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あなたはエホバの日を迎える用意ができていますかものみの塔 1997 | 3月1日
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あなたはエホバの日を迎える用意ができていますか
「エホバの大いなる日は近い。それは近い。しかも非常に急いでやって来る」― ゼパニヤ 1:14。
1 聖書はエホバの日をどのように描写していますか。
エホバの『畏怖の念を抱かせる大いなる日』は,間もなく,今の邪悪な事物の体制に臨みます。聖書は,エホバの日を,戦闘の日,また暗闇,憤怒,苦難,苦もん,警報,荒廃の日として描写しています。しかし,生き残る人々がいます。「エホバの名を呼び求める者はみな安全に逃れる」からです。(ヨエル 2:30-32。アモス 5:18-20)そうです,神はその時,敵対する者たちを滅ぼし,ご自分の民を救われるのです。
2 なぜわたしたちはエホバの日について切迫感を抱いているべきですか。
2 神の預言者たちは,エホバの日について切迫感を込めて語りました。ゼパニヤは,「エホバの大いなる日は近い。それは近い。しかも非常に急いでやって来る」と書きました。(ゼパニヤ 1:14)状況は今日いよいよ切迫しています。なぜなら,神の主要な刑執行者である王イエス・キリストは今にも『剣を股に帯び,真理と謙遜と義のために乗り進もう』としておられるからです。(詩編 45:3,4)あなたはその日を迎える用意ができていますか。
彼らは大きな期待を抱いた
3 テサロニケのクリスチャンの中にはどんな期待を抱く人がいましたか。どんな二つの理由でその人々は間違っていましたか。
3 エホバの日を期待しながらその成就を見なかった人たちは少なくありません。初期のクリスチャンでテサロニケにいた人たちの中には,「エホバの日が来ている」と言う人がいました。(テサロニケ第二 2:2)しかし,その日はまだ近づいてはいなかったと言うべき基本的な理由が二つありました。その一つに触れて使徒パウロは,「人々が,『平和だ,安全だ』と言っているその時,突然の滅びが……彼らに突如として臨みます」と述べていました。(テサロニケ第一 5:1-6)今この「終わりの時」にあって,わたしたちがその言葉の成就を待っているのです。(ダニエル 12:4)それらテサロニケの人々は,別の点からしても,エホバの大いなる日が到来しているとは言えませんでした。パウロは彼らに,「まず背教が来て……からでなければ,それは来ない」と告げているからです。(テサロニケ第二 2:3)パウロがこの言葉を書き記した時(西暦51年ごろ),真のキリスト教からの「背教」はまだ全面的には進展していませんでした。今日,キリスト教世界においてその背教が大々的に広がっているのが見られます。しかし,期待どおりにならなかったとしても,テサロニケの忠実な油そそがれた者たちは,死に至るまで忠実に神に仕えつづけて,ついには天の報いを受けました。(啓示 2:10)わたしたちも,エホバの日を待ちつつ忠実を保つなら,報いを受けるでしょう。
4 (イ)テサロニケ第二 2章1,2節で「エホバの日」は何と結びつけられていますか。(ロ)いわゆる教会教父たちは,キリストの帰還とそれに関連する事柄についてどんな見方をしていましたか。
4 聖書は「エホバの大いなる日」を「わたしたちの主イエス・キリストの臨在」と結びつけています。(テサロニケ第二 2:1,2)いわゆる教会教父たちは,キリストの帰還,臨在,千年統治などについて様々な考えを持っていました。(啓示 20:4)西暦2世紀,ヒエラポリスのパピアスは,キリストの千年統治の期間中に地は信じ難いほど肥沃になる,という期待を抱いていました。殉教者ユスティヌスは,イエスの臨在について繰り返し語り,エルサレムが復興されてイエスの王国の首府になることを期待しました。リヨンのイレナエウスは,ローマ帝国が滅びた後にイエスが目に見える姿で現われて,サタンを縛り,地上のエルサレムで統治する,と教えました。
5 ある学者たちはキリストの「再臨」や千年統治について何と述べてきましたか。
5 歴史家フィリップ・シャフが述べるところによれば,西暦325年のニケア公会議以前の時代で「最も注目すべき点」は,「人類一般の復活と裁きに先立ち,キリストが地上において,よみがえった聖徒たちと共に,目に見える姿で千年のあいだ栄光のうちに統治するという信条」でした。ジェームズ・ヘースティングズの編集した「聖書辞典」はこう述べています。「テルトゥリアヌス,イレナエウス,ヒッポリュトスは依然,[イエス・キリストが]すぐにも来臨するものと見ている。しかし,アレクサンドリアの教父たちの時からは新しい考え方に入る。……アウグスティヌスが千年期を闘う教会の時代とした時から,再臨は遠い将来のこととされるようになった」。
