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ベリーズ2010 エホバの証人の年鑑
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スペイン語の畑における増加
ベリーズのエホバの民の中で目覚ましい増加が見られるのは,スペイン語を話す人たちです。国内にスペイン語が話されている地域もありましたが,1949年の時点でその言語を話せる宣教者はいませんでした。しかし後にスペイン語を話せる人たちが遣わされました。その一人は,1955年に来たレスリー・ピッチャーです。レスリーはベンケ・ビエホで奉仕するよう割り当てられました。それはベリーズ西部のグアテマラとの国境に接する町で,スペイン語が話されている所です。兄弟が来た時に,地元のある人々はすでにその到着を待っていました。なぜでしょうか。
その1年ほど前に,そこから西のグアテマラの町サン・ベニトで,ナタリア・コントレラスが真理を知り,バプテスマを受けていました。ナタリアは国境を越えてベリーズに入り,ベンケ・ビエホに住む親族に証言しました。親族の一人セルビリアノ・コントレラスは,ナタリアが聖書から偶像崇拝について説明すると興味を持って聞き,真理を受け入れました。そして1998年に101歳で亡くなるまで,エホバの証人として忠実を保ちました。セルビリアノの子どもや孫の多くはエホバの証人です。当時,少数の伝道者たちが交わるベンケ・ビエホの区域には,国境を越えたグアテマラの町メルチョル・デ・メンコスも含まれており,そこで集会が開かれていました。後にメルチョル・デ・メンコスに会衆ができ,ベンケ・ビエホ会衆には今も熱心な精神が見られます。
早くも1956年には,地域大会や巡回大会のプログラムの一部がスペイン語でも提供されていました。初めて巡回大会のプログラム全体がスペイン語で行なわれたのは1968年2月のことで,会場となったのはオレンジ・ウォークの王国会館です。85人が出席し,4人がバプテスマを受けました。
スペイン語を話す証人たちは,言語がじゅうぶんに理解できなくても,英語の集会や大会に忠実に出席していました。マルセロ・ドミンゲスとラファエル・メディナといった兄弟たち,それにディオニシオ・テクと妻のカタリナなどです。1964年10月,スペイン語会衆がオレンジ・ウォークに設立され,20人の伝道者が交わるようになります。それまでは英語の会衆に属していた人たちです。
1980年代に近くのエルサルバドルやグアテマラは内戦に見舞われ,大勢の人がベリーズに避難してきました。その中にはスペイン語を話す証人の家族がおり,長老,奉仕の僕,開拓者が含まれていました。その人たちや,他のスペイン語圏から来た英語もスペイン語も堪能な宣教者たちは,スペイン語の畑における拡大に貢献しました。
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ベリーズ2010 エホバの証人の年鑑
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[223ページの図版]
最初のスペイン語の巡回大会。1968年,オレンジ・ウォークの王国会館で
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