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  • 「あなた方は聖なる者でなければならない。……」
    ものみの塔 1987 | 11月1日
    • 「あなた方は聖なる者でなければならない。……」

      「あなた方を召された聖なる方にしたがい,あなた方自身もすべての行状において聖なる者となりなさい。なぜなら,『あなた方は聖なる者でなければならない。わたしは聖なる者だからである』と書かれているからです」― ペテロ第一 1:15,16。

      1,2 (イ)大祭司のターバンには,思い出させるためのどんな諭しが表示されていましたか。それはどんな目的を果たしましたか。(ロ)今日でも,エホバが聖なる方であることを思い起こさせる諭しがふさわしいのは,なぜですか。(ハ)ペテロは,聖であることについて,どんな訓戒を与えていますか。

      「神聖さはエホバのもの」。イスラエルの大祭司がかぶるターバンにゆわえ付けられた純金の板には,感動的なこの言葉が刻みこまれ,すべての人の目にとまるよう表示されました。(出エジプト記 28:36-38)その言葉は,汚れた神々に忠順を表わしていた異教を奉じる諸国民とは異なり,イスラエルが清く聖なる神を崇拝していることを思い起こさせる輝く諭しとなりました。

      2 すでにエホバの証人になっているなら,あなたは自分の崇拝している神が一体どれほど清く聖なる方で,どれほど義にかなっておられるかを認識していますか。そのような基本的な真理を思い起こさせるものなど,ほとんど不必要に思えるかもしれません。何と言ってもわたしたちはエホバの民として,複雑な聖書預言,聖書の原則の適用の仕方,聖書の教理など,「神の奥深い事柄」に関する洞察という恩恵に浴してきたのです。(コリント第一 2:10。ダニエル 12:4と比較してください。)しかし,一部の人々に,エホバが聖なる方であることに対する心からの認識が欠けていることは明らかです。なぜでしょうか。毎年幾千幾万という人々が何らかの不道徳行為に陥るからです。さらに幾千幾万という人々は,聖書の律法に対する違反行為すれすれのことを行なうことにより,災いを身に招いています。明らかに,ある人々はペテロ第一 1章15節と16節にある次の言葉の重大性を理解していません。「あなた方を召された聖なる方にしたがい,あなた方自身もすべての行状において聖なる者となりなさい。なぜなら,『あなた方は聖なる者でなければならない。わたしは聖なる者だからである』と書かれているからです」。

      聖なる神,聖なる崇拝者

      3 モーセの歌はエホバに関して何を示していますか。

      3 『不完全な人間が聖なる者になるですって?それは不可能です』と言う人がいるかもしれません。しかし,ペテロの訓戒の背後にあるものについて考えてください。ここで同使徒は,最初にはエジプトを出たすぐ後のイスラエルに語られた言葉を引用しました。この奇跡的な救出を通して,エホバが救出者であり,約束を成就する方であり,「雄々しい戦人」であられることが示されました。(出エジプト記 3:14-17; 15:3)次にモーセは,紅海におけるエジプト軍の総くずれを祝う歌の中で,エホバのもう一つの面を示しました。こう記されています。「エホバよ,神々の中にだれかあなたに並ぶ者がいるでしょう。神聖さにおいて強大なことを示されるあなたに並ぶ者がいるでしょうか」。(出エジプト記 15:11)神聖さはエホバに帰せられるということが記録されているのは,この箇所が最初です。

      4 (イ)エホバはどのような意味で「神聖さにおいて強大」であられますか。(ロ)それでエホバは,カナン人の神々とどのような対照を成しておられましたか。

      4 聖書で「聖なる」と訳されているヘブライ語とギリシャ語は,『明るい,新しい,新鮮な,くもりがない,清い』という考えを伝えています。ですからモーセは,エホバを最高度に清い方,汚れがなく,腐敗の及ばない,頑として汚れを容認しない方として描写しました。(ハバクク 1:13)エホバは,イスラエル人が間もなく住むことになる土地,つまりカナンの神々とはまばゆいほどの対照を成す状態を保っておられました。シリア北部の海岸に面するラス・シャムラという町で発掘された文書から,カナン人のパンテオン(万神殿)の様子をかいま見ることができます。神殿の全貌は分かりませんが,その情報は啓発的です。ジョン・グレイの「カナン人」という本によれば,それらの文書は,「闘争的でねたみ深く,復讐心に燃え,貪欲な」神々について描写しています。

