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人類に助け手が必要なのはなぜかものみの塔 2000 | 3月15日
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同じく神の憐れみを受けた別の人は,こう説明しています。「もしだれかが罪を犯すことがあっても,わたしたちには父のもとに助け手,すなわち義なる方イエス・キリストがおられます。そして彼はわたしたちの罪のためのなだめの犠牲です。ただし,わたしたちの罪のためだけではなく,全世界の罪のためでもあります」。―ヨハネ第一 2:1,2。
イエス・キリストはなぜ,『父のもとにいる助け手』と呼ばれているのでしょうか。イエスはどのような意味で,罪のための「なだめの犠牲」なのでしょうか。
なぜ助け手が必要か
イエスが地上に来られたのは,「自分の魂を,多くの人と引き換える贖いとして与えるため」でした。(マタイ 20:28)贖いとは,だれかを,あるいは何かを買い戻したり解放したりするために支払われる代価です。「贖い」と訳されているヘブライ語の動詞形は,罪を覆う,もしくは贖罪するという考えを伝えています。(詩編 78:38)マタイ 20章28節などで使われているギリシャ語は,特に戦争捕虜を請け戻す,あるいは奴隷を解放するために払う代価を指す語として用いられました。公正の要求を満たすために,あるものが価値の点でそれと対応する別のものと交換されるのです。
人類は,最初の人間が神に反逆した結果として奴隷状態に置かれました。創世記 3章が示しているとおり,完全な人間アダムは,エホバ神に対して不従順な道を選びました。そうすることによってアダムは,自分自身と生まれてくる自分の子孫とを,罪と死への奴隷状態に売り渡しました。こうしてアダムは,自分と自分の子孫すべてが受けるはずであった,人間としての完全な命の賜物を喪失しました。―ローマ 5:12,18,19; 7:14。
古代イスラエルにおいて,神は人々の罪を贖う,つまりそれを覆うために,動物の犠牲をささげる取り決めを設けました。(レビ記 1:4; 4:20,35)犠牲となる動物の命は,事実上,罪人の命の代わりとして与えられました。(レビ記 17:11)ですから,「贖罪の日」は「贖いの日」とも呼ぶことができます。―レビ記 23:26-28。
しかし,動物は人間より下位のものであるため,「雄牛ややぎの血は罪を[完全に]取り去ることができ(ません)」でした。(ヘブライ 10:1-4)罪を恒久的に贖う,つまり取り除くために十分な価値のある犠牲は,アダムが喪失したものと価値の等しい犠牲でなければなりません。公正のはかりは,ひとりの完全な人間(イエス・キリスト)が,もうひとりの完全な人間(アダム)の失ったものとちょうど釣り合うことを要求しました。ひとつの完全な人間の命だけが,アダムの子孫を,その最初の父親が売り渡した奴隷状態から請け戻すための贖いの代価となり得ました。「魂には魂」を与えることによって,真の公正の要求が満たされます。―出エジプト記 21:23-25。
アダムが罪をおかして死の宣告を受けたとき,まだ生まれていなかった子孫は,依然その腰にある者としてアダムと共に死にました。完全な人間であったイエス,つまり「最後のアダム」は,家族を設ける道を選びませんでした。(コリント第一 15:45)イエスが完全な人間の犠牲として死んだとき,その腰には,のちに生まれてくるはずの子孫がいました。ですから,イエスの腰にあった潜在的な人間種族は,イエスと共に死んだとも言えるでしょう。イエスは,アダムの罪深い,死すべき家族を自分のものとして引き取り,自らの家族を設ける権利を放棄しました。自らの完全な人間としての命を犠牲にすることによって,イエスはアダムから出た人類すべてを買い戻し,自分自身の家族として迎え入れ,その「とこしえの父」となりました。―イザヤ 9:6,7。
