-
上位の権威が果たす役割ものみの塔 1990 | 11月1日
-
-
上位の権威が果たす役割
「それはあなたの益のための神の奉仕者……です。しかし,もしあなたが悪を行なっているのであれば,恐れなさい」― ローマ 13:4。
1,2 キリスト教世界の多くの人は,どのように革命運動に携わっていますか。
今から2年前に,ニューヨーク・ポスト紙は,ロンドンで開かれた主教たちの会合について憤慨した調子の社説を掲載しました。それはランベス会議といい,英国国教会の500人余りの主教たちが出席しました。同紙を憤慨させたのは同会議が提出した決議でした。それは,「万策尽きて,武力闘争を唯一の公正への道として選ぶ」人々に対する理解を表明するものでした。
2 この決議はテロ行為を是認するに等しい,と同紙は述べましたが,主教たちは強まりつつある一般の傾向に同調していたに過ぎません。彼らの態度は,アフリカを解放するための最も手っ取り早い,また最も確実かつ安全な方法としてゲリラ戦を勧めたガーナのカトリック司祭,「解放の戦いをとことん戦う」と誓ったアフリカのメソジスト派の主教,さらにはアジアと南アメリカで反徒と共に既存の政府と戦ってきたキリスト教世界の多くの宣教師たちの態度と異なるところがありません。
真のクリスチャンは「権威に敵対」しない
3,4 (イ)革命を推し進めるいわゆるクリスチャンは,どんな原則を犯していますか。(ロ)ある人はエホバの証人のどんな点に気づきましたか。
3 イエスは1世紀当時,ご自分の追随者たちについて,「わたしが世のものでないのと同じように,彼らも世のものではない」と言われました。(ヨハネ 17:14)革命を推し進めるいわゆるクリスチャンはだれであれ皆,大いに世のものです。そのような人はイエスの追随者でもなければ,『上位の権威に服して』もいません。(ローマ 13:1)そういう人は,使徒パウロの次の警告に注意を払うとよいでしょう。「権威に敵対する者は,神の取り決めに逆らう立場を取っていることになります。それに逆らう立場を取っている者たちは,身に裁きを受けます」― ローマ 13:2。
4 キリスト教世界の大勢の人々とは対照的に,エホバの証人は武器を用いた暴力行為と一切関係を持ちません。ヨーロッパに住むある男の人はその点に気づき,次のように書いています。「宗教と政治が生み出したものを見て,私は既成の社会秩序を打ち倒すことに身を投じました。テロリストの一味に加わり,あらゆる種類の武器を扱えるように訓練されました。武装強盗にも度々加わりました。ですから絶えず命の危険にさらされていました。時たつうちに,自分たちが負け戦をしていることが分かってきました。人生に対する強い絶望感に打ちのめされ,挫折していました。そんな時,一人の証人が我が家を訪れました。その女性は神の王国のことを私に話しました。そういう話を聞いている暇などないと言ってから,妻なら聞くと私は言いました。実際,妻はその話に耳を傾け,家庭聖書研究が始まりました。結局,私もその研究に参加することに同意しました。人類を悪に駆り立てている力が何かを理解して,私は言葉では言い表わせないほど気持ちが楽になりました。また,すばらしい王国の約束は,支えとなる,人生の希望と目的を私に与えてくれました」。
5 クリスチャンが平和裏に上位の権威に服し続けるのはなぜですか。それはいつまで続きますか。
5 クリスチャンは神とキリストの大使もしくは公使です。(イザヤ 61:1,2。コリント第二 5:20。エフェソス 6:19,20)彼らはそういう立場にあるので,この世の紛争に関しては中立を保ちます。ある政治体制が他の体制よりも経済的に繁栄しているかに見え,ある体制は他より多くの自由を許しているように見えるとしても,クリスチャンが特定の体制を他の体制よりも強く奨励したり高く評価したりすることはありません。彼らはどの体制も完全ではないことを知っています。神の王国が取って代わるまでそれらの体制が存続するのは,「神の取り決め」なのです。(ダニエル 2:44)したがって,クリスチャンは王国の良いたよりを宣べ伝えることによって,他の人のとこしえの福祉を図りながら,平和裏に上位の権威に服し続けます。―マタイ 24:14。ペテロ第一 3:11,12。
法律に従う
6 「全世界が邪悪な者の配下にある」のに,人間の作った多くの法律が良いものであるのはなぜですか。
