ものみの塔 オンライン・ライブラリー
ものみの塔
オンライン・ライブラリー
日本語
  • 聖書
  • 出版物
  • 集会
  • タイトルページ/発行者ページ
    血はあなたの命をどのように救うことができますか
    • タイトルページ/発行者ページ

      血はあなたの命をどのように救うことができますか

  • 目次
    血はあなたの命をどのように救うことができますか
    • 目次

      3 血 ― 命にとって不可欠なもの

      7 輸血 ― どれほど安全か

      13 輸血に代わる良質の医療

      17 あなたには選択の権利がある

      22 本当に命を救う血

  • 前書き
    血はあなたの命をどのように救うことができますか
    • 前書き

      人々は毎日,臓器移植,中絶,「死ぬ権利」といった,健康にかかわる倫理的な決定に直面します。読者の皆さんがそのような問題に直面しないことを願ってやみません。

      それでも,是非とも皆さんの注意を向けていただきたい一つの問題があります。それは,命を救うためどのように血を用いることができるかという問題です。

      今日,多くの人が,『輸血はどれほど安全だろうか』と尋ねることにはもっともな理由があります。しかしこれは,単なる医学的な問題ではありません。この問題は,エホバの証人の関係するニュースの種になってきました。皆さんは,良い医療を信頼するそれら倫理的な人たちが,どうして血を受け入れようとしないのか不思議に思われますか。

      これから調べてみますが,血を用いることに伴う医学的および道徳的な側面は,皆さんが持っておられる最も価値あるもの,つまり命をどのように救うことができるかという問題と直接関係しているのです。

  • 血 ― 命にとって不可欠なもの
    血はあなたの命をどのように救うことができますか
    • 血 ― 命にとって不可欠なもの

      血はあなたの命をどのように救うことができるのでしょうか。血はあなたの命とかかわりがあるのですから,あなたはこの問題に関心を持つに違いありません。血は体全体に酸素を運搬し,二酸化炭素を取り除き,あなたが温度の変化に順応したり病気と闘ったりするのを助けます。

      命と血の結びつきは,1628年にウィリアム・ハービーが循環系を図に表わすずっと以前から認められていました。幾つかの主要な宗教の基本的な倫理は,ひとりの生命授与者,つまり命と血に関するご自分の意見を明らかにしておられる方に焦点を当てています。ユダヤ人のクリスチャンであった一人の法律家はその方について,『神ご自身がすべての人に命と息とすべての物を与えておられます。わたしたちは神によって命を持ち,動き,存在しています』a と述べました。

      そのような生命授与者を信じる人々は,その方の指示がわたしたちに永続的な益をもたらすことを確信しています。ヘブライ人の一預言者はその方を,「あなたに自分を益することを教える者,あなたにその歩むべき道を踏み行かせる者」と表現しました。

      イザヤ 48章17節にあるこの保証の言葉は,わたしたちすべてに益を与える倫理上の価値観ゆえに敬意を受けている書物,つまり聖書の一部となっています。この書物は人間が血を用いることについて何と述べているでしょうか。そこには,血によって命が救われると書かれていますか。実を言えば聖書は,血が生物学的に複雑な液体以上のものであることを明確に示しています。聖書は血について400回以上言及していますが,その中には,命を救うことと関連づけられている箇所もあります。

      そうした箇所の最初のほうで創造者は,「生きていて,動くものはすべて,あなた方の食物となる。……しかし,命の血がまだその中にある肉は食べてはならない」と宣言し,「あなたの命の血に対して,わたしは確かに言い開きを求める」と付け加えてから,殺人を非とされました。(創世記 9:3-6,新国際訳)創造者はノアにそのように語られました。ノアはユダヤ人からも,イスラム教徒からも,クリスチャンからも大いに尊ばれている人類共通の先祖です。そのようにして,創造者から見て血は命を表わすということが全人類に知らされました。これは食事に関する規定以上のものでした。ここに道徳的な原則が関係していたことは明らかです。人間の血は重要な意味を持つものであり,誤用すべきではありませんでした。後に創造者が付け加えられた詳細な点から,創造者が命の血と道徳上の問題を結びつけておられることを容易に理解できます。

      神は古代イスラエルに律法を与えた時,再び血に言及されました。その法典に含まれる知恵と倫理に敬意を示す人は少なくありませんが,ほとんどの人は血に関するその重大な律法に気づいていません。例えば,このような律法がありました。「イスラエルの家の者あるいは彼らの中に住んでいるよその人のだれであれ,血に幾らかでもあずかるなら,血にあずかっているその人に対してわたしは自分の顔を向け,その人を一族の中から断つであろう。肉の命は血のうちにあるからである」。(レビ記 17:10,11,タナック訳)次に神は,狩りをする者が動物の死体をどのように扱うべきかを説明し,「その血は注ぎ出し,それを地で覆う。……あなたはいかなる肉の血にもあずかるべきではない。すべての肉の命はその血であるからである。それにあずかる者はだれであれ,断たれる」と言われました。―レビ記 17:13,14,タナック訳。

      ユダヤ人の律法が健康に寄与したことは,科学者たちの認めるところとなっています。例えば,律法によれば,糞便は陣営の外で排泄して覆わなければならず,民は病気の危険性が高い肉を食べてはなりませんでした。(レビ記 11:4-8,13; 17:15。申命記 23:12,13)血に関する律法には健康を配慮した側面も含まれていましたが,それ以上のことも関連していました。血には象徴的な意味があったのです。血は創造者によって備えられた命を表わしました。民は血を特別なものとして扱うことにより,命が神に依存していることを示しました。そうです,彼らが血を取り入れるべきでなかった主要な理由は,それが健康に有害だったからではなく,血が神にとって特別な意味を持つものだったからです。

      命を支えるために血を取り入れることが創造者によって禁じられていることは,律法の中で繰り返し語られました。「あなたは血を食べてはならない。それを水のように地面に注ぎ出さなければならない。それを食べてはならない。それは,あなたとあなたの後の子供たちに関して物事が順調に運ぶためである。あなたは正しいことを行なうことになるからである」― 申命記 12:23-25,新国際訳; 15:23。レビ記 7:26,27。エゼキエル 33:25。b

      今日のある人たちの論じ方とは全く異なりますが,血に関する神の律法は,緊急事態が生じたというだけの理由で無視されるべきものではありません。戦時の危機のさなか,イスラエル人の兵士の中には,動物を殺して「血のままで食べ(た)」者たちがいました。緊急事態であったことを考えると,彼らが血で自分たちの命を支えても差し支えなかったのでしょうか。そうではありません。彼らの指揮官は,兵士たちの取った行動がやはり大きな間違いであることを指摘しました。(サムエル第一 14:31-35)したがって,命は貴重なものですが,わたしたちの生命授与者は,緊急事態ならご自分の規準を無視してもかまわない,とは決して言われませんでした。

      血と真のクリスチャン

      血で人間の命を救うという問題に関して,キリスト教はどんな立場を取っているでしょうか。

      イエスは忠誠の人であり,それゆえに非常に敬われています。イエスは,創造者の言葉を通して,血を取り入れることは間違っており,その律法には拘束力があるということを知っておられました。したがって,血に関する律法を擁護させまいとする圧力のもとに置かれたとしても,イエスがその律法を擁護したであろうと考えてよい正当な理由があるのです。イエスは「悪を行なわず,[また]その唇に不実なことは見いだされなかった」のです。(ペテロ第一 2:22,ノックス訳)そのようにイエスはご自分の追随者たちに模範を示されましたが,命と血に対する敬意という面でもイエスは模範でした。(あなたの命に影響を及ぼすこの肝要な問題にイエスご自身の血がどのようにかかわっているかは,後で考慮します。)

      イエスの死後,幾年かが経過し,クリスチャンになった者がイスラエルの律法すべてを守る必要があるかどうかについて問題が起きた時どんな事柄が生じたかに注目してください。その問題は,使徒たちを含むクリスチャンの統治体の会議で討議されました。イエスの異父兄弟であったヤコブは,ノアとイスラエル国民に対して語られた血に関する命令を含む書き物に言及しました。その命令はクリスチャンに対しても拘束力があるのでしょうか。―使徒 15:1-21。

      その会議は下した決定をすべての会衆に送り出しました。クリスチャンはモーセに与えられた律法を守る必要はなく,「偶像に犠牲としてささげられた物と血と絞め殺されたもの[血を抜いていない肉]と淫行を避けていること」が「必要」なのです。(使徒 15:22-29)使徒たちは単なる儀式的もしくは食事に関する法令を提出していたのではありません。この布告は,倫理に関する基本的な規範を定めたもので,初期クリスチャンはこれに従いました。それから約10年後,彼らは,「偶像に犠牲としてささげられた物,ならびに血……また淫行から身を守っている」べきであることを認めました。―使徒 21:25。

      あなたは,非常に大勢の人々が教会に通っていることをご存じでしょう。彼らの大半は,クリスチャンの倫理の中に,偶像に崇拝をささげないこと,ゆゆしい不道徳行為に携わらないことなどが含まれていることにきっと同意するでしょう。しかし注目に値するのは,使徒たちが,血を避けることをそれらの悪を避けることと同じ道徳的な高いレベルに置いていることです。その布告の結びには,「これらのものから注意深く身を守っていれば,あなた方は栄えるでしょう。健やかにお過ごしください」と述べられています。―使徒 15:29。

      使徒たちによる布告は長い間,拘束力のあるものと理解されていました。エウセビオスは2世紀終わりごろの少女について述べていますが,その少女は拷問に遭って死ぬ前,クリスチャンは「理性を持たない動物の血さえ食べることを許されていない」と主張しました。この少女は死ぬ権利を行使していたのではありません。生きることを望んでいましたが,自分の信念を曲げようとはしなかったのです。あなたは,個人的な利得よりも信念を優先させる人々を尊敬するのではないでしょうか。

      科学者のジョセフ・プリーストリーは次のような結論を下しました。「ノアに与えられた,血を食べることに関する禁令は,ノアの子孫全体に課せられた責務のように思える。……原始キリスト教徒がその禁令の本質と適用範囲を正しく理解していなかったとは到底考えられないが,その原始キリスト教徒の行ないに照らして使徒たちのこの禁令を解釈するなら,それが絶対的で恒久的なものとなるよう意図されたものであると結論せざるを得ない。その後幾世紀にもわたり,クリスチャンはすべからく血を食べなかったのである」。

      薬物として血を用いるのはどうか

      血に関する聖書の禁令は,ノアやモーセや使徒たちの時代には決して知られていなかった輸血のような医学的な使用法にも適用されるのでしょうか。

      当時,血を用いる現在的な療法は存在していませんでした。しかし,血を薬物として用いることは現代に始まったのではありません。エジプトや他の場所ではおよそ2,000年にわたり,人間の「血が,らい病の最高の治療薬」とみなされていました。一人の医師は,アッシリアという国が工業技術の先端を行っていた時代に,王エサル・ハドンの息子に施された療法を,次のように明らかにしています。「[王子]はずっとよくなっている。わが主なる王には幸せが訪れよう。22日から(彼に)血を飲ませているが,王子は(それを)三日間飲むことになる。内服薬としてさらに三日,(彼に血を)与えるつもりである」。エサル・ハドンはイスラエル人と交渉を持ったことがありましたが,イスラエル人には神の律法があったため,彼らが薬物として血を飲むことは決してなかったでしょう。

      ローマ時代に血は薬物として用いられましたか。博物学者のプリニウス(使徒たちと同時代の人)や,2世紀の医師アレタエウスは,人間の血がてんかんの治療法だったと伝えています。後にテルトゥリアヌスはこう書きました。「貪欲な渇望を抱いた者たちについて考えてみよう。彼らは闘技場の出し物に際し,邪悪な犯罪者の血を奪い取り,……てんかんを治療するためにそれを持ち帰るのである」。テルトゥリアヌスは彼らをクリスチャンと対照させ,クリスチャンは「[自分たちの]食事のさい動物の血を食べることさえしない。……クリスチャンを試す時,あなた方は血のいっぱい入ったソーセージを差し出す。もとよりあなた方は,[それが]彼らに許されてはいないことを十分知っているのである」と述べています。ですから,初期クリスチャンは死の危険を冒すとしても,血を取り入れようとしませんでした。

      「肉と血」と題する本は次のことを伝えています。「より日常的な形態としての血は,医学と魔術の一要素として人気を失うことがなかった。例えば,1483年に,フランスのルイ11世が危篤状態になった。『日を追うごとに病状は悪化し,どんな薬も効果がなかった。もっとも,薬は奇妙なものだった。というのも,彼は人間の血によって回復することを熱烈に願ったからである。彼は特定の子供たちから血を取り,それを飲んだ』」。

      輸血についてはどうでしょうか。この方法による実験が始まったのは,16世紀の初めの頃でした。コペンハーゲン大学の解剖学の教授トマス・バルトリン(1616-1680年)は,次のように抗議しました。『病気の内服薬として人間の血を強引に使用する者たちは,血を誤用し,甚だしい罪を犯しているように思える。人肉を食べれば非難される。では,食道を人間の血で汚す者たちを憎悪しないのはなぜか。口を通してであれ,輸血器具を用いた場合であれ,静脈を切って他人の血を取り入れるのは,それと同じことである。こうした手術の考案者たちは,血を食べることを禁じている神の律法によって恐れにとらわれている』。

      したがって,過去数世紀の間,考え深い人々は,聖書の律法は口に血を取り入れることと同様,静脈に血を取り入れることにも適用されると理解していました。バルトリンは結論として,「[血]を取り入れるどちらの方法も,一つの同じ目的にかなっている。つまり,この血によって病人の体は養われ,また回復させられるのである」と述べています。