      5,6 (イ)カナン人は放縦な神々を崇拝したために,どのような影響を受けましたか。(ロ)イスラエル人は聖なる神を崇拝したために,どのような影響を受けましたか。

      5 予想どおり,カナン人の文化は彼らの崇拝する放縦な神々を反映していました。「イスラエルの民の宗教」という本はこう説明しています。「神を模倣した行動は,その神に対する奉仕であるとみなされた。……[性の女神である]アシュタロトは,聖別された人と描写される男女の奉仕者を大勢所有していた。……彼らは,女神への奉仕として売春行為に携わるために自らを聖別したのである」。学者のウィリアム・F・オールブライトは,「しかし,彼らの崇拝に伴う性的な面は,最悪の場合,社会の堕落の極めて下劣な深みへと沈んでいったに違いない」と,付け加えています。男根を表わす「聖木」の崇拝,子供を犠牲にすること,魔術,まじないで人を縛ること,近親相姦,男色,獣姦などはみな,カナンの「地の風習」になりました。―出エジプト記 34:13。レビ記 18:2-25。申命記 18:9-12。

      6 一方,エホバは「神聖さにおいて強大な」方であられます。エホバはご自分の崇拝者たちのうちにそうした堕落を容認することができません。(詩編 15編)ですからエホバは,堕落を招くカナン人の神々とは違って,ご自分の民を高められました。エホバは,ペテロがのちに引用することになる言葉を語り,「あなた方は聖なる者となるべきである。あなた方の神であるわたしエホバは聖なる者だからである」と,幾度も説き勧められました。―レビ記 11:44; 19:2; 20:26。

      『律法は聖にして義にかない,良いものである』

      7,8 (イ)イスラエル人はどのように「聖なる者となる」ことができましたか。(ロ)エホバの律法をバビロニア人のハンムラビ法典と対比させ,違いを示してください。

      7 「聖なる者となる」とは,完全になることでも,敬虔ぶった雰囲気を身に着けることでもありませんでした。それは,モーセを通してイスラエルに与えられた広範にわたる律法の法典に対する従順を意味していたのです。(出エジプト記 19:5,6)神の律法は,他のどんな国の法律とも異なり,「聖にして義にかない,良いもの」と呼ぶことができました。―ローマ 7:12。

      8 確かに,バビロニア人のハンムラビ法典はモーセの律法より前にあったものと言われ,扱われている問題の範囲も類似しています。『目には目を』という法律,つまり同害復讐法など,その法令の幾つかはモーセの律法中の原則に似ています。そのため,批評家たちは,モーセは単にハンムラビ法典から法律を借用したにすぎないと主張します。しかし,ハンムラビ法典はハンムラビに栄光を帰し,ハンムラビの政治的利益に貢献したにすぎません。神の律法がイスラエルに与えられたのは,『彼らが生きつづけられるよう,常に彼らの益を図るため』でした。(申命記 6:24)また,かつてハンムラビの法律がバビロンで法的な拘束力を発揮したという証拠はほとんどなく,同法典は「助言を求める人々に対する法的な助け」となったにすぎません。(新ブリタニカ百科事典,1985年版,第21巻,921ページ)ところがモーセの律法には拘束力があり,不従順な行為に対しては公正な処罰が施されました。最後に,ハンムラビ法典の場合は,悪行者の扱い方が中心に据えられ,280条の法律のうち,直接的な禁止令はわずか5か条しかありません。しかし,神の律法の場合には,悪行の処罰ではなく,その予防が要となっていました。

      9 モーセの律法はユダヤ人の生活にどのような影響を及ぼしましたか。

      9 モーセの律法は「聖にして義にかない,良いもの」だったので,ユダヤ人の個人的な生活に強力な影響を及ぼしました。律法はユダヤ人の崇拝を規定し,仕事を休む安息日を備え,国家の経済機構を管理し,衣服に関する幾つかの要求を略述し,食事・性活動・衛生面での習慣といった事柄に対して有益な指針を与えました。通常の身体的な機能でさえ,モーセの律法の監視するところとなったのです。

      『エホバのおきては清い』

      10 (イ)律法が生活の非常に多くの面と関係していたのはなぜですか。(ロ)律法はどのように身体的な清さと健康を促しましたか。(脚注を含む。)

      10 日々の生活を取り扱うそのような細かい規定には,高潔な目的がありました。それは,身体的にも,霊的にも,精神的にも,道徳的にも,イスラエル人を清くすることです。例えば,律法によると,イスラエル人は自分の身を洗い,排泄物を埋め,伝染病にかかった人を隔離し,ある種の食物を避けることなどが求められていましたが,それらはみな,健康と身体的な清さを促しました。a ―出エジプト記 30:18-20。レビ記 11章; 13:4,5,21,26; 15:16-18,21-23。申命記 23:12-14。

