マタイ 15:18,新)それらのものとは何ですか。

      14 (イ)心のなしうることに関して,イエスはどんな適切な分析を行ないましたか。(ロ)良い心を持とうと努力するのは,しょせん不可能なことなのでしょうか。

      14 人間の心は最も高尚かつ崇高な動機付けをいだける一方,イエスが列挙されたように,なんと汚らわしい,嫌悪の情を起こさせるものをも出すではありませんか。「内から,人の心から,害になる推理が出て来るからです。淫行・盗み・殺人・姦淫・人のものをむやみにほしがること・邪悪な行為・欺瞞・ふしだらな行状・そねむ目・冒とく・ごう慢・無分別などです。[マタイの記述は「偽証」を加えている。]これら邪悪な事柄すべては中から出て来て,人を汚すのです」。(マルコ 7:20-23,新)心に発する邪悪な事柄のそうした恐るべき放列を前にして,あっさりあきらめてしまい,むだではないか,と言う人もいることでしょう。ほとんどの人がそうです。それが一つの理由となって,滅びへの広い道にはおびただしい人々が満ち,命への狭くて窮屈な道を歩む人が非常に少ないのです。しかし永遠の命に至る狭い道を開いた際,イエスは不可能な目標をいだかせたのではありません。彼は確かにこう言いました。『狭い戸口を通ってはいるため,力強く努力しなさい。なぜなら,あなたがたに告げます。多くの者がはいろうと努めながらできないからです』― ルカ 13:24,新。

      15 正しい動機付けを持つために,欲望や愛情を造り直し形作るにあたり,わたしたちは何を思い起こすべきですか。

      15 わたしたちがどのように知識を取り入れ訓戒に服するかが,良いものにしろ悪いものにしろ,どんな愛情または欲望が自分の心の中に発生するか,またそれらがどれほどの強さをもって心から発するかを大きく決定します。心と思いを絶えず不潔なもので養っていながら,良い欲望や動機を持つことは期待できません。その上,思いは,なぜあることが行なわれるべきであるか行なわれるべきでないかについて,心に推薦できる十分な理由を持たねばなりません。それには心を教育することと訓戒することが必要です。(箴言 23:12)そうした後にはじめて,不承不承の傾向が少しでもある心は,正しいことを行なって得られる良い結果を味わうようになり,わたしたちはついに自分の側に心を引き入れることができるのです。朝起きて,「きょうはもう少し人に愛を示すことにしよう」とか,何かそれに似たことを言って自分をそうした心理状態にさせれば事がかたづく,といったなまやさしい問題ではありません。まず,良い習慣と性向が形成されるよう,良い資質を毎日適用することにより自分の生き方としてつちかわれねばならず,その次には,自分自身に対して正直になり,心に深く据えられている悪い資質や傾向の根本原因を知るようにします。次いで,それらを除去したり抑制したりするのに聖書の原則を適用することができます。『知恵があなたの心にはいり込み,知識みずからがあなたの魂そのものにとって快くなる時,思考力みずからがあなたの上に警備を置き,識別みずからがあなたを守り,あなたを悪い道から救出するでしょう』― 箴言 2:10-12,新。

      16,17 (イ)生がいの大部分を不道徳な環境の中で過ごした人の心の状況を説明しなさい。(ロ)その人が神のことばの真理を学ぶにつれて,どんな葛藤が展開されますか。

      16 心が自らを適応しなおすこの過程を示す例として,自分の人生の相当の年月を不道徳な人々との交わりや,官能的な快楽の提供を業とする場所に出入りすることに費やしていた人が,神のことばの真理を喜んで聞いた時その心の中に何が起こるかを考えてみてください。その人は良い動機付けの能力という点で大きな欠如を示してきました。なぜなら,「女と姦淫を犯す者はだれでも心にかけている」からです。(箴言 6:32; 9:1-5,13-18,新)安っぽい小説を読み,好色雑誌を見,けがらわしい冗談を聞いたり話したりすることによって,性的な刺激に対する彼の渇望はその度を強められてきたかもしれません。しかし今や,年老いて死んでゆく代わりに,完全な状況のもとで永久に生きることを期待できると教えられたのです。それは彼の心に訴えます。が,エホバの正義の要求に従う者だけがそこに住むということも同時に学びます。彼はどうするでしょうか。

      17 長年の間に築き上げられた,心と肉の不道徳な渇望は,一夜にしてぬぐい去られるものではありません。彼はそれをなんと深く自覚させられることでしょう。思いと心との激烈な葛藤が始まります。(詩 38:7-10)思いはエホバに仕えるのが論理的であることを次のように認めます。神の憤りからのがれうる。病気,苦しみ,死からの自由が得られ,永遠の命に導かれる。実際良い行動は肉体,思い,感情の面で最善の益となる。自分に非行を奨励,助勢してきた以前の友人の代わりに,神の民の間での健全で建て起こされる交わりにあずかれる。しかし心は自分のほしいもの,過去にひそかな喜びを与えてくれたものすべてを今得たいのです。神を崇拝したいという欲望がそこにあるのは確かですが,それは今では相当弱くなっています。奥深くには正しいことをしたいとの欲望がありますが,それとても今ではそれなど強いものではありません。思いは,性病の感染や私生児の出生,あるいは妊娠中絶の責めを負うといった,邪悪な影響の及ぶ可能性を心に思い起こさせ,その点は心にも否定しえないところなのですが,依然としてそうした欲望は存在しています。