6 国の政府は法体系を定めますが,それらの法律の大半は良いものです。「全世界が邪悪な者の配下にある」という事実からすると,これは驚くべきことでしょうか。(ヨハネ第一 5:19)そうではありません。エホバはわたしたちの最初の父親であるアダムに良心をお与えになったので,正邪に関するその内部的感覚は人間の作った法律の多くの点に反映されています。(ローマ 2:13-16)古代バビロニアの法律制定者ハンムラビは,自分が作成した法典の序文にこう書きました。「その時[彼らは],強者が弱者を圧迫しないよう,民の福祉を図ること,国内に公正を行き渡らせること,邪悪な者と悪を滅ぼすことを,我ハンムラビに,神を恐れる篤信の王に命令した」。
7 もしだれかが法律を破るなら,その者を罰する権利を有しているのはだれですか。なぜですか。
7 ほとんどの政府は,自分たちが制定する法律の目指すところも同じだと言うでしょう。つまり,市民の福祉を図り,社会の秩序を守るということです。ですから,殺人や盗みなどの反社会的な行為を罰し,制限速度や駐車に関する法律など,幾つもの規定を設けます。だれであれ政府の法律を故意に破る人は,権威に逆らう立場に立ち,「身に裁きを受けます」。だれからの裁きでしょうか。必ずしも神からの裁きではありません。ここで裁きと翻訳されているギリシャ語は,エホバの裁きよりも,民間の訴訟手続きを指す場合があります。(コリント第一 6:7と比較してください。)だれかが不法行為をするなら,上位の権威はその者を罰する権利を有しています。
8 会衆の成員が重大な犯罪をおかすなら,会衆はどのように対応しますか。
8 エホバの証人は人間の権威に敵対しないという良い評判を得ています。会衆内の一個人が法律を破るような事態が生じた場合,会衆はその人が合法的な処罰を免れるよう援助したりはしません。もしだれかが,盗み,殺人,中傷,脱税,強姦,詐取,法律で禁じられた麻薬の使用などによって合法的な権威に敵対するなら,その人は会衆から厳しく懲らしめられることになります。その場合,世俗の権威から罰せられても,自分は迫害されていると考えるべきではありません。―コリント第一 5:12,13。ペテロ第一 2:13-17,20。
恐れるべきもの
9 不法分子に脅かされる時,クリスチャンが何に保護を求めるのはふさわしいことですか。
9 パウロは上位の権威に関する論議を続け,次のように言います。「支配者たちは,善行にではなく,悪行にとって,恐れるべきものとなるのです。それで,あなたは権威に対する恐れを持たないでいたいと思うのですか。善を行なってゆきなさい。そうすれば,あなたはそれから称賛を受けるでしょう」。(ローマ 13:3)権威が加える罰を恐れるべきなのは忠節なクリスチャンではなく,悪行者たちです。つまり,「悪行」すなわち犯罪行為に携わる者たちです。そのような不法分子に脅かされる時,エホバの証人が,権威を持つ警察や軍からの保護を受けるのはふさわしいと言えるでしょう。―使徒 23:12-22。
10 エホバの証人は権威からどのように「称賛を受け」てきましたか。
10 上位の権威の制定した法律を守るクリスチャンに対してパウロは,「あなたはそれから称賛を受けるでしょう」と言っています。その一例として,ブラジルのエホバの証人が地域大会後に受け取った手紙のことを考えてみましょう。それは市のスポーツ課の責任者から寄せられた手紙でした。「皆さんの穏やかな振る舞いは,最大級の賛辞に値します。この騒然とした世の中に,今も神を信じ,神を崇拝している人がこんなにも大勢いることが分かって慰められました」。市営競技場の責任者は,「出席者が非常に多かったにもかかわらず,完ぺきな組織のおかげで,この催しに汚点を残すような事故は全くありませんでした」と書いてきました。市長室からは次のような手紙が届きました。「皆さんが規則をよく守られ,また実に優れた秩序維持を自発的に行なわれたことに対して,私たちが喜んでいることをこの機会にお伝えしたいと思います。皆さん方が今後どんな催しをなさるにしてもそれが成功を収めるよう願っております」。
11 良いたよりを宣べ伝える業を決して悪行と呼べないのは,なぜですか。
11 「善行」という語は,上位の権威の制定する法律に従う行為を指しています。さらに言えば,わたしたちが行なっている宣べ伝える業は悪行ではありません。これは人間ではなく,神から命じられた業です。政治的な権威はその点を認めるべきです。それは公の奉仕であり,こたえ応じる人たちの道徳性を向上させます。ですからわたしたちは,他の人々に宣べ伝えるわたしたちの権利が上位の権威によって保護されることを希望します。パウロは良いたよりを宣べ伝える業を法的に確立するため,権威に訴えました。(使徒 16:35-40; 25:8-12。フィリピ 1:7)同様にエホバの証人は近年,東ドイツ,ハンガリー,ポーランド,ルーマニア,ベニン,ミャンマー(ビルマ)などで自分たちの業の法的な認可を求め,それを得ることができました。
