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    ものみの塔 2007 | 10月15日
    • 内なる声を聞きなさい

      「[神の]律法を持たない諸国民の者たちが生まれながらに律法にある事柄を行なう」。―ローマ 2:14。

      1,2 (イ)他の人を気遣って行動した人は大勢います。その例を挙げてください。(ロ)聖書には,他の人を気遣って行動したどんな例が載せられていますか。

      地下鉄の駅のホームにいた20歳の男性が,てんかんの発作に襲われ,線路に転落しました。近くでそれを目撃した男性は,娘たちから手を放して線路に飛び降り,その人をレールとレールの間のくぼみに引き入れて,その人の上に身を伏せました。ちょうどその時,ホームに入って来た電車が鋭いブレーキ音を立てて二人の上で止まりました。命を救ったその男性は,人々から英雄とたたえられましたが,こう言いました。「当然のことをしただけです。親切心からしたのであって,栄誉など欲しかったわけではありません」。

      2 あなたも,身の危険をも顧みずに他の人を助けた人のことをご存じでしょう。第二次世界大戦中には,見ず知らずの人をかくまって助けた人が大勢いました。昔には,使徒パウロと275人の乗った船がシチリア島に近いマルタ島の沖で座礁した時,マルタの人々は見ず知らずの人を助けに来て,「人間味のある親切を一方ならず」示しました。(使徒 27:27–28:2)また,シリア人の捕虜となったイスラエルの少女の例もあります。命の危険を冒したわけでないとはいえ,少女はあるシリア人に親切な気遣いを示しました。(列王第二 5:1-4)さらに,隣人愛を示したサマリア人に関する,イエスの有名なたとえ話を思い起こしてください。祭司とレビ人は,半殺しにされた仲間のユダヤ人がいるのに,見ぬふりをして通り過ぎましたが,サマリア人はその人を助けるために手を尽くしたのです。このたとえ話は,幾世紀にもわたって様々な文化圏の人々に感動を与えるものとなっています。―ルカ 10:29-37。

      3,4 利他的な気持ちが広く見られることから,進化論についてどんなことが言えますか。

      3 もちろん,今は「対処しにくい危機の時代」であり,「粗暴」で「善良さを愛さない」人が多く見られます。(テモテ第二 3:1-3)とはいえ,思いやりに富む行ないについても見聞きしてきたのではないでしょうか。もしかしたら,あなたもそのような親切を示されたことがあるかもしれません。自分を犠牲にしても他の人を助けようとする精神は,多くの人に見られるため,それを“人間らしさ”と呼ぶ人もいます。

      4 自分を犠牲にしても他の人を助けようとするこの精神は,どの人種や文化圏にも見られます。これは,「適者生存」つまり弱肉強食の原理に従って人間は進化してきた,という主張の誤りを示すものとなっています。米国政府によるヒトゲノム(DNA)の解析計画を指導した遺伝学者フランシス・S・コリンズは,こう述べました。「無私の利他的精神は,進化論者に大きな難題を突きつけている。……ひとりよがりの個々の遺伝子が生き続けようとする,ということでは説明がつかない」。こうも述べています。「自分と同じ集団には属さず共通点も全くない人々のために,献身的に努力する人もいる。……これは,ダーウィンの理論では説明できないように思える」。

      「良心の声」

      5 人にはしばしばどんな特性が見られますか。

      5 コリンズ博士は,人間の利他的精神の一面,つまり「報いが何もなくても他者を助けるように促す良心の声」について述べています。a 「良心」という言葉は,使徒パウロが強調した次の事実を思い起こさせます。「律法を持たない諸国民の者たちが生まれながらに律法にある事柄を行なう場合,その人たちは律法を持ってはいなくても,自分自身が律法なのです。彼らこそ,律法の内容がその心に書かれていることを証明する者であり,その良心が彼らと共に証しをし,自らの考えの間で,あるいはとがめられ,あるいは釈明されさえしているのです」。―ローマ 2:14,15。

