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    ものみの塔 2000 | 11月1日
    • 道徳上の清さに関する敬虔な見方

      「わたし,エホバは,あなたの神,あなたに自分を益することを教える者,あなたにその歩むべき道を踏み行かせる者である」。―イザヤ 48:17。

      1,2 (イ)人々は一般に性道徳をどう見ていますか。(ロ)クリスチャンは性道徳に関してどんな見方を持っていますか。

      今日,地上の多くの場所で,道徳上の行動は全く個人的な事柄とみなされるようになっています。人々は性関係を,結婚した人どうしの間に限るべきものとではなく,愛情の発露としてだれとでも望むままに身を任せてよいものと見ます。だれをも傷つけないのであれば,自分がどのように振る舞うかを自分で決めるのは何も間違ったことではない,と考えます。その見方によれば,人は道徳に関する事柄,とりわけ性行為に関して,裁かれるべきではないというのです。

      2 エホバを知るようになった人は,それとは異なった見方をします。エホバを愛し,エホバに喜ばれる者でありたいと願っているので,聖書の指針に喜んで従います。エホバが自分たちを愛し,良い指導,つまり本当に自分たちの益となり,幸福に資する指導を与えてくださることを認めます。(イザヤ 48:17)神は命の源なので,人が自分の体をどのように用いるかに関して,とりわけ生命の伝達と密接にかかわるこの問題に関して,神に導きを求めるのは,道理にかなったことです。

      愛ある創造者からの賜物

      3 キリスト教世界の多くの人は,性関係についてどんなことを教えられてきましたか。それは聖書の教えとはどのように異なっていますか。

      3 今日の一般の世界とは対照的に,キリスト教世界のある人々は,性関係は恥ずべき罪深いことであり,エデンの園での“原罪”とはエバがアダムを性に関してたぶらかしたことである,と教えてきました。そのような見方は,霊感による聖書が述べている事柄とは正反対です。聖書の記録は,最初の人間夫婦を『人とその妻』と呼んでいます。(創世記 2:25)神はその二人に子どもを持つように告げ,「子を生んで多くなり,地に満ち(よ)」と言われました。(創世記 1:28)神がアダムとエバに子どもをもうけるようにと命じておきながら,その指示どおりにしたことで二人を処罰するとしたら,それは筋の通らないことでしょう。―詩編 19:8。

      4 神が人に性的な力をお与えになったのはなぜですか。

      4 わたしたちは,最初の両親に与えられ,ノアとその息子たちに対しても繰り返されたその命令から,性関係のおもな目的を理解できます。それは,子どもを生み出すことです。(創世記 9:1)しかし神の言葉は,神の結婚している僕たちが性関係を,専ら子どもを生み出そうとすることにのみ限るよう定めてはいないことを示しています。そのような関係は,感情面や身体面の必要をふさわしく満たし,夫婦に喜びをもたらすものとなります。互いに対する深い愛情を示す一つの方法でもあります。―創世記 26:8,9。箴言 5:18,19。コリント第一 7:3-5。

      神が与えた制限

      5 神は人間の性的活動にどんな禁止命令を課しておられますか。

      5 性的能力は神からの賜物ですが,なんの抑制もなく表現すべきものではありません。この原則は,結婚の取り決めの範囲内でも当てはまります。(エフェソス 5:28-30。ペテロ第一 3:1,7)結婚関係外の性関係は禁じられています。聖書はこの点に関して非常に明確に述べています。神がイスラエル国民に与えた律法の中では,「あなたは姦淫を犯してはならない」と述べられていました。(出エジプト記 20:14)後にイエスは,「淫行」と「姦淫」を,心の中から生じて人を汚す「害になる推論」の範ちゅうに入れました。(マルコ 7:21,22)使徒パウロは霊感のもと,コリントのクリスチャンに,「淫行から逃げ去りなさい」と訓戒しました。(コリント第一 6:18)また,ヘブライ人への手紙の中でパウロはこう書いています。「結婚はすべての人の間で誉れあるものとされるべきです。また結婚の床は汚れのないものとすべきです。神は淫行の者や姦淫を行なう者を裁かれるからです」。―ヘブライ 13:4。

      6 聖書で言う「淫行」に該当するのはどんな行為ですか。

      6 「淫行」という言葉は何を意味しているでしょうか。これはギリシャ語のポルネイアという言葉から来ていて,未婚の人どうしの性関係に適用されることもあります。(コリント第一 6:9)その語は,ほかの箇所,例えばマタイ 5章32節やマタイ 19章9節では,意味がさらに広く,姦淫,近親姦,獣姦をも指しています。また,結婚関係にない人どうしの他の性的行為,例えば口腔交接や肛門交接,また他の人の生殖器を官能的にもてあそぶことも,ポルネイアと言えます。そのような行為はどれも,神の言葉の中で ― はっきりと,あるいは暗に ― 非とされています。―レビ記 20:10,13,15,16。ローマ 1:24,26,27,32。a