      18 最終的にどのように心を自分の側に引き入れる結果,心がエホバの意志を行なうことに最高の喜びを見いだすようになるのですか。

      18 その人の生がいにとってこれは非常に重大な時です。多くの人はここまでは来ますが,それ以上進みません。新しい秩序での生活はたいへんよいものに響きますが,古い体制の魅力が心の中にあまりにも強く宿っているのです。しかし前進しようと心の中に勇気を奮い起こしつづける人,そうです,正しいことをしよう,神の律法を心の中に取り入れようと自分をしいる人は,正しいことを行ないやすくなってゆくのに間もなく気づきます。そればかりか,心が実際の経験によって神を喜ばせる事を味わい,さらに心がそれを重ね重ね行なうにつれて,それにも喜びを見いだすことができると結論せざるをえなくなります。思いとともに心もその利点を認めるようになり,心の中にはかつての欲望に代わって正しい事柄がはいってきます。二つの事柄が同時に同じ場所を占めることはできません。つまり,「心の割礼」が施されたのです。(ロマ 2:29,コロサイ 2:11,新)やがて彼はかつての知人や悪い影響を及ぼすものから遠ざかるようになります。自分をしいるからではなく,心でそう欲するからです。心は,神の意志を行ないその民と交わることに最高の喜びと最も純真な楽しみを見いだすようになりました。かつての事柄は嫌悪の念を催させます。彼は神の律法に対する愛,深い愛情を心の中に築き上げました。「彼の神の律法は彼の心の中にあり,彼の足どりがよろめくことはない」― 詩 37:31,新。

      心の他の動機

      19 心は舌にどんな影響を与えますか。

      19 わたしたちは道徳的には自分の心を制御できるかもしれません。しかし心の他の面での動機付けについてはどうですか。たとえば,舌をどのように使いますか。イエスは次の原則を述べました。「心に満ちあふれている事柄から口は語(ります)」。(マタイ 12:34,35,箴言 15:28,新)良い心は良い事柄を話すよう人を動機付けます。しかしながら,だれかが「自分の舌を制御せず,自分自身の心を欺きつづけるなら,この人の崇拝の形式は無益です」。うわさ話は心にとって悪い薬となります。注意しないと,それは他人の事柄に“尾ひれ”を付けて告げ回るのがこの上なく好きです。しかし,うわさや不確かなことを広めるのは愛のある行為ではありません。―ヤコブ 1:26,新。

      20 (イ)「互いに心から熱烈に」愛しつづけることはなぜ必要ですか。(ロ)許すことは単に思いからではなく,心から来なければなりません。それはなぜ重要ですか。

      20 さらに深刻なのは,「もしあなたがたがあなたがたの心の中に苦きねたみと言い争いとを持っているなら…そこに混乱とあらゆる忌むべきものとがある」ということです。(ヤコブ 3:14-16,新)「あなたはあなたの兄弟を自分の心の中で憎んではならない」。むしろ,わたしたちは「互いに心から熱烈に愛し合う」ようさとされています。(レビ 19:17,ペテロ前 1:22,新)もしあなたの兄弟があなたに対して罪を犯したなら,彼に憎しみの態度を築き上げる前に,「あなたと彼だけの間で」解決すべきです。人を許す者たちについてイエスはこう言われました。「もしあなたがた各自が,自分の兄弟をあなたがたの心からゆるさないなら,わたしの天の父もあなたがたをこれと同じように扱われるでしょう」。(マタイ 18:15,35,新)箴言 6章16-19節(新)にあげられているように,エホバが憎まれる七つの事柄の中の一つは,「有害な計略をもくろむ心」です。―詩 140:2,新。

      21 よほど慎重に注意しないと,心の持つどんな共通の傾向が表われないともかぎりませんか。

      21 エホバとその組織とに対するわたしたちの関係には,偽善,むさぼり,高慢,強情などの余地はありません。(テモテ前 1:5,詩 101:5; 131:1,新)『二心の』者と「中途半ぱな心の」者とは,両方とも神のことばにより非とされています。(詩 12:2; 119:113,新)心には口実を設けよう,正当化しよう,うそを言ってその場を切り抜けようとする傾向があります。もしこの策略が功を奏さないとなると,甘言あるいはののしりのことばか悪口をもって威迫の手段に出ます。(ロマ 16:18)わたしたちがエホバに対してだけでなく,自分自身と兄弟たちとに対しても正直であるよう,心を真実性と従順さとの点で訓練する必要があります。罪を犯して,心が自分を『責めはじめた』なら,祈りを通して直ちにエホバに近づき,み前で心をあらわにして,許しと心を清くしてもらうこととを求めるべきです。(サムエル後 24:10,ヤコブ 4:8-10,新)重大な罪を犯したのであるなら,会衆の責任者に知らせて,彼らの助けを求める必要があります。心は叱責を軽んじたり,『脂肪と全く同じように不感となったり』すべきではありません。エホバは心の打ち砕かれた者たちをいやし,彼らの痛むところに包帯をしておられるのです。(詩 119:70; 147:3,箴言 5:12-14,新)エホバの慈悲と,あがないの犠牲によって罪をおおうこの備えを認識するならば,以後み前に思慮深く歩みながら,それ以上心にとがめを受けずに自信をもってエホバに近づくことができます。―ヘブル 10:22,ヨハネ第一 3:18-24,新。

