ものみの塔 オンライン・ライブラリー
ものみの塔
オンライン・ライブラリー
日本語
  • 聖書
  • 出版物
  • 集会
  • チェコ共和国
    2000 エホバの証人の年鑑
    • 1945年11月,ミュラー兄弟を支部の監督に任命する正式な手紙が届きました。

  • チェコ共和国
    2000 エホバの証人の年鑑
    • 大会自体は妨害されませんでした。しかし,11月28日,日曜日の午後にボフミル・ミュラーが公開講演を行なった時,ホールの後部座席の幾つかは,私服を着た国家保安局の局員たちに陣取られていました。その日,ミュラー兄弟が夕食を取っている時,カルロビバリ会衆の監督オルドジフ・スクピナが兄弟を見つけると,国家保安局が数人の兄弟たちの家を捜索し,文書を押収していったと血相を変えて伝えました。

      ミュラー兄弟がプラハ・ベテルに電話しても,だれも出ませんでした。そこでも何か深刻な事態の起こっていることが明らかでした。兄弟はすぐプラハに戻りました。しかし,ベテルの建物の近くに来たところで,ベテル・ホームを見張っている二人の労働者を装った男が見えました。ベテルで,ミュラー兄弟は一人の兄弟から,国家保安局の局員が数人来て建物全体を捜索し,事務所を封鎖していったという報告を聞きました。到着してから45分もたたないうちに,ベテル・ホームに内務省の職員が二人現われ,この建物も差し押さえられたと発表しました。ミュラー兄弟はそれに抗議し,差し押さえには裁判所命令が必要だと指摘しました。二人が帰った後,兄弟は国家保安局が見つけなかったファイル数冊を両親の家にうまく移すことができました。しかし,ベテルに戻ってみると,国家保安局の局員が一人,逮捕状を持って待っていました。そしてミュラー兄弟と,共にいた二人の姉妹が逮捕されました。ベテル家族の他の成員はすでに逮捕された後でした。

      裁判所命令がそれほどすぐ出たのでしょうか。いいえ,そうではありませんでした。数か月後,兄弟たちが拘置されている時に,その中の一人だったカピヌス兄弟は手紙を受け取りました。その中には,協会の活動を中止させ,その資産を没収するという内務省の決定書が同封されており,その日付は,一連の事件の起こった4か月後の1949年4月4日になっていました。

      7月,国の裁判所はそうした行動を取ったにもかかわらず,兄弟たちに対する刑事訴訟手続きを,証拠不十分を理由として中止しました。兄弟たちは裁判前の拘置状態から解放されました。しかしそれでも,裁判所の建物から自由な身分で出ることにはなりませんでした。内務省から来た二人の職員が兄弟たちを引き止め,共産党政治委員会の決定により,お前たちは強制労働収容所に2年間送られることになると言いました。法的な手続きで行なえなかった事柄は,ただ専制的な命令だけで行なわれたのです。ミュラー兄弟はクラドノに輸送され,そこにある炭鉱で働きました。

日本語出版物(1954-2026)
ログアウト
ログイン
  • 日本語
  • シェアする
  • 設定
  • Copyright © 2025 Watch Tower Bible and Tract Society of Pennsylvania
  • 利用規約
  • プライバシーに関する方針
  • プライバシー設定
  • JW.ORG
  • ログイン
シェアする