エホバの日とイエスの臨在
6 エホバの日は遠い先のことと結論すべきでないのはなぜですか。
6 誤った概念は失望をもたらしましたが,わたしたちはエホバの日を遠い先のことと考えないようにしましょう。その日は聖書の中で目に見えないイエスの臨在と結びつけられており,その臨在はすでに始まっています。「ものみの塔」誌およびそれに関連したエホバの証人の出版物は,キリストの臨在が1914年に始まったことを示す聖書的な証拠を幾度も提出してきました。a では,イエスはご自分の臨在について何と言われたでしょうか。
7 (イ)イエスの臨在と事物の体制の終結のしるしにはどんなことがありますか。(ロ)わたしたちはどうすれば救われますか。
7 イエスの臨在のことは,イエスの死の少し前に一つの話題として取り上げられました。使徒のペテロ,ヤコブ,ヨハネ,アンデレは,イエスがエルサレムの神殿の滅びについて予言されるのを聞いたあと,こう尋ねました。「そのようなことはいつあるのでしょうか。そして,あなたの臨在と事物の体制の終結のしるしには何がありますか」。(マタイ 24:1-3。マルコ 13:3,4)それに答えてイエスは,戦争,飢きん,地震,その他ご自分の臨在と事物の体制の終結の「しるし」となる物事を予告されました。また,「終わりまで耐え忍んだ人が救われる者です」とも言われました。(マタイ 24:13)わたしたちは,自分の今の命の終わりまで,あるいはこの邪悪な体制の終わりまで忠実に耐え忍ぶなら,救われるでしょう。
8 ユダヤ人の体制が終わる前に何が成し遂げられることになっていましたか。今日この点でどんなことが行なわれていますか。
8 終わりが来る前に,イエスの臨在に伴うとりわけ重要な特色が成就することになっていました。それについてイエスはこう言われました。「王国のこの良いたよりは,あらゆる国民に対する証しのために,人の住む全地で宣べ伝えられるでしょう。それから終わりが来るのです」。(マタイ 24:14)パウロは,西暦70年にローマ人がエルサレムを滅ぼしてユダヤ人の事物の体制が終わる前に,良いたよりが「天下の全創造物の中で宣べ伝えられた」と言うことができました。(コロサイ 1:23)しかし今日,はるかに広範に及ぶ宣べ伝える業がエホバの証人によって「人の住む全地」で行なわれています。ここ数年の間,神は,東ヨーロッパで大々的な証しを行なうための道を開いてこられました。エホバの組織は世界中に印刷その他の施設を備え,「手のつけられていない区域」にも活動を増し加えてゆく用意を整えています。(ローマ 15:22,23)あなたの心は,終わりが来る前に証しを行なう点で最善を尽くすようあなたを動かしますか。もしそうなら,神はあなたを強めて,報いあるかたちで前途の業にあずかれるようにすることがおできになります。―フィリピ 4:13。テモテ第二 4:17。
9 マタイ 24章36節に記録されているとおり,イエスはどんな点を指摘しましたか。
9 予告された,王国を宣べ伝える業と,イエスの臨在のしるしの他の面は,今まさに成就しつつあります。ですから,この邪悪な事物の体制の終わりは近づいているのです。確かにイエスは,「その日と時刻についてはだれも知りません。天のみ使いたちも子も知らず,ただ父だけが知っておられます」と言われました。(マタイ 24:4-14,36)しかしイエスの預言は,わたしたちが「その日と時刻」を迎える用意をするのに助けになります。
彼らは用意ができていた
10 霊的に目ざめていることは可能であるとどうして言えますか。
10 エホバの大いなる日を生き残るには,霊的に目ざめていて,真の崇拝のためにしっかり立たなければなりません。(コリント第一 16:13)そのように耐え忍んでゆくのは可能であることをわたしたちは知っています。一つの敬虔な家族がそのようにして,西暦前2370年に邪悪な人間たちを滅ぼした洪水を生き残ったからです。イエスはその時代をご自分の臨在と比べながらこう言われました。「人の子の臨在はちょうどノアの日のよう……です。洪水前のそれらの日,ノアが箱船に入る日まで,人々は食べたり飲んだり,めとったり嫁いだりしていました。そして,洪水が来て彼らすべてを流し去るまで注意しませんでしたが,人の子の臨在の時もそのようになるのです」― マタイ 24:37-39。