      6 すべての人が創造者に言い開きをしなければならないのはなぜですか。

      6 パウロはローマ人への手紙の中で,神の存在と特質は見える物を通して明らかなので,人間は神に言い開きをしなければならない,と説明しました。神の存在と特質は,「世界の創造以来」明らかにされているのです。(ローマ 1:18-20。詩編 19:1-4)とはいえ,多くの人は創造者を無視して放とうの道を歩んでいます。それでも神は,人間が神の義を認めて,悪い行ないを悔い改めることを願っておられます。(ローマ 1:22–2:6)ユダヤ人には,そうすべき十分の理由がありました。モーセを通して神の律法を与えられていたからです。しかし,「神の神聖な宣言」を与えられていなかった人々も,神の存在を認めるべきでした。―ローマ 2:8-13; 3:2。

      7,8 正義感は,どれほど一般的に見られますか。このことは何を示していますか。

      7 だれもが神を認めてふさわしく行動すべき重要な理由は,どんな人にも正邪に関する内奥の感覚があるということです。人に正義感があるのは,良心が備わっている証拠です。次のような場面を思い描いてみてください。幼い子どもたちが数人,ぶらんこに乗る順番を待っています。そこへ別の子が来て,待っている子たちを無視して列の一番前に割り込みます。すると,ほかの子たちは,『だめだよ! ずるいぞ』と言います。では,『子どもでも自然に正義感を表わすのはなぜだろう』と考えてみてください。子どものそのような反応は,内奥の道徳感覚の表われです。パウロは,「律法を持たない諸国民の者たちが生まれながらに律法にある事柄を行なう場合」と書きました。めったにないことのように,「もし行なうとしたら」とは言わず,「行なう場合」つまり『行なう時はいつでも』と言って,頻繁にあることとして述べたのです。確かに人々は,内奥の道徳感覚に促されて,神の律法に記されている事柄に調和した行動をする,という意味で,『生まれながらに律法にある事柄を行ない』ます。

      8 そうした道徳性は,多くの土地の人々に見られます。英国のケンブリッジ大学のある教授は,バビロニア人やエジプト人,ギリシャ人,オーストラリアのアボリジニー,アメリカ先住民の規範には,「抑圧,殺人,欺きや偽りなどを非とする言葉,老人,子ども,弱者に親切にするようにとの同じ命令」が含まれている,と述べています。またコリンズ博士も,「正邪の概念は,人類すべてに普遍的に見られるようだ」と書いています。こうした言葉は,ローマ 2章14節を思い起こさせるのではないでしょうか。

      良心 ― どのように機能するか

      9 良心とは何ですか。それは,行動する前にどのように助けになりますか。

      9 聖書によれば,良心とは,自分の行動を見て評価する内的能力のことです。あたかも自分の内なる声が,行動の仕方について正邪を述べるかのようです。パウロはこの内なる声について,「わたしの良心も聖霊によって共に証ししている」と言いました。(ローマ 9:1)例えばこの声は,道徳上の問題になりそうな行動をすべきかどうか考えるとき,事前に語る場合があります。その場合,良心は自分の行動を前もって評価するように促し,そのように行動すれば後でどういう気持ちになるか,を悟らせてくれることでしょう。

      10 良心は多くの場合,どのように働きますか。

      10 しかし,多くの場合に良心は,何かを行なった後で働きます。ダビデは,サウル王のもとから逃げていた時,神の油そそがれた王に対して不敬なことをする機会があり,実際にそうしてしまいました。後になって,「ダビデの心は彼を打って」いました。(サムエル第一 24:1-5。詩編 32:3,5)その記述に「良心」という言葉はありませんが,ダビデが感じたのはまさに良心のかしゃくでした。わたしたちも皆,良心の痛む思いをしたことがあります。何かをした後,そのことで苦しんだり悩んだりしました。ある人は,税金を納めなかったため非常に良心が痛み,後になって納めました。また,ある人は姦淫の罪を配偶者に告白するよう動かされました。(ヘブライ 13:4)そのように良心に従って行動すると,満ち足りた平安な気持ちになるものです。

