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コスタリカ1988 エホバの証人の年鑑
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漁師から人をすなどる者へ
1940年にジョゼフィン・スティール姉妹は,プエルト・リモンのすぐ北に位置するモインを訪れました。証言を始めるため,モインの鉄道の駅に蓄音機を設置しました。そして,クランクを何回も力強く回して蓄音機のねじを巻き,ラザフォード判事の話を録音したレコードの最初の溝に注意深く針を載せて始動のスイッチを入れました。「宗教はわなであり,商売である」と,蓄音機から声が鳴り響き,大勢の男たちが寄って来ました。その中の一人ビンセンテ・サンギネティは,友人の漁師シルバート・スペンスを呼びにやりました。ズボンをまくり上げていたシルバートが一群の聴衆に近づいて来ました。それから,両手を腰に当てて,友人のビンセンテのほうを向き,「だれがしゃべっているんだい」と尋ねました。
「あの判事だよ,ばかだなあ」と,ビンセンテは答えました。ビンセンテは,ものみの塔協会の2代目の会長であるジョセフ・F・ラザフォードのことを言ったのです。
ビンセンテはすでにラザフォード兄弟の本を何冊か読んでいたので,シルバートと共に聖書に関する質問をしてジョゼフィンを一日中忙しくさせました。ビンセンテはジョゼフィン・スティール姉妹に,ある日,猛烈なあらしの海で主に助けを祈り求め,生き延びたら主にお仕えすると約束したことを話しました。神に対して約束を果たしたいというビンセンテの気持ちは変わっていませんでしたが,女性と麻薬が悩みの種となっていました。これら二人の男性との聖書研究が始まり,二人はその後まもなく,1940年9月21日にバプテスマを受けました。また,シルバートの妻のバルミナもその同じ日にバプテスマを受けました。
「ペテロとアンデレに対するイエスの言葉が自分に当てはまっているのを理解するようになるにつれ,私の喜びは増し加わるようになりました。私は人をすなどるようになったのです」と,シルバートは述べています。協会の特別な代表者として訪問したジョシュア・スティールマンは,「ハルマゲドンがドアをノックしているというのに,あなたはいつ開拓奉仕を始めるつもりですか」とシルバートに尋ねました。シルバートは時の緊急性を知り,妻のバルミナと共に1948年11月から開拓奉仕を始めました。
シルバートはスペイン語を話すのが苦手でしたが,スペイン語の巡回区の巡回監督に任命されました。最初は,すべて英語で話し,だれかが通訳していました。ある時,スペイン語を話す一人の兄弟がシルバートをこのように励ましました。「シルバート兄弟,ご自分のスペイン語について心配しないでください。兄弟が気にしているのは分かりますが,それでも私たちは兄弟から真理をもっと容易に学ぶことができます」。確かに,愛には言語の障壁はありません。
シルバートの妻は,1974年に亡くなるまで,夫と共に巡回奉仕を忠実に行ないました。シルバートは,支部委員の一人として忠実に仕え,1985年5月に亡くなりました。
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コスタリカ1988 エホバの証人の年鑑
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[225ページの図版]
シルバート・スペンスはラザフォード兄弟の「宗教はわなであり,商売である」というレコードに動かされて,1948年から妻のバルミナと共に開拓奉仕を始め,1985年5月に亡くなるまで支部委員を勤めた
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