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    1988 エホバの証人の年鑑
    • ギレアデの卒業生たちが加勢する

      パイル兄弟は,サンホセ会衆の状況に関して協会に報告した際,業を監督するため,神権的手法にしっかりと従う一人の兄弟がコスタリカに派遣されることを要望しました。兄弟たちはそれを長く待つ必要はありませんでした。というのも,1943年12月23日に,ギレアデの第1期卒業生であるセオドア・ジーベンリストと妻のエルメナが到着したからです。コスタリカは,世界で最初にギレアデ卒業生を迎えた四つの国の一つになりました。

      ジーベンリスト兄弟には,組織に関するしっかりとした背景がありました。兄弟の父親は1913年,兄弟が生まれた二日後にバプテスマを受けました。兄弟の家は集会場所として使用され,兄弟は両親と共に小冊子の配布に携わりました。そして,1935年のワシントン特別区の大会でバプテスマを受けました。その後,1937年の大会でエルメナ・ダイニスと出会い,翌年結婚しました。

      ヨーロッパで依然として猛威を振るっていた第二次世界大戦の影響は,コスタリカでも感じられました。ですから,ジーベンリスト夫妻がサンホセに着いた時,至る所に生活の苦しさが表われていました。二人はひと月探し回ってついに,王国会館として使える部屋を備えたふさわしい宿舎をアパートの2階に見つけました。そのアパートは表通りから半区画入った都合のよい場所にあったので,だれでもすぐに見つけることができました。宿舎の一室は,王国会館を備えた支部事務所が1956年に建てられるまで,王国会館として使用されました。

      支部が設立される

      二人の宣教者が到着した約3か月後に,ものみの塔協会の3代目の会長ネイサン・H・ノアが同行者のミルトン・ヘンシェルと共に訪れました。協会の会長がコスタリカを訪問したのは,この時が初めてでした。文書の保管所は1944年1月にすでにシキレスからサンホセに移されており,同年3月,ノア兄弟は支部事務所を設立しました。これは,証言の業の指導を監督する組織上の転換点となりました。ノア兄弟は訪問中,さらに多くの宣教者たちが援助に来ることになっているので,もっと大きな宣教者の家を探すよう取り決めました。家はサンホセの北西部に見つかりました。

      続く2年間に,チャールズ・パーマーと妻のローラ・リー・パーマー,ウッドロー(“ウッディー”)・ブラックバーン,ドナルド・H・バート,ウィリアム・ユージン・コール,フランクリン・ハーディンと妻のエミリー・ハーディンが宣教者の家族に加わりました。これらの人たちは全員ギレアデ学校の卒業生です。何と多くの優れた助けなのでしょう。ドナルド・バートは,ホンジュラスに任命換えになり,後にペルーに移ったため,コスタリカに滞在したのはほんのわずかですが,今でもペルーで支部委員会の調整者として奉仕しています。

      サンホセにおける一致

      以前プエルト・リモンには分裂したグループがありましたが,サンホセにも同様のグループが別に存在していました。サンホセのそのグループはどうなったのでしょうか。ジーベンリスト兄弟は一致を促進しました。「正しい方法で行なわないのであれば,何もしないほうがよい」というのが同兄弟のモットーでした。

      ジーベンリスト兄弟が作成した協会に対する1944年の年次報告は,進歩が見られたことで異彩を放っていました。ジーベンリスト兄弟はこのように書いています。「コスタリカのスペイン語を話す兄弟たちは現在75人ほどで,私たちがここに到着した12月には分裂しており,その前の月までサンホセの二つの王国会館を維持してきました。私たちは到着してすぐ,一致して同じ王国会館で定期的に集まるよう二つのグループに呼びかけました。最初の集会には,両方のグループから合わせて30人ほどの人々が出席しました。ところが今では,主の慈しみによって,地元の組織は実に円滑に機能しており,グループも60人ほどに増加しました」。

      翌年の4月までに,コスタリカの伝道者は223人の新最高数に達していました。ジーベンリスト夫妻が2年ほど前に到着した時には,約120人の伝道者が英語を話す四つの会衆とスペイン語を話す二つの会衆を構成していたことを考えると,実にすばらしい増加があったと言えます。

      兄弟たちの僕

      ジーベンリスト兄弟は,コスタリカに来た最初の1年間,兄弟たちの僕(巡回監督)として仕えました。そして,遠方で旅行が困難だったにもかかわらず,六つの会衆と関心を持つ孤立した人たちを訪問しました。その後,幾人もの宣教者たちが到着したので,諸会衆を何度も訪問できるようになりました。

      宣教者のブラックバーン兄弟は,兄弟たちの僕として英語を話す七つの会衆を3週間にわたって訪問した後,このように報告しました。「これらの兄弟たちが神権政府に対して示した熱意と愛は称賛に値します。兄弟たちは経済的に貧しいにもかかわらず,協会の僕たちを家に迎え入れ,自分たちに差し出せる最良のものを与える点で実に寛大です。兄弟たちは柔和で,指示を求め,再訪問や聖書研究を行なうために暑さやぬかるみの中を何マイルも歩かなければならないとしても不平をこぼしません」。

      このような報告をしてから40年近くたった今でも,ブラックバーン兄弟は引き続き全時間奉仕を行なっており,家族と共にニカラグア,ホンジュラス,メキシコで奉仕してきました。

      兄弟たちの僕の訪問は,会衆だけでなく,地域住民からも感謝されました。1946年に,フランクリン・ハーディン(指圧師だったので,“ドック(医師の意)”・ハーディンという名前のほうがよく知られている)と妻のエミリーがプエルト・リモンを訪れ,地元の新聞はこのように論評しました。「著名な人物が非常に感じのよい夫人を伴ってやって来た。二人は我々にとって初めての人たちだが,二人に会った瞬間から,魅力的で忘れ難い印象を受ける。また,二人の話の神髄は,長年の知り合いの話のように,我々を富ませ,我々に喜びを与える。我々は,その人物が自分の携える音信を裏づけるために引用する数多くの聖句の後を吸い込まれるようにたどった」。

  • コスタリカ
    1988 エホバの証人の年鑑
    • [213ページの図版]

      宣教者たちの最初のグループ。前列左から: チャールズ・パーマー,ローラ・リー・パーマー,エルメナ・ジーベンリスト,1944年から1952年まで支部の僕を勤めたセオドア・ジーベンリスト。後列左から: ウィリアム・ユージン・コール,ドナルド・バート,“ウッディー”・ブラックバーン

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