『それは神の奉仕者です』
12-14 上位の権威は(イ)聖書時代において,(ロ)現代において,どのように神の奉仕者として行動してきましたか。
12 パウロは世俗の権威について,次のように言葉を続けます。「それはあなたの益のための神の奉仕者……です。しかし,もしあなたが悪を行なっているのであれば,恐れなさい。それはいたずらに剣を帯びているのではないからです。それは神の奉仕者であり,悪を習わしにする者に憤りを表明する復しゅう者なのです」― ローマ 13:4。
13 国の権威は特定の方法で,時折,神の奉仕者として仕えてきました。キュロスがそれを行なったのは,ユダヤ人にバビロンから戻って神の家を建てるよう命じた時でした。(エズラ 1:1-4。イザヤ 44:28)アルタクセルクセスは,その家を再建するための寄付を持たせてエズラを派遣した時,また後ほどネヘミヤにエルサレムの城壁を再建するよう命じた時,神の奉仕者でした。(エズラ 7:11-26; 8:25-30。ネヘミヤ 2:1-8)ローマの上位の権威は,パウロをエルサレムの暴徒から救出し,難船に遭ったパウロを保護し,パウロがローマに自宅を持てるよう取り決めて,神の奉仕者の働きをしました。―使徒 21:31,32; 28:7-10,30,31。
14 同様に,世俗の権威は現代においても神の奉仕者として仕えてきました。例えば,1959年にカナダの最高裁判所は,扇動的な文書や中傷的な文書を発行したとして告発されていたケベックのあるエホバの証人を無罪とする判決を下しました。そのようにして,当時のケベック州知事,モーリス・デュプレシーの偏見をくじいたのです。
15 権威はどんな一般的な方法で神の奉仕者として行動しますか。そのことにより,権威にはどんな権利が与えられますか。
15 さらに国の政府は,神の王国が責任を担うようになるまで公共の秩序を守ることにより,一般的に神の奉仕者として仕えます。パウロによれば,権威はその目的のために「剣を帯びて」います。剣は,権威が有する罰を加える権利の象徴です。普通の場合,その罰には投獄や罰金が含まれますが,国によってはこれに死刑も含まれます。a 一方,死刑を科さないことにした国も多くありますが,そうするのもその国の権利です。
16 (イ)権威は神の奉仕者なので,ある神の僕たちは何をするのはふさわしいと考えてきましたか。(ロ)クリスチャンはどんな職種を受け入れませんか。それはなぜですか。
16 ダニエル,3人のヘブライ人,ネヘミヤ,モルデカイなどがバビロニアやペルシャの政府の責任ある立場を受け入れることができた理由は,上位の権威が神の奉仕者であるという事実によって説明できます。彼らはそのようにして神の民の益を図り,国の権威に訴えることができました。(ネヘミヤ 1:11。エステル 10:3。ダニエル 2:48,49; 6:1,2)今日でもあるクリスチャンは,公務員として働いています。しかし彼らは世から離れているので,政党に入ったり,政治的地位を求めたり,政治組織の中で政策を立案する地位を受け入れたりはしません。
信仰の必要性
17 クリスチャンでないある人々は,どんな状況を見て権威に反抗する気になるかもしれませんか。
17 しかし,もし権威が腐敗を容認し,圧制をさえ黙認するとしたらどうですか。クリスチャンはその権威を,もっと優れていると思われる権威に替えることを試みるべきでしょうか。政府の不公正や腐敗は少しも新しいものではありません。ローマ帝国は1世紀に奴隷制のような不公正を推し進めました。腐敗した役人も大目に見られていました。聖書には,不正を行なった収税人,不義な裁き人,賄賂を求めた州の総督などのことが記されています。―ルカ 3:12,13; 18:2-5。使徒 24:26,27。
18,19 (イ)政府の役人の側が権威を悪用したり,腐敗したりするとき,クリスチャンはどう反応すべきですか。(ロ)一人の歴史家および下の囲み記事が示しているように,クリスチャンはどのように人々の生活の改善を図ってきましたか。