11 ノアは,その当時見られた暴虐にもめげず,どんな道を追い求めましたか。
11 ノアとその家族は,わたしたちと同様,暴虐の世に住んでいました。不従順なみ使いであった「まことの神の子ら」は物質の体を備えて現われ,妻をめとって悪名高いネフィリムを生み出しました。それらネフィリムはならず者であり,当時の状況をいよいよ暴虐的なものにしていたに違いありません。(創世記 6:1,2,4。ペテロ第一 3:19,20)しかし,信仰のうちに「ノアはまことの神と共に歩(み)」ました。ノアは「同時代の人々[つまり,当時の邪悪な世代]の中にあってとがのない者とな(り)」ました。(創世記 6:9-11)わたしたちも,エホバの日を待ちつつ,祈りのうちに神に依り頼みながら,この暴虐と邪悪の世にあって同じようにすることができます。
12 (イ)ノアは箱船を建造しつつどんな業を行ないましたか。(ロ)人々はノアの宣べ伝えることにどう反応しましたか。彼らにとって結果はどうなりましたか。
12 ノアは,箱船を建造して生物が大洪水を切り抜けて存続できるようにした人としてよく知られています。ノアは「義の伝道者」でもありましたが,同時代の人々は,神から与えられたその音信に「注意しません」でした。人々は食べたり飲んだりし,また結婚して家族を設け,生活上の普通の営みを続け,ついに洪水によってすべてが流し去られました。(ペテロ第二 2:5。創世記 6:14)彼らは廉直な話や行ないについて聞くことを望みませんでした。今日の邪悪な世代も,「神に対する悔い改め」,キリストに対する信仰,義,「来たるべき裁き」などに関してエホバの証人の語る事柄に耳をふさいでいます。(使徒 20:20,21; 24:24,25)ノアが神の音信を宣明していた当時,地上にどれほどの数の人がいたかについて,入手できる記録はありません。しかし,一つのことは確かです。地上の人口は西暦前2370年に激減したのです。大洪水は邪悪な人々を一掃しました。命を救われたのは,神のその行動に対して用意のできていた人たち,ノアとその7人の家族だけでした。―創世記 7:19-23。ペテロ第二 3:5,6。
13 ノアはどんな司法上の布告に全き確信を抱きましたか。そして,その布告に即してどのように行動しましたか。
13 神は,洪水の起きる厳密な日と時刻について何年も前にノアに知らせておられたわけではありません。しかし,ノアが480歳だった時,エホバはこう布告なさいました。「わたしの霊が人に対していつまでも定めなく働くことはない。彼はやはり肉であるからだ。したがってその日数は百二十年となる」。(創世記 6:3)ノアは神のこの司法上の布告に全き確信を抱きました。ノアは500歳になって後に,「セム,ハム,ヤペテの父となった」のです。しかも,当時の習慣からすると,ノアの息子たちは50歳か60歳になってから結婚したようです。ノアが,洪水を切り抜けて生き延びるための箱船を建造するように告げられた時,それら息子とその妻たちもその努力を助けたものと思われます。箱船の建造は「義の伝道者」としてのノアの奉仕と並行して行なわれ,ノアにとって洪水前の最後の40年ないし50年は多忙な日々だったことでしょう。(創世記 5:32; 6:13-22)その年月の間ずっと,ノアとその家族は信仰のうちに行動しました。わたしたちも,良いたよりを宣べ伝えてエホバの日を待ちつつ,信仰を表明してゆきましょう。―ヘブライ 11:7。
14 エホバはやがてノアに何をお告げになりましたか。それはなぜですか。
14 ノアは洪水がいつ起きるかを厳密には知らなかったとはいえ,箱船の完成が近づくにつれ,それが差し迫っていると考えたことでしょう。やがてエホバはノアに,「あと七日のうちに,わたしは四十日四十夜地に雨を降らせる」とお告げになりました。(創世記 7:4)それはノアとその家族にとって,洪水の始まる前にあらゆる種類の動物を箱船に入れ,自分たちもそこに入るのに足りるだけの時間でした。わたしたちとしては,この体制の滅びが始まる日と時刻を知る必要はありません。動物を生き残らせる仕事は託されていませんし,生き残る人々はすでに象徴的な箱船の中,神の民の霊的なパラダイスに入っているからです。
「ずっと見張っていなさい」
15 (イ)マタイ 24章40-44節のイエスの言葉を,自分の言葉でどのように説明できますか。(ロ)神の復しゅうを果たすためにイエスの来られる厳密な時を知らないことは人にどう影響しますか。