      11 “良心を導きとする”だけでは危険な場合があるのはなぜですか。例を挙げてください。

      11 では,“良心を導きとする”だけでよいのでしょうか。もちろん良心に聴き従うのは良いことですが,良心の発するメッセージは人を間違った方向に導く場合もあります。そうです,「内なる人」の声が正しい導きにならないこともあるのです。(コリント第二 4:16)一つの例について考えてみましょう。聖書には,キリストの敬虔な追随者で「慈しみと力に満ちた」ステファノのことが述べられています。ユダヤ人たちがステファノをエルサレムの外に追い出し,石打ちにして殺した時,サウロ(後に使徒パウロとなった人)は,そばに立ち,ステファノの「殺害をよしとして」いました。それらのユダヤ人は,自分たちの行動は正しいと確信していたため,良心のとがめを感じなかったようです。サウロもそうであったに違いありません。その後「主の弟子たちに対する脅しと殺害の息をなおもはずませ(て)」行動したからです。明らかに,そのときサウロの良心は,正しい声を発してはいませんでした。―使徒 6:8; 7:57–8:1; 9:1。

      12 人の良心は,一つには何の影響を受けると考えられますか。

      12 サウロの良心は何の影響を受けていたのでしょうか。一つは,親しくしていた仲間たちの影響かもしれません。多くの人の経験することですが,ある父親に電話をかけた時,電話に出た息子の声が父親にそっくりだと思う場合があります。息子の声の特徴は,ある程度,遺伝によるものかもしれませんが,父親の話し方の影響も受けていることでしょう。サウロの場合も,親しくしていたユダヤ人がイエスを憎み,イエスの教えに反対していたので,その影響を受けていた,と考えられます。(ヨハネ 11:47-50; 18:14。使徒 5:27,28,33)そうです,サウロの仲間が,サウロの内で語る声つまり良心に影響を及ぼしていたかもしれないのです。

      13 人の良心は環境からどのような影響を受ける場合がありますか。

      13 人の話し方が,住んでいる土地の方言やなまりに影響されることがあるのと同じように,良心は,周囲に広く見られる文化や環境によって形作られる場合もあります。(マタイ 26:73)古代のアッシリア人の場合もそうであったに違いありません。アッシリア人は好戦的なことで知られ,捕虜を残酷に扱う様を描いた浮き彫りも残っています。(ナホム 2:11,12; 3:1)ヨナの時代のニネベ人は,「右も左も」わきまえない人々と描写されています。つまり,神の観点から見て何がふさわしく何がふさわしくないかを判断するための正しい規準を持っていなかったのです。ニネベで育った人の良心が,そのような環境からどれほど大きな影響を受けたか,考えてみてください。(ヨナ 3:4,5; 4:11)今日でも,良心は周囲の人々の態度から影響を受ける場合があります。

      内なる声の質を向上させる

      14 人間に良心が備わっていることは,創世記 1章27節の記述とどのように調和していますか。

      14 エホバがアダムとエバに良心という賜物をお与えになり,わたしたちは良心をその二人から受け継いでいます。創世記 1章27節によれば,人間は神の像に造られています。これは,神と同じような体を持つ者として造られたということではありません。神は霊であり,わたしたちは肉の体を持つ者だからです。神の像に造られているとは,自分の内に神の特性を備えているということです。その特性の一つが,よく機能する良心に調和した道徳感覚なのです。この事実は,わたしたちが自分の良心を強め,いっそう信頼できるものにするための方法を示しています。それは,創造者についてさらに学び,神にいっそう近づくことです。

      15 天の父を知ることから,どのような益が得られますか。

      15 聖書によれば,ある意味でエホバはわたしたちすべての父です。(イザヤ 64:8)忠実なクリスチャンは,天に行く希望を持っているか地上の楽園で生活する希望を持っているかにかかわらず,神を父と呼ぶことができます。(マタイ 6:9)わたしたちは天の父になおいっそう近づくことを願い,そのために神の見方や規準を学ぶべきです。(ヤコブ 4:8)多くの人は,そうすることに全く関心がありません。そのような人は,イエスから次のように言われたユダヤ人に似ています。「あなた方はいまだ父の声を聞いたことがなく,またその姿を見たこともありません。そして,あなた方のうちにはそのみ言葉がとどまっていません」。(ヨハネ 5:37,38)わたしたちは神の実際の声を聞いたことはありませんが,神のみ言葉を自分のうちにとどめることができ,そのようにして神に似た者となり,神と同じ気持ちを抱くことができます。