      22 心を常に勤勉に監視することはなぜ重要ですか

      22 『わたしたちの心をその道に導き入れる』ための助けをエホバによりたのみながら,わたしたちは勤勉の限りを尽くして心を監視する必要があります。心は欺瞞に満ちており,わたしたちが気づかないうちに以前の悪い道に逆戻りすることがありますから,わたしたちは神のことばからの次の勧告を日々思い起こさねばなりません。「あなたの全き心をもってエホバに信頼し,自分自身の理解にたよってはならない」。そうする点でわたしたちには,「すべての考えにまさる神の平安が,あなたがたの心と思いの力とをイエス・キリストを通して守るでしょう」との保証があります。―箴言 23:19; 3:5,ピリピ 4:6,7,新。

      23 なぜ「他のすべてのもの以上に」心を守るべきですか。

      23 さてこれで,なぜ「守るべき他のすべてのもの以上に」心を守るべきかがおわかりになりましたか。「命の源」がそれから出ているのです。といっても,それは筋肉質のポンプが生命を与える血液を体内の全細胞に循環させ,それによって細胞の生命と健康を保つからというだけではありません。いっそう重要なのは,わたしたちが正しく発達させれば,心はエホバの助けと過分の親切とを得て,新しい事物の体制での完全な健康の伴う永遠の命をわたしたちに確かにさせるものとなる動機,欲望,愛情を生み出すことができます。心に関する偉大な医師であられるエホバは,全人類の心の状態を正しく診断してこられ,彼だけがわたしたちの欠陥のある心のための正しい処方せんを持っています。「わが子よ,わたしの律法を忘れてはならない。そしてわたしの戒めをあなたの心が守るように。そうすれば,命の月と年との長さ,また平安があなたに加えられるからである」― 箴言 3:1,2,新。

  • 全き心をもってエホバに仕える
    ものみの塔 1971 | 6月15日
    • 全き心をもってエホバに仕える

      「あなたは,あなたの心全体をもって,あなたの魂全体をもって,あなたの思い全体をもって,あなたの神エホバを愛さねばならない」― マタイ 22:37,新。

      1,2 (イ)全き心をもってエホバに仕えることの重要性に関して,ダビデ王はむすこソロモンにどんな重大な忠告を与えましたか。(ロ)イエスは完全な心をもってエホバに仕える必要をどのように示しましたか。

      彼は余命いくばくもない老人でした。人々の集まっている前で,彼は自分のむすこに語りかけ,次のように言いました。『わたしのむすこよ,あなたの父の神を知り,完全な心と喜ばしい魂とをもって彼に仕えなさい。あらゆる心をエホバは探り,考えのすべての意向を彼は識別しておられるからです。もしあなたが彼を捜し求めるなら,彼はご自身をあなたに見いださせてくださるでしょう。しかしあなたが彼を離れるなら,彼はあなたを永久に捨て去られるでしょう』― 歴代上 28:9,新。

      2 その老人と彼のむすこ,それにそのことばを聞いた人たちは,はるか昔にこの世を去りました。しかしダビデ王がむすこソロモンに語ったこのことばは,とこしえに変わることのない,また今日のわたしたちにとって肝要な助言と真理とを含んでいます。神の子であるキリスト・イエスの奉仕の記録をも含む聖書全体は,主権者エホバ神が全き心をもって仕えられることを望んでおり,さもなくば仕えられることを少しも望んでおられないという事実をはっきり示しています。「律法の中で最も大きな戒めはどれですか」と尋ねられたイエスは,こう答えました。「あなたは,あなたの心全体をもって,あなたの魂全体をもって,あなたの思い全体をもって,あなたの体力全体をもってあなたの神エホバを愛さねばならない」。(マタイ 22:36-38,マルコ 12:28-30,新)わたしたちの中で,神から「永久に捨て去られる」ことを望む人はだれひとりとしていないのではありませんか。では,わたしたちの心がエホバの探っておられる心の中にはいっている以上,どうすればわたしたちが「全き心」,「心全体」をもって彼に仕えていることを確かめられますか。

      3 心と思いとの区別を明確に認めることはどうして肝要ですか。

      3 聖書が思いと心との間に区別を設けている点を明確に認めるなら,心を守り,エホバに全き心をもって仕えることにおいて助けを得られるでしょう。聖書についての優秀な知識を持ち,数多くの問題点に答えることができ,出版された最新の情報にも“遅れをとっていない”ように見える男女がいます。しかし,そういう人でも重大な危険に陥っているかもしれないのです。なぜなら,「命の源」は頭からでも,脳または思いからでもなく,箴言 4章23節(新)が告げているように,『心から』出ているからです。この点を認識しないかぎり,容易に自らを欺くことになりかねません。ご存じのように,真理に逆らって背教者となった人たちでさえ,聖書の知識を全部一度に失うわけではありません。彼らの心は神の道をきっぱりと退けたにしても,知識は思いの中に残ります。もっとも,それは時とともに薄れてゆきはします。ですから思いにある知識だけでは霊的な健康に対する確かな導きとはなりません。