      神の道徳律から益を受ける

      7 道徳的な清さを保つことにより,どんな益を受けますか。

      7 不完全な人間にとって,性的な行為に関しエホバの指導に従うのは,必ずしも容易なことではありません。有名な12世紀のユダヤ人の哲学者マイモニデスは,「トーラー[モーセの律法]全体に含まれている禁止命令の中でも,禁じられた結合や不義の性関係に関する命令ほど守りにくいものはない」と書きました。とはいえ,神の指導に従うなら,大いに益を受けます。(イザヤ 48:18)例えば,この点で従順であれば,治療法がなく致命的なものとなり得る性感染症から身を守ることができます。b また,結婚の関係外で妊娠するという事態に陥らないよう守られます。敬虔な知恵を当てはめることは,清い良心を保つことにもつながります。そのようにすれば,自尊心を守ることができ,親族,配偶者,子ども,クリスチャンの兄弟姉妹など,他の人たちからの敬意も深まります。また,自分自身が性関係について健全で積極的な態度を持てるようになり,それは結婚生活の幸福にも寄与します。あるクリスチャンの女性はこう書いています。「神の言葉の真理は,最善の身の守りです。わたしは結婚する時を待っていますが,その時が来たら,結婚相手となるクリスチャンの男性に,わたしはずっと貞潔を保ってきました,と誇りをもって言います」。

      8 わたしたちの貞潔な行動は,どのように清い崇拝を促進する場合がありますか。

      8 わたしたちが貞潔な行動を保てば,真の崇拝についての誤解を正して,わたしたちの崇拝する神に人々を引き付けることにも大きく貢献できます。使徒ペテロはこう書いています。「諸国民の中にあっていつもりっぱに行動しなさい。それは,彼らが,あなた方を悪行者として悪く言っているその事柄に関してあなた方のりっぱな業を実際に見,その業のゆえに検分の日に神の栄光をたたえるようになるためです」。(ペテロ第一 2:12)エホバに仕えていない人々がわたしたちの貞潔な行動を認めない,あるいは是認しないとしても,天の父はご自分の指導に従うわたしたちの努力をご覧になり,是認し,歓んでさえくださる,ということを確信できます。―箴言 27:11。ヘブライ 4:13。

      9 理由を十分には理解していなくても神の指導に確信を抱いているべきなのはなぜですか。例を挙げて説明してください。

      9 神に対する信仰には,神の指導についてすべての理由を十分に理解できない場合でも,神はわたしたちにとって最善のことをご存じである,との確信を抱くことも含まれます。モーセの律法から一例を考えてみましょう。陣営を張った場合の一つの規定として,糞便は陣営の外に埋めることになっていました。(申命記 23:13,14)イスラエル人は,そのような指示が与えられた理由について,よく分からなかったかもしれません。そんな規定は不必要だ,と思った人もいたかもしれません。しかしその後,医学は,この律法が水源の汚染を防ぐのに役立ち,また昆虫の媒介する多くの病気を予防するものとなっていたことを認めるようになっています。同様に,神が性関係を結婚の床だけとされたのも,霊的,社会的,感情的,身体的,心理的な理由があってのことです。では,道徳的清さを保った人の実例を,聖書の中から幾つか取り上げましょう。

      ヨセフ ― 道徳的行動のゆえに祝福された

      10 だれがヨセフをたぶらかそうとしましたか。ヨセフはどのように答えましたか。

      10 恐らくあなたも,聖書に挙げられている,ヤコブの息子ヨセフの例はよくご存じでしょう。17歳のヨセフは,エジプトのファラオの護衛の長ポテパルに属する奴隷となっていました。エホバはヨセフを祝福し,やがてヨセフはポテパルの全家をつかさどるよう任命されました。20代のころには,「姿が美しく,容ぼうの美しい」人となっていました。それがポテパルの妻の注意を引き,この女性はヨセフをたぶらかそうとしました。ヨセフは自分の立場を明らかにし,そのようなことに同意するなら主人に対する背信となるだけでなく,『神に対する罪』にもなることを説明しました。ヨセフがそのように推論したのはなぜでしょうか。―創世記 39:1-9。