      16 良心を訓練し,良心に従って行動することについて,ヨセフに関する記述は何を教えていますか。

      16 そのことは,ヨセフに関する記述から明らかです。ヨセフはポテパルの家で,ポテパルの妻からの誘惑を受けました。当時はまだ聖書のどの部分も書かれておらず,十戒も与えられていませんでしたが,ヨセフは夫人に対して,「どうしてわたしはこの大きな悪行を犯して,まさに神に対して罪をおかすことなどできるでしょうか」と言いました。(創世記 39:9)そのように反応したのは,単に自分の家族を喜ばせるためではありません。家族からは遠く離れていました。神を喜ばせたいというのが主な動機だったのです。ヨセフは結婚に関する神の規準,つまり,一人の男性と一人の女性が結婚して二人は「一体」になる,ということを知っていました。さらに,アビメレクがリベカを既婚者と知って ― つまり,リベカをめとるのは間違っており,自分の民に罪科をもたらすことになると知って ― どう感じたかも,伝え聞いていたことでしょう。実際,エホバはその出来事の結末を祝福し,姦淫に対するご自分の見方を示されました。ヨセフはそうしたことすべてを知っていたので,受け継いだ良心の働きが強くなり,性の不道徳を退けるよう動かされたものと思われます。―創世記 2:24; 12:17-19; 20:1-18; 26:7-14。

      17 天の父に似るよう努めるうえでヨセフよりわたしたちのほうが恵まれている,と言えるのはなぜですか。

      17 言うまでもなく,今のわたしたちのほうが恵まれています。聖書全巻があり,そこから,天の父が何を是認し何を禁じておられるかということも含め,神のお考えや気持ちについて学べるのです。聖書に精通すればするほど,神に近づくことができ,神に似る者となれます。そうするにつれて,良心の命じる事柄はいっそう天の父の考えに近づくことでしょう。なおいっそう神のご意志と調和したものとなるのです。―エフェソス 5:1-5。

      18 過去にどんな影響を受けていたにしても,良心をいっそう信頼できるものにするために何ができますか。

      18 では,良心が環境によって形作られることについてはどうでしょうか。わたしたちの良心は,家族や親族の考え方や行動,また育った環境の影響を受けてきたかもしれません。そのため,良心の発するメッセージは,弱くて聞こえなくなったり,不正確になったりしたかもしれません。周囲の人々の“なまり”の影響を受けているからです。もちろん自分の過去を変えることはできません。しかし,これからは自分の良心に好ましい影響を及ぼす仲間や環境を選ぼう,と決意することはできます。肝要なのは,天の父に似る者となるよう長年努力してきた,熱心なクリスチャンと定期的に交わることです。会衆の集会は,前後の交わりも含め,そのための非常に優れた機会となります。仲間のクリスチャンの,聖書に基づく考え方や反応をよく観察できます。例えば,それらの人は良心が神の見方や方法に沿った反応を示すとき,その声にすぐに聴き従います。そうしたことを見聞きすることは,良心を聖書の諸原則に調和させ,自分を神の像に近づけてゆくのに役立ちます。内なる声を天の父の諸原則に合わせ,仲間のクリスチャンから良い影響を受けるようにすれば,良心はいっそう信頼できるものとなり,その声に聴き従おうという気持ちも強くなります。―イザヤ 30:21。

      19 良心に関して,ほかのどんな面に注意を向けるのは有益ですか。

      19 とはいえ,良心に従って行動するために日々努力している人もいます。次の記事では,クリスチャンの直面してきた幾つかの状況を考えます。そうした状況について考えるなら,良心がどんな働きをするか,人によって良心が異なるのはなぜか,どうすればその声にいっそうよく従って行動できるか,といった点をはっきり理解できるでしょう。―ヘブライ 6:11,12。

      [脚注]

      a ハーバード大学の天文学の研究教授オーエン・ギンゲリッチも,こう書いています。「利他的精神のことを考えれば,疑問も生じるだろう。……動物界を観察しても科学的な答えの得られない疑問である。ひょっとすると,もっと納得のゆく答えは別の分野にあり,良心も含め人間らしさを成す,神から与えられた数々の特性と関係があるのかもしれない」。