      4 全き心をもってエホバに仕えるとは何を意味していますか。

      4 では,次のように自問してみてください。私は「心のうちの隠れた人」においてはどんな人間だろうか。私は今「全き心」,「心全体」をもってエホバに仕えているだろうか。「全き心」をもって仕えるとは,中途半ぱな心(詩 119:113,新)ででも二心(歴代上 12:33,詩 12:2,新)ででもなく,その動機において一方向に全く傾倒している心をもって仕えるという意味です。心全体をもって仕えているのであるなら,エホバを喜ばせることがわたしたちの生活の中の最大事,心の喜びとなり,わたしたちは詩篇記者のようにこう祈ります。「おゝエホバよ,あなたの道についてわたしに教示してください。わたしはあなたの真理のうちに歩むでしょう。あなたの名前を恐れるようわたしの心を一つにさせてください」。(詩 86:11,新)こうして,わたしたちの心は一つにされ,一つの目的に対してひたむきになります。(箴言 23:19,新)そうした心は一つの方向,エホバの道へとわたしたちを着実に動かします。

      行なうことすべてにおいて良い動機が肝要

      5 全き心を持つと,わたしたちは神の奉仕のさまざまな面に対してどのような見方を持つようになりますか。

      5 全き心をもって仕えることは同時に,神の奉仕が包含する全範囲あるいは全域に対してわたしたちの心が正しくあることを意味しています。それには,結婚関係,子どもの訓練,世俗の仕事,隣人との関係,個人研究,クリスチャンの集会と大会,兄弟たちに対する関心,会衆での割り当てや責任を果たすことなどが含まれています。わたしたちの心がエホバの意志とただ部分的に一致するということは不可能です。

      6,7 (イ)イスラエル人は心に動かされて寛大にふるまいましたが,それから少ししかたたないうちに,多くの者はどんな心の状態を暴露しましたか。(ロ)それはわたしたちに対するどんな戒めとなりますか。

      6 たとえば,幕屋すなわち集会の天幕が建てられようとしていた時のことを考えてみてください。聖書は,イスラエル人が心に動かされて惜しみなく寄付をしたため,差し出されたものは ― その大部分を彼らは手で作らなければならなかったのですが ―『足りて且余あるほどになり』,事実モーセは,もう持ってこないようにと彼らに告げねばなりませんでした。(出エジプト 36:4-7)それはりっぱなことだったのですが,それから少ししかたたないうちに,この同じ民が自分たちの状況についてつぶやいたり不平を言うようになりました。(民数 11:1-6,10)モーセの姉ミリアム(パロの軍勢が紅海で滅ぼされた後エホバの賛美をたいへん喜ばしく歌った)は弟アロンと組んで,イスラエル国民を導く監督としてエホバに任命されたモーセを非難しました。(民数 12:1-8)カナンに送られた斥候からの悪い報告を聞いて,民一般は恐れをいだいて信仰の欠如を示し,モーセとアロンを石打ちにしようとしたほどです。(民数 13:1,2,25-33; 14:1-10)彼らは以前に物品や労働をささげはしましたが,「全き心」,自分たちの「心全体」をもってエホバに仕えていたでしょうか。―ヤコブ 3:13,14,新。

      7 わたしたちの中にそういう人がいますか。資産を喜んで提供し,大会とか王国会館の建設などといった重要な仕事を成し遂げるため大規模な努力が必要な時には,りっぱな働きをしておきながら,後になって,自分の望みどおりに物事が順調に進展しないせいかもしれませんが,つぶやいたり不平を言ったり,反抗の精神をさえ示したりしますか。

      8 わたくしたちは心が終始正しく自分を動機付けるものであると考えてはならず,いつも心を守らねばなりません。なぜですか。

      8 クリスチャンは自分の心が不信を働きうることを忘れず,たとえ真理を知っており自分は絶対に安全だと考えていても,自分の心をエホバへの奉仕に『全く』保つにはそれを守らねばなりません。自分を誘惑の道に置かないよう大いに注意する必要があります。使徒パウロは,はなはだしい淫行をも含め,イスラエル人の数々の罪を引き合いに出してこう述べています。「したがって,立っていると思う者は倒れないように注意すべきです」。(コリント前 10:6-12,新)さらに,霊感を受けた箴言の記述者は次のように述べています。「自分自身の心に信頼している者は愚かであるが,知恵のうちに歩んでいる者はのがれる者である」― 箴言 28:26,新。

