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その1 ― 地の最も遠い所にまで証人となるエホバの証人 ― 神の王国をふれ告げる人々
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22章
その1 ― 地の最も遠い所にまで証人となる
これは,エホバの証人の活動が全地に広がった様子を伝える5部構成の章の最初の部分です。404ページから422ページまでの,その1では,1870年代から1914年までの時期が扱われます。人類社会が,1914年にぼっ発した第一次世界大戦に起因する動乱から立ち直ることは決してありませんでした。その年こそ,異邦人の時の終わりをしるし付ける年であると聖書研究者がずっと前から指摘していた年でした。
イエス・キリストは昇天なさる前,ご自分の使徒たちに任務を与えて,「あなた方は……地の最も遠い所にまで,わたしの証人となるでしょう」と言われました。(使徒 1:8)また,「王国のこの良いたよりは,あらゆる国民に対する証しのために,人の住む全地で宣べ伝えられるでしょう」と予告しておられました。(マタイ 24:14)その業は1世紀に完了したわけではなく,大部分は現代に行なわれてきました。そして,1870年代から現在までに成し遂げられた事柄の記録はまさに興奮に満ちています。
チャールズ・テイズ・ラッセルは聖書に関する十分宣伝された講演で広く知られるようになったとはいえ,単に大勢の聴衆にではなく,人々に関心を抱いていました。それでラッセルは,1879年に「ものみの塔」誌を創刊してから間もなく,同誌の読者の小さなグループを訪問して共に聖書の討議を行なうため,広範な旅行を始めました。
C・T・ラッセルは,神の言葉の貴重な約束を信じている人々に対して,その約束を他の人に知らせる業に加わるよう勧めました。学んでいる事柄に深く心を動かされた人々は真の熱意を示してまさに勧められたことを行ないました。その業の助けとして印刷物が用意されました。1881年の初めに,幾つかのパンフレットが登場しました。そして,そうしたパンフレットの資料に他の情報を追加して,より包括的な「考えるクリスチャンのための糧」が作られ,配布用に120万部準備されました。しかし,その120万部すべてを小人数の聖書研究者たち(当時100人ほど)がどのようにして配布できたのでしょうか。
教会に通う人々に音信を伝える
そのうちの幾らかは親族や友人に配布されました。また,何社かの新聞社が購読者に1部ずつ届けてくれることになりました。(田舎に住む大勢の人たちに「考えるクリスチャンのための糧」が届くよう,週刊や月刊の新聞が特に重視されました。)しかし大部分は,数週間連続で日曜日に米国と英国の教会の前で配布されました。聖書研究者だけでそれを成し遂げるには人数が足りなかったので,他の人を手伝いに雇いました。
英国で30万部配布する業を監督するため,ラッセル兄弟はJ・C・サンダーリンとJ・J・ベンダーという二人の仲間をそこに遣わしました。サンダーリン兄弟はロンドンへ赴き,ベンダー兄弟のほうはまず北方のスコットランドに行ってから,南へ下りながら奉仕しました。おもに大都市に注意が向けられました。手慣れた人たちを新聞広告で探して契約し,その人たちが自分の割り当て分を配布できるよう十分な数の助手を手配しました。ロンドンだけで配布のために500人近くの人が集められました。業は速やかに,日曜日に2週連続で行なわれました。
その同じ年,自分の時間の半分以上を専ら主の業に費やすことのできる聖書研究者が,聖書研究用の文書を配布する聖書文書頒布者<コルポーター>となる取り決めが設けられました。今では開拓者と呼ばれている人たちの先駆者となったこれらの人々により,まさに驚異的な規模で良いたよりが広められました。
その後の10年間にラッセル兄弟は,それまでに学んだ聖書の際立った真理の幾つかを広めるために簡単に使える様々なパンフレットを準備しました。さらに彼は「千年期黎明」(後に「聖書研究」と呼ばれた)を数巻執筆し,その後,自ら他の国への福音宣明旅行に出かけるようになりました。
ラッセルの外国旅行
1891年,ラッセル兄弟はカナダを訪問しました。カナダでは1880年からかなりの関心が呼び起こされていたので,この時にはトロントで出席者数700人の大会を開くことができました。彼は1891年にはヨーロッパにも旅行し,その地で真理を広める業を推し進めるために何ができるか調査しました。その旅行で彼は,アイルランドとスコットランドとイングランド,ヨーロッパ大陸の多くの国々,ロシア(現在モルドバと呼ばれる地域),中東を訪れました。
その旅行で人々と接したことに基づき,ラッセル兄弟はどんな結論を下したでしょうか。彼はこう報告しました。「ロシアには真理を受け入れるための機会や備えがまだできていなかった。……イタリアやトルコ,またオーストリアやドイツでも,いくばくかの収穫を期待させるようなものは何もなかった。しかし,ノルウェー,スウェーデン,デンマーク,スイス,そして特にイングランドやアイルランドやスコットランドは,収穫を待つばかりの畑である。それらの畑は,やって来てわたしたちを助けてください,と叫んでいるかのようである」。当時,カトリック教会は依然として聖書を読むことを禁じており,多くのプロテスタント信者が教会を去り,少なからぬ人々が教会に幻滅を感じて聖書を全く退けていました。
霊的に飢えているそうした人々を援助するため,1891年のラッセル兄弟の旅行の後,出版物をヨーロッパの言語に翻訳することに集中的に力が注がれました。また,英国での需要にもっと速やかに応じられるよう,文書をロンドンで印刷し保管する取り決めが設けられました。英国の畑は確かに収穫を待っていました。1900年には既に九つの会衆があり,熱心な聖書文書頒布者<コルポーター>を含む合計138人の聖書研究者がいました。1903年にラッセル兄弟が英国を再び訪れた際,「千年期の希望と見込み」という彼の話を聞くためにグラスゴーでは1,000人が集まり,ロンドンでは800人,他の都市では500ないし600人が出席しました。
しかしラッセル兄弟の観察どおり,イタリアで聖書研究者の最初の会衆がピネロロに設立されたのは,彼の訪問から17年後のことでした。では,トルコはどうだったでしょうか。1880年代の終わりにバジル・ステファノフが,当時ヨーロッパトルコと呼ばれた地方のマケドニアで伝道しました。関心を示すかに見えた人もいましたが,兄弟であると自称する者たちが偽りの通報をしたため,ステファノフは投獄されました。1909年になって初めて,トルコのスミルナ(現在のイズミル)の一人のギリシャ人から,その町で一つのグループが感謝しつつ,ものみの塔の出版物を研究している,という手紙が届きました。オーストリアの場合,ラッセル兄弟はウィーンで話をするため1911年に再び自らオーストリアを訪れましたが,集会は暴徒によって中断させられてしまいました。ドイツでも,感謝のこもった反応はなかなか生まれませんでした。しかし,スカンディナビアの人々は,自分たちの霊的な必要をもっと強く意識していることを示しました。
スカンディナビアの人々は互いに分かち合う
米国にはスウェーデン人がたくさん住んでいました。1883年,スウェーデン語に翻訳された「ものみの塔」誌の見本が作られ,スウェーデン人の間で配布用に用いることができるようになりました。それらの見本はすぐに郵送されて,スウェーデンにいる友人や親族の手に渡りました。ノルウェー語の文書はまだ作られていませんでした。それにもかかわらず,ラッセル兄弟のヨーロッパ旅行の翌年の1892年に,米国で真理を学んだノルウェー人のクヌート・ペーダルセン・ハマーは,親族に証言するため個人的にノルウェーに戻りました。
その後,デンマーク-ノルウェー語で文書が発行され始めた1894年に,25歳のデンマーク系アメリカ人ソーフス・ウィンターが配布用の文書を携えてデンマークへ派遣されました。翌年の春までにウィンターは「千年期黎明」を500巻配布しました。間もなく,そうした出版物を読んだ他の幾人かの人たちも彼と共にその業を行なうようになりました。残念なことに,後にウィンターは自分が得ていた貴重な特権の価値を見失ってしまいました。しかし,他の人たちは光を輝かせ続けました。
とはいえウィンターは,奉仕をやめる前にスウェーデンでも幾らか聖書文書頒布者<コルポーター>の活動を行ないました。その後ほどなくして,救世軍の若い大尉アウグスト・ルンドボルグはステルケ島の友人の家で2巻の「千年期黎明」を目にしました。彼はその2巻を借りて熱心に読み,救世軍から脱退して,学んだことを他の人に伝え始めました。P・J・ヨハンソンという別の若者は公園のベンチで拾った一枚のパンフレットを読んで,目が開かれました。
スウェーデンのグループが大きくなり始めると,幾人かの人がノルウェーへ出かけて行って聖書文書を配布しました。それ以前でさえ,米国に住む親族から郵便で文書がノルウェーに届いていました。それがきっかけとなってラスムス・ブリントヘイムはエホバへの奉仕を始めました。同じくノルウェーのテオドール・サイマンセンはフリーミッション教会の説教師でしたが,そうした初期の時代に真理を受け入れました。彼はフリーミッション教会での説教の中で地獄の火の教えの誤りを指摘するようになりました。説教を聞いていた人々はそのすばらしい情報に興奮して立ち上がりました。しかし,彼が「千年期黎明」を読んでいることが分かると,彼はその教会から追い出されました。それでも彼は学んだ良い事柄について話すことを決してやめませんでした。アンドレアス・エイセトという若者も幾らかの文書を受け取りました。そして,真理を得たことをひとたび確信すると,家族の農場を出て聖書文書頒布者<コルポーター>の活動を始めました。彼は順次北上しながら活動を続け,それからフィヨルド沿いに南下しました。一つの集落も見逃しませんでした。冬には,足で蹴って進むそりに食料や衣服や文書などの必要品を積んで運び,寝る場所はもてなしの良い人々に提供してもらいました。8年間の旅行で,彼はほぼノルウェー全国に良いたよりを伝えました。
アウグスト・ルンドボルグの妻エバは,1906年にスウェーデンからフィンランドに移って聖書文書頒布者<コルポーター>として奉仕しました。同じころ,米国からものみの塔の文書を携えて戻って来た人たちが,自分たちの学んでいる事柄を他の人に伝え始めました。こうして数年のうちに,教会が与えてくれる以上のものを探し求めていたエミル・エステルマンは「世々に渉る神の経綸」を手に入れました。彼はその本を,同じく探求を行なっていた友人のカールロ・ハルテバに見せました。ハルテバはその本の価値に気づき,それをフィンランド語に翻訳し,エステルマンから資金援助を受けて出版の手はずを整えました。同時に二人はその本の配布を始めました。二人は真の福音宣明の精神を示し,公共の場所で人々に話したり,家から家に訪問したり,満員の大講堂で話を行なったりしました。ヘルシンキで,ハルテバ兄弟はキリスト教世界の偽りの教理を暴露した後,聴衆に対して,もし可能であるなら聖書を用いて魂の不滅に関する信条を擁護してみるよう求めました。その場にいた僧職者たちに全員の目が注がれましたが,だれも発言せず,エゼキエル 18章4節にある明快な言葉に反論できる人は一人もいませんでした。聴衆の中には,話を聞いたその晩はなかなか寝つけなかったと言う人もいました。
謙遜な庭師がヨーロッパでの福音宣明者となる
一方,アドルフ・ウェーバーはアナバプテスト派の年配の友人に勧められ,聖書のより十分な理解を求めてスイスから米国に渡りました。米国で彼は求人広告に応募し,ラッセル兄弟の庭師になりました。「世々に渉る神の経綸」(当時,ドイツ語版があった)とラッセル兄弟が司会する集会のおかげで,アドルフは探し求めていた聖書の知識を得て,1890年にバプテスマを受けました。彼は『心の目が啓発された』ので,どんな壮大な機会が自分に開かれているかを深く認識しました。(エフェソス 1:18)アドルフは米国でしばらく熱心に証言した後,故国に戻り,そこでも「主のぶどう園での」仕事に取りかかりました。こうして1890年代の半ばには,彼はスイスに戻って,受け入れる心を持つ人々に聖書の真理を伝えていました。