      11,12 淫行や姦淫を禁じる,神からの成文律法がなくても,ヨセフはどのような理由でそのように推論したに違いありませんか。

      11 明らかに,ヨセフの決定は,人に見つかるという恐れに基づくものではありませんでした。ヨセフの家族は遠くにおり,父親はヨセフが死んだものと思っていました。たとえヨセフが性の不道徳に携わったとしても,家族に知られることはなかったでしょう。そのような罪は,ポテパルやその僕たちにも知られずにすんだことでしょう。それらの人が家にいない時が幾度もあったからです。(創世記 39:11)それでもヨセフは,そのような行動を神から隠すことなどできないということを知っていました。

      12 ヨセフは,自分がエホバについて知っている事柄に基づいて推論したに違いありません。多分,エホバがエデンの園で宣言された事柄,すなわち「それゆえに,男はその父と母を離れて自分の妻に堅く付き,ふたりは一体となるのである」という言葉を知っていたでしょう。(創世記 2:24)また,ヨセフは恐らく,曾祖母のサラをなんとか口説こうとしたフィリスティア人の王にエホバがお告げになった事柄も知っていたことでしょう。エホバはその王にこう告げました。「見よ,あなたは自分の召し入れた女のゆえにすでに死んだも同然である。彼女は別の所有者にその妻として所有されているからである。……だからこのわたしも,あなたをとどめてわたしに対し罪をおかさせないようにしていた。そのためあなたが彼女に触れることを許さなかったのである」。(創世記 20:3,6)それで,エホバはその時にはまだ成文律法を与えておられませんでしたが,結婚についてのお考えははっきりしていました。ヨセフの道徳感覚,またエホバを喜ばせたいという願いは,不道徳を拒ませるものとなりました。

      13 ヨセフがポテパルの妻を避けることができなかったのはなぜでしょうか。

      13 しかしポテパルの妻は執拗で,自分と寝るようにと「日ごとに」迫りました。なぜヨセフは彼女を完全に避けなかったのでしょうか。奴隷であったためになすべき務めがあり,自分で状況を変えることはできなかったのです。考古学的証拠によれば,エジプト人の家屋では,貯蔵室まで行くのに母屋を通らなければならない構造になっていたようです。そのために,ヨセフがポテパルの妻を避けることは無理だったのかもしれません。―創世記 39:10。

      14 (イ)ヨセフは,ポテパルの妻のもとから逃げ去ったあと,どうなりましたか。(ロ)エホバはヨセフをその忠実さゆえにどのように祝福されましたか。

      14 ある日,ヨセフとポテパルの妻は,家の中で二人だけになってしまいました。ポテパルの妻はヨセフのほうに手を伸ばし,「わたしと寝てちょうだい!」と声を上げました。ヨセフは逃げ去りました。ポテパルの妻は拒否されたのでいまいましく思い,今度はヨセフを強姦未遂の罪で訴えました。どんな結果になったでしょうか。エホバはヨセフの忠誠の歩みにすぐ報いたでしょうか。そうではありませんでした。ヨセフは投獄され,足かせにつながれてしまいました。(創世記 39:12-20。詩編 105:18)エホバはその不公正を見ておられ,やがてヨセフを獄から宮廷へと引き上げました。ヨセフはエジプトで第二位の強力な人となり,妻子にも恵まれました。(創世記 41:14,15,39-45,50-52)しかも,ヨセフのその忠誠は,3,500年も前に記録にとどめられ,以後の神の僕たちの鑑とされたのです。神の義の律法に付き従ったことに対するなんと素晴らしい祝福でしょう。同様に今日のわたしたちも,道徳的忠誠を守った結果すぐに恩恵を受けるわけではないかもしれませんが,エホバが見ていて,しかるべき時に祝福してくださることを確信できます。―歴代第二 16:9。

      ヨブの結んだ『自分の目との契約』

      15 ヨブの結んだ『自分の目との契約』とは何ですか。

      15 忠誠を保ったもう一人の人はヨブです。悪魔がもたらした試練の間,ヨブは自分の人生を振り返り,もし自分がエホバの原則を,中でも性道徳に関する原則を犯していたとしたら,厳しい処罰を受けることを辞さないと言明しました。こう言っています。「契約をわたしは自分の目と結んだ。それゆえ,どうしてわたしは自分が処女に対して注意深いことを示すことができようか」。(ヨブ 31:1)ここでヨブが言おうとしていたのは,自分は神への忠誠をぜひとも保ちたいと思っていたので,女性をみだらな目で見ることさえしないように思い定めていた,ということです。もちろんヨブも,日常の生活で女性たちを目にし,女性に助けが必要な場合には手助けしたことでしょう。しかし,情事の相手を探すという意味で注意深く見るようなことは,決してありませんでした。試練が始まるまで,ヨブは非常に裕福な人で,「すべての東洋人のうちで最も大いなる者」でした。(ヨブ 1:3)それでも,富の力を用いて多くの女性の気を引くようなことはしませんでした。若い女性と不義の性関係にふける考えをもてあそんだりなどしなかったことは明らかです。