      全き心を持つための備え

      9 どのようにして「心の考えと意向」とを確かめることができますか。

      9 『知恵のうちに歩む』ためには,定期的に自分の心を調べ,動機を検査し,弱点を捜し出してそれを改善する努力をする必要があります。落ち着いて次のように考えることは有益です。「思いの言うことはわかるが,私の心の中には何があるのか。なぜ自分はこれが,あるいはあれがしたいのか。私をかり立てているのはどんな動機か。自分の推理は確かに誠実なものか。それとも,実際には“自分の目をごまかして”言い訳をしようとしているのではないか」。心の不信を考えると,わたしたちには助けが必要です。神はご自分のことばを通してそれを備えてくださっています。「神のことばは生きていて,力を出し,どんなもろ刃の剣よりも鋭く,魂と霊…とを分けるまでに刺し通し,心の考えと意向とを見分けることができるからです」― ヘブル 4:12,新。

      10,11 (イ)わたしたちが善良で全き心を持つのを助けるため,エホバはどんな備えを設けておられますか。(ロ)全き心は個人にどの程度依存していますか。

      10 しかし聖書を通して,心が決めた考えに意向を見分けてもらい,その結果から益を得るためには,わたしたちは自分の務めを果たさねばなりません。自分に与えられる助言に対して『心を和らげ』,それを受け入れるために『心を傾ける』必要があります。わたしたちは『耳をもって知恵に注意を払い,心を分別に傾けるよう』神の見える組織から霊的な食物を豊かにいただいており,それはわたしたちが『理解の鈍い』心を持つことがないよう,むしろ『心の目』が啓発されるようにするためです。「理解力のある者の心は知識を習得し,賢い者たちの耳は知識を求める」のですから,わたしたちが出席するための定期的なクリスチャンの集会が設けられており,その集会での教えや交わりは健全で人を建て起こします。また,わたしたちには,監督として奉仕している円熟した人たちの「心の中にある助言」もあり,エホバの律法を実際に適用する点に関して彼らの持っている経験の井戸から,その助言を深い水のように明敏に「くみ上げる」ことができます。―歴代下 34:27,箴言 2:1,2; 18:15; 20:5,マルコ 6:52,エペソ 1:18,新。

      11 しかしわたしたちはそうした益を得るよう,心を建て起こしかつ守る上でそれらを勤勉に用いるよう努力を払わねばなりません。ヨシャパテ王は『真の神を捜し求めるよう心を備えた』ことで,エホバにほめられました。(歴代下 19:3,新)「理解のある心は知識を捜し求める心である」。(箴言 15:14,新)ダビデは,「[自分]のうちに純真な心をさえ創造してくださ(る)」よう神に祈りました。しかしエホバはそれを奇跡的に行なわれるのではありません。「地に住む人間に,心を整えることは属する」からです。―詩 51:10,箴言 16:1,新。

      12 真理を思いで理解するだけでは不十分です。なぜですか。

      12 思いでの理解を得るだけでは十分でなく,わたしたちは学んだ事柄によって動かされ,それを心の中で感じる必要があります。霊感を受けた記述者を通してわたしたちの天の父はこう言われました。「わたしの子よ,わたしのことばにぜひ注意を払いなさい。わたしの言うことにあなたの耳を傾けなさい。それがあなたの目から離れることがないように。それをあなたの心の真中に保ちなさい。それは,それを見いだす者たちの命であり,彼らの肉すべての健康だからである。守るべき他のすべてのもの以上に,あなたの心を守りなさい。命の源がそこに発しているからである」。(箴言 4:20-23,新)そうです,わたしたちは学んだ事柄を『わたしたちの心の碑』にしるす必要があります。(箴言 3:3; 7:3,新)そしてそれは,心がわたしたちを正しい道へと動機付けるよう,時間をかけて神の真理をわたしたちの心の中に,まさにその真中に入りこませることによってのみ可能となります。(詩 37:31,新)これが,家で個人研究をしたり集会に出席したりする時に,あなたの行なうことですか。

      13 (イ)詳しく調べてみると,思いがさまよっている代わりに,何がさまよっていることがわかってきますか。(ロ)ヘブル書 3章12節にはどんな警告が与えられていますか。「信仰の欠けたよこしまな心」の最初のきざしは,しばしばどのように表われてきますか。

      13 わたしたちは個人で読書をしている時や集会の時などに,気がついたら“思いがどこかをさまよっていた”と時々言います。そうかもしれません。子どものすることや何かほかのことのために注意が一時的にそらされる場合があります。しかし,自分に対して完全に正直であるならば,さまよいだしたのはわたしたちの思いではなく,心ではありませんか。気がついてみると,物質的な事柄,買おうとしている物,興味を持っている家での計画,金銭の問題などを考えてはいませんか。あるいは肉の事柄,すなわち食物,娯楽,異性のことを考えてはいませんか。そうした事柄のほうが神のことばやそのすぐれた助言を熟考することより自分には興味深く思われたり,あるいは,集会が終わってくれればよい,そうすればそうした他の事柄に専念できるのに,などと願うようになったりするなら,それは問題です。心は脂肪でおおわれたかのように無感覚になるか(詩 119:70,新)またはかたくなになって,神の指導に抵抗するようになる危険に陥っていることになります。(ヘブル 3:8,新)それは,エホバのいつくしみに対して,わたしたちの忠実な献身をエホバが報いてくださることに対して信仰の欠如を示していることになります。また,報いをどこか別の所に求めはじめたことを示しています。クリスチャンは,「あなたがたのうちのだれでも,生ける神から離れ去って,信仰の欠けたよこしまな心を発達させることが決してないように,気をつけなさい」と警告されています。(ヘブル 3:12,新)そうした悲惨な道に進む最初のきざしは,神のことばに対するわたしたちの態度や,それを読んだり聞いたりした際にわたしたちの示す認識のほどに表われてくるのが普通です。