アドルフは庭師や森林監督官として生計を立てましたが,彼の第一の関心の的となっていたのは福音宣明の業でした。彼は同僚やスイスの近隣の町や村の人々に証言しました。また,幾つかの言語に通じていたので,その知識を用いて協会の出版物をフランス語に翻訳しました。そして冬になると,聖書文書の詰まったナップザックを背負って徒歩でフランスへ行きました。時には北西のベルギーや南のイタリアまで行くこともありました。
直接会うことのできない人々に音信を伝えるため,アドルフは新聞や雑誌に広告を出して,聖書研究のための文書に人々の注意を引きました。フランス中部に住むエリー・テロンは広告を見て注文し,読んだ事柄の中に真理の響きを認め,すぐに彼自身も音信を広めるようになりました。ベルギーでは,同様にジャン-バティスト・ティルマン・シニアが1901年に広告を見て「千年期黎明」を2巻手に入れました。聖書の真理の非常に明快な説明を読み,彼は本当に感動しました。どうして友だちに話さずにいられるでしょう。翌年には,彼の家で研究グループが定期的に集まっていました。その後まもなく,その小さなグループの活動はフランス北部でも実を結ぶようになりました。ウェーバー兄弟は絶えず彼らと連絡をとり,発展する様々なグループを定期的に訪問して霊的に築き上げ,良いたよりを他の人に伝える方法に関する指示を与えました。
ドイツに良いたよりが伝えられた時
1880年代半ば,ドイツ語で幾つかの出版物が出されるようになるとすぐに,それらの出版物の価値を認めるドイツ系アメリカ人たちが故国の親族にそれらを送り始めました。ハンブルクの病院で働いていた一人の看護婦は病院の他の人たちに「千年期黎明」を何冊か渡しました。1896年,スイスのアドルフ・ウェーバーはドイツ語の新聞に広告を出して,ドイツにパンフレットを郵送していました。翌年,ドイツ語版「ものみの塔」誌の配布の便宜を図ってドイツに文書集積所が一つ設けられましたが,なかなか成果が上がりませんでした。しかし1902年に,スイスで真理を学んだマルガレーテ・デムートがシュバルツバルト東部のタイルフィンゲンに移って来ました。熱意のこもった彼女の個人的な証言のおかげで,ドイツにおける初期の一つの聖書研究者グループの基礎が据えられました。スイス出身のザムエル・ラウパーはケルン北東部のベルギシェス・ラントに移ってきて,その地方で良いたよりを広めました。1904年までには,その地方のベルメルスキルヘンで集会が開かれていました。出席者の中には,真理を探し求めていたゴトリープ・パースという80歳の男性もいました。そうした集会が開かれるようになってから間もなく,パースは臨終の床で「ものみの塔」誌を掲げ,「これは真理だ。これを手離してはいけない」と言いました。
こうした聖書の真理に関心を持つ人々の数は徐々に増加しました。かなりの費用がかかったにもかかわらず,ドイツの幾つかの新聞に「ものみの塔」誌の無料の見本をはさみ込む取り決めが設けられました。1905年に発表された報告によると,こうした「ものみの塔」誌の見本は150万部以上配布されました。それは,ごく小さなグループとしては大きな成果でした。
聖書研究者の中には,身近な人々に音信を伝えるだけでは必要な事柄を行なったことにはならないと考える人もいました。早くも1907年には,ドイツ出身のエルラー兄弟が当時のオーストリア-ハンガリーのボヘミア(後にチェコスロバキアの一部になった)に出かけ,ハルマゲドンについての警告と,ハルマゲドン後に人類にもたらされる祝福の知らせとを載せた文書を配布しました。1912年までには,もう一人の聖書研究者が現在のリトアニアのメーメル地方で聖書文書を配布していました。多くの人が音信に対して熱烈な反応を示し,すぐに聖書研究者のかなり大きなグループが幾つも誕生しました。しかし,真のクリスチャンは同時に証人でもなければならないということを学ぶと,それらのグループの人数は減少し始めました。それでも,少数の人たちは自分が,「忠実で真実な証人」であるキリストに真に見倣う者であることを実証しました。―啓示 3:14。
ロシアに広大な領地を持つドイツの男爵ニコラウス・フォン・トルノーは,スイスにいた1907年ごろに,ものみの塔協会のパンフレットを1部受け取りました。2年後,彼は一番立派な衣装を身に着け,従者を一人連れてドイツのベルリン会衆に現われました。彼は初めのうち,神が貴重な真理をそうした控え目な人々に託された理由を理解できませんでしたが,コリント第一 1章26節から29節に書かれている事柄が助けになりました。「兄弟たち,あなた方が自分たちに対する神の召しについて見ていることですが,肉的に賢い者は多くなく,強力な者も多くなく,高貴な生まれの者が多く召されたのでもありません。……それは,肉なる者がだれも神のみ前で誇ることのないためです」。自分が真理を見いだしたことを確信したフォン・トルノーは,ロシアにある領地を売り,清い崇拝の関心事を促進するために自分自身と資金をささげました。
ヘルケンデルというドイツの若い夫婦は1911年に結婚しましたが,その際花嫁は自分の父親に頼んで,持参金として普通とは違った新婚旅行の費用を出してもらいました。この夫婦は何か月もかかる精力的な旅行を計画していました。二人の新婚旅行は,ロシアにいるドイツ語を話す人々に音信を伝えるための,ロシアへの伝道旅行でした。こうして様々な人たちが,神の愛ある目的に関して学んだ事柄をいろいろな方法で他の人々に伝えました。
英国の畑における成長
1881年に英国で徹底的な文書配布が行なわれた後,教会に通う人々の中には学んだ事柄に基づいて行動する必要に気づいた人たちもいました。『わたしの民よ,彼女から出なさい』,つまりキリスト教世界のバビロン的な諸教会から出て聖書の教えに従いなさい,という「ものみの塔」誌の聖書的な諭しに感銘を受けた人の中に,ロンドン,イズリントンのトム・ハートがいます。(啓示 18:4)彼は1884年に教会を脱退し,他の幾人かの人たちもそれに続きました。
研究グループと交わっていた多くの人たちが有能な福音宣明者へと成長しました。ロンドンの公園や,人々がくつろいでいる他の場所で聖書文書を提供する人もいれば,商店や事務所に努力を集中する人もいました。しかしもっと一般的な方法は,家から家に訪問することでした。
「ものみの塔」誌の予約購読者のセーラ・フェリーはラッセル兄弟あての手紙に,自分とグラスゴーの数人の友人はパンフレットの配布に自発奉仕者として参加したいと思っている,と書きました。3万部のパンフレットを積んだトラックが自分の家の前に止まった時には,彼女はびっくり仰天しました。そのパンフレット全部を無料で配布するのです。彼女たちは行動に移りました。ミニー・グリーンリーズは幼い3人の息子と一緒に1頭立ての小さな馬車に乗って,スコットランドの田舎にまで聖書文書配布の業を推し進めました。後に,アルフレッド・グリーンリーズとアレクサンダー・マギラブレイは自転車で旅行し,スコットランドの大部分にパンフレットを配布しました。このころには,他の人を雇って文書を配布してもらう代わりに,献身した自発奉仕者たちが自ら業を行なうようになっていました。
彼らは自分の心に促された
イエスはあるたとえ話の中で,『りっぱな良い心で神の言葉を聞いた』人々は実を結ぶであろうと言われました。そうした人々は神の愛ある備えに対する誠実な感謝の気持ちに動かされて,神の王国に関する良いたよりを他の人に伝えることになっていました。(ルカ 8:8,11,15)どんな状況のもとでも,何らかの方法を見つけてそうするのです。
例えば,一人のアルゼンチン人の旅行者は「考えるクリスチャンのための糧」という小冊子の一部分をイタリア人の船員から受け取りました。その旅行者はペルー入港中に手紙で追加注文をし,また1885年にはさらに関心を深めて,文書の送付依頼の手紙をアルゼンチンから「ものみの塔」誌の編集者に書き送りました。同じ年,英国海軍のある軍人は砲兵隊を率いてシンガポールに派遣された際に「ものみの塔」誌を持って行きました。彼はその雑誌から学んだ事柄に喜びを感じ,その地で自由にその雑誌を用いて,一般に論議の的となる点に関する聖書の見方を知らせました。1910年には,旅行中の二人のクリスチャン女性の乗った船がセイロン(現在のスリランカ)のコロンボ港に停泊しました。二人は機会をとらえて,その港の海員監督官であるヴァン・トウェスト氏に証言し,「世々に渉る神の経綸」という本から学んだ良い事柄について熱心に話しました。その結果,ヴァン・トウェスト氏は聖書研究者になり,スリランカにおける良いたよりの伝道が始まりました。
旅行できない人たちでさえ,心温まる聖書の真理を何とかして他の国の人々に伝えようとしました。1905年に出版物に掲載された感謝の手紙によると,米国のある人が,当時のデンマーク領西インド諸島のセントトマス島に住むある人に「世々に渉る神の経綸」を送りました。本を受け取ったその人は読み終わるとひざまずき,神のご意志を行なうために自分を用いていただきたいという熱烈な願いを言い表わしました。1911年,ブラジルのベロナ・ファーガソンは,真理の水が「届かないほど遠くにいる人はいない,ということの生きた確かな証拠」として自分の例を引き合いに出しました。彼女は1899年以来,協会の出版物を郵便で受け取っていたようです。第一次世界大戦前のある時,パラグアイのあるドイツ系移民は郵便受けの中に協会のパンフレットが1部入っているのを見つけました。彼はさらに文書を注文し,やがてキリスト教世界の教会との結びつきを断ちました。パラグアイにはそのような行動をとった人がほかにいなかったので,この人と義理の弟は互いにバプテスマを施し合うことにしました。確かに,地の遠い所で証言が行なわれ,実を結んでいました。
それでも,聖書研究者の中には,是非とも自分や親の生まれ故郷に行って,エホバのすばらしい目的とその目的にあずかる方法を友人や親族に伝えたい,と思った人たちもいました。例えば,1895年にオレシュジンスキー兄弟は,「贖いと革新と上への召し」に関する良いたよりを携えてポーランドへ帰りました。しかし,悲しいことに,彼は忍耐してその奉仕を続けませんでした。1898年には,ハンガリー人の元教授がカナダから故国に帰り,聖書の緊急な音信を広めました。1905年には,米国で聖書研究者になった男性が証言を行なうためにギリシャに戻りました。また1913年には,ニューヨークのある若者が,エルサレムからそう遠くない家族の故郷ラマラへ聖書の真理の種を携えて戻りました。
カリブ海地域の扉が開かれる
米国やカナダやヨーロッパで福音宣明者の数が増加する一方,聖書の真理はパナマ,コスタリカ,オランダ領ギアナ(現在のスリナム),英領ギアナ(現在のガイアナ)にも根を下ろしつつありました。英領ギアナで神の目的を理解するよう援助を受けたジョセフ・ブラスウェイトは,全時間を費やしてバルバドスの人々に神の目的を教えるため,1905年にそこへ赴きました。コスタリカで働いている時に良いたよりを聞いたルイス・フェイシーとH・P・クラークは,新たに見いだした信仰を母国の人々に伝えるため,1897年にジャマイカへ戻りました。ジャマイカで真理を受け入れた人々は熱心に働くようになりました。1906年だけで,ジャマイカのグループはパンフレット約120万部と他の文書を配布しました。パナマで真理を学んだ別の移民労働者は,聖書の希望の音信を携えてグレナダへ帰りました。
1910年から1911年にかけてのメキシコ革命は,真理に飢えた人々に神の王国の音信を伝える点での別の要素となりました。多くの人が北方の米国へ逃れ,その一部は米国で聖書研究者に出会い,人類に永続する平和をもたらすというエホバの目的を学んで,故郷のメキシコへ文書を送りました。とはいえ,メキシコにこの音信が伝えられたのはこれが最初ではありませんでした。早くも1893年に,「ものみの塔」誌はメキシコのF・デ・P・スティーブンソンからの手紙を掲載しました。彼はものみの塔協会の出版物を幾つか読み,メキシコとヨーロッパにいる友だちの分としてもっと出版物がほしいと考えていました。
カリブ海一帯のもっと多くの国や地域で聖書の真理を宣べ伝えるための道を開き,研究のための定期的な集会を組織する目的で,ラッセル兄弟はE・J・カワードを1911年にパナマに,そして後にカリブ海の島々に遣わしました。カワード兄弟は力強く生き生きとした話をしました。地獄の火の教理や人間の魂は不滅であるとする教理の誤りを指摘し,地球の輝かしい将来を説明する彼の話を聞くために,何百人もの聴衆が集まることもよくありました。カワード兄弟は町から町へ,またセントルシア,ドミニカ,セントキッツ,バルバドス,グレナダ,トリニダードといった島から島へと移動して,できる限り多くの人々に接し,英領ギアナでも話をしました。パナマで彼は,W・R・ブラウンという熱心な若いジャマイカ人の兄弟と出会いました。ブラウン兄弟はそれ以後,カワード兄弟と共にカリブ海の幾つもの島で奉仕し,後には他の畑を切り開くのを援助しました。
