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コロンビア1990 エホバの証人の年鑑
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ビルは,こう述べています。「1982年6月に,ブルックリンから手紙が届き,1983年1月にコロンビアへオフセット印刷機が送られることになりました。私たちは喜んで計画に取りかかりました。その後11月の初めに,印刷設備に課される関税が1983年1月1日付で15%まで引き上げられることを知りました。ブルックリンは印刷機の早期発送を承認するでしょうか。また,それは年内に実現するでしょうか。輸入業者や税関ブローカーは,『2か月足らずで,しかも年末の休み中では,不可能だ。あきらめたほうがいい』と言いました。
「『しかしエホバのご意志であれば成し遂げられる』と私たちは考えました。コロンビア支部は,印刷機を米国の都市マイアミまでトラックで輸送し,その後747型ジャンボ・ジェット機でボゴタまで空輸する ― 問題が少なく,経済的で,ずっと早く,手荒な扱いが少ない ― ため,ブルックリンに前もって計画と予算を提示しました。私たちは協会に決定を仰ぎ,その後統治体の出版委員会による承認が得られました。
「兄弟たちはこの大仕事を自分たちで監督することにしました。11月16日,私たちは認可申請書を輸入局に提出しました ― 認可される場合でも,最低1か月を要します。これはかなり際どい状況です。次に,私たち作業班は税関手続きのあらましを検討し,各段階で予想される緊急事態に備えた計画を立てました。私は,日誌をつけたほうがよいと思いました」。
日誌
「12月20日,月曜日: マイアミより知らせが入る ― ニューヨークからトラックが到着し,印刷機のやぐらと部品をジャンボ機に積み込む用意が整った。輸入認可についてはまだ何も連絡がない。
「12月21日,火曜日: ベテル奉仕者のホセ・グラナドスが税関ブローカーと共に税関に出向き,空港における輸入権の認可を願い求めた。行政担当秘書はそれを正式な申請として聞き入れようとしない。そこでグラナドスは,非営利団体である協会の目的をはっきりと伝え,『協会が一切の運搬を受け持ち,最初の積み荷がマイアミから木曜日に到着する』ことを説明した。タイプで許可書が作成され,署名と捺印がなされて,許可が与えられた。
「12月22日,水曜日: ベテル奉仕者のビル・ノイフェルトと一緒に早朝に出発し,輸入局に向かう。『もし認可申請書が却下されたらどうなるだろうか』。二人共そのことは考えないようにした。事務所に着くと,秘書に温かい笑顔で迎えられる。彼女によると,『昨日,輸入局が申請書を受理したので,階下でそれを受け取るように』とのこと。
「12月23日,木曜日午前: 我々エホバの証人のチームは早くからエル・ドラード空港で待機した ― クレーンと荷台の低いトラックも控えている ― 大きな747型機が三つの重い積み荷の最初のものを載せて到着した。税関職員,検閲官,税務官,会計検査官が代わる代わる異議を唱えたが,正式な許可書の写しがあったため,抗議はことごとく退けられた。
「12月24日,金曜日: ジャンボ機で2番目の積み荷が届き,国の認可が得られた。キリスト教世界の祝日前だったが問題は生じなかった。
「12月29日,水曜日: 最後の積み荷が予定通り到着し,税関を通過した後,支部まで滞ることなくトラックで輸送された。年末で業務速度が鈍り,官公庁の活動がストップする直前で見事に間に合った。
「『不可能なこと』が実現したのです! その年の終わりにベテル・ホームでは,世の新年とは関係なしに歓びの声が上がりました。それは,最終期日である1982年12月31日までにコロンビアのオフセット印刷機を工場に運び入れるという努力を,エホバが成功をもって報われたことに対する歓呼の声だったのです」。
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コロンビア1990 エホバの証人の年鑑
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[124ページの図版]
専門家たちは,「不可能だ。あきらめたほうがいい」と述べたが,コロンビアの輪転機はジャンボ・ジェット機で運び込まれ,経費の節減に大きく役立った。
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