      11 儀式上,汚れているということは,何を意味していましたか。

      11 しかし実際には,健康や衛生も,霊的な清さと比べれば二次的なものでした。そのようなわけで,禁じられている食物を食べたり,性関係を持ったり,死体に触れたりしたような人も,儀式上の意味で汚れていると宣告されました。(レビ記 11章,15章。民数記 19章)それで,そのような汚れた人は崇拝に参加することを禁じられ,場合によっては死の刑罰を受けました。(レビ記 15:31; 22:3-8)しかし,そうした禁止令は霊的な清さとどのような関係にあったのでしょうか。

      12 儀式上の清さに関する律法は,どのように霊的な清さを促しましたか。

      12 異教の崇拝の特色となっていたのは,売春や死者の崇拝,それに浮かれ騒ぎでした。しかし,「国際標準聖書百科事典」は次のことを指摘しています。「性活動は,ヤハウェを崇拝する手段としては一切認められていなかった。したがって,この点に関するそうした活動全体は,人を汚れたものとする。……イスラエルでは死者に対してふさわしい敬意が払われたが,死者に不当な崇敬がささげられたり,死者が崇拝の対象となったりすることは決してなかった。……宴会を伴うような,異教徒である隣人の祝祭において友好を深めることはイスラエル人にとって不可能だった。異教徒の食物は汚れていたからである」。このように律法の規定は,汚れた宗教分子からの隔ての「壁」となりました。―エフェソス 2:14。

      13 律法はどのように精神的な清さを促しましたか。

      13 律法はイスラエル人の精神的な清さにも貢献しました。例えば,夫婦間の親密な行為に関する律法中の法令は,人間の思考力を高めることに寄与しました。(レビ記 15:16-33)イスラエル人はカナン人とは違って制御されない欲情に屈することなく,性的な問題において自制を学び取りました。さらに律法は貪欲な考えを非としていたので,律法の支持者たちに自分たちの感情や欲求を制御することさえ教えました。―出エジプト記 20:17。

      14 神の律法は,道徳的な清さを促すことに関して,どのような意味で類例のないものでしたか。

      14 しかし,ひときわ注目に値するのは,律法が道徳的な清さを強調したことです。確かにハンムラビ法典も姦淫のような悪を非としましたが,「聖書考古学者」という書物の一論文はこう述べています。「姦淫を,夫の所有権を侵す犯罪としか見ないバビロニア人やアッシリア人とは違い,旧約聖書中の法律は,姦淫を,道徳性を侵す由々しい違反ともみなしている」。

      15 (イ)清さを保つために,イスラエル人がかなりの努力を払ったと思われる事情を例示してください。(ロ)イスラエル人はそのような努力からどのような益を得ましたか。

      15 ですから,詩編作者の語った「エホバのおきては清く,目を輝かせる」という言葉は何と真実なのでしょう。(詩編 19:8)確かに,清さを保つのにかなりの努力が求められた時もありました。新しく母親になった女性は浄めの手順に従うため,子供が誕生してから何週間か後にはエルサレムに上ってゆかなければなりませんでした。(レビ記 12:1-8。ルカ 2:22-24)男性も女性も夫婦としての交渉を持った後に,また関連した他の状況においても,儀式上の清めを行なうよう求められました。(レビ記 15:16,18。申命記 23:9-14。サムエル第二 11:11-13)彼らは,良心的に律法に従って清さを保ったなら,身体的にも,精神的にも,道徳的にも,霊的にも「自分を益する」ことになったでしょう。(イザヤ 48:17)さらに,清さを保つことの重要性と重大さが,彼らの心に忘れ難い印象となって残されたことでしょう。最も価値あることとして,神聖さを保とうとするそのような誠実な努力は,彼らに神の是認を得させたことでしょう。

      汚れた世にあって清い

      16,17 (イ)今日クリスチャンは,どの程度まで清さを保つよう求められていますか。(ロ)今日,清さを保つのが非常に難しいのはなぜですか。(ハ)著名な人たちは,どのような面で,理想的な人物としては失格ですか。

      16 今わたしたちは,クリスチャンに対する次のペテロの言葉をよりよく認識できます。「あなた方は従順な子供として,以前無知であったために抱いた欲望にそって形作られるのをやめ,あなた方を召された聖なる方にしたがい,あなた方自身もすべての行状において聖なる者となりなさい。なぜなら,『あなた方は聖なる者でなければならない。わたしは聖なる者だからである』と書かれているからです」― ペテロ第一 1:14-16。