1913年,ラッセル兄弟は自らパナマとキューバとジャマイカで話を行ないました。ジャマイカのキングストンでの公開講演の際には,二つの講堂が満員になり,さらに2,000人ほどの人の入場を断わらなければなりませんでした。講演者が金銭について何も述べず,寄付集めも行なわれなかったことは,報道関係者の注目を集めました。
真理の光がアフリカに達する
この時期に,アフリカにも真理の光が差し込みつつありました。1884年にリベリアから届いた手紙によれば,リベリアのある聖書の読者は「考えるクリスチャンのための糧」を1部手に入れ,他の人に渡すためにもっとほしいと考えました。その数年後の報告によると,リベリアではある僧職者が「ものみの塔」誌の助けによって学んでいる聖書の真理を自由に教えるために辞職し,定期的な集会が聖書研究者の一つのグループによって開かれていました。
オランダ改革派教会のある牧師は1902年にオランダから南アフリカに派遣された時,C・T・ラッセルの著書を何冊か持って行きましたが,それらの著書から永続的な益を得ることはありませんでした。しかし,それらの本をその牧師の書斎で見つけたフラーンス・エイバルソーンとストフェル・フュリーの場合はそうではありませんでした。数年後,二人の熱心な聖書研究者がスコットランドから南アフリカのダーバンに移住して来た時に,そこの畑における働き人の隊伍は強化されました。
残念なことに,ラッセル兄弟の書いた文書を手に入れて,その一部を他の人に教えた人々の中には,少数ながら,ジョセフ・ブースやエリオット・カムワナのように,社会変革への関心を喚起するための独自の考えを混ぜ込む者たちがいました。そのため,南アフリカとニアサランド(後のマラウイ)では,外部の人々が真の聖書研究者を見分ける際に混乱することがありました。それでも,人類の諸問題の解決策として神の王国に注意を向ける音信を聞き,その音信に対して認識を示す人は少なくありませんでした。
とはいえ,アフリカで広範な伝道が行なわれるのはまだ先のことでした。
東洋と太平洋の島々へ
C・T・ラッセルの準備した聖書出版物は,英国で配布されるようになってから間もなく東洋にも達しました。1883年,中国の芝罘<チーフー>(煙台<イエンタイ>)にいた長老派教会の宣教師であるC・B・ダウニングという独身女性が「ものみの塔」誌を1部受け取りました。彼女は革新に関して学んだ事柄の価値を認め,他の宣教師たちにもその雑誌を見せました。その中にバプテスト教会の宣教局とつながりのあるホラス・ランドルがいました。後にランドルは,ロンドンのタイムズ紙に載った「千年期黎明」の広告によってさらに関心を高められ,次いで実際にその本を受け取ることになりました。ダウニングから1冊,そして英国にいた彼の母からも1冊送られてきたのです。最初,彼は本の内容からショックを受けました。しかし,三位一体が聖書の教えではないとひとたび確信すると,バプテスト教会を脱退し,学んだ事柄を他の宣教師たちに伝え始めました。1900年に彼は,中国と日本と朝鮮とシャム(タイ)の宣教師たちに2,324通の手紙と約5,000部のパンフレットを送ったと報告しています。当時,東洋で証言の対象となったのはおもにキリスト教世界の宣教師たちでした。
同じころ,オーストラリアとニュージーランドでも真理の種がまかれました。オーストラリアのそうした“種”の最初のものは,ある男性によって1884年かその少し後に持ち込まれたようですが,そもそものきっかけは聖書研究者が英国の公園でその男性に話しかけたことでした。また,外国にいる友人や親族から郵送されてきた“種”もありました。
1901年にオーストラリア連邦が設立されてから数年もたたないうちに,オーストラリアの何百人もの人々が「ものみの塔」誌を予約購読するようになりました。真理を他の人に分かつ特権に気づいた人々の活動の結果,選挙人名簿に名前が載っている人たちに大量のパンフレットが送付されました。また,さらに多くのパンフレットが街路で配布され,鉄道沿いの辺ぴな地域では,労働者や孤立した家の住人に列車の窓からパンフレットの束がほうり投げられました。迫り来る1914年の異邦人の時の終わりが人々に告げ知らされていました。アーサー・ウィリアムズ・シニアはウェスタンオーストラリア州の自分の店で客全員に異邦人の時の終わりについて語り,関心を持つ人々を自宅に招いてさらに話し合いました。
ニュージーランドに最初に聖書の真理を伝えた人がだれであるか,今では分かりません。しかし1898年までには,ニュージーランドに住むアンドルー・アンダーソンがものみの塔の出版物を読んで心を動かされ,聖書文書頒布者<コルポーター>としてその地で真理を広めるまでになっていました。1904年には,米国や,その年オーストラリアに開設された協会の支部事務所から他の聖書文書頒布者<コルポーター>たちがやって来て,彼の働きが強化されました。クライストチャーチに住むトマス・バリーの妻は聖書文書頒布者<コルポーター>の一人から「聖書研究」を6巻受け取りました。1909年,彼女の息子のビルは英国へ向かう6週間の船旅の間にそれらを読み,書かれている事柄が真実であることに気づきました。それから何十年か後に,ビルの息子のロイドはエホバの証人の統治体の成員になりました。
そうした初期の熱心な働き人の中にエド・ネルソンがいます。彼は元々あまり器用な人ではありませんでしたが,王国の音信をニュージーランドの北端から南端まで広めるために50年間全時間奉仕を行ないました。数年後,フランク・グローブがネルソンに加わりました。グローブは記憶力を強化して視力の弱さを補い,やはり開拓者として,亡くなるまで50年以上奉仕しました。
良いたよりの伝道を促進するための世界旅行
1911年から1912年にかけて,東洋の人々を援助するためにさらに大きな努力が払われました。東洋の状況をじかに調査するため,国際聖書研究者協会は,C・T・ラッセルを委員長とする7人の男子から成る委員会を派遣しました。行く先々で彼らは,メシアの王国によって人類に祝福をもたらすという神の目的について語りました。聴衆が少ないこともありましたが,フィリピンやインドでは何千人も集まりました。委員たちは,当時のキリスト教世界で広く行なわれていた世界的な改宗のための資金集めの運動を支持しませんでした。キリスト教世界の宣教師たちの努力の大半が世俗の教育を促進するために費やされていることを見て取っていたのです。しかし,ラッセル兄弟は,人々が必要としているのは「来たるべきメシアの王国という,神の愛ある備えに関する福音」であることを確信していました。聖書研究者は,世界の人々を改宗させることを期待する代わりに,当時のなすべき仕事は証言することであり,そうすることが,「1,000年間キリストと共にキリストの座に着いて人類全体を向上させる業に共にあずかる[キリストの]花嫁級の成員として,すべての国民と民と部族と国語から選ばれた少数の者」を集める業に貢献することを聖書から理解していました。a ―啓示 5:9,10; 14:1-5。
日本,中国,フィリピンなどで時を過ごした後,委員会の一行はインド国内をさらに6,400㌔旅行しました。インドに住む何人かの人たちは,早くも1887年に協会の文書を読んで感謝の手紙を寄せました。さらに,タミール語を話す人々の間では,学生として米国にいた時にラッセル兄弟に会って真理を学んだ一人の若者が1905年以来活発な証言を行なっていました。この若者はインド南部で40ほどの聖書研究グループの設立を援助しましたが,他の人たちに宣べ伝えておきながらクリスチャンの規準を捨てたため,自分自身が非とされるようになりました。―コリント第一 9:26,27と比較してください。
しかし同じころ,トラバンコール州(ケララ州)のA・J・ジョセフがアドベンティスト派の著名な人に手紙で質問したところ,返事として「聖書研究」が1巻送られて来ました。ジョセフは三位一体に関する自分の質問に対する満足のゆく聖書からの答えをその本の中に見いだしました。やがて彼と何人かの家族はインド南部の水田やココナツ農園に出かけて行って,新たに見いだした信仰を伝えました。1912年のラッセル兄弟の訪問の後にジョセフ兄弟は全時間奉仕を始め,鉄道や牛車やはしけや徒歩で旅行し,聖書文書を配布しました。彼の公開講演はたいてい僧職者やその信者たちによって中断されました。クンダラでは,ある“クリスチャン”の僧職者が信者たちを使ってそうした集会を中断させ,ジョセフ兄弟に動物の糞を投げつけさせていました。するとそこへ,影響力のあるヒンズー教徒の紳士が,一体何の物音だろうと見に来ました。その紳士が僧職者に向かって,「それが,クリスチャンのためにキリストが残された模範なのですか。それとも,あなたがしていることはイエスの時代のパリサイ人の行ないに似ていますか」と言うと,僧職者は退散しました。
ラッセル兄弟は国際聖書研究者協会の委員会による4か月にわたる世界旅行を終える前に,R・R・ハリスターが東洋における協会の代表者となって,メシアの王国という神の愛ある備えに関する音信を東洋の人々に広める業を続けるよう取り決めました。10の言語で特別なパンフレットが準備され,インドと中国と日本と朝鮮の全土で地元の配布者たちによって非常に大量に配布されました。その後,関心を示した人々にさらに霊的な食物を供給するため,幾つかの本がそのうちの四つの言語に翻訳されました。東洋は広大な畑であり,なすべき仕事はまだたくさん残っていました。しかし,この時までに成し遂げられた事柄はまさに驚くべきものでした。
印象的な証言が行なわれる
最初の世界大戦による荒廃の嵐が吹き荒れる前に,世界中で広範な証言が行なわれていました。ラッセル兄弟は講演旅行で米国とカナダの幾百もの都市を訪問し,ヨーロッパへ何度も旅行し,パナマやジャマイカやキューバ,また東洋の主要都市で話を行ないました。何万人もの人々が彼の感動的な聖書講演をじかに聞き,友人や反対者からの質問に彼が公の場で聖書から答えるのを見守りました。こうして多くの関心が呼び起こされ,米国,ヨーロッパ,南アフリカ,オーストラリアなどの何千もの新聞が定期的にラッセル兄弟の訓話を掲載しました。35の言語で,何百万冊もの本や何億部ものパンフレット,それに他の文書が聖書研究者によって配布されました。
ラッセル兄弟の果たした役割は際立っていたとはいえ,宣べ伝えたのはラッセル兄弟だけではありませんでした。全世界に散らばっている他の人々も,エホバとみ子イエス・キリストの証人として声を合わせていました。共に働いた人全員が公の話し手だったわけではありません。職業は様々でしたが,彼らは自由に使えるふさわしい手段をすべて用いて良いたよりを広めました。
異邦人の時の終わりまであと1年足らずという1914年1月,さらに別の徹底的な証言が始まりました。それは,地に対する神の目的を斬新な仕方で強調する「創造の写真劇」でした。この写真劇は,音声と同調した美しい手描きのカラースライドと映画という方法を用いて神の目的を強調しました。米国の報道機関は,米国中で毎週合計何十万人もの観客がこの写真劇を見ていると報じました。最初の年の末には,米国とカナダでの観客の合計は800万人近くに達しました。英国のロンドンでは,各2時間の4部から成るこの写真劇を見ようとする大勢の人々でオペラハウスとロイヤル・アルバート・ホールが超満員になりました。英国諸島の98の都市で半年以内に122万6,000人以上がやって来ました。ドイツやスイスで使えた会場も満員になりました。スカンディナビアや南太平洋でも大勢の観客がこの写真劇を見ました。
そうした現代のエホバの証人の歴史の初期に,何と際立った,徹底的で全世界的な証言が行なわれたのでしょう。しかし,実のところ,業は始まったばかりでした。
1880年代の初めの時点で,聖書の真理を広める業に活発に加わっている人は数百人にすぎませんでした。現在残っている報告によると,1914年には5,100人ほどの人たちが業に参加していました。さらに,幾らかのパンフレットを時おり配布する人たちもいたようです。働き人は比較的少数でした。
1914年の後半の時点で,福音宣明者のこの小さなグループは,神の王国をふれ告げる業を様々な方法で68の国や地域に拡大していました。そして,そのうちの30の国や地域では,神の言葉を宣べ伝え,教える者としての彼らの業はかなりしっかりと確立されていました。