      14 クリスチャンの集会に対する認識と出席という問題に心がどう関係してくるか,例を使って説明しなさい。

      14 集会の出席それ自体,あるいは宣教に携わることにしても同じです,時おり病気になり,その病気が重くて家から出られない場合があるのは自然なことです。また,疲れきってしまい,集会や野外奉仕に行くにも精力が尽き果ててしまっている,というような場合があるのも珍しいことではありません。霊は熱していても肉体は弱いのです。そのため,わたしたちは時としてむりやりに自分をスタートさせねばなりません。そうすれば後になって喜べることを知っているからです。このように,心や堕落した肉の利己的な欲望に同調することを避けるには訓練が必要です。この点を例で説明してみましょう。きょうは,聖書の教えを受けるため晩に王国会館に行く日であるとします。その時間が近づいたとき,ひとりの兄弟は行こうにもどうしてもからだが自分の思うようにならないことを悟ります。どんなにか行きたいことでしょう。でも無理です。からだがいうことをききません。しかし彼の心はどこにありますか。他方もうひとりの兄弟は,一日じゅう一生懸命働いて帰宅します。彼の心はこうかつにも,“今晩家にいることができたら,さぞかしすばらしいだろう”と彼に告げます。(心は欲望と動機の座であることを思い起こしてください。)しかし,集会に出ないで家にいるには何か理由がなければなりません。そこで心は思いに動機を与えて,この点に関して働きを開始させ,気がつかないうちに,家にとどまるためのかっこうな理由がいくつか浮かんできます。よほど気をつけないと,その晩彼は王国会館に行かないことになるでしょう。さて同じことがわたしたちのクリスチャン活動のどの面に関しても起こりうるのです。問題は,わたしたちの心がどこにあるかです。それが何かを欲し,望み,愛するなら,心はその方法をたいてい見いだすものです。イエスはこの点を次のように要約されました。「あなたの宝のある所には,あなたの心もあるからです」― マタイ 6:21,新。

      15 奉仕に携わらない,または集会に出席しないための理由を捜している自分に気づいたなら,どんな矯正手段を直ちに講じるべきですか。

      15 人には個人のあるいは家族の責任もあり,おのおの自分が最善と感じる方法にしたがって事情を調整しなければなりません。ある月には他の月ほど野外奉仕に多くの時間を費やすことができないかもしれません。それはその人個人の問題です。しかし,集会や野外奉仕に出ないで家にいるための理由を捜したり,それらを避けるための言い訳や口実を見つけようとしたりしている自分に気づいたら,その時は危険な状態にあると言わねばなりません。心がわたしたちを悪い方へ進むよう動機付けているのです。そのような事態になったら,ヤコブの言ったとおりにする必要があります。「神に近づきなさい。そうすれば彼はあなたがたに近づいてくださるでしょう。あなたがたの手を清めなさい,あなたがた罪人たちよ。そしてあなたがたの心を潔くしなさい,あなたがた優柔不断なものよ」。(ヤコブ 4:8,新)わたしたちは問題をかかえているのであり,それを天の父のもとに携え出て,祈りの中でそれを申し上げる必要があります。

      16 (イ)祈りは心に関して何を明らかにしますか。(ロ)「あなたの心をわたしにぜひ与えなさい」とのエホバの勧めは何を意味していますか。

      16 これもわたしたちの心を調べるための手段です。たぶんエホバ神に対するわたしたちの奉仕の他のすべての面と同様,わたしたちの祈りも,わたしたちとエホバとの関係,エホバに対してわたしたちが「心のうちの隠れた人」においてどう感じているかを明らかにします。あなたの祈りはあなたが神とどんな関係を持っていることを明らかにしていますか。それはあなたとエホバだけが知っていることです。心のすべてから尊敬し愛する父親に対するむすこや娘のような,信頼に満ちたあたたかい親密な関係ですか。(箴言 4:3,4,新)あなたの祈りが明らかにしているのはそのような関係ですか。それとも単にことばをかわすだけの関係ですか。あるいは近所の人,雇用者,比較的親しい友人との関係に類するものですか。あなたと神との関係が,本来あるべき関係でないなら,一つのことが確かです。つまり,それはあなたの天の父の落ち度ではないということです。彼は箴言 23章26節(新)の記述者のようにこう言われます。「わたしのむすこよ,あなたの心をわたしにぜひ与えなさい。また,あなたのそれらの目がわたし自身の道に喜びを見いだすように」。祈りを通して自分の心を彼に対してあからさまにし,心の中にあるものを告げ,心の正しい欲望を成し遂げるため,またその弱点と弱点に対する改善策を明らかにしていただくための助けを求めてください。そうして後,天の父がみことばやご自分の霊とクリスチャン会衆を通してあなたに与えられる導きに終始従うことによって,彼に自分の心をささげるのです。