イエスの贖いの犠牲は,従順な人々が神の憐れみを受け,永遠の命を享受するための道を開きました。ですからパウロは,「罪の報いは死ですが,神の賜物は,わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命……です」と書いています。(ローマ 6:23)わたしたちは,贖いに関連して示された愛や同情を思うとき,エホバを賛美しないではいられません。エホバにとっても,その深く愛するみ子にとってもきわめて高い代償を払って,その贖いを備えてくださったのです。(ヨハネ 3:16)そしてイエスは,天の命に復活し,自らの贖いの犠牲の価値を天で神に差し出したとき,まさしく『父のもとにいる助け手』となりました。a (ヘブライ 9:11,12,24。ペテロ第一 3:18)しかしイエス・キリストは,今日,天においてどのようにわたしたちの助け手となっておられるのでしょうか。
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イエス・キリストはどのようにわたしたちを助けますかものみの塔 2000 | 3月15日
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イエス・キリストはどのようにわたしたちを助けますか
イエス・キリストが人々を助けるためにこの地上で行なった事柄は,まさにすばらしいものでした。事実,目撃証人のひとりは,イエスの生涯中の無数の出来事を振り返って,こう述べました。「実に,イエスの行なわれた事はほかにも多くあるが,仮にそれが事細かに記されるとすれば,世界そのものといえども,その書かれた巻き物を収めることはできないであろうと思う」。(ヨハネ 21:25)イエスがこの地上で非常に多くの事柄を行なわれたことを考えると,次のような質問が生じるかもしれません。『イエスは天でどのようにわたしたちの助け手となってくださるのだろうか。イエスの優しい同情心から今でも益を受けられるのだろうか』。
その答えは大いに心温まるもの,真に慰めとなるものです。聖書によると,キリストは「天そのものに入(り),今やわたしたちのために神ご自身の前に出てくださる」のです。(ヘブライ 9:24)わたしたちのために何を行なってくださったのでしょうか。使徒パウロはこう説明しています。「[キリストは,]そうです,やぎや若い雄牛の血ではなく,ご自身の血を携え,ただ一度かぎり聖なる場所[「天そのもの」]に入り,わたしたちのために永遠の救出を得てくださった」のです。―ヘブライ 9:12。ヨハネ第一 2:2。
何と良いたよりなのでしょう。イエスの昇天は人々のために行なわれたすばらしい業の終わりではありません。それによってイエスは,さらに多くの事柄を人類のために行なえるようになったのです。それは,神がその偉大な愛ある親切によってイエスを「公僕」,つまり大祭司として立て,「天におられる威光のみ座の右」で仕えるようにされたからです。―ヘブライ 8:1,2。
「公僕」
ですからイエスは,天にあって,人類のための公僕という立場で仕えることになりました。イエスは,古代イスラエルの大祭司が神の崇拝者たちのために行なったのと同様の業を行なうのです。それはどのような業でしょうか。パウロはこう説明しています。「大祭司はみな供え物と犠牲の両方をささげるために任命されます。それゆえに,この方[昇天したイエス・キリスト]もささげるものを持つことが必要でした」。―ヘブライ 8:3。
イエスは,古代の大祭司がささげたものよりはるかに勝った捧げ物を携えていました。「やぎや雄牛の血」は古代のイスラエルに,ある程度の霊的な清さをもたらしました。「まして……キリストの血は,わたしたちの良心を死んだ業から清めて,生ける神に神聖な奉仕をささげられるようにしてくださるのではないでしょうか」と述べられているとおりです。―ヘブライ 9:13,14。
イエスはまた不滅性を授けられており,そのゆえにも,優れた公僕となっておられます。古代イスラエルでは,「祭司としてとどまることを死によって阻まれるため,多くの者が次々に祭司とならなければなりません」でした。しかしイエスについてはどうでしょうか。パウロはこう述べています。「彼は……後継者を持たずに自分の祭司職を保ちます。それゆえ,彼は自分を通して神に近づく者たちを完全に救うこともできます。常に生きておられて彼らのために願い出てくださるからです」。(ヘブライ 7:23-25。ローマ 6:9)そうです,天の神の右には,『常に生きておられて,わたしたちのために願い出てくださる』公僕である方がいるのです。それが今日のわたしたちに何を意味するかを考えてみてください。