異邦人の時が終わる前に,何百万冊もの本と何億部ものパンフレットが配布されていました。それに加えて,1913年までに2,000紙もの新聞がC・T・ラッセルの準備した訓話を定期的に掲載し,1914年には三つの大陸の合計900万人以上の人々が「創造の写真劇」を見ました。
確かに,驚くべき証言が行なわれていました。しかし,前途にはさらに多くのことが控えていたのです。
[脚注]
a この世界旅行の詳細な報告は,「ものみの塔」誌(英文),1912年4月15日号に掲載されています。
[405ページの地図/図版]
C・T・ラッセルは,北米やカリブ海地域の300以上(点で示された場所)の都市において自ら聖書講演を行なった。各都市で10ないし15回講演することも少なくなかった
[地図]
(出版物を参照)
[407ページの地図]
(出版物を参照)
ラッセルのヨーロッパ伝道旅行。たいてい英国経由で行なわれた
1891
1903
1908
1909
1910(2回)
1911(2回)
1912(2回)
1913
1914
[408ページの地図/図版]
アンドレアス・エイセトは真理を見つけたことを確信すると,ノルウェーのほとんどすべての地域で聖書文書を熱心に配布した
[地図]
(正式に組んだものについては出版物を参照)
ノルウェー
北極圏
[409ページの地図/図版]
アドルフ・ウェーバーという謙遜な庭師は,スイスからヨーロッパの他の国々へ良いたよりを広めた
[地図]
(正式に組んだものについては出版物を参照)
ベルギー
ドイツ
スイス
イタリア
フランス
[413ページの地図/図版]
ブラジルのベロナ・ファーガソン ―「届かないほど遠くにいる人はいない」
[地図]
(正式に組んだものについては出版物を参照)
ブラジル
[415ページの地図]
(正式に組んだものについては出版物を参照)
アラスカ
カナダ
グリーンランド
サンピエール・ミケロン
アメリカ合衆国
バミューダ諸島
バハマ
タークス・カイコス諸島
キューバ
メキシコ
ベリーズ
ジャマイカ
ハイチ
ドミニカ共和国
プエルトリコ
ケイマン諸島
グアテマラ
エルサルバドル
ホンジュラス
ニカラグア
コスタリカ
パナマ
ベネズエラ
ガイアナ
スリナム
フランス領ギアナ
コロンビア
エクアドル
ペルー
ブラジル
ボリビア
パラグアイ
チリ
アルゼンチン
ウルグアイ
フォークランド諸島
バージン諸島(米)
バージン諸島(英)
アンギラ島
サンマルタン島
サバ島
セントユースタティウス島
セントキッツ島
ネビス島
アンティグア
モントセラト島
グアドループ
ドミニカ島
マルティニーク島
セントルシア島
セントビンセント
バルバドス
グレナダ
トリニダード
アルバ島
ボネール島
クラサオ島
大西洋
カリブ海
太平洋
[416,417ページの地図]
(正式に組んだものについては出版物を参照)
グリーンランド
スウェーデン
アイスランド
ノルウェー
フェロー諸島
フィンランド
ロシア
エストニア
ラトビア
リトアニア
ベラルーシ
ウクライナ
モルドバ
グルジア
アルメニア
アゼルバイジャン
トルクメニスタン
ウズベキスタン
カザフスタン
タジキスタン
キルギスタン
ポーランド
ドイツ
オランダ
デンマーク
イギリス
アイルランド
ベルギー
ルクセンブルク
リヒテンシュタイン
スイス
チェコスロバキア
オーストリア
ハンガリー
ルーマニア
ユーゴスラビア
スロベニア
クロアチア
ボスニア・ヘルツェゴビナ
ブルガリア
アルバニア
イタリア
ジブラルタル
スペイン
ポルトガル
マデイラ諸島
モロッコ
西サハラ
セネガル
アルジェリア
リビア
エジプト
レバノン
イスラエル
キプロス
シリア
トルコ
イラク
イラン
バーレーン
クウェート
ヨルダン
サウジアラビア
カタール
アラブ首長国連邦
オマーン
イエメン
ジブチ
ソマリア
エチオピア
スーダン
チャド
ニジェール
マリ
モーリタニア
ガンビア
ギニア-ビサウ
シエラレオネ
リベリア
コートジボワール
ガーナ
トーゴ
ベニン
赤道ギニア
セントヘレナ島
ギニア
ブルキナ・ファソ
ナイジェリア
中央アフリカ共和国
カメルーン
サントメ
コンゴ
ガボン
ザイール
アンゴラ
ザンビア
ナミビア
ボツワナ
南アフリカ
レソト
スワジランド
モザンビーク
マダガスカル
レユニオン
モーリシャス
ロドリゲス島
ジンバブエ
マヨット島
コモロ
セーシェル
マラウイ
タンザニア
ブルンジ
ルワンダ
ウガンダ
フランス
パキスタン
アフガニスタン
ネパール
ブータン
ミャンマー
バングラデシュ
インド
スリランカ
ギリシャ
マルタ
チュニジア
ケニア
大西洋
インド洋
アラスカ
モンゴル
朝鮮民主主義人民共和国
日本
大韓民国
中国
マカオ
台湾省
香港
ラオス
タイ
ベトナム
カンボジア
フィリピン
ブルネイ
マレーシア
シンガポール
インドネシア
サイパン島
ロタ
グアム島
ヤップ島
ベラウ
チュウック
ポーンペイ
コスラエ島
マーシャル諸島
ナウル
パプアニューギニア
オーストラリア
ニュージーランド
ノーフォーク島
ニューカレドニア
ウォリス・フトゥーナ諸島
バヌアツ
ツバル
フィジー
キリバス
トケラウ
ハワイ
西サモア
アメリカ領サモア
ニウエ
トンガ
クック諸島
タヒチ島
ソロモン諸島
太平洋
[421ページの地図/図版]
インドのA・J・ジョセフと娘のグレイシー。グレイシーは後にギレアデで訓練を受けた宣教者として奉仕した
[地図]
(正式に組んだものについては出版物を参照)
インド
[411ページの図版]
ヘルマン・ヘルケンデルは花嫁と共に,ロシアにいるドイツ語を話す人々に伝道するため,何か月もかかる新婚旅行を行なった
[412ページの図版]
イングランドとスコットランドの聖書文書頒布者たちは,証言を受ける機会をあらゆる人に差し伸べようと努めた。彼らの子供たちもパンフレットの配布を手伝った
[414ページの図版]
E・J・カワードはカリブ海地域で熱心に聖書の真理を広めた
[418ページの図版]
フランク・グローブ(左)とエド・ネルソン(それぞれ妻と共に写っている)は,ニュージーランド全土で全時間を費やして王国の音信を広めるために,それぞれ50年以上をささげた
[420ページの図版]
C・T・ラッセルと6人の仲間は1911年から1912年にかけて,良いたよりの伝道を促進するために世界中を旅行した
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その2 ― 地の最も遠い所にまで証人となるエホバの証人 ― 神の王国をふれ告げる人々
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22章
その2 ― 地の最も遠い所にまで証人となる
423ページから443ページでは,1914年から1935年までの王国宣明の業が取り上げられます。エホバの証人は,1914年にイエス・キリストが諸国民に対する権威を与えられ,天の王位についたことを指摘しています。イエスは地上におられた時,厳しい迫害にもかかわらず行なわれる王国の音信の世界的な伝道が,王国の力のうちにご自分が臨在することを示すしるしの一部になると予告なさいました。1914年以降の期間に,どんな出来事が実際に生じたでしょうか。
1914年,最初の世界大戦が瞬く間にヨーロッパを席巻し,その後,世界人口の推定90%を包含する国々を巻き込むまでになりました。その戦争に関連した出来事はエホバの僕たちの伝道活動にどんな影響を与えたでしょうか。
第一次世界大戦中の陰うつな時期
その戦争の初期には,ドイツとフランスを除き,妨害はほとんどありませんでした。多くの場所でパンフレットが自由に配布されましたし,1914年以降はかなり小規模になったとはいえ,引き続き「写真劇」が用いられていました。戦時の興奮状態が高まると,英領西インド諸島の僧職者たちがものみの塔協会の代表者E・J・カワードはドイツのスパイだといううわさを立てたため,彼は退去命令を受けました。1917年に「終了した秘義」という本の配布が始まると,反対は拡大し始めました。
一般の人々がその本を非常にほしがったので,協会は印刷業者への最初の注文をわずか数か月のうちに10倍以上に増やさなければなりませんでした。しかし,キリスト教世界の僧職者は自分たちの偽りの教理が暴露されたことに激怒し,戦時の病的興奮状態を利用して,聖書研究者を政府役人に告発しました。米国中で,聖書研究者の文書の配布と関係があるとみなされた男女が暴徒の襲撃を受けたり,タールと羽毛を浴びせられたりしました。カナダでは家宅捜索が行なわれ,国際聖書研究者協会の特定の出版物を所持していることが分かると重い罰金刑か拘禁刑を科されました。しかし,当時オンタリオ州ポートアーサーにいたトマス・J・サリバンの報告によると,ある時,彼が一晩留置されている間に,その町の警官たちが自分と友人たちのために禁書を自宅へ持ち帰ったので,手元にあった出版物すべて ― 500冊か600冊ほど ― が全部配布されました。
ものみの塔協会の本部自体も攻撃の対象になり,管理役員たちは長期刑を宣告されました。敵たちの目には,聖書研究者が致命的な打撃を受けたように映りました。広範にわたり一般の人々の注意を引きつけた証言活動は事実上停止しました。
とはいえ,聖書研究者は刑務所に拘禁されていても機会を見つけて,同じ刑務所の受刑者に神の目的について語りました。協会の役員とその親しい仲間たちは,ジョージア州アトランタの刑務所に着いた当初,伝道を禁じられていました。しかし,彼らは自分たち同士で聖書を討議し,その振る舞いや生き方は他の人たちを引きつけました。数か月後,彼らは刑務所の副所長から,他の受刑者に宗教教育を施す仕事を割り当てられました。そのクラスの出席者は90人ほどにまで増えました。
他の忠節なクリスチャンたちも,そうした戦時に証言するための方法を見いだしました。その結果,それまでにまだ良いたよりが宣べ伝えられていなかった国々に王国の音信が広まることもありました。例えば1915年に,ニューヨークにいたあるコロンビア人の聖書研究者は,スペイン語版の「世々に渉る神の経綸」をコロンビアのボゴタに住むある男性に郵送しました。6か月ほど後に,ラモン・サルガーから返事が来ました。彼はその本を注意深く研究して,その内容に喜びを感じ,他の人に配布するために200冊欲しいと考えていました。ニューヨーク市ブルックリンのJ・L・メイヤー兄弟もスペイン語の「聖書研究者月刊」をたくさん郵送しました。そのうちのかなりのものはスペインに送られました。また,当時バルバドスにいたアルフレッド・ジョセフは,西アフリカのシエラレオネでの仕事の契約を結んだ際に,機会をとらえて,学んだばかりの聖書の真理についてそこで証言しました。
宣教の際に家々や商店や事務所を訪問する聖書文書頒布者<コルポーター>の場合,状況は大抵もっと困難でした。しかし,エルサルバドルやホンジュラスやグアテマラに入国した数人の聖書文書頒布者<コルポーター>たちは,1916年にそれらの国々で,命を与える真理を人々に忙しく伝えていました。同じころ,英国籍を持つ聖書文書頒布者<コルポーター>ファニー・マッケンジーは東洋へ2度船旅をして中国と日本と朝鮮を訪れ,聖書文書を配布した後,手紙を書いて引き続き人々の関心を育てました。
とはいえ,現在残っている記録によれば,1918年に良いたよりを他の人に宣べ伝える業に幾らかでもあずかったと報告した聖書研究者の数は,1914年の報告と比べて全世界で20%減少しました。戦時中にひどい扱いを受けた後も,彼らはあくまでも宣教を続けるでしょうか。
新たな命を吹き込まれる
1919年3月26日,ものみの塔協会の会長とその仲間たちは不当な投獄から解放され,すぐさま,神の王国の良いたよりを世界中に宣明する業を推し進めるための計画が立てられました。
その年の9月,当時,協会の会長だったJ・F・ラザフォードはオハイオ州シーダーポイントで開かれた全体大会で講演し,メシアによる神の王国の輝かしい到来を告げ知らせる業を際立たせ,その業はエホバの僕たちにとって真に重要なものであると述べました。