  • 良心に従って行動する
    ものみの塔 2007 | 10月15日
    • 良心に従って行動する

      「清い人たちにとってはすべてのものが清いのです。しかし,汚れた不信仰な人たちにとって清いものは何一つありません」。―テトス 1:15。

      1 パウロはどのようにクレタの諸会衆とかかわるようになりましたか。

      使徒パウロは3回の宣教旅行を終えたあと逮捕され,やがてローマへ送られて2年間拘禁されました。釈放されてから,どうしたでしょうか。ある時,テトスと一緒にクレタ島を訪れました。その後,テトスにあててこう書いています。『わたしはあなたをクレタに残しました。あなたが不備な点を正し,年長者たちを任命するためです』。(テトス 1:5)テトスに与えられたその務めには,人々の良心が関係していました。

      2 テトスはクレタ島でどんな問題を扱わなければなりませんでしたか。

      2 パウロはテトスに会衆の長老の資格について助言を与えた後,「無規律な者,無益なことを語る者,そして人の思いを欺く者……が多くいる」ことを指摘しました。それらの人が「教えるべきでないことを教えて,家族全体を覆して」いたので,テトスは『絶えず彼らを戒める』必要がありました。(テトス 1:10-14。テモテ第一 4:7)パウロは彼らの思いと良心が「汚れている」と述べた時,きれいな服が何かで汚れる場合のように,染みが付くという意味の言葉を用いました。(テトス 1:15)一部の人にはユダヤ教の背景があったのかもしれません。『割礼を堅く守っていた』からです。今日の諸会衆はその種の見解を持つ人たちによって損なわれているわけではありませんが,わたしたちはパウロがテトスに与えた助言から,良心について多くのことを学べます。

      良心が汚れている人たち

      3 パウロはテトスへの手紙の中で,良心に関してどんなことを述べましたか。

      3 パウロがどんな状況を踏まえて良心に言及したかに注目してください。こう述べています。「清い人たちにとってはすべてのものが清いのです。しかし,汚れた不信仰な人たちにとって清いものは何一つありません。彼らは思いも良心も汚れているのです。彼らは神を知っていると公言しますが,その業では神を否認しています」。明らかに,当時,『信仰の点で健全になる』ために変化を遂げる必要のある人々がいました。(テトス 1:13,15,16)清いものと清くないものとの違いを正しく識別できない状態にあり,そのことには彼らの良心が関係していました。

      4,5 クレタの諸会衆の一部の人々には,どんな問題点がありましたか。それは,どのような行動に表われましたか。

      4 それより10年余り前,クリスチャンの統治体は,どんな人も真の崇拝者となるために割礼を受ける必要はないとの結論を下し,そのことを諸会衆に知らせました。(使徒 15:1,2,19-29)ところがクレタには,依然として『割礼を堅く守っている』人たちがいました。統治体の決定に公然と異議を唱え,「教えるべきでないことを教えて」いたのです。(テトス 1:10,11)考え方がゆがんでいたため,食物と儀式上の清めに関する律法の規定を擁護していたのかもしれません。イエスの時代の宗教指導者たちのように,律法に書かれている事柄を誇張していただけでなく,ユダヤ人の説話や人間の命令も擁護していたのでしょう。―マルコ 7:2,3,5,15。テモテ第一 4:3。

      5 そのような考え方が,それらの人の判断力と道徳感覚,つまり良心に悪影響を及ぼしていました。「汚れた不信仰な人たちにとって清いものは何一つありません」とパウロは書いています。良心はひどくゆがんでしまい,行動や価値判断のための導きとして,もはや信頼できなくなっていました。しかも,個人的な事柄,すなわち,決定や選択が人によって異なってもかまわない事柄に関して,仲間のクリスチャンを裁いていました。つまり,クレタのそれらの人は,実際には清い事柄を清くないとみなしていたのです。(ローマ 14:17。コロサイ 2:16)神を知っていると言いますが,業においては,知らないということを示していました。―テトス 1:16。