      17 明らかにこれは簡単なことではありません。どこを見ても,詐欺,不正直,性の不道徳を働く人々がいます。ニューヨーク・タイムズ紙は,「結婚する前に同棲することを選ぶアメリカ人は次第に増えている」と伝えました。著名な人々でさえ,おそまつな手本しか示していません。スポーツ界や政界や芸能界の,いま世界で最も人気のある人々の中には,何らかの汚れた事柄を公然と行なっている人々がいます。一人のスポーツファンは,「理想的な人物としてだれかに信仰を持ったのに,その人に汚点のあることが分かったりすると,本当にがっかりします」と,嘆きました。どんな問題があるのですか。数人の有名なスポーツ選手は,麻薬の乱用を告白しました。アイドルとして人気のある人たちが汚れた生活,そうです,姦淫や淫行,男女の同性愛,盗み,搾取,麻薬中毒などに関係した下劣な生活を送っているということは,何と多いのでしょう。それらの人たちは身体的には清く見えるかもしれませんが,その口は不潔で下品な言葉で満ちています。自分たちの不道徳な冒険を誇ったりして,一般的な良識を軽蔑することに喜びを感じてさえいるかもしれません。

      18 汚れた生活を送っている多くの人は,どのように『自分たちのまいてきたものを刈り取って』いますか。

      18 それでも,聖書の言葉を簡単に軽くあしらうことはできません。こう記されています。「神は侮られるような方ではありません。[「神を愚弄することがあってはなりません」― バイイングトン訳]何であれ,人は自分のまいているもの,それをまた刈り取ることになるのです。自分の肉のためにまいている者は自分の肉から腐敗を刈り取り(ます)」。(ガラテア 6:7,8)大抵の場合みだらな行動は,よく知られているものだけでも,梅毒や淋病やエイズといった病気を生じさせ,早死にという結果さえ招きます。時には,乱交を好む生活様式が,精神と感情のアンバランス,抑うつ状態,それに自殺といった結果をさえ生じさせます。ですから,不道徳な習わしに携わっている人々は,自分を清く保つよう努める人々をあざけって笑うかもしれませんが,あざ笑う人が『まいたものを刈り取り』始める時に,笑いはやみます。―ローマ 1:24-27と比較してください。

      19,20 キリスト教世界の僧職者は,宗教と道徳の面で汚染されていることをどのように示してきましたか。

      19 わたしたちが住む世界は宗教的にも汚されています。僧職者は美しく清らかな衣服を身にまとうかもしれませんが,偶像礼拝,三位一体,地獄の火,人間の魂の不滅,煉獄といったバビロン的な汚れた習慣や教理を教えています。彼らはイエスが言及された宗教指導者のようです。「偽善者なる書士とパリサイ人たち,あなた方は災いです! あなた方は白く塗った墓に似ているからです。それは,外面はなるほど美しく見えますが,内側は死人の骨とあらゆる汚れに満ちているのです。そのように,あなた方もまた,確かに外面では義にかなった者と人に映りますが,内側は偽善と不法でいっぱいです」― マタイ 23:27,28。

      20 僧職者は自分たちの羊の汚れを容認することさえしています。不道徳で汚れていることが知られている人々,つまり淫行や姦淫や同性愛を習わしにする人たちが良い立場にとどまることが許されているのです。この点について,ニューズウィーク誌はこのように伝えています。「米国メリーランド州の心理学者で,元司祭のリチャード・サイプは,米国のカトリックの司祭5万7,000人のうち,約20%は同性愛者である,と結論している。……今日における実際の数字は40%に近いかもしれない,と考える治療専門家もいる」。カトリックの神学者,ジョン・J・マクニール(同性愛者を自認している)は同性愛を正しいものとして公に認め,こう述べています。「人間味のある建設的な愛である限り,二人の女性または男性同性愛者間の愛は罪深いものではなく,同性愛者であることによって,それら愛し合う人たちが神のご計画から疎外されることはない。その愛は聖なる愛となり得る」― クリスチャン・センチュリー誌。

      21 「神聖さはエホバのもの」という思い出させるための諭しは,どのような意味で,今日のわたしたちにとって適切ですか。

      21 このように,大祭司のターバンの上に「神聖さはエホバのもの」と表示された思い出させるための諭しは,以前にもまして適切なものです。(出エジプト記 28:36)エホバはわたしたちがあらゆる点で清さを保つことを求めておられます。いえ,命じておられるのです。しかし,一体どうすればそうできるでしょうか。どんな分野には特に注意が必要かもしれませんか。次の記事ではそれらの質問について考えましょう。

      [脚注]

      a ハンムラビの法律にそのような条項はありませんでした。古代のエジプト人は比較的進歩した形態の医術を施していましたが,彼らの間から,ユダヤ人の律法に匹敵するような衛生上の法律は発見されていません。「古代エジプト」と題する書物は,「[エジプト人の医学書の場合は],合理的な処方の中に,魔術的なまじないと呪文が意のままに挿入されている」と述べています。しかし,神の律法は悪霊的な臭いを持たず,科学的にも健全でした。例えば,医師たちが死体に触れた後に手を洗う必要性を理解したのは現代になってからですが,幾千年も前のモーセの律法では,そのようにすることが要求されていたのです。―民数記 19章。