しかし,当時その業に参加していた人は実際には少数でした。恐れを抱いて1918年中にしり込みした一部の人たちが再び活発になり,ほかにもわずかながら隊伍に加わる人たちがいたとはいえ,現在残っている記録によれば,1919年には43の国や地域で5,700人ほどの人が活発に証言しているだけでした。しかし,イエスは,「王国のこの良いたよりは,あらゆる国民に対する証しのために,人の住む全地で宣べ伝えられるでしょう」と予告しておられました。(マタイ 24:14)その予告は一体どのように成就されるのでしょうか。彼らには分かりませんでした。さらに,証言の業がどれほどの期間続くのかも分かりませんでした。それでも,神の忠節な僕である人たちは進んで熱心に業を続行しました。彼らはエホバがご意志に調和した仕方で物事を導かれるに違いないと確信していました。
彼らは神の言葉の中に明示されている事柄に対する熱意を吹き込まれ,仕事に取りかかりました。現在残っている報告によると,神の王国を公にふれ告げる業に参加した人の数は3年以内にほぼ3倍になり,1922年には1919年よりも15多い国や地域で宣べ伝える業が忙しく行なわれていました。
興味を引く主題
彼らは「現存する万民は決して死することなし」という非常に興味をそそる音信をふれ告げました。ラザフォード兄弟は1918年にこの主題で講演を行ないました。またこれは1920年に発行された128ページの小冊子の主題でした。この同じ主題は,1920年から1925年まで,講演者のいるあらゆる地域で30以上の言語を用いて行なわれた公開集会の主要な主題とされ,全世界で繰り返し用いられました。この講演では,キリスト教世界が言うように善人はすべて天へ行くと言う代わりに,従順な人類に約束されている楽園の地におけるとこしえの命という,聖書に基づく希望に注意が向けられました。(イザヤ 45:18。啓示 21:1-5)さらにその講演では,その希望が実現する時は非常に近いという確信が表明されました。
それらの講演を宣伝するために新聞広告や掲示板が用いられました。講演の主題は人々の興味を引きました。1922年2月26日,ドイツだけで,121の会場に7万人以上が出席しました。一つの会場に何千人もの聴衆が集まることも珍しくありませんでした。例えば南アフリカのケープタウンでは,オペラハウスで講演が行なわれた際に2,000人が出席しました。ノルウェーの首都の大学の講堂では,満席になった上に非常に多くの人が入場できなかったため,1時間半後にもう一度プログラムを行なう必要があり,二度目も満員になりました。
オーストリアのクラーゲンフルトでは,リヒャルト・ハイデが父親に,「だれが何と言おうと,ぼくはあの講演を聞きに行くからね。その話が単なるこけおどしなのか,それともそこに何か真理があるのか知りたいんだ」と言いました。リヒャルトは聞いた事柄に深く心を動かされ,すぐに姉や両親と共に,聞いた事柄を他の人に話すようになりました。
しかし聖書の音信は公開講演に出席する人々だけのものではありませんでした。その音信は他の人たちにも知らされる必要があったのです。一般民衆だけでなく,政治指導者や宗教指導者もその音信を聞く必要がありました。それはどのように成し遂げられるのでしょうか。
力強い宣言文の配布
それまで聖書研究者と彼らがふれ告げる音信をうわさでしか知らなかった無数の人々に音信を伝えるため,印刷物が用いられました。1922年から1928年にかけて,七つの力強い宣言,つまり聖書研究者の年ごとの大会で採択された決議によって効果的な証言が行なわれました。それらの大会後に各々の決議は印刷されて配布され,その数はたいてい合計4,500万部から5,000万部に達しました。それは,当時奉仕していた王国をふれ告げる人々の小さなグループにとってはまさに驚くべき成果でした。
1922年の決議は「世界の指導者たちに対する挑戦」と題するものでした。そうです,それは,平和や繁栄や人類の幸福を自分たちで確立できるという主張の正しさを示してみよ,さもなければ,それを成し遂げ得るのはメシアによる神の王国だけであることを認めよ,という挑戦だったのです。ドイツでは,その決議文は,亡命中のドイツ皇帝,また大統領や帝国議会の全議員に書留で郵送され,約450万部が一般の人々の手に渡りました。南アフリカでは,エドウィン・スコットが背中には決議文の入った袋を背負い,片手にはどう猛な犬を追い払うための杖を持って64の町を回り,一人で5万部配布しました。その後,南アフリカのオランダ人僧職者たちが寄付を集めるために教区民の家に寄ると,教区民の多くは僧職者の目の前で決議文を振って,「あなた方もこれを読むべきですね。そうすれば,もうお金集めに回っては来ないでしょう」と言いました。
1924年には,「聖職者に対する告発」と題する決議文が,僧職者の非聖書的な教えや慣行を暴き,世界大戦中の彼らの役割を暴露するとともに,人類の祝福のために神が設けられたすばらしい備えについて自ら学ぶために聖書を研究するよう人々に勧めました。当時イタリアでは印刷業者は何であれ印刷したものに自らの名前を付すよう求められており,その内容に責任を持つことになっていました。イタリアでの業を監督していた聖書研究者が政府当局者に決議文を1部提出したところ,当局者はそれを調べてすぐに印刷と配布を許可してくれ,印刷業者も出版に同意しました。イタリアの兄弟たちは10万部配布し,特に法王とバチカンの他の高官たちが一人1部ずつ受け取るよう取り計らいました。
フランスではこの決議文の配布が,しばしば暴力を伴う,僧職者たちからの激しい反応を引き起こしました。ドイツのポメラニアの一僧職者は激怒し,協会と協会の責任者を相手取って訴訟を起こしましたが,裁判所で決議文全体の内容が審理され,その僧職者は敗訴しました。人々に真理を知らせたくないと考える者たちに業を妨害されないよう,カナダのケベック州の聖書研究者たちは午前3時から始めて朝早いうちに決議文を家々に置いてゆきました。それはどきどきするようなひとときでした。
満足のゆく答えに対して感謝を示す
第一次世界大戦中,多くのアルメニア人は容赦なく家と故国を追われました。そのわずか20年ほど前には,何十万人ものアルメニア人が虐殺され,命からがら避難した人たちもいました。そうした人たちの中には,母国でものみの塔協会の出版物を読んだことのある人も少数いましたが,それよりもずっと多くのアルメニア人が難民として行き着いた国で証言を受けました。
つらい経験を耐え忍んだ後,彼らの多くは神が悪を許しておられる理由に関して真剣な疑問を抱きました。悪はいつまで続き,いつ終わるのでしょうか。彼らの中のある人たちは,聖書に書かれている満足のゆく答えを学んで感謝の気持ちを抱きました。アルメニア人の聖書研究者のグループが中東の様々な都市で急速に成長し,聖書に対する彼らの熱意は他の人の生活にも影響を与えました。エチオピアやアルゼンチンや米国でも同胞のアルメニア人たちが良いたよりを受け入れ,他の人に良いたよりを伝える責任を喜んで引き受けました。その中に,1930年代半ばにエチオピアでただ一人の開拓者として王国の音信を広めたクリコール・ハツァコルツィアンがいます。ある時,反対者からいわれのない告発を受けた彼は,ハイレ・セラシエ皇帝に証言する機会さえ得ました。
貴重な真理を携えて母国に戻る
大勢の人が,きわめて重要な聖書の真理を伝えたいという燃えるような願いに動かされて,福音宣明の業に携わるため故国に戻りました。彼らは,西暦33年に多くの国からエルサレムに来ていた人々と同じように反応しました。それらの人々は,使徒やその仲間たちが聖霊に動かされ,多くの国語で「神の壮大な事柄について」語った時に信者になりました。(使徒 2:1-11)それら1世紀の信者たちが真理を携えて母国に戻ったのと全く同様に,これら現代の弟子たちもそうしました。
イタリアにも,外国で真理を学んだ男女が戻ってきました。彼らは米国やベルギーやフランスから帰国して,住み着いた場所で王国の音信を熱心にふれ告げました。イタリア語が用いられているスイスのティチーノ州の聖書文書頒布者<コルポーター>たちもイタリアに移住して業を続けました。彼らは小人数でしたが,その一致した活動の結果,間もなくイタリアのほとんどすべての主要都市と多くの村々に音信が伝えられました。彼らはこの業に費やした時間を数えてはいませんでした。自分たちは神が人々に知らせたいと考えておられる真理を宣べ伝えているという確信があったので,できるだけ多くの人に音信を伝えるため,朝から晩まで奉仕することも少なくありませんでした。
近くはアルバニア,遠くは米国で聖書研究者になったギリシャ人たちも母国に注意を向けました。彼らは,像の崇拝が非聖書的であること(出エジプト記 20:4,5。ヨハネ第一 5:21),罪人が地獄の火で焼かれないこと(伝道の書 9:5,10。エゼキエル 18:4。啓示 21:8),人類にとって唯一まことの希望は神の王国であること(ダニエル 2:44。マタイ 6:9,10)などを学んで胸を躍らせ,直接に,あるいは郵便を用いて,そうした真理を同国人に熱心に伝えました。その結果,ギリシャとギリシャの島々でエホバの証人のグループが成長し始めました。
第一次世界大戦後,ポーランドの大勢の人たちが炭鉱で働くためにフランスへ移住しました。フランスの諸会衆は,話す言葉が違うからといって彼らを見過ごしたりはせず,炭鉱で働くそのような人たちやその家族に聖書の真理を伝えるよう努力しました。やがて,好意的な反応を示す人々の数はフランス人の証人たちの数を上回りました。1935年には政府の国外退去命令によって280人がやむなくポーランドに戻りましたが,それはかえってポーランドで王国の音信を広めるのに貢献しました。こうして,1935年,ポーランドには証言活動に携わる1,090人の王国宣明者がいました。
さらに,母国を離れて外国の畑での奉仕を始めるようにとの招きにこたえ応じた人たちもいました。
ヨーロッパの熱心な福音宣明者たちは外国の畑で援助を行なう
国際的な協力によって,神の王国に関する心温まる真理がバルト諸国(エストニア,ラトビア,リトアニア)に伝わりました。1920年代と1930年代に,デンマーク,英国,フィンランド,ドイツの熱心な兄弟姉妹がバルト諸国で広範な証言を行ない,たくさんの文書を配布し,何千人もの人たちが聖書講演を聞きました。聖書に関するラジオ番組が幾つかの言語でエストニアから定期的に放送され,当時のソ連にさえ届きました。
1920年代と1930年代にドイツの自発的な働き人たちが,オーストリア,ベルギー,ブルガリア,チェコスロバキア,フランス,ルクセンブルク,オランダ,スペイン,ユーゴスラビアといった場所での割り当てを引き受けました。ビリー・ウングラウベはその一人でした。彼はドイツのマグデブルク・ベテルでしばらく奉仕した後,全時間の福音宣明者としてフランス,アルジェリア,スペイン,シンガポール,マレーシア,タイでの割り当てを果たしました。
1930年代,援助を求める声がフランスから上がった時,英国の聖書文書頒布者<コルポーター>たちは,宣べ伝えるというクリスチャンの任務を果たすには自国だけでなく世界のほかの所でも福音を宣明しなければならない,という認識のあることを実証しました。(マルコ 13:10)ジョン・クックは“マケドニア人の求め”にこたえ応じた熱心な働き人の一人でした。(使徒 16:9,10と比較してください。)その後60年ほどにわたって,彼はフランス,スペイン,アイルランド,ポルトガル,アンゴラ,モザンビーク,南アフリカでの奉仕の割り当てを果たしました。彼の兄エリックはバークレーズ銀行を辞め,ジョンと一緒にフランスで全時間宣教を行ない,その後やはりスペインとアイルランドで奉仕し,さらに南ローデシア(現在のジンバブエ)と南アフリカで宣教者として働きました。
1926年5月,英国のジョージ・ライトとエドウィン・スキナーは,インドにおける王国の業の拡大を援助するようにとの勧めを受け入れました。二人の任命地はまさに広大でした。アフガニスタン,ビルマ(現在のミャンマー),セイロン(現在のスリランカ),インド,ペルシャ(現在のイラン)の全域が含まれていたのです。ボンベイに到着した二人は雨季の雨に迎えられました。しかし,二人は個人的な快適さや便利さの問題をあまり気にせず,名前の分かっている聖書研究者を捜し出して励ますために,インドのへき地へすぐ出かけて行き,他の人たちの関心を刺激するために大量の文書も配布しました。業は熱意を込めて行なわれました。例えば,1928年にインド南部のトラバンコール州(ケララ州)の54人の王国宣明者は550の公開集会を取り決め,それらの集会に約4万人が出席しました。1929年には,業を援助するため,さらに4人の開拓者が英国の畑からインドに移ってきました。そして1931年にはもう3人が英国からボンベイに到着しました。彼らはこの広大な国の各地に何度も何度もはるばる出かけて行き,英語だけでなくインドの言語の文書も配布しました。
