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「苦難の時」を逃れるのはだれですかものみの塔 1992 | 5月1日
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3 この地に平和が来る前に,エホバのどんな行動が生じなければなりませんか。
3 その平和は,たいていの人が考えるよりも近づいています。しかし,まず堕落した世に対するエホバの裁きの執行が到来しなければなりません。神の預言者ゼパニヤはこう宣言します。「エホバの大いなる日は近い。それは近い。しかも非常に急いでやって来る」。それはどんな種類の日なのでしょうか。その預言の続きにはこうあります。「エホバの日の響きは悲痛である。そこでは,力ある者も叫び声を上げる。その日は憤怒の日,苦難と苦もんの日,あらしと荒廃の日,闇と陰うつの日,雲と濃い暗闇の日,角笛と警報の日であり,防備の施された都市を攻め,隅の高い塔に攻め寄せる。こうしてわたしは人々に苦難を臨ませる。彼らは必ず盲人のように歩き回るであろう。エホバに対して罪をおかしたためである」。―ゼパニヤ 1:14-17。ハバクク 2:3; 3:1-6,16-19もご覧ください。
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「苦難の時」を逃れるのはだれですかものみの塔 1992 | 5月1日
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『求めよ,求めよ,求めよ』
8 (イ)預言者ゼパニヤによると,エホバは救いのために何を要求しておられますか。(ロ)ゼパニヤ 2章3節の「恐らく」という言葉は,わたしたちにどんな警告を伝えていますか。
8 聖書のゼパニヤ 2章2節と3節に注意を向けると,エホバが救いのために何を要求しておられるかがこう述べられています。「エホバの燃える怒りがあなた方に臨まないうち,エホバの怒りの日があなた方に臨まないうちに,地の柔和な者たち,神の司法上の定めを守り行なってきたすべての者たちよ,エホバを求めよ。義を求め,柔和を求めよ。恐らくあなた方はエホバの怒りの日に隠されるであろう」。「恐らく」という言葉に注目してください。これは,一度の救いは永久の救いというような問題ではないのです。その日に隠されるかどうかは,わたしたちがそれら三つの事柄を行ない続けるかどうかにかかっているのです。エホバを求め,義を求め,柔和を求めなければなりません。
9 柔和を求める者たちはどのように報いを受けますか。
9 柔和を求めることには実にすばらしい報いがあります。詩編 37編9節から11節にはこう書かれています。「エホバを待ち望む者たちは,地を所有する者となる……。そして,ほんのもう少しすれば,邪悪な者はいなくなる。……しかし柔和な者たちは地を所有し,豊かな平和にまさに無上の喜びを見いだすであろう」。では,義を求めることについてはどうですか。29節は,「義なる者たちは地を所有し,そこに永久に住むであろう」と述べています。エホバを求めることについて,39節と40節はわたしたちにこう告げています。「義なる者たちの救いはエホバから来る。神は苦難の時の彼らの要塞である。そして,エホバは彼らを助けて,逃れさせてくださる。彼らを邪悪な者たちから逃れさせ,救ってくださる。彼らが神のもとに避難したからである」。
10 エホバを求め,柔和を求めることを拒む点で顕著な者となってきたのはだれですか。
10 キリスト教世界の諸宗派はエホバを求め損なってきました。その僧職者はエホバの貴いみ名をはねつけることさえし,せん越にも聖書翻訳からみ名を取り除いています。彼らは,名前のない主または神を崇拝したり,異教的な三位一体の神をあがめたりするほうを好みます。さらに,キリスト教世界は義を求めていません。その信者の多くは,何でも大目に見る生活様式を自ら取り入れるか,または唱道しています。イエスがなさったように柔和を求めるよりはむしろ,例えばテレビを通して,ぜいたくで,多くの場合不道徳な生活を見せびらかしています。僧職者たちは自分の群れを犠牲にして肥え太っています。ヤコブ 5章5節の言葉によれば,彼らは「地上でぜいたくに暮らし,肉欲の快楽にふけって」きました。エホバの日が近づくにつれ,彼らは霊感による次の言葉が自分たちに当てはまることを悟るに違いありません。「貴重な品は憤怒の日に何の益にもならない」― 箴言 11:4。
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