      『清い人たちにとっては清い』

      6 パウロはどんな2種類の人々のことを述べていましたか。

      6 わたしたちは,パウロがテトスにあてて書いた事柄から,どのように益を受けられるでしょうか。次の陳述にある対比に注意してください。「清い人たちにとってはすべてのものが清いのです。しかし,汚れた不信仰な人たちにとって清いものは何一つありません。彼らは思いも良心も汚れているのです」。(テトス 1:15)もちろんパウロは,道徳的に清いクリスチャンにとっては,どんなこともみな清くて許される,と言ったのではありません。すでに別の手紙の中で,淫行,偶像礼拝,心霊術などを習わしにする人は『神の王国を受け継がない』とはっきり述べていたからです。(ガラテア 5:19-21)ですから,道徳的また霊的に清い人とそうでない人という2種類の人々について,一般的な真理を述べていたに違いありません。

      7 ヘブライ 13章4節は何を禁じていますか。しかし,どんな質問が生じるかもしれませんか。

      7 とはいえ,誠実なクリスチャンは聖書が明確に禁じている事柄だけを避ければよい,というわけではありません。一例として,次の率直な言葉について考えてみましょう。「結婚はすべての人の間で誉れあるものとされるべきです。また結婚の床は汚れのないものとすべきです。神は淫行の者や姦淫を行なう者を裁かれるからです」。(ヘブライ 13:4)クリスチャンではない人や聖書について何も知らない人でも,この言葉が姦淫を禁じていることは分かるでしょう。その聖句や他の聖句からも明らかですが,既婚者とその配偶者ではない人との性交を神は非としておられます。では,未婚の二人がオーラルセックス(口腔交接)を行なうことについては,どうでしょうか。これは性交ではないので害はない,と言う若者も少なくありません。クリスチャンはオーラルセックスを清いとみなせるでしょうか。

      8 オーラルセックスに対する見方の点で,クリスチャンは世の多くの人とどのように異なっていますか。

      8 ヘブライ 13章4節とコリント第一 6章9節は,神が姦淫と淫行(ギリシャ語,ポルネイア)の両方を非としておられることをはっきり示しています。では,淫行には何が含まれるのでしょうか。ポルネイアには,生殖器を自然な仕方であれ倒錯した仕方であれ,みだらな目的で用いることが関係しています。それには,聖書にかなった結婚関係という枠の外での,あらゆる形の不義の性関係が含まれます。ですから,オーラルセックスも淫行に含まれるのです。世界じゅうの多くの若者が,オーラルセックスは許されると聞かされてきたにしても,自分でそう考えるようになったにしても,淫行であることに変わりはありません。真のクリスチャンは,『無益なことを語る者や人の思いを欺く者』の意見を自分の考えや行動の導きとはしません。(テトス 1:10)もっと高い聖書の規準に付き従います。オーラルセックスを正当化しようとするのではなく,聖書的に見てそれがポルネイアつまり淫行であることを理解し,そうした理解に沿って自分の良心を訓練します。a ―使徒 21:25。コリント第一 6:18。エフェソス 5:3。

      声が異なれば,判断や決定も異なる

      9 「すべてのものが清い」と言える人の場合,良心はどのように働きますか。

      9 それにしても,パウロはどういう意味で「清い人たちにとってはすべてのものが清い」と言ったのでしょうか。パウロは,考え方や道徳感覚を神の規準に調和させたクリスチャンのことを述べていました。霊感によるみ言葉に記されている,神の規準に調和させたのです。そのようなクリスチャンは,はっきり非とされてはいない多くの事柄に関しては,信者たちの間にも見方の違いがあり得ることを認めています。批判的になるのではなく,神によって非とされてはいない事柄を「清い」と認めます。聖書中に明確な指示のない,生活上の事柄に関しては,他の人がみな自分と全く同じ考え方をすることを期待しません。具体的な例について考えてみましょう。