そのころ東ヨーロッパではどんなことが生じていたでしょうか。
霊的な収穫
第一次世界大戦より前に聖書の真理の種は東ヨーロッパにまかれており,その一部は根を下ろしていました。1908年,アンドラシュニー・ベネデクという謙遜なハンガリー女性が,自分の学んだ良い事柄を他の人に伝えるため,オーストリア-ハンガリーに戻りました。2年後には,カローリー・サボーとヨーゼフ・キスもオーストリア-ハンガリーに帰り,特に,後にルーマニアやチェコスロバキアと呼ばれるようになった地域で聖書の真理を広めていました。いきり立った僧職者たちによる暴力的な反対にもかかわらず,幾つもの研究グループが作られ,広範な証言が行なわれました。他の人たちもそれらのグループに加わり,自分の信仰を公に宣言しました。それで1935年までに,ハンガリーで王国をふれ告げる人々の隊伍は348人に増加していました。
第一次世界大戦後,戦勝国によってヨーロッパの地図が書き換えられた際,ルーマニアは2倍近い広さになりました。報告によると,この広くなった国に1920年には約150の聖書研究者のグループがあり,それらのグループに1,700人が交わっていました。翌年,主の晩さんの祝いでは2,000人近くの人が記念式の表象物にあずかり,自分が霊によって油そそがれたキリストの兄弟であると公言していることを示しました。その人数はその後の4年間に劇的に増加しました。1925年には記念式に4,185人が出席しました。当時の習慣どおり,その大半の人が表象物にあずかったに違いありません。しかし,それらの人たち全員の信仰が試みられることになっていました。彼らは真の「小麦」であることを実証するでしょうか。それとも,まがい物にすぎないことが明らかになるでしょうか。(マタイ 13:24-30,36-43)彼らはイエスが追随者に割り当てた証言の業を本当に行なうでしょうか。厳しい迫害に直面してもあくまでその業を行ない続けるでしょうか。他の人がユダ・イスカリオテのような精神を示しても,彼らは忠実を保つでしょうか。
1935年の報告によると,耐え忍ぶことを可能にするような信仰をすべての人が抱いていたわけではないことが分かります。その年,ルーマニアで証言の業に幾らかでもあずかった人はわずか1,188人でしたが,当時,その2倍以上の数の人たちが記念式の表象物にあずかっていました。とはいえ,忠実な人たちは主人への奉仕を忙しく行ない続け,自分の心にそのような喜びをもたらした聖書の真理を他の謙遜な人たちに伝えました。そのために彼らが用いた一つの際立った方法は文書の配布でした。すでに1924年から1935年までの間に,パンフレットのほかに80万冊以上の書籍と小冊子が,関心を持つ人々に配布されていました。
オーストリア-ハンガリー帝国崩壊後,1918年に国家となったチェコスロバキアの場合はどうだったでしょうか。チェコスロバキアでは,一層熱心な証言が霊的な収穫に貢献していました。初めのころ,伝道はハンガリー語,ロシア語,ルーマニア語,ドイツ語で行なわれていました。その後1922年に,スロバキア語を話す住民に注意を向けるため,数人の聖書研究者が米国から戻って来ました。翌年,ドイツから来た夫婦が専らチェコ人の区域で働くようになりました。小規模だったとはいえ定期的に開かれた大会は,兄弟たちを励ましたり一致させたりするのに役立ちました。1927年に家から家の福音宣明の業のために諸会衆がより良く組織された後,拡大は一層明らかになりました。1932年,チェコスロバキアと近隣諸国から約1,500人が出席したプラハでの国際大会によって,業に強力な刺激が与えられました。それに加えて,国中の至る所で上映された4時間版の「創造の写真劇」を大勢の人たちが見ました。わずか10年間で,この国の様々な言語グループに270万冊以上の聖書文書が配布されました。このような霊的に植え,育て,水を注ぐ業すべては,1935年に1,198人の王国宣明者があずかった収穫に貢献しました。
第一次世界大戦後,ヨーロッパの地図が書き換えられた結果,ユーゴスラビア(当初,セルビア・クロアチア・スロベニア王国と呼ばれた)が誕生しました。早くも1923年には,ベオグラードで聖書研究者の一グループが証言を行なっているという報告が寄せられており,後には国中で「創造の写真劇」が上映され,大勢の人がそれを見ました。エホバの証人がドイツで厳しい迫害を受けるようになると,ユーゴスラビアの証人たちの隊伍はドイツ人の開拓者たちによって強化されました。彼らは個人的な快適さを顧みずに,この山国の最も遠い地域にまで出かけて行って宣べ伝えました。それらの開拓者の中にはブルガリアに行った人たちもいます。アルバニアで良いたよりを宣べ伝えるためにも努力が払われました。こうしたすべての場所で王国の真理の種がまかれ,その幾つかは実を結びました。とはいえ,それらの場所でより大規模な収穫が行なわれるのはさらに先のことでした。
さらに南のアフリカ大陸でも,至高者の証人となる特権に深い認識を抱く人々が良いたよりを広めていました。
西アフリカで霊的な光が輝く
バルバドスの一人の聖書研究者は,仕事上の契約に基づいて初めて西アフリカへ行ってから約7年後にニューヨークのものみの塔協会の事務所に手紙を寄せ,かなりの数の人たちが聖書に関心を示していると知らせてきました。数か月後の1923年4月14日,トリニダードで奉仕していたW・R・ブラウンはラザフォード兄弟の勧めに応じ,家族を連れてシエラレオネのフリータウンに到着しました。
早速,ブラウン兄弟がウィルバーフォース・メモリアルホールで講演を行なうよう取り決められました。4月19日には500人ほどの聴衆がいましたが,出席者の中にはフリータウンの僧職者の大半も含まれていました。次の日曜日に兄弟は再び講演しました。兄弟の話の主題は,C・T・ラッセルがよく用いた「地獄へ行って戻る。だれがそこにいるか」というものでした。ブラウン兄弟の講演は一定の間隔を置いて中断され,その際に幻灯機のスライドを用いて引用聖句が聴衆から見えるようにされました。兄弟はいつでも話の中で,「ブラウンが言うのではなく,聖書が述べているのです」と何度も言ったので,“バイブル・ブラウン”として知られるようになりました。そして兄弟が論理的で聖書的な説明を行なった結果,幾人かの著名な教会員が脱退してエホバへの奉仕を始めました。
ブラウン兄弟は他の地域で王国の業を開始させるため,広い範囲を旅行しました。また,そうした目的のために非常に多くの聖書講演を行ない,文書を大量に配布し,自分と同じことを行なうよう他の人たちを励ましました。兄弟は福音宣明のために,黄金海岸(現在のガーナ),リベリア,ガンビア,ナイジェリアに出かけました。ナイジェリアからは他の人たちがベニン(当時はダオメーと呼ばれていた)やカメルーンに王国の音信を伝えました。ブラウン兄弟は,一般の人々がいわゆる「白人の宗教」にほとんど敬意を抱いていない,ということを知っていました。それで兄弟はラゴスのグローバー・メモリアルホールでキリスト教世界の宗教の失敗について話しました。集会後,熱心な聴衆は自分で読んだり他の人に渡したりするために3,900冊の書籍を求めました。
ブラウン兄弟が初めて西アフリカにやって来た当時,そこには王国の音信を聞いたことのある人は一握りしかいませんでした。27年後に兄弟が去る時には,その地域に1万1,000人を優に超える活発なエホバの証人がいました。宗教上の偽りは暴露され,真の崇拝は根を下ろして急速に拡大しつつありました。
アフリカの東海岸へ
20世紀のかなり初期に,C・T・ラッセルの著書の一部がアフリカ南東部で配布されていました。配布していたのは,それらの書籍に書かれている考えの一部だけを取り入れ,その考えに自分自身の哲学を混ぜ合わせていた人たちでした。その結果,エホバの証人とは何の関係もない,幾つかのいわゆるものみの塔運動が起こり,中には,政治的な目的を持ち,アフリカ原住民の不安をかき立てる運動もありました。そうしたグループが立てた悪評は,長年の間エホバの証人の業を妨げてきました。
それでも,多くのアフリカ人は本物と偽物の違いを見分けました。移動労働者たちが近隣の国に神の王国の良いたよりを携えて行き,アフリカの言語を話す人々に良いたよりを伝えました。英語を話す南東アフリカの住民はたいてい南アフリカとの接触を通して音信を聞きました。しかし国によっては,キリスト教世界の僧職者にあおられた当局の強い反対のため,アフリカの言語を話す人々の間でヨーロッパ人の証人たちが伝道することは妨げられました。それでも真理は広まりました。もっとも,聖書の音信に関心を示した多くの人々は,自分の学んでいる事柄を実際に正しく適用するため,さらに援助を必要としていました。
一部の公平な政府当局者は,キリスト教世界の僧職者たちがエホバの証人に対して行なった悪意に満ちた告発を鵜呑みにすることはありませんでした。ニアサランド(現在のマラウイ)の警視総監の場合がそうでした。彼は原住民の証人たちがどんな人たちかを自分の目で確かめるために変装して証人たちの集会へ出かけ,良い印象を受けました。1930年代半ば,政府からヨーロッパ人代表者の在留許可が出ると,まずバート・マクラッキーが,そして後に彼の兄弟であるビルがニアサランドへ派遣されました。二人は警察や地区委員たちとの連絡を絶やさないようにし,そうした役人たちが二人の活動をはっきりと理解し,偽ってものみの塔と呼ばれている運動とエホバの証人を混同しないようにしました。それと同時に二人は,円熟した地元の証人グレシャム・クワズィズィラと共に辛抱強く働いて,会衆と交わりたいと思う何百人もの人たちが性の不道徳やアルコール飲料の乱用や迷信などはエホバの証人の生活にふさわしくないことを認識するよう助けました。―コリント第一 5:9-13。コリント第二 7:1。啓示 22:15。
1930年には,アフリカ南部全体にエホバの証人は約100人しかいませんでした。しかし彼らの割り当て区域には,おおまかに言ってアフリカの赤道以南全域と,赤道以北に伸びる幾つかの区域が含まれていました。そうした広漠たる区域に王国の音信を行き渡らせるため,真の開拓者が求められました。フランク・スミスとグレー・スミスはそのような開拓者でした。
二人はケープタウンから北東に4,800㌔の船旅をし,それから自動車でさらに4日間でこぼこ道を走って(英領東アフリカの)ケニアのナイロビに着きました。40カートン分の聖書文書を配布するのに1か月もかかりませんでした。しかし,悲しいことに,帰りの旅の途中,フランクはマラリアで亡くなりました。それでも,その少し後にロバート・ニズベットとデービッド・ノーマンが,今度は200カートン分の文書を携えて,ケニアとウガンダ,そしてタンガニーカとザンジバル(両方とも現在はタンザニア)で伝道を始め,できる限り多くの人々に音信を伝えました。ほかにも同様の旅行が行なわれ,インド洋のモーリシャス島やマダガスカル島,また大西洋のセントヘレナ島に王国の音信が広められました。真理の種がまかれました。しかし,どこでもすぐに芽を出して成長したわけではありませんでした。
良いたよりの伝道は,早くも1925年には南アフリカからバストランド(現在のレソト)やベチュアナランド(現在のボツワナ)やスワジランドにも広まっていました。8年ほど後に開拓者たちが再びスワジランドで伝道した時,彼らは国王ソブーザ2世の客として迎えられました。国王は100人の戦士から成る国王護衛隊を召集し,証言を終わりまで聞いてから,兄弟たちが持っていた協会の出版物を全部受け取りました。
世界の畑のこの地域において,エホバの証人の人数は徐々に増加しました。この20世紀の初頭に少数の人々がアフリカでの業を始めましたが,彼らに他の人たちが加わり,1935年には,神の王国に関する証言の業に参加していることを報告した人がアフリカ大陸に1,407人いました。そのうちのかなりの数の人たちは南アフリカとナイジェリアにいました。そして,ニアサランド(現在のマラウイ)や北ローデシア(現在のザンビア)や南ローデシア(現在のジンバブエ)にも,自分たちがエホバの証人であることを明らかにした大きなグループがありました。
同じころ,スペイン語やポルトガル語を話す人々が住む国にも注意が向けられていました。
スペイン語とポルトガル語の畑を耕す