15 イエスはご自分の臨在に関してこう説明されました。「その時二人の男が野にいるでしょう。一方は連れて行かれ,他方は捨てられるのです。二人の女が手臼をひいているでしょう。一方は連れて行かれ,他方は捨てられるのです。それゆえ,ずっと見張っていなさい。あなた方は,自分たちの主がどの日に来るかを知らないからです。しかし,一つのことを知っておきなさい。家あるじは,盗人がどの見張り時に来るかを知っていたなら,目を覚ましていて,自分の家に押し入られるようなことを許さなかったでしょう。このゆえに,あなた方も用意のできていることを示しなさい。あなた方の思わぬ時刻に人の子は来るからです」。(マタイ 24:40-44。ルカ 17:34,35)わたしたちは,イエスが神の復しゅうを果たすために来られる厳密な時を知らないからこそ,常に目を覚ましていて,無私の動機でエホバに仕えていることを日ごとに実証してゆくのです。
16 「捨てられる」人々と「連れて行かれ(る)」人たちはそれぞれどうなりますか。
16 邪悪な者たちと共に滅びへと「捨てられる」人々の中には,ひとたび啓発を受けながらも利己的な生き方に呑み込まれてしまう人たちがいることでしょう。わたしたちは,「連れて行かれ(る)」者,つまりエホバのことに全く専心し,「忠実で思慮深い奴隷」を通して来る霊的な備えに本当に感謝している人たちの中に含まれますように。(マタイ 24:45-47)終わりまで,「清い心と正しい良心と偽善のない信仰」を持って神に仕えてゆきましょう。―テモテ第一 1:5。
聖なる行ないが肝要
17 (イ)ペテロ第二 3章10節でどんなことが予告されていますか。(ロ)ペテロ第二 3章11,12節で励まされている行ないや行動にはどんなことが含まれますか。
17 使徒ペテロはこう書きました。「エホバの日は盗人のように来ます。そのとき天は鋭い音とともに過ぎ去り,諸要素は極度に熱して溶解し,地とその中の業とはあらわにされるでしょう」。(ペテロ第二 3:10)象徴的な天と地は,神の燃える怒りの熱に持ちこたえられません。それで,ペテロはさらに,「これらのものはこうしてことごとく溶解するのですから,あなた方は,聖なる行状と敬虔な専心(を示す)者となるべきではありませんか」と述べています。(ペテロ第二 3:11,12)そうした行ないや行動の中には,クリスチャンの集会に定期的に出席すること,他の人々に善を行なうこと,良いたよりを宣べ伝える業に有意義なかたちで加わることなどが含まれます。―マタイ 24:14。ヘブライ 10:24,25; 13:16。
18 世に対する愛着が強くなっているならどうすべきですか。
18 「聖なる行状と敬虔な専心」を示すには,「自分を世から汚点のない状態に保つ」ことが必要です。(ヤコブ 1:27)しかし,世に対する愛着が強くなっているとしたらどうでしょうか。清くない娯楽を慕い,この世の不敬虔な精神を促す音楽や歌を聴こうとする思いに誘われて,神のみ前での立場を危うくするまでになっているかもしれません。(コリント第二 6:14-18)もしもそうであれば,世と共に過ぎ去らないで人の子の前に是認されて立つことができるよう,祈りのうちに神の助けを求めましょう。(ルカ 21:34-36。ヨハネ第一 2:15-17)すでに神に献身しているなら,神との温かい関係を築いてそれを維持するために最善を尽くして,畏怖の念を抱かせる,エホバの大いなる日を迎える用意ができているようでありたいと思うことでしょう。
19 王国宣明者の大群がこの邪悪な事物の体制の終結を生きて通過することを期待できるのはなぜですか。
19 敬虔なノアとその家族は,古代の世を滅ぼした洪水を生き延びました。廉直な人たちは西暦70年のユダヤ人の事物の体制の終わりを生き残りました。その一人であった使徒ヨハネは,西暦96年から98年ごろにも神への奉仕においてなお健在で,そのころに啓示の書,ヨハネの福音書,また霊感による3通の手紙を書きました。西暦33年のペンテコステの時に真の信仰を受け入れた幾千人もの人々についても,その多くの人がユダヤ人の体制の終わりを生き延びたと思われます。(使徒 1:15; 2:41,47; 4:4)今日,王国宣明者の大群は,現在の邪悪な事物の体制の終結を生きて通過することを期待できます。
20 わたしたちはなぜ熱心な「義の伝道者」であるべきですか。
20 わたしたちには生き長らえて新しい世に入るという前途があるのですから,熱心な「義の伝道者」でありましょう。この終わりの日に神に仕えることができるのは何と大きな特権でしょう。そして,神の民が享受している霊的なパラダイスという現代の“箱船”へと人々を導けるのは何という喜びでしょう。今そこにいる幾百万もの人々は,忠実を保ち,霊的に目ざめていて,エホバの大いなる日を迎える用意ができていますように。では,わたしたちすべてにとって,目ざめているためにどんな助けがあるでしょうか。