      16 (イ)結婚しているクリスチャンにとってヨブが立派な模範であるのはなぜですか。(ロ)マラキの時代の,一部の男性の行動は,ヨブの行動とどのように異なっていましたか。今日はどうですか。

      16 こうして,順調な時期だけでなく困難な時期にも,ヨブは道徳的忠誠を示しました。エホバはそれに目を留めて,ヨブを豊かに祝福されました。(ヨブ 1:10; 42:12)ヨブは,男女を問わず結婚しているクリスチャンにとって,なんと立派な模範でしょう。エホバがヨブを大いに愛されたのも不思議ではありません。それとは対照的に,今日の多くの人の行動は,マラキの時代に見られたものとよく似ています。預言者マラキは,多くの夫が自分の配偶者を捨てて,大抵の場合,若い女性と結婚していることを非難しました。エホバの祭壇は見捨てられた妻たちの涙で覆われ,神は,配偶者に対してそのように「不実な振る舞いをした」者たちに有罪の宣告を下されました。―マラキ 2:13-16。

      貞潔な若い女性

      17 シュラムの娘は,どんな意味で「横木で閉じられた園」のようでしたか。

      17 忠誠を保った3人目の人は,シュラムの乙女です。若くて美しかった乙女は,羊飼いの若者の愛情だけでなく,イスラエルの富裕な王ソロモンの愛情をも引き付けました。「ソロモンの歌」につづられている美しい物語の初めから終わりまで,シュラムの娘は貞潔を守り通し,周囲の人たちの敬意を得ました。ソロモンは,その乙女からは拒絶されましたが,霊感を受けてその女性に関する物語を記しました。娘が愛した羊飼いの青年も,彼女の貞潔な行動に敬意を払いました。ある時この青年は,シュラムの娘は「横木で閉じられた園」のようだ,と述懐しました。(ソロモンの歌 4:12)古代イスラエルの美しい園には,多種多様な野菜や,香りの良い花や,堂々とした樹木がありました。そのような園は普通,垣根か塀で囲まれていて,錠の掛けられた門を開けなければ中に入れませんでした。(イザヤ 5:5)その羊飼いにとって,シュラムの娘の道徳的清さや麗しさは,そのようなたぐいまれな美しい園のようでした。彼女は全く貞潔でした。その優しい愛情は,もっぱら将来の夫が受けることになるのです。

      18 ヨセフ,ヨブ,およびシュラムの娘に関する記述は,どんなことを思い起こさせますか。

      18 シュラムの娘は,道徳的忠誠の点で,今日のクリスチャン女性が倣うべき優れた模範を残しました。エホバはシュラムの娘の美徳を見て高く評価し,ヨセフやヨブを祝福したのと同じようにこの娘を祝福されました。それらの人の忠誠の行ないは,わたしたちの導きとして神の言葉の中に記録されました。忠誠を保つための今日のわたしたちの努力が聖書に記録されることはありませんが,エホバはご意志を行なおうと努める人のための「覚えの書」を持っておられます。わたしたちが道徳的清さを保つよう忠節な態度で努力するとき,エホバが「注意して」おられ,歓んでくださることを決して忘れないようにしましょう。―マラキ 3:16。

      19 (イ)道徳的清さをどう見るべきですか。(ロ)次の記事ではどんな点が取り上げられますか。

      19 信仰のない人たちが嘲笑するとしても,わたしたちは愛ある創造者に従順であることを歓びとします。わたしたちには,より高い道徳,神を敬うゆえの道徳があります。これは誇りにすべきもの,宝のように大切にすべきものです。清い道徳的な立場を保てば,神の祝福を喜ぶことができ,尽きない将来の祝福という明るい希望も保てます。しかし,実際的な面で,道徳上の清さを保つために何ができるでしょうか。次の記事では,その重要な点を取り上げます。