まだ第一次世界大戦がたけなわのころ,スペイン語の「ものみの塔」誌が初めて発行されました。その雑誌には,スペイン語を話す人々の畑に特に注意を向けるために設けられたカリフォルニア州ロサンゼルスの事務所の住所が載せられていました。その事務所の兄弟たちは,米国や南方の国々に住む関心を持つ人々を個人的に大いに援助しました。
1917年にエホバの僕となったフアン・ムニスは,1920年,ラザフォード兄弟に励まされ,米国を去って母国のスペインに戻り,そこで王国伝道の業を組織することになりましたが,わずかな成果しか得られませんでした。それは彼に熱意が欠けていたためではなく,絶えず警察に尾行されたためでした。それで,数年後に彼はアルゼンチンへ任命換えになりました。
ブラジルでは,既に少数のエホバの崇拝者たちが伝道していました。8人の謙遜な船員がニューヨークで休暇をとって船から降りている時に真理を学び,1920年の初めにブラジルに戻ってから忙しく他の人に聖書の音信を伝えていたのです。
1923年にカナダ人のジョージ・ヤングがブラジルへ遣わされました。彼が業の促進に貢献したのは確かです。ヤングは通訳を用いて非常に多くの公開講演を行ない,死者の状態に関する聖書の言葉を示し,心霊術が悪霊崇拝であることを暴露し,地の全家族に祝福をもたらすための神の目的を説明しました。彼は時々,聴衆が討議中の聖句を母国語で見られるよう聖句をスクリーンに映し出したので,彼の講演は一層説得力を増しました。彼がブラジルにいる間に,サンパウロのベロナ・ファーガソンは子供たちのうちの4人と共にようやくバプテスマを受けることができました。彼女はこの機会を25年間待っていたのです。真理を受け入れた人たちの中には,後に文書をポルトガル語に翻訳するための援助を買って出た人たちがおり,やがてポルトガル語の出版物がたくさん準備されました。
ヤング兄弟は1924年にブラジルからアルゼンチンへ行き,スペイン語の文書30万冊を25の主要な町や都市で無料配布する取り決めを設けました。同じ年,兄弟は個人的にチリとペルーとボリビアへも行き,パンフレットを配布しました。
それから間もなく,ジョージ・ヤングは新たな任命地へ向かっていました。今度の任命地はスペインとポルトガルでした。ヤングは英国大使から地元の政府関係者たちに紹介されたので,バルセロナとマドリード,さらにはポルトガルの首都でラザフォード兄弟が聴衆に話す取り決めを設けることができました。それらの講演の後,合計2,350人以上の人たちがさらに詳しい情報を求めて自分の住所氏名を提出しました。後にその講演はスペインのある大手新聞に掲載されたほか,パンフレットの形で国中の人々に郵送されました。その講演はポルトガルでも報道されました。
このような方法により,音信はスペインやポルトガルの国境をはるかに越えた所にまで届きました。1925年の末までには,カボベルデ諸島(現在のカボベルデ共和国),マデイラ諸島,ポルトガル領東アフリカ(現在のモザンビーク),ポルトガル領西アフリカ(現在のアンゴラ),そしてインド洋の島々に良いたよりが浸透しました。
翌年,「世界の支配者たちに対する証言」という強力な決議をラ・リベルタドというスペインの新聞に掲載する手はずが整えられました。ラジオ放送,書籍や小冊子やパンフレットの配布,「創造の写真劇」の上映も証言の強化に役立ちました。1932年,この畑で援助を行なうようにとの招きに英国の数人の開拓者がこたえ応じ,スペイン内戦のために出国を余儀なくされるまでの間,聖書文書を携えてスペインの幾つかの大きな区域を系統的に網羅しました。
一方,ムニス兄弟はアルゼンチンに着くとすぐに伝道を開始し,時計の修理で生計を立てました。彼はアルゼンチンで業を行なうだけでなく,チリやパラグアイやウルグアイにも注意を向けました。彼の要請にこたえて,ドイツ語を話す住民に証言するため,ヨーロッパから兄弟たちがやって来ました。何年も後にカルロス・オットが語ったところによると,彼らは一日の奉仕を午前4時に始めて,区域のそれぞれの家のドアの下にパンフレットを入れてゆきました。そしてその日の後刻に訪問して,より詳しく証言したり,関心を持つ家の人にさらに聖書文書を提供したりしました。全時間宣教に携わる人々は首都ブエノスアイレスを起点にして,最初は開いた手の指のようにその首都から放射状に何百キロも伸びる鉄道に沿って,その後は見いだし得る他のあらゆる交通手段を用いて,国中に広がりました。彼らは物質的にはほとんど何も持っておらず,多くの苦難を耐え忍びましたが,霊的には富んでいました。
それらアルゼンチンの熱心な働き人の中に,ギリシャ人のニコラス・アルヒロスがいました。彼は1930年の初めにものみの塔協会発行の文書を幾らか入手し,特に“Hell”(「地獄」)と題する小冊子に感銘を受けました。その小冊子の副題は,「それは何か。だれがそこにいるか。そこから出ることができるか」という質問になっていました。その小冊子に,罪人が火で焼かれるとは書かれていないことに気づいた彼は驚きました。それだけでなく,地獄の火が人々をおびえさせるために捏造された宗教上の偽りであることを知った時にはがく然としました。自分もその教えにおびえていたのです。彼は直ちに真理を伝え始め,最初はギリシャ人に,そしてスペイン語が上達すると他の人たちにも伝え,他の人に良いたよりを伝える業に毎月200ないし300時間を費やしました。徒歩で,また何であれ利用可能な交通手段を用いて,アルゼンチンの22の州のうち14の州に聖書の真理を広めました。次々と移動する際には,もてなしの精神のある人たちがベッドを提供してくれる場合はベッドで眠りましたが,たいていは野宿しました。また,目覚まし時計代わりのろばと一緒に納屋で眠ることさえありました。
真の開拓者精神を抱いていた別の人は,ブエノスアイレスで真理を学んだリヒャルド・トラウプです。彼は是非ともアンデス山脈の向こうのチリの人々に良いたよりを伝えたいと思いました。彼がバプテスマを受けてから5年後の1930年にチリに着いた時,人口400万人のその国にエホバの証人は彼一人でした。初めのうち,奉仕に用いることのできるものは聖書だけでしたが,彼は家から家に訪問し始めました。出席できる会衆の集会はなかったので,日曜日には通常の集会の時間にサンクリストバル山まで歩いて行って木陰に座り,個人研究と祈りに没頭しました。アパートに部屋を借りてからは,そこで開く集会に人々を招待し始めました。最初の集会にやって来たのはフアン・フロレスだけで,フロレスは「ところで,ほかの人たちはいつ来るのですか」と尋ねました。トラウプ兄弟はあっさりと,「ほかの人たちも来ますよ」と答えました。そして確かにそうなりました。1年もたたないうちに,13人の人がバプテスマを受けたエホバの僕になったのです。
4年後,全く初対面の二人のエホバの証人がコロンビアで良いたよりを宣べ伝えるためにパートナーを組みました。その地で産出的な奉仕を1年間行なった後,ヒルマ・シェバーはやむを得ない理由で米国に戻りました。しかし,カーテ・パルムはチリ行きの船に乗り,航海中の17日間を用いて乗組員と旅客の両方に証言しました。彼女はその後の10年間に,チリ最北端の港町アリカからチリ最南端の領土ティエラ・デル・フエゴに至る地域で奉仕し,商店や事務所を訪問したり政府関係者に証言したりしました。文書を運ぶため鞍袋を肩にかけ,くるまって眠るための毛布などの必需品を背負って,最果ての鉱山町や羊の牧場にまで行きました。それは正真正銘の開拓者の生活でした。同じ精神を抱く人たちはほかにもいました。老若を問わず,独身者もいれば既婚者もいました。
1932年中,まだほとんど伝道されていない中南米諸国で王国の音信を広めるために特別な努力が払われました。その年,「神の国 ― 全地の希望」という小冊子の驚異的な配布が行なわれました。この小冊子には,国際的なラジオ放送で既に流された講演が収められていました。この時,その講演を印刷物にしたものがチリで4万部,ボリビアで2万5,000部,ペルーで2万5,000部,エクアドルで1万5,000部,コロンビアで2万部,サントドミンゴ(現在のドミニカ共和国)で1万部,プエルトリコで1万部ほど配布されました。確かに王国の音信はふれ告げられていました。しかも非常に熱心にふれ告げられていたのです。
南米だけを見ると,1935年の時点で,人類に真の幸福をもたらすのは神の王国だけであることをふれ告げる声に和していたのは247人にすぎませんでした。しかし,彼らは何と立派な証言を行なっていたのでしょう。
さらに辺ぴな地域の住民にも音信を伝える
エホバの証人は,たまたま近所に住んでいる少数の人たちに語るだけで神のみ前における自分の責任を果たしたことになる,とは決して考えていませんでした。証人たちはあらゆる人に良いたよりを伝えようと努力しました。
当時エホバの証人が直接訪れることのできない土地の住民には,別の方法で音信を伝えることができました。例えば,1920年代の末に南アフリカのケープタウンの証人たちは,人のあまり行かない場所に住むすべての農場主や灯台守や森林警備員に小冊子を5万部郵送しました。南西アフリカ(現在はナミビアと呼ばれている)全体の最新版の郵便住所録も手に入り,その住所録に名前の載っている人たち全員に“The Peoples Friend”(「人々の友」)という小冊子が1部ずつ郵送されました。
1929年,F・J・フランスキはものみの塔協会のスクーナー型帆船モートン号を任され,ジミー・ジェームズと共にラブラドルや,ニューファンドランドのすべての小漁村に住む人々に音信を伝えるよう割り当てられました。フランスキ兄弟は冬には犬ぞりで海岸沿いを旅行しました。エスキモーやニューファンドランドの人たちは,彼から受け取った聖書文書の経費に相当するものとして革製品や魚などを差し出しました。数年後に彼は,ブリティッシュ・コロンビア州の起伏の多いカリブー地方の鉱夫,きこり,わな猟師,牧場主や牧童,インディアンたちを訪問するよう努めました。旅行中は,肉を手に入れるために狩りをしたり,野生のベリー類を採ったり,キャンプの裸火に掛けたフライパンでパンを焼いたりしました。また別の時には,パートナーと一緒にサケの引き釣り船に乗って移動し,あらゆる島や入り江,きこりの飯場や灯台,カナダ西海岸沿いの集落などに王国の音信を伝えました。彼は,世界中の辺ぴな地域の住民に音信を伝えようと特別な努力を払っていた大勢の人たちの一人にすぎません。
1920年代の末から,フランク・デイは伝道と文書の配布を続けながら,また物質的な必要を賄うため眼鏡の販売を行ないながら,アラスカの村づたいに北へ向かいました。彼は一方の足が義足で,足を引きずっていましたが,ケチカンからノームまで約1,900㌔にわたって広がる地域を網羅しました。早くも1897年には,一人の金鉱掘りがカリフォルニアにいた時に「千年期黎明」と「ものみの塔」誌を幾冊か手に入れ,それらをアラスカへ持って帰るつもりでいました。また,1910年には,ある捕鯨船の船長であるビームスという人がアラスカの寄港地で文書を配布していました。しかし,伝道活動が拡大し始めたのは,デイ兄弟が12年以上にわたって何度もアラスカへの夏期旅行をするようになってからでした。
別の二人の証人は,エステル号と名づけられた全長12㍍のモーターボートを用いてノルウェーの海岸沿いを北上し,北極地方にまで足を伸ばしました。二人は島々や灯台で,また沿岸の村々やずっと山奥の孤立した場所で証言しました。多くの人の歓迎を受け,人類に対する神の目的を説明する書籍や小冊子を1年間で1万ないし1万5,000冊配布することができました。
島々はエホバへの賛美を聞く
証言を受けたのは,大陸近海のそうした島々だけではありませんでした。1930年代初めにシドニー・シェパードは太平洋の真ん中へ出かけ,クック諸島とタヒチで伝道するために2年間船旅を続けました。さらに西方では,ジョージ・ウィントンがニューヘブリデス(現在のバヌアツ)を訪れ,良いたよりを伝えていました。
同じころ,ポルトガル系アメリカ人のジョセフ・ドス・サントスも手つかずの区域に音信を伝え始めました。彼はまずハワイの周囲の島々で証言し,それから世界一周伝道旅行を始めました。しかしフィリピンに着いた時,そこにとどまって王国伝道の活動を確立し組織してほしいというラザフォード兄弟からの手紙を受け取りました。ジョセフはその仕事を15年間行ないました。
