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産児制限 ― だれが決定すべきか あなた? それとも教会?目ざめよ! 1989 | 9月22日
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聖書の見方はどのようなものか
避妊に反対する人は,アダムとエバに与えられた,「生めよ,ふえよ,地に満ちよ」という聖書的命令をよく引き合いに出します。(創世記 1:28,フランシスコ会聖書研究所訳)しかし,スペインの著述家リカルド・レスカーノはいみじくも,「地球上の二人きりの住人に適用されたのと同じ方式を40億の人間に適用するのは,いささか矛盾しているように思える」と述べています。この命令が,当時存在していた特別な状況と関係があったことは明らかです。
産児制限や家族計画について論じている箇所は,聖書のどこにもありません。聖書は性の不道徳を非としていますが,夫婦間の性関係を正当化するのは生殖だけであるとは教えていません。(箴言 5:15-20; コリント第一 7:2,3と比較してください。)それでこの件に関しては,聖書の明確な指針のない他の問題と同様,各夫婦が自分たちの良心に従って決定しなければなりません。善悪の規準を独断的に設けるならば,「書き記されている以上のこと」をする結果になるでしょう。―コリント第一 4:6,バルバロ訳。
これは,産児制限のあらゆる手段が神の目から見て許されるという意味ではありません。聖書は,神が胎児の命を尊び,胎内におけるその成長に注目しておられることをはっきり述べています。(詩編 139:13-16。エレミヤ 1:5)モーセの律法下では,胎児をうっかり死なせた人でさえ厳しい罰を受けました。(出エジプト記 21:22,23)それで神の見地からすると,中絶は非難されるべきことであり,受胎後に命を終わらせる何らかの器具や薬物の使用もそうです。a
それで,誠実なカトリック教徒の多くが直観的に信じていること,つまり家族計画は各夫婦に任せるのが一番よいということは,まさしく聖書が示している事柄なのです。
前に登場したポルトガル人の父親であるジョアキンは,産児制限に関するカトリックの教理に従い,苦しくてつらい経験をした後,同じ結論に達しました。そして,教会の他の教義についても,「神のおきて」というよりは「人の作った戒め」にすぎないかどうかを確かめるため,聖書を調べるようになりました。―マタイ 15:3,9,バルバロ訳。
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産児制限 ― だれが決定すべきか あなた? それとも教会?目ざめよ! 1989 | 9月22日
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[脚注]
a まれなことですが,母親の命を救うために,思い切った医療処置の必要な場合はあるかもしれません。―「ものみの塔」誌,1975年6月15日号,383,384ページをご覧ください。
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