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    1990 エホバの証人の年鑑
    • 警察はまもなく姉妹の一人を逮捕して投獄しました。トレーシー兄弟と他の人々は姉妹の釈放を試みましたが,同じように監禁されてしまいました。やがて拘留された証人は8人となりました。腹を立てた巡査部長は,証人たちは共産主義者で,カトリックの村で宣べ伝える権利などない,と怒鳴りました。警察が書籍と聖書の表紙をはぎ取ると,町長は証人たちの文書を警察署の中庭にある大きな水槽に投げ込ませました。1時間後,役人たちはようやく冷静になり,証人たちを釈放しました。

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    1990 エホバの証人の年鑑
    • ポルフィリオの次男,ラウルは,1960年代の初めに高校を出るとすぐに開拓奉仕を始めました。そして,自分の奉仕の務めに真剣に取り組み,巡回および地域の奉仕を行なった後,ギレアデ学校に出席しました。やがて宣教者としてコロンビアに戻ったラウルは,最後に支部委員会の一員となる割り当てを受けました。ラウル・カイセドはガンのため1981年に38歳で亡くなり,皆が悲しい一日を経験しました。

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    1990 エホバの証人の年鑑
    • 1946年にボゴタからバランキヤに移った5人の宣教者は,その年の11月にさらに援助を受けました。かつて農場で働いていた,背の高いやせた28歳の青年,ジェームズ・ウェブスターが米国から到着したのです。「まさに突然の変化でした」と,ウェブスターは述べています。彼はギレアデ学校でロバート・トレーシーと同級生でしたが,トレーシーと同様,コロンビアに来る前に巡回監督として奉仕しました。

      6か月後の1947年5月,宣教者のグループを強化するためにボゴタからオラフ・オルソンが移って来ました。オラフはノルウェー系の北米出身者だったので,生き生きとしたスカンディナビア語の軽快なリズムを伴うスペイン語を話しました。バランキヤは当時約16万人の住民を有する都市でしたが,ごく少数の地元の人だけが7人の外国人と共に定期的に集まりを開いていました。オルソンはいつの日かバランキヤの伝道者が500人になると予測しました。当時それは不可能に思えましたが,1959年1月にはその大台に達しました。

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    1990 エホバの証人の年鑑
    • [87ページの図版]

      宣教者のオラフ・オルソンとジェームズ・ウェブスター

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