      [脚注]

      a 「ものみの塔」誌,1983年6月15日号,29-31ページをご覧ください。

      b 残念なことに,潔白なクリスチャンが,神の指導に従わない未信者の配偶者から性感染症をうつされるということがあります。

  • あなたも道徳的清さを保てます
    ものみの塔 2000 | 11月1日
    • あなたも道徳的清さを保てます

      「そのおきてを守り行なうこと,これがすなわち神への愛……です」。―ヨハネ第一 5:3。

      1 今日の人々には,行動の面でどんな対照が見られますか。

      むかし,預言者マラキは霊感のもとに,神の民の行動が神に仕えていない人々と著しい対照をなす時代について予告しました。預言者はこう書いています。「あなた方は必ず,義なる者と邪悪な者,神に仕える者と仕えなかった者との相違を再び見るであろう」。(マラキ 3:18)この預言は,今日成就しています。道徳的に清くあることを求めるものも含め,神のおきてを守ることは,人が生きてゆくうえで賢明かつ適正な道です。とはいえ,それはいつでも易しい道ではありません。クリスチャンは救いを得るために精力的に励まなければならないとイエスが言われたのは,十分に理由があってのことです。―ルカ 13:23,24。

      2 外からのどんな圧力は,道徳上の貞潔さを保ちにくくさせることがありますか。

      2 道徳上の貞潔さを保つのが難しいのはなぜでしょうか。一つには,外からの様々な圧力があるからです。娯楽産業は不義の性関係を,魅惑的で楽しい,大人のものとして描き,そのような関係から生じる悪い結果についてはほとんど無視しています。(エフェソス 4:17-19)親密な関係が描かれる場合,ほとんどは夫婦ではない人どうしのものです。映画やテレビでは,性関係が,気軽で,何も拘束のないものとして描かれる場合が少なくありません。温かさや互いへの敬意などもあまり見られないのが普通です。子どものころからそのようなメッセージにさらされてきた人も多くいます。また,今日の気ままな道徳的風潮に同調させようとする,仲間からの強い圧力もあります。同調しない人はあざけられ,ののしられることもあります。―ペテロ第一 4:4。

      3 世の多くの人が不道徳に巻き込まれることにはどんな理由がありますか。

      3 内からの圧力も,道徳上の貞潔さを保ちにくくさせます。エホバは人間を性的欲求を持つ者として創造されました。その欲求は強いものとなる場合があります。人の欲求は心の中で考える事柄と大いに関係があり,不道徳は,エホバのお考えにもとる考え方とつながりがあります。(ヤコブ 1:14,15)例えば,ブリティッシュ・メディカル・ジャーナル誌(英語)に掲載された最近の調査報告によると,初めて性交をした人の多くは,セックスとはどういうものかという単なる好奇心で行動していました。自分と同じ年ごろの人はみな性的に活発なのだと思い,自分も経験したいと考えるようになった人たちもいました。さらには,ただ感情におぼれていた,あるいは「あの時ちょっと酔っていた」と述べた人もいます。神に喜ばれる者でありたいと思うなら,これとは違う推論の仕方をしなければなりません。どんな考え方をすれば,道徳的清さを保ちやすくなるでしょうか。

      強固な信念を持つ

      4 道徳上の貞潔さを保つためには何が必要ですか。

      4 道徳上の貞潔さを保つためには,そのような生き方は貫く価値があるということを認めていなければならない。これは,使徒パウロがローマのクリスチャンにあてて書いた,「神の善にして受け入れられる完全なご意志を自らわきまえ知る」ように,という言葉にかなっています。(ローマ 12:2)道徳上の貞潔さは守る価値があると認めることは,不道徳なことが神の言葉の中で非とされているのをただ知っているというだけのことではありません。不道徳が非とされている理由は何か,またそれを避けることがどのように自分の益となるかについて理解することも含まれます。そうした理由の幾つかについては,前の記事で取り上げました。

      5 クリスチャンが道徳上の貞潔さを保ちたいと思うのは,おもにどんな理由からですか。

      5 しかし,実際のところ,クリスチャンにとって,性の不道徳を避ける最も強力な理由は,神との間に築いた関係から来ています。わたしたちにとって何が最善かは神がご存じである,ということはすでに学びました。神に対する愛が,悪への憎しみを抱かせるのです。(詩編 97:10)神は,「あらゆる良い賜物,またあらゆる完全な贈り物」の与え主です。(ヤコブ 1:17)わたしたちを愛してくださっています。神に従順であることにより,自分が神を愛し,神がしてくださったすべての事柄に感謝していることを示せます。(ヨハネ第一 5:3)神の義にかなった命令を破ってエホバに失意や心痛をもたらしたいとは決して思いません。(詩編 78:41)また,神の聖にして義にかなった崇拝があしざまに言われるようなことをしたいとも思いません。(テトス 2:5。ペテロ第二 2:2)道徳上の貞潔さを保つことにより,至上者に歓ばれるようにします。―箴言 27:11。