      このように問題のあらましを調べることは,エホバの証人が取っている妥協できない宗教上の立場を理解するための助けになるかもしれません。彼らは命を高く評価し,良い医療を積極的に求めますが,神の首尾一貫した規準に違反しないことを決意しています。つまり,命を創造者からの賜物として尊重する人々は,血を取り入れることによって命を支えようとはしないのです。

      それでも長年にわたり,血は命を救うという主張がなされてきました。急激な失血にもかかわらず,輸血を受けて急速に回復した患者の症例について語ることのできる医師がいます。それで皆さんは,『この立場は医学的に見てどれほど賢明か,どれほど賢明さを欠いているか』と考えるかもしれません。血液療法を支持するための医学的な証拠が提出されています。ですから,血に関してインフォームド・チョイス(十分情報を与えられた上での選択)を行なうため,様々な事実に精通するのは,皆さん自身の務めなのです。

      [脚注]

      a 新世界訳聖書の使徒 17章25,28節にあるパウロの言葉。

      b 後に同様の禁令は,クルアーン(コーラン)にも記されました。

      [4ページの囲み記事]

      「この結果,[使徒 15章で]明確かつ秩序立った仕方で定められた指針は,絶対に必要なものとみなされており,使徒たちの思いの中で,それが一時的な取り決めや暫定的な規準ではなかったことの極めて強力な証拠となっている」― ストラスブール大学教授,エイドワール・ロイス。

      [5ページの囲み記事/図版]

      マルティン・ルターは使徒たちによるその布告の意味を次のように指摘しました。「今もし我々がこの会議に従う教会を持ちたいのであれば,……我々は,王子も,領主も,自治都市の市民も,農民も,今後は血で調理したガチョウ,雄ジカや雌ジカ,豚などを食べてはならないと教えかつ主張しなければならない。……また,自治都市の市民と農民は,赤いソーセージと血入りのソーセージを特に避けなければならない」。

      [クレジット]

      Woodcut by Lucas Cranach

      [6ページの囲み記事]

      「神と人では,物の見方が非常に異なっている。我々の目に重要に見えるものが,無限の知恵を持つ方から見るとささいなものである場合は非常に多い。また,我々には取るに足りないと思えるものが,神にとって極めて重要なものである場合も多い。最初からそうであった」― アレクサンダー・ピリ著,「血を食べることの合法性に対する質問」,1787年。

      [3ページの図版]

      Medicine and the Artist by Carl Zigrosser/Dover Publications

      [4ページの図版]

      歴史的に有名なある会議で,クリスチャンの統治体は,血に関する神の律法には依然として拘束力があることを確証しました

      [7ページの図版]

      結果がどうなっても,初期クリスチャンは血に関する神の律法に違反することを拒んだ

      [クレジット]

      Painting by Gérôme, 1883, courtesy of Walters Art Gallery, Baltimore

  • 輸血 ― どれほど安全か
    血はあなたの命をどのように救うことができますか
    • 輸血 ― どれほど安全か

      考え深い人は,何らかの重大な医療処置を受ける前に,生じ得る益と危険について知ろうとするでしょう。では,輸血についてはどうでしょうか。輸血は現在,医療における主要な手段となっています。患者に純粋な関心を抱く多くの医師は,輸血を施すことについてあまりためらいを感じないかもしれません。血は命の贈り物と呼ばれてきました。

      献血をする人,あるいは輸血を受け入れる人は膨大な数に上ります。カナダでは1986年から1987年にかけて,全人口2,500万人のうち130万人が献血者になりました。「統計の整ったごく最近の年[においては],米国だけで1,200万ないし1,400万単位の血液が輸血に用いられた」― 1990年2月18日付,ニューヨーク・タイムズ紙。

      ルイーズ・J・キーティング博士はこう述べています。「血液は常に“魔術的な”特質を持つものとみなされてきた。医師たちも一般の人々も,血液の供給を最初の46年間は実際以上に安全なものと考えた」。(「クリーブランド臨床医学ジャーナル」誌,1989年5月号)その当時はどんな状況だったのでしょうか。また,現在はどうでしょうか。

      30年前でさえ病理学者や血液銀行の職員には,次のような助言が与えられました。「血液はダイナマイトである。非常な善をもたらすこともあれば,非常な害をもたらすこともある。輸血による死亡率はエーテルの麻酔や虫垂切除による死亡率に等しい。約1,000回ないし3,000回に1回,恐らくは5,000回の輸血で約1回死者が出ると言われている。ロンドン地区では,輸血に用いる1万3,000本の血液に対して一人の死者が出ると報告されている」― ニューヨーク州ジャーナル・オブ・メディシン誌,1960年1月15日号。

      それ以来さまざまな危険が除かれて,現在の輸血は安全なものとなっているでしょうか。率直に言えば,毎年幾十万人もの人が血液に対して副作用を示し,死亡する人も少なくありません。前述の注解から,血液によって伝染する病気が思い浮かぶかもしれません。それを調べる前に,あまり知られていない幾つかの危険について考慮してみましょう。

      血とあなたの免疫性

      20世紀の初頭,科学者たちは血液の驚嘆すべき複雑さを深く理解するようになり,幾つかの異なった血液型があることを知りました。輸血の際には,献血者の血と患者の血を適合させることがすべてを決定します。A型の人がB型の血を取り入れると,由々しい溶血反応を示すことがあります。その結果,その人の赤血球は数多く破壊され,程なくして死亡することもあります。現在では血液型による分類と交差適合試験が普通に行なわれていますが,誤りは確かに生じます。溶血反応によって死亡する人は毎年いるのです。

      事実が示すところによると,不適合の問題には,病院が試験を行なう比較的わずかな数の血液型だけではなく,もっと多くの事柄が関係しています。なぜでしょうか。ダグラス・H・ポウジ2世博士は「輸血:その使用と誤用,そして危険」という記事の中でこう書いています。「30年ほど前にサンプソンは輸血を比較的危険な方法と評した。……[その時以来]付加的な少なくとも400種類の赤血球抗原の実体と特質が明らかにされた。赤血球膜は甚だ複雑なものであるから,抗原の数が増え続けることは間違いない」―「国立医師会ジャーナル」誌,1989年7月号。

      科学者たちは現在,輸血された血液が人体の防御機構,つまり免疫機構に及ぼす影響について研究しています。皆さんにとって,あるいは手術の必要な親族にとって,それは何を意味するのでしょうか。

      医師たちが心臓や肝臓などの器官を移植する場合,移植を受ける人の免疫機構は異物を感じ取ってそれを拒むかもしれません。しかし,輸血は一種の組織移植です。“正しく”交差試験の施された血液でさえ,免疫機構を抑制する恐れがあるのです。病理学者が集まったある会議の席上で,幾百もの医学論文が「輸血を免疫学的反応と関連づけてきた」ことが強調されました。―「輸血を非とする判例が増加」,メディカル・ワールド・ニューズ誌,1989年12月11日号。

      免疫機構の主な仕事は,悪性(ガン)の細胞を検出し破壊することです。免疫が抑制されると,本当にガンになり,死をきたすのでしょうか。次の二つの報告に注目してください。

      雑誌「ガン」(1987年2月15日号)はオランダで行なわれたある研究の結果を次のように伝えました。「結腸ガンの患者の場合,輸血は,長い間生き延びることに関してかなりの悪影響を及ぼすことが分かった。このグループの場合,輸血した患者の48%,輸血をしなかった患者の74%が約5年,生き延びた」。南カリフォルニア大学の医師たちは,ガンの手術を受けた100人の患者に関する追跡調査を行ないました。「喉頭ガンにかかった人のうち,病気が再発した割合は,輸血を受けなかった患者の場合が14%,輸血を受けた患者の場合が65%であった。口腔,咽頭,鼻もしくは副鼻腔のガンが再発する割合は,無輸血の場合が31%,輸血を受けた場合は71%だった」―「耳科学,鼻科学,喉頭科学の年報」,1989年3月号。

      それらの研究は輸血に関して何を示唆しているでしょうか。ジョン・S・スプラット博士は「輸血とガン手術」という論文の中で,「ガンの手術を行なう医師は,無輸血手術を行なう外科医になる必要があるかもしれない」という結論を下しています。―「アメリカ外科ジャーナル」誌,1986年9月号。

      免疫機構のもう一つの主な仕事は,感染を防ぐことです。ですから,輸血を受けた患者は感染症にかかりやすいことを示す研究があるのもうなずけます。P・I・ターッター博士は結腸直腸の手術に関する研究を行ないました。輸血を受けた患者のうち,25%に感染症が見られたのに対し,輸血を受けなかった患者で感染症が見られたのは,4%でした。同博士は次のように伝えています。「輸血は,手術前,手術中,手術後のいつ行なわれたものであろうと,感染性合併症と関連していた。……手術後の感染の危険は,投与された血液の単位数に応じて,徐々に増し加わった」。(「英国外科ジャーナル」誌,1988年8月号)1989年に開かれたアメリカ血液銀行協会会議に出席した人々は,股関節置換術に際して輸血を受けた人の23%に感染症が見られたのに対し,輸血を受けなかった人には感染症が全く見られなかったことを学びました。

      ジョン・A・コリンズ博士は輸血が及ぼすこの影響について「価値あることを成し遂げるという証拠に非常に乏しい“治療”が,そうした患者の直面する主要な問題の一つを結果的に深刻化させることになるとしたら,それは実に皮肉なことであろう」と書きました。―「世界外科ジャーナル」誌,1987年2月号。

      病気から解放されるのか,それとも危険が伴うのか

      血液によって伝染する病気は,良心的な医師や多くの患者の心配の種になっています。どの病気のことでしょうか。率直に言って,それを一つに限定することはできません。実に多くの病気があるのです。

      「輸血の技術」(1982年)は一層よく知られた病気について論じた後に,梅毒,サイトメガロウイルス感染症,マラリアなど,「輸血と関係のある他の感染症」の名を挙げています。次いでその文献は,「ほかにも,輸血によって伝染すると言われている数種の病気がある。その中には,ヘルペスウイルス感染症,感染性単核細胞症(エプスタイン-バーウイルス),トキソプラスマ症,トリパノソーマ症[アフリカ睡眠病,シャガス病],リーシュマニア症,ブルセラ症[波状熱],発疹チフス,フィラリア症,はしか,サルモネラ症,コロラドダニ熱などが含まれる」と述べています。

      事実,そうした病気のリストは長くなりつつあります。皆さんは,「輸血でライム病? 可能性は薄いが,専門家は慎重」といった見出しを見たことがあるかもしれません。ライム病の検査で陽性だった人の血はどれほど安全でしょうか。健康問題担当の政府関係者の一団に,そのような血を受けるかどうかという質問がなされました。「その全員が,ノーと答えたが,そのような献血者の血液を放棄することを推薦した人は一人もいなかった」ということです。一般の人々は,専門家自身も受け入れない,銀行に預けられている血液についてどう感じるべきでしょうか。―1989年7月18日付,ニューヨーク・タイムズ紙。

      心配の理由の二つ目は,特定の病気が蔓延している国で集められた血液が,一般の人々も医師たちも危険に気づいていない遠くの場所で用いられる可能性があることです。今は難民や移民を含め,旅行する人が増えているので,血液製剤の中に新奇な病気が含まれている危険は高まりつつあります。

      さらに,感染症の一専門家は次のような警告を発しています。「白血病,リンパ腫,痴呆[アルツハイマー病]など,以前には感染するとみなされなかった数種の障害の伝播を防ぐため,供給血液を検査しなければならないかもしれない」―「輸血医学レビュー」誌,1989年1月号。

      これらの危険は背筋の寒くなるようなものですが,それよりもずっと広範に恐れをもたらしている他の危険もあります。

      エイズの世界的流行

      「エイズは血に関する医師と患者の考え方を永久的に変化させた。それは悪い考えではない,と輸血に関する会議のため全国健康協会に集まった医師たちは語った」― 1988年7月5日付,ワシントン・ポスト紙。

      エイズ(後天性免疫不全症候群)の世界的流行は,血液から感染症にかかる危険があることに対して,徹底的に人々の目を開かせました。現在この病気に感染している人は幾百万を数えます。エイズは手の施しようがないほどに広まっており,その死亡率は事実上100%に達しています。

      エイズの原因となっているのはヒト免疫不全ウイルス(HIV)であり,血液を介して広がります。現代のエイズ禍が明るみに出たのは1981年ですが,健康問題の専門家たちはその翌年,エイズウイルスが血液製剤を通して伝染する可能性が十分にあることを突き止めました。現在では,HIVの抗体を含む血液を見分ける検査が実施できるようになった後でさえ,血液業界の反応は遅かったと言われています。献血者の血液検査はやっと1985年に始まりましたが,a その時も,すでに在庫している血液製剤に関する検査は実施されませんでした。

      その後,『現在,供給される血液は安全です』という保証が一般の人々に与えられたものの,時たつうちに,エイズの危険な“ウインドウ・ピリオド(潜伏期間)”の存在が明らかにされました。人が感染した後,検出可能な抗体を作り出すまでに何か月もかかることがあるのです。感染した当人はウイルスが潜在しているとは知らずに,検査の結果が陰性の血液を献血するかもしれません。そのようなことが実際に生じました。人々はそのような血液を輸血された後,エイズになっているのです。