18 当時のクリスチャンも,しようと思えばそうした権威の悪用をやめさせることを企てることができましたが,実際にはそうしませんでした。例えばパウロは,奴隷制度の廃止について宣べ伝えたり,奴隷の所有者であったクリスチャンに奴隷を解放することを命じたりするのではなく,むしろ奴隷とその所有者に対して,互いにクリスチャンらしい同情心をもって接するよう諭しています。(コリント第一 7:20-24。エフェソス 6:1-9。フィレモン 10-16。ペテロ第一 2:18もご覧ください。)同様に,クリスチャンは革命運動に関与しませんでした。彼らは非常に忙しく「平和の良いたより」を宣べ伝えたのです。(使徒 10:36)西暦66年には,ローマ軍がエルサレムを攻囲し,その後に撤退しました。ヘブライ人のクリスチャンはその都市を守る反逆の徒と共にいるのではなく,イエスの指示に従って「山に逃げ」ました。―ルカ 21:20,21。
19 初期クリスチャンはその時の社会的状況に耐えて生活し,聖書の原則に従うよう助けることによって人々の生活の改善を図りました。歴史家のジョン・ロードは自著「古代ローマ世界」の中で,「キリスト教の真の勝利は,国民全体の諸制度,政治体制,法を表面的に変えることではなく,むしろキリスト教を信奉する人々を善良な人間に変えてゆくことのうちに見られた」と書きました。現代のクリスチャンがそれとは異なる行動を取ってもよいでしょうか。
国が助けにならないとき
20,21 (イ)ある世俗の権威は,益をもたらす神の奉仕者として行動する面で,どのように失敗しましたか。(ロ)エホバの証人は,国が共謀して迫害を加える時,どのように反応すべきですか。
20 1972年9月,中央アフリカのある国で,突然エホバの証人に対する残虐な迫害が始まりました。幾千人もの人がすべての持ち物を奪われ,殴打,拷問,殺害などの残虐行為にさらされました。上位の権威は証人たちを保護する務めを果たしたでしょうか。いいえ,果たしませんでした。むしろ暴力行為を奨励したので,それら悪意のないクリスチャンたちは安全のため隣国に逃れることを余儀なくされました。
21 エホバの証人は憤慨し,そのような拷問者たちに反抗して立つべきではありませんか。そうではありません。クリスチャンはそのような侮辱に対してもじっと忍耐し,イエスに倣って謙遜に行動すべきです。「彼は……苦しみを受けても,脅かしたりせず,むしろ,義にそって裁く方に終始ご自分をゆだねました」。(ペテロ第一 2:23)クリスチャンは,イエスがゲッセマネの園で捕縛された時,剣でイエスを守ろうとした弟子をイエスが叱責されたこと,また後にポンテオ・ピラトに対して,「わたしの王国はこの世のものではありません。わたしの王国がこの世のものであったなら,わたしに付き添う者たちは,わたしをユダヤ人たちに渡さないようにと戦ったことでしょう。しかし実際のところ,わたしの王国はそのようなところからのものではありません」と言われたことを覚えています。―ヨハネ 18:36。マタイ 26:52。ルカ 22:50,51。
22 アフリカのある証人たちは,厳しい迫害に遭った時,どんな立派な模範を示しましたか。
22 それらアフリカの証人たちはイエスの模範を思いに留め,勇気をもってパウロの次の諭しに従いました。「だれに対しても,悪に悪を返してはなりません。すべての人の前に良いものを備えなさい。できるなら,あなた方に関するかぎり,すべての人に対して平和を求めなさい。わたしの愛する者たち,自分で復しゅうをしてはなりません。むしろ神の憤りに道を譲りなさい。こう書いてあるからです。『復しゅうはわたしのもの,わたしが返報する,とエホバは言われる』」。(ローマ 12:17-19。ヘブライ 10:32-34と比較してください。)アフリカの兄弟たちは,今日のわたしたちすべてにとって,何という励みになる模範なのでしょう。権威が立派に行動しようとしないときでも,真のクリスチャンは聖書の原則を放棄しません。
23 どんな質問がこれから考慮されますか。
23 しかし,上位の権威はクリスチャンに対して何を期待できるでしょうか。また,上位の権威が正当に要求できる事柄には限界がありますか。次の記事ではその点が考慮されます。
[脚注]
a 神から与えられた古代イスラエルの律法には,重罪に対する死刑が含まれていました。―出エジプト記 31:14。レビ記 18:29; 20:2-6。民数記 35:30。
-
-
上位の権威に対する,わたしたちの相対的な服従ものみの塔 1990 | 11月1日
-
-
上位の権威に対する,わたしたちの相対的な服従
「したがって,あなた方がどうしても服従するべき理由があります」― ローマ 13:5。
1 エホバの証人は上位の権威であるナチの手にかかって,どんな厳しい経験をしましたか。それは彼らが『悪を行なった』ためですか。
