ものみの塔 オンライン・ライブラリー
ものみの塔
オンライン・ライブラリー
日本語
  • 聖書
  • 出版物
  • 集会
  • 目ざめている人たちは幸いです
    ものみの塔 1997 | 3月1日
    • どうすれば目ざめていられるか

      9 クリスチャンの出版物を助けにして聖書を研究することが非常に重要なのはなぜですか。

      9 クリスチャンの出版物を助けにして勤勉に聖書を研究することは,霊的に目ざめているための刺激になります。そのような研究は,宣教奉仕に備えさせ,危機に立ち向かう助けとなり,とこしえの幸福への道を示します。(箴言 8:34,35。ヤコブ 1:5-8)研究は徹底的に,またより効果的な方法で行なうべきです。(ヘブライ 5:14–6:3)いつも良い食物を食べることは,目ざめていて機敏であるための助けになります。そのようにすれば,栄養不良から無気力になるのを防げます。わたしたちには,霊的な栄養不良で眠くなるべき理由はありません。神は油そそがれた「忠実で思慮深い奴隷」を用いて霊的な食物を豊富に供給しておられるからです。(マタイ 24:45-47)個人研究や家族研究を通して霊的食物をいつも取り入れることは,目ざめていて,「信仰の点で健全」であるための一つの方法です。―テトス 1:13。

      10 クリスチャンの集会や大会は,霊的に目ざめているうえでどのように助けになりますか。

      10 クリスチャンの集会や大会は,霊的に目ざめているための助けになります。集会や大会は励みとなり,また『愛とりっぱな業とを鼓舞し合う』機会となります。「その日が近づくのを見て」いる今,定期的に集い合うことはいよいよ大切です。今やその日は本当に近づいています。それは「エホバの日」であり,神がご自分の主権を立証される日です。その日が自分にとって本当に重要であれば ― そのはずですが ―『集まり合うことをやめたりはしない』でしょう。―ヘブライ 10:24,25。ペテロ第二 3:10。

      11 クリスチャンの宣教奉仕は霊的に目ざめているうえで不可欠であると言えるのはなぜですか。

      11 クリスチャンの宣教奉仕に心をこめて参加することは,霊的に目ざめているうえで不可欠です。良いたよりを宣べ伝える業を定期的に,また熱心に行なえば,目ざとさを保てます。宣教奉仕は,人々に神の言葉,神の王国,神の目的などについて語る多くの機会を与えてくれます。家から家へと証言を行ない,再訪問し,「永遠の命に導く知識」などの出版物を用いて家庭聖書研究を司会することには,心を満ち足らせるものがあります。古代エフェソスの長老たちは,パウロが自分たちを「公にも家から家にも」教えたことを証言できました。(使徒 20:20,21)もちろん,忠実なエホバの証人でも,難しい健康上の問題を抱えていて十分に宣教奉仕に携われない人もいますが,それでも他の人にエホバとその王権について話すいろいろな方法を見つけ出し,それによって大きな喜びを得ています。―詩編 145:10-14。

      12,13 飲食における放縦を避けるべきなのはなぜですか。

      12 放縦な生活態度を避けることは霊的に目ざめている助けになります。イエスはご自分の臨在について話したとき,使徒たちにこう勧めました。「食べ過ぎや飲み過ぎまた生活上の思い煩いなどのためにあなた方の心が押しひしがれ,その日が突然,わなのように急にあなた方に臨むことがないよう,自分自身に注意を払いなさい。それは,全地の表に住むすべての者に臨むからです」。(ルカ 21:7,34,35)大食や酩酊は聖書の原則と相いれません。(申命記 21:18-21)箴言 23章20,21節はこう述べています。「ぶどう酒を多量に飲む者や,肉をむさぼり食う者の仲間に加わってはならない。酔いどれや貪欲な者は貧困に陥り,眠気はただのぼろ切れを人にまとわせるからである」。―箴言 28:7。