      状況はいよいよ厳しくなっています。ニューイングランド・ジャーナル・オブ・メディシン誌(1989年6月1日号)は,“HIVの静かな感染”について伝えました。人が何年もエイズウイルスを保有していても,現在の間接的な検査ではウイルスが発見されない場合があるという事実が確定されたのです。そういう例はまれにしかない,と問題を軽く見たがる人もいますが,ここに挙げた例は,「血液およびその成分を介してエイズが伝染する危険は,完全には除去できない」ことを示す証拠なのです。(「患者の世話」,1989年11月30日号)そこで頭の痛い次のような結論が導き出されます。つまり,検査の結果が陰性でも,それは健康に異常がないことを保証する診断書ではないということです。今後どれほどの人が血液を通してエイズにかかるのでしょうか。

      次の靴は一つか,幾つもあるのか

      マンションに住んでいる人の多くは,階上の床をドスンと踏み鳴らす靴の音が聞こえると,次の靴音がいつするかと考え,気が張りつめるかもしれません。血液に関する難しい問題の場合,これからどれほど多くの致死的な靴音が聞こえるか,だれにも分からないのです。

      エイズウイルスはHIVと呼ばれていますが,専門家の中にはそれをHIV-1と呼ぶようになった人もいます。なぜでしょうか。もう一つのタイプのエイズウイルス(HIV-2)を発見したからです。このウイルスはエイズの症状を生じさせ,ある地域で広まっています。さらに,ニューヨーク・タイムズ紙(1989年6月27日付)が伝えるところによると,このウイルスは,「現在ここで使用されているエイズ検査で必ず検出できるわけではない」のです。「この新しい発見により,……血液銀行が献血の安全性を確認することは,いよいよ難しくなる」ということです。

      では,エイズウイルスの遠い親類に当たるウイルスについてはどうでしょうか。ある大統領委員会(米国)は,それらのウイルスの一つが,「成人T細胞白血病/リンパ腫,および神経学的な由々しい病気の原因とみなされている」と述べました。このウイルスはすでに献血者たちのうちに存在し,血液を通して広まる可能性があります。『血液銀行によるそれら他のウイルスの検査は,どれほど効果的なのか』と人々が考えるのも当然です。

      実際,血液によって伝染するウイルスが,供給される血液にどれほど潜んでいるかということは,時間がたってみなければ分かりません。ハロルド・T・メリーマン博士は,「既知の事実よりも未知の事柄のほうが大きな心配の種になっているのかもしれない」と書きました。「潜伏期が多年にわたる伝染性のウイルスと輸血の関係を明らかにするのは難しく,そうしたウイルスを検出するのはもっと難しい。確かにHTLV(ヒトT細胞白血病ウイルス)のグループは,そうしたウイルスのうち,表面に出てきた最初の例に過ぎない」。(「輸血医学レビュー」誌,1989年7月号)「あたかもエイズ禍では苦痛が足りないかのように,……1980年代には,輸血に伴う,新しく提唱もしくは説明された,数多くの危険に注意が促された。ほかにも深刻なエイズ性疾患があり,それが同種輸血によって伝染することは,さほど大きな想像力を働かさずとも予測できる」―「同種感染を抑える: その代替策」,1989年。

      すでに多くの“靴”が落とされてきたため,疾病対策センターは“全面的警戒”を呼びかけています。つまり,『医療関係者は,すべての患者がHIVなど,血液によって伝染する病原体に感染しやすいと考えるべきである』というわけです。医療関係者と一般の人々が血液に対する自分の見方を再評価していることには,もっともな理由があるのです。

      [脚注]

      a すべての血液の検査が行なわれているとは判断できません。例えば,1989年の最初の時点で,ブラジルの血液銀行の約8割は政府の管理下になく,エイズの検査も受けていないと報告されています。

      [8ページの囲み記事]

      「およそ100件につき1件の割合で,輸血には熱,悪寒,あるいは蕁麻疹が伴う。……赤血球輸血では,およそ6,000件に1件の割合で,溶血性輸血反応が生じる。これは深刻な免疫反応で,輸血後急に生じたり,何日かたって現われたりする。その結果,急性[腎]不全,ショック,血管内凝固,さらには死を招く場合さえある」― 米国立衛生研究所(NIH)会議,1988年。

      [9ページの囲み記事]

      デンマークの科学者ニールス・ヤーヌは1984年のノーベル医学賞を受賞しました。彼は輸血を拒否した理由を尋ねられ,「人の血液は指紋のようなものである。2種類の血液がそっくり同じであるということはない」と語りました。

      [10ページの囲み記事]

      血,損なわれた肝臓,そして……

      「皮肉なことだが,血液によって伝染するエイズが……例えば肝炎などの他の病気ほど大きな脅威になったことはなかった」と,ワシントン・ポスト紙は説明しました。

      そうです,そのような肝炎のために非常に大勢の人が重い病気にかかり,死亡しました。肝炎に効く特別な治療法はないのです。「US・ニューズ・アンド・ワールド・リポート」誌(1989年5月1日号)によると,米国で輸血を受けた人のおよそ5%は肝炎になっています。その数は年間17万5,000人に上ります。そのうちの約半数は慢性的な保菌者となり,少なくとも5人に一人は肝硬変か肝臓ガンにかかります。4,000人は死亡するものと推定されています。ジャンボジェット機が墜落して乗客全員が死亡したなら新聞にどんな見出しが載るか,想像してください。しかし4,000人の死者というのは,満員の客を乗せたジャンボジェット機が毎月墜落するのと同じことなのです。

      より軽い肝炎(A型)が不潔な食物や水を通して広がることは,昔から医師に知られていました。その後医師たちは,より重い肝炎が血液を通して広がることを理解したものの,それに対処する血液検査の方法がありませんでした。やがて頭脳明せきな科学者たちがこのウイルス(B型)の“指紋”の検出法を学び,1970年代の初期までに,一部の国において血液検査が行なわれるようになりました。血液の供給は安全に,血液の将来は輝かしく見えました。しかし,実際はどうだったのでしょうか。

      程なくして,検査済みの血液を輸血された幾千幾万という人でさえ肝炎にかかることが明らかにされました。病気が悪化してから,肝臓が損なわれていることに気づいた人も少なくありませんでした。しかし血液の検査が済んでいたのであれば,なぜそのようなことが起きたのでしょうか。血液の中に非A非B型肝炎(NANB)と呼ばれる新型のウイルスが含まれていたのです。このウイルスによって輸血には10年間災いが伴い,イスラエル,イタリア,日本,スペイン,スウェーデン,米国で輸血を受けた人の8ないし17%がこの肝炎にかかりました。

      その後,「謎の非A非B型肝炎ウイルスの分離,ついに成功」,「血液をめぐる興奮は収まる」といった見出しが新聞をにぎわすようになりました。そこでまたもや,『謎に包まれていた物質が発見される』といったニュースが伝えられ,1989年4月には一般の人たちに対して,NANBの検査が可能になったと発表されました。現在NANBは,C型肝炎と呼ばれるようになっています。

      あなたは,このように安心するのは時期尚早ではないかとお考えになるかもしれません。事実,イタリアの研究者たちは,突然変異体である別の肝炎ウイルスについて報告しています。肝炎の3分の1はこのウイルスに起因するようです。「ハーバード大学医学部ヘルスレター」(1989年11月号)は,「一部の権威者は,肝炎のウイルスを表わすアルファベットとしてA,B,C,Dだけでは不十分ではないかと心配している。まだまだ別のウイルスが出てくるかもしれない」と述べました。ニューヨーク・タイムズ紙(1990年2月13日付)によれば,「専門家たちは,ほかにも肝炎の原因となるウイルスがあることを確信している。もしそれが発見されれば,E型肝炎といった類の名がどんどん付けられるであろう」ということです。

      血液銀行は血液の安全性を確保するための検査について,さらに時間をかけて研究するのでしょうか。米国赤十字社の一理事は,経費の問題を引き合いに出し,「広まってゆく可能性のある感染物質の各々に関して,検査に次ぐ検査を行なうことなどできない」と述べています。―「メディカル・ワールド・ニューズ」誌,1989年5月8日号。

      B型肝炎の検査法でさえ誤ることがあります。今でも多くの人が血液を通してこの肝炎にかかっています。さらに,人々はC型肝炎に関する発表された検査法に満足するでしょうか。「アメリカ医師会ジャーナル」誌(1990年1月5日号)は,この病気の抗体が検査によって検出されるまでに1年はかかるかもしれない,と述べました。一方,輸血をされた人々は,損なわれた肝臓,そして……死に直面するかもしれないのです。

      [11ページの囲み記事/図版]

      シャガス病は,血液が辺ぴな場所に住む人々に病気を運ぶことを示す好例です。メディカル・ポスト紙(1990年1月16日付)は『中南米の1,000万ないし1,200万の人々が慢性的に感染している』ことを伝えています。それは「南米における輸血に関連した最も由々しい危険の一つ」と呼ばれてきました。“殺し屋カメムシ”が,眠っている人の顔を刺し,血を吸い,傷口に糞をするのです。その人は致死的な心臓合併症を起こすまで,何年もシャガス病の保菌者となっていることがあります(その間に献血をすることもある)。

      遠くの大陸に住む人々がこの問題で頭を痛めているのはなぜでしょうか。L・K・アルトマン博士はニューヨーク・タイムズ紙(1989年5月23日付)上で,輸血後にシャガス病にかかった患者たち ― そのうちの一人は死亡 ― について報告し,こう書きました。「[ここの医師たちは]シャガス病に精通しておらず,この病気が輸血によって広まることも理解していないので,このほかにも幾つもの症例が発見されぬまま進行していた可能性がある」。そうです,血液は病気が広範に伝わる手段となり得るのです。

      [12ページの囲み記事]

      クヌーズ・ルン・オレセン博士は,こう書きました。「危険性の高いグループに属する人々の中には,エイズの検査を自動的に受けることになるという理由で,自発的に献血をする人がいる。……そのことを考えると,輸血を受けることをちゅうちょすべき理由があると思う。エホバの証人は多年にわたり輸血を拒否してきた。彼らは将来を見越していたのだろうか」―「ドクターズ・ウイークリー」,1988年9月26日号。

      [9ページの図版]

      法王は射撃されたものの,命は取りとめました。法王は退院後に「非常な苦しみを経験し」,2か月再入院することになりました。なぜでしょうか。体内に取り入れた血液を通して,死をきたす恐れのあるサイトメガロウイルスに感染したのです

      [クレジット]

      UPI/Bettmann Newsphotos

      [12ページの図版]

      エイズウイルス

      [クレジット]

      CDC, Atlanta, Ga.

  • 輸血に代わる良質の医療
    血はあなたの命をどのように救うことができますか
    • 輸血に代わる良質の医療

      『輸血は有害だが,それに代わる良質の医療があるのだろうか』と,あなたはお考えになるかもしれません。これは適切な質問です。そして「良質」という言葉に注目してください。

      エホバの証人を含め,だれもが良質で効果的な医療を望んでいます。グラント・E・ステファン博士は二つの大切な要素を指摘し,こう述べました。「良質の医療とは,その治療に備わっている要素によって,合法的な医学上および非医学上の目標を達成する能力のことである」。(「アメリカ医師会ジャーナル」誌,1988年7月1日号)「非医学上の目標」の中には,患者の倫理観や,聖書に基づいた患者の良心を踏みにじらないことが含まれるでしょう。―使徒 15:28,29。

      血液を使用せずに医療上の重大な問題に対処できる,合法的かつ効果的な方法はあるのでしょうか。幸いなことに,その方法はあります。

      大多数の外科医は,絶対に必要とされる場合にのみ輸血したと主張しますが,エイズが流行し始めた後,医師が血液を用いる件数は急激に減少しました。「メイヨークリニックの処置法」(1988年9月号)の一論文は,「この疫病のもたらした幾つかの益の一つ」は,「輸血を避けようとする患者の側でも医師の側でも,結果的に種々の対策が考え出されたことである」と述べました。血液銀行の一職員は,「実際に変化したのは,メッセージの強さ,メッセージに対する臨床家の受容度(危険に関する理解が深まったため),そして代替療法を考慮するよう求める声である」と説明しています。―「輸血医学レビュー」誌,1989年10月号。

      代替療法があることに注目してください。このことは,輸血が施される理由を調べてみるとよく分かります。

      赤血球内のヘモグロビンは,健康と命に必要な酸素を運びます。ですから,もし人が大量の血液を失うなら,それをただ単に補充するのは道理にかなったことだと思えるかもしれません。普通は100ccの血液に14ないし15㌘のヘモグロビンが含まれています。(濃度を測定する別の尺度はヘマトクリット値であり,約45%が普通の値です。)ヘモグロビンが10㌘(ヘマトクリット値が30%)を下回ったなら,手術前に患者に輸血を施すことが“ルール”として受け入れられています。スイスの雑誌「ボックス・サンギニス」(1987年3月号)は「[麻酔専門医]の65%は,緊急を要しない手術の場合,患者の手術前のヘモグロビン量が100cc中10㌘に達していることを要求した」と伝えました。

      しかし,1988年に開かれた輸血に関するある会議では,ハワード・L・ツァオダー教授が,「我々はどのようにして“マジック・ナンバー”を得たのか」と問いかけ,次のように率直な発言を行なっています。「麻酔をかけられる前に患者のヘモグロビン量は10㌘に達しているべきであるとする要求がなぜあるのか,その理由は伝統によって覆い隠され,あいまいさに包まれている。臨床的あるいは実験的な証拠に裏づけられてもいない」。考えてみてください。『あいまいで裏づけのない』要求によって,大勢の患者に輸血が施されているのです。