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目ざめている人たちは幸いですものみの塔 1997 | 3月1日
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目ざめている人たちは幸いです
「見よ,わたしは盗人のように来る。目ざめていて自分の外衣を守(る)者は幸いである」― 啓示 16:15。
1 エホバの日が近いので,わたしたちは何を予期できますか。
エホバの大いなる日は近づいており,その日は戦争を意味しています。使徒ヨハネは幻の中で,かえるのような「悪霊の霊感による表現」が地のすべての「王たち」つまり支配者たちのもとへ出て行くのを見ました。何をするためでしょうか。そうです,「全能者なる神の大いなる日の戦争に彼らを集めるため」です。ヨハネはさらにこう述べました。「それらは王たちを,ヘブライ語でハルマゲドンと呼ばれる場所に集めた」。―啓示 16:13-16。
2 マゴグのゴグとはだれのことですか。その者がエホバの民を攻撃する時,どんなことが起きますか。
2 間もなくエホバは,この体制の政治分子を動かして,偽りの宗教の世界帝国である大いなるバビロンを滅ぼさせます。(啓示 17:1-5,15-17)その後マゴグのゴグ,すなわち地の近辺に落とされた悪魔サタンは,配下の大群を結集して,一見無防備なエホバの平和な民に総攻撃を仕掛けます。(エゼキエル 38:1-12)しかし,神がご自分の民を救出するために行動されます。それが,「畏怖の念を抱かせる,エホバの大いなる日」の勃発となります。―ヨエル 2:31。エゼキエル 38:18-20。
3 エゼキエル 38章21-23節に予告されている,物事の展開をあなたはどのように描写しますか。
3 そうです,世界情勢がハルマゲドンと呼ばれる段階に達した時,エホバはご自分の民を救出し,サタンの体制を,痕跡をとどめないまでに滅ぼし尽くされます。エゼキエル 38章21節から23節の預言の言葉を読んで,その情景を思い描いてみてください。エホバはご自分の力を行使して,洪水となる豪雨,荒廃をもたらす石のような雹,電光のような火,死を来たらせる疫病などを引き起こされます。ゴグの大群が混乱に陥れられて互いに戦い合うようになると,世界中はパニックに陥ります。全能の神に敵対しながらなお残った者がいれば,エホバが超自然の手段を用いてご自分の僕たちを救う時に処刑されることになります。予告された「大患難」が終息した時,サタンの不敬虔な体制のものは何一つ残っていないでしょう。(マタイ 24:21)とはいえ,邪悪な者たちは,その死の苦しみの中でも,だれがその災いをもたらしたかを知るでしょう。わたしたちの勝利の神ご自身が,「彼らはわたしがエホバであることを知らなければならなくなる」と言っておられます。こうした驚がくすべき事柄が,この時代,キリストの臨在中に生じます。
盗人のように来る
4 イエスはこの邪悪な事物の体制を滅ぼすためにどのように来られますか。
4 栄光を受けた主イエス・キリストは,「見よ,わたしは盗人のように来る」と言われました。盗人のように来るとは,突然に,予期していない時に,ほとんどの人が眠っている時に来るということでしょう。イエスは,盗人のように来てこの邪悪な体制を滅ぼす時,真に目ざめている人たちを保護されます。イエスはヨハネにこう語りました。「目ざめていて自分の外衣を守り,裸で歩いて自分の恥を人に見られることがないようにする者は幸いである」。(啓示 16:15)この言葉はどういう意味でしょうか。どうすれば霊的に目ざめていることができますか。
5 イエスが地上におられたころ,神殿での奉仕のためにどんな取り決めが設けられていましたか。
5 一般に見張り人は,職務中に眠り込んでも,衣服をはぎ取られて裸にされるようなことはありません。しかし,イエスが地上におられたころ,つまり幾つかの組に分かれた祭司やレビ人がエルサレムの神殿で仕えていたころには,エルサレムの神殿で実際にそのようなことがありました。イスラエルの幾百人の祭司とそのもとで働く幾千人のレビ人の補佐たちをダビデ王が24組の組織に編成したのは,西暦前11世紀のことでした。(歴代第一 24:1-18)各組は訓練された1,000人余りの働き人から成り,それらの組が順番で年に少なくとも2回,一度に1週間ずつ,神殿での奉仕の様々な分野に携わりました。しかし,仮小屋の祭りの時には,24組すべてが務めに当たりました。過ぎ越しの祭りの時にも特別の援助が必要でした。
