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クリスマス ― イエスを喜び迎える正しい方法かものみの塔 1991 | 12月15日
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それがどれほど喜ばしい時であったとしても,み使いたちが称賛したことを理由にして毎年地球の創造を祝うとか,ことによると異教の祭りを取り入れてその時を記念しようなどとクリスチャンが主張したことはありません。
しかしクリスマスを祝う人は,イエスの誕生についてまさにそのようなことをしているのです。定評ある百科事典の「クリスマス」の項を見れば,ほとんどどの事典の場合でも,イエスの誕生した日付が定かではないことが確認できます。その日付に関する限り,聖書は何も述べていません。
「ラッパの出す音が不明りょうであれば」
使徒パウロは古代コリント会衆の無秩序を正す際に,『神は無秩序の神ではなく,平和の神です』と書きました。そして同じ文脈の中で,「ラッパの出す音が不明りょうであれば,いったいだれが戦闘の用意をするでしょうか」と問いかけました。(コリント第一 14:8,33)では,もし秩序の神がみ子の地上における誕生をクリスチャンに祝わせるつもりであれば,不完全な人間が異教の祝祭の中から勝手にある日を選んで,不敬虔な慣行を取り入れることをお許しになるでしょうか。
聖書中の例を幾つか調べれば,エホバ神はご自分の民をそのようには扱われないことがはっきりと分かります。モーセの律法のもとで年に一度の祝いを行なってゆくようイスラエル人に要求されたとき,神は明確な日付を定め,それらの祭りを行なう方法をお教えになりました。(出エジプト記 23:14-17。レビ記 23:34-43)イエス・キリストはご自分の誕生を記念するようにとは一度も命令されませんでしたが,一つだけ特定の日を祝うようご自分の追随者たちに命令されました。イエスは西暦33年のニサン14日の「渡されようとしていた夜」に,パンとぶどう酒を用いて主の晩さんの祝いを開始され,「わたしの記念としてこれを行なってゆきなさい」とお命じになりました。(コリント第一 11:23,24)主の晩さんを祝う時と方法についてのラッパは,明りょうで,間違えようがありません。では,クリスマスについてはどうでしょうか。聖書のどこを開いても,キリストの誕生を祝うようにという命令も,それを祝う時と方法についての指示も見当たりません。
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クリスマス ― イエスを喜び迎える正しい方法かものみの塔 1991 | 12月15日
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この点を念頭に置いて,クリスマスの名のもとに“キリスト教”の中に異教の祝祭を取り入れることが,聖書の次の命令に照らしてどう映るかを考えてください。「不釣り合いにも不信者とくびきを共にしてはなりません。義と不法に何の交友があるでしょうか。……また,忠実な人が不信者とどんな分を共に持つのでしょうか。……『それゆえ,彼らの中から出て,離れよ』と,エホバは言われる。『そして汚れた物に触れるのをやめよ』。『そうすればわたしはあなた方を迎えよう』」。(コリント第二 6:14-17)どんな口実を作るにしても,異教の祝祭でキリスト教を水増しすることは,決して救い主であるイエスを喜び迎える方法ではありません。イエスが人間として来られた1世紀にそのようなことをするとすれば,それは不適当なことになったでしょうし,今日,またイエスが王として神の裁きを執行するために来られる将来にそのようなことをするのも,全く同様に不適当なことでしょう。(啓示 19:11-16)実際,“キリスト教”にかこつけて異教の祭りを祝うことを好む人々はイエス・キリストを否認していることになりかねないのです。
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クリスマス ― イエスを喜び迎える正しい方法かものみの塔 1991 | 12月15日
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節子さんは敬虔なカトリック教徒として36年間過ごした後,ついにそのことに気がつきました。第二次世界大戦後,節子さんはカトリック教会に通って霊的な空白を満たそうとしました。クリスマスのミサに行って,教会の内外の豪華なクリスマスツリーを目にした時には,「来てよかった」と感じました。「近くの教会の飾りよりも美しかったので誇らしく思った」ということです。節子さんはしばらく日曜学校で教えたこともありましたが,カトリックの教えについて本当は何も理解していませんでした。それで,教会の仕事にもっと打ち込みたいと思うようになったとき,司祭に幾つかの質問をしました。司祭は質問に答えるどころか,彼女のことをばかにしました。がっかりした彼女は,自分で聖書を勉強することにしました。2週間後にエホバの証人の訪問を受け,家庭聖書研究に応じました。
節子さんはこう言います。「以前信じていたことの誤りを証明する聖書の真理を学んだ時には,辛い思いをしました。神経性脱毛症にかかったほどです。それでも,真理の光は徐々に心の中に輝きました。イエスが雨の多い寒い12月に生まれたはずがないことを知って,本当にびっくりしました。そんな時期に羊飼いが野外で羊の世話をしたりはしません。(ルカ 2:8-12)私が抱いていたキリスト降誕のイメージは打ち砕かれました。私たちは羊と羊飼いの出て来る場面を飾るために,綿を雪に見立てて使っていたからです」。
聖書が実際に教えている事柄を確信すると,節子さんはクリスマスを祝わないことにしました。もはや年に一度“クリスマスの精神”を示すのではなく,毎日快く与えるクリスチャンの精神を表わしています。
キリストを誠実に信じる方であれば,異教徒がクリスマスを汚しているのを見たとしても腹を立てることはありません。彼らは元々異教の祝祭だったものを異教の祝祭として祝っているにすぎないのです。クリスマスによって,天の王として目に見えない仕方で戻ってこられたイエス・キリストを喜び迎えることへと導かれる人は一人もいません。(マタイ 24,25章。マルコ 13章。ルカ 21章)むしろ,真のクリスチャンはキリストのような精神を1年中示し,イエスを王としていただく王国の良いたよりを宣明します。それこそわたしたちが救い主また王国の王としてのイエス・キリストを喜び迎える方法として神の望んでおられる方法なのです。―詩編 2:6-12。
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