  • あなたは,あらゆる点で清さを保っていますか
    ものみの塔 1987 | 11月1日
    • あなたは,あらゆる点で清さを保っていますか

      「立ち去れ。立ち去れ。そこから出よ。汚れたものには何にも触れるな。エホバの器具を運んでいる者たちよ,彼女の中から出て,身を清く保て」― イザヤ 52:11。

      1 (イ)エホバの器具がエルサレムに戻されることは,王から出された一つの布告によりどのように可能になりましたか。(ロ)それらの器の一部はどのように汚されていましたか。

      奴隷状態が70年続いたのち,彼らは突如として自由になりました。ユダヤ国民は西暦前538年ごろに出された王の布告により,帰還して『イスラエルの神エホバの家を建て直す』ことができるようになりました。(エズラ 1:2,3)次いでもう一つ驚くべき出来事が生じます。「[ペルシャの]キュロス王も,ネブカドネザルがかつてエルサレムから運び出し(た),エホバの家の器具を持ち出した」のです。(エズラ 1:7,8)それらの器具の中には,バビロンの倒壊した晩にベルシャザルとその大官たちが,厚かましくも偽りの神々を賛美するのに用いて汚した神聖な器が含まれていました。(ダニエル 5:3,4)かつて流刑にされていた人たちは,今やそれらの器具をエルサレムに戻して,それをエホバの賛美に用いることができたのです。

      2 (イ)帰還する人々はイザヤのどんな預言を思い起こすことになっていましたか。それはだれに適用されましたか。(ロ)彼らが,汚れたものには何にも触れないよう勧められたのはなぜですか。

      2 帰還の途につこうとしていたユダヤ人たちは,興奮状態で出発の準備をしながら,預言者イザヤの次の言葉を思い起こしたに違いありません。「立ち去れ。立ち去れ。そこから出よ。汚れたものには何にも触れるな。エホバの器具を運んでいる者たちよ,彼女の中から出て,身を清く保て」。(イザヤ 52:11)もちろん,実際に器具を運んだのはレビ人でした。(民数記 1:50,51; 4:15)しかしイザヤは,帰還する人すべてが,器の誉れある担い手になることを予告しました。ですから,清くあることが全員に義務付けられたのです。彼らはイスラエル人がエジプトを出る時とは異なり,バビロニア人から貴重なものを奪い取ってはなりませんでした。(出エジプト記 12:34-38と比較してください。)彼らは帰還するに際して,どんな物質主義的また利己的な動機を抱いていてもなりませんでした。バビロンの「糞像」に関しては,それに触れるだけでも汚れることになりました。a (エレミヤ 50:1,2)あらゆる点で清くあることによって初めて,ユダヤ人は「神聖の道」を歩み,エルサレムに帰ることができました。―イザヤ 35:8,9。

      3 今日,エホバの「器具」を担っているのはだれですか。それらの人たちにとって,清さを保つのが大きな挑戦になるのはなぜですか。

      3 今日のエホバの証人も同様に,エホバの「器具」の担い手として清くなければなりません。使徒パウロはイザヤの言葉を引用し,それを当時のクリスチャンに当てはめ,「肉と霊のあらゆる汚れから自分を清め,神への恐れのうちに神聖さを完成しようではありませんか」と述べました。(コリント第二 6:17-7:1)わたしたちは汚れた世に生活しているだけでなく,受け継いだ堕落した傾向と闘わなければなりません。(創世記 8:21)エレミヤ 17章9節は,次のことを思い起こさせます。「心はほかの何物にも勝って不実であり,必死になる。だれがこれを知りえようか」。ある人々は自分自身と他の人々を欺き,事実と相違しているにもかかわらず,自分の生活は清く,神に受け入れていただけると信じています。彼らは一種の偽善を行なっています。ですからわたしたちはめいめい,『自分はエホバのみ前に清くあるよう,あらゆる点でできる限りの努力をしているだろうか』と自問しなければなりません。そうするための助けを得るため,これから清さに関する四つの面に焦点を当ててみましょう。

      身体的な清さ ― 一つの重要な事柄

      4 (イ)エホバの民の間で,身体的な清さが一つの重要な事柄なのはなぜですか。(ロ)清さに関する高い規準を保つのが時に難しいかもしれないのはなぜですか。

      4 古代と同じく今日のエホバの民の間でも,身体的な清さは一つの重要な事柄です。(出エジプト記 30:17-21; 40:30-32)結局,自分の髪の毛,手,顔,歯,爪などが汚れていたら,また体から不快な臭いが出ているなら,わたしたちは敬意をもって「エホバの器具」を扱っていることになるでしょうか。しかしわたしたちは,世の低い規準に容易に影響されてしまいます。―ローマ 12:2。