イエスが地上におられた時,人々は助けを求めてイエスの元に群れをなしてやって来ました。助けてもらおうとして,かなりの距離を旅して来なければならない場合もありました。(マタイ 4:24,25)天におられるイエスは,すべての国の人が容易に近づける存在です。イエスは天という恵まれた場所にあって,いつでもわたしたちの公僕として働いてくださるのです。
イエスはどのような大祭司か
福音書の記述に描かれたイエスの人物像は,進んで他の人を助けようとする,優しい同情心に満ちた方であることを余すところなく示しています。イエスは非常に自己犠牲的な人でした。自分にも弟子たちにも大いに必要な休息を取ろうとした時に,その自由が妨げられたことは一度ならずありました。それでもイエスは,貴重な安らぎのひとときを奪われたなどと感じるのではなく,助けを求めてやって来た人たちを「哀れに思われ」ました。疲れていても,空腹であっても,のどが渇いていても,「イエスは彼らを親切に迎え」,誠実な気持ちを抱く罪人を助けるためなら,食事なしで過ごすこともいといませんでした。―マルコ 6:31-34。ルカ 9:11-17。ヨハネ 4:4-6,31-34。
イエスは哀れみの気持ちに動かされて,人々の身体的,感情的,霊的な必要を満たすために実際的な行動を取りました。(マタイ 9:35-38。マルコ 6:35-44)そして,永続的な安らぎや慰めを見いだすよう人々を教えました。(ヨハネ 4:7-30,39-42)例えば,イエスは次のような非常に温かみのある招きのことばを人々に差し伸べています。「すべて,労苦し,荷を負っている人よ,わたしのところに来なさい。そうすれば,わたしがあなた方をさわやかにしてあげましょう。わたしのくびきを負って,わたしから学びなさい。わたしは気質が温和で,心のへりくだった者だからです。あなた方は自分の魂にとってさわやかなものを見いだすでしょう」。―マタイ 11:28,29。
イエスは人々に対して非常に深い愛を抱いていたので,最後には,自らの命を罪ある人類のために差し出しました。(ローマ 5:6-8)この点に関して使徒パウロは次のように論じています。「ご自身のみ子をさえ惜しまず,わたしたちすべてのためにこれを引き渡してくださったその方[エホバ神]が,どうしてそのご親切によって,み子と共にほかのすべてのものをも与えてくださらないことがあるでしょうか。……キリスト・イエスは死んでくださった方,いえ,死人の中からよみがえらされて神の右におられる方であり,この方はまた,わたしたちのために願い出てくださるのです」。―ローマ 8:32-34。
思いやりのある大祭司
イエスは人間として,空腹,渇き,疲れ,苦もん,痛み,そして死を経験されました。イエスが耐え忍んだストレスや圧力は,苦悩する人類のために大祭司として仕える上で,かけがえのない備えとなりました。パウロはこう書いています。「[イエス]はすべての点で自分の『兄弟たち』のようにならなければなりませんでした。神にかかわる事柄において憐れみ深い忠実な大祭司となり,民の罪のためになだめの犠牲をささげるためでした。彼は,自分自身が試練に遭って苦しんだので,試練に遭っている者たちを助けに来ることができるのです」。―ヘブライ 2:17,18; 13:8。
イエスは,人々が神に近づくのを助けることができ,またそうする意志のあることを実際に示しました。しかしそれは,許すことを渋る,厳格で無情な神を説得しなければならないという意味でしょうか。決してそのような意味ではありません。聖書は,「エホバ(は)善良で,進んで許してくださる」と保証しています。また,「わたしたちが自分の罪を告白するなら,神は忠実で義なる方ですから,わたしたちの罪を許し,わたしたちをすべての不義から清めてくださいます」とも書かれています。(詩編 86:5。ヨハネ第一 1:9)実際のところ,イエスの思いやりのある言葉や行動は,み父の同情心,憐れみ,そして愛を反映するものなのです。―ヨハネ 5:19; 8:28; 14:9,10。
イエスは,悔い改めている罪人にどのように安らぎをもたらすのでしょうか。神のみ旨にかなう事を行なおうとする各自の誠実な努力に喜びと満足を見いだせるよう,その人たちを助けることによってです。パウロは仲間の油そそがれたクリスチャンにあてた手紙の中で,その状況を次のようにまとめています。「それゆえ,わたしたちには,もろもろの天を通られた偉大な大祭司,神の子イエスがおられるのですから,この方についての告白を堅く守りましょう。わたしたちは,わたしたちの弱いところを思いやることのできない方ではなく,すべての点でわたしたちと同じように試され,しかも罪のない方を,大祭司として持っているのです。それゆえ,時にかなった助けとして憐れみを得,また過分のご親切を見いだすために,はばかりのないことばで過分のご親切のみ座に近づこうではありませんか」。―ヘブライ 4:14-16。