      ある人々は,『ヘモグロビン量が14よりずっと少なくてもやってゆけるのに,どうして14が普通とされているのか』と考えるかもしれません。それは,ヘモグロビンがそれだけあれば,酸素運搬能がかなり蓄積されることによって,運動や重労働の備えができるからです。貧血の患者を研究した結果,「ヘモグロビン濃度が100cc中7㌘という低さでも,労働能力に欠陥を見いだすのは困難である」ことさえ明らかになっています。「機能がやや損なわれるに過ぎないことを発見した人もいる」のです。―「今日における輸血の習慣」,1987年。

      大人はヘモグロビン量が少なくても順応できるとしても,子供はどうでしょうか。ジェームズ・A・ストックマン3世博士はこう述べています。「未熟児はわずかな例外を除いて,最初の1か月ないし3か月間,ヘモグロビンの減少を経験する。……育児室という環境でどんなときに輸血を施すべきか,その方針は明確に定められていない。実際,多くの乳幼児はヘモグロビン濃度がかなり低くても,見たところ臨床上の困難な問題もなく,それに耐えているように思える」―「北アメリカの小児科診療所」,1986年2月号。

      これらの情報は,事故や手術に際して大量に失血した場合,その人に何もする必要がないことを意味するものではありません。もし急速かつ大量に失血するなら,人の血圧は低下し,ショック状態に陥るかもしれません。まず第一に必要なのは,出血を止め,当人の組織の液体の量を元通りにすることです。この方法により,ショックを防ぎ,残っている赤血球や他の成分を循環させることができます。

      増量は全血や血漿を用いなくても行なうことができます。a 様々な無血性溶液が効果的な増量剤になります。最も簡単なのは食塩水で,費用も安くすみ,人間の血液と適合します。デキストランやヘマセル,そして乳酸ナトリウム加リンゲル液など,特殊な物質を含んだ溶液もあります。ヘタスターチ(HES)は新種の増量剤ですが,「血液製剤に異議を唱える[やけどの]患者に,心配なく推薦できる」とされています。(「やけどの手当てとリハビリテーション」誌,1989年1-2月号)こうした溶液には明確な利点があります。「[普通の食塩水や乳酸ナトリウム加リンゲル液のような]結晶溶液,デキストラン,HESは比較的毒性がなく,安価で入手しやすい。また室温で保存でき,適合検査の必要もなく,輸血によって伝染する病気の危険もない」―「輸血療法 ― 医師ハンドブック」,1989年。

      しかし,『体全体に酸素を行き渡らせるのに赤血球が必要なのに,無血性の増量剤が効果を発揮するのはなぜか』と尋ねる人がいるかもしれません。前に述べたように,人には酸素運搬能があります。もしあなたが失血するなら,すばらしい補充システムが作動するのです。心臓は拍動のたびに,より多くの血液を送り出します。適切な溶液によって失血の補充が行なわれるので,希釈された血液が毛細血管の中でも流れやすくなります。化学変化が生じる結果,様々な組織に,より多くの酸素が放出されます。この適応が非常な効果を発揮するので,残っている赤血球がたとえ半分だとしても,酸素の運搬は通常の約75%まで行なわれるようです。安静にしている患者は,活用できる体内の酸素のうち,わずか25%しか用いていません。さらに,全身麻酔をすると,大抵の場合,体に必要な酸素の量は減少します。

      医師はどのように助けになれるか

      熟練した医師たちは,失血のために赤血球の減少した人を助けることができます。循環量が一度回復されたなら,医師は高濃度の酸素を投与できます。これにより体は酸素を一層活用できるようになり,多くの場合,注目すべき結果が生じます。英国の医師たちはこの方法をある婦人に用いました。その婦人の失血はひどく,「ヘモグロビンの量が100cc中1.8㌘まで落ちて」いました。「この婦人の治療には,……高濃度の酸素と大量のゼラチン溶液[ヘマセル]を輸液する方法[を用い],成功した」。(「麻酔」,1987年1月号)報告によれば,急激な失血のあった他の人々の場合にも,高圧酸素室での治療が成功を収めています。

      医師たちは患者の赤血球が多く形成されるように助けることもできます。どのようにするのでしょうか。鉄分を含んだ製剤を(筋肉や静脈の中に)投与するのです。その製剤は,体が普通の3ないし4倍の速さで赤血球を形成するのを助けます。最近はもう一つの助けが活用できるようになりました。あなたの腎臓は,骨髄が赤血球を造るよう刺激するエリスロポエチン(EPO)と呼ばれるホルモンを分泌しています。今では,合成した(遺伝子組み換えによる)EPOを用いることができます。医師たちはこれを貧血症の患者に投与し,極めて短い時間内に補充用の赤血球を形成するよう助けることができます。

      手術の最中でも,熟練した良心的な外科医や麻酔科医たちは,血液を保存するための進んだ方法を取り入れることによって助けになれます。出血を最小限に抑える電気メスなど,手術に関する細かい技術は,いくら強調しても強調しすぎることはありません。時には,傷口に流れ込む血液を吸引して濾過し,循環系に戻すこともできるでしょう。b

      無血性溶液を点滴され,心肺装置につながれた患者は,その結果生じる血液希釈から益を受けるかもしれません。その場合に失われる赤血球は少なくなります。

      さらに,助けになる別の方法があります。例えば,手術中の患者が必要とする酸素量を減らすために患者の体を冷やすこと,低血圧麻酔法,凝固を促進させる方法,出血時間を短縮するためのデスモプレシン(DDAVP),レーザー“メス”などがそれです。医師と,不安を感じる患者が輸血を避ける方法を探求するにつれ,このリストは長くなることでしょう。わたしたちは皆さんが大量の失血をしないよう願っています。しかしもしそうなったとしても,熟練した医師が,非常に多くの危険が伴う輸血をせずに,あなたの治療に当たってくださるでしょう。

      手術には同意しますが,輸血はしないでください

      今日,多くの人は輸血を受け入れません。彼らは,エホバの証人が主として宗教上の理由で求める事柄,つまり無血性の代替処置を取り入れた良質の医療を,健康上の理由で求めています。これまで述べてきたように,それでも大手術は可能です。もしあなたに何らかの疑いが残っているなら,医学文献にある他の幾つかの証拠を見て,その疑いを晴らすことができるかもしれません。

      「エホバの証人の,主要な四か所の関節置換」という論文(「整形外科レビュー」誌,1986年8月号)は,「膝と股関節が甚だしく破壊された」貧血症の患者について述べています。計画された手術の前後に鉄デキストランが用いられ,成功を見ました。「英国麻酔ジャーナル」誌(1982年)は,ヘモグロビン量が10を下回る52歳の証人について伝えています。失血を最小限に抑えるために低血圧麻酔法を用い,この婦人に股関節と肩関節の全置換術が施されました。アーカンソー大学(米国)の外科医の一チームもこの方法を用い,証人たちの股関節置換術を100回行ないましたが,その患者すべてが回復しました。このチームの指導に当たった教授は,「我々はそれらの(エホバの証人の)患者から学んだ事柄を,股関節全置換の患者に適用している」と述べています。

      ある証人たちの良心は,血を用いずに行なわれる臓器移植は受け入れます。13件の腎臓移植に関するある報告は,「全般的な結論からすると,エホバの証人の大半に対して,腎臓移植を安全かつ効果的に行なうことができる」と結んでいます。(「移植」,1988年6月号)同様に,血を拒むことが心臓移植の成功を阻むこともありませんでした。

      『他の種類の無輸血手術についてはどうか』と尋ねる方がいるかもしれません。メディカル・ホットライン誌(1983年,4-5月号)は「[米国ウェイン州立大学で]産婦人科の大手術を無輸血で受けたエホバの証人」に関する手術について伝えています。その会報は,「同様の手術の際に輸血を受けた女性たちの場合よりも,死亡や合併症の数が多いということはなかった」と伝え,次いでこう注解しました。「この研究結果は,産婦人科の手術を受けるすべての婦人に血を用いることについて見直しをすべき,正当な理由となるかもしれない」。

      ゲッティンゲン大学(ドイツ)の病院で,輸血を拒んだ30人の患者に一般的な手術が施されました。「輸血を受ける患者にも起きないような合併症は,彼らには起きなかった。……輸血はできないという意見に騒ぎすぎてはならない。またそのために,必要かつ外科的に正当化される手術を控えるべきでもない」―「リシコ・イン・デア・ヒルルギー」,1987年。

      多くの大人や子供に対して血を用いない脳手術さえ行なわれています。例えば,ニューヨーク大学メディカルセンターがその一例です。1989年に神経外科の権威であるジョセフ・ランソホッフ博士はこう書きました。「ごく明白な事実だが,血液製剤の使用を容認しない宗教信条を有する患者に関しては,大抵の場合,危険を最小限に抑えて,その使用を避けることができる。手早く,また比較的短い時間で手術を行なえる場合には特にそうである。大変興味深いことに,患者が退院の時期になって,自分の宗教信条を尊重してもらえたことを感謝するまで,私は当人がエホバの証人であることを忘れている場合が多い」。

      最後に,血を用いない複雑な心臓手術や血管手術は,大人に対しても子供に対しても行なえるのでしょうか。デントン・A・クーリー博士はまさにそうした手術の草分け的存在でした。27ページから29ページにある付録の,転載された医学記事から分かるように,クーリー博士は初期の分析に基づいて,「エホバの証人グループの患者の受けた手術の危険度は,事実上他の人々の場合よりも高くなかった」と結論しています。その種の手術を1,106回行なった後,同博士は,「どんな場合であっても,私と患者との[血を用いないことを約束した]合意事項,つまり契約は守られる」と書いています。

      外科医たちは,エホバの証人に関するもう一つの要素として,良い態度を観察してきました。1989年10月にクーリー博士は,「それらの患者の態度は模範的だった」と書きました。「彼らには,大抵の患者が抱いているような,合併症,それに死をさえ恐れる気持ちがない。自分たちの信条と自分たちの神に対して,深くかつ持続的な信仰を抱いているのである」。

      これは,彼らが死ぬ権利を主張しているという意味ではありません。彼らはよくなることを願うので,良質の医療を積極的に求めます。また,血に関する神の律法に従うことが賢明であることを確信しています。この見方が無輸血手術に良い影響力を及ぼしているのです。

      フライブルク大学(ドイツ)にある外科病院の教授,V・シュローサー博士はこう述べました。「この患者のグループの場合,手術中の出血の割合は他のグループと比べて高くない。合併症がもし起こったとしても,その割合は他のグループよりも低い。エホバの証人に典型的な,病気に対する特別な見方は,手術中の過程に良い影響力を与えた」―「ヘルツ・クライスラオフ」,1987年8月号。

      [脚注]

      a 証人たちは,全血,赤血球,白血球,血小板,血漿の輸血を受け入れません。免疫グロブリンのような小分画に関しては,「ものみの塔」誌,1990年6月1日号,30,31ページをご覧ください。

      b 「ものみの塔」誌,1989年3月1日号,30,31ページでは,血液回収法と(体外の)血液循環装置に関する聖書の原則が考慮されています。

      [13ページの囲み記事]

      「我々は次のように結論せざるを得ない。つまり,現在は,種々の血液成分を取り入れていても,輸血の益にあずかる見込みがなく(血液は必要でない),それでいて,望ましくない結果を招く重大な危険にさらされている患者が多いということである。医師であれば,事情を知りながら,必ず害をもたらすような療法に患者をさらすことはないであろう。しかし,不必要に輸血が施される時には,その通りのことが起こるのである」―「輸血によって伝染する,ウイルス性疾患」,1987年。

      [14ページの囲み記事]

      「ある権威者たちは,ヘモグロビンの量が100cc中2ないし2.5㌘まで下がっても受け入れられる,と述べている。……健康な人なら,赤血球細胞全体の50%を失っても耐えることができ,失血が幾らかの期間にわたって生じるなら,ほとんど全く症状は現われない」―「輸血の技術」,1982年。

      [15ページの囲み記事]

      「酸素を組織に送り込むこと,傷の治癒,血液の“栄養学的な価値”に関する古い考え方は廃れつつある。エホバの証人の患者に関連した経験は,重症の貧血が十分に耐えられるものであることを実証している」―「胸部手術紀要」,1989年3月号。

      [16ページの囲み記事]

      幼い子供たちもでしょうか。「外科的には複雑であったが,無輸血の技術を用いて,48回にわたる小児の直視下心臓内手術が行なわれた」。子供たちは体重が4.7㌔ほどしかありませんでした。「エホバの証人の手術が一貫して成功し,輸血には重大な合併症の危険があるため,我々は現在,小児の心臓手術の大部分を無輸血で行なっている」―「循環」,1984年9月号。

      [15ページの図版]

      心肺装置は,輸血を望まない患者に心臓手術を施すに当たって,大きな助けになってきました

  • あなたには選択の権利がある
    血はあなたの命をどのように救うことができますか
    • あなたには選択の権利がある

      現在の医療の方法(「危険性-受益性の分析」と呼ばれる)により,医師と患者の双方にとって,血液療法を避ける面で協力することが容易になっています。医師たちは特定の薬や手術の危険,また生じ得る益などの諸要素を比較考量します。患者もそのような分析に参加することができます。