6 『目ざめていて自分の外衣を守る者は幸いである』と述べたイエスは,どんなことに言及しておられたようですか。
6 「目ざめていて自分の外衣を守(る)者は幸いである」と述べたイエスは,神殿の見張りの務めに関連して当時行なわれていたしきたりに言及しておられたのかもしれません。ユダヤ教のミシュナはこう述べています。「祭司たちは神殿内の3か所で見張りをしていた。すなわち,アブティナスの間,炎の間,および炉床の間である。そして,レビ人たちは21か所で見張りをした。5人は神殿の山の五つの門で,4人は内側の四隅で,5人は神殿境内の門のうち五つの門で,4人は外側の四隅で,一人は捧げ物の間で,一人は仕切り幕の間で,そして一人は憐れみの座の場所の背後[至聖所の後ろの壁の外側]にいた。“神殿の山”のつかさはともしたたいまつを前に掲げて,各見張りのところを見回るのが習わしだった。もし見張りが立ち上がって,『“神殿の山”のつかさ殿,あなたに平安がありますように』とつかさに言わず,その者の眠っていることが明白な場合には,つかさは杖でその見張りを打ちたたいたものである。そして,つかさにはその者の衣服を焼く権利があった」― ミシュナ,ミドット(「寸法」),1章1-2節,ハーバート・ダンビー訳。
7 神殿で見張りの務めに就いた祭司やレビ人はなぜ目ざめていなければなりませんでしたか。
7 奉仕に当たった組のそれら大勢の祭司とレビ人は,見張りを果たして神殿の中庭に汚れた者を入らせないように一晩じゅう目を覚ましていました。「“神殿の山”のつかさ」つまり「神殿の指揮官」は一晩の夜警時の間に24の見張り所すべてを何度か見回りましたから,各見張りは,警戒を怠っているところを見つけられないよう自分の持ち場で目ざめていなければなりませんでした。―使徒 4:1。
8 クリスチャンの比喩的な外衣とは何ですか。
8 油そそがれたクリスチャンとその仲間の僕たちも,霊的に目ざめていて,自分の比喩的な外衣を守らなければなりません。その外衣とは,エホバの霊的神殿での奉仕に任じられていることを示す外面のしるしです。これが神に認められているので,わたしたちには,自分の務めを果たし,特権である王国宣明者としての任務を遂行する助けとなる神の聖霊,つまり神からの活動する力があるのです。神の奉仕者としての自分の持ち場で眠り込むなら,偉大な霊的神殿の指揮官であるイエス・キリストに見いだされる危険に身をさらすことになります。もしもそのとき霊的に眠っているとしたら,比喩的な意味で服をはぎ取られて裸にされ,自分の象徴的な衣を焼かれてしまうことになるでしょう。では,どうすれば霊的に目ざめていられるでしょうか。
どうすれば目ざめていられるか
9 クリスチャンの出版物を助けにして聖書を研究することが非常に重要なのはなぜですか。
9 クリスチャンの出版物を助けにして勤勉に聖書を研究することは,霊的に目ざめているための刺激になります。そのような研究は,宣教奉仕に備えさせ,危機に立ち向かう助けとなり,とこしえの幸福への道を示します。(箴言 8:34,35。ヤコブ 1:5-8)研究は徹底的に,またより効果的な方法で行なうべきです。(ヘブライ 5:14–6:3)いつも良い食物を食べることは,目ざめていて機敏であるための助けになります。そのようにすれば,栄養不良から無気力になるのを防げます。わたしたちには,霊的な栄養不良で眠くなるべき理由はありません。神は油そそがれた「忠実で思慮深い奴隷」を用いて霊的な食物を豊富に供給しておられるからです。(マタイ 24:45-47)個人研究や家族研究を通して霊的食物をいつも取り入れることは,目ざめていて,「信仰の点で健全」であるための一つの方法です。―テトス 1:13。
10 クリスチャンの集会や大会は,霊的に目ざめているうえでどのように助けになりますか。
10 クリスチャンの集会や大会は,霊的に目ざめているための助けになります。集会や大会は励みとなり,また『愛とりっぱな業とを鼓舞し合う』機会となります。「その日が近づくのを見て」いる今,定期的に集い合うことはいよいよ大切です。今やその日は本当に近づいています。それは「エホバの日」であり,神がご自分の主権を立証される日です。その日が自分にとって本当に重要であれば ― そのはずですが ―『集まり合うことをやめたりはしない』でしょう。―ヘブライ 10:24,25。ペテロ第二 3:10。
11 クリスチャンの宣教奉仕は霊的に目ざめているうえで不可欠であると言えるのはなぜですか。