      5 (イ)清さの規準を高く保つのが非常に重要なのはなぜですか。この助言をどのように適用できるかについて,地元の例を挙げてください。(ロ)長老たちはどのように助けになれますか。

      5 世の低い規準で満足するなら,わたしたちはどうして世とは異なる者として目立った存在になれるでしょうか。家が汚れていたり,崇拝の場所が薄ぎたなかったりすれば,「神の言葉があしざまに言われる」ことになるのではないでしょうか。(テトス 2:5)しかし,自分の体を衛生的に保ち,大会会場のごみを拾い,王国会館の維持管理を助け,どんなに粗末な住まいでも家をきちんと清潔にしておくなら,神に栄光を帰することになるのです。(ペテロ第一 2:12と比較してください。)長老たちは,清さに関して個人的に良い模範を示してください。必要なときに適切な助言を与えるのを「差し控え」てはなりません。―使徒 20:20。

      6 集会と野外奉仕の時の服装の規準はどのようなものであるべきですか。

      6 集会で崇拝を行なう時の,また野外奉仕を行なう時の服装についてはどうですか。それは『慎み深い,よく整えられた』ものであるべきではないでしょうか。(テモテ第一 2:9。ヘブライ 10:23-25)きちんとした服装をすべきなのは,集会で割り当てがあるときだけだと考えてはなりません。過度にくだけた装いは慎みがなく,崇拝には不適切です。また,本を入れるかばんがすり切れていたり,聖書がぼろぼろになったり汚れていたりすると,人々の注意は王国の音信からそらされてしまいます。

      精神的な汚染を避ける

      7 フィリピ 4章8節によれば,精神的な清さにとって重要なことは何ですか。

      7 パウロはフィリピ 4章8節でこのように助言しました。「終わりに,兄弟たち,何であれ真実なこと,何であれまじめなこと,何であれ義にかなっていること,何であれ貞潔なこと,何であれ愛すべきこと,何であれよく言われること,また何であれ徳とされることや称賛すべきことがあれば,そうしたことを考え続けなさい」。それでもやはり,わたしたちはどこにいても,「サタンの奥深い事柄」を熟視させようとする誘惑に悩まされます。―啓示 2:24。

      8 さまざまな娯楽が危険なものとなることを,どのように例証できますか。地元の実例を挙げてください。

      8 例えば,ポルノや過激な暴力を扱ったものがすぐ手に入るので,カセット式のビデオテープ・レコーダーを使う人たちの中には,深刻な問題に陥る人がいます。ヨーロッパで,一人の既婚の兄弟は,妻が寝たあとに汚れた内容のビデオを見ていました。こうして悪行の種がしっかりと植え込まれ,姦淫という結果を生じさせることになりました。(ヤコブ 1:14,15と比較してください。)アフリカのある国では,証人たちの若者の一グループが学友から汚れた内容のビデオを借り,両親のいない間にそれを見ていました。しかしナイジェリアの一長老は,「それと同じような暴力,犯罪,戦争,性交の場面,配偶者への忠節の蔑視などを描くテレビの連続番組には,多くの場合,より大きな危険が潜んでいる」と語っています。安っぽいタブロイド版の新聞,ポルノ雑誌,扇情的な小説や映画,人を堕落させる音楽なども危険なもので,現在は広くはびこっています。

      9 (イ)自分の聴くもの,見るもの,読むものをよく選ばなければならないのはなぜですか。(ロ)いかがわしいものに直面したなら,どのように反応すべきですか。

      9 わたしたちは,「話すことさえ恥ずべき」事柄で自分の思いを汚すわけにはゆきません。(エフェソス 5:12)ですから,自分の聴くもの,見るもの,読むものをよく選んでください。いかがわしいものを退けるように用心を怠らず,速やかに反応してください。(詩編 119:37)そのためには真の自制心が,つまり比喩的に「自分の体を打ちたたき,奴隷として引いて行く」ことが必要になるかもしれません。(コリント第一 9:27)しかし,わたしたちがひそかに見ているものも,「見えない方」に観察されているということをいつも忘れないようにしましょう。(ヘブライ 11:27)ですから,疑わしいものは避けてください。「何が主に受け入れられるのかを絶えず確かめなさい」― エフェソス 5:10。

      『注意深くあり』,道徳的に清くあり続ける

      10 (イ)非常に多くの人が毎年戒めを受けたり排斥されたりする一つの理由は何ですか。(ロ)休暇の時期に,また職場で,聖書的などんな原則をわたしたちの振る舞いの導きとすべきですか。