      多くの場所の人々が自分と関係づけて考えることのできる一つの例を用いることにしましょう。それは慢性的な扁桃腺炎です。もしあなたがこの問題を経験するなら,医師のところに行くでしょう。実際には,二人の医師に診断してもらうかもしれません。健康問題の専門家は,別の医師に診断してもらうよう勧めることが多いからです。ある医師は手術を勧めるかもしれません。そして手術を受けるとはどういうことか,そのあらましを説明します。入院期間はどれくらいで痛みはどれほどか,また費用はどれくらいかかるかといった事柄です。危険に関しては,ひどく出血することは珍しく,そうした手術で死亡する人は非常に少ないと言います。しかし別の医師は,抗生物質を投与する治療法を試してみるよう勧めます。そして薬の種類,成功の可能性,費用などについて説明します。危険に関しては,薬物反応によって命が危うくなった患者はごく少ないと語ります。

      有能な医師なら,きっと様々な危険と益について考慮するでしょう。しかし,次に,様々な危険と生じ得る益について,またあなたが一番よく知っている他の要素について比較考量しなければならないのは,あなたです。(あなたの感情的強さや霊的強さ,家族の収入,家族に対する影響,あなた自身の倫理観といった面を考慮する上で最善の立場にいるのは,あなたです。)それから選択を行ないます。恐らくあなたは,一つの療法に対して,インフォームド・コンセント(十分情報を与えられた上での同意)を表明するでしょうが,他方は拒否するでしょう。

      あなたのお子さんが慢性の扁桃腺炎になったとしたら,同じことが当てはまるでしょう。様々な危険と益,また幾つかの療法のあらましが,愛ある親であるあなたに説明されるでしょう。親は最も直接的な影響を受けるだけでなく,生ずる結果に対処する責任を担うことになるのです。すべての面を考慮した後,あなたはお子さんの健康と,ひいてはお子さんの命に関係した問題に関して,インフォームド・チョイス(十分情報を与えられた上での選択)を行なうことができます。あなたは,それなりの危険が伴う手術に同意するかもしれません。他の患者は,それなりの危険が伴う抗生物質を投与する治療法を選択するかもしれません。医師たちの助言が異なるように,患者や親も自分が最善と思う事柄に関しては意見が異なります。(危険性–受益性の問題を考慮した)インフォームド・チョイスを行なう際にこうしたことが生じるのは,理解できることです。

      血液の使用に関してはどうでしょうか。様々な事実を客観的に調べる人なら,輸血に大きな危険が伴うことを否定できません。マサチューセッツ総合大病院の輸血サービス部長であるチャールズ・ハギンズ博士は,その点を非常にはっきりと示しました。「血液が今ほど安全なことは決してなかった。しかし避け難い結論として,血液は安全ではないと考えなければならない。血液は我々が医療で用いる物質の中で,最も危険なものである」― ザ・ボストン・グローブ・マガジン誌,1990年2月4日号。

      医療関係者に次のような助言が与えられてきたことには正当な理由があるのです。「輸血をめぐる益と危険の関係の危険の部分をも再評価すること,そして代替療法を探すことが必要である」(下線付加)―「術中の赤血球輸血」,米国立衛生研究所会議,1988年6月27-29日。

      血液を使用する際の様々な益や危険に関して,医師たちの意見は一致していないかもしれません。ある医師は何度も輸血をし,輸血には危険を冒すだけの価値があると確信しているかもしれません。別の医師は無輸血の処置法で良い結果を得ているので,輸血に伴う危険は正当化できないと考えるかもしれません。しかし最終的には,患者もしくは親であるあなたが決定しなければなりません。なぜでしょうか。そこには,あなた(あるいはお子さん)の体,命,倫理観,そして神との極めて重要な関係がかかわっているからです。

      あなたの権利は認められる

      今日多くの場所において,患者は自分がどんな治療を受けるかを決定する侵し難い権利を有しています。「インフォームド・コンセントに関する法律は,二つの前提に基づいている。第一に,患者は推薦される治療法について,インフォームド・チョイスを行なうための,十分な情報を得る権利を有している。第二に,患者は医師の推薦を受け入れるか拒否するかを選択できる。……患者にはノーもイエスも,さらには条件付きのイエスさえ言う権利があるとみなされていないなら,インフォームド・コンセントの論理的根拠の多くは消失してしまう」―「インフォームド・コンセント ― 法理論と臨床的慣行」,1987年。a

      患者の中には,自分たちの権利を行使しようとして抵抗に遭った人たちがいます。それは,扁桃腺切除や抗生物質について強い感情を抱く友人からの抵抗だったかもしれません。あるいは,医師は自分の助言の正しさに確信を抱いてきたかもしれません。病院の職員は,法律的もしくは経済的な関心に基づいて,異議を唱えることさえしたかもしれません。

      「多くの整形外科医は[証人]の患者に手術をしないほうを選ぶ」と,カール・L・ネルソン博士は述べています。「患者はどんなタイプの医療であれ,それを拒否する権利を有しているというのが我々の信念である。輸血のような特定の治療法を排除し,なおかつ安全に手術を行なうことが技術的に可能であれば,その方法は一つの選択肢として存在して然るべきである」―「骨・関節手術ジャーナル」誌,1986年3月号。

      理解のある患者は,医師にとって得意ではない療法を用いるよう医師に圧力をかけることはありません。とはいえ,ネルソン博士が述べたように,献身的な多くの医師は患者の信念に自分を合わせることができます。ドイツのある政府関係者はこのような助言を与えました。「医師は……自分はエホバの証人に対してすべての代替療法を施せるわけではないと考え,援助を拒んではならない。自分に採用できる手段が減少した場合でも,医師には依然として援助を与える義務がある」。(「デア・フラオエンナルツ」,1983年5-6月号)同様に,病院が存在するのは,単に金儲けをするためではなく,差別なくすべての人に奉仕するためです。カトリックの神学者リチャード・J・ディバインは次のように述べています。「病院は患者の命と健康を保護するため,医学上のあらゆる努力を払うべきだが,医療が決して[彼の]良心を侵すことがないようにすべきである。さらに,輸血を強制する法廷命令を得るために,甘言をもって患者を説得するような無理強いは,どんな形態のものも避けるべきである」―「健康の増進」,1989年6月号。

      法廷に持ち出すのを避ける

      個人の医療に関する問題は法廷に持ち出すべきでないことに多くの人は同意します。あなたが抗生物質を投与する治療法を選択したとして,だれか別の人があなたに扁桃腺切除を強要するために法廷に問題を持ち出したら,あなたはどう感じるでしょうか。医師は自分が最善と思う医療を提供したいと考えるかもしれませんが,あなたの基本的人権を踏みにじることを法的に正当化するよう求める責任は課されていません。また聖書は,血を避けることを淫行を避けることと同列に置いているので,クリスチャンに血を強制するのは,強制的な性行為,つまり強姦に等しい行為です。―使徒 15:28,29。

      ところが,「輸血に関するインフォームド・コンセント」(1989年)は,ある患者が自分の宗教上の権利のゆえに特定の危険を進んで受け入れようとすると,ある裁判所は非常に困惑し,「輸血が行なえるようにするための,ある種の法的な例外 ― 法律上の擬制と呼んでもよいもの ― を設ける」と伝えています。彼らは,妊娠が関係しているとか,子供たちを支えなければならないとか言って,弁解を試みるかもしれません。その本は,「それは法律上の擬制である。能力のある大人には,治療を拒否する権利が与えられている」と述べています。

      輸血を強く主張する人は,エホバの証人がすべての療法を拒否するわけではないという事実を無視します。証人たちは,専門家たちでさえ危険が伴うと述べる一つの療法だけを退けるのです。普通の場合,医学的な問題は様々な方法で何とか克服できるものです。ある方法にはある危険が,別の方法にはまた別の危険が伴います。温情主義的な法廷や医師は,どちらの危険が「あなたの最善の益になる」かを理解できるのでしょうか。それを判断するのは,あなたです。エホバの証人は自分たちに代わってだれかに決定してもらうことを決して望みません。それは,神のみ前における彼らの個人的な責任なのです。

      もし法廷があなたに嫌悪すべき治療法を強制するとしたら,それはあなたの良心と,あなたの生きる意志という極めて重要な要素にどんな影響を与えると考えられますか。コンラート・ドレビンガー博士はこう書きました。「それは確かに誤った形態の医学的野心であろう。この野心が,患者の良心を抑えつけて,特定の療法を無理強いすることになる。その療法は,身体的な治療は行なうものの,精神的には致命的な一撃を加えるためのものである」―「デア・プラクティッシェ・アルツ」,1978年7月号。

      子供たちのための愛に富む世話

      血に関する裁判にはおもに子供たちが関係しています。愛に富む親が無輸血の処置を敬意をもって依頼した時,ある医療関係者は時おり輸血のための法廷の支持を求めました。もちろん,クリスチャンは子供の虐待や放置を防ぐための法律や法廷行動に同意します。恐らくあなたは,ある親が子供を残虐に扱ったり,子供に医療を全く受けさせなかったりした例について読んだことがあるでしょう。なんと悲惨なことでしょう。放置された子供を保護するために国が手を打つことができ,また手を打つべきなのは明らかです。それでも,子供を気遣う親が良質の無輸血療法を願い求める時,それとは全く状況が異なることは容易に理解できます。

      普通それらの裁判では,病院内の子供に焦点が当てられます。子供はどのように,またなぜ病院に連れて来られたのでしょうか。心配する親たちが良質の世話を受けさせるために子供を連れて来たという場合がほとんどです。ちょうどイエスが子供たちに関心を示されたように,クリスチャンである親も子供たちのことを気遣います。聖書は『自分の子供を慈しみ,乳をふくませる母親』について述べています。エホバの証人は自分の子供たちに対してそれほど深い愛を抱いているのです。―テサロニケ第一 2:7。マタイ 7:11; 19:13-15。

      当然のことながら,親であれば,家の暖房には家族としてガスを使うか灯油を使うか,子供を遠距離のドライブに連れてゆくか,子供を水泳に行かせるかといった,自分の子供の安全と命に影響を与える決定をするでしょう。これらの事柄には危険が伴います。生死の関係した危険さえあります。しかし親の決定権が社会的に認められているので,親は子供に影響を与えるほとんどすべての決定において,大きな発言力を与えられています。

      1979年に米国最高裁判所は明確にこう述べました。「家族に関する法律の概念は,子供に欠けている円熟性や経験,また生活上の難しい決定を下すのに必要な判断能力を親が所有しているという仮定に基づいている。……[医学上の問題に関する]親の決定に危険が伴うというだけの理由で,決定権が自動的に,親から国家の何らかの機関や役人に移るわけではない」― パルハム 対 J.R.。

      その同じ年,ニューヨーク州の最高裁判所は次のような判決を下しました。「子供から適正な医療が剥奪されているか否かを判断する最も重要な要素は……周囲のすべての事情に照らして,親が子供のために,容認できる治療を受けさせてきたかどうかである。この質問は,親が“正しい”決定をしたか“間違った”決定をしたかという観点から提出することはできない。医療の実践に関する現状は,長足の進歩を遂げてはいても,ほとんどその種の明確な結論を認めるものとはならない。法廷も,親の代理者としての役割を担うことはできない」―「ホフバウエルの訴件」。

      手術か抗生物質かの選択をした親の例を思い起こしてください。どの療法にもそれなりの危険が伴うでしょう。愛に富む親は,様々な危険と益,また他の要素を比較考量して選択する責任を負っています。その点に関して,ジョン・サムエルズ博士は(「麻酔ニューズ」誌,1989年10月号),「子供たちに影響を与える,医学上の命令を出す判事への手引き」を復習することを提案しました。この手引きは次のような立場を取っています。

      「医師が,担当する患者の生死を道理にかなった程度の確実さをもって予言できるほど,医学の知識は進んでいない。……方法の選択肢があるのであれば,例えば,成功率は80%だが親の同意を得られない方法を医師が推薦し,成功率が40%しかない方法に親が異議を唱えないとするなら,医師は医学的には危険でも,親が異議を唱えない道を取るべきである」。

      血の医学的な使用には,これまで表面化してきた多くの致死的な危険が伴うことを考えると,また効果的な代替療法があることからすると,血を避けることによって危険は少なくなるのではないでしょうか。

      子供に手術が必要な場合,クリスチャンが多くの要素を比較考量するのは当然です。血を使っても使わなくても,手術には危険が付きものです。どんな外科医が太鼓判を押せるでしょうか。熟練した医師が証人たちの子供に無輸血の手術を行ない,立派な成功を収めたことを親の皆さんはご存じかもしれません。ですから,医師や病院関係者にとって別の方法が好ましく思えても,強い圧力が加えられる上に時間を浪費する法廷闘争に持ち込むより,愛に富む親と協力するほうが道理にかなっているのではないでしょうか。また親としては,そのような症例を扱った経験があり,快く扱ってくれる職員のいる別の病院に子供を移すことができます。実際,これからは無輸血の処置のほうが良質の医療になるでしょう。前に述べたように,この方法は「合法的な医学上および非医学上の目標を達成」するよう家族を助けることができるからです。

      [脚注]

      a 30,31ページの付録の部分に転載された医学記事,「血: だれの選択か,だれの良心か」をご覧ください。

      [18ページの囲み記事]

      法律上の心配を除き去る

      『ある医師や病院が,輸血の法廷命令をすぐに取りつけるのはどうしてか』と考える方がいるかもしれません。幾つかの場所で,共通して見られる理由の一つは,責任を負わされるのではないかという恐れです。

      エホバの証人が無輸血の処置を選択する時には,そのような心配をすべき理由はありません。アルバート・アインシュタイン医科大学(米国)のある医師はこう書いています。「大半の[証人たちは],医師と病院の責任を免除する,アメリカ医師会の用紙に快く署名する。また『医療上のお願い』[のカード]を携帯している人も多い。正しく署名と日付が付された“血液製剤拒否”の用紙は,契約上の合意であり,法的な拘束力を持つ」―「麻酔ニューズ」誌,1989年10月号。

