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コスタリカ1988 エホバの証人の年鑑
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サンホセ会衆
サンホセのスペイン語を話す会衆はどのようにして形成されたのでしょうか。英語による集会は第一次世界大戦当時から,1912年に真理を学び,後に主宰監督になったウィリアムズ兄弟の家で開かれていました。ウィリアムズ兄弟は以前,ある福音派教会の信徒説教師をしており,夫人はその教会でオルガンを演奏していました。その当時,首都サンホセには英語を話す人々がほとんど住んでいなかったので,成長はゆっくりとしたものでした。
ところが,スペイン語の文書が入手できるようになると,宣べ伝える業は容易になり,1931年までに,スペイン語を話す人々から成る10人ないし12人のグループが個人の家で集まっていました。その中の一人にフェリペ・サルメロンがいます。フェリペは太平洋沿岸のプンタレナスという港でも証言を行ないました。ついに,30年以上かかって,真理がこの国を横断したのです。
1941年の終わりごろに,パイル兄弟が監督としてウィリアムズ兄弟の後を継ぐため,シキレスからサンホセに派遣されました。そのころ,会衆はフラビオ・ロメロの家で集会を開くようになっており,協会は,開拓者であったフロレンシオ・ペレスを通して会衆と連絡を取っていました。
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コスタリカ1988 エホバの証人の年鑑
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ですから,ジーベンリスト夫妻がサンホセに着いた時,至る所に生活の苦しさが表われていました。二人はひと月探し回ってついに,王国会館として使える部屋を備えたふさわしい宿舎をアパートの2階に見つけました。そのアパートは表通りから半区画入った都合のよい場所にあったので,だれでもすぐに見つけることができました。宿舎の一室は,王国会館を備えた支部事務所が1956年に建てられるまで,王国会館として使用されました。
支部が設立される
二人の宣教者が到着した約3か月後に,ものみの塔協会の3代目の会長ネイサン・H・ノアが同行者のミルトン・ヘンシェルと共に訪れました。協会の会長がコスタリカを訪問したのは,この時が初めてでした。文書の保管所は1944年1月にすでにシキレスからサンホセに移されており,同年3月,ノア兄弟は支部事務所を設立しました。これは,証言の業の指導を監督する組織上の転換点となりました。ノア兄弟は訪問中,さらに多くの宣教者たちが援助に来ることになっているので,もっと大きな宣教者の家を探すよう取り決めました。家はサンホセの北西部に見つかりました。
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コスタリカ1988 エホバの証人の年鑑
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サンホセにおける一致
以前プエルト・リモンには分裂したグループがありましたが,サンホセにも同様のグループが別に存在していました。サンホセのそのグループはどうなったのでしょうか。ジーベンリスト兄弟は一致を促進しました。「正しい方法で行なわないのであれば,何もしないほうがよい」というのが同兄弟のモットーでした。
ジーベンリスト兄弟が作成した協会に対する1944年の年次報告は,進歩が見られたことで異彩を放っていました。ジーベンリスト兄弟はこのように書いています。「コスタリカのスペイン語を話す兄弟たちは現在75人ほどで,私たちがここに到着した12月には分裂しており,その前の月までサンホセの二つの王国会館を維持してきました。私たちは到着してすぐ,一致して同じ王国会館で定期的に集まるよう二つのグループに呼びかけました。最初の集会には,両方のグループから合わせて30人ほどの人々が出席しました。ところが今では,主の慈しみによって,地元の組織は実に円滑に機能しており,グループも60人ほどに増加しました」。
翌年の4月までに,コスタリカの伝道者は223人の新最高数に達していました。ジーベンリスト夫妻が2年ほど前に到着した時には,約120人の伝道者が英語を話す四つの会衆とスペイン語を話す二つの会衆を構成していたことを考えると,実にすばらしい増加があったと言えます。
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