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目ざめよ! 1991
目91 8/22 10–12ページ

スポーツをあるべき位置に保つ

人々は好きなスポーツをしているときに,体がよく動いて絶妙のプレーをしたり,持久力を発揮したりすると壮快な気分を味わいます。神は,身体活動を楽しむように人間を創造されました。もしかしたら,人のプレーを見て楽しむ人はもっと多いかもしれません。ですからスポーツは,あるべき位置に保てば,他の多くのものと同様に良いものです。

例えば,海岸に行って日光浴をする人が,もし日にあたり過ぎるならどうなるでしょうか。日焼けで炎症を起こし,せっかくの楽しい時が台なしになるばかりか,たいへん危険なことにもなりかねません。スポーツについても同じことが言えます。少しであれば良いのですが,度を過ごすと害になることもあるのです。

スポーツは非常に良い気分転換になり,楽しみを与えてくれます。しかしスポーツはそれ自体が目的になるべきではありません。本当の満足感や長続きする幸福感を与えるものではないからです。残念ながら,悲惨な経験をして初めてそのことを悟る人もいます。「数々のトロフィーもメダルもどうということはありません」と語ったのは,橋から身を投げて体が麻痺してしまった女子選手メアリー・ワゼターです。

彼女は言いました。「わたしは人生に関する多くの真理を学びました。その一つは,何とかして物事を完全に行ない業績を上げようとして大勢の人々が採用する方法では,真の満足は得られないということです。わたしの場合,成績が全優の生徒,州の選手権走者,魅力的な容姿の持ち主ということから満足感は得られませんでした」。

社会学者のジョン・ウィットワースは,やや厳しい見方をしてこう言いました。「試合の後に残るのは数字の羅列だけだ。そういうものには何も深い意味がないように見える。しかしそれが,今の社会には合っているようだ」。今日,スポーツがあまりにも重視されているため,すべてのものの釣り合いが崩れてしまっています。

ヘンリー・カーは1964年のオリンピックで陸上男子200メートルに優勝した後,このように語っています。「オリンピック村へ帰る途中,わたしは初めて金メダルをじっくりと見ました。……わたしは実際こう自問しました。『何ということだろう。これまで幾年間も必死の努力をしてきて,得たものといえばこれだけか』。当然喜ぶべき時であるのに,怒りがこみ上げてきました。まさに意気消沈と呼ぶべき状態でした」。マーロン・スターリングも,1987年に世界ボクシング協会のウエルター級チャンピオンになった後で同じように感じました。「タイトルなんて,子供から『パパ大好き』と言われることに比べたら大したことはない」と,スターリングは言いました。

ですから,次のような大切な教訓が学べます。つまり,生産的な仕事や家族,とりわけ神への崇拝が当然優先されるべきだということです。「[スポーツで行なう]体の訓練は少しの事には益があります」という聖書の言葉は間違いではありません。(テモテ第一 4:8)この言葉は,スポーツが生活の中で占めるべきふさわしい位置を示しています。つまり,スポーツは二次的なものであるべきです。スポーツが非常に強く人を引きつける以上,もっと重要な事柄がおろそかにならないようにいつも気を配っていなければなりません。

ですから,スポーツを話題にしたり,見たり,実際に行なったりする時間が多すぎると家族から苦情が出るなら,それに敏感に反応するのが賢明です。ある女性は,スポーツに凝っていた夫がそのことを考え直してくれたときに,感謝の気持ちを込めてこう言いました。「夫は,前よりも多くの時間を子供たちや私と一緒に過ごしてくれるようになりました。家族でテレビの試合を見ることも時々ありますが,ほとんどの晩は,一緒に散歩をしたり,一日の出来事を話し合ったりしています。これはとても楽しいことです。おかげで家族は幸せです」。

スポーツに潜む様々な問題を考えに入れながら,自分はスポーツに時間と注意をつぎ込みすぎてはいないだろうか,と正直に考えてみるのはいかがでしょうか。とはいえ,スポーツをあるべき位置に保つというこの問題には,ほかにも幾つかの面があります。

競争についてはどうか

競技を有害なものではなく,有益なものにするためには,競争に対する正しい態度が大切です。「コーチも,体育教師も,親も,子供自身も,勝つことに夢中になりすぎて,スポーツの本質を忘れてしまっている」と,プロのホッケー・チームのある医師は嘆きました。この医師の言葉を借りれば,スポーツの本来の目的は,「チームワークを発達させ,規律正しさを養うこと,健康な体づくり,そして最も大切な点として,楽しむこと」なのです。

しかし残念ながら,勝つことが重視されるために,多くの人の楽しみが損なわれています。スポーツ心理学者のブルース・オギルビーは言いました。「野球の大リーグのキャンプ地を10か所訪問し,新人にインタビューしたことがある。その結果,リトルリーグに入らなければよかったと言う者が87%に上った。以前は楽しかった競技が楽しくなくなったからである」。これと関係がある問題は,過度の競争が沢山のけがの一因になっているということです。