      心を前もって強めておく

      17 誘惑の来る前に心を強くし,それを守ることが重要なのはなぜですか。

      17 わたしたちは日々堕落の一途をたどる体制の中で生きています。そのため,エホバとその奉仕に対する専心の完全さに関してわたしたちの心にのしかかってくる試みは,いよいよきびしくなっています。自分の心を守ろうと思うなら,心に焦点を合わせ,それが動機付けと愛情との能力を持つゆえに重要であることを忘れないようにしなければなりません。試みや誘惑が全力をふるって襲ってくるのを待つのではなく,それにあうずっと前からわたしたちの心を強めておくべきです。

      18 どんな質問がわたしたちの動機をためす助けとなりますか。

      18 不道徳な考えが浮かんだ最初の時,直ちに次のように質問すべきです。「私はそれがどんな結果になるかを知っていながら,ほんとうにそんなことをしたいと欲しているのだろうか。自分の家族や交わっている会衆に非難をもたらすことを欲しているのだろうか。配偶者はどうなるのか。彼女(または彼)には確かに欠点や弱点があるかもしれない。しかし自分にもある。私はそうした行為が必ずやもたらす悲痛な衝撃の原因となりたいのか。それが,ともにわかち合った配偶者との何年間もの生活に対する感謝と言えるだろうか。それどころか,御子というエホバの賜物を侮辱し,刑柱でのイエスの死を無価値ででもあるかのように扱い,数分間の不義の歓楽のためにエホバの過分の親切をことごとく投げ捨ててしまうほど,自分はほんとうにそれほどにまで感謝の念に欠けているのか。品位・高潔さ・廉直さに対する愛はどこに行ってしまったのか」。

      19 物質主義の魅力を感じはじめたら,どんな適切な質問を自分にすることができますか。

      19 物質主義の魅力や,現在の体制が提供する見せかけの利益や利得に深入りするようにとのさそいを感じる時には,次のように自問するか,「心のうちの隠れた人」に尋ねるべきです。「物質的な事柄が,エホバへの奉仕に,兄弟たちとの交わりに,また他の人々に命の道を歩ませる真の助けとなってきたということを知る満足に比べうるほどの喜びを,はたして一度でももたらしたことがあるだろうか。正義の心がほんとうに欲しえるどんな将来をこの世は提供してくれるというのだろうか。しばらくの間私を使って,役に立たなくなると棄ててしまうのがこの事物の体制であることを十分承知なのに,この体制に愛情を注ぎたいのだろうか」。確かに,神の新しい秩序での祝福は待たねばなりません。しかしヤコブはこう助言しています。「あなたがたもまたしんぼうしなさい。あなたがたの心を強固にしなさい。なぜなら,主の臨在は近づいたからです」― ヤコブ 5:7,8,新。

      20 中立に関する問題に直面した時,どんな事柄を心の中で再吟味すべきですか。

      20 同様に,この世の体制に関しての中立の立場を放棄したり神への忠誠を破ったりするようなんらかの方法で圧力を受ける場合には,この世の神である悪魔サタンが諸国民の間に助長してきた流血・犯罪・どん欲・残忍行為などの卑劣な事柄を心の中で再吟味してください。一瞬といえども彼の側に立場を取ることなど,どうしてできるでしょうか。たとえ悪魔サタンに迫害され,投獄され,拷問されようと,サタンとその腐敗した獣的冷酷な体制を支持して,新しい事物の体制の神であるエホバをどうして拒絶することができるでしょうか。

      21 (イ)「終わりの時」が相当進行したことを知り,どうしたらわたしたちの心が「重圧を受け」るのを防ぐことができますか。(ロ)ソロモンは,全き心を維持するようにとの父親の忠告にしたがう点で,どのように失敗しましたか。

      21 わたしたちは同じ手段により,正しく,品位のある,誠実なものすべてに対する愛を心に強め,またエホバが非とし,忌みきらわれるもののすべてに対して純真な憎しみをつちかうことができます。(歴代上 29:17,ヘブル 1:9,新)しかし,ひとたび良い心を育て上げたからといって,それでもうだいじょうぶだと考えることは許されません。それを守らねばならないのです。「しかし,食べ過ぎと多量の飲酒と生活の心配ごとによってあなたがたの心が重圧を受け,その日が突然わなのようにたちどころにあなたがたに臨むことが決してないよう自分自身に注意を払いなさい。それは全地の表に居住する者すべての上にやって来るからです」。(ルカ 21:34,35,新)ソロモンはエホバに従順な心と神の民をさばくに際しての分別を求めて祈りました。『神はソロモンにきわめて多大の知恵と理解,また,心の広さを』引き続き与えられたにもかかわらず,「ソロモンの年老いた時になって,彼の妻たちが自ら彼の心を他の神々に従うよう傾かせた。そして彼の心は,自分の父ダビデの心のようにその神であるエホバに対して完全ではなかった」のです。そうしたことを読むと,深い悲しみの念を覚えずにはいられません。(列王上 4:29; 11:1-6,新)考えてみてください。エホバからの知恵をもってそれほど豊かに祝福されていながら,エホバの模型的な王国とエホバの壮大な神殿の建築とに関して非常に多くの特権にあずかっていながら,彼は自分の異邦人の妻たちに心をひかれて,他の神々を崇拝するようになりました。しかも彼は,霊感のもとに心に関してきわめて多くの事柄を書いたその人だったのです。