11 クリスチャンの宣教奉仕に心をこめて参加することは,霊的に目ざめているうえで不可欠です。良いたよりを宣べ伝える業を定期的に,また熱心に行なえば,目ざとさを保てます。宣教奉仕は,人々に神の言葉,神の王国,神の目的などについて語る多くの機会を与えてくれます。家から家へと証言を行ない,再訪問し,「永遠の命に導く知識」などの出版物を用いて家庭聖書研究を司会することには,心を満ち足らせるものがあります。古代エフェソスの長老たちは,パウロが自分たちを「公にも家から家にも」教えたことを証言できました。(使徒 20:20,21)もちろん,忠実なエホバの証人でも,難しい健康上の問題を抱えていて十分に宣教奉仕に携われない人もいますが,それでも他の人にエホバとその王権について話すいろいろな方法を見つけ出し,それによって大きな喜びを得ています。―詩編 145:10-14。
12,13 飲食における放縦を避けるべきなのはなぜですか。
12 放縦な生活態度を避けることは霊的に目ざめている助けになります。イエスはご自分の臨在について話したとき,使徒たちにこう勧めました。「食べ過ぎや飲み過ぎまた生活上の思い煩いなどのためにあなた方の心が押しひしがれ,その日が突然,わなのように急にあなた方に臨むことがないよう,自分自身に注意を払いなさい。それは,全地の表に住むすべての者に臨むからです」。(ルカ 21:7,34,35)大食や酩酊は聖書の原則と相いれません。(申命記 21:18-21)箴言 23章20,21節はこう述べています。「ぶどう酒を多量に飲む者や,肉をむさぼり食う者の仲間に加わってはならない。酔いどれや貪欲な者は貧困に陥り,眠気はただのぼろ切れを人にまとわせるからである」。―箴言 28:7。
13 しかし,食べ過ぎや飲み過ぎは,たとえそれほどにはならないとしても,眠気を催させ,さらには神のご意志を行なう面で怠惰に,また怠慢にならせることもあります。家族の生活や健康などに関する思い煩いは当然あることでしょう。それでも,生活の中で王国の関心事を第一にし,必要なものは天の父が備えてくださると確信しているなら,幸福でいられるでしょう。(マタイ 6:25-34)そうしていなければ,「その日」は「わな」のようにわたしたちに臨むことになります。見えないように仕掛けられて知らないうちに捕らえるわなのように,あるいは餌でおびき寄せて警戒心を緩めた動物を捕らえるわなのように臨むかもしれません。目ざめていて,今が「終わりの時」であることを十分に意識していれば,そのようなことは起きません。―ダニエル 12:4。
14 真剣な祈りをすべきなのはなぜですか。
14 真剣に祈ることも霊的に目ざめているための助けです。イエスはご自分の大預言の中でさらにこう勧めました。「それで,起きることが定まっているこれらのすべての事を逃れ,かつ人の子の前に立つことができるよう,常に祈願をしつつ,いつも目ざめていなさい」。(ルカ 21:36)そうです,常にエホバの側にいられるように,そして人の子イエスがこの邪悪な事物の体制を滅ぼすために来られるとき,是認された立場に立てるように,と祈りましょう。自分自身のため,また祈りに含めるべき仲間の信者たちのために,『祈りのうちに目ざめている』必要があります。―コロサイ 4:2。エフェソス 6:18-20。
時は尽きようとしている
15 義の伝道者としてのわたしたちの奉仕によって何が成し遂げられていますか。
15 わたしたちは,エホバの大いなる日を待ち望んでいるのですから,エホバへの奉仕においてできる限りのことをしたいと思うはずです。そのことについて真剣に神に祈るなら,「活動に通ずる大きな戸口」が開かれることでしょう。(コリント第一 16:8,9)神の定めの時にイエスは裁きを行ない,永遠の命を受けるにふさわしい義なる「羊」を,とこしえの滅びを受けるべき「やぎ」から分けられます。(ヨハネ 5:22)羊とやぎを分けるのはわたしたちではありません。しかし,義の伝道者として今わたしたちが行なっている奉仕は,人々に一つの機会を与えています。これによって人々は神に仕える生き方を選んで,イエスが「栄光のうちに到来(する)」とき命の側に分けていただく希望を持てるのです。この事物の体制に残された時間の短いことを考えると,「永遠の命のために正しく整えられた」人たちを探すわたしたちにとって心を込めて活動する必要はいよいよ高まります。―マタイ 25:31-46。使徒 13:48。
16 わたしたちはなぜ熱心な王国宣明者であるべきですか。