      6 わたしたちの道徳規準を他の人に知らせることは,どのように助けになりますか。

      6 ひとたび道徳上の貞潔さを保とうと決意したなら,一層の防御策として,その信念を他の人たちに知らせる。人々に,自分はエホバ神の僕であり,神の高い規準を守る決意でいるということを知らせてください。それは自分の命,自分の体,自分の選択なのです。それによって保たれるのは何でしょうか。あなたが持つ,天の父との貴重な関係です。ですから,道徳上の忠誠は交渉しだいで変わるようなものではないことをはっきり示してください。神の原則を擁護することによって神を代表する者となれる,ということを誇りに思ってください。(詩編 64:10)自分の道徳上の信念について他の人に語るのを恥ずかしがってはなりません。きっぱり話すことによって心は強化され,保護され,自分の示す手本に倣うよう他の人を励ますこともできます。―テモテ第一 4:12。

      7 道徳上の貞潔さを保つ決意を,どうすれば守れますか。

      7 高い道徳規準を守ることを決意し,自分の立場を知らせたなら,今度は,その決意を貫くための策を講じなければならない。一つの方法は,友達を注意深く選ぶことです。「賢い者たちと共に歩んでいる者は賢くな(る)」と聖書は述べています。自分と同じ道徳観を持つ人を友にしてください。そのような友はあなたを強めてくれるでしょう。ここで挙げた聖句は,「愚鈍な者たちと交渉を持つ者は苦しい目に遭う」とも述べています。(箴言 13:20)あなたの決意を弱めさせるような人は,むしろできるだけ避けましょう。―コリント第一 15:33。

      8 (イ)自分の思いを健全なもので養うべきなのはなぜですか。(ロ)何を避けるべきですか。

      8 さらに,自分の思いを,真実なこと,まじめなこと,義にかなっていること,貞潔なこと,愛すべきこと,よく言われること,徳とされること,称賛すべきことで養う必要もあります。(フィリピ 4:8)そのために,見るもの,読むもの,聴く音楽などをよく選ぶようにします。不道徳な内容の本から腐敗的な影響を受けることはないと言うのは,道徳的な内容の本から良い影響を受けることはないと言うのと同様です。忘れないでください,不完全な人間は容易に不道徳に陥ってしまうものです。ですから,性的感情を刺激する本や雑誌,映画,音楽などは,間違った欲望を生じさせ,その欲望がやがて罪へとつながることもあるのです。道徳的清さを保つためには,自分の思いを敬虔な知恵で満たさなければなりません。―ヤコブ 3:17。

      不道徳につながる歩み

      9-11 ソロモンの叙述によれば,ある若者はどんな歩みによって徐々に不道徳に至りましたか。

      9 多くの場合,そのまま進めば不道徳につながることがそれと分かる歩みもあります。歩みを一歩進めるごとに,引き返すことは難しくなります。この点が箴言 7章6-23節でどのように描写されているかに注目してください。ソロモンは,「心[すなわち,良い動機]の欠けた若者」を観察します。その若者は,「たそがれ時に,日の夕方」に,「彼女[売春婦]の角に近い街路を過ぎて,その女の家に通じる道を進(んで)」ゆきます。そこに最初の間違いがあります。たそがれ時に,「心」に促され,ただあてどなく歩いたのではなく,たいてい売春婦がいると分かっている街路へ向かったのです。

      10 次にこう書かれています。「見よ,遊女の衣をまとった,心のこうかつな女が彼に会う」。若者はその女性を見ます。身を翻して家に帰ることもできますが,そうすることは前よりも難しくなっています。道徳的に弱いので特にそうです。遊女はこの若者をつかまえて,口づけします。口づけを受けた若者は,今度は彼女のあだっぽい語り口に耳を傾けます。「わたしには共与の犠牲をささげる務めがありました。わたしは今日,わたしの誓約を果たしました」と女は言います。共与の犠牲には,肉,麦粉,油,ぶどう酒が含まれていました。(レビ記 19:5,6; 22:21。民数記 15:8-10)その犠牲について述べることにより,自分が霊性を欠いてはいないことをほのめかし,同時に,自分の家には食べたり飲んだりする良い物がたくさんあることを知らせていたのかもしれません。そして,こう哀願します。「どうか,来てください。朝になるまでわたしたちの愛を満喫しましょう。愛の表現を交わして,ぜひ互いに楽しみましょう」。