      22 エホバの意志を行なわねばならないという理由だけではなく,さらにそうすることを欲するという理由でエホバに仕えるのは肝要です。なぜですか。

      22 では,わたしたちが何をするにせよ,また行なうことすべてにおいて,エホバに対するよう心すべてを尽くしてそれを行ないましょう。エホバはそうした奉仕をたいへん喜ばれます。エホバは感謝を表わさない神ではありません。わたしたちの行なうことすべてに感謝し,わたしたちを報い,祝福し,数々の賜物を与えることに喜びを見いだしておられるのです。しかしわたしたちの奉仕は,心全体をもっての誠実,純真なものでなければなりません。エホバはどんな逃げ口上でも見通され,わたしたちが他の理由で物事を行なうなら,それを知ることができます。ご自分に対する賛美よりも報告にもっと関心があるなら,外見や他の人に対する印象を気づかっているなら,また単にそうしなければならないと感じているから物事をしているに過ぎないなら,エホバはそれをごらんになります。命を欲しているなら,奉仕しなければならないのは確かです。しかしそうすることを欲し,エホバに仕えたいとの強い願望を持ち,今の自分に悪い事柄を犯させたり神の完全な標準に達しえないようにさせたりするすべてのものから解放されて,神に完全に仕えられる時に住みたいとの切望をいだかないかぎり,わたしたちは持続することも,忍耐することも,目標に到達することも決してできないでしょう。

      23 (イ)どんな理由で,ある人たちは命のための競走から落後するのでしょうか。(ロ)全き心を持つことを求めている人たちのために,わたしたちはパウロと同様どのように自信をもって祈ることができますか。

      23 すべての物事が神の新しい秩序の近いことをさし示しています。しかし終わりの時がこれほど進んだ今の時でさえ,エホバの奉仕に長年携わってきた人たちのある者は落後しているのです。なぜですか。独立の精神のためですか。それとも,神の王国が間もなく地上で,生き残った住民の上に全き支配を執ることを知っており,心の中で実際にはそれを望んでおらず,正義の統治がそのように全き支配をすることを欲していないためですか。エホバを捜し求めて見いだしたのであれば,彼に対して自分の心を全き状態に保ち,心全体をもって彼を愛し,仕えてください。エホバを離れてはなりません。離れるならば,エホバはあなたを永久に捨て去られるでしょう。パウロが当時の自分の兄弟たちのために祈ったように,今わたしたちも皆さんのためにこう祈ります。「主があなたがたの心を神の愛へと,またキリストのための忍耐へと成功裏に導き入れられますように」― テサロニケ後 3:5,新。

      [372ページの図版]

      わたしたちの思いが乱されたりさまよったりする時,実際には心のほうがさまよっている場合があるのではありませんか

      [374ページの図版]

      祈りはわたしたちと神との関係がどんなものであるかを明らかにします。あなたの祈りはどんな関係を明らかにしていますか

  • 水が世界を流し去る
    ものみの塔 1971 | 6月15日
    • 水が世界を流し去る

      親が子どもといっしょに読む特別な記事

      あなたは遊ぶのがすきですか。わたしはすきです。とてもおもしろいですね。遊んでいると,とても楽しくて,それをやめてほかのことをしたくなくなることがあります。

      でも,遊びにむちゅうになりすぎるのは危険だということを知っていましたか。そうです,危険です。遊びにむちゅうになりすぎると,神に注意を払わなくなるかもしれません。そのことを知っていましたか。

      偉大な師はそうしたことが起こるのを知っておられました。昔,全世界の人々に起きた事を知っておられました。なぜならそれを天から見ていたからです。イエスは『それらの人たちは食べていました。飲んでいました。男の人たちは結婚し,女の人たちはおよめに行っていました』と言われました。食べたり飲んだり,結婚したりするのは悪いことではありませんが,人々はそうした事柄に忙しくなりすぎて,神の言われることを聞くひまがありませんでした。それがいけなかったのです。

      それらの人たちにはなにが起こりましたか。イエスは言われました。『彼らは,洪水が来て自分たちすべてを流し去るまで注意しませんでした』。イエスは,洪水の水が全地をおおったノアの時代に死んだ人々のことを話しておられたのです。―マタイ 24:37-39,新。

      それらの人々に起きた事柄は今のわたしたちに教訓となる,とイエスは言われました。ですから,わたしたちがノアの時代の洪水について十分に知るのはたいせつです。

      まず第一に,エホバ神が洪水をもたらされたのはなぜですか。人々がたいへん悪い事をしていたためです。たぶん,他の人々が行なっていることをしているだけだからという理由で,自分たちがそれほど悪いとは,全部の人々は思っていなかったでしょう。でも神はそれがたいへん悪い事だということを知っておられました。

      しかし,神から恵みを受けた人がひとりいました。それはだれですか。ノアです。ノア

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