      そうです,エホバの証人は協調性を示し,求められた無輸血療法を提供した責任は医師や病院に負わせないという法的な保証を与えているのです。医療専門家たちが勧めているように,エホバの証人は各自医療カードを携帯しています。このカードは年に一度更新され,本人と複数の証人 ― 最近親者である場合が多い ― の署名が付されます。

      1990年3月に,カナダのオンタリオ州の最高裁判所は,そのような書類に関して,次のような好意的な見解を表明した判決を支持しました。「このカードは,その携帯者が医師との契約に書面による制限を課す際,合法的に取ることができる正当な立場を示す,書面による宣言である」。ダニエル・アンダーソン教授は「メディシンスク・エティク」(1985年)の中でこう書きました。「もし,自分はエホバの証人で,どんな状況のもとでも輸血は望まないという主旨の,書面による患者の明確な申し立てがあるなら,患者の自主性を尊重する立場からすると,その申し立てが口頭によって行なわれたかのように,その願いを尊重しなければならない」。

      エホバの証人は,承諾を求める病院側の用紙にも署名します。ドイツのフライブルクで用いられた用紙には,医師が治療に関して患者に与えた情報を記せる余白があります。そして医師と患者の署名の上部には,こう付記されています。「私はエホバの証人の宗教団体の一員として,手術の際に他の人の血液や血液成分を用いることを絶対に拒否します。そのため,計画され必要とされた方法には,出血に関連した合併症ゆえに大きな危険が伴うことは承知しています。私は,とりわけその点に関する十分な説明を聞いた後,他の人の血液や血液成分を用いない,必要とされる手術が行なわれることを希望します」―「ヘルツ・クライスラオフ」,1987年8月号。

      実際のところ,無輸血の処置のほうが危険性は低いかもしれません。しかしここで大切な点は,エホバの証人の患者は,医療関係者が行なうよう委ねられている事柄を行なう面で前進し,人々の回復を助けることができるよう,不必要などんな心配をも喜んで除き去りたいと思っていることです。アーンゲロース・A・カンボーリス博士が「エホバの証人の腹部大手術」の中で述べているように,この協力の精神はすべての人に益を与えます。

      「外科医は手術前に得られた合意事項を拘束力のあるものとみなし,手術中また手術後にどのような事態が進展しようと,その合意事項を固守しなければならない。[これ]によって,患者は手術処置に対して積極的な気構えを持つようになり,外科医の注意は法的かつ哲学的な考えから外科的かつ技術的な考えに振り向けられ,そのために外科医は最良の手術を行ない,患者の最善の益を図ることができる」―「アメリカの外科医」,1987年6月号。

      [19ページの囲み記事]

      「現在の医療費は増加しているが,その主要な原因となっているのは,医療技術の乱用である。……輸血はその経費と高い危険性とによって,とりわけ重大なものである。したがって,アメリカ病院認定合同委員会は,輸血を『量も危険も多く,誤りが生じやすい』ものとしている」―「輸血」,1989年7-8月号。

      [20ページの囲み記事]

      米国: 「患者の承諾を得る必要性を強調することは,自分自身の運命に関する決定は関係する本人が下すべきであるという,個人の自主性に関する倫理的な概念である。承諾を要求する法的な理由は,患者の承諾なくしてなされる医療行為は暴行に相当するということである」―「輸血に関するインフォームド・コンセント」,1989年。

      ドイツ: 「患者の自己決定権は,援助を与え命を保護するという原則に勝るものである。そうであれば,患者の意志に反して輸血は施すべきではない」―「ヘルツ・クライスラオフ」,1987年8月号。

      日本: 「医療の世界に“絶対”はない。医師は現代医学が作る筋道を最良と信じて,これに沿って進むが,そのすべてを“絶対”として患者に強いるべきではなく,患者に選択の自由が残されねばならない」― 1985年6月28日付,南日本新聞。

      [21ページの囲み記事]

      「私は[エホバの証人の]家族が親密に結び合わされ,愛に富んでいることに気づいた」とロレンス・S・フランケル博士は伝えています。「子供たちはよくしつけられ,気遣いを示し,礼儀正しい。……医学上の指示にしっかり従う態度も見られるように思う。そのような態度は,彼らの信念の許す限りにおいて医学上の介入を受け入れる気持ちを実証しようとする努力の表われかもしれない」―「小児科」,米国ヒューストン,医学博士アンダーソン病院および腫瘍協会,1985年。

      [22ページの囲み記事]

      ジェームズ・L・フレッチャー2世博士はこう述べています。「私は,専門家としての尊大さが,健全な医学的判断に取って代わることが普通になっているのではないかと心配だ。“今日において最善”とみなされる治療法も,明日には変更されたり破棄されたりする。“宗教的な親”と,自分の治療法は絶対に不可欠であると確信している尊大な医師では,どちらが危険なのだろうか」―「小児科医」,1988年10月号。

  • 本当に命を救う血
    血はあなたの命をどのように救うことができますか
    • 本当に命を救う血

      これまでに挙げた情報から,幾つかの特定の点が明確にされました。輸血は命を救うと考える人は多くいますが,輸血には様々な危険が伴います。輸血の結果として毎年幾千幾万という人々が死亡し,さらに大勢の人たちが重い病気にかかり,長期的な影響を被ります。ですから,物理的な観点からしても,『血を避ける』よう勧める聖書の命令に注意を払うのは今でも知恵のあることなのです。―使徒 15:28,29。

      もしも患者が無輸血の医療処置を求めるなら,患者は多くの危険から保護されます。この方法をエホバの証人に適用するという挑戦を受け入れてきた熟練した医師たちは,数多くの医学リポートによって証明されているように,安全で効果的な治療の規準を開発してきました。無輸血による良質の医療を備える医師たちは,価値ある医学的原則を曲げているわけではありません。むしろ,様々な危険と益を知る患者の権利に対する敬意を示し,患者が自分の体と命に対して行なわれる事柄に関して,インフォームド・チョイス(十分情報を与えられた上での選択)を行なえるようにしているのです。

      わたしたちはこの問題に関して知識がないわけではありません。すべての人がこの方法に同意するわけではないことを理解しているからです。良心,倫理観,医学的な見方などは人によって異なります。したがって,一部の医師を含めある人たちは,血を避けるという患者の決定を受け入れ難く感じるかもしれません。ニューヨーク市のある外科医はこう書きました。「私が若いインターンだった15年前のことは決して忘れられない。その時私は,十二指腸潰瘍のため出血多量で死亡したエホバの証人のベッドの傍らに立っていた。患者の願いは尊重され,輸血は施されなかったが,自分が医師として感じた深い挫折感は今もって忘れられない」。

      この医師は,血が命を救うことを信じていたに違いありません。しかし同医師がこれを書いた翌年,「英国手術ジャーナル」誌(1986年10月号)は,輸血が行なわれるようになる前,胃腸からの出血による「死亡率は2.5%に過ぎなかった」ことを伝えました。輸血が習慣的になって以来,『大規模な研究の大半は,10%の死亡率を報告して』います。死亡率が4倍にもなったのはなぜですか。「早く輸血をすると,出血に対する凝固亢進作用を逆転させ,それによって再出血を促すようである」。出血性潰瘍の証人が輸血を拒んだ時,その選択によって当人が生き延びる見込みは事実上最大限に達したと言えるかもしれません。

      この同じ外科医は続けてこう述べています。「時間が経過し,多くの患者の治療に当たっているうちに,人の見方は変化するものである。いま私は,患者と医師の間の信頼関係や,患者の願いを尊重する義務のほうが,我々の周囲の新しい医学技術よりはるかに重要なものであることに気づいている。……興味深いことに,あの挫折感は,あの特定の患者の確固たる信仰に対する畏怖の念と崇敬の念に道を譲ってしまった」。同医師は結論として,『このことは,私の気持ちや生じる結末とは関係なく,常に患者の個人的かつ宗教的な願いを尊重すべきであることを私に気づかせてくれる』と述べました。

      あなたは,「時間が経過し,多くの患者の治療に当たっているうち」に多くの医師が認識するようになる事柄をすでに理解しておられるかもしれません。非常に立派な病院で最善の医療を受けたとしても,人はいつか死ぬのです。輸血をしてもしなくても,人は死にます。わたしたちはすべて年を取り,人生の終わりに近づいてゆきます。これは運命論的な考えではありません。死は避けがたい人生の現実なのです。

      証拠が示すところによると,血に関する神の律法を軽視する人々は多くの場合即座に,もしくは後になってその害を被ります。血が原因で死ぬ人々さえいます。生き残った人々も,終わりのない命を得たわけではありません。ですから,輸血は永久に命を救うものではないのです。

      宗教的な理由と医学的な理由で,またはそのどちらかの理由で輸血を拒否し,代替療法を受け入れる人々の大部分は,非常に順調な経過をたどります。彼らはそのようにして,何年か命を延ばすことができるのです。しかし際限なく延ばせるわけではありません。

      すべての人が不完全であり,徐々に死に向かっているということは,聖書が血について述べている事柄の中心にある真理へとわたしたちを導きます。もしわたしたちがこの真理を理解し認識するなら,血が実際にどのように命を,つまりわたしたちの命を永遠に救えるかが分かるでしょう。

      命を救う唯一の血

      前に注目したとおり,神は,血を食べてはならないと全人類にお告げになりました。なぜでしょうか。血は命を表わすからです。(創世記 9:3-6)神は,イスラエルにお与えになった律法の中でその点をさらに詳しく説明されました。律法が批准された段階で,犠牲にされた動物の血は祭壇の上で用いられました。(出エジプト記 24:3-8)その律法は,聖書に記されているとおり,すべての人間は不完全で罪深いという事実に注意を向けさせました。神はイスラエル人に次のことをお知らせになりました。つまり,イスラエル人は神にささげる動物の犠牲により,自分たちの罪を覆っていただく必要を理解できるということです。(レビ記 4:4-7,13-18,22-30)当然のことながら,それは神が当時の人々に求められた事柄であって,今日の真の崇拝者たちに求めておられる事柄ではありません。しかし,そこには今のわたしたちにとって非常に重要な意味があります。

      神ご自身が,それらの犠牲の背後にある原則を説明しておられます。『肉の魂[つまり,命]は血にあり,わたしは,あなた方が自分の魂のために贖罪を行なうようにとそれを祭壇の上に置いたのである。血が,その内にある魂によって贖罪を行なうからである。それゆえにわたしはイスラエルの子らにこう言った。「あなた方のうちのいずれの魂も血を食べてはならない」』― レビ記 17:11,12。

      贖罪の日と呼ばれた古代の祭りにおいて,イスラエルの大祭司は神殿,つまり神への崇拝の中心地に,犠牲にされた動物の血を携えて行きました。そのようにするのは,民の罪を覆っていただけるよう神に求める象徴的な方法だったのです。(レビ記 16:3-6,11-16)それらの犠牲が現実にすべての罪を除き去ることはなかったので,彼らはそれを毎年繰り返さなければなりませんでした。それでも,この血の用い方の中に,意味深い型が定められています。

      聖書の重要な教えの一つは,やがて神が,すべての信者の罪を十分に贖うことのできる完全な犠牲を備えてくださるということです。これは贖いと呼ばれ,予告されたメシアつまりキリストの犠牲に焦点を合わせています。

      聖書はメシアの役割を贖罪の日に行なわれた事柄と対比させ,こう述べています。「キリストは,すでに実現した良い事柄の大祭司として来た時,手で造ったのではない……より偉大で,より完全な[神殿]を通り,……やぎや若い雄牛の血ではなく,ご自身の血を携え,ただ一度かぎり聖なる場所[天]に入り,わたしたちのために永遠の救出を得てくださったのです。そうです,律法によれば,ほとんどすべてのものが血をもって清められ,血が注ぎ出されなければ,許しはなされないのです」― ヘブライ 9:11,12,22。

      なぜわたしたちが血に関する神の見方を持つ必要があるかということは,これで明確になります。神は創造者としてのご自分の権利と調和して,血の有用な唯一の用い方を定められたのです。昔のイスラエル人は動物や人間の血を取り入れないことにより,健康に益する結果を刈り取ったかもしれませんが,それは最重要な点ではありませんでした。(イザヤ 48:17)彼らは,他の方法は健康に有害であるということをおもな理由として,血で命を支えることを避けるべきだったのではありません。それが神にとって神聖を汚すことであるゆえに,避けるべきだったのです。彼らが血を避けるべきだったのは,血が汚染されているからではなく,許しを得るために血が貴重なものであったからでした。

      使徒パウロは贖いについてこのように説明しています。「わたしたちはこの方[キリスト]により,その血を通してなされた贖いによる釈放,そうです,わたしたちの罪過の許しを,その過分のご親切の富によって得ているのです」。(エフェソス 1:7)この部分の原語のギリシャ語は適切にも「血」と訳されていますが,幾つかの聖書翻訳は誤りを犯し,「死」という語を用いています。したがって読者は,血に関する,また神が血と結びつけておられる犠牲の価値に関する創造者の見方に重きが置かれていることを見過ごしてしまうかもしれません。