      11 どうなるかは察しがつきます。「女は……滑らかな唇によって彼をたぶらか(し)」ます。若者は,「ほふり場に向かう雄牛のように」,また「鳥がわなにとび込むように」して,家までついて行きます。結びにソロモンは,「彼はそれが自分の魂にかかわることであるのを知らないでいる」という,身の引き締まる言葉を述べています。その若者の魂つまり命がかかっています。「神は淫行の者や姦淫を行なう者を裁かれる」からです。(ヘブライ 13:4)男女を問わず,だれにとってもなんと強力な教訓でしょう。神の不興に至る道に最初の一歩を踏み入れることさえしないようにすべきです。

      12 (イ)『心が欠けている』という表現にはどんな意味がありますか。(ロ)どうすれば道徳的な強さを身につけられますか。

      12 この記述に出てくる若者は『心が欠けて』いた,という点に注意してください。この表現は,考え,欲望,愛情,感情,人生の目標などが,神の是認されるものと調和していなかった,ということを暗示しています。若者は,道徳的な弱さのため悲惨な結果に至りました。この危機的な「終わりの日」に,道徳的な強さを身につけるには努力が要ります。(テモテ第二 3:1)神はわたしたちを助けるための備えを設けておられます。正しい道筋へと励ますため,また同じ目標を持つ他の人たちと知り合えるように,クリスチャン会衆の集会を設けておられます。(ヘブライ 10:24,25)わたしたちを牧し,義の道を教える,会衆の長老たちもいます。(エフェソス 4:11,12)導きとなり,手引きとなる,神の言葉 聖書もあります。(テモテ第二 3:16)また,いつどんな時でも,神の霊による助けを求めて祈ることができます。―マタイ 26:41。

      ダビデの罪から学ぶ

      13,14 ダビデ王はどんなことから由々しい罪に陥りましたか。

      13 しかし,残念なことに,神の著名な僕の中にさえ,性の不道徳にかかわった人がいます。何十年も忠実にエホバに仕えていたダビデ王もその一人でした。ダビデが熱烈に神を愛していたことに疑問の余地はありません。それでも,罪の道に踏み込みました。ソロモンが描写した若者の場合と同じように,ダビデを罪へと進ませ,さらにその罪を重くさせた歩みがありました。

      14 ダビデは当時,中年でした。50代の初めだったかもしれません。自分の家の屋上から,容姿のよいバテ・シバが身を洗っているのを目にしました。その女性がだれなのかを尋ねて,突き止めました。その夫ウリヤがアンモン人の都市ラバに対する攻囲に参加していることも知りました。ダビデはバテ・シバを宮殿に連れて来させ,これと関係を持ちました。後に,事は複雑になりました。バテ・シバは,ダビデによって妊娠したことに気づいたのです。ダビデは,ウリヤが妻と一夜を過ごしてくれることを期待して,ウリヤを戦地から呼び戻しました。そうなれば,バテ・シバの生む子の父親はウリヤであるように思われたことでしょう。ところが,ウリヤは自分の家に行きませんでした。ダビデは自分の罪を覆い隠そうと必死になり,戦死するような場所にウリヤを配置せよという,軍の長あての手紙を持たせて,ウリヤをラバに送り返しました。こうしてウリヤは命を落とし,ダビデはバテ・シバの妊娠が公に知られる前に,そのやもめと結婚しました。―サムエル第二 11:1-27。

      15 (イ)ダビデの罪はどのように暴かれましたか。(ロ)ダビデはナタンの巧みな戒めにどのように応じましたか。

      15 罪を覆い隠そうとするダビデの企ては,表面的にはうまくいったかに見えました。月日が経過し,子ども ― 息子 ― が生まれました。この事を念頭に置いて詩編 32編を作ったのであれば,その時のダビデは明らかに良心にさいなまれていたことでしょう。(詩編 32:3-5)しかし,その罪は神から隠されてはいませんでした。「ダビデのした事はエホバの目には明らかに悪いことであった」と聖書は述べています。(サムエル第二 11:27)エホバは預言者ナタンを遣わし,ナタンは巧みな方法で,ダビデに自分の行なった事柄を直視させました。ダビデはすぐさま自分の罪を告白し,エホバの許しを請い求めました。真に悔い改めていたために,神と和解することができました。(サムエル第二 12:1-13)ダビデは,戒めを受けても憤慨しませんでした。むしろ,次の詩編 141編5節に描写されているような態度を示しました。「義にかなった者がわたしを打つとしても,それは愛ある親切です。彼がわたしを戒めるとしても,それは頭の上の油であり,わたしの頭はそれを拒もうとはしません」。