フランツ・ライターと5人の若いオーストリア人が断頭台で処刑されたのは,1940年1月7日のことでした。彼らはビーベルフォルシェル,つまりエホバの証人でしたから,良心上ヒトラー帝国のために武器を取ることができず,死んでゆきました。第二次世界大戦中に信仰のために死んだ証人は幾千人もおり,ライターもその一人でした。強制収容所で長年忍耐した人々はその数をさらに上回ります。その人たちは皆「悪を行なって」,上位の権威であるナチの「剣」に苦しめられたのでしょうか。(ローマ 13:4)決してそうではありません! 続くパウロの言葉からすると,それらのクリスチャンは権威の手にかかって苦しんだにしても,ローマ 13章にある神の命令に従っていたことが分かります。
2 上位の権威にどうしても服するべき理由とは何ですか。
2 ローマ 13章5節で,パウロはこう書いています。「したがって,あなた方がどうしても服従するべき理由があります。その憤りのためだけではなく,あなた方の良心のためでもあります」。パウロはその前の箇所で,権威が「剣」を帯びているということは,権威に服するべき十分な理由である,と述べました。しかし今度は,もっと強力な理由として良心を挙げます。わたしたちは「清い良心を抱きつつ」神に仕えるよう努力します。(テモテ第二 1:3)聖書は上位の権威に服するようわたしたちに命じており,わたしたちは神の目に正しいことを行ないたいので従うのです。(ヘブライ 5:14)実際,聖書によって訓練された良心は,わたしたちを調べる人がだれもそばにいないときでも,権威に従うようわたしたちを促します。―伝道の書 10:20と比較してください。
「それゆえに,あなた方は税を納めてもいるのです」
3,4 エホバの証人はどんな評判を得ていますか。また,クリスチャンはなぜ税を納めるべきですか。
3 ナイジェリアでは数年前に納税をめぐる暴動が起きました。死者が数人出たので,権威は軍隊を導入しました。集会が行なわれていた王国会館に入って来た兵士たちは,その集まりの目的を告げるよう要求しました。指揮官はそれがエホバの証人の聖書研究の集会であることを知ると,「エホバの証人は税の問題で騒ぎ立てるような人たちではない」と言って,兵士たちを退去させました。
4 それらナイジェリアの証人たちは,「それゆえに,あなた方は税を納めてもいるのです。彼らは,まさにこのために絶えず奉仕する神の公僕だからです」というパウロの言葉どおりに生活していることで評判でした。(ローマ 13:6)イエスは『カエサルのものはカエサルに返しなさい』という規範を示した時,税を納めることについて話しておられました。(マタイ 22:21)世俗の権威は道路を建設し,警察を通して保護を与え,図書館,交通機関,学校などを設け,郵便その他の多くの事業を行ないます。わたしたちはそうした備えをしばしば利用します。ですから税を納めることによってそれらに対し支払いをするのは至極当然なことです。
「すべての者に,その当然受けるべきものを返しなさい」
5 「すべての者に,その当然受けるべきものを返しなさい」という表現は何を意味していますか。
5 パウロはこう続けています。「すべての者に,その当然受けるべきものを返しなさい。税を要求する者には税を,貢ぎを要求する者には貢ぎを,恐れを要求する者にはしかるべき恐れを,誉れを要求する者にはしかるべき誉れを」。(ローマ 13:7)「すべての者」という語は,神の公僕であるすべての世俗の権威を包含します。例外はありません。自分の好みに合わない政治体制のもとに住んでいても,わたしたちは税を納めます。宗教団体に免税措置が取られる国に住んでいるなら,会衆はそれを活用しますし,クリスチャンも他の市民と同じく,自分たちの納める税を軽くする法的な備えを何でも利用します。しかし,クリスチャンは不法な手段で納税を回避すべきではありません。―マタイ 5:41; 17:24-27と比較してください。
6,7 わたしたちには同意できない事柄のために費用があてられるとしても,また権威がわたしたちを迫害するとしても,税を納めるべきなのはなぜですか。
6 しかし,税が不公正なものに感じられる場合はどうでしょうか。また税金の一部が,無料の中絶,血液銀行,中立に関するわたしたちの見方とは矛盾する計画など,わたしたちには同意できない事柄のための費用にあてられる場合はどうでしょうか。それでもわたしたちはすべての税を納めます。税金の使い道に関して責任を負わなければならないのは権威です。わたしたちには権威を裁く任務は与えられていません。神は「地の裁き主」であられ,諸政府がどのように権威を行使してきたかに関し,ご予定の時にそれらの政府と清算をされます。(詩編 94:2。エレミヤ 25:31)それが行なわれる時まで,わたしたちは税を納めます。