聖書は,「自己本位になって,互いに競争をあおり,互いにそねみ合うことのないようにしましょう」という指針を与えています。(ガラテア 5:26)希英辞典によれば,ここで「競争をあおり」と訳されているギリシャ語には,「奮い起こす」,「人に戦いや闘争を挑む」という意味があります。それでアメリカ訳はこの部分を,「虚栄心から互いに挑み合うことのないようにしましょう」と訳しています。新世界訳の脚注はもう一つの訳として,「互いに挑み合い」という表現を挙げています。

ですから,競争をあおるのが賢明でないことは明らかです。競争が良い人間関係を作り出すことはありません。もし対戦を挑まれて敗北し,勝者がその結果を自慢するようなことがあれば,その経験は屈辱的なものになるかもしれません。激しく競争する態度は愛のない態度です。(マタイ 22:39)同時に,もし競争が友好的で親切なレベルに保たれるならば,それは試合に興味や楽しさを添えるものになるかもしれません。

競争にかかわる要素を最小限に抑えたスポーツの仕方を考え出したいと思う人もいることでしょう。「13歳か14歳ぐらいまでは,スポーツのためのスポーツを行なうのが絶対に良いと思う」と,英国人のあるサッカー・コーチは言いました。このコーチは,結果やチームの戦績を記録しないこと,「順位表をつけたり,決勝戦を行なったりしないこと」を勧めています。そうです,勝つことを重視する態度は当然,最小限に抑えるか,完全に排除すべきなのです。

選手に対する態度

スポーツをあるべき位置に保つことには,才能豊かな有名選手に対するわたしたちの態度も関係しています。選手たちの運動能力や妙技に感心するのは無理からぬことかもしれません。しかし,選手たちを偶像視すべきでしょうか。若い人たちは,自分の部屋にそういう選手のポスターをはることがよくあるようです。そのような人たちは,本当に誉れに値するようなことをしているのでしょうか。それとは正反対かもしれません。

ナショナル・フットボール・リーグの優勝チームに入ったある新人選手は,初めのうちは大勢のチームメートを尊敬していました。しかしその行動や態度は,本人の言葉を借りれば,「彼らに対して抱いていた感情や敬意をすべて吹き払ってしまうようなものでした」。その選手はこう説明しました。「そうした選手たちは,例えば次のようなことを言います。『おい,先週は女房を除いて5人の女の子とうまくやったぞ』。わたしはその人を見て,こう考えました。『自分はこんな男を偶像視していたのか』」。

人間を偶像視するのは,その人がどんな人であっても確かに正しいことではありません。まして聖書が,少しの,あるいは限られた益しかないと言っている活動に秀でている人については,特にそう言えます。神の僕たちは,「偶像礼拝から逃げ去(る)」ように強く勧められているのです。―コリント第一 10:14。

スポーツにはどんな益があるか

これまで見てきたように,スポーツによる体の訓練は,「少しの事には益があ(る)」と聖書は述べています。(テモテ第一 4:8)どのような点でそう言えるのでしょうか。どうすればスポーツから益が得られるでしょうか。

2世紀のギリシャの医学者で,ローマ皇帝マルクス・アウレリウスの侍医も務めたガレノスは,全身の健康のために運動が大切であることを強調しました。ガレノスが勧めたのは球技でした。球技を行なうと全身を自然に動かすからです。また球技はたいてい楽しく行なえるので,人々はほかの運動をするよりは楽しい球技のほうをしたいと思うことでしょう。

多くの人が気づいているように,スポーツを通じて運動を行なうときには幸福感が得られます。刺激を与える体操や競技の後は,若返ったようなさわやかな気分になります。それもそのはず,ドロシー・ハリス博士が述べているように,「運動は自然の最高の鎮静剤」だからです。

今日,柔軟体操やジョギングや試合などを通じて行なう体の運動は,健康を保つのに大切であると一般に考えられています。「体の調子が良い人は日常の仕事を疲れずに楽々とこなし,なおかつ他の関心事にもエネルギーを費やせる。そのような人はまた,体の調子が悪い人に比べ,老化の影響に抵抗しやすいかもしれない」と,ワールドブック百科事典は述べています。

しかし,スポーツがいくら体の健康に役立つといっても,その益は限られています。老化と死は,人間の努力ではどうにもなりません。しかし聖書は,「体の訓練は少しの事には益があ(る)」と言った後で,「敬虔な専心はすべての事に益がある……。それは,今の命と来たるべき命との約束を保つ」と述べています。―テモテ第一 4:8。

わたしたちに命を与えることができるのは,わたしたちの創造者エホバ神をおいてほかにはいません。ですから何よりも大切なのは,「敬虔な専心」,つまり,神に対する崇敬の念や崇拝や奉仕です。それで敬虔な専心を実践する人は,神のご意志を行なうことを最優先させます。イエス・キリストと同様,神とその王国に関する良い事柄を他の人々に語る活動に青春を費やし,神への奉仕に打ち込むのです。

そうです,人は神の関心事を第一にすることにより,神の是認を得ると共に,義にかなった新しい世でとこしえに生きることができるようになります。そこでは,幸福な神エホバが,いつまでも続く本当の幸福と満足を与えてくださるでしょう。

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