      16 違犯に関してソロモンはどんな警告と助言を与えていますか。

      16 ダビデとバテ・シバの間に生まれた2番目の子ソロモンは,父親の生涯のこの暗い出来事について思い巡らしたかもしれません。後に,こう書いています。「自分の違犯を覆い隠している者は成功しない。しかし,それを告白して捨てている者は憐れみを示される」。(箴言 28:13)わたしたちも,重大な罪に陥ることがあるとすれば,警告であり忠告でもある,霊感によるこの助言に留意すべきです。エホバに告白し,会衆の長老たちに近づいて助けを求めるべきです。長老が果たす一つの重要な責任は,悪行に陥った人が再調整できるよう助けることです。―ヤコブ 5:14,15。

      罪から生じる結果を耐え忍ぶ

      17 エホバは罪を許すとしても,何から保護することはされませんか。

      17 エホバはダビデを許しました。なぜでしたか。ダビデが忠誠の人であり,他の人々に憐れみ深く接し,真の悔い改めを示していたからです。それでもダビデは,それによって生じた災いから保護されたわけではありません。(サムエル第二 12:9-14)今日でも同じです。エホバは,悔い改めている人を苦しめるわけではありませんが,間違ったことをしたために生じる当然の結果を免れさせることはされません。(ガラテア 6:7)性の不道徳の結末には,離婚,望まなかった妊娠,性感染症,信頼や尊敬を失うことなどがあります。

      18 (イ)パウロはコリント会衆に,甚だしい性的非行の事件をどう扱うように告げましたか。(ロ)エホバは罪人にどのように愛と憐れみを示されますか。

      18 重大な過ちを犯し,自分のその過失の結果として生じる事態を忍んでいるとき,人は気が落ち込みがちなものです。しかしそれでも,悔い改めて神と和解することを決してやめてはなりません。1世紀当時,パウロはコリントの人たちに,近親との淫行を犯していた男性を会衆から除き去りなさい,と書きました。(コリント第一 5:1,13)当人が真に悔い改めた後,パウロはその会衆に,「[その人を]親切に許して慰め,……彼に対する愛を確証(しなさい)」という指示を与えました。(コリント第二 2:5-8)霊感によるこの助言には,罪を悔い改めた人に対するエホバの愛と憐れみが反映されています。天のみ使いたちは,罪人が悔い改めるとき,歓びを抱きます。―ルカ 15:10。

      19 間違った歩みをしたために当然の悲しみに暮れるなら,どんな益になることもありますか。

      19 わたしたちは,間違った歩みをして悲しみに暮れるとしても,そのときの後悔の念は,『自分が有害なことに向かわないよう用心する』ための助けになります。(ヨブ 36:21)実際,罪を犯した結果として生じる苦い事柄は,間違いを繰り返さないように引き止めるものとなるはずです。さらにダビデは,自分の罪深い行ないによる悲しい経験を,他の人たちへの諭しとして用いました。こう述べています。「わたしは違犯をおかす者たちにあなたの道を教えます。罪人たちがあなたのもとに立ち返るためです」。―詩編 51:13。

      幸福はエホバに仕えることに伴う

      20 神の義にかなった要求に従うなら,どんな益にあずかれますか。

      20 「神の言葉を聞いてそれを守っている人たちこそ幸いです!」とイエスは語りました。(ルカ 11:28)神の義にかなった要求に従順であれば,今も,将来いつまでも,幸福でいられます。これまで道徳的清さを保ってきたのであれば,エホバが助けとして設けてくださった備えすべてを活用して,その歩みを続けてゆくことができますように。もし不道徳に陥ってしまうことがあるとしても,エホバは真に悔い改める人をいつでも許してくださることを思い返して心を立て直し,二度と罪を繰り返すまいとの決意を固めましょう。―イザヤ 55:7。

      21 使徒ペテロのどんな訓戒を当てはめることは,道徳的清さを保つ助けになりますか。

      21 間もなく,この不義の世は,その不道徳な態度や習わしすべてと共に過ぎ去ります。わたしたちは,道徳上の貞潔さを保つことにより,今も将来いつまでも,益を受けることができます。使徒ペテロはこう書いています。「愛する者たちよ,あなた方はこれらのものを待ち望んでいるのですから,最終的に汚点もきずもない,安らかな者として見いだされるよう力を尽くして励みなさい。……あなた方はこのことをあらかじめ知っているのですから,無法な人々の誤りによって共に連れ去られ,自分自身の確固たる態度から離れ落ちることのないように用心していなさい」。―ペテロ第二 3:14,17。

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