7 権威がわたしたちを迫害する場合はどうですか。それでも,サービスは日々行なわれているので,税を納めます。アフリカのある国で迫害を受けていた証人に関して,定期刊行物「サンフランシスコ・イグザミナー」は,「彼らは模範的市民とみなしてよい。まじめに税金を払い,病人の世話をし,文盲と戦っている」と述べました。そうです,それら迫害されている証人たちは税を納めたのです。
「恐れ」と「誉れ」
8 わたしたちが権威に示す「恐れ」とは何ですか。
8 ローマ 13章7節にある「恐れ」とは,臆病な恐れというよりも世俗の権威に対する敬意であり,権威の制定した法律を破ることへの恐れです。この敬意は,必ずしも権威ある立場にある人ではなく,その人が置かれている立場のゆえに示されます。聖書によれば,ローマのティベリウス帝に関する預言的な記述の中で,同帝は「軽んじられた者」と呼ばれています。(ダニエル 11:21)しかしティベリウスは皇帝でしたから,クリスチャンはティベリウスを皇帝として恐れ,かつ誉れを帰さなければなりませんでした。
9 わたしたちが人間の権威に誉れを帰するためのどんな方法がありますか。
9 誉れに関して言えばわたしたちは,宗教上の立場に基づく称号を付与してはならないというイエスの命令に従います。(マタイ 23:8-10)しかし,世俗の権威に関しては,彼らに誉れを帰するためにどんな称号で呼ぶことが求められようと,その称号で彼らを呼ぶことを厭いません。パウロはローマの総督たちに語りかける際,「閣下」という語を用いました。(使徒 26:25)ダニエルはネブカドネザルを「我が主」と呼んでいます。(ダニエル 4:19)今日のクリスチャンは,“閣下”や“陛下”といった称号を用いることができます。また,判事の入廷時には起立することもできますし,支配者の前で謹んで身をかがめることも,もしそういう習慣があるのであれば,差し支えないでしょう。
相対的な服従
10 人間の権威がクリスチャンに要求できる事柄には限界があることを,イエスはどのようにお示しになりましたか。
10 エホバの証人は人間の権威に服するのに,フランツ・ライターをはじめ非常に多くの人たちが,あのような苦しみを経験したのはなぜですか。それは,わたしたちの服従が相対的なものであり,権威は自分が要求できる事柄に聖書的な一定の限界があることを必ずしも認識していないからです。もし権威が,訓練されたクリスチャンの良心に反する事柄を要求するなら,神が定めた限界を超えることになります。イエスは「カエサルのものはカエサルに,しかし神のものは神に返しなさい」と述べて,その点を指摘されました。(マタイ 22:21)カエサルが神に属するものを要求するとき,わたしたちは神が優先権を持っておられることを認めなければなりません。
11 人間の権威が要求できる事柄には限界があることを実証するどんな原則が,広く受け入れられていますか。
11 これは危険で油断のならない立場でしょうか。決してそうではありません。実際は,大半の文明国で認められている原則を敷衍したものに過ぎないのです。15世紀のこと,ペーター・フォン・ハーゲンバッハという人が,自分の権威のもとにあったヨーロッパの一地域で恐怖政治を行ない始めたということで裁判にかけられました。自分は領主ブルゴーニュ公の命令に従ったに過ぎないという当人の弁明は却下されました。残忍なことを行なっていても,上位の権威の命令に従ってそうしているのであれば責任はないというこの主張は,それ以来幾度もなされてきましたが,最も有名なのは,ニュールンベルクの国際裁判でナチの戦犯たちが行なった主張です。その主張は大抵却下されました。その国際裁判で下された判決には,「各人には国際的な義務があり,その義務は,個々の国家から課された国民的服従の責務を超越する」とあります。
12 聖書には,権威からの道理に合わない要求に従おうとしなかった神の僕たちに関するどんな例が記されていますか。
12 神の僕たちは,上位の権威に対する良心的服従には限界があることを常に認めてきました。エジプトでモーセが誕生したころ,ファラオは生まれたばかりのヘブライ人の男児を皆殺しにするよう,二人のヘブライ人の産婆に命じました。しかし産婆は新生児を生かしておきました。二人がファラオに従わなかったことは間違っていましたか。そうではありません。産婆は神から与えられた自分たちの良心に従ったので,神は二人を祝福されました。(出エジプト記 1:15-20)イスラエルが流刑にされてバビロンにいた時,ネブカドネザルはヘブライ人のシャデラク,メシャク,アベデネゴを含む臣下たちに,自分がドラの平野に立てた像の前で身をかがめるよう要求しました。しかし3人のヘブライ人はそれを拒否しました。彼らは間違っていたのでしょうか。間違っていませんでした。王の命令に従うことは,神の律法に対する不従順を意味したからです。―出エジプト記 20:4,5。ダニエル 3:1-18。
