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聖書に対する洞察,第2巻
洞-2 「手を洗う」

手を洗う

(てをあらう)(Washing of Hands)

古代においては,水を満たした容器に手を入れるというよりも,大抵は手に水をかけて洗いました。そして汚れた水は,手の下に置いた容器や水盤に流れ込みました。―王二 3:11と比較。

律法の規定によれば,祭司は祭壇で奉仕したり会見の天幕に入ったりする前に,聖なる所と祭壇の間にある銅の水盤で手と足を洗うことになっていました。(出 30:18-21)律法はまた,人が殺害されているのが見つかり,殺人者がだれかを突き止められない場合,殺害された人に一番近い都市の年長者たちが,使役されたことも,くびきを引いたこともない若い雌牛を水の流れている奔流の谷に連れて行き,そこでその雌牛の首を折らなければならないとも述べていました。その後,年長者たちはその殺人に関して自分たちが潔白であることを示すため,その若い雌牛の上で手を洗うことになっていました。(申 21:1-8)さらに律法によると,漏出の起きている者が手をすすがぬまま触れた人は,汚れた者とされました。―レビ 15:11。

ダビデはエホバの祭壇の前で崇拝できるように,道徳的に清い手を望みました。(詩 26:6)一方,ピラトは民の前で手を洗うことによってイエスの死に関連した血の罪を晴らそうとむなしい努力をしました。しかし,そのようにしてもイエスの死に対する責任から実際に逃れることはできませんでした。判決を下す権威を持っていたのは,絶叫する暴徒たちではなくピラトだったからです。―マタ 27:24。

西暦1世紀の書士やパリサイ人は,手を洗うことを大変重視し,食事をしようとする時に手を洗わないイエスの弟子たちは昔の人々からの伝統を踏み越えていると言って,イエス・キリストに異議を唱えました。これには,衛生上の目的で普通に手を洗うことではなく,仰々しい儀式が関係していました。『パリサイ人とすべてのユダヤ人は,手をひじまで洗わなければ食事をしません』。(マル 7:2-5; マタ 15:2)バビロニア・タルムード(ソター 4b)は,手を洗わずに食べる者を娼婦と関係を持つ者と同列に置いており,手を洗うことを軽く見る者は「世から根絶やしにされる」だろうと述べています。―「水を浴びる」を参照。

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