      10 結婚式(あるいは葬式)は,どのように問題となる場合がありますか。

      10 夫婦の片方だけがクリスチャンである家庭は少なくありません。(ペテロ第一 3:1; 4:3)その場合,親族の結婚式や葬式がある時など,様々な難しい問題の生じることがあります。未信者の夫を持つクリスチャンのことを考えてみてください。親族の一人が結婚することになり,式がキリスト教世界の教会で行なわれます。(あるいは,親か親族が亡くなって,葬式が教会で行なわれます。)その夫婦も招かれ,夫は妻と一緒に行きたいと思っています。妻の良心は,出席することについて何と言うでしょうか。妻はどうするでしょうか。二つの可能性が考えられます。

      11 妻の立場にある一人のクリスチャンは,教会での結婚式に出席すべきかどうかについて,どのように考え,どんな結論に至りますか。

      11 ロイスという女性は,偽りの宗教の世界帝国である『大いなるバビロンから出なさい』という聖書の重要な命令について思い巡らします。(啓示 18:2,4)かつては,結婚式の行なわれるその教会に属していたので,式の中で出席者全員が,祈りや歌や宗教的な動作などの宗教行為に加わるよう求められる,ということを知っています。それで,一切かかわるまいと決意しており,そこに行くことも,忠誠を曲げさせようとする圧力にさらされることも望みません。夫に,つまり自分の聖書的な頭に敬意を払っており,協力したいとは思いますが,聖書の諸原則に反して妥協したくはないのです。(使徒 5:29)そこで,夫の気持ちに配慮しながら,たとえあなたが出席するとしても,わたしは出席できない,ということを説明します。「出席しても何かの行為に加わろうとしなければ,あなたに気まずい思いをさせることになるので,わたしが出席しないほうがいいのではないかしら」と言うかもしれません。ロイスはそのように決定することにより,汚れのない良心を保ちます。

      12 教会での結婚式に招かれた場合,人によってはどのように考え,どのように応じるかもしれませんか。

      12 ルースという女性も,ロイスとほとんど同じ状況に置かれます。夫に敬意を払い,神に忠節を尽くそうと決意し,聖書で訓練された良心に従って行動します。ロイスが考慮したのと同じような点について考えた後,「ものみの塔」誌,2002年5月15日号の「読者からの質問」を祈りのうちに調べます。そしてルースは,3人のヘブライ人が,偶像礼拝の行なわれる場所にいるようにという命令に従っても,偶像礼拝の行為には全く加わらずに忠誠を保ったことを思い起こします。(ダニエル 3:15-18)そこで,夫と一緒に行くことにしますが,どんな宗教行為にも加わらないことを決意し,自分の良心に背かないように行動します。夫の気持ちに配慮しながらもはっきりと,自分の良心の許す事柄と自分ができない事柄を説明します。ルースは,夫が真の崇拝と偽りの崇拝との違いを理解してくれるようにと願っています。―使徒 24:16。

      13 二人のクリスチャンがそれぞれ異なる結論に達するとしても,心を乱す必要がないのはなぜですか。

      13 二人のクリスチャンがそれぞれ異なる結論に達する場合もあるということは,何を行なおうと問題にはならないとか,どちらかの良心が弱いということを示しているのでしょうか。いいえ,そうではありません。ロイスは,教会の儀式の際の音楽や装飾にまつわる過去の経験から,出席することは自分にとって特に危険だと感じるのかもしれません。また,宗教上の事柄についてかつて夫と話し合った時のことが,良心に影響を与えているのかもしれません。ですから,この決定が自分にとって最善なのだ,と確信しているのです。

      14 クリスチャンは,個人で決定すべき事柄に関して,どんなことを心に留めるべきですか。

      14 では,ルースの決定は良くないのでしょうか。それは他の人の言うべきことではありません。式には出席するが宗教行為はしない,というその決定を裁いたり批判したりすべきではありません。ある食物を食べるか食べないかに関する個人の決定について,パウロが与えた次の助言を心に留めましょう。「食べる者は食べない者を見下げてはならず,食べない者は食べる者を裁いてはなりません。……その人が立つも倒れるも,それはその主人に対してのことなのです。実際,その人は立つようにされるでしょう。エホバはその人を立たせることができるからです」。(ローマ 14:3,4)真のクリスチャンであれば,訓練された良心の導きを無視するよう他の人に勧めたいとは思わないはずです。良心の導きを無視することは,命にかかわる警告に耳を閉ざすようなものだからです。