      10 エフェソス 5章5節でパウロはこのように警告しました。「あなた方はこのことを知っており,自分でも認めているのです。すなわち,淫行の者,汚れた者,貪欲な者は ― これらはつまり偶像礼拝者ですが ― キリストの,そして神の王国に何の相続財産もありません」。ところが,毎年幾千幾万という人々が,『自分の体に対して罪をおかすこと』である性の不道徳が原因で戒められたり,排斥されたりするのです。(コリント第一 6:18)大抵の場合,それは「[神の]み言葉にしたがって注意深くある」ことを怠った結果にすぎません。(詩編 119:9)例えば,大勢の兄弟たちは,休暇の時期に道徳的な警戒心を捨ててしまいます。神権的な交わりをなおざりにし,休暇を過ごしている世の人々との交友を始めるのです。あるクリスチャンたちは,それら世の人々を『実に良い人たち』だと考えて,いかがわしい活動に一緒に携わりました。同様に,仕事仲間と親密になりすぎた人々もいます。一人のクリスチャンの長老は,一人の女性従業員と深い関係になり,家族を捨ててその女性との生活を始めました。その結果は排斥です。「悪い交わりは有益な習慣を損なう」という聖書の言葉は何と真実なのでしょう。―コリント第一 15:33。

      11 クリスチャンの集まりをふさわしく監督すべきなのは,なぜですか。

      11 南アフリカからは,「多くの人の道徳的廉直さを脅かしている別の危険は,大規模なパーティーである。……中には,地域大会のプログラムが終わった後に行なわれたものもある」という報告が寄せられています。しかし,監督の行き届いた比較的小規模なクリスチャンの集まりなら,「浮かれ騒ぎ」に堕することはほとんどありません。(ガラテア 5:21)アルコール飲料をふるまう場合には,よく管理し,節度を保ってください。「ぶどう酒はあざける者」であり,その影響を受けたある兄弟たちは,道徳的な警戒心を捨てたり,隠されていた弱点をあらわにしたりしました。(箴言 20:1)例えば,二人の若い奉仕者は,過度の飲酒にふけった後,同性愛行為に携わりました。

      12,13 (イ)ある人々は不道徳な行状をどのように正当化しましたか。そのような考え方が誤っているのはなぜですか。(ロ)どうすれば,正しい道徳を脅かすものに対して警戒できますか。

      12 間違ったことをするよう誘われたときは,わたしたちの外面がどれほど清く見えても,重要なのは内面であることを思い起こしてください。(箴言 21:2)自分たちは弱いのだから,不道徳な行状へ何度それて行ったとしても神は許してくださる,と考える人もいるようです。しかしそれは,「わたしたちの神の過分のご親切をみだらな行ないの口実に変え(る)」ことではないでしょうか。(ユダ 4)中には,「エホバはわたしたちを見ていない」とさえ考える人もいます。(エゼキエル 8:12)しかし,このことを忘れてはなりません。「神のみ前に明らかでない創造物は一つもなく,すべてのものはその目に裸で,あらわにされており,この方に対してわたしたちは言い開きをしなければなりません」― ヘブライ 4:13。

      13 ですから,正しい道徳を脅かすものに警戒してください。「聖なる民にふさわしく,あなた方の間では,淫行やあらゆる汚れまた貪欲が口に上ることさえあってはなりません。また,恥ずべき行ない,愚かな話,卑わいな冗談など,ふさわしくない事柄があってもなりません」。(エフェソス 5:3,4)肉にとってどれほど快いものであろうと,「邪悪なことは憎悪し」なさい。―ローマ 12:9。

      霊的に清さを保つ

      14,15 (イ)ある人々はどのように自分を霊的な汚染にさらしてきましたか。(ロ)背教者は「仲間の者を滅びに陥れる」ため,どのようにその「口」を用いますか。(ハ)実際に背教者はどのような点で汚れていますか。彼らは何を忘れてしまいましたか。

      14 ある人々はラジオやテレビの宗教番組にダイヤルを合わせ,霊的な汚染をもたらすものに自分をさらしてしまいました。アフリカのある国では,伝統的なアニミズムの宗教に見られる迷信を好意的に扱ったテレビドラマを見た人々がいました。しかし,使徒パウロは,より致死的な危険,つまり「ある人たちの信仰を覆している」背教的な人々について警告しました。(テモテ第二 2:16-18)そのような人々は今でも存在しています。(ペテロ第二 2:1-3)また,そのような人たちが,他の人たちの考えをまんまと汚したこともありました。箴言 11章9節が述べているように,「背教者はその口によって仲間の者を滅びに陥れる」のです。