『自分たちの支配者として,神に従いなさい』
13 初期クリスチャンは,上位の権威に対する相対的な服従の問題に関して,どんな模範を残しましたか。
13 同様に,ユダヤ人の権威が,イエスについて宣べ伝えるのをやめるようペテロとヨハネに命令した時,彼らは,「神よりもあなた方に聴き従うほうが,神から見て義にかなったことなのかどうか,あなた方自身で判断してください」と答えました。(使徒 4:19; 5:29)彼らは黙っているわけにはゆきませんでした。クリスチャン・センチュリー誌は初期クリスチャンが取った別の良心的な立場に注意を引き,こう述べています。「初期クリスチャンは軍務に携わらなかった。ローランド・バイントンは,『新約聖書時代の終わりから,西暦170年ないし180年の10年間にかけて,クリスチャンが軍隊に入ったことを示す証拠は何もない』と述べている。(「戦争と平和に対するクリスチャンの態度」[アビングドン,1960年],67,68ページ)……スウィフトによると,殉教者ユスティヌスは,『クリスチャンが暴力行為に携わらないのを当然のことと受け止めている』」。
14,15 人間の権威に対する初期クリスチャンの相対的服従の規準となった聖書の原則には,どんなものがありますか。
14 どうして初期クリスチャンは兵役につかなかったのでしょうか。それは,一人一人が注意深く神の言葉と律法を研究し,聖書によって訓練された良心に基づいて個人的な決定を下したからに違いありません。彼らは中立でした。つまり『世のものではなかった』のです。中立ですから,世の紛争においてどちらかの側を選ぶことはできませんでした。(ヨハネ 17:16; 18:36)さらに,彼らは神に属していました。(テモテ第二 2:19)国家のために命を投げ出すとすれば,神に属するものをカエサルに与えることになったでしょう。また,彼らは愛によって結ばれた国際的な兄弟関係の一部でもありました。(ヨハネ 13:34,35。コロサイ 3:14。ペテロ第一 4:8; 5:9)仲間のクリスチャンを殺すかもしれない武器を取り上げることなど,彼らの正しい良心が許しませんでした。
15 それに加えて,クリスチャンは皇帝崇拝のような,一般化していた宗教的慣習に同調することはできませんでした。その結果,クリスチャンは「変わり者で危険な人物[とみなされ],ほかの人々は当然ながら彼らを胡散臭そうに見」ました。(W・A・スマート著,「聖書は今も語る」)クリスチャンは,『恐れを要求する者にはしかるべき恐れを返す』べきであるとパウロは書きましたが,クリスチャンはエホバをより深く恐れ敬うことを忘れませんでした。(ローマ 13:7。詩編 86:11)イエスご自身こう言われました。「体を殺しても魂を殺すことのできない者たちを恐れてはなりません。むしろ,魂も体も共にゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい」― マタイ 10:28。
16 (イ)クリスチャンはどんな分野において,上位の権威に対する服従の問題を注意深く検討しなければなりませんか。(ロ)27ページの囲み記事は何を例証していますか。
16 わたしたちはクリスチャンとして,今日でも同様な挑戦に直面します。何かの像や象徴に対する崇拝的な動作であれ,救いを人間や組織に帰することであれ,わたしたちはどんな現代版の偶像礼拝にも参加できません。(コリント第一 10:14。ヨハネ第一 5:21)それに,初期クリスチャンと同様,クリスチャンとしての中立の立場を曲げることもできません。―コリント第二 10:4と比較してください。
「温和な気持ちと深い敬意」
17 ペテロは,良心ゆえに苦しみに遭っている人たちに,どのような諭しを与えましたか。