      15 他の人の良心と感情を真剣に考慮すべきなのはなぜですか。

      15 前述の状況において,どちらのクリスチャンにも,さらに幾つかの考慮すべき点があります。その一つは,他の人に与える影響です。パウロは,「兄弟の前につまずきとなるものや転ぶもとになるものを置かないこと,これをあなた方の決意としなさい」と助言しています。(ローマ 14:13)ロイスは,以前にも同じような状況が生じて自分の家族や会衆の人々が心を乱されたことを知っているかもしれません。また,ロイスの行動はロイスの子どもたちに相当の影響を与えるとも考えられます。一方ルースは,以前にある人たちが自分と同じような選択をしても会衆や地域社会に動揺は生じなかった,ということを知っているかもしれません。どちらの女性も ― そして,わたしたちすべても ― 正しく訓練された良心は,他の人々に与える影響を敏感に察知する,ということを認めるべきです。イエスはこう言いました。「わたしに信仰を置くこれら小さな者の一人をつまずかせるのがだれであっても,その者にとっては,ろばの回すような臼石を首にかけられて,広い大海に沈められるほうが益になります」。(マタイ 18:6)他の人をつまずかせるという問題を無視する人は,クレタのクリスチャンのように,良心が汚れてしまうかもしれません。

      16 クリスチャンの内面には,時がたつにつれてどんな変化が生じると考えられますか。

      16 クリスチャンの霊的成長は,良心の声を聞いてそれに従う点で進歩してゆくにつれて,徐々に進んでゆくものです。バプテスマを受けて間もない,マークという人がいるとしましょう。マークの良心は,以前に携わっていた非聖書的な行ない,例えば偶像や血に関係した習わしを避けるようにと告げます。(使徒 21:25)実際,マークは,神の禁じておられることに何となく近いと感じる事柄さえ注意深く避けています。その一方で,ある種のテレビ番組など,自分は容認できると思うものを一部の人が見ようとしないのはどうしてなのか,よく分かりません。

      17 クリスチャンの良心と決定は,時間と霊的成長によってどのように影響を受ける場合がありますか。例を挙げて説明してください。

      17 時がたつにつれて,マークは知識において成長し,神に引き寄せられてゆきます。(コロサイ 1:9,10)それは,マークにどんな影響を与えるでしょうか。内なる声はかなりの訓練を受けます。マークは,以前よりも良心によく聴き従ったり聖書の諸原則を注意深く考えたりするようになっています。事実,神の禁じておられることに近いと感じて避けていた事柄の一部は,実際には神のお考えに反していない,ということを悟りました。それだけでなく,聖書の諸原則にいっそう自分を合わせ,よく訓練された良心に進んで従うようになった結果,現在では良心に動かされて,以前には容認できると思って見ていたテレビ番組も見なくなりました。そうです,マークの良心は精錬されたのです。―詩編 37:31。

      18 わたしたちにとって,どんなことは喜びですか。

      18 大抵どの会衆にも,クリスチャンとしての成長において様々な段階にある人がいます。信仰を持つようになったばかりの人もいます。恐らく,それらの人の良心は,ある種の問題に関してはほとんど何も言わないものの,他の問題については強く語ります。そのような人は,エホバの導きに自分を合わせ,自分自身の訓練された良心に従って行動するようになるために,時間と援助が必要かもしれません。(エフェソス 4:14,15)幸い,同じ会衆には,深い知識や,聖書の原則を適用する点での経験,また神のお考えによく調和した良心を持つ人が大勢いることでしょう。周りにそのような「清い人たち」がいるというのは,喜びではないでしょうか。それらの人は,主に受け入れられる事柄を道徳的また霊的に「清い」と見る人なのです。(エフェソス 5:10)わたしたちも皆,そこまで成長することと,真理の正確な知識と敬虔な専心にかなったそのような良心を保つこととを自分の目標にしてゆけますように。―テトス 1:1。

      [脚注]

      a 「ものみの塔」誌,1983年6月15日号,30,31ページには,夫婦に関して考慮できる注解が載せられています。

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