      15 背教者はしばしば利己心に訴え,聖書を自分なりに解釈する自由を含め,幾つもの自由が奪われてきた,と主張します。(創世記 3:1-5と比較してください。)汚れをもたらそうとするそれらの人たちが提唱しているのは,実際には「大いなるバビロン」の,胸の悪くなるような教えに戻ることにほかなりません。(啓示 17:5。ペテロ第二 2:19-22)肉に訴え,家から家を回って証言するつまらない仕事は「不要である」,もしくは「聖書的な根拠がない」ので,“のんきにやる”ことを以前の友に勧める人たちもいます。(マタイ 16:22,23と比較してください。)確かに,滑らかな話し方をするそのような人たちは,表向きは身体的にも道徳的にも清く見えるかもしれませんが,内面では誇り高い独立的な考えに屈し,霊的に汚れています。彼らはエホバについて,またエホバの聖なるみ名と属性について学んだ事柄をすべて忘れてしまいました。王国と地上の楽園に関する栄えある希望,それに例えば三位一体,人間の魂の不滅,とこしえの責め苦,煉獄といった偽りの教理が覆されたことなど,聖書の真理について学んだ事柄がすべて「忠実で思慮深い奴隷」を通してもたらされたということをもはや認識していません。―マタイ 24:45-47。

      16 義なる者たちはどのように「知識によって」助け出されますか。

      16 興味深いことに,フランスのある巡回監督は,「一部の兄弟たちは正確な知識を欠いているために欺かれている」と述べています。そのような理由で,箴言 11章9節は,「義なる者たちは知識によって助け出される」と述べています。これは,背教者の言うことに耳を貸したり,背教者の著作を徹底的に調査したりするという意味ではありません。むしろ,聖書と,聖書に基づいた協会の出版物の個人研究を勤勉に行なうことによって,「神の神聖な奥義である……正確な知識」に至るという意味です。この正確な知識を得ていれば,だれが好奇心に駆られて背教者の述べる言葉に少しでも注意を向けようとするでしょうか。だれかが「ことば巧みな論議であなた方をだます」ということがありませんように。(コロサイ 2:2-4)偽りの宗教の宣伝は,どんな源から出たものであれ,毒物のように避けなければなりません。実際,わたしたちの主は,「永遠の命のことば」をわたしたちに伝えるため「忠実で思慮深い奴隷」を用いてこられたのですから,どこかほかのところを見たいなどとどうして願うべきでしょうか。―ヨハネ 6:68。

      あなたは清さを保ちますか

      17,18 (イ)身体的な清さ(ロ)精神的な清さ(ハ)道徳的な清さ(ニ)霊的な清さ,を培うのはなぜ肝要なことですか。

      17 したがって,エホバ神のみ前で清さを保つということには,多くの事柄が関係しています。自分の体,家,衣服,そして王国会館を物理的に清く保つなら,わたしたちの王国の音信を飾ることになります。精神的に清さを保つなら,道徳的にも霊的にも清い立場にとどまるよう助けられます。そのためには,真実なこと,貞潔なこと,称賛すべきことに絶えず注意を払うようにという,フィリピ 4章8節のパウロの訓戒の言葉に留意する必要があります。

      18 さらにわたしたちは,言行両面において道徳的に清い立場にとどまるべきことを,以前にもまして認識することができます。エホバは,どんな種類の不道徳行為であれ,そのようなことに携わる人は神の王国を受け継がない,とはっきり警告しておられます。(コリント第一 6:9-11)そのような汚れた事柄がどれほど快く思えても,肉にまくなら,肉から腐敗を刈り取ることになるのです。(ガラテア 6:8)最後に,霊的な,また教理的な清さを保つという問題があります。そうした清さは,わたしたちの心と思いの純粋さを保つための助けとなります。そのようにしてわたしたちは,常に物事に関する自分自身の考えではなく,神のお考えを求めるように促されます。

      19 油そそがれた者と「大群衆」の両者にとって,すべての点において清さを保つための助けとなるのは何ですか。

      19 間もなく,汚れを助長する元凶である悪魔サタンは配下の悪霊共々,底知れぬ深みに投げ込まれます。その時まで,油そそがれた者であれ「大群衆」であれ,エホバの僕すべてが,エホバの器を担う者として清さを保てますように。(啓示 7:9,13-15; 19:7,8; 20:1-3)闘いは情け容赦のない厳しいものです。しかし,エホバは「聖なる霊」を惜しみなく与えてくださるということを忘れてはなりません。(ローマ 1:4)長老たちを擁するエホバの清い組織も,健全で聖書的な助言を差し伸べることによって快く援助する立場にあります。そのような助けと自分自身の決意とにより,わたしたちはあらゆる点において清さを保つことができます。

      [脚注]

      a 糞像に相当するヘブライ語のギッルーリームは元来,ユダヤ人にとっては忌むべきものである「糞の玉」を意味し,侮蔑のこもった言葉でした。―申命記 23:12-14。列王第一 14:10。エゼキエル 4:12-17。

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