「時にかなった助け」
しかし,重い病気,のしかかるような罪の意識,抗しがたい失望感,憂うつな感情など,自分では対処しきれないと感じるような問題に直面したときは,どうすればよいでしょうか。イエス自身がいつも頼った備え,つまり祈りという貴重な特権を用いることができます。例えば,わたしたちのために自らの命を差し出す前の晩のイエスについて,こう記されています。「彼は……いよいよ切に祈られた。そして,汗が血の滴りのようになって地面に落ちた」。(ルカ 22:44)確かにイエスは,神に熱烈な祈りをささげるとはどういうことなのかをよく知っておられます。イエスは「肉体でおられた間,自分を死から救い出すことのできる方に,強い叫びと涙をもって,祈願を,そして請願をささげ,その敬虔な恐れのゆえに聞き入れられ」たのです。―ヘブライ 5:7。
人間にとって神に「聞き入れられ」,強められることがどれほど大きな意味を持つかを,イエスはご存じです。(ルカ 22:43)さらにイエスは,「あなた方が父に何か求めるなら,父はそれをわたしの名によって与えてくださ(います)。求めなさい。そうすれば受けます。あなた方の喜びが満ちるためです」と約束しました。(ヨハネ 16:23,24)それでわたしたちは,み子がその権威と贖いの犠牲の価値をわたしたちのために用いるのを神は許される,という確信を抱いて神に請願することができます。―マタイ 28:18。
わたしたちは,イエスが天での役割を果たして,適切な助けをふさわしい時に与えてくださるということを確信できます。例えば,何かの罪を犯したとしても,それを誠実に悔いているかぎり,「わたしたちには父のもとに助け手,すなわち義なる方イエス・キリストがおられ(る)」という保証の言葉に慰めを見いだすことができます。(ヨハネ第一 2:1,2)天にいるわたしたちの助け手また慰め手である方は,その名を通してささげられる,聖書に調和した祈りがかなえられるよう,わたしたちのために願い出てくださるのです。―ヨハネ 14:13,14。ヨハネ第一 5:14,15。
キリストによる助けに感謝と認識を示す
み子を通して神に請願をささげるだけでなく,それ以上のことも関係しています。贖いの犠牲の価値をもって人類を『買い取ったキリスト』は,いわば人類を「買い取ってくださった所有者」となったのです。(ガラテア 3:13; 4:5。ペテロ第二 2:1)わたしたちは,キリストの所有権を認め,次の招きの言葉に進んでこたえ応じるとき,キリストが行なってくださるすべての事に感謝を表わすことになります。「だれでもわたしに付いて来たいと思うなら,その人は自分を捨て,日々自分の苦しみの杭を取り上げて,絶えずわたしのあとに従いなさい」。(ルカ 9:23)『自分を捨てる』とは,所有権が変わったことを単に言葉で認めることではありません。結局のところ,キリストが「すべての人のために死んだのは,生きている者たちがもはや自分のために生きず,自分たちのために死んでよみがえらされた方のために生きるため」なのです。(コリント第二 5:14,15)それで,贖いに対する感謝と認識は,人の持つ見方や目標や生き方に大きな影響を及ぼすはずです。『わたしたちのためにご自身を与えてくださったキリスト』に対してわたしたちはとこしえの恩義を負っているのですから,イエスとその愛あるみ父であるエホバ神とについて,もっと多くを学びたいと思うに違いありません。さらに,信仰において成長し,神の有益な規準に従って生活し,「りっぱな業に熱心」でありたいとも思うはずです。―テトス 2:13,14。ヨハネ 17:3。
クリスチャン会衆は,わたしたちが時にかなった霊的食物を得,また励ましと導きを受けるための場所です。(マタイ 24:45-47。ヘブライ 10:21-25)一つの例として,霊的に病気の人がいるなら,その人は「会衆の年長者たち[任命された長老たち]を自分のところに呼(ぶ)」ことができます。ヤコブはさらに次のような保証の言葉も付け加えています。「そうすれば,信仰の祈りが病んでいる人をよくし,エホバはその人を起き上がらせてくださるでしょう。また,その人が罪を犯したのであれば,それは許されるでしょう」。―ヤコブ 5:13-15。