16 ノアの日の世に関して時は尽きました。この事物の体制に関しても時は間もなく尽きようとしています。ですから,わたしたちは熱心な王国宣明者でありましょう。わたしたちの宣べ伝える業は勢いよく進展しています。毎年幾十万人もの人が神への献身の象徴としてのバプテスマを受けているのです。それらの人々はエホバの祝福された組織 ―「その民,その放牧地の羊」― に加わっています。(詩編 100:3)「畏怖の念を抱かせる,エホバの大いなる日」が来る前にこれほど多くの人に希望をもたらす王国を宣べ伝える業にあずかれるのは何という喜びでしょう。
17,18 (イ)宣べ伝えるわたしたちは,一部の人々からのどんな反応を予期すべきですか。(ロ)あざける人たちには必ず何が臨みますか。
17 わたしたちには,ノアの場合と同様,神からの支持と保護があります。確かに,当時の人々,肉体を備えて現われたみ使いたち,そしてネフィリムは,ノアの伝えた音信を嘲笑したに違いありません。それでもノアはやめませんでした。今日,今が「終わりの日」であることを示す圧倒的な証拠を指摘しても,嘲笑する人々がいます。(テモテ第二 3:1-5)そのようなあざけりも,キリストの臨在に関する聖書預言の成就です。ペテロはこう書いたのです。「終わりの日にはあざける者たちがあざけりを抱いてやって来るからです。その者たちは自分の欲望のままに進み,『この約束された彼の臨在はどうなっているのか。わたしたちの父祖が死の眠りについた日から,すべてのものは創造の初め以来と全く同じ状態を保っているではないか』と言うでしょう」。―ペテロ第二 1:16; 3:3,4。
18 現代のあざける者たちは,こう考えるかもしれません。『創造の時以来何も変わってはいない。人の生活は続いてゆき,人々は食べ,飲み,結婚し,子供を育てている。イエスが臨在しているとしても,この時代に裁きを執行することはないだろう』。そのような考えは何と間違っているのでしょう。その人々には,他の原因でそれまでの間に死が臨むのでなければ,畏怖の念を抱かせるエホバの日が必ず臨むことになります。それはちょうど,ノアの日の邪悪な世代が洪水という大変災による滅びで終わりに至ったのと同じです。―マタイ 24:34。
是非とも,目ざめていなさい
19 弟子を作る活動をどう見るべきですか。
19 エホバに献身しているのであれば,誤った推論にだまされて眠りに陥ることが決してありませんように。今は目ざめているべき時です。神の預言に信仰を働かせて,「すべての国の人々を弟子と(する)」任務を遂行するべき時です。(マタイ 28:19,20)この体制が最終的な終わりに直面している今,イエス・キリストの指導のもとでエホバ神に仕え,終わりが来る前に「王国のこの良いたより」を宣べ伝える世界的な業に加わることに勝る特権はありません。―マタイ 24:14。マルコ 13:10。
20 カレブとヨシュアはどんな模範を示しましたか。彼らの歩みはわたしたちに何を示唆していますか。
20 エホバの民の中には,これまで幾十年も,まさに生涯にわたってエホバに仕えてきた人たちがいます。比較的最近に真の崇拝を受け入れた人であるとしても,「エホバに全く従った」イスラエル人のカレブのようでありますように。(申命記 1:34-36)カレブとヨシュアは,イスラエル人がエジプトでの束縛から救い出された後,すぐにでも約束の地に入る心構えでいました。しかし,イスラエル人の大人たちは概して信仰に欠けていたため,荒野で40年を過ごさなければならず,その荒野で死にました。カレブとヨシュアはその間ずっと彼らと共に苦難を耐え忍びましたが,やがてこの二人は約束の地に入りました。(民数記 14:30-34。ヨシュア 14:6-15)わたしたちも,『エホバに全く従い』,霊的に目ざめているなら,神の約束しておられる新しい世に入る喜びにあずかれます。
21 霊的に目ざめていればどんなことを経験できますか。
21 証拠は,今が終わりの時であり,エホバの大いなる日が近いことをはっきり証明しています。今は,神のご意志を行なう点で眠気を催したり怠慢になったりする時ではありません。霊的に目ざめていて,クリスチャン奉仕者またエホバの僕としての身分を証しする衣を守ってはじめて祝福を受けられるのです。『目ざめていて,信仰のうちにしっかりと立ち,雄々しくあり,力強い者となる』というのがわたしたちの決意でありますように。(コリント第一 16:13)エホバの僕であるわたしたち一人一人が,確固とした勇敢な者でありますように。そうすれば,エホバの大いなる日が臨む時に用意のできた,目ざめた幸福な人たちの隊伍にあって忠実に仕える者となれるのです。
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