      聖書の主題は,キリストが完全な贖いの犠牲として死んだとはいえ,死んだままではいなかったことを中心に展開しています。イエスは,神が贖罪の日に関して定められた型に倣い,天に上げられ,「わたしたちのために神ご自身の前に出てくださ(った)」のです。イエスはそこで,ご自分の犠牲の血の価値を差し出されました。(ヘブライ 9:24)聖書は,『神の子を踏みつけ,彼の血をあたりまえのものとみなす』ような歩みを避けなければならないことを強調しています。そのようにしてのみ,わたしたちは神との良い関係および神との平和を保つことができるのです。―ヘブライ 10:29。コロサイ 1:20。

      血によって救われる命を享受してください

      血に関して神が言われることを理解するなら,わたしたちは命を救う血の価値に対して非常な敬意を抱くようになります。聖書によれば,キリストは「わたしたちを愛しておられ,ご自身の血によってわたしたちを罪から解いてくださった」方です。(啓示 1:5。ヨハネ 3:16)そうです,イエスの血により,わたしたちはわたしたちの罪の十分かつ永続的な許しを得ることができるのです。使徒パウロはこう書きました。「わたしたちはキリストの血によって今や義と宣せられたのですから,ましてこの方を通して憤りから救われるはずです」。そのようにして命は血によって救われ,永続的なものとなるのです。―ローマ 5:9。ヘブライ 9:14。

      エホバ神はずっと昔,キリストによって『地のすべての家族は自らを祝福する』という保証をお与えになりました。(創世記 22:18)その祝福には,地を元通り楽園にすることが含まれています。その時,信仰を持つ人々が,病気や老化によって,また死によっても苦しめられることはもはやありません。彼らは,医療関係者が現在わたしたちに提供できる一時的な助けをはるかにしのぐ様々な祝福を享受するのです。次のようなすばらしい約束があります。「神は彼らの目からすべての涙をぬぐい去ってくださり,もはや死はなく,嘆きも叫びも苦痛ももはやない。以前のものは過ぎ去ったのである」― 啓示 21:4。

      ですから,わたしたちが神のご要求すべてについて真面目に考えるのは非常に賢明なことです。それには,血に関する神の命令に従い,医療の関係した状況においても血を誤用しないことが含まれます。そのようにしてわたしたちは,ほんの短い間だけ生きるのではありません。むしろ,完全な人間として永遠の命を得るという将来の見込みを含め,命に対する深い敬意を表わすのです。

      [25ページの囲み記事]

      神の民が血によって自分の命を支えることを拒むのは,それが健康を害することだからではなく,それが神聖を汚すことだからです。血が汚染されているからではなく,血が貴重なものだからです。

      [24ページの図版]

      「わたしたちはこの方[イエス]により,その血を通してなされた贖いによる釈放,そうです,わたしたちの罪過の許しを……得ているのです」― エフェソス 1:7

      [26ページの図版]

      イエスの血をもって命を救うことにより,地上の楽園における終わりのない健康な命への道が開かれる

  • エホバの証人 ― 外科的,倫理的挑戦
    血はあなたの命をどのように救うことができますか
    • 付録

      エホバの証人 ― 外科的,倫理的挑戦

      この記事は,アメリカ医師会の承認のもとに「アメリカ医師会ジャーナル」(JAMA,英文),1981年11月27日号,246巻,第21号,2471,2472ページから転載したものです。著作権,1981年,アメリカ医師会。

      医師はエホバの証人を治療する際に特別の挑戦に直面する場合があります。エホバの証人としての信条を持つ人々は,強い宗教的信念のために,同種の,もしくは自己の全血,分離RBC[赤血球],WBC[白血球],血小板などを受け入れません。(無血充填の)人工心肺,透析,その他類似の装置については,体外循環が中断されない限り,多くの証人はその使用に応じます。医療関係者は責任を問われることを懸念する必要はありません。証人たちは,事情をわきまえた上で血の使用を拒むことに関して,医療関係者に責任を負わせないよう十分な法的措置を講じるからです。証人たちは無血性の代用液を受け入れます。そうした代用液の使用と細心の技法とによって,医師はエホバの証人の成人や未成年の患者に対し,あらゆる形の大手術を行なっています。こうして,「人の全体」を扱うという信条と合致した,そのような患者のための医術の基準が明らかになってきました。(JAMA 1981; 246:2471-2472)

      医師たちは一つの挑戦に直面しています。それは,保健上の大きな論争点として次第に大きくなる挑戦です。アメリカには,輸血を受け入れないエホバの証人が50万人以上います。エホバの証人および証人たちと交わっている人々の数は増加しています。以前には,輸血の拒否を法律上の問題とみなし,自分たちが医学的に見て妥当と信ずる処置を進めるために裁判所の認可を求める医師や病院当局者が多くいましたが,最近の医学的文献は,この問題に対する態度に,注目すべき変化の生じつつあることを示しています。これは,ヘモグロビン量の非常に低い患者に対する外科的経験が増えた結果,また事情をわきまえた上での同意に関する法律上の原則がいっそう意識されるようになったことによるものでしょう。

      今では,エホバの証人の成人や未成年者の関係する,随意的手術や外傷の治療の多くが輸血なしで行なわれています。最近,エホバの証人の代表者たちは,[米]国内の幾つかの主要な医療センターの外科医や事務当局者との会合を行ないました。それらの会合は,理解を深め,血液回収法や移植にかかわる問題を解決して,医学もしくは法律,またはその双方の面での対立を回避するのに役立ちました。

      治療に対する証人たちの見方

      エホバの証人は内科,ならびに外科治療を受け入れます。事実,証人たちの中にも多数の医師がおり,外科医もいます。しかし,エホバの証人は宗教的信念を強く持つ人々であり,次に挙げるような聖書の章句によって自分たちには輸血が禁じられていると信じています。「ただし,その魂つまりその血を伴う肉を食べてはならない」。(創世記 9:3,4)「[あなた]はその血を注ぎ出して塵で覆わねばならない」。(レビ記 17:13,14)「淫行と絞め殺されたものと血を避けるよう(に)」。(使徒 15:19-21)1

      これらの章句は医学的な用語を用いて記されてはいませんが,証人たちはこれらの句により,全血,分離赤血球,血漿などの輸血,また白血球や血小板の投与は認められていないと考えています。しかし,証人たちの宗教上の理解によれば,アルブミンや免疫グロブリンなどの成分や血友病製剤は絶対に使用できないというわけではありません。これらを受け入れることができるかどうかについては,証人たち各自が個人的に決めなければなりません。2

      体から採り出された血液は廃棄すべきものと証人たちは信じています。そのため彼らは,預血による自家輸血を受け入れません。血液の貯蔵を伴う,術中の出血採集や血液希釈の手法は彼らにとって受け入れ難いものです。しかし,多くの証人たちは,透析装置や人工心肺(無血充填),および体外循環を中断させずに行なわれる術中血液回収法の採用を認めます。医師は患者が良心に従って受け入れる事柄について,患者個人と話し合うべきです。2

      聖書は臓器移植について直接には何も述べていない,と証人たちは感じています。それで,角膜,腎臓,その他の組織の移植に関する決定は,証人たち各人が行なわなければなりません。

      大手術も可能

      外科医は,血液製剤の使用に対するエホバの証人たちの立場が「医師の手にかせを掛ける」ことのようにみなして,しばしば証人たちの治療を拒んできました。しかし今では,このような状況を自分たちの技術に挑む新たな複雑要素の一つにすぎない,という見方をする医師が少なくありません。証人たちは,コロイド質または結晶質の代用液に関しても,また電気メス,低血圧麻酔法,3 低体温法に関しても反対してはいませんから,これらの方法も成功裏に用いられています。ヘタスターチ(ヘスパンダー)4 鉄デキストランの大量静脈内注入,5,6 「超音波メス」7 などの現時点での活用法および今後の活用法も有望であり,宗教上の問題もありません。また,最近開発されたフッ素化合物の代用血液(フルオゾール-DA)が安全で有効であることが実証されれば,8 その使用も証人たちの信条と相いれないものではありません。

      1977年,オットとクーリー9は,エホバの証人に対して輸血をせずに行なった542例の心臓血管手術について報告し,その処置法が「受容可能な低い危険度」で行なえるとの結論を出しました。わたしたちからの要請に応じて,クーリーは最近,未成年者22%を含む1,026例の手術を統計的に調べ,「エホバの証人グループの患者の受けた手術の危険度は,事実上他の人々の場合よりも高くはなかった」との判断を下しました。同様に,ミカエル・E・ディベイケイ(MD)も,「[証人たちの関係した]事態の大多数において,輸血を用いない手術に伴う危険は,我々が輸血を用いる患者たちの場合と少しも異ならない」と報告しました。(1981年3月の私信)文献はまた,泌尿器系10および整形外科11の大手術の成功例についても記録しています。G・ディーン・マクエウェン(MD)とJ・リチャード・ボウエン(MD)は,「[証人たちの]未成年者20人に対して」脊椎後方固定術が「成功裏に行なわれた」と書いています。(未公表資料,1981年8月)両医師はさらにこう述べています。「外科医は,輸血を拒否する患者の権利を尊重しつつ,なおも患者の安全を図るような外科処置を講ずるという考え方を確立する必要がある」。

      ハーブスマン12は,幾人かの若者の場合を含む「外傷による大量失血」の症例における成功について報告しています。彼は次のことを認めています。「血液が要求される場合,証人たちは多少不利な立場に立たされる。しかし,我々には,血液の補充に代わる処置法のあることも全く明らかである」。「結果として生じる法律上の問題を恐れて」多くの外科医がエホバの証人を患者として受け入れることをためらってきたことを述べつつ,それが正当な理由による懸念ではないことを彼は示しています。

      法律的問題と未成年者

      エホバの証人は,医師や病院側に責任を負わせないようにするため,アメリカ医師会の設けた書式に進んで署名します。13 また,大抵の証人たちは,医療および法律関係者と相談の上で用意された,「医療上の緊急なお願い」と題する,関係者の署名や日付の記されたカードを携帯しています。これらの文書は患者(またはその財産)に対して拘束力を持ち,医師たちにとっては保護となります。ウォーレン・バーガー判事は,そのような権利放棄証書に署名がなされている場合であれば,医療過誤の訴えには「理由がないとされるであろう」と述べています。また,「専断的医療と信教の自由」に関する分析的研究の中でパリス14もこの点に関して注解し,こう書きました。「文献の調査を行なった一解説者はこう報告した。『わたしは,輸血を望まない患者にそれを強制しなければ医師は……刑事……責任を問われる,という意見に何の根拠も見いだせなかった』。その危険は,現実の可能性というよりは,想像力に富みすぎた法的思考力の産物であるように思われる」。

      未成年者の監護が最大の関心事となり,その結果,しばしば,児童遺棄の規定に従って親に対して法的処置が取られています。しかし,そのような処置は,証人たちの事例によく通じている多くの医師や弁護士たちによって疑問視されています。彼らはエホバの証人の親たちが自分の子供たちのために十分な医療上の世話を受けさせようとしていることを信じています。証人たちは親としての自分たちの責任を回避したり,責任を判事その他の第三者に転嫁したりすることを望んでいるのではなく,家族の宗教上の信条を考慮してもらいたいと願っているのです。カナダ医師会の元幹事A・D・ケリー博士はこう書いています。15 「未成年者の両親,また意識のない患者の最近親者が患者の意思を解釈する権利を有しており……わたしは,子供を親の保護監督下から引き離すために午前2時に集まったムート訴訟のやり方には感心しない」。

      外科手術,放射線,化学療法など,危険と益の両面の可能性があるような場合,子供の監護に関して親が発言権を持つということは自明の原則です。輸血の危険性16の問題をさらに越える倫理上の理由のために,証人である親は,宗教的に禁じられていない療法が採用されることを求めるのです。このことは,家族の基本的な信条を侵害する処置によって永続的な心理社会的損害が生じる可能性を無視せずに,「人の全体」を扱おうとする医学上の信条と合致します。今では,証人たちを扱った経験を持つ[米]国内の大きな医療センターが,小児科の症例をも含めて,証人たちを扱うことを望まない医療施設から移される患者を受け入れるという例が少なくありません。

      医師の直面する挑戦

      用い得る技術のすべてを駆使して命と健康を守る仕事に献身的に従事している医師としては,エホバの証人の治療に当たる場合,ジレンマに陥るように思えるかもしれません。それは理解できることです。証人たちに施された大手術に関する一連の論文を編集したその前書きの中で,ハーベイ17はこう認めています。「わたしは,自分の仕事に対する干渉ともなるこれらの信条を確かに煩わしく思う」。しかし,彼はさらにこう述べています。「恐らく我々も,外科手術が各人の個人的技量に依存する職業であることを容易に忘れているのかもしれない。技量は向上させ得るものである」。

      ボルーキ教授18は,フロリダ州デード郡の非常に多忙な外科病院の一つが証人たちの「治療をいっさい断わる方針」を取っているという憂慮すべき報道に注目しました。そして次の点を指摘しています。「このグループの患者に対する外科処置は,大抵の場合,普通より危険が少ない」。彼はさらにこう述べました。「外科医は,現代医学の一つの手段を奪われていると感じるかもしれないが……これらの患者の手術を行なうことによって多くのことを学べるとわたしは確信している」。

      証人たちの患者のことを面倒な問題と考えるよりも,この事態を医学上の挑戦として受け入れる医師が次第に多くなっています。彼らはその挑戦に応じる過程でこのグループの患者のために用いうる医術上の基準を発展させてきており,それは現在[米]国内の多くの医療センターで受けいれられています。同時に,それらの医師は,患者の総合的な益を図るための最善の治療も行なっています。ガードナー,その他の人々19はこう述べています。「患者の肉体上の病気がいやされても,その当人が神との関係における霊的生命とみなすものが損なわれるのであればだれの益になろう。それは無意味な生,恐らく死より悪いものとさえなる」。

