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エサル・ハドン聖書に対する洞察,第1巻
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その碑文の中でエサル・ハドンは,「わたしは強力である。全く強力である。わたしは英雄である。わたしは偉大である。まさに偉大である」と述べていました。(「アッシリアとバビロニアの古代の記録」,第2巻,226ページ)
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エサル・ハドン聖書に対する洞察,第1巻
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サマリアに異国の民を移住させる点で多くを行なった,アッシリアの王エサル・ハドン
自らの碑文の一つの中で,エサル・ハドンは自分の父の死に関する聖書の記録(イザ 37:37,38)を確証して次のように述べています。「固い決意がわたしの兄弟たちを『襲った』。彼らは神々を捨てて暴虐の行為に走り,悪事を企てた。……王位を得るため,彼らはその父セナケリブを殺した」―「アッシリアとバビロニアの古代の記録」,D・ラッケンビル著,1927年,第2巻,200,201ページ。
エサル・ハドンは,その父の死の前から自分がすでに継承者に選ばれていたと述べており,アッシリアの王になる前にバビロンの副王を務めていたようです。父が暗殺された後,エサル・ハドンは殺害者たちを追ってアルメニア(「アララトの地」,王二 19:37)まで行き,そこで彼らを撃ち破ったと告げています。彼の公式の統治は12年間続いたと考えられています。
その統治の初期に,エサル・ハドンはセナケリブが滅ぼしたバビロンの再建に着手しました。エサギラ神殿は再建され,都市そのものについてエサル・ハドンは次のように述べています。「バビロンを……わたしは新たに建て,拡張し,高く起こし,堂々たるものとした」―「アッシリアとバビロニアの古代の記録」,第2巻,244ページ。
エサル・ハドンの記録は,ゴメルの子孫と考えられているギミッライ,すなわちキンメリア人に対する軍事行動について詳しく述べています。(創 10:2; エゼ 38:6と比較。)彼はシドン市に対しても略奪を行ない,その近くに新しい都市を設けて,そこをカル・エサルハドンと名づけました。その碑文の一つにおいて,エサル・ハドンはユダのマナセ(ヤウディの王メナシ)を含む約20人の従属の王の名を列挙しています。
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