      13 しかし,食べ過ぎや飲み過ぎは,たとえそれほどにはならないとしても,眠気を催させ,さらには神のご意志を行なう面で怠惰に,また怠慢にならせることもあります。家族の生活や健康などに関する思い煩いは当然あることでしょう。それでも,生活の中で王国の関心事を第一にし,必要なものは天の父が備えてくださると確信しているなら,幸福でいられるでしょう。(マタイ 6:25-34)そうしていなければ,「その日」は「わな」のようにわたしたちに臨むことになります。見えないように仕掛けられて知らないうちに捕らえるわなのように,あるいは餌でおびき寄せて警戒心を緩めた動物を捕らえるわなのように臨むかもしれません。目ざめていて,今が「終わりの時」であることを十分に意識していれば,そのようなことは起きません。―ダニエル 12:4。

      14 真剣な祈りをすべきなのはなぜですか。

      14 真剣に祈ることも霊的に目ざめているための助けです。イエスはご自分の大預言の中でさらにこう勧めました。「それで,起きることが定まっているこれらのすべての事を逃れ,かつ人の子の前に立つことができるよう,常に祈願をしつつ,いつも目ざめていなさい」。(ルカ 21:36)そうです,常にエホバの側にいられるように,そして人の子イエスがこの邪悪な事物の体制を滅ぼすために来られるとき,是認された立場に立てるように,と祈りましょう。自分自身のため,また祈りに含めるべき仲間の信者たちのために,『祈りのうちに目ざめている』必要があります。―コロサイ 4:2。エフェソス 6:18-20。

  • 目ざめている人たちは幸いです
    ものみの塔 1997 | 3月1日
    • 是非とも,目ざめていなさい

      19 弟子を作る活動をどう見るべきですか。

      19 エホバに献身しているのであれば,誤った推論にだまされて眠りに陥ることが決してありませんように。今は目ざめているべき時です。神の預言に信仰を働かせて,「すべての国の人々を弟子と(する)」任務を遂行するべき時です。(マタイ 28:19,20)この体制が最終的な終わりに直面している今,イエス・キリストの指導のもとでエホバ神に仕え,終わりが来る前に「王国のこの良いたより」を宣べ伝える世界的な業に加わることに勝る特権はありません。―マタイ 24:14。マルコ 13:10。

      20 カレブとヨシュアはどんな模範を示しましたか。彼らの歩みはわたしたちに何を示唆していますか。

      20 エホバの民の中には,これまで幾十年も,まさに生涯にわたってエホバに仕えてきた人たちがいます。比較的最近に真の崇拝を受け入れた人であるとしても,「エホバに全く従った」イスラエル人のカレブのようでありますように。(申命記 1:34-36)カレブとヨシュアは,イスラエル人がエジプトでの束縛から救い出された後,すぐにでも約束の地に入る心構えでいました。しかし,イスラエル人の大人たちは概して信仰に欠けていたため,荒野で40年を過ごさなければならず,その荒野で死にました。カレブとヨシュアはその間ずっと彼らと共に苦難を耐え忍びましたが,やがてこの二人は約束の地に入りました。(民数記 14:30-34。ヨシュア 14:6-15)わたしたちも,『エホバに全く従い』,霊的に目ざめているなら,神の約束しておられる新しい世に入る喜びにあずかれます。

      21 霊的に目ざめていればどんなことを経験できますか。

      21 証拠は,今が終わりの時であり,エホバの大いなる日が近いことをはっきり証明しています。今は,神のご意志を行なう点で眠気を催したり怠慢になったりする時ではありません。霊的に目ざめていて,クリスチャン奉仕者またエホバの僕としての身分を証しする衣を守ってはじめて祝福を受けられるのです。『目ざめていて,信仰のうちにしっかりと立ち,雄々しくあり,力強い者となる』というのがわたしたちの決意でありますように。(コリント第一 16:13)エホバの僕であるわたしたち一人一人が,確固とした勇敢な者でありますように。そうすれば,エホバの大いなる日が臨む時に用意のできた,目ざめた幸福な人たちの隊伍にあって忠実に仕える者となれるのです。

日本語出版物(1954-2026)
ログアウト
ログイン
  • 日本語
  • シェアする
  • 設定
  • Copyright © 2025 Watch Tower Bible and Tract Society of Pennsylvania
  • 利用規約
  • プライバシーに関する方針
  • プライバシー設定
  • JW.ORG
  • ログイン
シェアする