      エホバの証人は,自分たちが固く守る信念のために医学的に言って,ある程度危険が増大するように見え,その治療が複雑になり得ることを認めています。そのため,証人たちは一般に,自分たちの受ける治療に対して普通以上の感謝を表わします。また,強い信念と生きようとする強い意思という肝要な要素を持ち合わせている上に,医師や医療関係者に喜んで協力します。こうして,患者と医師の双方が一体となって,この特異な挑戦に立ち向かうのです。

      REFERENCES

      1. Jehovah's Witnesses and the Question of Blood. Brooklyn, NY, Watchtower Bible and Tract Society, 1977, pp. 1-64.

      2. The Watchtower 1978;99 (June 15):29-31.

      3. Hypotensive anesthesia facilitates hip surgery, MEDICAL NEWS. JAMA 1978;239:181.

      4. Hetastarch (Hespan)—a new plasma expander. Med Lett Drugs Ther 1981;23:16.

      5. Hamstra RD, Block MH, Schocket AL:Intravenous iron dextran in clinical medicine. JAMA 1980;243:1726-1731.

      6. Lapin R: Major surgery in Jehovah's Witnesses. Contemp Orthop 1980;2:647-654.

      7. Fuerst ML: 'Sonic scalpel' spares vessels. Med Trib 1981;22:1,30.

      8. Gonzáles ER: The saga of 'artificial blood': Fluosol a special boon to Jehovah's Witnesses. JAMA 1980;243:719-724.

      9. Ott DA, Cooley DA: Cardiovascular surgery in Jehovah's Witnesses. JAMA 1977;238:1256-1258.

      10. Roen PR, Velcek F: Extensive urologic surgery without blood transfusion. NY State J Med 1972;72:2524-2527.

      11. Nelson CL, Martin K, Lawson N, et al: Total hip replacement without transfusion. Contemp Orthop 1980;2:655-658.

      12. Herbsman H: Treating the Jehovah's Witness. Emerg Med 1980;12:73-76.

      13. Medicolegal Forms With Legal Analysis. Chicago, American Medical Association, 1976, p. 83.

      14. Paris JJ: Compulsory medical treatment and religious freedom: Whose law shall prevail? Univ San Francisco Law Rev 1975;10:1-35.

      15. Kelly AD: Aequanimitas Can Med Assoc J 1967;96:432.

      16. Kolins J: Fatalities from blood transfusion. JAMA 1981;245:1120.

      17. Harvey JP: A question of craftsmanship. Contemp Orthop 1980;2:629.

      18. Bolooki H: Treatment of Jehovah's Witnesses: Example of good care. Miami Med 1981;51:25-26.

      19. Gardner B, Bivona J, Alfonso A, et al: Major surgery in Jehovah's Witnesses. NY State J Med 1976;76:765-766.

  • 血: だれの選択か,だれの良心か
    血はあなたの命をどのように救うことができますか
    • 付録

      血: だれの選択か,だれの良心か

      医学博士 J・ロウエル・ディクソン

      この記事は,「ニューヨーク州医学ジャーナル」誌(英文)の承認のもとに,同誌の1988年,第88号,463,464ページから転載したものです。著作権,ニューヨーク州医学協会。

      医師たちには,病気や死と闘うために知識と技術と経験を適用する義務が課されている。しかしながら,推薦されている治療法を患者が拒むならどうだろうか。患者がエホバの証人で,治療に用いるのが,全血,分離赤血球,血漿,血小板であるときには,そういう事態が生じるであろう。

      血液を使用する場合であるが,患者が無血の治療を選択することによって,献身的な医療関係者は拘束されるようになる,と医師は考えるかもしれない。とはいえ,エホバの証人以外の患者でも,医師の推薦に従おうとしない場合が多いことを忘れてはならない。アッペルバウムとロートによれば,1医学実習のための教育病院の患者の19%は,少なくとも一つの治療法あるいは処置を拒んだ。ところが,そうした拒否例の15%には「生命の危険があった」のである。

      「医師は一番よく知っている」という見方が一般にあるので,大半の患者は医師の技術と知識に敬意を払う。しかし,医師がこの文句を科学的な事実でもあるかのようにして事を進め,その考えに従って患者を扱うことには大きな危険が潜んでいる。確かに,医師としての訓練,免許,経験などにより,我々は医学界において顕著な種々の特権を与えられているが,我々の扱う患者は種々の権利を有している。また,ご承知のとおり,法律は(憲法も)種々の権利に重きを置いているのである。

      ほとんどどの病院の壁にも,「患者の権利章典」が掲げられているのが見える。その権利の一つは,十分知らされた上での同意である。これは,十分知らされた上での選択と言ったほうが正確かもしれない。種々の治療(もしくは,治療をしないこと)から生じ得る結果が患者に十分知らされた後,患者がどんな方法に従うかは,患者の選択に任されている。ニューヨーク市ブロンクス区のアルバート・アインシュタイン病院にある輸血とエホバの証人に関する方針の草稿には,こう記されている。「無能力者ではない成人のすべての患者には,自分の健康にどれほど不利益な結果が及ぼうとも,治療を拒否する権利がある」。2

      医師たちは倫理や責任について懸念する発言をするかもしれないが,法廷は患者による選択の優位性を強調してきた。3ニューヨーク州の最高裁判所は,「自分自身の治療方針を決定する患者の権利は最も価値あるもの[である]。……能力を有する成人の患者に付与されている,医療を拒む権利を尊重するとき,医師が医師としての法的もしくは職業上の責任の不履行を問われることはあり得ない」と述べた。4さらに同法廷は,「医療専門家としての倫理的な誠実は重要であるが,ここで言明されている基本的人権にまさるものとはなり得ない。最も価値があるのは,医療制度から出される要求ではなく,個人の必要と欲求である」と語っている。5

      医師たちはエホバの証人が輸血を拒むとき,最善とは思えない方法を取ることを考えて,良心の痛みを感じるかもしれない。しかし,良心的な医師たちにエホバの証人が求めているのは,そのような状況下で可能な限り最善の別の方法を取ることである。我々はしばしば,高血圧,抗生物質に対する重症アレルギー,特定の高価な設備が利用できないことなど,種々の状況に合わせて治療法を変えなければならない。エホバの証人の患者の場合,医師たちには,患者の選択と良心,血を避けるという患者の道徳的・宗教的決定と調和して,医療上および外科上の問題を首尾よく扱うことが求められているのである。

      エホバの証人の患者の大手術に関する数多くの報告には,大勢の医師たちが,血を取り入れないようにという求めに対して,正しい良心を保ちつつ首尾よく順応できたことが示されている。例えば,1981年にクーリーは,1,026件の心臓血管手術を回顧しているが,その22%は未成年者に対するものだった。彼は,「エホバの証人グループの患者の受けた手術の危険度は,事実上他の人々の場合よりも高くはなかった」と結論している。6カンボウリス7はエホバの証人の関係した大手術について報告しているが,それらエホバの証人の中には,「輸血を拒んだために,緊急に必要とされた外科的処置を施されなかった」人たちがいた。カンボウリスは次のように語っている。「すべての患者は治療に先立ち,手術室における状況にはかかわりなく,宗教的信念が尊重されるとの確約が与えられた。この方針が面倒な結果を生じさせることはなかった」。

      患者がエホバの証人の場合,選択の問題を超えて,良心が関係してくる。医師の良心のみを考えることはできない。患者についてはどうだろうか。エホバの証人は,命は血によって表わされており,神の賜物であると考えている。彼らは,クリスチャンは『血を避けている』べきであるという聖書の命令を信じている。(使徒 15:28,29)8したがって,長年にわたって信奉されてきた患者のそうした宗教的な確信を,医師が善意に基づいて踏みにじるなら,悲劇的な結果が生じかねない。法王ヨハネ・パウロ2世は,良心に反することをするよう人に強制することは「人間の尊厳に加えられる最も痛ましい打撃である。ある意味で,それは物理的な死に至らしめること,もしくは命を奪うことよりも悪質である」と語っている。9

      エホバの証人は宗教上の理由で血を拒むが,エホバの証人ではない患者であっても,エイズ,非A非B型肝炎,免疫反応などの危険のため,血を避けることを選ぶ患者が次第に増えてきた。それらの患者には,そのような危険が益と比べて小さく見えるかどうかについて,こちらの見解を示すことができる。しかし,アメリカ医師会が指摘しているように,「医師が推薦している治療法や手術に賭けてみるか,そうせずに生活することに賭けてみるかを最終的に決定するのは[患者である]。それは,法律で認められている,個人の自然権である」。10

      この点に関連してマックリン11は,「輸血をせずに,出血多量による死の危険を冒した」一人のエホバの証人に関して,危険性-受益性の問題を持ち出した。一人の医学生は,「彼の思考過程は健全だった。考え得る唯一の治療法が宗教的信念に反するときはどうしたらよいのだろう」と述べた。マックリンはこう論じている。「我々は,その患者が誤りを犯していることを痛感するかもしれない。しかしエホバの証人は,輸血を受けるなら……永遠の断罪に至ると信じている。我々は医療において危険性-受益性の分析を行なうよう訓練されているが,もし地上で命を長らえるよりも永遠の断罪を重視するとしたら,この分析は異なった様相を帯びるようになる」。11

      ベルチロとデュプレイ12は,本誌のこの号で「オズボーン事件に関して」に言及し,扶養家族の生活の安定を確保するという関心事を強調しているが,その問題はどのように解決されただろうか。それは,未成年の二人の子供を持つ父親が重傷を負った事件だった。裁判所は,当人が死亡した場合,親族が子供たちの物質的かつ霊的な世話を行なうという判決を下した。そのため,裁判所は近年の他の事例と同様,13治療に関する患者の選択を正当に無視できるような強制力を持つ国益を見いだせなかった。つまり,本人が強く異議を唱えている治療法を認可するために司法が介入することは,正当とされなかった。14患者は代替療法によって回復し,自分の家族の扶養を続行した。

      医師がこれまでに直面した,あるいはこれから直面するであろう症例の圧倒的大多数において,血を用いずとも成功できるというのは真実ではないだろうか。我々が研究した事柄,そして最もよく知っている事柄は医学的な問題と関連しているが,患者は,個人としての価値観や目標を無視してはならない人間である。生活に意味を付与する,自分自身の優先事項や道徳律や良心について最もよく知っているのは,患者である。

      エホバの証人の宗教的良心を尊重するのは,我々の技術にとって挑戦となるかもしれない。しかし,この挑戦に応じるとき,我々は例外なく大切にしている価値ある自由を強調しているのである。ジョン・スチュアート・ミルがいみじくも書いたとおりである。「これらの自由が全体的に尊重されていない社会は,それがどんな統治形態のもとにあろうと,自由ではない。……身体的にも精神的にも霊的にも,自分自身の健康をふさわしく守るのは一人一人の人間である。他の人々にとって良いと思える生き方を強制するよりも,自分自身の目に良いと思える生き方をする人を許すほうが,人間にとって得るところは大きい」。15

      [参照資料]

      1. Appelbaum PS, Roth LH: Patients who refuse treatment in medical hospitals. JAMA 1983; 250:1296-1301.

      2. Macklin R: The inner workings of an ethics committee: Latest battle over Jehovah's Witnesses. Hastings Cent Rep 1988; 18(1):15-20.

      3. Bouvia v Superior Court, 179 Cal App 3d 1127, 225 Cal Rptr 297 (1986); In re Brown, 478 So 2d 1033 (Miss 1985).

      4. In re Storar, 438 NYS 2d 266, 273, 420 NE 2d 64, 71 (NY 1981).

      5. Rivers v Katz, 504 NYS 2d 74, 80 n 6, 495 NE 2d 337, 343 n 6 (NY 1986).

      6. Dixon JL, Smalley MG: Jehovah's Witnesses. The surgical/ethical challenge. JAMA 1981; 246:2471-2472.

      7. Kambouris AA: Major abdominal operations on Jehovah's Witnesses. Am Surg 1987; 53:350-356.

      8. Jehovah's Witnesses and the Question of Blood. Brooklyn, NY, Watchtower Bible and Tract Society, 1977, pp 1-64.

      9. Pope denounces Polish crackdown. NY Times, January 11, 1982, p A9.

      10. Office of the General Counsel: Medicolegal Forms with Legal Analysis. Chicago, American Medical Association, 1973, p 24.

      11. Kleiman D: Hospital philosopher confronts decisions of life. NY Times, January 23, 1984, pp B1, B3.

      12. Vercillo AP, Duprey SV: Jehovah's Witnesses and the transfusion of blood products. NY State J Med 1988; 88:493-494.

      13. Wons v Public Health Trust, 500 So 2d 679 (Fla Dist Ct App) (1987); Randolph v City of New York, 117 AD 2d 44, 501 NYS 2d 837 (1986); Taft v Taft, 383 Mass 331, 446 NE 2d 395 (1983).

      14. In re Osborne, 294 A 2d 372 (DC Ct App 1972).

      15. Mill JS: On liberty, in Adler MJ (ed): Great Books of the Western World. Chicago, Encyclopaedia Britannica, Inc, 1952, vol 43, p 273.

日本語出版物(1954-2026)
ログアウト
ログイン
  • 日本語
  • シェアする
  • 設定
  • Copyright © 2025 Watch Tower Bible and Tract Society of Pennsylvania
  • 利用規約
  • プライバシーに関する方針
  • プライバシー設定
  • JW.ORG
  • ログイン
シェアする