次の例を考えてください。南アフリカの刑務所で服役中の一男性は,ある会衆の長老にあてた手紙の中で,「神の王国を追い求めるよう人々を助けるために,イエス・キリストの始めた良い業を遂行しているすべてのエホバの証人」に感謝の言葉を言い表わしました。そしてこう述べています。「お手紙をいただき感慨無量です。私の霊的な救いに対するみなさんの気遣いに心を打たれました。悔い改めなさいというエホバ神の呼びかけにこたえるよう,いっそうの励みを感じました。この27年間というもの,罪,欺き,不法,不道徳,あいまいな宗教といった闇の中で,つまずいたり,さまよったりしてきました。エホバの証人に引き合わされて初めて,まさに真の道,正しい道を見つけたと感じました。あとはそれに付き従うだけです」。
近い将来にいっそうの助け
世界の状況は悪化の一途をたどっていますが,それはわたしたちが,「大患難」が勃発する前の,歴史上きわめて重要な時期にいることの明白な証拠です。現在,すべての国民と部族と民と国語の中から来た大群衆が,「自分の長い衣を子羊の血で洗って白く」しています。(啓示 7:9,13,14。テモテ第二 3:1-5)それらの人々は,イエスの贖いの犠牲に信仰を働かせることによって,罪の許しを得,また神との緊密な関係に入るように助けられています。事実,神の友となっているのです。―ヤコブ 2:23。
子羊であるイエス・キリストは,「[大患難の生存者たち]を牧し,命の水の泉に彼らを導かれ(ます)。そして神は彼らの目からすべての涙をぬぐい去られるで(しょう)」。(啓示 7:17)その後イエスは,大祭司としての務めを完全に果たされます。神の友とされている人々すべてが,霊的にも身体的にも精神的にも感情的にも,「命の泉」から十分に益を得られるように助けるのです。イエスが西暦33年に始め,それ以来,天でずっと行なわれてきた事柄は,完全に成し遂げられることになります。
ですから,神とキリストがわたしたちのために行なってくださった事,そして今なお行なっておられる事すべてに対して,深い感謝と認識を示すことを決してやめないでください。使徒パウロはこう勧めています。「主にあって常に歓びなさい。……何事も思い煩ってはなりません。ただ,事ごとに祈りと祈願をし,感謝をささげつつあなた方の請願を神に知っていただくようにしなさい。そうすれば,一切の考えに勝る神の平和が,あなた方の心と知力を,キリスト・イエスによって守ってくださるのです」。―フィリピ 4:4,6,7。
天にいるわたしたちの助け手イエス・キリストに対して,感謝と認識を表わす重要な方法があります。2000年4月19日,水曜日の日没後に,世界中のエホバの証人は,キリストの死の記念式を執り行なうために集い合います。(ルカ 22:19)それは,キリストの贖いの犠牲に対する感謝と認識を深める機会となるでしょう。神がキリストを通して与えてくださるすばらしい救いの取り決めが,どのようにとこしえの益をもたらすかについて,是非とも出席してお聞きになってください。この特別な集会の開かれる正確な時間と場所については,お近くのエホバの証人と連絡を取って確認なさってください。
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イエス・キリストはどのようにわたしたちを助けますかものみの塔 2000 | 3月15日
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わたしたちは,イエスが天での役割を果たして,適切な助けをふさわしい時に与えてくださるということを確信できます。例えば,何かの罪を犯したとしても,それを誠実に悔いているかぎり,「わたしたちには父のもとに助け手,すなわち義なる方イエス・キリストがおられ(る)」という保証の言葉に慰めを見いだすことができます。(ヨハネ第一 2:1,2)天にいるわたしたちの助け手また慰め手である方は,その名を通してささげられる,聖書に調和した祈りがかなえられるよう,わたしたちのために願い出てくださるのです。―ヨハネ 14:13,14。ヨハネ第一 5:14,15。
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