17 使徒ペテロはわたしたちの良心的な立場について書き,「神に対する良心のゆえに悲痛な事柄に耐え,不当な苦しみを忍ぶなら,それは喜ばしいこと……です」と述べました。(ペテロ第一 2:19)そうです,クリスチャンが迫害に遭っても確固とした立場を取るのは神にとって喜ばしいことであるばかりか,クリスチャンの信仰が強くされ精錬されるという別の益をもたらします。(ヤコブ 1:2-4。ペテロ第一 1:6,7; 5:8-10)ペテロはこのようにも書きました。「たとえ義のために苦しみを受けることがあっても,あなた方は幸いです。しかし,彼らの恐れるものを恐れてはなりません。またそれに動揺してもなりません。むしろ,あなた方の心の中でキリストを主として神聖なものとし,だれでもあなた方のうちにある希望の理由を問う人に対し,その前で弁明できるよう常に備えをしていなさい。しかし温和な気持ちと深い敬意をもってそうするようにしなさい」。(ペテロ第一 3:14,15)実に有益な諭しです。
18,19 もし権威がわたしたちの崇拝の自由を制限するなら,深い敬意の伴った態度と道理にかなった見方は,どのように助けになりますか。
18 権威がクリスチャンの立場を誤解したために,あるいはキリスト教世界の宗教指導者がエホバの証人のことを権威に誤り伝えたために迫害が生じた場合,その権威に事実を示せば,圧力を弱めることができるかもしれません。温和な気持ちと深い敬意を抱くクリスチャンが,暴力に訴えて迫害者に反撃を加えることはありませんが,活用できるあらゆる法的手段を用いて自分の信仰を擁護することはあります。その後は問題をエホバのみ手にゆだねます。―フィリピ 1:7。コロサイ 4:5,6。
19 また,クリスチャンが深い敬意を抱いていれば,自分の良心に反することは避けながらも,できる限り権威に従うようになります。例えば,もし会衆の集会が禁止されるなら,クリスチャンは目立たない方法を探して,エホバの食卓で食物を取り続けます。至上の権威であられるエホバ神はパウロを通して,わたしたちにこう告げておられるからです。「互いのことをよく考えて愛とりっぱな業とを鼓舞し合い,ある人々が習慣にしているように,集まり合うことをやめたりせず,むしろ互いに励まし合い,その日が近づくのを見てますますそうしようではありませんか」。(ヘブライ 10:24,25)しかし,そのような集まりは慎重に開くことができます。出席者がたとえわずかでも,神がその取り決めを祝福してくださることは確信できます。―マタイ 18:20と比較してください。
20 もし良いたよりを公に宣べ伝える業が禁止されたなら,クリスチャンはどのようにその状況に対処できますか。
20 同様に,ある権威は良いたよりを公に宣べ伝える業を禁止してきました。それらの権威のもとに住むクリスチャンは,至上の権威がイエスご自身を通して言われた,「あらゆる国民の中で,良いたよりがまず宣べ伝えられねばなりません」という言葉を覚えています。(マルコ 13:10)したがって,彼らはどんな犠牲を払うことになっても至上の権威に従います。使徒たちは可能な所では,公に,また家から家に宣べ伝えましたが,人々に伝えるには,非公式の証言など他の方法もあります。(ヨハネ 4:7-15。使徒 5:42; 20:20)聖書のみを用いるなら,宣べ伝える業を妨害しないという権威も少なくありません。このことから,すべてのエホバの証人が聖書から論じるよう十分に訓練される必要のあることがよく分かります。(使徒 17:2,17と比較してください。)クリスチャンが大胆であると同時に敬意を示すなら,上位の権威の憤りを招くことなくエホバに従う方法を見いだせる場合が少なくありません。―テトス 3:1,2。
21 もしカエサルが冷酷に迫害を加えるなら,クリスチャンはどんな道を選ばなければなりませんか。
21 しかし,権威が冷酷にクリスチャンを迫害する時もあります。そのような場合は,清い良心を抱き,耐え忍びつつ正しいことを行なうほかはありません。年若いフランツ・ライターは,信仰を曲げるか死ぬかの二者択一を迫られました。ライターは神への崇拝をやめることができなかったので,勇敢にも死の道を進みました。死の前夜,フランツは母親に次のような手紙を書きました。「私は明朝処刑されます。私は神によって力づけられていますが,それは過去に亡くなった真のクリスチャンすべてが常にそうであったのと同じです。……お母さんが死にいたるまで堅く立つなら,わたしたちは復活によって再び会うでしょう」。
22 わたしたちにはどんな希望がありますか。その間わたしたちはどのように生活すべきですか。
22 いつの日か全人類はエホバ神のただ一つの律法のもとに置かれることになるでしょう。その時までわたしたちは正しい良心を保ち,神の取り決めを守り,あらゆる点で主権者なる主エホバに従うと同時に,上位の権威に相対的に服従する態度を保たなければなりません。―フィリピ 4:5-7。
-