そのころ,協会のオーストラリア支部は南太平洋とその周辺での業に注意を向けていました。オーストラリアから遣わされた二人の開拓者が,1930年から1931年にかけてフィジーで広範な証言を行ないました。サモアでは1931年に証言が行なわれ,ニューカレドニアには1932年に音信が伝わりました。さらに,オーストラリアの開拓者の一夫婦が1933年に中国でも奉仕を始め,その後の数年間に中国の13の主要都市で証言を行ないました。
オーストラリアの兄弟たちは,自由に使える船が1隻あればもっと多くのことを成し遂げられることに気づき,やがて全長16㍍のケッチ型帆船を準備しました。ライトベアラー号と呼ばれたその船は,1935年の初めから数年間,熱心な兄弟たちのグループがオランダ領東インド諸島(現在のインドネシア)やシンガポールやマラヤで証言する際の作戦基地として用いられました。この船の到着はいつでも注目の的となり,それによって兄弟たちが宣べ伝えたり沢山の文書を配布したりするための道が開かれることも珍しくありませんでした。
一方,地球の反対側では,1935年にデンマークの二人の開拓者の姉妹たちが休暇を取って北大西洋のフェロー諸島へ旅行することにしました。しかし二人が考えていたのは観光だけではありませんでした。非常に沢山の文書を携えて行き,それらを十分に用いたのです。二人は風や雨や僧職者の敵意などをものともせず,滞在中,人の住む島々をできるだけ網羅しました。
さらに西へ目を移すと,アイスランド系カナダ人のギオルグ・リンダルが,ずっと長期にわたる割り当てを引き受けました。1929年,ラザフォード兄弟の提案で,ギオルグは開拓奉仕を行なうためにアイスランドへ引っ越しました。彼は多大の忍耐を示しました。その後の18年間,彼はほとんど一人で奉仕したのです。町や村を何度も訪問し,何万という数の文書を配布しましたが,当時彼と共にエホバへの奉仕を行なうアイスランド人は一人もいませんでした。ギレアデで訓練を受けた二人の宣教者が到着した1947年までの間,わずか1年間の例外を除いて,ギオルグの交われるエホバの証人はアイスランドに全くいませんでした。
神の命令を人間が禁止する時
特に1920年代から1940年代にかけて,証人たちが公の宣教中に反対に遭うのは少しも珍しいことではなく,たいていは地元の僧職者たちが,そして時には政府の役人たちがそうした反対を扇動しました。
オーストリアのウィーン北部の田園地帯で,証人たちは,敵意を抱く一群の村人と向かい合うことになりました。村人たちは,警察の支持を得た地元の一僧職者に扇動されていました。僧職者たちは自分たちの村ではエホバの証人に伝道させまいと決意していたのです。しかし,神から与えられた割り当てを果たそうと決意していた証人たちは別の道を通り,後日再び訪問した時には回り道をして村々に入りました。
人間の脅しや要求にもかかわらず,エホバの証人は,自分たちには神の王国をふれ告げるという神に対する責務があることを認識していました。彼らは自分たちの支配者として人間より神に従うことを選びました。(使徒 5:29)地元の役人たちがエホバの証人の信教の自由を否定しようとしても,証人たちは援軍を送り込んでくるだけでした。
1929年にドイツのバイエルン州の一地方で逮捕が繰り返されたため,証人たちは二つの特別列車を借り切りました。ベルリンとドレスデンから発車した二つの列車はライヘンバッハで連結され,証言活動に参加するのを待ちかねている1,200人の乗客を乗せて,午前2時にレーゲンスブルク地区に入りました。かなりの費用のかかる旅でしたが,各自が自分の旅費を負担し,どの駅でも幾人かが下車しました。中には,田舎のほうまで足を伸ばせるよう自転車を持ってきた人たちもおり,その地域全体がわずか1日で網羅されました。彼らは自分たちの一致した努力の結果を目にして,神がご自分の僕に約束された,「あなたを攻めるために形造られる武器はどれも功を奏さ(ない)」という言葉を思い出さずにはいられませんでした。―イザヤ 54:17。
ドイツの証人たちは非常に熱心で,1919年から1933年までの間に,概算ながら少なくとも1億2,500万冊の書籍と小冊子と雑誌,それに膨大な数のパンフレットを配布しました。一方,当時のドイツの全所帯数はわずか1,500万ほどでした。この時期にドイツは世界のどの国にも引けをとらないほど徹底的な証言を受けました。ドイツは,霊によって油そそがれたキリストの追随者であると公言する人々が最も集中している地域の一つでした。しかしその後幾年もの間に,それらの人々は忠誠に関する最も厳しい試練の幾つかも経験しました。―啓示 14:12。
1933年,ドイツのエホバの証人の業に対する公式の反対が非常に激化しました。証人たちの家や協会の支部事務所は何度もゲシュタポの捜索を受けました。ドイツのほとんどの州で証人たちの活動に禁令が課され,証人たちが逮捕されることもありました。何トンもの聖書や聖書文書が公衆の面前で焼かれました。1935年4月1日,エルンステ・ビーベルフォルシェル(誠心聖書研究者,つまりエホバの証人)を禁令下に置く国法が可決され,エホバの証人から生活手段を奪うため組織的な努力が払われました。それに対して証人たちは,集会をすべて小人数のグループで行なうように変更したり,聖書研究用の資料をゲシュタポがすぐには気づかないような形に変えたり,あまり人目につかない伝道方法を採用したりしました。
それ以前でさえ,イタリアの兄弟たちは1925年以降ファシスト独裁政権のもとで生活しており,1929年にはカトリック教会とファシスト国家イタリアの間で政教条約が調印されました。真のクリスチャンは情け容赦なく追い詰められて捕らえられました。中には逮捕されないよう納屋や干し草置き場で集まる人たちもいました。当時,イタリアのエホバの証人は非常に少数でした。しかし,王国の音信を広めようとする彼らの努力は1932年に強化されました。その年,スイスの20人の証人たちがイタリアにやって来て,「神の国 ― 全地の希望」と題する小冊子を30万部配布するという電撃的な活動を行なったのです。
極東でも,圧力が高まりつつありました。日本ではエホバの証人が逮捕されました。ソウル(現在は大韓民国にある)やピョンヤン(現在は朝鮮民主主義人民共和国にある)では,役人たちが証人たちの聖書文書を大量に破棄しました。
このように圧力が高まりつつあったさなかの1935年,エホバの証人は啓示 7章9節から17節の「大いなる群衆」つまり「大群衆」の実体について,聖書から明確な理解を得ました。(欽定,新世)この理解により,証人たちは予期していなかった緊急な業に気づくようになりました。(イザヤ 55:5)もはや彼らは,天の王国の相続人の「小さな群れ」に属さないすべての人に,将来のいつか自分の生活をエホバのご要求と調和させる機会が与えられる,とは考えませんでした。(ルカ 12:32)エホバの証人は,神の新しい世へ生き残るようそうした人々を弟子とする時が今や来たことに気づいたのです。証人たちは,すべての国民から来るこの大群衆を集める業がどれほどの期間続くのかは知りませんでしたが,邪悪な体制の終わりは非常に近いに違いないと考えていました。拡大し激しさを増す迫害の中でこの業がどのように成し遂げられるのか,確かなことは分かりませんでした。しかし彼らは次の点を確信していました。『エホバの手が短すぎることはない』のですから,エホバは彼らがご意志を果たすための道を開いてくださるはずです。―イザヤ 59:1。
1935年当時,エホバの証人は比較的少数であり,全世界に5万6,153人しかいませんでした。
その年,エホバの証人は115の国や地域で宣べ伝えていましたが,そのうちの半数近くの国や地域には証人たちが10人もいませんでした。活発なエホバの証人が1万人以上いたのは二つの国だけでした(米国は2万3,808人; ドイツは,その2年前に報告できた1万9,268人から推定すると1万人ほど)。報告によると,他の七つの国(オーストラリア,イギリス,カナダ,チェコスロバキア,フランス,ポーランド,ルーマニア)にはそれぞれ1,001人以上6,000人未満の証人たちがいました。他の21か国の活動の記録は,それぞれの国に100ないし1,000人の証人たちがいたことを示しています。しかし,熱心な証人たちのこの世界的な一団は,人類の唯一の希望として神の王国をふれ告げる業に,その1年間で816万1,424時間をささげました。
証人たちは1935年中にそうした国々で忙しく働いただけでなく,既に他の土地にも良いたよりを広めていたので,その年までに149の国や群島に王国の音信が伝わっていました。
[424ページの拡大文]
彼らは刑務所に拘禁されていたが,機会を見つけて伝道した
[425ページの拡大文]
進んで熱心に業を続行する!
[441ページの拡大文]
彼らは風や雨や僧職者の敵意などをものともしなかった
[442ページの拡大文]
ドイツでは,国内で“エルンステ・ビーベルフォルシェル”が禁令下に置かれる前に,驚くべき規模の証言が行なわれた
[423ページの地図/図版]
世界が戦争に巻き込まれていた時期に,R・R・ハリスターやファニー・マッケンジーは,中国や日本や朝鮮の人々に平和の音信を忙しく伝えていた
[地図]
(正式に組んだものについては出版物を参照)
朝鮮
日本
中国
太平洋
[428ページの地図]
(正式に組んだものについては出版物を参照)
この地図に名前の挙げられている国々の出身の移民たちは,人類を祝福するという神のすばらしい目的について学んだ時,その知らせを是非とも母国へ持って帰りたいと考えた
アメリカ大陸
↓ ↓
オーストリア
ブルガリア
キプロス
チェコスロバキア
デンマーク
フィンランド
ドイツ
ギリシャ
ハンガリー
イタリア
オランダ
ノルウェー
ポーランド
ポルトガル
ルーマニア
スペイン
スウェーデン
スイス
トルコ
ユーゴスラビア
[432ページの地図]
(正式に組んだものについては出版物を参照)
1920年代と1930年代に,福音宣明者たちは証言を行なうためにドイツから数多くの国へ移った
ドイツ
↓ ↓
南アメリカ
北アフリカ
アジア
[435ページの地図/図版]
フランク・スミスとその弟グレー(上の写真)のような熱心な開拓者たちがアフリカの東海岸まで良いたよりを広めた
[地図]
(正式に組んだものについては出版物を参照)
ウガンダ
ケニア
タンザニア
南アフリカ
[439ページの地図/図版]
1928年,南西アフリカ(現在のナミビア)中の人々がこの小冊子を郵便で受け取った
[地図]
(正式に組んだものについては出版物を参照)
ナミビア
[440ページの地図/図版]
熱心な開拓者たちはライトベアラー号に乗って,東南アジアで王国の音信を広めた
[地図]
(正式に組んだものについては出版物を参照)
マラヤ
ボルネオ
セレベス
スマトラ
ジャワ
チモール
ニューギニア
オーストラリア
太平洋
[426ページの図版]
「現存する万民は決して死することなし」という講演は多くの国で大勢の聴衆を引きつけた
[427ページの図版]
南アフリカのエドウィン・スコットは,「世界の指導者たちに対する挑戦」というパンフレットを一人で5万部配布した
[429ページの図版]
福音宣明者を求める呼びかけにこたえて,ビリー・ウングラウベはヨーロッパとアフリカと東洋で奉仕した
[430ページの図版]
1992年現在,エリック・クックとその弟ジョン(座っている)はそれぞれ全時間奉仕を60年以上行なっており,ヨーロッパとアフリカで胸の躍るような数々の経験をしてきた
[431ページの図版]
エドウィン・スキナーが1926年にインドに赴いた時,彼の任命地には五つの国が含まれていた。彼はその地で64年間忠実に伝道し続けた
[433ページの図版]
生活必需品と証言用の文書の準備を整えたアルフレッド・トゥチェックとフリーダ・トゥチェック。二人はかつてのユーゴスラビアで開拓奉仕を行なった
[434ページの図版]
“バイブル・ブラウン”は西アフリカ全域で偽りの崇拝を暴露する業に精力的にあずかった
[436ページの図版]
ジョージ・ヤングは南米とスペインとポルトガルで神の王国を広くふれ告げる業にあずかった
[437ページの図版]
1924年から南米で伝道を続けていたフアン・ムニス(左)は,それから20年以上たってアルゼンチンを初めて訪問したN・H・ノアを出迎えた
[438ページの図版]
ニコラス・アルヒロスは,自由をもたらす聖書の真理をアルゼンチンの14の州に広めた
[439ページの図版]
F・J・フランスキは陸路と水路で旅行し,辺ぴな集落に聖書の真理を伝えようと努めた
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